田舎中学生

第一回
とある外国に住む赤ちゃんが三人いた。
赤ちゃんたちはいろいろな思惑と曲解から外国を脱出しなければならなかった。
日本に赤ちゃんたちと文通をしているドラエモンがいた。
赤ちゃんたちはドラエモンの家にホームスティすることになる。
赤ちゃんたちは日本で恋愛対象まで見つけてしまうのだった。
その女の名前はKK子と言った。
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第二回
三人の赤ちゃんたちがKK子のことをもっと知りたいと言うので、
ドラエモンは彼女の同級生だと言った。
もちろん、それが本当の話か作り話かはわからない。
とにかくドラエモンは彼女の思い出話をし始めた。
この女が中学生のくせに色っぽくて、もう大人みたいな女だったんだ。
KK子がレコード屋にいるのを幼なじみの仲村トオルたちが商店街をぶらぶらしているときに見つけたんだな。
どうやらレコードでも買っているんだなと思って、仲村トオルたちはからかってやれと思ってレコード屋に入って行ったんだって。
「KK子、何、買っているんだよ。ひとりでレコード屋に入っているのかよ。万引きでもする気じゃ、ねえのか。それにさっき、喫茶店に入っていただろう。生活指導の先公に言いつけてやるからな。喫茶店、映画館には父兄同伴で入ることって生徒手帳に書いてあるだろう」
「そういうあんた達だって、子供じゃない。お店の人、この子供達がうるさいんですけど」
「よう、KK子、俺達に文句を言う気かよ。お前の持っているレコード、何だよ。それ、米米クラブか。カールスモーキー石井なんて、ディスコの黒服と、どこが違うんだよ」
「うるさいわね。けり、入れるよ」
「この人、暴力団なんですが」
KK子と仲村トオルは幼なじみで、でも会えばいつもけんかしていたんだな。
ふむ、ふむ。
赤ちゃんたちはその話しを興味深く聞いた。
そのころの中学生の興味は何と言ってもボウリングだったんだけど、高校生になるとバイクに乗れるようになるから、中学二年ぐらいで異常にバイクに興味を持つ子供もいたんだ。
トオルはバイクに興味はなかったけど、風呂屋の跡取り息子でバイクに興味を持っている松村という中学生がいた。
でも、彼の家にはバイクはなかった。仲村トオルの同級生で、同じように屑鉄屋の跡取り息子でルー大柴という中学生がいて、その家にはバイクが置いてあった。
バイクと言ってもカブという五十シーシーのバイクで、新聞配達に使っているよね。
それはルー大柴が勝手に親に内緒で鍵を持ち出して、裏庭で乗ることが出来たんだよ。公道で走ったら、警察につかまっちゃうからね。
そのバイクに松村邦宏が乗りたがったんだよ。
仲村トオルたちと一緒にルー大柴の言えの裏庭に行き、カブを引っ張り出したんだ。
松村邦宏はバイク好きだと言っても乗るのははじめてだったから思い切りアクセルをふかして急にローギャーに入れてしまい、カブは前輪をうかして、飛び出して、物置の壁を破ってしまったんだ。
松村邦宏は壁をこわした見返りに風呂屋の二階の物置みたいなところから、女風呂をのぞかせてやると言って仲村トオル、ルー大柴、別所哲也の三人をその部屋に案内した。
そこは確かに、女風呂がばっちりのぞける部屋だった。
湯船につかっている老若の女湯の中に、どこかで見たことのあるような若い女の後ろ姿。
それはいつも仲村トオルがけんかをしているKK子だったんだ。
KK子に湯船から出て貰って、全身を魅せて貰いたいような、貰いたくないような。
湯船で立ち上がったKK子の身体は仲村トオルたちがふだん学校で見慣れている制服姿のKK子ではなかつた。
達阿月他とき、KK子はお湯を身体からはじき飛ばして、それは小さな玉となって飛び散った。
まだお湯で濡れ手いるKK子の身体は全身を油で塗ったようにつやつやとして、まだお湯のつぶつぶが身体についていたんだ。
お湯につかっていたために白いはだは赤く紅潮していた。
仲村トオルたちは学校にいたときは少しお姉さんぽく見えるものの、同い年だと思っていたKK子が実はずっと自分たちより、すでに成長していることを覚った。
動物の年齢のとりかたは人間のそれとは違う。
猫の五歳と言ったら、人間では私用学校五年生くらいなのに、猫ではすっかりと大人だ。
また、時計による時間の過ぎ方と体感する時間の過ぎ方は違う。
楽しい時は早く過ぎ、授業の終了のチャイムのあと十分というのはやたらと長く感じる。
女の時間のとりかたというものも、男のそれとはまた違うものなのだろうか。
KK子を何となく、自分たちと違って大人ぽく感じたのも、これがはじめてではない。
仲村トオルの通う中学校のそばに駅があるのだが、その駅の中学校のちょうど反対側に夏はプール、冬はスケートが出来る、営利目的のスポーツセンターがあって、そこの二階がゲームセンターになっていた。仲間と一緒にゲームセンターで遊んだあと、家に変える途中、
商店街のアーケードを抜けたところに先頭があり、その銭湯の前にKK子が立っていたのだ。
「KK子、何で、浴衣なんて着て、風呂屋に来ているんだよ。KK子、ぜんぜん、似合わないよ。やめた方がいいんじゃないの。
そうだ。お前、それを着て、男と花火でも見ていんじゃないの。まわりの奴らがみんな言っていたぜ。土手の花火大会で、お前が男と一緒に歩いていたって」
「トオルくん、可愛くないなぁ。きみは、全く、私が男と花火大会になんか行くわけがないじゃん。花火大会って、この前の土曜日でしょう。その日はクラブだったんだもん。それより、また、きみ、ゲーセンへ行っていたんでしょう。また、隣の中学の奴らにかつあげされるよ」
「うるせぇなぁ。KK子」
そのときも仲村トオルは心にもないことを言ってKK子に相手にされなかったのだ。
KK子が花火大会へ男と一緒に行ったというのも仲村トオルの作り話だつた。
なぜ、そんな作り話がとっさに浮かんだのか仲村トオルにもその理由がわからなかった。
しかし、銭湯の前で見たKK子は女っぽく、年上の女に見えた。
そのことに仲村トオルは嫉妬していたのだ。
確かにKK子は仲村トオルの知らない世界に足を踏み出している。
しかし、この風呂屋の二階からの覗き見は、銭湯の入り口で見た浴衣姿のKK子の比ではなかった。
湯上がりの裸身のKK子を見た三人のあいだには意味のない気まずい沈黙がおとずれた。
この事実は三人のあいだだけの秘密にしておこうということになつた。
しかし、銭湯と言っても外国人の赤ちゃんにはわからなかった。
ドラエモン、銭湯って、何。
わたし、知っていますでちゅ。料金を取って入浴させる公衆浴場のことでちゅね。
ユージニーに言ったとおりだよ。入り口はひとつなんだけど、入り口に入ると靴を入れる下駄箱が男女別々になっているんだよ。
もちろん、そこは鍵がかかるようになっているんだ。
鍵と言っても、さし込んで、回して開ける鍵じゃないの。
アルミの板やもっと前の時代では木の板で、それがふたのところに垂直にさし込んであって、その木の板やアルミの板を引っこ抜くと鍵がかかるようになっている下駄箱なんだ。
それから男女別々の入り口があって、そこに入ると番台というところでお風呂屋の人が座っているから、そこでお金を払うの。
番台ではシャンプーやひげそりも買えるんだよ。
その男女別々の入り口から入ると大きな脱衣場というのがあって、そこで服を脱いで同じようなロッカーみたいなところにしまうんだよ。
脱衣場には体重計とか、電気あんま機が置かれていたり、牛乳の入っている冷蔵庫が置いてあることもある。
そこで服を脱いで湯船のある浴場の方へ入るわけさ。
だいたいそこにシャワーとお湯の出る蛇口、大きな湯船と小さな湯船がついている。
いつも四時頃に行くと、空いていて、ゆっくりと入れるんだよね。
でもね。一回行くと三百円ぐらいとられるんだ。
それで経営がむずかしくなってやめていく風呂屋が多いんだな。
ベアトリスやユージニーが大人になったときには本当にお風呂屋さんは少なくなっているかも知れないよ。
話しはもとに戻るけど、米屋の三男の仲村トオルはKK子のことが頭から離れなかったんだ。
しかし、それが恋だとは仲村トオルは気づかなかったんだ。
よお、トオル、昼飯だぞ。
トオルの家は米屋をやっている両親と男ばかりの四人兄弟、この四人が四人とも、まったく、恋人どころか、女友達もいない始末。
長男の所ジョージは、結構、いい年なのに、まだ独身で、もうお見合いを三十数回やっているのに、全敗だった。
次男の布施博は同じ高校に通う新体操の選手とつき合っていたが、恋人よりも、新体操をとると言われて恋人と涙の別れだった。
四男のピエールはまだ二歳でそのうえに金髪で、彼の頭の中はいろいろな美しい雲のかたちや夕日のことでいっぱいだつた。
両親は女に縁のない兄弟たちのことでいっぱいだった。
この一家の四兄弟、女にもてないはらいせから、女に対して偏見を持っていた。
だいたい出てくるのは女の悪口で一番下の弟のピエールが誕生日会に女の子をつれて来たときは他の兄弟たちからさんざんにからかわれて、二三週間もからかいの種にされた。
それもみな自分たちに女が出来ないひがみ根性から出発した行為ではあったが、恋人ならまだしも、片思いの女がいるなどと他の兄弟に知られたら、どんなことになるだろう。
したがって、仲村トオルはKK子が空きだなどと言うことは兄弟たちの前では口が裂けても言えない状況にあった。
仲村トオルの通っている中学校は朝、校門のところに何人かの生徒が立ち、通学して来る生徒の服装や、遅刻して来た生徒の生徒手帳を取り上げるという生活指導がおこなわれていた。
もちろん、この中学校、KK子も仲村トオルも二年B組の生徒として通っていた。
もっとも、朝の登校時の校門での週番の二人に対する態度は違っていたが。
おはようございます。
KK子が朝の爽やかな挨拶をすると週番の生徒たちも気分がよくなり、なかにはKK子に内心、恋心を抱いている生徒もいて、そんな生徒はKK子の姿が遠くからじょじょに近付いて来るにしたがって胸の高まりもいやますのである。
知ってる。
あの女、二年B組のKK子というんだぜ。
それに引き替え、この中学のゴミのような集まりのひとり、
二年B組のお荷物がやって来たときは
おい、見ろよ。来るぞ。来るぞ。来るぞ。
生徒手帳没収常習者が。
君たち、ホック、はずしているね。それにカラーは。
それからかばんをつぶして学校に持って来ちゃだめなんだよ。
はい、生徒手帳、没収ね。
何だと、てめぇ、どこのどいつだよ。
おい、お前も何年何組だって聞いてんだよ。
これはなぁ、つめえりが小さくて、ホックがはめられねぇんだよ。
すると
生活指導の安岡力也先生、こんなこと言っていますよ。
てめぇら、十年、はぇんだょ。十年。
う~~。申し訳ありません。
生徒手帳は差し上げます。
こんなふうにして、服装の不備、遅刻、をすると校門のところで、
生徒手帳を取り上げられ、あとで担任から、職員室で説教されながら返されるのである。
仲村トオルは生徒手帳を週番の生徒に取り上げられる常習者だった。
そのたびごとに職員室に呼ばれて担任から説教されて、生徒手帳を返されるのである。
仲村トオルは担任に説教されることよりも職員室に呼ばれることがいやだった。
職員室に呼ばれると、勉強を習っている他の生徒の目にとまり、その教師の時間にからかわれたりすることがいやだった。
たまにだか、気に入っている授業もあり、そう言った教師には空かれたいと思っていたから、そういう教師の目にとまるのがいやだったのかも知れない。
それから、知勇学の日課といのは
朝、校門をくぐってから、いったん教室の中へ行き、かばんを置いてから、ふたたび校庭に出なければならないときがある。
全校朝礼と呼ばれる儀式である。
生徒たちは朝礼が始まるまでバレーボールなんかをして時間をつぶすのだった。
はい、行くわよ。
KK子は、この時間、バレーボールの円陣のひとつに加わることにしていた。
教室に何個かのバレーボールが置いてあり、それを使ったり、体育倉庫にあるボールを使ったりするのである。
仲村トオルたちの方はこんな健康的に朝礼が始まるまでの時間をつぶしていたわけではない。
どこかの校庭の片隅、体育倉庫の裏でバレーボールをボウリングのボールに見立てて、投球フォームの研究なんかをしていた。
ここのボールを話すところでひねりを入れる。
しかし、そのときボールがころころと転がり、ある人物の足下にころがりついた。
おい、そこの奴、ボールをとってくれよ。
仲村トオルは相手が誰だかも知らずに気軽に声をかけたが、
まわりの連中はその人物の正体を知っていたのでびびっていた。
おい、やめろ。トオル。その人が誰だか知っているのか。
その人物はおもむろに仲村トオルの方を振り返ると、転がって来たボールを手にとり、片手でいじくっていたが、その人物の目は校舎の屋根についている校旗に焦点が合うと、止まった。
その人物はボールを離すと、ものすごいいきおいでボールを蹴り上げた。
するとボールは地球に衝突する巨大隕石のように摩擦熱で燃え上がりながら屋根の上の校旗を目指して飛んで行き、校旗を支えるジェラルミン製の鉄棒を折り、そのまま、かなたに飛び去って行った。
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第三回
中村トオルがバレ-ボ-ルを足下に転がした相手は伝説の大番長
假屋崎 省吾だったんだ。
假屋崎 省吾はまるで死人のようににやりと笑うと、そのボ-ルを手にとって蹴り上げた。ボ-ルは変形して弾丸のように、斜め上空に一直線に飛んで行き、校旗をたてる金属製のポ-ルを折って、ボ-ル自体はパンクして落ち葉のようにひらひらと地面に落ちて行ったんだな。
三人ともドラエモンのいた中学に行くとその折れたポ-ルが修理されないままになっていて、あれが伝説の大番長の折ったポ-ルだと今でも言い草になっているよ。
ふ-ん、赤ちゃんたちは感心したようなしないような、微妙な表情をした。
それからね。ドラエモンの通っていたあたりは関東の北を流れるL川と南を流れるW川の間に挟まれる地区だけどね。
そのデルタ地帯にはおよそ十七の中学校があった。
そして三つの中学校が覇権を争っていたんだ。
まず鳳凰中学、ここには番長の平井堅が君臨していた。
そしてドラエモンの通っている龍中学、ここには伝説の大番長 假屋崎 省吾 がいた。
それに外国勢力と呼んでもいい、中学があった。
**総連系の虎中学というのがあったんだ。
そこには大巨人番長チェ・ホンマンがいた。
それら十七の中学校のすべてはどれかの中学校の旗下にはいっていたんだ。
ドラエモン、覇権って何でちゅか。
ふ-ん、そうだね。王様になるということかな。そして覇権を握った中学の番長は王様になって、他の中学の生徒はみんなその王様の命令に従わなければならないんだ。
ぷっぷっ、昔の戦国時代みたいでちゅね。
ベアトリスが言った。
そのとおりだよ。まるで昔の中国の戦国時代のようだったんだな。全く、昔の中学時代が昨日のように思い出されるよ。
今、目をつぶるとその勢力地図が頭に浮かんでしまうんだな。
ドラエモン二世は。
本当にまるで昔の中国の地図を見ているようだった。
何しろ年がら年中、覇権を争うための抗争が起きていたんだ。
だから、どこのあんみつ屋に入るかもドラエモン二世たちの通っていた地区の中学生たちは注意しなければならなかったんだな。
鳳凰中の生徒たちが龍中のなわばりのあんみつ屋にでも入ったら
大変なことになってしまったんだな。
ドラエモン、そんな昔のことなんか、どうでもいいから、KK子ちゃんは出て来ないでちゅか。
赤ちゃんたちの興味はいつもその一点に集中している。
もちろん出てくるさ。
本当にKK子ちゃんと知り合いなんでちゅか。
もちろんだとも、このドラエモン二世が嘘つくわけないでごじゃります。
もちろんだとも、あの女とは二年B組の同級生だったんだからね。
そして中村トオルも、別所テツヤもル-大柴もね。
そして、一学年上にあのミスタ-・デス、大番長 假屋崎 省吾 がいたんだな。
さっきも言ったとおり、三つの中学は覇を競っていた。
だからドラエモンの住んでいるあたりには勢力地図がはっきりと塗り分けられていたんだ。
その三勢力がきびすを接している緩衝地帯にKK子がいつも入りに行っている銭湯があった。
それは三つの商店街がちょうど交差している場所にあった。
三人の赤ちゃんたちは自分達の恋愛対象が出て来たので聞き耳をたてた。まるでうさぎのように。
洗い髪を束ねて銭湯から出て来たKK子に事件が起こった。
ここで三人の赤ちゃんたちはさらに神経を過敏にして耳の大きな草食動物のように聞き耳を立てた。
銭湯の入り口から出ると学らん姿のちょっといかした、しかし、どう見ても日本人に見えない奥目の男がじっと立っていたんだ。
KK子は無視して通り過ぎようとした。
しかし、その奥目野郎は明らかにKK子を待ち伏せていたんだな。
「待ってくれ」
「何よ」
KK子はその男を無視して通り過ぎようとした。
「待ってくれ」
ふたたびそう言うと
奥目は回り込んでKK子の行き先をふさいだ。
「待ってくれ。俺は鳳凰中で番をはっている平井堅である。
お前が龍中の二年B組のKK子だということは知っている」
「何であたしの名前を知っているのよ。それに呼び捨てにするのよしてくれる」
「呼び捨てにして気に障ったのなら許してくれ」
そして、平井堅は膝をつくと騎士がやるように忠誠の格好をしたんだな。
これが龍中 番長 平井堅の愛の告白だった。
プウプウ、プウウウウウウ。
赤ちゃんたちは突然、不満を表明した。
そして顔を真っ赤にして顔面の下に走っている血管を紅潮させた。
鳳凰中番長、平井堅はKK子に一目惚れしたんだな。ドラエモン二世は平井堅がどこでKK子を見たのか、もちろん、知らない、それにしても平井堅って昔いた文芸評論家に名前が似ているな。
クククククククク。
プウプウプウ、プウ~~~~~。
ドラエモン二世が一人思い出し笑いをしていると、
赤ちゃんたちの怒りは頂点に達して手に持っているスプーンをテーブルの上に叩いて抗議のシュプレヒコールをした。
赤ちゃんたちはきっと平井堅をぶん殴りたかったに違いない。
まあ、待つんだ、市民諸君。話しはこれからだ。
番長平井堅はひざまずいて何かを待っていた。
しかし、意外な方向から返答が来た。それは祝福というわけではない。
どこからか、腐りかけたジャガイモが飛んで来て、平井堅の頭に当たった。
頭を上げた平井堅は周囲を見回した。
そこには無気味な沈黙が走った。
そこにはKK子はいなかったんだな。居たのは誰だったと思う。
巨人がいたんだ。
そう、それは虎中の巨人番長チェ・ホンマンだったんだ。
チェ・ホンマンが中央に立ち、その両脇に子分たちが並んでいた。
その様子はまるで北アメリカの峡谷のようだった。
歴代の大統領の顔のレリーフが彫られているあれだよ。名前は何というのか思い出せないけどね。
「ふん、余計なお世話だな。俺に何のようだ。俺は忙しいんだ」
「平井、ここがどこだか知っているのか。お前はあほニダ」
チェ・ホンマンが合図をすると子分たちが戦闘の態勢をとった。
フィフィフィ。
赤ちゃんたちは平井堅がのされそうなので満足な態度を表明した。学ランを着た無数の凶器が平井堅を襲ってきた。
チェの子分たちはテッコンドーの初歩的なところは身につけていたんだな。
平井堅の前後左右からごつごつした手や足が飛んでくる。
しかし、平井堅もやはり大番長の一人だったんだ。それらにやられるような平井堅ではなかったんだな。
二十人の子分たちが平井堅にかかっていっても平井堅の優勢は変わらなかった。
プイプイ。
赤ちゃんたちは不満な表情を現した。
ひとりの子分が放った右回し蹴りを頭上でよけた平井堅があたりを見回したが
そこにはKK子の姿はなかった。
「ちぇっ、あいつは帰っちまったのか、いや、まだいるぞ」
見ると、すたすたとKK子は家に帰ろうとしていたんだ。
「お~~~い、忘れ物、忘れ物」
ちらっとKK子は平井堅の方を振り返った。
「なによ」
「俺の愛」
平井堅はにやりとした。
「ばかの一人よがり」
KK子は苦々しげにつぶやくとそのままあっちへ行っちゃったんだな。ここでドラエモンの教訓、自分が好きだからって相手が好きだとは限らない。KK子は平井堅が嫌いだったんだ。ドラエモンは断言するよ。
グフグフグフ。赤ちゃんたちはここで満足を表明した。
いっこうに平井堅がぼこぼこにされない様子を見ていたチェ・ホンマンは口にくわえていたシナモンの葉っぱを吐き捨てると、おもむろに 手を組むと指をならした。
俺のバスケットボールパンチで始末をつけてやる。
チェ・ホンマンは手を握ると拳の大きさはボスケットボールほどの大きさがあったんだ。
その手で正月には杵の代わりに使って餅をつくことも出来たんだ。これが噂のチェ・ホンマン餅なんだな。
そのとき弓矢が突然飛んできた。
チェ・ホンマンの額に弓矢が刺さった。
チェ・ホンマンは額の骨でその弓矢を受け止めた。
いてててて。
チェ・ホンマンはその手で弓矢を抜くと、額には小さな穴が開いて、血がちょろっと出ただけだったけど、チェ・ホンマンは大げさに痛がった。
巨人番長は不死身だった。
いつだったか、六本木ヒルズに**総連、虎中の社会見学に行ったとき地上三十階のテラスで巨人番長が気の迷いから空中を飛んでいる燕をとろうと手を伸ばしたときがあったんだ。
バランスをくずしたチェは地上に落下していった。ものすごい大音量がして、地面に大きな穴が開いたがチェは怪我ひとつしなかったんだ。
高速道路を横切ろうとして大型ダンプに衝突したこともあったが
車の方が大破したのにも関わらずチェは怪我一つしなかったんだな。そんな不死身のくせに痛さには異常に反応した。
蚊に食われても大げさに騒ぐぐらいだから、注射をするなんて言ったら逃げ回って大騒動になるのが普通だったんだ。
平井堅が出てきたときから不満を表明していた赤ちゃんたちだったが、ここでおもしろそうに笑い、御機嫌になった。
その矢が手始めだった。
次次とチェ・ホンマンめがけて矢が雨のように飛んできた。
番長~~~~~~~~
その銭湯の隣がつぶれた映画館だったが、その映画館の二階から、その声が聞こえた。
番長、こっち、こっち。
鳳凰中番長平井堅が振り返ると、そこから自分の子分たちが顔をのぞかせている。
常時、その映画館の二階には鳳凰中の不良たちが常駐していて、
龍中と虎中の動勢を伺っていたんだよ。
でもでも。
平井堅は躊躇した。
KK子は。
KK子は。
KK子の姿はもうなかった。
痛いよう。痛いよう。よくもよくも。
チェが額に怪我された恨みで平井堅の方に襲いかかってくる。
それにテッコンドーをかじった子分たちも襲いかかってくる。
平井堅はKK子のことが気になったが、退却することに決めた。
KK子がいないならこんなところにいる必要もないからなんだな。
鳳凰中番長、平井堅は映画館の中に逃げ込んだ。
映画館の二階からは弓矢が矢のように降ってきた。
******************
翌日、龍中ではその噂で持ちきりだった。
鳳凰中番長、平井堅が、虎中、巨人番長、チェ・ホンマンに襲われたこと、いや、違う。
平井堅がKK子に一目惚れして、KK子を銭湯の出口で待ち伏せしていたということである。
その噂話でその日の朝、龍中は盛り上がっていた。
「おい、もって来たか。ホモミルク」
「心配するなよ。ちゃんと三人分、持って来たからな」
ルー大柴が三本の瓶入りの牛乳を持って来た。
「これを飲まないと背がのびないからな」
「賞味期限、過ぎてないだろうな」
学校給食で瓶入りの牛乳が大量に届けられる。
給食の時間にそれを飲むのだが、休んでいる生徒がいたり、
牛乳が嫌いだから、残す生徒もいる。
すると給食室の裏に残った牛乳が空瓶と一緒に一昼夜おかれ朝に
なると、新しい牛乳を持った業者がそれを引き取りに来るのである。
だから余った牛乳を失敬する時間が朝にあるのである。
ただし、夏場は気温が高くになるので牛乳が腐ってしまうので、危険を有する。
「これ、何か、おかしくない」
「おかしくねぇよ」
別所哲也、ルー大柴、仲村トオルは小学校時代からの幼なじみである。そしてKK子も。
校舎の裏でつるんでいた仲村トオルは瓶入りの牛乳を一気に飲み干した。その横にいるルー大柴が仲村トオルの方をちらりと見た。
「噂で持ちきりだぜ」
「政夫が話していたんだよ」
「何の噂」
「亀の湯の前で、平井堅がKK子を待ち伏せていたんだってよ」
「何で」
「平井の奴、KK子に一目惚れしたらしいぜ」
「ええええ」
別所哲也は驚きの声を上げた。
「どういう接点があるんだよ」
「知らねぇよ。そんなこと」
「トオル、おまえのうちの近所じゃねぇか。KK子は」
「関係ねぇよ」
仲村トオルはそう言ったものの、他のふたり同様、興味津々なのである。半分しか残っていない牛乳瓶を指先でつまんで、つまらなさそうにした。
KK子を異性として意識しているのも他のふたり同様なのである。
いや、むしろ、近所に住んでいて、昔から知っているからこそ、
銭湯で彼女の裸体をのぞき見たときの驚きから、意識の仕方もふたり以上だった。
「あいつ、どういう反応を示したんだろう」
「そのあとに虎中のチェ・ホンマンに平井の奴、襲撃されたらしいぜ」
「おい、お前ら、こんなとこで、何してんだあ」
岩手なまりの生活指導の教師が遠くで、どなった。
「おい、やべぇ、教室に戻ろうぜ」
三人が教室に戻ると、KK子は何事もなかったように座っていた。
一時間目の授業は地理だった。
「おい、そこの阿呆、こういう地形のことを何と言うんだ」
「リアス式海岸」
「リアス式海岸は海だろう。ここは川だ」
「扇状地って言うんだな。ここでは葡萄なんかが栽培されている。水捌けが良いからな。お前、いつもぼけっとしているが今日はいつもより、ぼけっとしているな。学校は給食の時間だけじゃないぞ」
ここで教室中に笑い声が起きた。
KK子も笑って、仲村トオルの方を見たので彼はKK子と一生、口をきかないと決心したが、なぜ、KK子が笑ったのかは理解出来なかった。ただ単にKK子が憎々しく思えた。
そんな仲村トオルの内心も知らずに後ろの席に座っている別所哲也とルー大柴が彼の背中をニタニタしながらつついた。
休み時間になるといつもの三人はまた顔を合わせた。
「さっきの噂、本当なのかよ。KK子のこと」
KK子はトイレに行ったらしく教室にはいなかった。
「鳳凰中の平井堅、俺、見たことあるぜ」
「俺もあるよ。結構、格好いいんだよな。そいつがKK子の前でひざまずいたらしいぜ」
「何だ、君たち、KK子の話、知っているの。本当らしいわよ。素敵、そんな愛の告白をされるなんて」
「うるせぇよ。お前、向こうへ行っていろよ」
同級生の倖田來未がちゃちゃを入れて来たので、別所哲也はうるさそうに言った。
「何だ、あんた達、焼いているの。素敵じゃない。まるで中世の騎士みたいにKK子の前でひざまずいたんだって。平井堅みたいな素敵な男がうちの中学にもいればなあ」
「くだらねぇ、俺なんか梨佳ちゃんが盲腸の手術で入院したとき鯛焼き三十個差し入れしたからね」
そのとき、KK子がトイレから戻って来たらしく、自分の席に座ると隣の女と何やら話している。
「あああ、気にならないけど気になるう。あいつ、平井堅とどうなってんだ」
「どうなっているってどういうことだよ」
「平井堅の方はKK子のことが好きなんだろう。じゃあ、KK子の方は平井堅をどう思っているかということだよ」
「トオル、お前、幼なじみだろう、ちょっと言って聞いて来いよ」
「何で、俺が」
「わかんないことがあるといらいらするじゃないか。KK子には興味ないけど、この事件には多いに興味がある。よし、俺が聞いてくる」
ルー大柴が立ち上がってKK子のところに行ったが、すぐ戻って来た。
「あいつ、俺のこと、無視しゃがんの」
ルー大柴はふてくされた。
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第四回
校舎の一番はずれの倉庫になっている部屋の扉が開いて、由比正雪のように長髪にして学ランの上着を膝のあたりまで長くした男が出て来た。後ろには黒い学ランを着た子分たちを従えている。
これが龍中、伝説の大番長、假屋崎 省吾だった。手には大きな鉄扇を持っていた。戦国時代の武将でもこんな大きな鉄扇は持っていないだろう。
何故、彼が伝説の大番長と呼ばれていたかと言えば、それは彼の身体能力にあった。身体の大きさは普通の人間と同じで、むしろやせていたが、オリンピック強化委員会からスーパーヘビー級の重量あげの選手として招聘が来ていたし、オリンピックの金メダルが狙える短距離選手として権威ある団体から予想されていた。
しかし、それらの誘いを断ってこの中学に通っているのも鳳凰中、虎中の大番長たちを打倒して全十七中学の頂点に立つことを望んでいたからだった。それが一体どれほどの価値があることなのかそれを目指している本人もよくわからなかった。
そして彼は何故か、おねえ言葉を使っていた。
「ねえ、虎中の中二以下の人数はどうなっているの」
「大番長、ただいま調査中であります」
「何よ、あんた、早く計算しなきゃだめじゃない」
そのとき天上から突然、声が聞こえた。
「お命、頂戴」
大きな鎌を持った黒装束の男が落ちて来た。ぎざぎざの歯のついた大きな鎌が假屋崎 省吾の頭上に落ちて来た。
「未熟者ねぇ、あんた」
假屋崎 省吾は右手を上げるとその大鎌をはらいのけると、黒装束の男は猫のように回転して廊下に降り立った。
「あんた、どこの奴、鳳凰中、それとも虎中」
「どちらでもいい、この大筒の攻撃を受けてみよ」
賊は大きな火筒をかかえている。
「大番長」
子分たちはたじろいだ。
「やってごらんなさい」
假屋崎 省吾がそう言うのと同時だった。
大筒から無数の鉛玉が発射された。
そのときである、假屋崎 省吾の鉄扇が開いた。
鉛玉は鉄扇に当たって廊下の上にばらばらと落ちた。
「わたしにいっさいの攻撃は不可能よ、ホホホホホホ、たとえ機関砲を持って来てもね」
黒装束の男は毒蜘蛛のように黒い塊になって假屋崎 省吾の方を見ながら無気味に笑った。
「これはほんの小手調べさ」
「それより、あんた、鳳凰中、それとも虎中」
黒い塊はその問いには答えずにぶるぶるとまるでモーターの振動のように震えだした。そして突然
「甲虫キング雷鳴波」
と叫んだ。
すると黒い塊の中からぶるぶると震えた形が大鎌みたいな光の塊が無数に飛び出して来た。
それらが假屋崎 省吾の方へ飛んで行く。
假屋崎 省吾は半歩だけうしろにさがると、廊下につくぐらいの学ランの裾を片手で上げるとチャイナ服みたいな派手な裏地があらわれて、その裏地で風を起こすと
「チャイナ三千年ちゃつちゃつちゃつ」
と叫んだ。
裏地から竜巻みたいなものが飛び出し来て、甲虫キング雷鳴波と衝突して大爆発が起きて、廊下の窓ガラスが全部吹き飛んだ。
「お前ら、そこで何してんだ」
語尾がいやになまっている岩手弁の声が聞こえ、生活指導の教師がやって来た。
「お前、他中の生徒じゃないか、ここで何してんだ」
「先生、今度の書道コンクールの書き初めを持って来たんです。だって、先生、龍中で書道コンクールが開かれるって聞いたから、そしたら、この子がいじめるんです」
「先生、あたし、いじめてません。この子が自分の方が書道、得意って言うからわたしたちの書いた書き初めを見せたんです」
「でも、何で、廊下の窓ガラスが全部割れているんだ。まあ、いい。よその中学から訪問したお友達は大事にしなきゃだめだぞ。ここの中学の廊下は入り組んでいるからな、先生が校門まで送って行こう」
暗殺者は生活指導の教師に連れられて帰って行った。
「ふん、余計な邪魔が入ったわね。あいつが鳳凰中、虎中どちらでもいいわ。それより戦況の分析をする方がさきよ」
假屋崎 省吾と子分たちは廊下の突き当たりにある自分たちのアジトに入って行った。
部屋の中は真っ暗だったので天井にぶら下がっている裸電球が一個点いているだけだった。
外から中をのぞかれないために外に面した窓にはすべて新聞紙が貼られている。部屋の中には何もなかったが大きなテーブルが真ん中に置かれている。そのテーブルを中心にして大番長假屋崎 省吾と子分たちが囲んでいる。
「持って来たか」
「はい、大番長」
子分の一人が二つ折りした大きなボール紙を取りだした。
ボール紙の表紙には三枝の国盗りゲームと書かれている。
子分はそのボール紙を机の上に置くと、拡げた。
假屋崎 省吾は懐中電灯を点灯させると顎のあたりにあてて下から顔を照らすと假屋崎 省吾の顔はまるで霊幻導師のようだった、いや、キョンシーと言ったほうがよいのかも知れない。
ボール紙の中にはこの地区の地図が描かれていて、色分けされている。
「ここを押さえているのが、鳳凰中、平井堅だ。そしてここが虎中のチェ・ホンマンだわよね」
「大番長、膠着状態はもう三ヶ月も続いています」
「あんた達がだらしないからよ」
「申し訳ありません、大番長」
「思い切って、こっちから撃って出るという手も考えられますが」
「お前、どうしてそういう考えが出て来るんだ」
「体育倉庫の裏にリヤカーがあるだろう。俺はいい考えが思い浮かんだ」
「なに、話してご覧さい」
「大番長、チェがひょうたんを集めているのを知っていますか」
「初耳だわ」
「龍中旗下、六中学の生徒を総動員してひょうたんを集めさせるのです。そして、それをリヤカーに積んで虎中のチェ・ホンマンに届けるのです。きっとチェ・ホンマンは大喜びするに違いありません。しかし、そこが付け目です。ひょうたんの下にわれわれが隠れているのです。そしてチェ・ホンマンがひょうたんに囲まれて油断しているあいだにぼこぼこにするのです」
「ナンセンス、ナンセンスだわよ。そんなの、ひょうたんの下に隠れているなんて、あたし、イヤよ。ひょうたんのにおいが私の服に付いちゃうじゃないの」
「大番長、そんなことより、大事な問題は」
「大事な問題は何よ」
「われわれ龍中に敵対している勢力がふたつあるということです。つまり、鳳凰中と虎中。そして虎中は普通の中学ではありません。**総連の下にあります。もし、虎中に安易に手を出した場合、これは強力な敵になるに違いありません。虎中を怒らせれば**総連旗下の関東一円の中学が助けに来るでしょう」
「充分、自分たちの勢力を温存しなければならないということね。つまり、もっと龍中の勢力が大きくならなければということを言いたいんでしょう。でも、いやよ、鳳凰中と手を組むなんて」
「大番長、何も、鳳凰中と手を組もうというのではありません。大番長平井堅さえ追い落とせばあとは烏合の衆、鳳凰中旗下千七百名の生徒は伝説の大番長、假屋崎 省吾の手足となるでしょう」
「くくくくくくくくくくくくくくく」
假屋崎 省吾はまた死人のように無気味に笑った。
「まず、平井堅をつぶすということね。あたしの天下は近いは。くくくくくくくくくくく」
假屋崎 省吾は押さえても腹の底からわき上がってくる笑いを抑えきれなかった。
下から自分で懐中電灯の光で顔を照らしているので、やはり假屋崎 省吾の顔は無気味だった。
**********************

第五回
「美術の神髄を私、最近、見つけたのよ。それは微笑みにある。見て、この法隆寺の弥勒菩薩像。それからモナリザの微笑み。みんな共通しているの、それは微笑みね。それもただの微笑みではない。アルカイックスマイル」
仲村トオルは机の上にスケッチブックを置いたまま、美術担当の篠原涼子先生の顔を見上げた。篠原先生は美しい。でも、それだけである。仲村トオルは篠原涼子先生がどんな人なのかはほとんどしらない。座席の後ろでは別所哲也とルー大柴が水彩絵の具を洗うための水バケツの中に筆を突っ込んで遊んでいる。
クラスの中の男子生徒の中には篠原先生に憧れている者もいる。しかし、仲村トオルは篠原涼子先生が美しい人だという印象しかないのだ。でも、その授業に出るのは楽しい。篠原先生がきれいな人だからだ。今、言ったように篠原涼子先生に憧れている男子生徒は彼女に積極的に話しかける者もいる。しかし、馬鹿三人組はそこまで彼女に興味も持っていなかった。
「ポスターの中に石鹸という英語を入れたいんですが、石鹸を英語でいうとどういうことになるんですか」
「石鹸、ポスターの中に石鹸って入れたいの」
今日の美術の時間はポスターを描くことになっていた。
「先生、最近、きれいになりましたね」
生意気盛りの女子学生がたずねた。
「前から篠原先生、きれいだったけど、ますますきれいになったわ。先生、婚約したという噂は本当ですか。先生の婚約者ってどんな人ですか」
個人的なことだとも言わずに篠原涼子先生は正直に答えた。
「本当、もうすぐ結婚するの」
「わあー」
ときの声が挙がる。
仲村トオルにはやはり彼女の婚約者の顔が思い浮かばなかった。
「先生、恋愛結婚ですか」
「そうよ。恋愛」
「わたし達に少し、その話しをしてください」
篠原涼子先生はやはり個人的なことだとは言わなかった。
「先生、わたし達が特定の恋愛相手を持つのは早すぎると思いますか」
「何で、そんなこと、聞くんだよ」
「いいじゃないの」
「先生は中学生が特定の恋愛対象を持つのは早すぎると思いますか」
「うちの父ちゃんはそんなの早すぎるって言っていたぞ」
「子供、ガリ勉小僧」
そこで笑い声が起こった。
仲村トオルはKK子がどんな表情をしているかと思ったが、やはり彼女は篠原涼子先生の顔をじっと見ている。
その目は澄んでいた。
「そうね、君にはまだ早すぎるかも」
ここでまた笑い声が起こった。
「早すぎるってよ。早すぎるって。くくくくくくくくく」
別所哲也とルー大柴が横を見ながら仲村トオルの背中を突っいたので仲村トオルも顔をくしゃくしゃにして横の方にいるガリ勉小僧の顔を見た。
「でも、人を好きになるってことは素晴らしいことよ。昨日までの景色が違って見えてくるの」
篠原涼子先生はやはり堂々と答えた。
「もし、あなたがいくら多くの友達に囲まれていても寂しかったり、または友達が一人もいなかったりしたら、特定の異性の友達を持ちなさいと言いたいわ。でも、そこの阿呆三人組にはそんな心配はないようね。あら、ごめんなさい、阿呆三人組なんて」
「俺達は阿呆じゃない。違う~~~~~」
クラス中の視線がみんな仲村トオルたちの方に向かっていた。
「違う~~~~~」
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第六回
「おい、帰るんじゃない」
こそこそと教室の後ろの出入り口からかばんで顔を隠して帰ろうとしていた阿呆三人組は呼びとめられた。
またすごすごと三人組は戻って来ると、自分の席に座ると亀のように首をすくめて座った。
「今日はクラスで大切な話し合いがある」
「大切じゃねえよ」
ルー大柴がぶつぶつとつぶやいた。
「秀和が静岡に引っ越したから、図書委員の男の方がいなくなったんだな」
「そうです」
「女の方は誰だっけ」
KK子が静かに手を挙げた。
「KK子か」
担任の岩手なまりは一人楽しそうにつぶやいたが、そのつぶやきは他人には聞こえないくらい小さな声だった。
「とにかく、図書委員は男女一人ずつで完璧だ。したがって男の方の図書委員を選ばなければならない」
仲村トオルは爪楊枝で耳垢をほじっていた。
そのとき、女の一人が手を挙げた。
「先生、図書委員になると、誰でも本を読むようになると思うんです。だから、このクラスで一番、本を読まないような男子を図書委員にするのがいいと思うんです。だから仲村くんを推薦します」
あまりに突然のことに仲村トオルは前のめりになりそうになった。
「寄付された本を整理する仕事があるそうだな。ふたりとも協力して、しっかりやれよ」
担任の声がぼんやりと仲村トオルには聞こえた。
校門をひとりの女が家路に向かう。少し距離をあけて三人の男がついて行く。
女はKK子である。
そして、その後ろをついて行くのはあの阿呆三人組である。
一定の距離は全く縮まない。
KK子が歩くと、三人組も前に進む。
KK子が止まると、三人組も止まる。
KK子が急に振り返った。
「わたし、この決定には不満だからね」
「俺だって、そうだよ」
「でも、寄贈図書の整理はちゃんとやるつもり、トオル、今度の土曜日は残るのよ。異議ないわね」
「そんなこと出来るかよ。暇がねえよ」
「ふざけないでよ。あんたのそこにいる。馬鹿二人も手伝うのよ」
「えええ、馬鹿ふたりって誰」
別所哲也とルー大柴はお互いの顔を眺めた。
「あんた達に決まっているじゃない。馬鹿ふたりって言ったら」
「俺達が馬鹿だって、ひどい」
「おい、KK子、いい気になるなよ」
「何よ、いい気になるなんて、あんたのお母さんに言いつけてもいいの。あんたのお母さんには私の方が信用があるって、あんたもよく知っているでしょう。あんたが近所の犬が怖くておしっこ漏らしてうちに来たことあったわよね」
仲村トオルは下を向いてぶるぶると震えた。
「おい、トオル、あんなこと言わせていいのかよ」
「KK子、そしたら、お前、お前、平井堅に手伝って貰えばいいだろう」
するとKK子の表情が変わった。無言になってつかつかと仲村トオルの方に寄ってくると急に仲村トオルの胸ぐらをつかんだ。
「何、すんだよ」
仲村トオルは涙目になった。
別所哲也もルー大柴も手を口にくわえて、唖然としてその様子を見ていた。
「トオルくん、トオルくんじゃないか」
向こうの方から仲村トオルを呼ぶ声が聞こえる。
「哲也、哲也、何してるんだ」
「おじさん、こっち、こっち」
何も知らないおじさんは別所哲也の方ににこにこしながら小走りで歩み寄って来た。
「君たち、何やっているの。トオルくん、学生服の徽章でも壊れたのかい。女の子に直してもらうなんて、君もすみにおけないね。くくくくくくく」
「違うんだよ。違うんだよ。ゴヘヘヘヘヘヘホホホホホ」
仲村トオルが咳き込みながら答えると
「そう、直していたんです」
手を離したKK子がちらっとおじさんの方を見てほほえんだ。
そのとき、おじさんの顔が薔薇色に輝いたが、仲村トオル達はそれどころではなかったので、そのことにも気づかなかった。
「私、失礼しますわ」
そのままKK子はすたすたとひいらぎの生け垣の横を向こうの方へ立ち去って行った。
「事実は違う」
仲村トオルはまだ首のあたりをさすりながら、その男の方に話しかけた。
「事実は違うんですよ」
「どういうふうに違うんだい」
「あの、女に首を絞められたんだよ」
「へえ」
「本当、ひどい女ですよ。あいつ」
ルー大柴も仲村トオルを援護した。
「それより、おじさん、何で、こんなところ、歩いているんだい」
別所哲也がおじさんに話しかけると、おじさんは答えた。
「君の家に久し振りに遊びに来たんじゃないか。フライデーのチョコケーキを買って来て置いて来たからね。きっと冷蔵庫の中にまだ入っていると思うよ」
「食われてるよ。きっと」
別所哲也は否定的に答えた。
おじさんの名前は水野晴夫という。映画会社の宣伝部に勤めている。別所哲也の父親の実の弟だった。
ときどき別所哲也の家に遊びに来る。そのとき、いつもおみやげを持って来るので別所哲也はこのおじさんをいつも歓迎していた。それに芸能界のスターのサインや映画の販促品なんかも持ってくるので、このおじさんが自慢の種でもあった。
「喫茶店に入って話しでもしようか」
「喫茶店に入ると生徒手帳をとりあげられる」
「保護者がついているからいいんだよ」
三人の阿呆達は水野春夫につれられて駅のそばの カトレアという名前の喫茶店に入った。店の内装はラワン材を削って、その上に濃いめのニスを塗りたくった、昔の感じのする店だった。店の中のあちこちにアロエの鉢が置かれている。
コーヒーカップは小さくて厚く出来ていて、したがって注ぐコーヒーの量が少なくて済むので店にとっては経済的だった。しかし、朝の九時半から十一時の間だはトーストが食べ放題というサービスがついていた。
デコラ板のテーブルを囲んで仲村トオルたちは座った。
「ブレンドコーヒー、四つ、それにフルーツタルトも四つね」
水野春夫は椅子に座ると同時に横に置いたかばんの中から、パンフレットのようなものを出してテーブルの上に拡げた。
それと同時にコーヒーとケーキが運ばれて来たのでルー大柴はフルーツタルトの真ん中にフォークを突き立てて、水蜜桃をすくい上げて口の中に運んだ。
「食べてよ。食べてよ。みんな」
水野晴夫はほくほく顔になって、ケーキの切れ端を口の中に運んでいる馬鹿な中学生三人の顔を眺めている。
彼は中学生たちが机の上にひろげられたパンフレットに気づくのを待っていられなくて自分の方から切り出した。
「これ、見て、これ」
「シンデレラオーディション祭り、君もスクリーンのスターに」
ルー大柴がそのパンフレットの題名を見て、すかさず、にやにやして、水野晴夫に言葉を発した。
「ついに、僕を見つけてくれましたか。ねぇ、スカウトでしょう」
横に座っていた仲村トオルがルー大柴の頭をこづいた。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。シンデレラって書いてあるじゃねぇか。女のことだよ」
「そのとおり。トオルくんはやっぱり、頭いい」
「変なおだてかたしないでくださいよ」
「おじさん、これが俺たちに何の関係があるんだい」
別所哲也も片手にフォークを持ちながら、片手でそのパンフレットを取り上げて眺めた。
「これ、長澤まさみちゃんじゃないの」
別所哲也は口の中にフォークをくわえたまま見ている。
そこにはその映画会社のカレンダーに載っている若手女優がにっこりと微笑んでいた。
「僕はひらめいたんだよ。君たち、あそこで何をしていたんだい」
「トオルは首をしめられていたんだよ」
「本当、ひでぇ、女だよ。あいつ」
「まあ、そんな事はどうでもいい。僕はひらめいた。あの女の子は哲也くんたちのクラスメートなんだろう。名前は何て云うの」
「名前を聞いて、どうするんだよ。おじさん」
「僕はひらめいたんだよ。きっとあの子はスターになる。今度、一押しで売り出そうと思う」
「えええええええ」
「えええええええ」
「えええええええ」
「何をびっくりしているんだよ」
「ひらめきっていうのはときとして的をはずす事が多いと思うけど」
「それでも、いい。君たちを彼女の推薦者にしよう。推薦者には一年間、六本木の高級焼き肉店、南平台で焼き肉ランチ食い放題という特典がつく」
「本当。三人が推薦者になってもいいの」
「もちろんだよ」
「やっぱり、あいつはちょっと違っていると思っていたんだよ。俺達のクラスの同級生でね。KK子というんだよ」
「哲也のおじさん、でもねぇ、あいつ、そんなスターというには程遠いよ。そりやあ、見た感じはちょっときれいだけど、スターというにはね。それにあいつには平井堅という・・・・・」
突然、別所哲也とルー大柴のふたりがあわてて、仲村トオルの口をふさいだ。
ルー大柴はそのパンフレットのある場所をさかんに指し示していた。
「あっ、そうだ。それから忘れていたけど。その女の子には恋人がいないことが条件なんだ。恋人がいたりしたら、シンデレラクイーンの資格は剥奪されるからね」
************************
ルー大柴の部屋のある二階で仲村トオルたちは車座になっていた。
「お前、お宝を集めているんだってな」
「へへへへへへ、見せてやろうか」
ルー大柴はベットの下からプレーボーイとペントハウスのたばを取り出すと、外国の女の裸の写真が畳の上に広がった。
「ルー、みんな、宿題をするために来てくれたんだって、ケーキもあるからね。あるって言っても、近所の人に貰ったんだけどね」
階段の音をみしみしさせながらルー大柴の母親が二階に上がって来た。
「やばい、隠せ」
三人はあわててベットの中にそれらの雑誌を押し込んだ。
そんな事も知らずに母親は自分の息子たちが勉強をするために集まっているんだと勘違いしてお盆を下に下ろすと紅茶とケーキを三人の前に置いた。
「何の、勉強をするんだい」
「これから、始めるんだよ」
「あそこに参考書が置いてあるじゃないか、でも、ちょっと大きな参考書だね」
ルー大柴の母親はそれに手を伸ばしてとろうとする。
三人はやばいと思った。
しかし、遅かった。ルー大柴の母親はそのちょっと大きな参考書を手にとって眺めている。
「何だ、小学校時代のアルバムじゃないか」
それはルー大柴の小学校の卒業記念のアルバムだった。
そしてそれは仲村トオルのでもあるし、別所哲也の卒業記念のアルバムでもある。
仲村トオルも別所哲也もルー大柴も、そしてKK子も同じ小学校に、その上同じクラスに六年間、通っていたのである。
ルーの母親はちょっと懐かしいと思ったのか、それをひろげて見た。
母親にとってはそこに写っている子供たちの姿がどう映ったのだろう。
「みんな写っているじゃない 」
あまり感動もないようだ。
「KK子ちゃんも写っているじゃない。近所で話したんだけどね。KK子ちゃん、ここら辺で一番、きれいじゃない。でも、ラブレターを一度も貰ったことがないんだって。あのちびちゃん、いるじゃないの。服部さんっちの子、あの子、何度もラブレター、貰っているんだってよ。あの子の方が男の子に人気があるんだってねぇ」
ルーの母親はどうでもいいような事をべらべらと話している。
三人の作戦会議には全く関係のない話しだった。
「うるせぇなー。勉強、始めるんだから、帰れよ」
「そう、しっかり、勉強するんだよ」
ルー大柴はあわてて母親を階下に追い返した。
「あぶねぇ。あぶねぇ。危うく見られるところだった」
「それより、あの話し、どうする。KK子の推薦人になるという話し」
「もちろん、乗るよ。一年間、高級焼き肉ランチの食い放題だろう。それでおじさんがKK子の写真をもっと見せてくれというから、KK子の写っている写真も集めているんだよ」
ルー大柴は紙袋の中から遠足に行ったときなどのKK子の写った写真のたばをみんなに見せた。
仲村トオルはあらためてKK子と長いつき合いだったということを認識した。
「それより、問題はシンデレラクイーンの条件だよ。恋人がいてはならないという」
「普通、中学生なら、恋人がいないだろう。しかし、問題がある」「問題が」
ルー大柴も深々と嘆息した。
「KK子が平井堅に惚れているか、どうかということだな」
三人にとって、これは重大な問題だった。
平井堅がKK子に惚れているということは明らかだった。
それはあの平井堅の風呂屋での待ち伏せ事件から続いている。
この前もこんなことがあった。
それは国語の授業のときだった。二年B組、仲村トオルのいるクラスは二階にある。
そして、彼らの中学校はこの区域でも有名なボロ校舎で、木造校舎だった。
「そんなふうにして恋いはどこから、やって来たのでしょう」
国語の井川はるら先生は有名な外国の詩人の詩を校舎の窓の外にひろがる空に浮かんでいる雲を見ながら朗読した。
仲村トオルも別所哲也もルー大柴もうつらうつらと居眠りをしていた。もちろん、それは給食を食べたあとの授業で自分たちの腹がくちくなって血液中の血糖値の関係もあったが、恋いなんて、彼らには全く興味のない時弊だった。
井川はるら先生は美しい人だったが、今だに独身だった。
その理由は何故か、わからなかった。
中学生たちにわかるはずがない。
「先生、何で、先生は今だに独身なんですか」
「余計なこと、聞きやがって、あいつ、きっと怒りだすぞ」
後ろの席に座っているルー大柴と別所哲也は仲村トオルの背中をつついた。
さにあらず、意に反して井川はるら先生は怒り出さなかったのである。
目に優しさをたたえて、その女性徒の方を見た。
「縁がなかったのよ」
「先生なら、プロポースする人がたくさん、いたでしょうに」
「でも、この人と結婚しようと決めた人はいたの」
「いつですか」
「君たちと同じ中学生の頃、その人は小学校の頃からの幼なじみだった」
仲村トオルはぎくりとした。
そしてKK子の方を見ると、彼女ははるら先生をじっと見ていた。
彼女の横顔がトオルの視野の中に入った。
彼女はトオルに見られているということも気づいていなかった。
彼女の目はやはり、澄んでいた。
そのときである教室の二階の窓から何かが通り過ぎた。
一瞬、その無気味な大こうもりみたいなものが現れて、また、消えた。
そして、またそれはやって来た。
長いロープにぶら下がった平井堅が振り子時計の振り子のように二年B組の窓の外を通り過ぎたのである。
そのとき、平井堅はにっと笑い、手にはKK子ちゃん、愛しているというプラカードを持っていた。
全く、神出鬼没な奴だった。
その姿を仲村トオルははっきりと目に焼き付けた。
そしてKK子もその姿をはっきりと目に焼き付けたに違いない。
「あの馬鹿」
KK子は下を向きながら、苦々しげにつぶやいた。
教室中のみんなが窓際に行くと、するすると平井堅は校庭に降りて行き、一階から生徒指導の教師たちが校庭に飛び出して行った。そこで追いかけごっこがはじまり、平井堅は校庭を走り出て行った。
ありみたいに小さくなった平井堅と教師の姿が胡麻の粒が油の上を移動するように動いていた。
KK子はふてくされたように肘をつき、ぶつぶつと何かをつぶやいていた。
「どうする。六日前の出来事を覚えているだろう」
「あの、平井堅の積極性」
「やばいぜ、絶対」
「どう、やばいんだよ」
ルー大柴と仲村トオルのふたりは別所哲也に尋ねた。
「やばいって、わかんねぇのかよ。お前らって馬鹿だなぁ。これは生物学的な問題なんだよ。確かに、今はKK子は平井堅のことを何とも思っていないかも知れない。でも、あいつの存在はKK子の心の片隅には焼きこまれているに違いない。そして、その存在はだんだん大きくなって行くのだ。それは何故か。お前達にはわからないだろうな」
「何でだよ」
「つまり、生命の神秘なんだな。つまり、生物学的には女の方が受動的なんだな。巣を作って子供を産まなきゃならないから。だからだ。平井堅の愛の攻撃がこのまま重なって行くと、KK子は陥落してしまう。すると、どうなる」
「KK子のシンデレラクイーンの資格剥奪だ」
ルー大柴も合いの手を入れた。
「これは由々しき問題だ」
「高級焼き肉ランチが遠ざかって行く」
「平井堅をつぶすしかない」
「しかし、あいつは大番長だぞ。俺達が百人いたって、あいつ一人にかないっこないぜ」
「ああ、KK子、平井堅に惚れるな、惚れるな」
「でも、KK子って可愛いと思わない」
別所哲也が言った。
「KK子って、確かに、スタイルがいい」
ルー大柴は風呂屋で見たKK子の裸体を思い浮かべて言った。
「お前ら、平井堅をライバルだと思っているのか」
「そんなことないけど、KK子と平井堅が並んで歩いている姿を想像するとお似合いのような気もするし、ちょっと妬ける気もするよな」
「馬鹿だなぁ、お前ら、あの女が男を好きになるかよ。とにかく、あの女、ちょっと変わっているからな」
「どう、変わっているんだよ。トオル。お前、あの女に関して、俺達の知らない秘密でも知っているんじゃねぇのか」
「秘密なんてあるかよ」
「でも、お前んちの母ちゃんとKK子の家の母ちゃんって特別に仲がいいじゃないか」
「そんなの関係ねぇよ」
すると、階下からルー大柴のおふくろの声が聞こえた。
「馬鹿息子たちぃぃぃ。お前たちには勿体ないようなきれいなお嬢さんが訪ねて来てくれたよ」
二階の部屋から階段の下の方をのぞくと目をくりくりさせてルー大柴の母親が上の方を見上げている。
「おばさん、きれいなお嬢さんなんて」
ルーの母親の横でKK子が彼女の腕のあたりをつついている。
「本当、あんたみたいな可愛い子がうちの馬鹿息子のお友達なんてねぇ」
二階の上の方で三人が同級生ってだけだよ、とか何とか、ぶつぶつと言うと、KK子は何か言ったぁ、とか言った。
「さあ、上がって、上がって」
ルーの母親は世話焼き婆さんのようだった。KK子が躊躇していると彼女は無理矢理、KK子を二階に上がらせた。
母親はまたもう一人分のケーキと紅茶を持って下から上がって来た。
もちろん、ルー大柴はペントハウスもプレーボーイもベットの下の奥の方に押し込んだ。
「思ったより、いい眺めじゃないの」
KK子は窓から張り出している縁台に腰掛けると灰色のトタンで出来た煙突みたいな、ちょっと変わった家と、その向こう側にある大きな下水管が積み上げられている、緑の原っぱを見ながら言った。
「何しに来たんだよ」
「ご挨拶ね」
KK子は足を組み替えた。するとアコーディオンのようなスカートがひらひらしてコバルト色のソックスが小さく弧を描いた。
「寄贈図書の整理の打ち合わせよ。もちろん、三人とも手伝うのよ。異議はないわね。それについて、あんたたちって本なんて、全然、読まない人たちだから、図書の分類番号のことなんかを教えに来たのよ」
KK子は窓辺に座りながら偉そうに言った。
「俺達だって本ぐらい読むさ、主にビニ・・・」
「うるせえ、うるせぇ」
仲村トオルがルー大柴の口をふさいだ。
「でも、三人とも、何で、集まっているの。おばさんに聞いたら、勉強をするために集まっているとか、言っていたけど、とても、しんじられないわ」
KK子は部屋に置いてある小学校時代のアルバムを見つけて手を伸ばした。
「ルー、これ、小学校時代のアルバムじゃないの。みんなで見ていたんだ。三人とも腐れ縁だもんね」
「お前もだろう」
仲村トオルがくちびるをとがらせて抗議した。
そして、とてもお前の写っている写真を集めているんだとは言えなかった。
しかるに、KK子は三人の馬鹿達のそんな企みももちろん知る由もない。
三人の馬鹿達が自分の写真を眺めていたなんてことも。
「勉強もしないで、こんなものを見ていたんだ。時間の無駄じゃない。明日、英作文の宿題を提出しなければならないんでしょう。その方が大事でしょう」
KK子はまた馬鹿にするような口振りで三人に言った。
ルー大柴が急にどういう風の吹き回しか、変なことを思いついた。
「実はな、俺達、三人の会ってのを作ったんだよ~~ん」
「三人の会、何、それ」
「お前に男が出来な・・・・・」
「ああああああああ」
別所哲也が言い出そうとするのを仲村トオルは口で押さえた。
代わりにルー大柴が答えた。
「うちの中学って、今、非常事態じゃない。と言うより、うちの地区が非常事態なんだけどね。龍中、鳳凰中、虎中と三つの中学が覇を競っている。本当に昔の戦国時代と同じだからね。その上、よりによって人間離れした三人の大番長が出現しちゃったし、さらに困ったことにはKK子ちゃんは大番長のひとりの平井堅に目をつけられちゃうし、本当、KK子ちゃん、可愛そう。幼なじみの同級生として僕らも本当に心配しているんだよ。あんな奥目に好かれちゃうなんてね。だから、幼なじみの僕たち、三人で何があってもKK子ちゃんを守ろうって、トオルが言い出したんだよ。僕たちはいつでも、KK子ちゃんの味方だよ。命がけで君を守ってあげるからね。う~~~ん、KK子ちゃんって可愛い。それで最近、トオルなんて非常サイレンつきの携帯だって買ったんだから」
「本当」
KK子の瞳に優しさがきらめいた。そして、じっと仲村トオルの方を見つめた。
「本当、トオルってそういう人だったんだ」
明らかに仲村トオルの心の中には混乱が生じているようだった。
意外にもKK子が女の一面を出して来たからである。
それと同時に自分たちが明らかな作り話と、自分たちの利益のためにKK子をだしに使っているからである。
「ありがとう、古い友人の君たちに感謝するわ」
KK子の顔には微笑みがひろがっている。
「でも、それと図書整理の仕事とは別よ」
KK子は図書の整理番号とか、仲村トオルたちがあくびをかみころさなければならないような話しを延々と続けた。
ただ、その話しのあいだにこの話しが我慢出来た理由は、話しの途中にKK子が黒いソックスを穿いてきていて、その足をときどき組み替えることだった。そのたびごとに健康的に伸びたKK子の大腿部のふくらみが三人の馬鹿達の目にちろりと飛び込んでくるのだった。KK子は明らかに不純な色情にかられて三人がそれを見ていることにも気づかないようだった。
「別所く~~~ん、おうちから電話よ」
また、階下から、ルー大柴の母親が血色のよい顔の中のくりくりとした目で彼らに声をかけた。
「わたしが、お話を伺いましょうか」
二階にいる別所哲也が返事をする前にルーの母親は勝手に自分本位に解釈していて、別所哲也の家からの伝言を自分が全部とりついで、それを別所哲也に伝えることにしていた。
「えええ、何でございます。哲也くん、勉強で忙しいようで、電話口にでられないようでございますから、はい、はい、もうそろそろ、夕飯にしたいから帰って来いとお伝えすればいいんでございますね。えええ、うちの馬鹿息子も似たようなものでござんすよ。ええええ、帰りにソース、ウスターですか、それがないから買って来いということですね」
「わかった」
電話を置くとルーの母親は四人の顔を見上げた。
その様子を二階の四人はみんな、じっと見ていた。
別所哲也が抜けてから、小半時、三人は同じようなことを続けていたが、二階の窓から見える景色の中の雲がオレンジ色に染まりだした。雲はオレンジ色だが、空はまだ青味が残っていて美しいコントラストをなしていた。窓際に座ったKK子の姿を柔らかい光が包み込み、KK子のシルエットは夕暮れの景色の中にとけ込んだ。
「わたし、帰るわ」
「俺も帰る」
ルーの母親が一緒にカレーライスを食べて行けという声をあとにして、仲村トオルとKK子は夕暮れの街に出た。
ルー大柴の家は小高い丘の上にあり、そのまわりにはなだらかな丘がつながり、まだところどころに畑が残っていた。畑のはしには柿の木が奇怪な魔女のような姿で立っていて、そこには熟した柿の実がなっている。畑の土の色とその柿の実の色は絶妙な対照をなしていた。
ふたりはまるで恋人のように並んで歩いた。
KK子がどう思っているかはわからないが、仲村トオルの方は自分たちがKK子を焼き肉ランチの食券のように思っていたことも忘れて、自分が彼女のことをやはり恋人のように一瞬錯覚していたことは不思議だった。
その美しい情景に催眠術をかけられていたのかも知れない。
美術の篠原涼子先生の言った、恋人が出来たら、自分の目に映る風景が違ってくると言ったのはこのことかも知れないと思った。
「もしもだよ、もしも」
仲村トオルは横にいるKK子の顔を眺めた。
「もしも、君が突然、有名になって、いろいろな男からラブレターが来て、そんな男達がKK子のことを大好きだって、恋いこがれているっと言い出したら、そして、きみと結婚出来るなら、何でもするって、それも普通の男の子がそう言い出すんではなくて、アラブの富豪か何かがそう言って召使いをKK子のところに来させたら、どうする」
「どういうこと」
KK子は怪訝な顔をした。
仲村トオルは馬鹿三人組がKK子を推薦して、その報酬として六本木の高級焼肉店で一年間、焼き肉ランチの食い放題の権利を得ることを画策しているとは言い出せなかった。
「トオル、あなたの言っていることの意味がよくわからない」
「わからなくてもいいよ」
仲村トオルの顔は気むずかしい、みみずくのようになった。
「哲也のおじさんの水野晴夫さんって知ってるか」
「知ってるわ。映画会社の偉い人でしょう」
「大河ドラマに出ている、***子って、知ってるかよ。***子って渋谷で水野晴夫にスカウトされたんだろう。それで、あっという間にスターになったんだなあ。それから、あいつも・・・・・」
仲村トオルは水野晴夫がスカウトしてスターになった女の子たちの名前を挙げていった。自分でも何でそんなことをしているのか、よくわからなかった。と同時に水野晴夫がスカウトしてスターになった女の数が多いことに気づいた。
と言うことは水野晴夫が太鼓判を押したKK子という存在は。
もしかしたら、もしかしたら・・・・・・・・
スターになるということか・・・・・。
KK子が仲村トオルの心の内を理解しているのか、どうなのか、仲村トオル自身にはわからなかった。
ただ美しい景色の中で仲村トオルは疑似恋愛感覚だけを感じていた。
急に、KK子は仲村トオルの方を振り返ると微笑んだ。
「うれしかったわ」
「えええ」
仲村トオルはびっくりしてKK子の顔を見た。
「別所くんも、ルーも、それにトオルくんもわたしのことを考えてくれていたのね。三人の会」
「ええええええ」
「トオルが最初に考えてくれたの」
「まっ、まっ、まあ」
仲村トオルはそれがルーが勝手に思いついた出まかせだとは今更言えなかった。
「わたしのあとにはいつもあなた達三人がついているのね」
「まっ、まっ、まあ、まあっな」
KK子ははるか遠くを見ている、遠い日の思い出を懐かしんでいるようだった。
「さっきの質問だけど、私が急にもてもてになったら、どうしょうかしら、あなたたち、三人をいつもそばに置いて、召使いね。その上でそれらの男たちと恋愛三昧ね。でも、あの平井堅はお断りするわ」
「召使い」
仲村トオルはその言葉に閉口するでもなく、聞き流した。
「ねぇ、見て」
立ち止まったKK子は指さすと一つ隔てた丘の上に一本の木が立っている。
「トオルくん、覚えている。あの木」
「ぇぇぇぇ」
仲村トオルはKK子が指さした木が何を意味しているかわからなかった。
「まぁ、いいわ、宿題ね」
仲村トオルはその意味もわからなかったし、また、KK子はちょっと変わった女だとやはり思った。
**********************

第七回
龍中のある商店街を抜けて行くと、昔は澄んだ水をたたえていただろうと思える川がある。意外にその川は広く、深くて、川の片側は自動車の通れる道路になっているが、もう片側は崖になっていて、ちょっと不気味な木々に覆われていて、崖の上の方には死体焼却場の灰白色の煙突がすっと立っている。その崖の一郭に白亜のベルサイユ風のマンションが立っている。地中海の住まいのように白く波立っている壁と海のような青い天井がついている十階建てのマンションがある、つまり日本で言うところの高級分譲アパートである。そこの最上階の一番東側に假屋崎 省吾が住んでいる区画がある。
白いバスタブの中に薔薇の花を埋め尽くし、
バスタブの横の青いすみれやえにしだをデザインしたタイルには金色の石鹸置きと金色のお湯の出る蛇口がついている。金色のお湯の出る蛇口からバスタブの中にお湯を注ぎ、頭にピンク色のタオルを巻いた女が赤い薔薇の花弁に包まれたお湯の中から、声をかけた。
「省吾ちゃん、早く、いらっしゃい」
女は明らかに水商売の女である。商店街の中にあるクラブ、パープルシャトーのマダムであった。
バスルームの扉が静かに開いて、タオルで前を隠した全裸の假屋崎 省吾が入って来ると、彼はそろりそろりと薔薇の花で全面を覆われた湯の中にパープルシャトーのマダムの身体をよけながらお湯の中に身を沈めた。
假屋崎 省吾は中三でありながらバーのマダムと同棲していた。そのマンションの一室で大番長ではない、別の一面を見せていたのである。
「省吾ちゃん、最近、おもしろい事、あった」
「あるわけないじゃない、あんた。膠着状態はまだ続いているわよ。本当にいまいましいったらありゃしない。まだ、鳳凰中ですら、陥落出来ないんだから、子分たちがだらしがないのよ。本当に」
「省吾ちゃん、大事の前にあせりは禁物よ」
大番長假屋崎 省吾、その身体能力は異常ではあったが、頭の方は中の下だった。基本的には何でも腕力で解決しようとした。電柱に自分の自転車をチェーンでつないで、その暗証番号を忘れて自転車がのれなくなったときは力まかせにチェーンを引きちぎって、チェーンを引きずりながら自転車をこいだりするのである。そんな腕力ひとつで暴走しようとする假屋崎 省吾をいいように手なずけるのが、このバー、パープルシャトーのマダムであった。
この浴室の中では子分たちに見せない一面を見せる、悩みもこの女に相談する。
「典子、わたし、本当に平井堅とチェ・ホンマンを打倒出来るかしら」
「心配することないわ。牛のように進むのよ。省吾、あなたが三中学を統一する日は近いわよ」
「本当、うれしい。典子」
このバーのマダムの名前は青田典子という。
青田典子におだてられて、喜んだ假屋崎 省吾は薔薇の花をかき分けて裸の身体を裸の青田典子の方に近づけて、そのくちびるにキッスをした。それから湯船の中で熱い抱擁をした。
ふたつのイルカが海の中でじゃれているように湯船のお湯がざわめいた。
それから身体を離すとまた、内輪話を始めた。
「省吾ちゃん、龍中で何か、おもしろい事はないの。学校で起こったことは、みんな、この典子に話してご覧なさい」
假屋崎 省吾は最近、子分たちが収集した話しを思い出してみたが、これと言っておもしろい事もなかった。
假屋崎 省吾は何の興味もなかったのだが、二年B組の何とか言う女が風呂屋の入り口で誰かに告白されたという話しがあったような気がしたが、あまり、詳しい話しは知らなかった。
「大黒湯の入り口でうちの女性徒がどこかの男に愛の告白をされたというような話しがあったかしら」
「ほほほほほ、中学生らしいわね。可愛いい」
青田典子も微笑んだ。それからふたりはまたお湯の中で抱き合った。
翌日、大番長假屋崎 省吾は子分をぞろぞろつれて龍中の廊下を巡回していた。生徒たちはこの怪物を怖れて遠くから彼を離れて見ていた。假屋崎 省吾の姿はあたりを威圧した。その長髪も豪奢な学ランも廊下をするようである。廊下は真ん中に白いペンキで往きと帰りの交通整理がなされていたが、假屋崎 省吾は廊下の真ん中を占有して一人暴君のように歩いていた。假屋崎 省吾のうしろには武骨な子分たちがしたがっている。
教室の中の生徒達はみんな首をすくめて假屋崎 省吾が通り過ぎて行くのを沈黙しながら待っていた。それはまるで江戸時代の大名行列の一行が街道を通過して、茶店のそばにいた平民が土下座してそれが行き過ぎるのを待っているようだった。
突然、假屋崎 省吾の歩みが止まった。
そして、廊下と教室を隔てている窓から教室の中に視線を止めた。
「一年D組、一年坊主なのね」
假屋崎 省吾はつっぱりがよくかけている眼鏡のふちがつり上がっているそれを指先でずり上げた
そこは一年生の教室だった。つい、六ヶ月前まではランドセルを担いで小学校に通っていた連中である。教室のうしろにはポケモンのカレンダーがつり下げられていた。
假屋崎 省吾の眼はその教室の中の何でもない生徒に注がれていた。
頭はマシュルームカット、そしてちょっとしゃれた銀縁眼鏡をかけている。その生徒は校庭に面した真ん中ぐらいの席に座っている。
机の上には画用紙帳を出し、クレヨンを出し、何か、お絵かきをしている。
假屋崎 省吾の眼はやはりその生徒に注がれていた。
その様子に子分たちも気づいた。
向こうから、びくびくと歩いて来る生徒を子分のひとりがつかまえた。
「大番長様、わたしは何もやっておりません~~~ん。どうか、お許しを」
「別にお前がどうというわけではない。大番長様が興味がある生徒がいるとおっしゃっている」
子分はそう言って、さっきの窓際でクレヨン画を描いている生徒を指し示した。
「あの一年坊主のことを知っているか」
「ええええぇぇぇぇ、あの生徒ですか。大番長様。あれは日本人じゃありません。三ヶ月前に龍中に来たんです。大番長様。みんなは彼のことをヨン様と読んでいます」
「ヨン様」
大番長假屋崎 省吾は舌なめずりをした。何故か大好物を見つけたように。彼には何か、その中一坊主に感じるものがあった。
このヨン様にその日の午後、学校から帰るとき、出来事が起こった。
出来事というほどのものではないが。
一年D組では学校が終わって帰りの礼をする前に学級委員会というものがおこなわれることになっていた。
その時間もヨン様、つまりペ・ヨンジュは画用紙帳とクレヨンを出し、何かを描いていた。
「皆さん、何か議題がありますか」
すると、いつもレリアンを編んでいる女子生徒が手を挙げた。
「はい、学級委員、このクラスに変なお友達がいます」
「誰です」
「転校生のペ・ヨンジュくんです」
すると、ヨン様は今まで動かしていたクレヨンを持つ手を止めて、
発言した生徒と学級委員長の顔をかわるがわる見つめた。
「この子、おかしいわ」
三つ離れたところに座っている女が突然、立ち上がると、ヨン様をゆびさした。
「理科の時間でも、社会の時間でも、国語の時間でも、いつもクレヨンを握って絵を描いているんですもん」
「そうだ、たしかに、おかしい」
もう一人の生徒が発言すると学級委員長は彼を制した。
「発言する前には手を挙げてください」
すると、少し離れた生徒が手を挙げ、委員長に指名される前に立ち上がり、発言した。
「勉強もしないで、いつも絵ばかっかり、描いているのはおかしいと思います」
「絵じゃないぞ、それ、塗り絵だよ」
そう言われて、ヨン様の隣に座っている生徒がその画帳をのぞき込むと確かに塗り絵だった。
画用紙の中には大きな蜜蜂と花と三角屋根の小さな家の輪郭だけ描かれていて、それは妖精が作った牛や羊が住んでいる牧場のようだった。まだ、あまり色がついていないが、小さな池やアカシヤの林なんかがあった。そしてその中の三分の一がクレヨンで塗られていた。
「塗り絵だ。塗り絵だ」
笑い声と嘲笑が教室中にあふれた。
その様子にヨン様はひどく混乱しているようだった。
追い打ちをかけるように今度は教室の廊下側の一番前に座っている生徒が振り向いて言った。
「それに、ヨン様が話しているのを聞いたことがない」
「お便所どこ、給食いつっ、て言うのを聞いたことがあるぞ」
そこでまた笑い声が起こった。
教室のうしろの方の席でいつもこの教室の支配権を握っているちょっとニヒルな生徒が後ろの方にのけぞりながら
「そいつ、日本語、話せないんだよ。GG電子の修理工場が川のそばに出来ただろう、それで転校して来たんだよ。そいつ、朝鮮語しか、しゃべれないんだよ。へへへへへ」
そのとき何者か訳のわからない遊星人の襲撃を受けたような衝撃が教室中に広がった。
「チョンだ。チョンだ」
教室の中にざわめきが走った。
「この教室の中にチョンがいるぞ」
ヨン様は教室の連中が何を話しているのか、わからなかった。
しかし、非常なる敵意の塊を感じて、心の中に動揺を覚えた。
「何で、チョンがいるんだよ、ここは虎中じゃねえぞ」
「そうだ、きっと虎中のスパイなんだよ。チェ・ホンマンに命令されてここに来たのに違いないぜ」
「そうだ、スパイだ。スパイだ」
教室中の敵意と嘲笑と無関心がヨン様のまわりに押し寄せて来た。
しかし、教室のみんなが何と言っているのか、ヨン様には理解出来なかった。
「私が翻訳するわ」
何故だか、ハングルを理解出来る女子中学生がヨン様の斜め後ろに座っていて、身を乗り出すとヨン様に朝鮮語で話しかけた。
「みんなはあなたに非常なる敵意と嘲笑を持って向かっています。みんなはあなたが虎中のスパイだと言っています。チェ・ホンマンの命令でやって来たのだと言っています」
するとヨン様はその女子学生に朝鮮語で答えを返した。
「みなさん、ヨン様はみなさんを愛してるニダ。塗り絵は脳年齢を三歳若がえらせるという話しを聞いたニダ。それで塗り絵をやっているニダ。もう、三冊も完成したニダ。次には牡丹と鹿の塗り絵を完成させるニダ。それから今度の日曜日には忍野八海まで行く予定ニダ。あそこは景色がよいということを聞いたニダ」
ヨン様は関係ないことまでも付け加えた。
すると女子学生はそれを日本語に翻訳した。
「みなさん、あなた方はわたしが虎中から来た、チェ・ホンマンの命を受けたスパイだと疑っているようだが、わたしの故郷はこの小惑星から、はるか三十億光年離れたところにある。常時、星の生成と消滅を繰り返している白鳥座星雲にある。と申しております」
「嘘ついてんじゃねぇ」
クラスのあちこちで罵声と嘲笑が起こった。
すると女子学生はまた朝鮮語で何かを伝えようとした。
「韓国にも、塗り絵はありますか。中学には給食がありますかとみんなは聞いています」
「韓国にも塗り絵はあるニダ。給食もあるニダ」
女子学生はペ・ヨンジュの方に向けていた顔をみんなの方に向けた。
「円盤の予期しない故障のためにこの小惑星に降り立った。最初に藤子不二夫先生の魔太郎が来るで地球人の宇宙観と人生観を勉強した。その中で発見した、恨みはらさでおくべきか、これは自分の好きなフレーズであり、人生の座右の銘にしている。地球での活動のために最初に見つけた地球人を殺害して、その中身を抜いて、その中に入っている。だから、現在の姿は本当の自分の姿じゃない、と申しております」
「ふざけんじゃねえ」「嘘つくな」
また、教室のあちこちで罵声と嘲笑がわき起こった。
教室の後ろの方でこの教室の支配権を握っている、ちょっとニヒルな男がニヤリと笑うと言った。
「じゃあ、本当に宇宙人か、どうか、調べりゃいいじゃないか。そいつのパンツを脱がせて、ちんちんがついているか調べりゃいいんだよ」
「そうだ、そうだ、解剖だ。解剖だ」
教室中は騒然として、異常な熱気と暗い欲望に満ちた瞳がヨン様に注がれた。
ヨン様はそれを感じたので画用紙帳で顔を隠した。
「おい、ちんちん見せろ」
教室中の生徒がヨン様のまわりを取り囲んだ。
「おい、帰ろうぜ」
「俺も帰る」
この教室の中で、やごとりやら、かけっことか、遊びと食べることが大好きで、いつも朗らかな生徒が早く家に帰って、作りかけの模型飛行機のことを思い出したりして、家に帰ると言って立ち上がった。
「俺達、帰るからな」
「そんな事、許されるかよ」
「馬鹿野郎、ぶっ殺すからな」
「学級委員会を欠席していいと思っているの」
「へん、俺達は帰っちゃうからな」
「いい度胸しているじゃねえかよ。全権を俺達は先生から委ねられているんだからな」
ニヒルな生徒がすごんだ。
「帰ろう、帰ろう」
それらのグループは肩にかばんをかけると教室のドアから出て行こうとした。
「学級委員会を何だと思っているのよ」
女子生徒が金切り声を上げた。
ニヒルな生徒たちが出口のところで通せんぼをしている。
「帰ろう、帰ろう」
「帰んじゃねぇよ」
入り口のところでもみ合いになった。しかし、活発で遊び好きの生徒たちは彼らをふりほどくと廊下を駈け抜けて行き、だいぶ離れたところであかんべぇをした。
「ちきしょう、あいつら、逃げやがって」
「いいよ、いいよ、ヨン様の解剖はこれからだ」
と教室に残った生徒たちはヨン様を捜したが教室にはもうヨン様はいなかった。さっきのどさくさに紛れてヨン様は逃げ出していた。
最初に教室から逃げ出した中一たちが川のはたを猫じゃらしで遊びながら歩いていると、うしろから人が来て紙片を渡した。
それはヨン様だった。
ヨン様はにっと笑うとすたすたと向こうの方に行ってしまった。
紙を受け取った生徒たちがその紙片を開いて見ると
 さきほどはかたじけない。
 大した問題ではないが、騒ぎを起こしたくないので
 好都合であった。
 余の本当の身分はいずれ明らかになるであろう。
と書かれていた。
*************************

第八回
三人の馬鹿たちが肩から下げた布かばんをぶらぶらさせながら、龍中からの帰り道、猿恵比寿神社の横を通り過ぎようとすると、神社の神殿の階段のところで腰掛けて鯛焼きをほおばっている女がいる。それはKK子だった。この神社は猿であり七福神の一人である恵比寿を同時に敬っている。つまり、猿の顔をした恵比寿が神体として飾られているという、ある意味では非常に罰当たりな神社なのだが、そのことのために少し有名である。その神社の横に戦後まもなく始まったという鯛焼き屋がある。KK子はそこの鯛焼き屋で鯛焼きを買って食べていたのだ。
その鯛焼き屋も少しだけ有名である。
三人の馬鹿たちは階段に座っているKK子の両隣に座った。
「お前、また、御熊屋の鯛焼きを食べているの。あきもせずによく、ここの鯛焼き屋でしか、鯛焼きを食べないんだな。商店街の方にも鯛焼き屋があるじゃないか」
「鯛焼きはここで買うことに決めているんだもん」
KK子がその店で鯛焼きを買いだしたのは小学校の頃からだから、だいぶ年月が経っている。
KK子は本当に少し変わっていた。
階段の中段にKK子を真ん中に挟んで、右側に仲村トオルが左側に別所哲也とルー大柴が座っている。
「お前、あんまり、熱くなるなよ」
右隣に座っている仲村トオルが隣に座っているKK子に向かって話しかけた。
「そう、そう、相手は大人なんだし、先生なんだからな」
「議論したって、勝ち目はないよ」
左隣に座っている別所哲也もルー大柴もKK子の方を見て、繰り返した。
「何で、勝ち目がないのよ」
KK子は今度はルーたちの方を見て睨んだ。
「ほらほら、熱くなってるじゃねぇか。熱くなってるよ。お前」
仲村トオルはKK子の方を見て、目を細めた。
「熱くなっていないって」
ぷりぷりしてKK子は仲村トオルの方を睨みつけた。
それは社会の女教師とKK子のあいだで起こった出来事だった。
それは思想闘争というものだろうか。理論的なものではなかったが、やはり、思想闘争と言ってもいいだろう。むずかしい理屈があるのではなかったが、社会的な側面があった。しかし、話しのきっかけは、全く、事務的な事柄から始まっていた。
職員室に何かのことで生徒たちが大量に同時に訪問した、と言うよりも抗議に行ったという話しから始まった。
社会の女教師はそのことから話しを始めて、社会一般の時弊に話しが及び、最終的には社会のあり方について話しが及んでいた。
馬鹿三人たちには何の話しかわからず、要するにある教師が抜き打ちテストをおこなったということなのだが、馬鹿三人には何の通弊もなかった。どんなひどい点数をとっても馬鹿三人たちは何も感じなかったからだ。
その女教師の話は右の耳から入って、左の耳に抜けて行った。
しかし、突然にKK子は立ち上がると、その女教師に論戦を挑んだのである。
「ぎょぎょ」
仲村トオルはKK子の顔を見上げた。
教室の中ではKK子ひとりが立ち上がっている。
別所哲也もルー大柴もKK子、何を血迷ったのか、という顔してKK子の顔を見ていた。
「先生の意見は間違っていると思います」
ルー大柴は立ち上がったKK子のスカートの裾を引っ張っている。
「何が間違っているのですか」
その女教師は受けてやろうじゃないの、という顔をしてKK子の方を見ていた。
「あちゃー」
仲村トオルは自分の眼を両手で覆った。
ときどきKK子は訳のわからないことをする。
「何、興奮しているんだよ、馬鹿が」
仲村トオルはどうしていいかわからない気持ちがした。
別所哲也は口を押さえ、ルー大柴は耳を押さえ、仲村トオルは眼を押さえている。本当に見猿、聞か猿、言わ猿だった。
しかしながら内心では、仲村トオルはKK子が勝てばいいと思った。
しかし、三馬鹿たちには彼女を応援する方法も手段も思いつかなかった。彼らは論旨を展開して行くことも、相手をやりこめるような少しもむずかしい言葉が思いつかなかったからである。
だから、いつも違って少し、むずかしい顔をしてその教室の中でだんまりを決めているしかなかった。
そして、はたと思ったのだが、もしかしたら、KK子はこの女教師のことが好きなのかも知れないと思った。
そして、授業の終わり頃になって、女教師は
「KK子ちゃん、あなたはまだ若い、きっと大人になったら、あのとき、あんなことを言ったけど、振り返って見ると、恥ずかしいと思う日が来ると思うわ。でも、純粋だったと懐かしいと思う気持ちと一緒にね」
と言って教室を出て行った。
だから三人はKK子をほって置けないのである。ダイヤは地球上で一番固いが衝撃には弱いからすぐ傷つく、だから宝物なのである。
考えて見れば、KK子の後ろにはいつも馬鹿三人がついていた。
ルーが三人の会なんて言う勝手な思いつきなんかを考え出す前からである。そして、それがどういう意味があるかなんて事も馬鹿三人組は意識していなかった。
「お前、ときどき、意味もなく熱くなるからなぁ」
仲村トオルは笹の葉の枝のところを噛み噛みしながら、神社の杜の木々のあいだから漏れ広がる空を見上げながら言った。
「本当、本当、おかしいよ」
「おかしくない」
「お前、***先生のことが本当は好きなんじゃないの」
「好きじゃな~~~い」
「好きだから、つっかかっていたんじゃねぇのか」
「うるさいわね。あんた達」
「KK子には平井堅もいるし、いいなぁ」
「平井堅のことを言ったら、殺すからね」
「殺すって言っちゃだめだって先生が言ったからな」
KK子はちょっと気が変わったのか、かばんの中からチケットを四枚取りだした。
「これから、お台場に遊びに行かない。チケットを四枚、貰ったのよ」
それはプラネタリゥムの入場券だった。
四人はお台場に遊びに行くことにした。そこに行くにはちょっと変わった鉄道が走っていた。
すっかり中学校での出来事も忘れて四人はモノレールにも似た電車の車窓から見える一風変わった景色の変化を楽しんでいた。
プラネタリゥムは大きなアミューズメントセンターの中にあり、電車の中からその丸い天蓋の姿は見えていた。
中に入ると、受付のところで受付の女が、女性の方が一人で入るときは隣に変な人が座ることがあるから気をつけるようにと言った。
「大丈夫、俺達三人でガードしているから」
と三人の馬鹿たちが言うと受付の女は変な顔をした。
四人がKK子を中に挟んで座ると、客席はじょじょに暗くなった。
そして天井に星がまたたきはじめ、地平線に地上の姿が切り絵として映っていた。
最初に神話が語られ、カシオペアやアルタイや、大きな赤いサソリが星たちを結んでその形がイラストで現れた。
「この声、何か」
ルー大柴が小声でつぶやくと、しわぶきが起こり、また、ルー大柴は黙った。
それから織り姫、彦星の話しになり、明らかに創作だろうと思われる恋愛話が語られ始めた。
別所哲也はその声を聞いたことがあるような気がして、その創作話しもどこかで聞いたことがあるような気がした。
仲村トオルも何となく、そんな感想を抱いていたが、それよりも関心のあるのはKK子の星を見つめる横顔だった。
KK子の瞳は潤んでいる。明らかに湿り気を浴びている。
そのとき、KK子が急に顔を横にして仲村トオルの方を見たので、仲村トオルは見てはいけないものを見た気分がして、ふたたび、天井の方を眺めた。
やがてあたりが明るくなり、座席も通路もはっきりと見えた。
四人は帰るために通路の方に出た。
「おい、あの声に、あの話し、聞いたことないか」
ルー大柴がそう言うと通路の前の方から身を隠すようにして出て来た男がいる。
明らかに四人の目を避けているようだった。それは小柄な男で、タイガー・ジェット・シンのように何者か見えないものを怖れて両手で覆った頭を制御不能なうなぎでもつかまえたように動かしている。
「おい、あれ」
別所哲也がその男を指さした。男はやはり、見えない天上の神を怖れるようにして、両手で顔と言わず、身体中を隠そうとしている。「猫ひろし先生じゃありませんか」
四人は隠れようとしているその男のそばに行った。
「先生、ここで何してるんですか」
「君たちかニャー」
猫ひろしは彼らに会いたくないようだった。
「先生がナレーションをやっていたんですか」
猫ひろしは四人の姿を正視しようとしなかったが、とくにKK子と仲村トオルの姿を見ようとしなかった。
「やっぱり、先生だったんですね。あのナレーションの声も恋い話も聞いたことあるよ」
「でも、何で、ここでそれをやっているんですか」
「小学校をやめて、ここに勤めることにしたんだよニャー」
猫ひろしは四人の小学校時代の担任であった。
天文クラブの顧問を勤めていて、教室の中を真っ暗にして星を天井に映したり、神話を語ったりした。
その中で自分の創作した恋愛話なんかもした。
ルー大柴も別所哲也もその話しを覚えていた。
しかし、猫ひろしは明らかに四人を避けていた。
特に、仲村トオルとKK子を。
「済まないことをしたニャー。済まないことをしたニャー」
猫ひろしはやはり申し訳なさそうに頭を手で隠している。
そして、ときどきその手の透き間からかつての教え子たちを自分を罰するゼウスの神のごとくに盗み見ているのだった。
「ごめんね。帰らせてくれニャー。帰らせてくれニャー」
猫ひろしは四人を振り切って非常口の方に走った。
「猫ひろし、どうしたんだろう。あんなに済まながって」
猫ひろしの顔には明らかに慚愧の念が現れていた。
顔をハンケチで拭いながら、非常口をかけおりると、牧師のかたちをした中学生が待ちかまえていた。
「あなたは猫ひろしかニダ」
「そうだけどニャー」
「心に何か、重いものを背負っているようニダ。告白するニダ。告白するニダ」
「何でニャー」
「何ででもニダ」
猫ひろしは顔の汗をぬぐった」
「心のとげを刺激する人に会ったニダ。だからあなたは苦しんでいるニダ。告白するニダ。そうすれば心は軽くなるニダ」
「あなたに告白すれば本当に心が軽くなるかニャー」
韓国人と猫の闘いだった。
「本当ニダ。中学生に四人、会って来ただろうニダ。その中のふたりに顔を合わせられないくらい、慚愧の念を抱いているだろうニダ」
すると猫ひろしはその場に崩れ落ちた。
「あなたがどなたかは知りませんが、何事もお見通しですニャー。その話しをすれば、心が軽くなるなら、話しますニャー」
「話すニダ。話すニダ」
「わたしは以前、小学校に勤めていました。そして担任も務めていて、さっきの四人の中学生もわたしの教え子なんですニャー。そして、天文クラブもやっていて、あの四人もそのクラブに入っていましたニャー。私設のプラネタリゥムなんかもやっていました。その中で生徒たちにとくに受けたのが恋愛話でしたニャー。そこでわたしは罪を犯しましたニャー。恋愛絶対占い、というのもやっていました。それはある金属片に光を当ててある人物の名前が浮かび上がったら、その人が運命の人でその金属片を金時山の頂上に生えている一本杉の根本にタイムカプセルに入れて埋めたら、その恋いは成就するだろうと言いました。そして、金属片をあの中学生になったKK子がまだ小学生のときに与えたのです。しかし、わたしはあの娘をからかってやろうと思って、仲村トオルの名前が浮き出るようにした金属片を与えたのです。その作り方は昔の古代の鏡を作るやり方と同じです。KK子はすっかりと信じているようでタイムカプセルにそれを入れて木の根本に埋めました。それから、小学生にはわからなかったでしょうが、大人のわたしから見ると、明らかにKK子は仲村トオルに心を奪われていることがわかりました。あの娘はそれを真に受けていたんですニャー。大変なことをしてしいまったニャー。しかし、中学になればそんなことは忘れるだろうと思っていたのですが。KK子と仲村トオルがここに来た驚き、ああ、わたしはどうしたらいいのだろう。KK子が仲村トオルを一生の伴侶に選んだりしたら、私はおろかだったニャー。でも、あなたに告白して、わたしの心は軽くなりましたニャー。よろしければ、あなたのお名前をお聞かせくださいニャー」
すると中学生は答えた。
「ヨン様ニダ」
**************************

第九回
理科の授業が始まる前の教室移動の時間に、まだKK子は自分達の教室にいた。理科の授業は実験があることがある。鮒の解剖があることがある。それに何よりもアルコールランプやブンゼン燈と言った火を使うことがある。それに鮒の解剖をしたら解剖皿を洗わなければならない。個々の机に水道の施設がついていなければならない。普通の教室にはそんな設備は整っていない。だから、だいたい教室を移動して実験の出来る設備の整えられている理科教室に移動してその教室で授業を受けるのがつねだった。
理科の授業のときには理科の教科書のほかにノートや理科の実験のためのワークドリルのようなものも持って行く。
教室の三分の二くらいの生徒はすでに理科の実験室に移動していた。
でもKK子はまだ自分たちの教室に残って前の方の席に座って芸能雑誌を見ていた。興味を持っていた芸能人が海外に移住するという記事があって、その記事に目を通していた。
すると、うしろの方でひそひそ声が聞こえた。
実はひそひそ声で聞こえないような大きさで話しているのだが、それがかえって聞かせたいがために話しているような節があった。
だからKK子はかえって、その話し声が耳についた。
教室のうしろの方の席で女子学生たちがたむろして話している。
「ねぇ、噂、知っている。うちの男子で馬鹿みたいな三人がいるじゃない。つっぱりのふりしてるけど、からっきし弱い連中」
「ルー大柴たちでしょう」
「そうそう、あの馬鹿三人よ」
「どうしたのよ、何か、あいつらがまた、馬鹿にされることやったの」
「まあね、いつも三人、一人じゃ何にも出来ないのか、一緒にいるじゃない。馬鹿みたいに。知ってる、あいつら女も共有しているのよ」
「共有。それってどういうことよ」
「やらしいわよ。三人でひとりの女を共有しているってことよ」
「どういうことよ」
「あんた、子供ねぇ。そんなこともわからないの。一人の女を三人で楽しむってことよ」
「やらしい」
「女ってだれ」
「わたしが言わなくても、わかるでしょう。あの女にいつも三人で金魚のふんのように、くっついて歩いているじゃない。ルー大柴と別所哲也、それに仲村トオルよ。噂によると三人にやらせているらしいわよ。それに三人を同時に相手にしているかも知れない」
バンと机の上に教科書をたたきつける音がした。
KK子は立ち上がるとその連中を振り返って睨みつけ、教科書を胸に抱きかかえると理科実験室の方へすたすたと歩いて行った。
理科室の中に入ると一番前に座っている眼鏡をかけた小柄なお金どんぐりみたいな顔をした写真部の生徒をつかまえて問いただした。
だぶだぶの学生服を着た目玉すべてが黒目みたいなその生徒は瞳いっぱいにKK子の顔を見つめた。
「三人組、どこにいるの」
KK子の顔が彼の前にせまって来る。彼の目の前に広がる景色の三分の二がKK子の顔になった。
「ど、どうしたんだよ。急に」
「だから、三人組はどこにいるのよ」
「三人組は知らないけど、トオルは実験室の中に入って行ったのは見たぜ」
KK子はきびすを返すと理科実験室のドアをいきおいよく開けて、中に入った。さがす相手は窓ぎわの実験机の前で外の光を浴びながら、膨張実験用の鉄球が鉄の輪の中に入って出られなくなったのを取り出そうと四苦八苦していた。いたずらをしているうちに鉄球が出なくなってしまったので見つかったらやばいと思って取り出そうとしていたのだ。へたに鉄球を無理矢理引っ張り出そうとすればそこについている鎖が切れるかも知れない、そうすればおおごとである。先生に大目玉を食らうのは必定だ。KK子は鉄球とじゃれている仲村トオルを見つめた。
仲村トオルとKK子の視線は突然、結ばれた。
「KK子」
「トオルくん」
理科の膨張実験用の鉄球を持った仲村トオルの姿はかなり奇異だった。
「どうしたんだよ」
仲村トオルは鉄球をまだがちゃがちゃさせている。
「なんでもない」
「でも、ちょっと、怒っている顔しているけど」
「そうかな」
「何か、あったのかよ」
KK子は少し、媚びをふる表情を見せた。
「ルー大柴くんや別所哲也くんと、それにあなたの三人で私を守ってくれるための三人の会を作ってくれたというのは確かにうれしいわ」
ここで、仲村トオルはお前に男が出来ないようにさせて、シンデレラクイーンの応募資格をとらせるためだとは言えなかった。
「まあな、四人は幼なじみだからな。まっ、まっ、まあ、まあ」
「でも、ボーイフレンドってふつう、一人じゃないの。特定の相手と言ったら、何か、一対一が基本じゃないの」
「まっ、まあな、まあな、まあな」
仲村トオルはKK子の真意がわからず、まだ鉄球をがちゃがちゃさせいた。
「三人の会って存在はたしかにありがたいわ。でも」
「でも、何か、あったのか、お前」
仲村トオルは急にもよおした便意をこらえている人のように足をきゅっと締めた。
「変な、噂を立てる奴らがいるのよ。わたしが三人の男をいいように操っているって。それに操り方もひどいやり方をしているって。それも三人に自由にやらせているから、三人の男がついているんだって、ひどいのは三人、同時にやらせているって言う奴もいるんだわよ」
「えっえっ、何だよ、お前、まだ、中学生だろ、そんなこと、そんなこと、・・・・・・・・・」
仲村トオルは絶句した。
「いい、許してあげる。でも、三人の中で誰が一番・・・・」
「あっ、あっ、あっ・・・・・・」
仲村トオルは次の言葉を聞くのがこわくてKK子を制した。
KK子は無言で仲村トオルを見つめた。
それからKK子は少し悲しそうな目をして理科実験室のドアを開けて部屋を出て行こうとした。
仲村トオルは何か取り返しもつかないような高価なものを失うような気がした。
「KK子」
仲村トオルはKK子を呼びとめた。
「何よ」
「いつも、いつも、いつも、いつも、お前を応援しているからな」
「ありがとう」
KK子は微笑みながら理科実験室のドアをパタリとしめた。
「どうしたの。どうしたの」
「今、KK子の声がしたんだけど」
実験室の奥の方で理科の教師たちが慰安旅行で湯河原に行ったときに浴衣姿で地元のコンパニオンを呼んで馬鹿騒ぎをしたとき撮影されたスライド写真を盗み見ていたルー大柴と別所哲也が顔を出した。
「今、いたのKK子だろう」
「応援しているって言っていたね。俺達も応援していますよ。KK子がシンデレラクイーンコンテストで優勝するの」
「そんな意味じゃねえよ」
仲村トオルは急に怒った。口をとがらせた。
「トオル、何、怒ってるんだよ」
「変な噂が立ってるって知ってるかよ」
「どんな噂」
「KK子に関してだよ。KK子がやらせてくれるから俺達三人があいつにくっついているんだよって噂だよ。それだけじゃねえぞ。KK子の使い古しのパンテイを俺達が毎週一枚づつ貰っているとい噂もあるんだ」
仲村トオルはひとつ作り話を加えた。
「何だ、じゃあ、俺達があいつに恋人が出来ないためにくっついているって、あいつに恋人が出来たら大変なんだ、シンデレラクイーンコンテストの資格がなくなっちゃうからね、そうしたら、俺達にまわってくるおこぼれがなくなっちゃうからね。そういうことだろう。もちろんKK子は幼なじみだけどさ、そのことをみんなに言えばいいじゃないか」
「馬鹿、そんなこと出来るかよ」
仲村トオルの瞳の中にあきらかに押さえがたい怒りが生じているのを見てとった別所哲也だったが、その怒りというのも仲村トオルの内心の何かに向けて発せられたそれだったということは別所哲也にもわからなかった。
「じゃあ、その噂の出所を確かめてとっちめてやれば」
「そんな事、出来るかよ」
仲村トオルは膨張実験用の鉄球を握りしめた。
ルー大柴が苦しげに顔を上げた。
「実はな、恭子の奴がどうして、KK子のうしろを金魚のふんみたいにくっついているか、きっと一人じゃ相手にされないから三人で一緒になってKK子の相手をしているのね。つまり、君たちは三人で、やっと一人分なんだって言われたから、俺、頭にきちゃったから言ってやったんだ。ふん、そんな理由じゃねえよ。KK子はすきなときにやらせてくれるんだよ。だから三人でいるんだ。三人、一緒にやらせてくれるときもあるんだぜって言っちゃったんだよ」
すると、突然、別所哲也が土下座した。
「俺も同じこと言った」
ふたりが土下座した。
見ると、仲村トオルの目もうるんでいる。
「すまん、俺も同じこと言っちゃったんだ」
三人は肩を組み合って頭をたれた。
その日の晩、月の光を受けている庭の棕櫚の木を眺めながら鳳凰中大番長、平井堅はKK子の姿を頭に思い浮かべていた。棕櫚の木の背後には大きなしゃれた高い壁でおおわれている。大邸宅の趣のある庭だった。そして、それを振り払うように空手の演舞を始めた。平井堅は空手の達人でもあった。平井堅は札付きの不良だったが家は平井モータースの跡継ぎでもあった。平井モータースは海外でも歴史に名が残る名車ヒライスター3というスポーツカーを売って外貨を稼いだ日本で二番目に大きな自動車メーカーである。そして平井堅は大財閥の跡継ぎでもある。
「堅ちゃん、お電話ですよ」
電話の子機を持ってやって来た平井堅の母親が平井堅に子機を渡した。
「それにしても、政夫ちゃんはいつになったら帰ってくるんでしょうか」
「お母さん、心配ありませんよ。気が向いたら帰って来ますよ」
「そうかねぇ」
「それより、誰です。電話の相手は」
「彩ちゃんよ」
「そうですか」
平井堅は電話を受け取ると耳につけた。
「もしもし、平井堅です」
「堅くん、彩で~~~す」
「上戸彩ちゃんか」
「最近、何で会ってくださらないの」
「何でって、理由はありません」
「理由がなくはないわ。あなた、本当に愛している人がいるんでしょう」
「あなたには関係のないことです」
「関係のないことはないわ。わたしが原因じゃないの。弟の政夫くんがいなくなったことも」
「本当に関係がありません」
「わたしを忘れないで、あなたの気の迷いよ。弟の政夫くんがいなくなったのもみんな事故よ。あなたが悪いんじゃないわ。だから、あなたには変な気の迷いが起こっているのよ」
「弟の政夫のことは関係がありません」
「違う、違う、弟の政夫くんのことであなたは頭がおかしくなったのよ。それであの女のことを」
「関係がありません」
「違う、そのことが関係しているに違いない。そうなら、そのきっかけを作ったのはわたしだわ、もし、そうならその心の傷は私が治すわ。あの女じゃなくて」
「そうではないってば」
ここでふたつの電話のあいだに沈黙が支配した。
「じゃあ、一番、悪いのはあの自転車屋ね、武田鉄也なのね」
電話の向こうで上戸彩は怒っているようであった。
******

第十回
同じ時刻、常時休業中の喫茶店「サタンの鼻」の中では龍中大番長、假屋崎 省吾が作戦会議を開いていた。
假屋崎 省吾以下、子分たちはサタンのお面を被っていた。
窓はみな遮光カーテンで閉じられて、部屋の中には黒い重厚なCDプレーヤーと音響アンプ、海外製のスピーカーが置かれ、部屋の中には鑑賞用の,熱帯植物が置かれている。
部屋の片隅にはブランデー入りの紅茶とベルギーのお菓子が山盛りに盛られている中にジャズが流れている。
假屋崎 省吾はお菓子をひと囓りすると、真ん中に置かれた大きなテーブルの上に置かれた、龍中、鳳凰中、虎中のの勢力図の上に覆い被さるようにしてその地図を指し示した。
「今晩は東B地区担当、彦麻呂から重要な報告がある」
大番長 假屋崎 省吾から名指された彦麻呂は目をぎょろりとさせて関西弁で話し始めた。
「わたしが大番長から説明のあった彦麻呂です。ふだんは料理番組のレポートをしていまっせ。大番長の命を受けて、虎中大番長のチェ・ホンマンの調査分析をしてまっせ。もう、半年ぐらい、それにかかりきりでやんがな。それでチェ・ホンマンのある特徴を見つけましたんでんがな。主に僕はチェ・ホンマンのこの地区での出現頻度を調べてますやんけ。それである法則を見つけたちゅう訳でがんな」
「それはどういうことだ」
「ちょっと待ってくれや」
彦麻呂はそう言うと自分の後ろの方から透明なシートを取りだした。透明なシートの上には黒い点がたくさんついている。しかし、その点も一様についているわけではなく、ある部分には集中しているし、密度が薄くなっているところもある。
そのシートを彦麻呂は机の上にひろげるとちょうどぴったりするようにこの地区の勢力図の上に重ねた。
假屋崎 省吾も子分たちもその重ねられたシートをのぞき込んだ。
「見てください。明らかな特徴があるやないか」
「たしかに、この地区にありながら、点がまったくついていない場所がある。そこだけ空白になっている」
「その空白には決してチェ・ホンマンは近付かないということを意味しています」
「その空白の中心は何があるのよ。勿体ぶらないで教えなさいよ」
「大番長、大発見ですって。その空白の中心にはちんけな自転車屋があるんですよ」
「その自転車屋の名前は」
「武田鉄也自転車店」
************
駅の真ん前にある軽食屋カトレヤでいつもの四人組はカレーライスを食べた。テーブルの上には小さなガラス製の容器に入れられた福神漬けが運ばれて置いてある。窓からは散髪屋のぐるぐる回る看板みたいなものが見える。それだけを見ているとアラビヤに来ているような気になるのだった。
カトレヤは二階にあり、一階はレコード屋になっている。
別所鉄也が買いたいレコードがあるというので三人はついて来たのだ。ついでに二階の軽食屋でカレーライスを食べた。
四人はそこに自転車屋でやって来た。一階の道路に面したところに自転車がとめてある。カレーライスを食べ終わった三人は夕暮れの駅前に停めた自転車にまたがると家に向かって自転車をこぎ始めた。
駅の端に瀬戸物屋がある。その隣は映画館がある。映画館には赤い大きな海老が描かれている看板がかかっている。海洋物の映画のようだった。その映画館の前に電話ボックスがあって、その横を曲がると石で出来た小さな橋があって、その橋の下には小さな川が流れていて、水の中には魚が泳いでいる。水も綺麗だったし、泳いでいる魚もきれいだった。
四人はその橋を渡って小学校の横を走り抜けた。
一人だけ自転車が遅れていた。スピードが遅い。
「お~~~い、早く来いよ」
別所哲也がうしろを振り返りながら、ルー大柴に声をかけた。
「何か、空気が抜けているみたいなんだよ~~~~」
うしろの方からルー大柴が大声を上げたので前の方を走っている三人は自転車を止めた。
「何か、タイヤの空気が抜けているみたいなんだけど」
「このさきに自転車屋があったわよ。そこで空気を入れれば」
「そうするよ」
四人がゆっくりと自転車をこいで行くと、自転車油で店中が汚れたような小さな自転車屋があった。
店の看板には「武田鉄也自転車店」とかいてある。
「ここで空気をいれれば」
KK子が自転車からおりて振り返るとルー大柴に言った。
「自転車屋さ~~~~ん」
ルー大柴が声をかけると小さな女の子がピンク色の合成樹脂で出来たわけのわからないおもちゃで遊んでいて、四人を眺め回したあとで店の作業場の奥の方に入って行って、奥の方でおじいちゃ~~~んと呼ぶのが聞こえた。
中から片手に味噌を塗りたくった握り飯を抱えて、もう片方の味噌のついた指をなめながら年寄りが出て来た。かれらの姿を認めてもやはり片方に握り飯を握り、片方の指についた味噌をなめている。彼らの前に来ると、年寄りは握り飯を半分ほおばった。
「空気入れてください」
KK子が言うと
「十円、持ってる」
「十円ぐらい持ってますよ」
「ポンプを動かすからね」
また老人は奥の方へ行った。そして何かの電源を入れたようだった。
小さな振動音が微かに響いている。
空気が出てくる管を持って奥から出て来た。
「空気、入れてください」
「どの自転車」
「これこれ」
ルー大柴が自分の自転車の後輪を指さした。
「まず、十円ちょうだい」
老人は黙って手を差し出すと、KK子がその手の平の中に十円玉を落とした。
老人はこれほどうれしいことはないという顔をして、顔をにっとした。
「よくパンクしていることがあるんだ」
「パンクはしていないと思います」
年寄りはスタンドを上げたルーの自転車の後輪をくるくると回すと空気バルブのあるところをつかんでふたをはずすと空気の出てくる管をつなぐと凹んでいるゴムタイヤはみるみる膨らんでいく。
「おじいちゃん、また、わたしのお医者さんごっこに使うゴムの管、使ってる」
さっきの女の子が怒りながら空気ポンプのはじっこを握りながら外に出て来た。
年寄りは振り返りながら空気ポンプのさきっぽを持ちながら空気を入れている。後輪のチューブの中には空気がまだ送り込まれている。
「なっ、なんだ。このじじいは」
「えっ、えっ」
四人は年寄りをじっと見つめているが年寄りは何事も起きていないように自転車の後輪の前でかがんだまま空気を入れている。
「タイヤに空気、入ったよ」
不思議である、エネルギー不滅の法則というものがある。熱や運動のエネルギーの総量は不変であるという法則である。ものすごい巨視的世界やその反対の微視的世界からすればそのエネルギーも物質の質量に変わるという、しかるにこの世界は日常世界である。空気がどこからか生成されるということがあるだろうか。それとも化学変化が生じているというのか。言葉の意味からすれば空気ポンプの管から空気が出てくるのは何の不思議はない、空気ポンプの管というものを老人が持っているのだし、空気ポンプが動いているからだ。しかし、空気ポンプと管がつながっていないのにそこから空気が出てくるというのはどういうことだろうか。
「おじいちゃん、今度、人のゴムチューブ、無断で使ったら、ただじゃすまないからね」
女の子はあかんべぇをすると、それのお返しに年寄りの方もあかんべぇをした。女の子は片手に人形を持ったまま奥の方へ行った。
「どういうこと」
KK子が言うと、三人が口を揃えた。
「知らん」
そのとき、店の前に黒塗りの高級車、リムジンが停まって、中から美少女が出て来た。
「あっ、市長のお嬢さん」
年寄りが顔を上げると花柄のワンピースを着た市長のお嬢さんが年寄りの方を見た。
「市長のお嬢さん」
四人組は市長の顔を選挙のときに顔がポスターに貼ってあったから見たことがあるがその娘を見るのははじめてだった。
「あなたが龍中のKK子さんとそのお友達ね」
「何で、私のことを知っているの」
「私は何でも知っているわ。私、あなた達とお友達になりたいのよ」
そこに立っている美少女は上戸彩だった。
「四人ともお乗りになったら、この車だったら四人、乗っても平気よ。うちにいらっしゃったら三時のお茶をさしあげますわ」
「行く、行く」
三人はすぐ行く気になった。
KK子も仕方がないのでその言葉に同意した。
高級リムジンはするすると動き出した。四人はこんなにも乗り心地の良い後部座席に座るのははじめてだった。車が加速を加えると座席のシートにどこまでも吸い込まれて行くようだった。
高級リムジンがついたところは貧乏人ばかりが住むこの市で唯一の金持ちが集中している場所だった。立派な門構えの家が並び、それらの家は大きな壁に囲まれていて、家の敷地の中には倉のある家ばかりだった。オーソン・ウエルズの大富豪の死の秘密を題材にした芸術映画、市民ケーンに出て来るような装飾された鉄扉が開けられてリムジンは庭の中に入って行った。まるで大きな薔薇の花が一輪庭の宙に浮かんでいるような感覚を四人は持った。
四人と市長の娘が大邸宅の玄関の前に立つと、横の方からインディアンの格好をした小学生が出て来て吸盤付きの弓矢を射るとルー大柴の額に命中して額には吸盤付きの弓矢がぶら下がったままになった。
「何、すんだ。このガキ」
「やめなさい、真之介ちゃん、お客様なんだから」
その小学生はあかんべぇをすると庭の茂みの中に消えて行った。
玄関に入ると、その中は教会の待合室のようだった。
向こうからひらひらした服を着た着飾った女が同じように着飾った服を着た女たちを従えて向こうからやって来る。
「彩ちゃん、桜美由紀さんの新作発表会に行ってくるから、留守番よろしくね。あら、そちらはお友達、彩ちゃんをよろしくね」
香水のにおいをぷんぷんさせながらその女たちは外に出て行った。やはり外に車を待たせているらしい。
「私のお母さんよ。これからファッションショーに行くらしいわ」
「お嬢様、三時のお茶のご用意は出来ています」
お手伝いさんが上戸彩のそばに来て言った。
四人が招待された部屋は二階にあった。上戸彩の個室だった。扉を一枚開けるとその奥にベットが置いてある寝室があるようだった。
明治時代に出来た図書館の待合室のように部屋のいろいろなところに装飾がなされている。テーブルの足はライオンの足みたいに変な曲線を描いていたし、本棚の扉の丸いつまみは宮殿を護衛する兵隊のボタンのようだった。
四人が丸いテーブルを囲んで座るとテーブルの上には紅茶とケーキが用意されていた。
上戸彩はフリルのついたカーテンのつりさげられた窓から外の景色を眺めた。
KK子は何故、市長の娘が自分たちのことを知っているか不思議でならなかった。
「わたしが何故、あなた達のことを知っているか不思議でならないようね」
「そのとおり」
別所哲也はフォークですくい上げられたケーキを口に運びながら上戸彩の方に目をやった。確かに自分たちと同じ年齢のようであるがどう考えても接点が思い浮かばない。
「まず、あのおじいさん、自転車屋の武田鉄也老人が空気ポンプも使わずにタイヤの空気を入れることが出来たかということを説明しなければならないわね」
「そのとおり」
上戸彩はまた遠い昔を思い出すように窓際へ行くと窓から見える景色に目をやった。
「まず、この市の特殊な事情はあなたたちも知っていると思うわ。この市の中学校はみんな三人の大番長、龍中の假屋崎 省吾、鳳凰中の平井堅、そして虎中のチェ・ホンマンの三人に牛耳られている。そしてこの三勢力は覇を競って拮抗状態にあることも。そのことをいつも頭の中に入れておいてちょうだい。そんな状態の中でわたしのお父様が市民ニッコリ顔コンテストという写真大会を開いた。素敵なニッコリ顔の写真を撮った人たちに副賞として中国、少林寺観光ツアーで二十人の市民を招待することに決めた。わたしもそのツアーに市の同行員として参加した。そのツアーにあの武田鉄也さんも参加したのよ。素敵なニッコリ顔の写真を撮った作品を送ってくれたからです。そして入賞したから。そしてこんなこともあるのかしら、虎中の大番長チェ・ホンマンもコンテストに入賞して、このツアーに参加していたのよ。わたしたちは成田空港を飛び立った。そして万里の長城を見たあとで少林寺に向かったのよ。みんなも知っているとおり、少林寺は達磨大師がお建てになった中国武術の発祥の地よ。中国拳法のすべての型はこの寺の中で確立したの。わたしたち一行はその歴史と精神を堪能したの。しかし、少林寺を訪れたその昼食時に事件が起きたの。少林寺の側でツアーのみんなの昼食を用意していたけど、みんなが達磨大師面壁の場所に来ていたときからおかしいと思うことがあった。その場所にツアーの全員が来ているはずなのに一人だけ来ていない人物がいた。それがチェ・ホンマンだった。でもわたしはそのことを全く気にしていなかった。みんなそこを見てからぞろぞろとお弁当を食べる場所に戻って来たらみんなのお弁当を一人で抱え込んでむしゃむしゃ食べている大男がいた。みんなのお弁当、一人で食べてる。ツアー参加者の男の子が叫ぶとその大男はじろりとにらみつけて、またむしゃむしゃと食べていたの。わがままな大男だ。わがままな大男だ、きっとあいつの庭には冬がやって来て、木枯らしが吹きすさび、地面には霜柱で覆われて、家の窓にはつららがつりさがってしまうぞ、ってまたその男の子が叫ぶと俺はみんなの二十倍大きいニダ。だから二十人分食べなければならないニダと言って顔を上げた。そしてまたお弁当をむしゃむしゃ食べ始めると不思議な顔をした。弁当の数、空き箱も含めて数え始めたのよ。十九ニダ。十九ニダ。弁当の数が一個足りないということに気づいたのよ。そして横の方を見ると木陰で隠れてこそこそと弁当を食べている人間がいる。それが武田鉄也老人だったの。それを見るとチェ・ホンマンの顔色は変わったわ。俺の弁当、食っているニダ。食っているニダ。チェ・ホンマンはその老人の方にずんずんと向かって行った。わたしの顔色は青くなった。老人がチェ・ホンマンに殺されてしまう。誰か助けて。すると少林寺の修行僧がぞくぞくとやって来てチェ・ホンマンを押さえにかかった。しかし、千年の武術の歴史はチェ・ホンマンに通じなかった。だって身体がでかすぎるんですもの。少林寺の修行僧たちはチェ・ホンマンに振りとばされてしまった。わたしは武田鉄也老人の死を確信したわ。しかし、弁当の空箱を下に置くと武田鉄也老人は仁王立ちになった。そして少林寺の型を取り始めた。鶴の型、蛇の型、猿の型、いろいろな型を取ったあとで右手の人差し指を前に出すと何かを指で突き刺す仕草を繰り返した。チェ・ホンマンは向かって行った。チェ・ホンマンの攻撃をかわした武田鉄也老人はチェ・ホンマンのへそに人差し指を突き立てた。そして言ったわ。風船になって飛んで逝け~~~~~~。そして、不思議なことが起こった。チェ・ホンマンの身体はみるみるふくれていくとぷかぷかと空中に飛んで行き、上空の気流に乗ってどこかに飛ばされて行ったの。きっと内モンゴル自治区の、どこかに飛ばされたとばかり思っていたけど、この市に戻って来ていることを知ったときは驚いたわ。お嬢さん、どんな生物でも鍛えられない場所があります。それはへそです。そこから空気を送り込むと何者であっても風船となってどこかに行ってしまうのです。武田鉄也老人がそう言うと少林寺の修行僧たちが集まって来たのよ。シーボー、シーボー、みんなはそう言いながら武田鉄也老人の足下にひざまづいた。彼こそが少林寺の武術者の中でただ一人、みんな風船になって飛んで逝け~~~~~~。を身につけた人だったの」
「それで空気ポンプを使わずにタイヤに空気を入れることが出来たんだ」
ルー大柴は妙に納得した。
「これは」
手紙を書く机の上に置かれた伏せた写真立てをひっくり返したKK子は驚いた。そこに平井堅の肖像写真が立っていたからだ。
それを見た上戸彩はあわててその写真を伏せた。
「何でもないわ」
上戸彩の頬は桜色に染まった。
「あれ、鳳凰中の大番長の平井堅じゃねぇか。この頃、しょっちゅう龍中に出没するんだよね。KK子に惚れちゃったらしいんだよ」
別所哲也がそう言うとKK子は余計なことを言うなという顔をしたが、上戸彩は心の中で苦しんでいるようだった。
上戸彩の心の中にまた、彼女の愛しい人、平井堅の顔が思い浮かんだ。
小さい頃から平井堅と上戸彩は将来を約束した仲だった。市長の令嬢と大自動車メーカー、大金持ちの跡取り息子、全くぴったりとした組み合わせだった。
しかし、どこかで歯車が狂った。
それは少林寺拳法の達人、武田鉄也の姿を上戸彩が見たことが出発点となった。
もちろん、上戸彩は三人の大番長の抗争を知っていた。
そして上戸彩は虎中 大番長 チェ・ホンマンが武田鉄也の秘技、風船になって飛んで逝け~~~~~~。によって上空の気流に乗ってどこかに行ってしまったのを目撃した。
上戸彩は自分の愛する婚約者、平井堅にこの市の中学すべてを制覇してもらいたいと思った。
そして武田鉄也にその秘技を平井堅に伝授してくれるように頼んだである。
市の金時山の頂上でその秘技の伝授が行われた。
長年の武道の修行のおかげで平井堅は一度でその技を会得することが可能だった。
上戸彩もその場所に来ていた。
さあ、風船の技はあなたに伝授しました。武田鉄也にそう言われて早速、ためして見ようと思って平井堅は不思議そうにこちらを見ている猫にその技を使おうとした。振り返ってその技を試そうとするとそこに猫はいなかった。彼が可愛がっている弟が何かおもしろいことがありそうだと思って彼らに見つからないように彼らのあとをついて来ていたのだ。誤った平井堅の指先から発する気は彼の弟のへそをめがけて命中して、弟は風船となって上空に上がって行き、その姿は点となり、いつか見えなくなっていた。
平井堅も上戸彩も愕然とした。
ふたりは武田鉄也に責任をとって貰おうと思ったが彼はいつの間にか逃げていた。
弟は見つからなかった。
そのことが平井堅の心に暗い影を落とした。
上戸彩にも平井堅を地獄から救うことは出来なかった。
平井堅は上戸彩を避け始めた。
上戸彩はもどかしかった。自分が何も出来ないことが。
しかるに、ある日、平井堅の顔に希望の光がほんのりとさしているのを発見した。上戸彩はそれが自分への愛のための希望の光だと思っていた。
しかし、事実は違っていた。
この伝説の大番長はKK子という女に惚れていたのだ。
上戸彩は平井堅の本心を確かめたかった。
あなたは誰かを愛しているのですか。
すると平井堅は答えた。
この愛の灯火を消したくないと。
そう言った平井堅のことを思うと上戸彩はたまらない気持ちになるのだった。
「あの目がうるうるしているんですが」
事情を何も知らないルー大柴が無遠慮にたずねた。
「何でもないわ」
そう言いながら上戸彩は目のあたりをこすった。
「この市が普通じゃない状態だということはあなたたちもよくわかっていると思います。中学校すべてが三つの派に分かれているなんて普通じゃないわ。わたしは市長の娘としてこの市をもっと良くしたいの。だからわたしに協力してくださいね」
「あそこ、あそこ」
別所哲也が窓の方を指さした。
「誰かが、こっちをじっと見ているぜ」
「ヨン様だ、ヨン様だ」
二階の窓際にヨン様がよじ登って、窓際にへばりつき、顔だけを出しながら、こっちをじっと見ながら、この部屋の出来事を盗み聞きしている。
「ヨン様、人の話を盗み聞きしちゃだめなんだぞ」
ルー大柴がそう叫ぶとヨン様はヘッと言って、二階からとび降りると脱兎のごとくこの屋敷の庭を走り逃げて、すぐに見えなくなった。 *********************
「人造人間の可能性があるか」
授業から脱線して理科の教師がフランケンシュタインの話しを始めた。
「人間の身体は機械であるから、やはり再生出来るという説がある。つまり死んだ人間を生き返らせる可能性だよ。機械と言っても有機化合物で出来ている機械だからね。しかし人は神の創造物であるからにして微妙精密な機械である。人間の手では作ることが出来ないくらい複雑な構造を持っているから、昔は再生出来ないと言われていた。しかるに科学の進歩によって人造人間の可能性も出てきた」
「先生の話しているのはフランケンシュタインのことですか。俺、それを映画で見たことあるよ」
窓から外に広がる空は曇り空となり、昼間なのに普段では信じられないくらいに暗くなっていた。黒い雲の中では雷のもとになる、陰イオンと陽イオンが互いに争っているようだった。雷がおこり、雨が降り出しそうな空模様だった。
「死人の身体をばらばらにしてくっっけて動くように出来るかということだな。人間の身体は筋肉で動く、その筋肉は電気信号で収縮と弛緩を繰り返すということを近代のイタリアの科学者ボルタが見つけた」
「でも、先生、その電気信号を送り出すもとになるものがなければならないと思います」
「それは人間の脳だよ。きみ、脳からその信号が送られる。だから、人間の脳さえ、生きていれば死人を、生き返らせることが出来る」
眼鏡をかけたまるこめ坊主のような優等生が教師の顔を見上げた。
「悪人の脳を使ったら」
「殺人鬼が出来るかも知れない。プロレスラーの屈強な部位をつなぎ合わせたら、恐ろしいような殺人鬼が出来るに違いないんだ」
理科の教師は眼鏡の奥の目をぎろりとさせて斜め上の方を眺めた。「本当にそんなこと出来るとは思えないよ」
「でも、そう信じている人間がいて新鮮で生きている人間の部品を集めようと思っていたら」
ここで教室中の生徒たちの表情が曇った。
この市にそう信じている人間が実際にいたのだ。
それはやごがたくさん住んでいる大きくて深い用水路のあるうち捨てられた化学工場の中が事件の端緒だった。その工場はすでに廃業されていて金網で囲まれた施設の中は無人だった。その工場の中には事件が起こる前にすでに死のにおいが漂っていた。悪魔がそこを誰知らずのぞき見ているようだった。
その中に入るものと言えば暇つぶしの種を探している中学生だけだった。その工場の中には人体に有害になるような薬品をたくさん造っていたという噂があって大人たちはそこに入ることを中学生たちに禁じていた。
まわりは森で囲まれているし、近所に住宅はないし、昼間から不気味な雰囲気が漂っていた。そこの金網を乗り越えて遊びに来た中学生たちがいた。彼らは工場の廃屋の中に入った。大きな蒲鉾型をした建物の地面の中になかば死蝋化した足が土中から出ているのを中学生が発見したのだ。
それは殺人事件だった。
犯人は意外な人物だった。
市の西北のあたりにクリーニング屋があり、中年の夫婦がやっていたのだが、突然、夫の方がなくなり、妻一人が切り盛りしているという店があった。その妻が犯人だった。妻が何かのことで口論となり、夫を殺害したのだった。この事件の特殊性というのがどこにあったのか、それはこの妻が狂人で人間をその頭部だけ保管して置けば再生出来るという宗教のようなものに入信していたことだっただろう。警察がその店の家宅捜査を行うと冷蔵庫の中に殺した夫の頭部があった。冷蔵庫の室内灯に照らされて死んだ夫の頭部がこちらを向いていた。そしてクリーニングに使うドラム缶の中に人間のばらばらにした死体部位が二三人分ぐらい見つかった。この犯人の話ではこのままでは夫の殺害の罪を問われると思ったので死体を再生させようと思って、人間の部位を集めるために殺害を繰り返したということだった。
この教室の中学生たちはその事件を思い出した。
「あなた方はあの嫌な事件のことを思い出しているようですね。でも、心配ありません。あの犯人は捕まって、すでに監獄に収監されているのですからね。むしろ心配なのは」
理科の教師は窓際に行くと窓をいきおいよく開けて校門の方を見た。すると窓際に座っていた生徒たち、ヨン様も見たのだが、校門のあたりを黒い業務用自転車が急に走り出すのを見た。男の背を丸めた後ろ姿が見えた。それは小太りの中年の男性のようだった。
「むしろ、心配なのは、変なおじさんです。すでにこの市の各所で目撃されています。みなさん、変なおじさんに気をつけてください。変なおじさんは甘言を持ってみなさんに近付いて来ます、ドラクエ3持っているんだけど、一緒にやらない。おじさんの家に来ない。やさしい言葉で近付いてきます。ケーキをごちそうしてあげるよ、おじさんの友達になってくれない、こんな言葉を信じてはいけません。それに変なおじさんは人気のない草むらのある空き地であの黒い業務用自転車の横に立っています。そして、ふたりきりになると態度を豹変させるのです」
「へんなおじさんは何をするんですか」
丸めがねをかけたクラスで一番背の低い優等生が質問した。
ルー大柴は聞いていてばかばかしくなった。すると誰かが言った。
「いたずらをするんだよ」
するとヨン様は急に首をすくめた。
「この前、変なおじさんに追いかけられたっていう友達を知っているよ。自転車に乗って追いかけて来たんだって、一生懸命走って、自転車が通れないような路地裏に逃げ込んで逃げ延びたんだって」
「大事にいたらなかったのですね、よかった。へんなおじさんの何よりも好きなものは男の子のおちんちんです。でも、女の子も安心してはいけません。変なおじさんは女の子も大好きです」
窓の外の雲はいよいよ黒くなり、この市の上に重く押しかかった。下校時間になり、KK子が下駄箱の前で靴を履き替えると今にも雨が降り出しそうな重っくるしい景色の中で校舎の出入り口のところでヨン様が立っていた。KK子はいったい誰をヨン様は待っているのだろうかと思ったが、それは自分ではないだろうとは思った。案の定、いつも元気のいいあの連中、つまり学級委員会で解剖されようとしたヨン様を助けたあの連中が来たとき、ヨン様の表情に変化があったのでKK子はヨン様が彼らを待っていたことを了解した。彼らが出入り口から走り出て行こうとするとヨン様は彼らを押しとどめた。
「今日はやごとりに行くニダか」
「そうである」
彼らは口を揃えた。彼らは薄汚れたズックで出来た肩掛けかばんをぶらぶらさせた。
「今日はやめといたほうがいいニダ」
「なんで」
「何でもニダ」
「いくらヨン様の忠告だからって僕らはきかないからね。こういう曇天の日の方がやごは水面近くに上がって来てとりやすくなるんだよ」
「どうしてもだめニダか」
ヨン様は困ったような顔をした。
「ごめんな、ばいばい」
彼らは校門を走り出た。
KK子はその様子を見ていたが、ちょっと目を離したすきにヨン様の姿は見えなくなっていた。
ヨン様って何てすばしっこいの、KK子はそう思った。
元気のいい連中はやごとりにやる気まんまんだった。やごのいる場所は例の化学工場の廃屋である。あそこの深い用水池の中にやごが自生しているのである。
彼らはいつものように工場を囲っている金網を乗り越えようと思っていつもの場所に来たが、その場所はいつもと違っていた。金網の下のところに大きな穴が開けられていて、そこにゾンビのような妖怪のゴム製の仮面を頭からすっぽりと被った大人が座っていた。
彼の横には捕虫網がたばねられて置かれている。
彼らはその穴から工場の中に入った方が簡単だと思ったのでそこから入ることにした。
彼らがそこから入ろうとすると大人が彼らを呼びとめた。
「きみたち、やごとりをするんだろう」
「おじさん、誰」
「僕は町の昆虫学者だよ」
ゴム製の仮面の下からくぐもった声で答えた。
「実はきみたちを待っていたんだよ。僕はおもにやごの生態を研究している。ここに置いてある網もそのための用意なんだ。君たちはやごを採るのが上手だろう。そこでどうだろう、この網を貸してあげるから、やごを僕のかわりに採ってくれないかい。一匹、十円で買い取ってあげよう」
その話しを聞いて彼らは顔を合わせた。彼らはそのことに何の疑いも持たなかった。よく、龍中の校門の前では竹で出来たじゃらじゃらと音を出す蛇のおもちゃや、閉じて開くといろいろと絵柄の変わるカルタをつなげたようなおもちゃや、ぜんまいで動くブリキの自動車、いろいろな動物のかたちになっている棒付き飴を売りに来るおじさんがしょっちゅう来ているからだった。
「悪い話しではない。じゃあ、網を貸してくれるかい」
彼らは網を手にとるとやごがうようよしている用水池の方へ向かった。用水池は一辺が十メートルくらいの四角で深さはどのくらいあるかはわからない。コンクリート製で水をためている垂直な壁面が下の方に行くと見えなくなっている。深いことは確かだ。彼らは網を持ってその中をのぞき込むとやごがうようよと動いている。
金網のところで例の大人が彼らをじっと見ていることも気づかなかった。彼らが網を用水池の澄んだ水の中に入れると屈折率の関係で網の柄は折れ曲がって見えた。
彼らが池の中をのぞき込んでいると誰かが背後に忍び寄っていた。荒い息づかいが聞こえた。彼らが後ろを振り返るとゴム製の仮面の下からよだれがしたたり落ちている。そして、大人はズボンのチャックを開けて自分のいちもつを出して、右手でそれをしごいていた。
「あっ、お前は」
彼らは口々に声を出した。
開けられた金網のところを見ると業務用の自転車が針金でしばりつけられていた。
「へへへへへへ、もうにげられないよ」
男は舌なめずりをしているようだった。
「おっおっ、お前はへんなおじさんだろう」
「今頃、気づいても遅いよ。可愛い子羊ちゃんたち」
彼らは一目散に逃げ出して金網をよじ登ろうとしたが中学生にはその金網は高すぎた。
ひとりの中学生はよじのぼろうとしてズボンを男につかまれてばだばたとした。
そのときである。蒲鉾型の廃屋の工場の屋根から高らかな声が聞こえた。
「へんなおじさん、お前の好物はこれだろうニダ」
高さ十メートルの屋根の上からチャックを開けた韓国人中学生が自分のいちもつを出すと空中でぶらぶらさせた。
韓国人中学生の声は雷を含んだ黒雲を背景にして朗々と響いた。
「はははははは、へんなおじさん、いや、はっきりとお前を変質者と定義するニダ、さあ、これをつかまえられるものならつかんでみるニダ」
韓国人中学生は自分のなにをつかんでぶらぶらさせた。
韓国人中学生は地上に降り立つとものすごいいきおいで走り始めた。変質者も平行に走り出す。そしてヨン様は急に方向を変えて用水池の方に向かって走り出した。
それを見ていた中学生たちは叫んだ。
「ヨン様、そっちはだめだ。用水池でおぼれちゃう」
ヨン様を追って変質者もものすごいいきおいで走り出す。
ヨン様が用水池にはまってしまう直前、ヨン様はジャンプをすると十メートルもある水面を飛び越えて用水池の向こう側に降り立った。変質者を水がさえぎり、そこで立ち止まった。
「お前の悪事を懲らしめるニダ」
ヨン様は鎖分銅をとりだすとぶんぶん回して向こう側から変質者に向かって投げつけた。
「うっ、ぎゃあ」
その鎖とおもりは変質者の身体に巻き付き、よろよろとよろけ、変質者の動きは停止した。倒れまいと身体の平衡を保とうとしてよろよろしている。その微妙な力の釣り合いのためにほんの小さな力だけで良かった。ヨン様がおもりを用水池の中に投げ込むとどぶんと大きな音がして水しぶきが上がった。大きな水しぶきは五十センチくらいあがり、水面に吸い込まれるようにそれは消え、水面の下の世界に変質者は行った。彼は水の中に飲み込まれて、そのかわりにぶくぶくと水の泡だけが水底から上がってきた。やがて水の底へその姿は見えなくなった。
ヨン様は用水池のふちに立つと満足気にその様子を見つめた。
*****************

第十一回
「何者かが、市の善良な市民をおびやかす変質者を始末した。**化学工場空き地の用水池の中で繰り返し性的犯罪を繰り返していた会社員****の溺死体が鎖分銅をぐるぐる巻きにされた状態で水死体として発見された。何者かがこの犯人を殺害したものと見られる。この男の被害者は市内だけでも十数人にもあがっていた。警察も一連の性犯罪に対してこの男の犯行だと的を絞って監視している最中だった。何者がこの男を殺害したのかは全く不明である。これで夜の外出も安心出来ると中学生の一部の保護者もほっと胸をなで下ろしている・・・」
上戸彩の父親である市長の大島渚は自宅のソファーに深々と腰を落ち着けながらこの記事を読んでいたが、家族にもこの記事のことを知らせたくて南米の鑑賞用植物の葉っぱの影から妻の小山明子の名前を呼んだ。
「明子、あの犯人が捕まったよ。それも犯人は殺されてしまったんだ。一体、誰が始末したんだろう。そんな人間がこの市にいるんだなぁ。長年、市長をしているけどそんな人間がいるなんてことは全く気づかなかったよ。まあ、議会でこの問題が追求される前に片づいてよかったなあ。市議会の連中、市長が市費を削って街灯の数を減らしたからそんな事件が起こったなんて言い出すしな、市長選のいい攻撃材料を与えるところだったよ」
「誰でしょうね。そんなバットマンみたいな人って」
小山明子はそのことが現実味もないように間延びした声で答えた。「夜、遅く出歩くことがあるから私も心配していんですよね。あら、パリから取り寄せたデザインの原画、どうしたかしら、あなた、ご存知じゃない。たしかにここに持って来たと思いましたけどね。ちょっと手を加えたいのよね」
「そこらへんにあるんじゃないか」
市長の大島渚は妻のまた金のかかる道楽の道具かと思って気乗りしない声で答えた。
妻の小山明子は夫の顔色にも無関心にマントルピースの上あたりを探していたが見つからないようだった。
そこへ野球帽を被った上戸彩の弟が樫の木で出来た立派な扉を勢いよく開けて入って来た。
「何だ、僕がつかまえようと思ったのに」
扉が少し開いていたのか上戸彩の弟はその話しを全部聞いていたようだった。
「子供が変なことを言うんじゃありません。逆にあなた変ないたずらをされちゃいますよ」
妻の小山明子はまたこの子変なことを言い出すという顔をして自分の息子を睨みつけた。
「変ないたずらって、どんなこと」
弟は野球帽のつばのさきをいじりながら上目遣いに母親の顔をのぞき込んだ。
「そりゃあ、変ないたずらよ」
小山明子はばつが悪そうに息子の顔を見た。
父親の大島渚はむっりと新聞を読んでいる。
「へん、本当は僕、知ってるよ」
弟はにやりと笑いながら小山明子の方を見た。その変化を見て小山明子は憮然とした表情をした。
「まあ、本当に口のへらない子ね。一体、誰に似たのかしら」
そこでむっりと新聞に顔を埋めていた大島渚は顔を紙面から上げて自分の妻に反撃した。
「そりゃ、お前だろう、大人しそうに見えて、屁理屈をこねるのがうまいのはお前の方だからな」
小山明子は自分の夫を睨みつけた。
「まあ、憎たらしい。あなたこそ、変な言い訳をこさえて、夜、遊びに行ってばかりいるじゃないですか。そして、いつも言い訳ばかりしている。本当にお仕事の相談なんだか、どうだか、わかったものじゃありませんわ。これでも私は清和源氏の血をついでいるのよ。あなたなんて、どこかの山賊の末裔じゃないの」
「楠正成も山賊の末裔だ」
大島渚はまた新聞の方へ目を移した。
高見の見物としゃれ込んでいた上戸彩の弟もここぞとばかりに口を挟んだ。
「お父さんもお母さんも、今どき、そんなの流行らないよ」
その場所にハーモニカがあったら弟はハーモニカを吹いていたに違いない。
「まあ、憎らしい、全く、へらず口を聞くようになったわね」
母親は自分の息子を睨め付けた。
「へん、僕のは一般民衆の意見だよ。僕の方が世間のことを良く知っているね」
弟は鼻のさきを尖らした。
「ふん、お前がそんな減らず口をきいてもおにぎり一つ握れないじゃないか」
「へん、珠美さんにオムライス作ってもらうから、いいよ」
珠美というのはこの家にいるまだ若いお手伝いさんである。
「ふん、わたしが夜食をお前のところに持って行かないように言っておくからね」
「お母さん、越権行為だよ」
上戸彩の弟は腕を組んで胸を張って抗議した。
「どこが越権行為なもんですか」
市長の大島渚は呼んでいた新聞を勢いよく閉じると
「ふたりともうるさいぞ。選挙民のみなさんには暖かい仲良し家族の市長というイメージで売っているんだからな。まあ、とにかく、市の安全を脅かすへんなおじさんがいなくなって良かったなあ。これでわしも枕を高くして眠れるよ」
と言った。市長の顔には本当に安堵の表情が現れている。
そこへ半開きになっているドアを開けて上戸彩が入って来た。
上戸彩の表情にはいつものような精気がない、それは最近ずっと続いている。
「彩、お前の通っている中学校でもあの事件のことは話題になっているかい」
大島渚は首をくるりと回して上戸彩の方を見たが、あまり、その表情に変化はなかった。上戸彩はその話題にほとんど興味がないようだった。何故か外界と自分の精神を遮断することを望んでいるようだった。
「何だ、元気がないな。どうしたんだ。まだ、中学生なんだから、変なダイエットなんかに凝るんじゃないぞ。女の子はぷくぷくしている方が可愛いんだから」
小山明子はテーブルの上にのっている紅茶茶碗にティーポットから紅茶を注いだ。
「そうよ。彩ちゃん」
「何でもないわよ」
紅茶茶碗だけを受け取って自分の部屋に戻ろうとする上戸彩が応接間のドアに手をかけようとすると、弟が馬鹿にするように声をかけた。音声としては聞こえないが弟は心の中で「へん」と舌打ちをしたようだった。
「姉ちゃん、失恋したんだよ。姉ちゃんに恋のライバルがいるらしいよ」
ドアに手をかけていた上戸彩はその手を止めるときびすを返して暖炉の上に置いてある弟の吸盤のついたおもちゃの矢を手にとって弟のところに行き、その吸盤を額のところに思い切り押しあてた。吸盤は弟の額にぴったりと吸着してぶるんぶるんと揺れた。
きっと吸盤のあとがついているに違いない。
「姉ちゃん、何するんだよ」
弟は涙声で抗議したが、上戸彩はドアをばたりとしめて出て行った。
大島渚と小山明子はその様子をおそるおそる見つめた。
「本当か、彩が失恋したというのは」
夫婦は顔を寄せた。
「本当だよ。僕が嘘つくわけないじゃん」
弟はまだ涙目になっている。
「失恋したということは、つまりだ。平井堅くんにふられたというわけか」
市長の大島渚は目をまん丸くして息子の顔を見つめた。
上戸彩の両親は上戸彩の恋人が平井堅だということを知っていた。両親公認の恋人である。平井堅は家柄も申し分ない。何しろ大自動車メーカーの跡取り息子であるし、平井堅自身にも問題はない、願ってもない相手である。
市長の娘と大会社の跡取り息子、これほど理想的な組み合わせはないはずである。
「彩が失恋したということは、彩が平井堅くんに嫌われたということか」
市長夫妻は息子から話しを聞きだそうとして御用聞きから貰った棒付きの飴を上戸彩の弟にしゃぶらせた。
「そういうことじゃないみたいだよ」
弟は棒付きの飴をなめながら答えた。
「じゃあ、どういうことなの」
妻の小山明子が心配気な顔をして自分の息子の瞳を見つめた。
「姉ちゃんのことを嫌っているというわけじゃないけど、もっと好きな人が出来たってことじゃない」
弟は足をぶらぶらさせながら答えた。
市長の大島渚はそのことが頭から離れなかった。市長の執務室に入ってもそのことが頭の片隅にある。はんこを押しているあいだのそのとぎれとぎれのあいだの空白にそのことが思い浮かんでしまうのだった。
「あら、どうなさったの。ミスター大島、考え事をなさっているようですわね」
金髪の胸もおしりもでかいグラビアに出てくるような外人女性がはんこを持ったまま空中で手をとめている市長の大島渚に対して声をかけた。
「タンポポ公園にあひる池を作るなんて、誰の要望なんだ」
大島渚は自分の眼の前に置かれている書類を見ながら言った。
その表情は明らかに内面のいらつきを現している。
「近所に幼稚園がありますわよね。そこの幼稚園長の要望らしいです。何ていう幼稚園だったかしら、そう、夕焼け小焼け幼稚園という名前だったと思いますわ」
市長の秘書が事務的に答えた。
「それだったら、自分の幼稚園の中にそれを作ればいいじゃないか」
市長の大島渚は八つ当たりして答えた。
「わたくしもそう思いますわ」
「だいたい、いくらぐらいかかるんだね。きみ」
「三十万くらいです」
秘書はその金額のことを覚えていた。
「ええええっ、三十万、そんな金があったら、クラブ、パープルシャトーに何回、行けるんだ。これは議会を通ったのかね、きみ、だいたい、どこの業者がこの工事を請け負うことになっているんだ。業者によったらこの書類、破って捨てちゃおうかな」
「それは、いけませんぞ。市長」
そのとき市長の執務室の正面のドアがいきおいよく開いて、よく日に焼けた日系ブラジル人が入って来た。そして市長の執務机の端をしっかりとつかんだ。
「セルジオ越後くん、きみはこの件を知っているのか」
「ええ、市長、その幼稚園をご存知ないのですか。選挙前にだいぶポスターを貼らせてくれたじゃないですか。その幼稚園の園長は市長の味方ですぞ。ここはひとつ予算をつけた方が良いかと」
「前近代的ですわね」
金髪の女が冷ややかに答えた。
「きみ、きみ、秘書の分際で何を言うんだ」
横にいたセルジオ越後は金髪の秘書を睨みつけた。
この秘書とセルジオ越後は仲が良くないようである。
「わたくし、秘書と言っても日本の一地方の政治研究のためにここで働いているんですわ」
するとセルジオ越後はせせら笑いながら
「もう、何を言っているんだ君、このセルジオ越後がきみがロシアンパブで働いていたのを引き抜いて来ただけじゃないか」
と言った。その口調には前よりいい生活が出来るようになったのは自分のお陰だと言っているような押しつけがましさがあった。
「セルジオ越後、そんなことを言ってもいいの。あなたがロシアンパブに入り浸っていたこと、その他、痴態をみんなにばらしてもいいの」
「全く、この女は」
セルジオ越後はその言葉を床の上に吐き捨てた。
「もう、やめたまえ、セルジオくん、きみも市政の一翼を担う助役なんだから、それにダニエラ、きみも口が過ぎるぞ。まあ、いい。このあひる公園の建設に予算をつけることにしよう」
セルジオ越後はやっと安心した顔になった。
「市長、それは全く、いい決断です。これで幼稚園児たちも喜ぶことでしょう」
「喜ぶのは幼稚園の園長だけじゃないかしら。わたしには関係のないことだけど」
秘書のダニエラは自分のシャープペンを指先で弄んだ。
「まだ、言っている」
セルジオ越後はふてくされた。
セルジオ越後はこの市の助役である。そして日系ブラジル人である。市長とこの助役は利害が一致していた。市長を乗り越えて自分がトップになるという気持ちはない。ナンバー2で市長のおこぼれを貰うのが何よりも一番だと思っている。一心同体いわゆる同じ穴のむじなである。そして市長の秘書はつい最近までロシアンパブで働いていた。助役が見つけて来たのだ。みんなはダニエラと呼んでいる。
「きみたちがけんかをしていては駄目じゃないか。市政にさしさわりがある。そうだ、今晩はクラブ、パープルシャトーに行かないか。仕事ばかりでみんなストレスがたまっているから憎まれ口でも叩くようになるんだからな」
この件に関してはふたりとも異存はなかった。
「賛成ですな」
「わたしも異存はないわ」
週に一度も宴会のない夜はないと言われる日本の政治家である。宴会が行われるのは市の高級料亭である。自分はあまりそれに出ないと言う市長であるが、やはり毎日、宴会はあった。そして言外にはこの市でタクシー会社を経営している市議会議長の方がよく行っているという非難が含まれている。そして今晩は久し振りに宴会がない。そこで自分たちだけで楽しむにはクラブを使うのである。クラブには綺麗なおねえちゃん達がたくさんいる。もちろんそうでないのもいるが。その中でも市で一番高級なクラブがパープルシャトーであった。パープルシャトーのマダムは青田典子である。
「ダニエラくん、役所が引けたら車を裏の駐車場にまわすように手配してくれ」
「承知しました」
高級クラブ、パープルシャトーは市で一軒だけある映画館の隣の隣にあった。隣はハンバーガー屋である。そこら一帯の街路には四角い敷石がしきつめられているが、その敷石を何枚かはがして柳の木がうえられている。クラブパープルシャトーはその名前のとおり道に面した壁には紫色のガラスみたいなものが貼ってあり、照明でぼんやりとした光を当てられていて神秘的な様相を浴びていた。
セルジオ越後は昼間と違って満面に笑みを浮かべていた。
「千夏ちゃん、来たよ~~」
厚いアクリルの扉を開けると、猫ひろしと同じにおいのする馬鹿みたいな女がフリルのついた服をひらひらさせながら出て来た。
「セルジオ、待っていたわよ~~ん」
千夏の背後には深海のような、あるいは真空の宇宙のような世界が広がっていて、テーブルを囲んで、男や女たちが向き合っている。
「市長も来たんだから、典子ママも出迎えてくれなきゃ」
セルジオ越後は市長の手前、店のオーナーである青田典子が出迎えに来ていないことを言った。しかるに彼自身は若槻千夏がいるからそれで満足なのだったが。
「ずっーーと、ここに居座ってやるからな」
店の中のカウンターのあたりで大声でどなる声が突然聞こえた。市長たちがその方を見るとまだ若い男がグデングデンに酔って、また、机の上にうっぷしている。入ったときはその声にびっくりしたが、この手の自我喪失してしまう酔っぱらいはよくいるのだ。そして彼はまたテーブルの上に顔を伏せたので市長たち一行は何もないように店の中に入った。
「大島市長、こっちにいらして、この人は」
ホステスの若槻千夏は店内の妖しく暗い絨毯の上を案内した。
「わしの秘書でダニエラというんだ」
「へぇ、外人でも秘書になれるんだ」
ホステスの若槻千夏は振り返ると金髪の女を見た。
「そんなこと言うなら、こっちの助役さんだって、日系ブラジル人で国籍はブラジルだわよ」
ダニエラは抗議して今度は闇の中でにたにたしているセルジオ越後の方を見た。
「わたしの事はどうでもいいんです」
いつもならここで喧嘩がはじまるはずなのにやはりセルジオ越後はにたにたしていた。
若槻千夏は三人をステージから少し離れた席に座らせた。席としてはここは特等席である。市内の重要人物しか座ることは出来ない。
「いつものブランデーでよろしいわね」
若槻千夏が手を叩くとボーイが来て注文をとった。
ホステスの若槻千夏が店のマッチで火を起こすとたばこをくわえたセルジオ越後が顔を近づけた。
店の従業員入り口のところで帯を直していたマダムの青田典子が髪を直しながら店の中を歩いて来た。
「お待たせ、お待たせ」
「ママ、市長さんをお待たせて、だめじゃないの」
ホステスの若槻千夏はおかまみたいな仕草をしてマダム青田典子を迎え入れた。
「ママ、相変わらず、きれいだね」
下駄みたいな輪郭の顔、その四角四面の顔のそのままに目や口だけを緩ませて市長の大島渚がマダム青田典子に軽口を叩いた。
「やだ、市長さん、お口が上手ね。お化粧に時間がとられちゃって、いつもより、念入りにお化粧してきたのよ、これも市長さんのためよ」
やはり青田典子は髪たぼを手のひらでぽんぽんと叩いている、髪のセットが気になっているらしい。
「うれしいことを言ってくれるなあ、ママは」
そこにブランデーが運ばれて来たのでパープルシャトーのママ、青田典子はみんなにブランデーを注いだが若槻千夏は乾杯をする前にぐびぐびと飲み干してしまったので、彼女の分だけはまた注がなければならなかった。このクラブの売り上げには貢献しているわけだが。
大島渚市長がグラスに注がれたブランデーの半分くらい飲み干したところで、いつもと違う大島のかげりを青田典子は発見していた。「市長さん、ちょっと元気がありませんわね」
「そんなことあるもんか、市長はいつも元気です」
隣にいるセルジオ越後がパイナップルをひとつすくい上げて口の中に運んだ。
「パイナップルを食べ過ぎると、すっぱいげっぷが出ますわよ」
「余計なお世話だ」
ダニエラが言うとセルジオ越後はむきになった。
「大変、わたし、食べ過ぎちゃったわよ。すっぱいげっぷが出たらどうしよう」
若槻千夏が両手を胸の前でぶらぶらさせてさも重大な病気を申告された人でもあるように言った。誰も市長の方に関心を向けていなかった。
「実はちょっと悩み事があってね」
市長は少し猫背になっていた。
「娘のことでね」
そう言った大島渚の姿は市長の貫禄もなく、今はただの父親だった。
身体のどこかをつっいたらしぼんでしまう風船みたいに見える。
「お嬢さんのこと、あのきれいなお嬢さん」
そんな感想を持ったマダム青田典子は市長のご令嬢の顔が浮かんだ。
「中学二年の頃ってきみどんなだった」
「どんなって」
市長の話を他の三人は全く聞いていなかった。がつがつと食いたいものを食い、飲みたいものをがぶがぶと飲み食いしていた。
市長の相手をしているのは青田典子ただひとりである。
「だから、あの年頃の娘って言ったら決まっているだろう。恋愛のことだよ。きみの初恋はいつだったんだい、幼稚園のころにキッスをしたというような話しではだめだよ」
青田典子は右手の人差し指の先で自分のあごのあたりをいじりながら少し可愛い仕草をしながら
「そうね、やはり中学生の頃かしら」
と言った。
「それで結末は」
「そうね、中三で離ればなれになったから悲恋って言ってもいいのかしら」
「やっぱりね。初恋というのは破れるものなんだ」
市長の大島渚はいやに深刻な顔をしている。
そんな話しをしながら大島はこの店に入るとき奇声を上げた若者のことが気になったのでその方を見るとやはりテーブルの上にうっぷしたままだった。
そこへボーイがやって来てマダムに耳打ちをした。
「なに、問題のある客がいるって、どこなの」
ボーイが広い店内のはじの方の席を指さした。そこは主に金のなさそうな客を座らせる場所だった。
「どういう客なのよ、なに、行ってみればわかるって」
マダム青田典子はがつがつと飲み食いしているホステスの若槻千夏の肩のあたりをこずいた。
「千夏ちゃん、お仕事よ、お仕事」
「何よ、マダム」
若槻千夏は顔を上げると上目遣いにマダム青田の顔を睨みつけた。
他の連中はみんな若槻千夏の役割を知っていたので何も言わない、問題のある客を担当するためにこのホステスは雇われていたのである。
「変なお客が来ているらしいのよ。あんた、行って、相手してちょうだい。お金、持っていないようなら追い出してね」
「食べている最中じゃないの」
「うーーん、もう、まったく、千夏ちゃんを雇っているのはそのためでしょう」
「もう、全く、どんな客なのよ」
若槻千夏の口からはいかげそのしっぽが出ていた。
「行って見ればわかるって」
ボーイから耳打ちされた青田典子は言った。
「どこなんだよ」
「あそこだって」
ホステスの若槻千夏が見ると店の一番粗末なセットのところでどうやら人影がうごめいていた。
「行ってらっしゃい」
ほくほくして若槻千夏を見ていたセルジオ越後も今はちょうどよくほろ酔い加減になっいて若槻に冷たかった。
「行きゃあいいんだろ、行きゃあ」
やけになったホステスの千夏は立ち上がるとボーイの袖を引っ張った。
「問題のある客ってどこのどいつなんだよ、そこに連れて行けってんだよ」
ボーイはおそるおそるホステスの若槻千夏を案内した。
ホステスの若槻千夏がその場所に行くと、客は伏せていた顔をあげてニッコリとした。
「お~~~~ぃ、子供じゃねぇか」
若槻千夏は絶句した。あどけない顔をしてこの水商売の女の顔を見つめているのはまだ子供だった。肌はつるつるしている。その上、心持ちかピンク色に輝いている。
客のテーブルには何も運ばれていない。
ホステスの若槻千夏はスカートの裾をたくると客の前に座った。
いつもなら、真っ先に客の横に座って媚態を振り向くのだったが、いつもと違った。ホステスの千夏はテーブル越しに客の顔をまじまじと眺めていたが、客はつぶらな瞳を千夏の方に向けているだけだった。
「おい、お前、何者なんだよ。よく、この店の中に入って来られたなぁ。お前、いくつなんだよ。お前、中学生だろう」
するとその客は答えた。
「ヨン様ニダ」
「お前の名前を聞いてんじゃねぇよ。いくつ、年いくつかって聞いてんだよ。お前、中学生だろう」
「ヨン様ニダ」
客とホステスのあいだに押し問答が続いた。
どうしても客は店から出て行こうとしない、言う言葉と言えばヨン様ニダだけだった。
とうとう根負けしたホステスの若槻千夏は仕方なしに所持金を聞いた。
「お前、いくら持っているんだよ」
するとヨン様はがま口をとりだして、テーブルの上に小銭をばらまけて
「デザートはいらないニダ。ウーロン茶のサワー割りでいいニダ」
と言った。仕方なしにホステスの若槻千夏は指を鳴らしてボーイを呼ぶとウーロン茶のサワー割りが届いたので、ヨン様の目の前に置き、マドラーでそれを混ぜて
「ほら、飲みな」
と言ってどかんと置くと、ヨン様はなかなかそれに手をつけなかった。
「ほら、飲めよ」
ヨン様に言ってもヨン様は飲もうとしない。
「お便所、どこニダ」
「便所、行きたいのかよ。便所、あっちだよ」
手で指し示すと、ヨン様はそそくさとトイレに行った。そして、戻って来たときには小皿の上に何かのせて戻って来た。
テーブルの上に置かれたそれが何かよくわからなかったホステスの若槻千夏がそれをのぞき込むとメロンの皮だった。
「中学生なんか相手にしてられるかよ。それにお前、中学一年生だろう」
ホステスの若槻千夏がしゃべりかけても、ヨン様はメロンの皮をしゃぶりながら、焼酎のウーロン茶割りをちびちびと飲んでいる。
「あほくさ、こんな貧乏人、相手にしてられねぇよ。その上、中学一年生だしぃぃぃ」
ホステスの千夏はその席を立ち、市長たちの座っている場所に移動した。テーブルの上には豪勢なデザートが置かれ、食い散らかされている。
「千夏ちゃん、どうだった。どんなお客様」
マダムの青田典子が心配気に聞くと
「何だよ、金がなかったら追い出すんだろう。まあ、小銭は持っていたよ。ウーロン茶飲んでいるよ。ウーロン茶、一杯飲んだら出ていくだろう。ママ」
「まあ、良かったわ。市長さん、千夏ちゃんはここにいていいんですって」
媚びを込めてホステスの青田典子は市長の大島渚に言うと、やはり、市長はそんなことにも関心がないようにしんみりとした調子になって
「さっき、初恋の話しをしたじゃないか」
大島渚はその方に話しを戻した。
「まあ」
マダムは大きな目を開けて、ソファーの片隅の方を指さした。
韓国人中学生が小さなフォークを使って、巨峰を刺している。
「お前、何しに来たんだよ」
ホステスの若槻千夏が立ち上がってヨン様につかみかかろうとすると、急にヨン様は涙目になって
「デザートがないニダ、デザートがないニダ、デザートが」
それから本当に涙を流して、
「市長がいじめるニダ、貧乏な中学生に、デザートを食べさせないニダ」
「おい、何だよ、この中学生は」
セルジオ越後は身を起こしてその中学生の顔を見たが、中学一年生はやはりフォークに刺した巨峰を手放さなかった。
「まあ、いいじゃないか、デザートを食うぐらいなら」
市長の大島渚には大人ぶりをしめしながら、その表情にはやはり苦々しいものが露わだった。それは余計な金を払わなければならないということもあったが、話しの腰をおられたことの方が大きかった。
「さすがに、市長、私なんかと違って、度量が大きい」
セルジオ越後はほかに言う言葉もないのでそんなことを言って場を取り繕った。
「もう一皿、フルーツの盛り合わせを注文するわ」
ダニエラが言ったのでマダムの青田典子はボーイを呼んだ。
端の方でヨン様はフルーツをがづがつ食い、助役たちは市議会の連中の悪口で盛り上がっている。
市長の大島渚だけはマダム青田典子の顔をじっと見つめて、やはりしんみりとしている。
「さっきから、初恋だとか、悲恋だとか、どういうことですの。市長、まさか、市長がそんなことを」
「馬鹿、言うなよ、君、娘のことだよ。娘には将来を約束した男がいるんだよ。わしの目から見ても、申し分ない取り合わせなんだけどな、その男に好きな女が出来たみたいで、娘は失恋しちゃったみたいなんだな」
「市長さんのお嬢さんっていくつでしたっけ」
「中二だよ」
「じゃあ、ひとりの相手で一生確定というわけじゃいかないでしょう。まだ、若いんだから、これからいろんな事があるでしょうし、それは相手の人にも言えることでしょうしね。市長のお嬢さんの相手って一体、誰なんですか」
「君でも、それは言えないよ。私の目から見れば申し分のない相手だ。あんな男が自分の息子になったらなぁと思うような男だよ」
市長の大島渚の脳裏にはあの平井堅の日本人ばなれした奥目の顔が浮かんだ。
「まあ、随分と買っていらっしゃるのね」
「彼には彼の人生がある。まあ、それは仕方ないことだがね。問題はわしの娘だ、娘が彼のことをどのくらい思っているのか、それが心配なのだ。娘の心の中の大部分を彼がしめているとしたら、彼の心が離れたら、彩はどうなっちゃうのか」
そこで市長の大島渚は喉の焼けるようなブランデーを楽しむためではなく、理性を越えた何者かに向き合ってでもいるかのように一気に飲み込んだ。
「市長も家庭の中ではいろいろなことがあるんですね」
「あんな太陽のように明るかった彩が彼のことを言われたら怒り出して弟の頭に矢を突き刺したんだからな」
「まあ、矢を」
マダムは大げさに驚いて見せたが、市長の大島渚は渋面を少しゆるめて
「矢と言っても、君、さきに吸盤がついた奴だよ」
と言った。
市長の悩みにも関係がなく、横の方にいる連中はただで飲み食いが出来ると思ってがつがつと食い荒らしている。
そんな彼らを見て市長の大島渚はまたため息をついた。
本当に市長の悩みにつき合ってくれる連中はひとりもいない。
店の入り口に誰か入って来たようだった。
よろよろと店の中に入ってくるとちょうどよい自分の席をさがしてうろついているようだった。
薄暗い室内でその男の姿ははっきりとわからなかったが、どうやら市長の大島渚と同年齢のようだった。彼はまだ自分の座るべき席が見つからないようで、ときどきテーブルの角に足をぶつけているようだった。
その男が市長たちのテーブルのそばに来たとき大島渚は顔を見上げた。よれよれのくたびれた背広を着ているが、それは確かにあの男だ。
「篠田正浩くんじゃないか」
そう言われたその男は明らかに大島渚に会いたくないという表情がその顔に如実に現れていた。顔を合わせないようにちょっと横を向いたが、そのとき顔の半分に影が出来た。
「篠田正浩くんじゃないか」という大島渚の言葉でそのテーブルにいた連中もその顔をじっと見つめた。そのため多くの連中の視線がそこに集中した。
最近、公務の場からその名前は消えていた。
彼もやはり政治家である。そして盛んにやっていたのである。
一時期は国会のテレビ中継でもその名前はしょっちゅう見られたのである。
「篠田先生」
メロンの上に生ハムをのせていたのをほおばっていたセルジオ越後もそっちの方を見上げた。
ヨン様までもが何も知らない中学一年生のくせに篠田正浩の顔をじっと無目的に見つめた。
明らかにその視線は篠田正浩にとってはきつくて耐えられないようであった。
「何だ、きみか、こんなところにいたのか」
篠田正浩はばつが悪そうに答えた。
この地区では篠田正浩も大島渚も変な友情でつながっていた。
それはエリート意識である。
ふたりともエスタブリッシュメントであり、セレブだった。
ふたりとも市では有力な一家に生まれ、中学は越境して他の市の名門中学で学んだ。
その後、大島渚は市長となり、篠田正浩はこの地区の利益を代表する国会議員になったのである。
子供の頃からライバルでもあり、また、変な友情、つまり、エリート意識でつながっていたのである。
篠田正浩の一時期のいきおいはすごかった。大臣の椅子も狙えるところまで来ていたのである。
それが些細なことでつまずいた。つまずいたのは家庭問題だった。
「きみ、何でこんなところにいるんだ」
「ちょっと用事があってね」
篠田正浩は何も語りたがらなかった。
本当にどこかに隠れてしまいたい気持ちでいっぱいのようだったがそこには隠れる場所も、入って行く穴もない。
「あっ、そうだわ、ピアノを弾いてもらうために頼んでいる女の子がいるんだけど、どこかで見たことがあるのよね。篠田先生の顔を見たら、そのことを急に思い出したんだけど、どういうことかしら」
マダム青田典子がそう言うと、篠田正浩の顔はまた急に曇った。
「先生なんて、呼ぶのをやめてくれないか、もう、国会議員じゃないんだから」
篠田正浩は自嘲気味につぶやいた。そして言葉の終わりは声にならないほど小さくなっている。
「国会議員じゃないなんて、篠田、きみは今度の選挙に出ないのか」
大島渚は手に持っていたグラスのことも忘れているようで、飴色の液体を入れている宝石のようなガラスのカットの尖っているところが天井の照明できらきらと輝いている。
大島渚は通路を隔てたテーブルに彼を座らせると篠田正浩もあきらめの境地なのか、素直にその席に座った。
「選挙に出ようと思っても借金がかさんでいて、家までも抵当に入れてしまったよ」
篠田正浩の表情はそれほど沈鬱なものだった。
市長の大島渚はかつての友人でもあり、ライバルであるこの男が家庭内の問題で躓いたという話しをちらりと聞いたことがある。
しかし、その詳細は知らなかった。
すると剣豪小説宮本武蔵を語る人みたいな顔つきをしてセルジオ越後は言った。
「釈由美子さんは大変な爆弾だったわけですな」
すると、通路の向こう側に座っている篠田正浩が顔を上げてセルジオ越後の顔をじっと見つめたので、通路のこっち側にいるマダム青田以下、ヨン様までもがセルジオ越後の顔を見たので、彼は鼻しろんで、次の言葉を失ったが勝手に篠田正浩は次の言葉を続けた。
と同時に彼は頭をかきむしった。まるで有名な楽団の指揮者のように。
「実に大変な爆弾でした。最初はおとなしめのピアノ教師だとばかり思っていましたよ。釈由美子は」
ここで篠田正浩はまた肩を落とした。
「篠田、きみには優秀な跡取り息子がいたじゃないか。きみは僕と違って結婚も早かったから子供も大きいじゃないか、僕の子供達はまだ学校に通っている。俺はお前のことをうらやんでいたんだぜ、あんないい息子がいたんだからな。篠田一族も安泰なはずだ。それにもうすっかりと充分な大人だからな」
何も知らないのは市長の大島渚だけだった。
言う必要もないことをと言うなこの男はという顔をしてその場にいた連中は大島渚の顔を見ている。ヨン様だけが何も知らないようにみんなの顔を見ていた。
「きみのせがれのイ・ビョンホンは外交官として日本と韓国のあいだを行き来していたね、将来は地盤をゆずって、せがれを国会議員にするつもりだったんだろう」
ここでまた市長の大島渚はここでまた無知を露呈した。
そのテーブルにいる連中は中学一年生のヨン様をのぞいて、ピアノ教師の釈由美子の名前も篠田正浩の息子のイ・ビョンホンの名前も桃色暴露記事を売り物にしている女性パンチや噂の女性で目に焼き付けるほど情報を得ているにもかわらず市長の大島渚だけがこのゴシップを知らないということは不思議だとしか言いようがない。
「もう、だめだよ。息子のイ・ビョンホンは釈由美子の全くの奴隷となり果ててしまった。それが何故なのだか、僕にはわからない。釈由美子が目に見えない魔法の媚薬を息子にふりかけているとしか思えない。あああ、うち一族の将来は真っ暗闇だよ。うちの一族はもう駄目だ。江戸時代から続く呉服問屋の歴史も終わってしまったよ」
篠田正浩は身体を折り曲げ、手をだらりとさせ、床のカーペットをなめるような軟体動物のようだった。
「何を気弱なことを言っているのだ。お互いにこの市から出発して、政治の世界で旋風を巻き起こそうと誓い合った僕らじゃないか。篠田、しっかりしろよ」
このテーブルにいる連中は市長の大島渚のこの無知を表情には出さないがせせら笑っていた。
「市長は何もご存知ないのね、篠田先生が話しずらいなら私から市長にご説明してよろしいかしら」
ダニエラはそう言ったが篠田正浩は乱れた髪の毛に両手の指をさし込んで下を向いたまま無言だった。
「御子息のイ・ビョンホン氏は有能な外交官として韓国と日本のあいだを行き来していた。そして、彼には小さい頃から許嫁として今はピアノ教師をしている釈由美子という女性がいた。ゆくゆくは釈由美子嬢はイ・ビョンホン氏の妻となり、外交官夫人となり、国会議員の妻となる予定だった。典型的なエスタブリッシュメントの成り行きですわね。そんな筋書きが組まれていたのでしたわね」
市長の秘書のダニエラが篠田正浩の方を見てもやはり彼は顔さえ上げなかった。
「篠田一族だけでなく、この設計図にイ・ビョンホン氏も満足していた。それは百パーセント実現するはずだった。イ・ビョンホン氏はこの確定した線路の上で自分の政治上の実績を積んでいればいいだけだった。しかし、重要な駒となっていた平凡なピアノ教師、釈由美子に大きな不都合が生じた。訳のわからない前衛舞踏家と釈由美子は駆け落ちしたのでしたわね。それがどういう理由なのか誰にもわかりませんわ。釈由美子以外には。そして、イ・ビョンホンは全く狂ってしまった。外部の人からは信じられないことだけれども、釈由美子が彼に何の影響も与えていたとは思えない。愛情めいた思い出もひとつもないはずなのに、イ・ビョンホンの精神に与えたダメージは信じられないくらいのものだった。失踪した釈由美子とその訳のわからない愛人のあとを追ってイ・ビョンホンもすべてのものを、輝かしい外交官としての経歴も、光り輝く政治家としての将来もうち捨てて、流浪の旅に出た。そして、篠田一族は崩壊を始めたのでした」
「そんなことがあったのか」
市長の大島渚は下駄みたいな顔をしてつぶやいた。
その場にいたみんなはとても怖い怪談話を聞いたように顔を見合わせた。
そのときステージの上にあるピアノが調べをたてはじめた。
その上にある照明が黒いピアノと釈由美子を照らした。
一心不乱にビアノに向かっている釈由美子の横顔がオレンジ色っぽい光に浮かび上がった。
そのとき誰かが丸いステージの上に上がると釈由美子に襲いかかった。そして釈由美子の前に来るとひざまずき、彼女の顔を仰いだ。
「帰って来てくれよ~~~~~ニダニダ」
ステージに駆け上がった男は哀願していた。
「何すんのよ」
釈由美子はその酔っぱらいを力まかせに振り回すと彼は木偶人形のようにステージの上に倒れた。
酔っぱらいは横腹を打ってうめいた。
「イ・ビョンホン、わが息子よ」
下を向いていた篠田正浩は突如顔を上げると、ステージのそばに走って行った。
その場にいた連中もそのあとについていった。
ステージ上にはピアノを背景にして仁王立ちになっている釈由美子、そして倒れたまま、手を伸ばして釈由美子の名前を呼び続けるイ・ビョンホン、ステージの下にはすっかりと零落したが、かつてのほこりにささえられて立ちつくしている篠田正浩、そして彼を見守る市長たちという図式が出来ていた。
ステージの下から篠田正浩が朗々と声を上げた。
それは篠田一族が崩壊する前の声と同じだった。
「釈由美子、なぜ、お前は篠田一族を苦しめるのだ」
そのあいだにも酔っぱらってよこたわったままのイ・ビョンホンは死んだ魚みたいになって
「釈由美子、帰って欲しいニダ、帰って欲しいニダ、ニダニダ」
とぼそぼそとつぶやいている。
釈由美子はイ・ビョンホンなど眼中にないようにステージの下にいる篠田正浩を冷徹に見下ろしていた。
「釈由美子、一体何が不満なんだ。わが一族の名門としてのほこり、経済力、社会的地位、そして何よりも息子はお前を愛していた。それなのに後ろ足で泥をかけるような真似をお前はした。あんな訳のわからない前衛舞踏家に騙されて駆け落ちしても、目を覚ますなら今のうちだぞ」
あの大人しい、平凡なビアノ教師が、
「へっ、うるせぇってんだよ。その名門だとか、社会的地位だとか、経済力だとか、言うのが鼻につくんだよ。あたいが選んだ相手にあたいはどこまでもついていくんだよ」
「ばかな」
ステージの下にいる篠田正浩はせせら笑った。
それも実質のないものである。昔の篠田一族であったら、それも格好がつくが、ほとんど芝居がかっていて篠田正浩は芝居をしているようだった。
釈由美子ひとりに篠田一族は崩壊されてしまったのである。
そのあいだ中、イ・ビョンホンは夢遊病者のように釈由美子の名前を呼び続けている。まるで空中に彼女の実像がただよっているように。
釈由美子はうざそうに自分のすらりとした足をあげると靴をイ・ビョンホンの頭の上に上げ、地べたに押しつけた。
「お前、何すんだよ。息子に」
篠田正浩は老体に鞭うって、ステージに上がると釈由美子に襲いかかった。
「何すんだよ、このじじい」
ふたりはステージの上で絡み合ったまま髪をふりみだして平手で殴り合っている。
「やめろ、やめるんだ」
「警察、警察」
ステージの上に若槻千夏たちもかけあがって争っているふたりを引き離したが、お互いにまだまだやり足りないようだった。
市長の大島渚は自分の家に戻ってからも、すっかりと零落してしまった篠田正浩の姿が目にこびりついて離れなかった。
たったひとつのことで篠田一族は崩壊した。
第十二回
許嫁の釈由美子に捨てられたイ・ビョンホンに人格崩壊が始まった。同じことが大島家にも起こらないとは限らない。この家が崩壊していく。息子から自分の娘は失恋したらしいと聞いた。彼女は恋人を失ってしまったと。
娘の上戸彩にどんな変化が起きているのか、男と女の位置が逆転しているが、まさに同じケースなのだ。とにかく上戸彩に彼女自身や彼女のまわりの状況がどんなことになっているのか聞かなければならないと思った。
二階に上がって行くとロココ調のドアの中の方から軽やかな音楽と同時にアルプスの麓の村の旅行記の朗読が聞こえる。その旅行記というのも今から五十年前に書かれたもので海外旅行など夢のような時代の産物だった。その番組に記憶がある。どうやら自分が若い頃に聞いたことのあるラジオ番組がまだ放送されているようだった。
市長の大島渚はドアをノックした。
「彩ちゃん、入ってもいいかい。おいしいかりんとうを買って来たから一緒に食べようと思って」
大島絣の着物を着た大島渚はドアの前でかりんとうと紅茶をのせたお盆を持って待っていた。
「いいわよ」
部屋の中から声が聞こえて上戸彩がドアを開けた。
市長の大島渚は自分の娘の部屋にほとんど入ったことがない。
中に入ったと同時にリカちゃん人形の部屋に入ったような気がした。部屋の中はそれほど華やかさと可憐さで満ちている。
小さなテーブルの上にお盆を置くと上戸彩は自分の机の前に座って非常防災用のラジオを見つめている。上戸彩はそこらへんにあったラジオをたまたま気に入っていつも使っている。音もよくないし、かたちも色も何の工夫もされていないのに何でこのラジオを気に入っているのか、大島渚にはわからなかった。
何から話していいのか。
「この前、持って来たプリン、おいしかっただろう」
「あのガラス瓶に入ったプリン」
「そうだよ」
「おいしかったわ」
上戸彩は椅子に座ったまま振り向いて答えた。
「あれは結婚披露宴のお返しでね。金星醸造のひとり娘の結婚式で貰って来たんだよ。セルジオ越後が司会をつとめたんだ。新婦の紹介なんかをしたんだけどさ。新婦が随分品行方正みたいに司会で紹介していたから、おかしかったよ。その娘のことは父さんはよく知っていたんだけどさ、その女の子が随分遊び歩いていることを知っていたからね。まあ、つき合っていた男の数は十人はいただろうさ」
市長の大島渚はかりんとうをひとつ口の中に放り込んだ。市長の大島渚の眉は特定の角度をとって動かない。
「その女の子、結構、おとなしそうでそんなふうには見えないけど、いろいろ遊んでいたんだなあ、でも、やっとひとりの男に落ち着いたんだなぁ」
上戸彩はやはりラジオの方を向いたままで市長の大島渚に背を向けている。
「わたし、そんな変な噂を立てられないようにする。だって、お父さんは市長だし、暖かい仲良し家族のイメージでやっているんだものね」
大島渚は出鼻をくじかれたような気がした。
そんなイメージよりももっと大変な問題がある。イ・ビョンホンの人格崩壊を見て来たばかりなのだ。
自分の娘が失恋のために変なことになって大島家の崩壊などが起こったら大変なことになってしまう。
「彩はまだ若い。これからいろいろな男に出会うに違いない。真之介が変なことを言っていたな。彩が失恋したなんて」
上戸彩はまだ机の正面の方を向いた。
「失恋、たしかにそうかも知れない」
上戸彩はぽつりと言って、そのあとは無言だった。
市長の大島渚には彼女が向こうを向いていたのでその表情はわからなかった。
「平井堅くんは昔からの知り合いだ。彼の小さい頃から彩はよく一緒に遊んだ。だから思い出もいっぱいあるかも知れない。でも彩はまだ中学二年生なのだし、これからたくさんの男に出会うと思うよ」
上戸彩はしばらく無言だった。
何も上戸彩が言わないので市長の大島渚はさらに言葉をついだ。
「平井堅くんはきっと、心が迷っているんだよ。要するに熱病だね。パパも男だから平井堅くんの場合を冷静に分析することが出来る。男にはよくそういうことがある。きっと平井堅くんは誰かにたぶらかせられているんだよ。きっと彼は彩のところに戻ってくる。たとえ、戻って来なくても、彩にはこれから素晴らしい男性がつぎつぎにやって来るに違いないんだ。それが人生というものだよ。きっと変な女にひっかかったことを後悔して彩の前に戻ってくるに違いないんだ」
今まで机の前の方を向いていた上戸彩は上体だけをねじって市長の大島渚の方を向いた。
「もし平井堅くんが誰かを好きになって、わたしの方を振り向かなくなったとしても、わたしはその人のことを悪くは言わないわ。だって平井堅くんが好きになった人なんですもの。わたしは平井堅くんのその気持ちを大切にしたいの」
市長の大島渚は心の中でうなった。
確かに上戸彩は平井堅のことを愛している。
「彩ちゃん、そうしたらきみは何も平井くんから受け取ることは出来ないじゃないか。そんなに、まだ若いうちからそんなことを言っちゃだめじゃないか」
市長の大島渚は上戸彩の心を平井堅から引き離そうと思った。何かのきっかけで上戸彩の人格崩壊が起こったら大変である。上戸彩はあきらかに平井堅を愛している。疎遠な関係のイ・ビョンホンと釈由美子とのあいだでもあんなことがあったのだ。市長選も何年か後には控えている。かつてのライバル篠田正浩の落剥も目にしているのだ。
しかし、平井堅の心をつかんだ女とはどんな奴なのだろうかという疑問も生じた。
平井堅は大自動車メーカーの跡取りでもあるし、大金持ちである。平井堅と結婚すれば文字通り玉の輿である。裕福で幸福な一生が約束されているのだ。
きっと何かの魔法で平井堅は騙されているに違いないという考えも浮かんで来た。伝説の大番長だと言ってもまだ中学二年生なのだし、女の誘惑にはころりとまいってしまうに違いないのだ。
そしてその反面で上戸彩は平井堅に本気で恋しているようだし、娘の心の中から平井堅を取り除くことは無理なように思えた。
翌朝、市役所に出勤すると秘書のダニエラと助役のセルジオ越後が川の沿道に植わっている街路樹の害虫駆除の会社の選定のための書類を持って待っていた。まず最初にその書類を決裁してくれと言った。
市長の執務室の机の前でこの市出身有名な書家の書がかかっているのを見つめた。墨のこすれ具合や紙の余白の中に何かを捜そうとしたが市長の大島渚には何も見つからなかった。
彼はずっと昔に同じような気持ちで何が書いてあるかわからない書を見たことがあるのを思い出した。それは自分がまだ小学生の頃、たまたま校長室に入ったとき校長室の壁に掛かっているそんな額を見た。そのことがふと思い出された。
「市長、何をぼんやりなさっているのですか」
秘書のダニエラは執務室の机に座りながら前を見ている市長に声をかけた。
「市長は市がどうなればよくなるかということでいつも頭を悩ませていらっしゃるのだ」
横にいる助役のセルジオ越後が抗議した。
「いや、そうでもないんだよ。家庭内のことでね。きみたちも僕に娘がいることを知っているだろう。どうもその娘が恋に悩んでいるらしいんだ」
「まったく、けしからんですな。市長の素晴らしいお嬢さんをそんなに悩ませるなんて、一体どこのどいつなんです」
セルジオ越後は表面的だけでも息巻いている。
「その男は君も知っているさ、平井モータースの跡取りの平井堅くんだ」
「ああ、あの平井堅くんですか」
助役のセルジオ越後はその相手というのが大財閥の跡継ぎだと知って舌鋒が緩んだ。
「一度、平井堅くんに会いたいと思うのだが、いつも自宅に電話をしても留守なんでね、困っているんだよ」
秘書も助役も同時に前の方に進み出た。
「警察署長に探し出してもらえばよろしいんじゃないでしょうか。ちょうど、市議会の方で用があるらしくて、市役所に来ていますよ。一階のロビーで会いましたよ。そういうことのために警察署長はいるんじゃないですか」
どんどんとドアを叩く音が聞こえてドアが開いて、呼びもしないのに警察署長のパパイヤ鈴木が顔を出した。
「市長、御機嫌いかがですかな、あまりに顔を出さないと市長に忘れられるかも知れないんで、ご挨拶に来ましたよ」
あのもじゃもじゃとした巨大な頭が突然に現れた。
警察署長のパパイヤ鈴木は身体の横に大きな地図帳のようなものをかかえている。
「これは、いいところに来てくれましたな。こちらから警察署長のところに行こうかと思っていたところですよ」
「何か、ありましたか、まあ、この市では何もないとは思いますが」
この市ではもう長いこと事件らしい事件が起こったことがなかった。最後にあった事件は七年前で駅前にある食堂で起こった食中毒事件で、駅前の旅館に泊まっていた旅行者が玉子どんぶりを食べてそのまま死んでしまった。その旅行者の風体が奇妙だったこともあり、最初に誰かが毒殺事件だと騒いだので、この市の警察が動いたというだけのことだった。
「どうしてもつかまらない男がいてね。その男からいろいろなことを聞きたいんだ」
市長の大島渚はそのときの様子を想像していた。とにかく平井堅を正気に戻して自分の娘の方に目をむけさせなければ。
「平井モータースの跡継ぎの平井堅なんだよ。まだ中学二年生なんだけど、ぜんぜん、つかまらない」
「平井堅」
警察署長のパパイヤ鈴木はぎょろりとした目を見開いて、そのジャングルのような頭もちょっと大きくなったみたいだった。
「平井モータースの跡継ぎのあの平井堅ですか。実は」
警察署長の平井堅は持っていた綴りを市長の大きな机の上に置くと
「これを見てください」
と言ったので市長も秘書も助役もその机の上をのぞき込んだ。
「平井堅、警察でも注目しています」
そして机の上にその綴りをばんと置いた。そして開くと、最初の一ページが開いて指名手配のような顔写真がのっている。
それから警察署長のパパイア鈴木はぎょろりとした大きな目でその場にいるみんなを見回した。
「市長もご存知のように、この市には何も事件がありません、きわめて平和な市であります。しかるにこの市の平和を乱すような存在があらわれました。そのひとりが平井堅です。警察でも彼の情報を集めています」
もじゃもじゃ頭のアフロヘアーはひとりひとり人物を指さして説明した。
「これは、平井堅、鳳凰中の大番長ですな、これはチェ・ホンマン、虎中の大番長、そして、これは龍中の大番長の假屋崎 省吾、みんな私は知っていますよ」
パパイア鈴木の説明のあとで市長の大島渚は言った。
秘書のダニエラも助役のセルジオ越後もこの三人の大番長のことを知っていた。しかしその中に見かけない顔がいる。
「これは」
市長の大島渚は見かけない顔を見つけて指をさした。
警察署長のパパイヤ鈴木はその写真を指で指し示した。
「龍中の中学一年生です、こいつも、この市で何かを企んでいます。最近、どこかから転校して来たんですけどね。きっと他の三人に負けず劣らず問題の種に違いないんです」
「名前は何と」
「自分ではヨン様と名乗っていますよ」
この中学一年生がへんなおじさんを始末したことを市長はもちろん知らなかった。
「三人の大番長たちの目的は何なのですか」
「この市の中学すべてを制覇すると言っていますね」
「この中一は」
秘書のダニエラが指さすと
「全く、わかりません。こいつが何の目的でこの市に来たのかということもですね」
パパイヤ鈴木はつけくわえた。
「まあ、いいじゃない、なんやかや言っても、まだこれは中学生だから、署長。それよりも平井堅くんですよ。彼の存在は私にとってもわたしの家族にとってもはなはだ大きい、何しろわたしの家族の一員になるかも知れないんですからね」
「これはおめでとうございます。市長」
パパイヤ警察署長が言うと市長の大島渚はあわてて手で制した。
「いや、まだそうなると決定したわけじゃないですけれど、とにかく、一度、平井堅に会わなければなりません」
市長の大島渚のはらづもりはもちろん上戸彩に関連していたが詳しいことはその場にいる誰にも話すつもりはなかった。
「とにかく、平井堅をつかまえることですね。何かいい方法はないかしら」
秘書のダニエラが言うと
「いい方法があるんですよ」
警察署長のパパイヤ鈴木は執務室の入り口のところに行くと、そこに待たせていた男をつれて来た。
「一度、彼らをつかまえて職務質問でもしなければならないと思っていました。それでうまい道具を考えている男がいましてね。それがこの男です。市長にも紹介しようと思ってつれて来たんです」
「ああ、きみか」
その男が来たときに最初に声を出したのは市長の大島渚だった。
「市長、また会いましたな」
「市長はこの人をご存知なんですか」
「わたしたちも知っているわ」
秘書のダニエラも助役のセルジオ越後も同時に言った。
「靴にばねをつけて、車も自転車も電車もいらなくなるから、この交通手段を市の職員全員が買い取ってくれと言った人でしょう」
「ドクター中松」
市長の大島渚はつぶやいた。
「その後、買い取る計画は立ちましたかな」
ドクター中松のその言葉には市長の大島渚は無言を通した。
「今度の発明は凶悪犯罪者に最適です。これをご覧ください」
そう言ってドクター中松はカタログのようなものを取り出すと自分の前でひろげた。
「人間捕虫網発射機」
「言葉が少し、おかしいような気がしますが、捕虫網と言ったら虫をとるものでしょう」
セルジオ越後が言うと
「人間を捕まえるための捕虫網のようなものと言ったほうがよろしいかな」
「これはなんですか」
「この筒のさきから網が出て来て凶悪犯人を捕まえるんです。移動には、オンボロで使わなくなった消防車が一台あるそうなんで、それを使えばよろしい。市庁舎の裏に停めてありますよね」
「これで平井堅を捕まえるつもりですか」
「もちろん」
「警察署長もそういう考えなんですか」
市長の大島渚はそのカタログの中の発明品を見た。
「でも、どうやって、平井堅をおびきよせるんですかな」
市長の大島渚のもっともな質問にも警察署長のパパイヤ鈴木には採算があるようだった。
「一度は平井堅を捕まえて職務質問でもしなければならないと思っていたんですよ。それでいい考えがありましてね」
「一体、どんな」
「平井モータースの創業者、平井惣太夫の十玉そろばんが盗まれた事件を知っていますか」
「平井モータースが家宝にしていたというそろばんですか」
「そうです」
警察署長のパパイヤ鈴木はしたり顔で答えた。
セルジオ越後もその十玉そろばんのことを知っていた。
平井モータースは江戸時代に平井惣太夫が絹問屋としてその基礎を築いた。
その絹問屋を始めた頃の話しである。まだ小さな店だった。平井惣太夫が屋台で夜鳴きそばを食っているとその横で小さなお百姓の子供の兄弟が三人、ものほしげな顔をしてじっと見ていた。三人の顔は泥で汚れ、三人が三人とも指をくわえ、惣太夫がそばを食っているのをじっと見ていた。あまりに食べたそうな顔をしていたので三人の子供に夜鳴きそばを買ってやるとがつがつと食べてそのままどこかに行ってしまった。家に帰った丑三どき、家の戸をどんどんと叩く音がする。惣太夫が雨戸を一枚開けると、十玉そろばんが置かれ、その向こうの方で、もぐらが三匹ぺこりと頭を下げると土の中に消えてしまった。その十玉そろばんを使うようになってから平井家は繁栄を始めた。そして現在の平井モーターズの繁栄の基礎を築いたのである。
その家宝の十玉そろばんが突然盗まれた。平井モータースは八方手をつくしたが結局見つからなかった。
「その十玉そろばんを平井堅をおびきよせる餌に使うのですよ。実は十玉そろばんが発見されているのですが、平井家には返していないのです。こんなことに利用出来るのではないかと思い、警察に保管してあるのですよ。市民大運動会が開かれたとき建設された記念モニュメントがあるじゃないですか。あの巨大な壁にそれをぶら下げて置くのです。そうしたらきっと平井堅がそれを取りに来ますよ」
その巨大モニュメントというのはこの市にある商社ビルの補強のために片方の壁をコンクリート一面で覆い尽くしたものである。
「そして、新聞広告を出すのです。十玉そろばんを盗んだ犯人だという広告をです。そして十玉そろばんが入っている袋だと言って地上十メートルのところにぶら下げておくのです」
*********************

第十三回
「くっくっくっ」
市長の大島渚は新聞をひろげながら声にならない声を上げている。「お父さん、何かうれしいことでも書いてあるんですか」
妻の小山明子は朝食の目玉焼きとケチャップを運びながら自分の夫の変化を見逃さなかった。
彼の目の前にひろげられた新聞の一行広告の中に市長を喜ばせる情報が掲載されていることを妻の小山明子は知らない。
「十玉そろばんを持っている。詳細は******に電話するよろし」
「載っている。載っている」
市長の大島渚はまた声にならない声を上げた。
「あなた、何、喜んでいるんですか。パープルシャトーに今夜、行く予定でもあるんですか」
「そんな予定があるか、そもそもパープルシャトーに行くのだって、部下の労をねぎらうために行くのだ。秘書のダニエランと助役のセルジオ越後の顔なんて見ていたって酔えるものか」
「そうですか、そうですかねぇ。あなたのお気に入りのホステスがいるなんて噂を聞いたんですがね」
「ばか、言うなよ。ホステスの若槻千夏のことだろう、あれは、助役のセルジオ越後のお気に入りだ」
「さあ、そうだかどうだか。あなた、あそこに行くといつもすっかりと素行をくずしているって噂ですよ」
「なに言っているんだ。そんなこと、誰に聞いたんだ」
「誰でもいいでしょう。あなたがどんなことして楽しんでいるのか、いっぺん私も行ってみようかしら」
市長の大島渚は急にあせった。
「ばっばっ、ばっか言っているんじゃないよ。あんなところ、女が行ったっておもしろくも何ともありゃしない」
「じゃあ、男の人が行ったらおもしろいということでしょう」
「金がかかるだけだよ。もう、あんなことに金を使っている自分があほらしいよ」
市長の大島渚は新聞で顔を隠した。
「お母さん、お弁当用意してくれた。今日は小学校、給食がないんだからね」
「珠美さんが作ってくれたでしょう」
「あっ、これか」
上戸彩の弟の真之介はテーブルの上に置いてある白バイの絵の描いてあるお弁当のふたを開けると、歓声をあげた。
「わあ、ソーセージのたこみたいなのも入っている。珠美さんはよく気がつくな」
新聞をたたみなから、市長の大島渚は息子の真之介の方を見た。
「真之介、わしが話しをしているときにあくびなんかするんじゃないぞ」
「まったく、何でわざわざ、学校を休日なんかにするの。ばかみたい」
「何を言っているんだ。この罰当たりめが」
市長の大島渚は息子を睨め付けた。
「川辺呑舟居士の治水事業がなければこの市の繁栄はなかったのだ。だから毎年、呑舟居士の偉業をたたえてこの日を休日にしているのだ。給食のないのもそのためなのだ」
「お父さん、それはいいけど、自分のお父さんが演台に上がってむずかしい話しをして、それを有り難く聞いている小学生なんて僕だけだよ」
川辺呑舟というのはこの地方の治水事業をした遠い昔の人である。それがなければこの地方が遠いそのあと現代において市に昇格したことはなかったであろうと言われている。川辺呑舟はそんな偉い人だった。この市ではその偉業に感謝して学校をすべて休みにして生徒は体育館や講堂で偉い人の話を聞くのであった。
ドアが開いて上戸彩が入ってきた。
上戸彩には相変わらずもの憂い表情がうかんでいる。
その顔を見ても市長の大島渚はいつもより機嫌が良かった。
「彩、お前の行っている鳳凰中にも行くからな。まさか、お前がわしが話しているときにいねむりをすることはないと思うが」
「お父さん、鳳凰中にも行くの。じゃあ、僕の学校には来る必要ないよ」
「そんなこと出来るか」
市長の大島渚は目玉焼きの白身のところをすくい上げると、自分の口に運んだ。
その無愛想な表情の中にも市長の大島渚のうれしそうな表情がほの見えているのを娘の上戸彩は見つけていた。
「お父さん、何か、うれしいことでもあるの。くちびるのはしがほころんでいるように見えるんだけど」
「父さんはきっとクラブ・パープルシャトーに行くつもりなんですよ」
「そんなことがあるか」
市長の大島渚はあの秘密の計画のことを娘には言えないと思ったが、娘のためになるに違いないと信じていた。
「彩、最近、平井堅くんから連絡があるか」
その言葉に上戸彩は無言だったが、市長の大島渚の表情が曇ることはなかった。
「行ってくる」
上戸彩はトーストを一枚、口にくわえるとかばんを小脇にかかえて部屋を出て行こうとしたが、弟の方はまだテーブルにしがみついて目玉焼きを口にかっこんでいる。
「真之介、早くしなきゃだめじゃない、あんたの方が小学校、早く、始まるんでしょう」
上戸彩が弟の耳をつまむと弟は抗議した。
「なにすんだよ。姉ちゃん、そんな凶暴だから、平井堅に逃げられちゃうんだぞ」
「なによ、あんた」
「ほらほら、喧嘩しない、喧嘩しない」
市長の大島渚は精神的余裕を見せていた。ふたりの子供たちが学校に出て行くのを見送った。
それから彼は市庁舎へ出勤するといつものように秘書のダニエランと助役のセルジオ越後がすでに出勤していた。
予定どおりいくつもの学校をまわり、訓辞をたれ、そんな一日が過ぎると、あたりは暗くなった。
「警察署長は来ておるのかね、越後くん」
黒い高級セダンの後部座席でとなりに座っているセルジオ越後に話しかけると、彼は前に座っている秘書のダニエラに同じことを聞いた。ダニエラは半身を振り返って、市長の大島渚の方を見ながら自分の手帳を開いて、そのスケジュールを確認した。
「パパイア鈴木署長はすでに来ているに違いないですわ。このスケジュール帳によると午後の六時半には東洋貿易の向かいのビル、エルゲランに入っているという話しです」
「エルゲランの五階にたまたま空き部屋があるというのも不思議なことだね」
「市長、そうではありませんぞ。署長のパパイア鈴木は暴力革命学生の動向をさぐるために、そこを警察で借り切っているのですぞ」「暴力革命学生、なんだ、そりゃあ、市長のわたしはそんなことは全然、聞いていないぞ、そんな不穏な動きがあるなんてことも聞いていないし」
また、秘書のダニエランがうしろの方を向くと付け加えた。
「例の三人の学生のことじゃないかしら」
「ばかな、まだ中学生だろう」
「部屋を借りるためなら、何でも、理由はつけられますわ」
「市長、何か、おもしろいことがはじまりそうですね。わたしゃ、これでも口の堅い方ですからね。よく、あるじゃないですか、運転手が捜査の糸口になったというような。いえ、決して、わたしは市長がおかしなことをやるというようなことを言っているんじゃありませんよ。何しろ、市長にはずいぶんよくしてもらっていますからね。市長も重職で毎日、大変なこととお察し申し上げています。それに市長の奥様は名家の出ですし、いゃあ、実際、家に帰ったときぐらいは男と言うもの、すべての力を抜いてくつろぎたいもんですよ。脱力感というんでしょうかね。それが自分の女房が昔の宮中に出入りしていたようなやんごとない方だったりすると全く気疲れしてしまうことでしょうよ。そこへいくとあっしの女房なんて駅前の食堂の娘でして、外見は不細工ですが、気を使わないですむというのが何よりも取り柄でして。市長、これからどこへ行くんでしょうか。わたしゃ、決して口外しませんからね。市長には随分、感謝しているんですからね」
「うるさいよ。きみ、これも公務だよ」
セルジオ越後はうしろから叱責したが運転手はひるむことはなかった。
「でも、みなさん、ずいぶんと楽しそうじゃないですか」
「市民の福利を追求することが市長の喜びでもあるのだ」
市長の大島渚はもっともらしい顔をしてつぶやいた。
「エルゲランに着きましたでございます」
運転手は自動車を停めると、まっさきに外に出て、市長の横のドアを開けた。
運転手はくちゃくちゃになった帽子を脱ぐと、ぺこりと頭を下げた。「いいご返事を待っていますよ」
そして運転手は入れ歯の入っている口をにやりとゆがめた。
運転手のその言葉の語尾まで聞かないうちに三人はエルゲランの中に入って行った。
ビルの中には興信所や輸入代行業やら、いろいろな事務所が入っていたが、中で働いている人間はみんな帰っている。
ぎこぎこと変な音のするエレベーターに乗って三人は五階まで上がった。
入り口のドアには正木コーヒー豆店という看板がかかっている。
ホーローびきの看板にはコーヒーの木とエチオピアの国のかたちが描かれている。そして正木コーヒー店という日本語と同じ内容がアラビア語で書かれているが、もちろん、そこにいる誰も読めなかった。ただ変わった文様としてしか見えないのだろう。
「これだ、これだ」
「警察署長のパパイア鈴木が言ったとおりの偽装工作がなされています」
セルジオ越後がいきおいよくドアを開けると、中にいた巨大なアフロヘアーが振り向いた。
「市長、お待ちしていましたよ」
パパイア鈴木の横にはサーカスで使うような実弾の飛ばないような大砲みたいなものが置いてある。
これがドクター中松が開発した人間捕虫機である。
その横には白い実験着を来たドクター中松が立っている。
部屋の中にはそれだけしかない。
いや、まだある、部屋の備品の椅子が数脚、それに電話の置いてある小さな机。
「新聞広告を見ましたよ。あれで平井堅がつれますでしょうか」
「つれますよ。絶対に」
パパイア鈴木は自信に満ちあふれて答えた。
そのとき部屋の中にある電話がなった。
「もしもし、えっ、なに、冷やし中華、三人前、ここはラーメン屋ではない」
パパイア鈴木は怒ってがちゃりと電話を切った。
そしてまたすぐあとに電話が鳴った。
「ここはラーメン屋で・・・・」
ここでパパイア鈴木はみんなを手招きして呼び寄せた。
「もしもし、新聞広告を見たのか」
すると電話の向こうから彼の声が聞こえる。
「きみ、もしくはきみたちが平井家の家宝、十玉そろばんを盗んだことは何も聞かないことにしよう。とにかく、それを返してもらおう」
「よし、返してやろう。もう、われわれにはそんなものは必要がなくなったのでな」
「どうやって返すのだ」
「商社ビルの側面に記念モニュメントが出来ているのを知っているか、そこに今夜だけ十玉そろばんをかけて待っているので取りに来るのだな」
パパイア鈴木はそれだけ言うとがちゃりと電話を切った。
「かかりましたよ、かかりましたよ」
そこにいたみんなは声を押し殺して腹をかかえて笑った。
「電気をけさなければ」
パハイア鈴木は電気を切って、窓を全開にして、向かいの商社ビルをのぞいた。
記念モニュメントの上方、地上十メートルの高さのところに前もって十玉そろばんの入ったふくろがかけられている。
部屋の中にいたみんなは沈黙したまま、下の道路の方を見ていた。
「来ましたよ、来ましたよ」
下の道路を監視していたセルジオ越後は蟻のように動いている黒い影を見つけて、他の連中を呼んだが、みんなが窓際に来てその影を見つめたときには一番下のところからよじのぼりはじめていた。
「スパイダーマンみたいな奴だなあ」
「おっ、あれは」
パパイア鈴木はもうひとりの人影を見つけた。
「ヨン様」
秘書のダニエランがその見たことのある中学一年生の名前を小声で呼んだ。
「あいつ、何しに来たんだ」
「いいよ、まず、平井堅を捕獲するほうがさきだ」
ドクター中松が大砲の照準を壁をよじのぼって行く平井堅の方に合わせた。
「間違わないでくださいよ、あっちじゃなくて、あっち」
「うるさい、わかっておるわ」
「いまだ」
ドクター中松が引き金をひくとドンという音がして網がひろがり、平井堅の身体を包むと地上に落ちて行った。
その少し下の方の壁をよじのぼっていたヨン様は身の危険を感じて壁の横の方へ行き、いつしか地上に降りて、その姿は見えなくなった。
「はやく、下に行くのだ。地上には特殊仕様の囚人護送車が置いてある。
平井堅は警察署に運ばれた。
警察署長のパパイア鈴木と市長の大島渚は署長の部屋の中で計画がうまくいったことに安堵していた。
「やりましたなぁ。ついに暴力革命学生のひとりをつかまえました」
吸ったたばこの煙を満足そうに鼻の穴から出しているパパイア鈴木はしてやったりという顔をしている。
「署長、頼みがあるんですが」
「大財閥の平井家から身代金を取るのでしょう、わたしも一口、いれてください」
「いや、そんなことではありません」
「じゃあ、どんなこと」
「平井堅は今どこに」
「警察署内でも難攻不落、外部から入ることは不可能、内部から逃亡することも不可能という取調室にいます」
「平井堅のことはわたしに一任してもらいたい」
「一任というと」
「平井堅の取り調べはわたしに任して欲しい。短時間で終わります。そして、ひとつだけ聞いたら、彼を解放します」
「せっかく、つかまえたのに」
パパイア鈴木は口をへの字に曲げてすねた。
「彼は何も犯罪を犯したわけではない」
「じゃあ、なぜ、平井堅を捕まえたのですか」
「彼はある女性の心の中にあしあとを残した。それが問題なのです」
「それは一体誰ですか」
市長の大島渚が答えるまでもなく、それは市長の娘の上戸彩だった。「それが誰だか聞くのはやめましょう。個人的なことだから。この秘密のドアをつかえば、平井堅のいる取調室に行くことが出来ます」そう言われて、秘密の鍵を預かった市長の大島渚はその部屋へ行くための通路に入った。
通路は斜めの坂になって下に降りて行けるようになっている。
市長の大島渚は伝説の大番長、平井堅をせめるつもりはなかった。
自分の最愛の娘、上戸彩を苦しめている張本人だとしてでもである。
きっと、鳳凰中に通う、その女子中学生が彼を騙しているのに違いない、そう確信していると、むしろどうやって、その女狐が平井堅をたらし込んだかということに興味がふくらんでくる。
そんなことを考えていると坂の一番下の場所までたどり着いた。秘密の鍵をあけると、もの憂げな瞳をして平井堅がこちらを向いた。「平井堅くん、久し振りだね」
「大島渚市長、これはどういう真似ですか」
「きみがなかなかつかまえられないのでこんなお芝居を仕組んだんだよ。きみはまだ娘の上戸彩の友達だろうね」
すると平井堅の顔に申し訳なさそうなかげりが生じた。
「実はきみが変な女にたぶらかされているという話しが耳に入っている。そのことできみに聞きたいことがあるんだ」
「話しましょう」
平井堅は市長の大島渚の顔を見た。
大島渚は期待に胸がふるえた。
そして緊張もした。
どんな、やすっぽい方法を使ってその女が平井堅を籠絡したかを。
平井堅は静かに話し始める。
市長の大島渚の顔は緊張している。
しかし、話しを聞いているうちに大島の顔の緊張はゆるみ、むしろ脱力感さえ、現れている。
そして、市長の大島渚は急に大声を上げた。
「ばかげている」
「それがすべてなんです」
平井堅は静かに言った。
「それがどうしたと言うんだ。本当にばかげている。そんなことできみは、きみは、その女がきみにとって特別な存在になったとでも思っているのか、きみがそう思っていても、相手は何も思っていないに違いないんだ。きみには上戸彩という世界中捜しても見つからないような最高の伴侶がいるじゃないか」
ふたりのあいだに沈黙が流れた。
「約束どおり、僕は帰らせてもらいます」
平井堅は静かに立ち上がった。
*************************

第十四回
「えい、死んじまえ」
「ばか、ばか」
「お前、呼吸してんのかよ」
市内に花見小路という飲食店街がある。入り口は三メートルぐらいの幅で、入り口と出口には花見小路と書かれたアーチが立っている。入り口から中に入ると道の両側にはおもに飲食店、一杯飲み屋だとか、小料理屋、おでん屋、とんかつ屋などが並んでいる。朝の早い時間には、それらの店の営業が夜遅くまでおこなわれているので働いている人間はいない、夜中の店の閉まる時間の頃にゴミ出しがおかれ、店の裏口のあたりに生ゴミが出される。働いている人間は朝にはその店の中、もしくは自宅に戻っているので、小道にはいない。からすがそのゴミをつっいたり、野良猫がゴミ箱の中に入るのを防止するためにナイロンの網がかけられている。
しかるにその通路は近所の小学校の通学路になっているから黄色い丸い帽子を被った小学生の集団登校のための集合場所になっている。集団登校というのは年長の小学生が列の先頭と後方に立って低学年の児童を挟んで小学校に登校するためのやり方である。その目的は交通事故に遭わないためとか、変なおじさんにつれさられないためにとか、いろいろある。もちろん、遅刻をしたり、風邪をひいて病院へ行ってから登校する児童はひとりもしくは親につれられて小学校の校門をくぐることになる。その花見小路の中のとんかつ屋の前で倒れている男がいて、もちろん生きているのだが、それを見つけた集団登校のために集合している小学生たちが、そこらへんにある紙くずをぶつけたり、黄色い握りがひよこのかたちをしている雨傘でつっいているのである。しかし、倒れている男はまったく起きようとしなかった。
「何してんだ。おめぇら」
黒い業務用の自転車をきーこきーこと音をたてながらこいで来た老人がそこでとまると自転車から降りて小学生たちを叱りつけた。
「この人が病気で倒れて、死にそうだったらどうすんだ」
「へん、病気なもんかい、酔っぱらってぶっ倒れているだけだよ」
小学生達が憎まれ口をきいた。
「最近の小学生は鶴の恩返しも読んだことないんだな」
「何だよ、それ」
「浦島太郎みたいな話しだよ」
「お前ら、どこの小学生だ」
「へん、そんなこと言えるか」
そのときゴミ箱の横で倒れていた男がうつ伏せになって倒れていた身体を反転すると右腕を伸ばしてそばにいた小学生の足首をつかんだ。
そして、
「釈由美子、釈由美子~~~~~~」
と叫びながら、げっぷを二三回繰り返したあとでげろを吐いて、小学生のソックスの上にひっかけった。
「きゃあ~~~~~~」
小学生たちは身動き出来ないと思っていた男の突然の反撃にあい、奇声をあげながら走り逃げた。
「水を、水を」
男は上半身を起こすと水を求めてさまよった。
「あっ、お前は」
「あっ、あなたは」
「わが弟子、イ・ビョンホン」
「風船拳始祖、武田鉄也老師」
「一体、どうしたということだ」
自転車屋の親父の武田鉄也はイ・ビョンホンの身体を抱き起こした。
かっての弟子、イ・ビョンホンの醜態を目の当たりにした自転車屋の親父、武田鉄也は絶句した。
「とにかく、駅前の喫茶店、カトレアで詳しい話しを聞こう」
風船拳老師武田鉄也は老人とは思えない力でイ・ビョンホンの身体を抱きかかえると自転車の荷台に座らせてまたペダルをこぎ始めた。
ゴムの木でまわりから見えにくくなっている小さいデコラ板で出来た長四角のテーブルを囲んでイ・ビョンホンと武田鉄也は向かい合った。
イ・ビョンホンの心の中ではこんな落ちるところまで落ちた自分の姿をかつての師に見せても恥ずかしいという気持ちが起きないくらい彼の感覚は麻痺していた。社会的体面という感覚が全く麻痺していた。
武田鉄也の方はと言えばかつての自分の弟子のあまりの変わり様にいろいろな類推の断片の接続も出来ないくらい想像の域を超えているイ・ビョンホンの変わり様だった。
武田鉄也の知っていた頃は有能な外交官として日本と韓国のあいだを行き来していたのだ。その身のまわりには華やかな噂が行き交い、将来は政治家として国政の重要な部分をになうことは確実視されていたのだ。テーブルの前でイ・ビョンホンは背を丸めて小さくなっている。
「一体、どうしたというのだ。その変わり様は。お前は無意識に夢の中で釈由美子、釈由美子と叫んでいたではないか。釈由美子というのはお前の婚約者の女だったのではないか」
すると涙目になりながらイ・ビョンホンは風船拳老師武田鉄也の手をとった。
「一体、何が不満だというのでしょうか。わたしの将来は約束されていたというのに。金もある、地位もある。東京湾には外洋用のクルーザーだって置いてあるし、別荘も立科に一軒、逗子に一軒、外車は五台もあります。外車の一台はシルバーゴーストという骨董的な価値もある車ですぜ。一体、何故」
「何故とは」
風船拳老師武田鉄也はイ・ビョンホンの目を見つめた。
するとイ・ビョンホンはなぶられ続けた犬のように暗い目をしてくちびるをゆがめながら、この喫茶店の木目がプリントされたベニヤ板を見つめたが、あきらかにそれは遠い昔の何者かを見つめているに違いなかった。
「その女に逃げられたのか」
もう何も隠し立てをしてもしようもないと思っているらしかった。
「婚約して、結婚の直前、各界の名士を招待して盛大な披露宴をとりおこなう予定でした。それなのに、何故。あんなわけのわからない男と駆け落ちするなんて、前衛舞踏家という肩書きを自分で名乗っていますが、ふだん、やっていることと言えば新宿のターミナルビルの前で鮭缶の捨ててあるのを拾って来て、一日中、それを前にして缶からの中に金が入ってくるのを待ちながら座っていることですからね。それなのに、釈由美子はその男のあとをどこまでもついて行くと宣言して僕に後足で泥をかけ逃げて行ったのですよ」
「愛だな」
風船拳老師武田鉄也はぽつりと言った。
「愛ですって、師はその男を見たことがあるのですか。むかし、二丁拳銃とい名前で漫才師をやっていましたよ、その後、気候予報士の試験に通って、そのあとに前衛舞踏家になったらしいです。名前は矢部とか言ったような、言わないような」
「イ・ビョンホンよ。お前は釈由美子と一緒に暮らしていたのか」「そんなこと出来るわけないじゃないですか。年がら年中、韓国と日本のあいだを行ったり来たりしていましたからね。しかし、由美子は何不足もないはずなんだ。あいつが不足を感じるはずがないんだ。豪勢なくらし、豪勢なおくりもの、何でもやっていましたよ」「しかし、釈由美子とテーブルを囲んで、食事をしたことは、お互い楽しい語らいとまで言わないが」
「あるわけないじゃないですか、僕は年がら年中、韓国と日本のあいだを行き来していた。それをあんな二丁拳銃の漫才師なんかに、年収は僕があいつの百倍もある。あんな奴に、あんな奴に」
イ・ビョンホンの頭上にも風船拳老師武田鉄也の頭上にも巨大なアドバルーンのように二丁拳銃という漫才師の貧相な矢部の顔が覆った。
その上そのアドバルーンはふたりを見下すようにニヤリと笑った。「お前は負けたのだ。二丁拳銃の矢部に」
イ・ビョンホンの表情は凍り付いたようにじっと動かなくなり、その気まずい状態がしばらく続いた。
そして皮肉な表情を浮かべたイ・ビョンヒホンはふたたび口を開いた。
「師よ、わたしは何を信じていいか、わからなくなりました。わたしの財力、地位、そしてこのルックス、これらを持ってしても不可能なことがあったとは・・・・」
「イ・ビョンホンよ。現実を受け止めなければならない、時間は過ぎ行くのだ。ひとつとして確かなものはない。しかるに真理は常住不偏不滅である。イ・ビョンホンよ。お前が一番、光輝いていた中学二年の頃を思い出すのだ」
イ・ビョンホンの中学二年の頃はその人生の最盛期だった。その上、国家目的も凌駕するような秘密の任務を負って暗躍していたのだ。イ・ビョンホンはその頃のことを思い出していた。
「お前をあの日に返してやろう」
風船老師武田鉄也はテーブルの前に置かれているコーヒーのカップを横に置くと、風船拳の構えをとった、そして、右や左に両手を動かしてから人差し指を差し出すとイ・ビョンホンのへそのあたりをさした。
「中学二年生にな~~~~~~れ」
イ・ビョンホンは自分の身体がいくぶんか小さくなったような気がした。
「イ・ビョンホンよ、お前はもう中学二年生だ」
そう言って風船老師武田鉄也の差し出した手鏡で自分の姿かたちを見ると信じられないことだが確かに中学二年生になっている。
「イ・ビョンホンよ。お前はもう中学二年生だ。これからは中学二年生として行動するのだ」
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第十五回
「市長、平井モータース社長、崔洋一氏がいらっしゃいました」
「本当か」
市長の大島渚はあわてて机の上を整理した。机の上には見られたくない書類、飲み屋のつけや、今度建設予定の公民館の見積書などが乱雑にのっている。市長の大島渚がそれらの書類を見られて不都合だと思うなら、彼の思い過ごしである。平井モータース社長、崔洋一は日本で屈指の大財閥であり、その財産はこの市の予算などとは較べようもない。
「開けるよ」
ドアが開けられ、崔洋一が市長の執務室の中に入って来た。
「いらっしゃいませ」
助役のセルジオ越後が揉み手をしながら平井モーターズ社長を招き入れた。
「さあ、ここにお座りください」
セルジオ越後が執務机の前にある丸テーブルをすすめた。
「ダニエランくん、崔社長にお茶を用意しないかい」
「はい、ただいま、ただいま」
秘書のダニエランが鬱陶しげに答えた。
丸テーブルの前に座った崔洋一の前に市長の大島渚と助役のセルジオ越後が座ったところで秘書のダニエランがお茶とおせんべいを持って来た。
「わざわざ、何のお越しでしょうか、崔社長」
「息子の平井堅から聞きましたよ。警察の方で家宝の十玉そろばんを見つけてくれたって、あれは平井家の家宝ですからな。そのお礼にあがったところですよ」
「警察署長のパパイア鈴木氏から詳しい話しを聞きましたか。上水路を管理している老人の住んでいる藁葺き屋根の家がありましたよね。あの老人が死んで、あの家の倉の中にありましたよ。しかし老人が死んでしまったので真相は闇の中ですがね」
「いえ、十玉そろばんが見つかってくれれば、うちとしてはそれでよろしい、今回のことでは市長もいろいろと骨を折ってくれたそうですし、余興も付け加えてくれたらしく、息子の平井堅も喜んでいました」
どうやらあの捕り物のことを言っているらしかったが、それが皮肉ではなく、本当に喜んでいるらしかった。平井堅は余計なことを伝えていないらしい。
「市長とはそのうち親戚になるかもしれませんな」
平井モータース社長の崔洋一は豪快に笑ったが、彼は家庭の事情も、平井堅が変な女にひっかかっていることも知らないようだった。そのことも平井堅は何も話していないらしかった。
この話しが壊れなければいいと切望しているのはもちろん市長の大島渚の方が強かった。
何しろ、平井モータースは大財閥であるからである。
でも、なんで崔洋一はここに来たのだろう。
そのことは秘書のダニエランも助役のセルジオ越後も市長の大島渚も知らなかった。
崔洋一は淡い黄色のお茶に口をつけるとふたたびそれを丸いテーブルの上に置いた。
「今日来たのはお願いがあるからです」
「どんなことでしょうか」
市長の大島渚は崔洋一の顔を見上げた。
「平井ランドのことなんですが」
平井ランドとは平井モータースが作った国内最大のアミューズメント施設である。この市の隣にある。
この施設のためにわざわざ近所を走っている電車の駅が出来たし、その周辺は再開発されて分譲住宅が数千戸建てられた。休日や祭日には近郊から若者や家族連れが大量にやってくる。その電車の駅というのもいやにメルヘンチックな装いがされていて、そこへ来る客を夢の世界へつれていく入り口のようになっている。
「平井ランドがどうなさったのでしょうか。平井ランドは隣の県にあるでしょう」
「ええ、平井ランドは隣の県にあります。しかし、わたしの一家はこの市に住んでいる」
考えてみれば不思議なことだった。
日本でたぶん一番の大金持ちがこの市に住んでいるということがである。
「この市に感謝したい気持ちでいっぱいなんですよ。しかし、気持ちだけでもね」
市長の大島渚も助役のセルジオ越後もほくほくした。
平井モータースの崔洋一はこの市に多額な寄付をしてくれるのかも知れない。
「寄付は・・」
という前に崔洋一は言葉をつないだ。
「この市に感謝したいのですが、それを具体的にあらわしたいのですよ」
「どんなふうに」
秘書のダニエランが言うと
「なんだい、そんなにがつがつして、お下品だぞ、きみは」
セルジオ越後はこの市に金が落ちるものだという前提で話した。
「実は私の息子がこの市の中学に通っていることをご存知だと思います。それでこの市のこの中学すべてに感謝の意を表したいとおもいましてな。ある考えがあるんですよ」
セルジオ越後が変な顔をして小首を傾げた。
「どんな考え」
そして、どうやら自分の考えと違うようなのでセルジオ越後はなかば落胆していた。
「この市の全中学からひとりの女子学生を選んで、その子を平井ランドに招待したいと思いますのです」
「むむむむむむ」
ここで市長の大島渚はうなった。
自分の思惑とはあまりにもかけ離れている。
「マイケル・ジャクソンも同じようなことをやっています」
セルジオ越後は苦々しくつぶやいた。
「いやぁ、そうでもないのですよ。全中学からひとりの女の子を選ぶだけではなく、すべての中学からひとりづつ男子中学生を選んで、平井ランドの中ではその中で従業員として働くのです。どうです、マイケル・ジャクソンとは違うでしょう。つまりどこかの国に子供の国というものがありますな。中学生だけで運営する中学生の国というものをやってみるのです」
くだらない、市長の大島渚は心の中でつぶやいた。
金持ちの考えそうなくだらない考えだ。
ほかに金の使い道を考えられないのか。金の使い道が考えられないから金がたまるのか。
しかし、崔洋一は本気らしかった。
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第十六回
「おい、あいつ、誰だよ」
仲村トオルが教室のうしろの方からのぞくと見たことのない中学生がうしろの方にちょこんと座っている。
「だれだれ」
ルー大柴も別所哲也ものぞき込んだ。
「三人とも、何してるのよ。早く、入りなさいよ」
あとから来たKK子が教室の中になかなか入らない三人の背中をつついた。
「ほら、見たことない奴がうしろの方で座っている」
「誰なの、あれ。中二にしては小さいじゃない」
四人がその侵入者を眺めていると、同じクラスの倖田來未が同じように四人の背中をつついた。
「何だ、知らないの。中一のヨン様じゃないの。ヨン様はどこへ行ってもいいって教育委員会の方から許可が出ているんだって。この前なんか、用務員室でフライパンで銀杏焼いて食べながら用務員のおじさんたちと株価について語り合っていたし、給食室では炊きあがったご飯を大きなおしゃもじで返していたわよ」
四人がヨン様の方を見てもヨン様は自分のこうもり傘をたたむのに熱中していた。
四人の方を見ることもなかった。
四人はいつものとおり自分たちの席に座っててんで勝手ににくつろいでいた。
KK子のとなりに座っている倖田來未が筆箱のさきでKK子をつついた。
「なによ」
「知ってる、転校生が来るそうよ」
「どこから」
「韓国かららしいわ。わたし、見ちゃったのよ。一階の職員室で、ちらっと横顔だけだけどね。イケメンよ。イケメン。わたしが見ていたら国語の便所のスリッパがやって来て、何、見てんだって言うからその場からおさらばしたんだ。正面からは見ていないんだけどね」
「あんたらしいわね」
「もう、なに言っているのよ。わたしはイケメン募集中だから、あんたみたいに教室の中に愛人が三人もいて平井堅にまで追いかけられているって言うわけじゃないもん」
「もう、三人とも違うわよ。幼なじみ、幼なじみ、それに平井堅なんてぜんぜん関係ないわよ」
「もう秘密にしちゃって、でも、なんで平井堅に追いかけられちゃうことになったの。みんな、知りたがっているのよ」
「知らない」
KK子はまた前の方を向いた。
自分を守ってくれると宣言した三人の会の連中、だれきって机の上にたこみたいに顔をつけている、はなはだ頼りなかった。
廊下に面した窓際にいた連中が窓から顔を出して廊下の方を見ていたが一斉に歓声を上げた。
「来たぞ、来たぞ」
女子は手を叩いて喜んでいる。
「イケメンよ、イケメンよ」
教室の前の戸ががらりと開いて
「うるさいぞ、騒いでいるんじゃない」
担任の阿部寛が両手で教室の連中を制した。
「きみたちの新しい仲間だ。さあ、こっちに上がってくれるか」
その韓国人は黒板の前に立った。
男子生徒たちは見たことのない新しい人間がここに来たことに対して、そして女子学生たちはカッコイイ男子が来たことに対して喜びが隠せなかった。
そして仲村トオル、ルー大柴、別所哲也の三人は本能的に反感を感じていた。その反感というのもKK子を、まだKK子が彼らのものだというわけでもないのに、とられてしまうのではないかという動物的なひらめきだった。
「みんなに紹介しよう。いや、きみから言ったほうがいいかな」
「イ・ビョンホンといいます。得意なのは語学、とくに韓国語、それに政治史です」
それは誰あろう、風船拳老師武田鉄也によって中学二年生にされてしまった篠田正浩の息子だった。飲んだくれて墜ちるところまで墜ちていたイ・ビョンホンは風船拳老師の力で今は釈由美子を追うのではなく中学二年生になってこの教室にいる。
教室のうしろの席でヨン様が彼をじっと見つめている。
その日はイ・ビョンホンのことで教室中は持ちきりだったし、他のクラスからも多くの生徒がイ・ビョンホンを見にきた。特に女子中学生が多く、彼を見ると嬌声を上げた。なかには女の先生まで見に来ていた。
「すてき、イケメン、わたしの理想だわ」
中学校からの帰り道、自分のかばんを抱きしめながら倖田來未はイ・ビョンホンの姿を想い出しながら言った。
みんなは市電通りを歩いていた。市電通りに植えられた柳は緑の若芽を出している。爽やかな風が通りを流れていた。その印象はイ・ビョンホンにつらなっている。
「なんでぇ、くだらねぇ」
倖田來未の嬌声を聞きながらルー大柴が反感をあらわにした。
下唇を突き出して両手をポケットに突っ込んで舌打ちをした。
「最初で新鮮だから、みんなあんなに騒いでいるだけだよ。なあ、トオル」
別所哲也がとなりに並んで歩いている仲村トオルに話しかけた。
仲村トオルはイ・ビョンホンがどうだかということよりも、KK子がイ・ビョンホンをどう思っているかということにしか興味がなかった。
「なんか、どっかで見たことがあるような気がするんだよな。あいつ」
「何、言っているのよ、あんな、イケメン、めったにいないわよ」
「いや、見たことある、どっかで見たことある」
「ないってば」
「ある」
「ない」
すると前の方を歩いていたKK子が急に仲村トオルの方を向いて、
「トオル、イ・ビョンホンくんって格好いいじゃないの。素直に認めなさいよ。男らしくないぞ」
KK子は母親みたいな調子で言った。KK子の髪はきれいなカーブを描いて回った。なにかシャンプーのコマーシャルに出てくるひとこまのようでもある。
仲村トオルはこの母親みたいな調子がむかつくのである。
思い起こせば小学校の頃、プールの水泳で二十五メートルの折り返しが出来ないことがあった。そのときにもKK子がいた。折り返しというから五十メートル泳ぐことである。それは小学校の四年生のときだったか、夏の薄曇りで夕立が降りそうな天気だった。なぜか女子ではKK子だけがプールのスタートラインのところでローレライで歌われたライン川の川岸にいる乙女みたいに、いやに色っぽく足をくずしてプールの中を見ていて仲村トオルがやっとのことで五十メートルを折り返してプールの中で立つと、そのスタートラインから手を叩いて
「トオルくん、よくやったわね、がんばった。がんばった」
とその言い方が母親のようで足の組み方が西洋の絵画に出てくる裸婦像のようであり、あきらかに小学生のくせに肉体は成熟していた。仲村トオルはその上から見下ろしてものを言うKK子の態度にはいつもむかついていた。
しかし水着につつまれたその身体はもうすっかりと大人びていた。「もう、むかつく」
ここでまた母親ぽっい調子が出ていた。
たしかに同じ年齢なら向こうが大人になるのは早いわけだが・・
「あれ、あれ」
倖田來未が市内電車の停留所に立っているチマチョゴリを着た女を指さした。
「あれ、虎中のチェ・ジュウじゃないの」
「あれがチェ・ジュウか」
ルー大柴も遠くからそこに立っている女を見て言った。
市電の停留所には五六人の乗客が待っている。
青銅で出来た市電の停車標識の前にすっきりと立つ彼女の姿はそれだけでも景色の中にとけ込んで一幅の絵を作っている。
やがてこの市の歴史そのものといえるようなモスグリーンと黄色の配色の骨董品のような市電が停車場に滑り込んで来た。それはまるで十九世紀の空想科学小説に出てくる乗り物のようだった。
チェ・ジュウは他の乗客と一緒に市電に乗り込むと乗車口の戸が閉まった。彼女は車内の奥の方に押し込まれた。電車の窓はすっかりと開けはなれていたので立ったままの彼女の姿が窓からのぞき見ることが出来た。
やがて、ごとりという音がして線路の上にのっている車輪が回転して市電が動き始める。
そのときだった。列車の中の方でチェ・ジュウは混雑している車内で乗客の身体に押されたらしく、窓の方に手をついてかばんが外に放り出された。そのかばんが外に落ちた。
「かばん、落ちちゃった」
「あれあれ」
別所哲也とルー大柴が口に手を当ててそのかばんを見つめた。
「まだ、間に合う。いけ、いけ」
倖田來未がそのかばんを指さした。
「間に合わねぇよ」
「間に合うわよ。すぐさきに信号があるじゃない。あそこで最低二分は止まるから」
「お前が行けばいいだろう」
「あんた、行きなさいよ」
倖田來未はそばにいる仲村トオルの片腹をかばんで押して無理矢理押し出した。
「疲れんだろう」
そう言いながらも仲村トオルはよたよたと走り出して、かばんを拾って走りだすと目の前をとろとろと市電が走っている。
市電は停車場を出て少ししか走らなかった。
倖田來未が言ったように市電はすぐそばの信号機のところで止まっている。
仲村トオルが息を切らせながら走って行くと(普段の運動不足のため)チェ・ジュウが止まっている市電の中から手を出して待っていた。その女に仲村トオルはカバンを差し出した。
市電の中の乗客たちは目を丸くしてその様子を見ている。
窓からチェ・ジュウが仲村トオルに微笑みかけた。
「ありがとう、あなたの名前は、同じ中学生でしょう」
「へへへへ、龍中二年、仲村トオルなんちゃって」
「わたし、虎中二年、チェ・ジュウ」
「へへへへ、知ってたよ」
「ありがとう」
チェ・ジュウは微笑んだ。
信号機の色が変わり、また市電はゆっくりと走り出した。
その去って行く電車を見ながら仲村トオルはいつまでも手を振っていた。
なにかいいにおいがするような気がする。
それから、とことこと他の四人が待っている場所に戻って来ると、ルー大柴と別所哲也のふたりがさかんに質問して来た。
「つき合ってくださいって言ったか」
「まず最初は友達からという方がさきなんだよ」
仲村トオルは得意になって手で首のうしろのあたりを掻いている。
「やったじゃない、トオルくん、電車に間に合ったよね」
「ねえねえ、そばで見た、チェ・ジュウ、どうだった。どうだった。何、話したの」
意外なことに女の中でも倖田來未はチェ・ジュウに興味があるようだった。
「そばで見てどうだった。やっぱり背が高いの」
「へへへへへ」
仲村トオルはやっぱり頭を掻いている。
「チェ・ジュウってこの市では有名だもんね。きれいなことで」
倖田來未の言ったとおりだった。
この市の中ではチェ・ジュウは有名だった。
市の中では全中学一の美女として認定されていた。
したがって他中学の生徒もチェ・ジュウのことを知っていて、龍中の生徒の中で彼女の通学の途中に彼女に愛の告白した生徒もいた。
「チェ・ジュウがどこの生徒ですかって聞いたから、俺、答えちゃったよ。龍中の二年の仲村トオルって名前だって」
「やったじゃん」
「でかした。トオル」
「大統領、大統領、あんたは偉い」
「あんた、最高」
何をでかしたのかよくわからない。
三人の会なんて言うものを作ってKK子を一生守るなどという約束をしていた三人のバカたちであったが、そんなことも忘れて浮かれ騒いでいる。
何しろ、チェ・ジュウは全中学一の美女だからだ。
「へん、やった。やった」
仲村トオルは両の手ひらを組み合わせて頭の上に上げ、さかんに勝利のポーズをとっている。
「トオル、バカじゃないの。あんなとろとろ走って。それにあのかばんを渡したときのにやけた表情、まるで陸に上げられた蛸みたいじゃないの」
仲村トオルの御機嫌な表情を見てKK子はプリプリしている。
「ふん、おれだって、行きたくて、かばんを届けに行ったわけじゃねぇや。倖田來未が無理矢理行かせたんだよ」
「でも、かばんを渡すとき、結構うれしそうだったじゃないのよ」
「そうだ、そうだ」
「そのとおり、そのとおり」
別所哲也とルー大柴のふたりも倖田來未を応援した。
「そんなことあるかよ」
「そんなことあるわよ」
KK子は自分のかばんの角のところをさかんに仲村トオルの腰のあたりにぶっけている。
「いてぇなあ、何すんだよ」
「まあ、いいじゃないの。チェ・ジュウは所詮、住んでいる世界が違うんだしぃぃぃぃ。トオルがチェ・ジュウとつき合う可能性は限りなくゼロに近いんだしぃぃぃぃ」
「まあ、そうね」
KK子も倖田來未のもっともな意見に同意を示した。
「お汁粉、食べて帰らない」
倖田來未の意見に他の四人も同意した。
四人と別れて家に着いた仲村トオルは、自分の部屋に入って、ごろりと横になると天井を見つめた。
今日の市電での出来事が思い浮かんで来る。
かばんを渡したときのチェ・ジュウの微笑み。それは自分に投げかけられたものだったのだ。そのとき仲村トオルはチェ・ジュウだけしか見えなかった。チェ・ジュウのまわりの景色はチェ・ジュウひとりにピントがあってまわりは色だけでかたちのない世界のようにぼんやりしている。
たしかに、その微笑みは普通の中学生の無邪気な微笑みとは違う。高級宝石店そのもののような雰囲気があった。
しかし、そういう印象を持てば持つほど自分と遠い世界の住人だという印象だけが残るのだった。
仲村トオルはやはりKK子の方を好ましく思ってしまう。
どう考えて見ても全中学最高の美女、チェ・ジュウと自分の接点はない。
「トオル、晩ご飯の支度、出来たよ」
下の方から彼の母親の呼ぶ声が聞こえた。
下におりて来ると、他の兄たちもそこにいた。弟もそこに座っている。
「早く来いよ、トオル、この果報もん、腹減っちゃっただろう」
一番下のまだ幼稚園に通っているピエールがトオルを罵倒した。
「幼稚園生のぶんざいで、だいたいなんでお前、そんな言葉知ってるんだよ」
次男の布施博は自分がその言葉を教えたもんだからにやにやしている。
トオルはピエールの頭をこずくと
「こんにゃろ、こんにゃろ、トオルなにすんだ。こんにゃろう」
と言いながらピエールは箸で仲村トオルのもものあたりをさかんにつついた。
「ピエール、そんなことやんじゃないの、かりにもあんたのお兄さんなんだから」
「俺だってこんな金髪の弟がどうして生まれて来たのかわからないよ。ほら、ソース」
仲村トオルは弟のピエールの皿の上のコロッケにソースをかけてやった。
「トオル、ほら、ソース、貸せ、貸せ」
斜め前に座っている長兄の所ジョージが手を伸ばしてソースを受け取った。
長兄の所ジョージは几帳面にコロッケの周囲の線に沿って万遍なくソースをかけている。
「かあさん、おれの同級生の市川崑って、知ってる、あいつ、カメラマンになったらしいよ」
「市川崑って、お前の同級生にしてはすごくふけていた友達だろう」
横から父親が口を挟んだ。
「知ってる、知ってる。あいつ、俺の遠足のとき、ついて来て写真を撮っていたなぁ。それもすっごい古いカメラで、写真を撮るとき意外は何もしゃべらないの。ずっと無口で何か悩んでいるようだった」
仲村トオルの横に座っていた布施博が答えた。
布施博の五歳上が所ジョージである。
仲村トオルの三歳上が布施博である。
仲村トオルの十二歳年下がピエールでピエールは生まれたときから金髪である。この家の実の子供かどうだかもよくわからない。
「あいつ、学生時代から、そんなアルバイトで稼いでいたんだよ」
所ジョージが説明した。
「それにしても、このコロッケ、うめぇなあ」
仲村トオルは何を食ってもうまく感じる年頃である。
その横でピエールはご飯粒を口のはたにつけながら箸を不器用に動かしている。
「どんな、写真を撮っているんだ。ジョージの友達のその市川・・」
「市川崑だよ。アイドル写真集らしいよ」
「ええ、アイドル写真集」
とたんに次男布施博は目を輝かした。
そういう方面に関しては仲村トオルも興味津々である。
「えっ、どんな写真を撮っているの」
「だから、アイドル写真集だって言っているだろう」
「どんなアイドル、どんなアイドル」
「だから可愛いアイドルだよ」
幼稚園児は箸をばってんに握ったまま茶碗の中のご飯を口の中にかきこんでいる。
「おい、うるさいぞ、アイドルでもなんでもいい。ピエールがご飯を食べているのを邪魔するんじゃない、今は食育の時間でもある」「そういうことだなあ」
長兄の所ジョージはすました顔をしてお茶を飲んだ。自分だけ、いい子になっている。
「アイドルの話しぐらいしたっていいじゃないか」
次兄の布施博はぶつぶつと言っている。
「そうだよ。そうだ」
仲村トオルもぶつぶつと同意した。
「そうだ、トオル、あとで、市川崑の作ったアイドル写真集を見せてやるからな、今はコロッケを食うだけで満足していろ」
「本当」
仲村トオルはほくほくとした。
自分の部屋に戻った仲村トオルはふたたび自分の部屋でごろりと横になっていた。
「トオル、ほら、持って来たぞ」
ふすまの向こうで長兄の所ジョージが仲村トオルに声をかけた。
彼は身体を反転させて立ち上がった。ふすまを開けると長兄の所ジョージが立っていた。
「ほら、持って来てやったぞ」
「これ」
それは意外にも貧弱な小冊子だった。しかし表紙には「市川崑ファースト写真集」という題字が堂々と書かれてある。
「これが未来の巨匠市川崑の作った写真集だ。その形容詞も僕がそう確信しているだけだけどね。せいぜいこれを見て青春のボルテージを高めるんだな」
「ジョージあんちゃん、ありがとう」
一応、礼を言って長兄が去ったのを待って、また、寝転がって、その写真集をぱらぱらとめくって見る。
その中には女の子の普段着の表情がたくさん載っている。
しかし、これをアイドル写真集と呼んでいいのだろうか。
モデルになっている女の子は可愛いことは可愛いが、全然知らない女ばかりである。
そして、写真の下には歯科助手とか社交場勤務とか書かれている。するとふすまが再び開いて、長兄の所ジョージが顔を出した。
「お前が誤解をしているかも知れないから少し説明をくわえておこう。市川崑、まだ金がなくてな、そこらへんにいる可愛い子に声をかけて写真集を作ったというわけだ。それでもお前にとっちゃ満足だろう。女に飢えているから」
「けっ、あんちゃんだって」
そう言いながら、仲村トオルはその冊子のページをめくっていたが最後の方のページになって、思わず声を上げた。
あきらかに盗み撮りなのだが、他の写真とは一線を画する一枚があった。
「これ、これ」
仲村トオルが指をさすと、所ジョージもしゃがみこみながらその写真をのぞき込んだ。
「お前、この女の子、知っているのか」
そのとき、下の方から母親が仲村トオルを呼ぶ声が聞こえた。
「トオル、電話だよ。女の子から、早くしな、待っているんだから」
「ちょい、待ち」
仲村トオルはその電話の主がKK子か倖田來未のどちらかだろうと思っていた。電話をかけてくる女の知り合いと言ったらKK子か倖田來未しかいない。
「ほら、早く、早く」
階段をあわててかけおりて母親から電話を受け取って耳に当てると
「アンニョンハセミヨ」
と鈴のような声が外耳道を通って鼓膜を振動させた。
その心地よい声で相手が誰であるかすぐにわかった。そして仲村トオルの顔はばら色に輝いた。
「あなたは誰」
「今日、あなたに助けて頂きましたわね」
「どういうこと」
仲村トオルはわざと可愛い声を出してすっとぼけた。
「市電乗り場の出来事ですわ」
「うっそ~~」
「虎中のチェ・ジュウです」
「何で、うちの電話番号を」
「龍中には知り合いがいるんです。その人に仲村トオルさんの電話番号をって聞いたら、教えてくれたんです」
「今日は本当にありがとう」
「でも、なんで僕に電話をくれたんですか」
「あなたとお友達になりたくて、今度お暇でしたら、ゆっくりとお会いしたいですね」
それからチェ・ジュウは仲村トオルに電話番号を教えた。
受話器を戻した仲村トオルは夢見心地だった。
二階の自分の部屋に戻ってくると、その上気した顔を長兄の所ジョージは見逃さなかった。
「お前、誰から電話かかってきたの、お前のところに電話のかかってくる相手と言ったら、KK子か倖田來未のどちらかだろうけどな。そうだ、おれは何を言おうと思っていたんだっけ、お前が電話におりて行ったから忘れちゃったよ。そうだ、さっきのことだけど、その最後に載っている女の子のことだったな。お前、知っているのか、この市では有名な女の子だぞ」
「あんちゃん、その本人から電話がかかって来たんだよ」
「本当か。トオル、嘘じゃないだろうな」
長兄の所ジョージはその言葉を言うと部屋の中に入って来て仲村トオルの胸ぐらをつかんだ。
「これが誰だか、知っているのか」
所ジョージはその最後のページを指さして舌をベロベロと出した。
「知ってるよ。その本人から電話が今かかって来たんだよ」
仲村トオルは得意そうな顔をして答えた。
「どうして」
長兄の所ジョージは目を丸くした。
そこで仲村トオルは今日のできごとを説明した。
すると長兄は涙目になって仲村トオルのそばにすり寄ってきた。
「この子、紹介してくれよ。いや、俺のためじゃない。この子に写真のモデルになって貰いたいんだ。市川崑のな、彼女をモデルにすれば**芸術社から、もっとちゃんとした写真集を出せるし、上野賞だって取れると市川崑は言っている」
上野賞というのは写真界で権威のある賞らしい。
「それに市川崑は自費出版で写真集を二冊も出して五百万の借金があるらしい。トオル、どうか、彼を助けてくれ」
「そう言われても」
仲村トオルは戸惑った。たまたま知り合いになったと言っても今さっきのことであるし、盗み撮りされているチェ・ジュウの写真があるということは市川崑は無理に彼女の写真を撮ったに違いないし、頼んで断られた可能性もある。そうならチェ・ジュウは市川崑にいい印象をもっていないのに違いない。しかし、チェ・ジュウの電話番号は教えてもらった。教えてもらったというよりも向こうから仲村トオルに知らせたのである。
技術工科室の裏庭で仲村トオルはいつもの仲間、別所哲也とルー大柴の三人でそこらへんの地面に敷かれているコークスの燃えかすを足でけっ飛ばしながら放課後の時間をつぶしていた。技術工科室の中には電気のこぎりとかボール盤とかが何台も置いてあり、壁の横にはのこぎりや金槌がかけてある。机は頑丈な木で作られていて、その横には工作物をはさむための万力がそなえつけられているが、今はそこには誰もいない。昼間の授業で黒板に板書された木製の振り子人形の設計図が消されずにそのまま残っている。
「チェ・ジュウから電話が来たのかよ。そりゃあ、すごいね、すごいね」
ルー大柴が仲村トオルの横腹をこずいた。
「なんだって、嘘みたいじゃないか、向こうから電話番号を教えて来たのかよ」
別所哲也も目を丸くした。
校舎の本棟はエルのかたちをしている。その短い辺の方に三人はいた。技術工作室は校舎の一番はじにあってそこを曲がると校舎の裏の方に入るようになっている。
「あんたたち、こんなところで何してんのよ」
校庭の方を歩いていた倖田來未が顔をのぞかせて声をかけた。
三人は秘密の話しをしていたので、倖田來未が煙たかった。
「何だよ、お前、こんなところに顔出してんじゃねえよ」
「何か、秘密のにおいがするなあ」
「何でもないよ、何でもありません」
別所哲也があわてて否定した。
「君たち、KK子を守るための三人の会って言うのを作ったんでしょう。KK子を仲間に入れずに何か話し合っているなんていいのかなぁ」
「何で、そのことを知っているんだよ」
「KK子が教えてくれたのよ」
「KK子を秘密で喜ばせることがあるんだよ、おれたちは」
すると倖田來未の影からKK子が顔を出した。
「KK子」
仲村トオルは思わずつぶやいた。
「トオル、わたし達、用事があるから、さきに帰るからね」
「わたし、もうちょっとここにいたい~~~~~」
倖田來未は反対した。
「いいわよ、行きましょう。トオル、哲也、ルー、わたし達、さきに帰るから」
「そういうことだから」
倖田來未も了解した。
「びっくりした」
ルー大柴が胸をなで下ろした。
「何か、この感覚、何て、言うのかな、教室で授業を受けていたら、外が急に曇りだして、雨が降りそうになって、かあちゃんが急にたずねて来たような、あるいは演劇活動をしていて、監督をして、いろいろな部員に演技指導をしていたら、突然、自分の奥さんがその職場に訪ねて来たような不思議な感覚だなぁ」
別所哲也がそう言うと
「本当、哲也はうまいことを言うなぁ」
とルー大柴は同意した。
仲村トオルは何か重いような気持ちになった。
心の中ではこんなお芝居をしている。
「ああ、きみか」
「お弁当、持って来たの」
「ありがとう」
しかし、お弁当を受け取るわけではないのだ。KK子には秘密の話しが待っているのだ。
「おっ、あいつ」
ルー大柴がへいの方を指し示した。
技術工作室の前はコークスのもえかすが一面に敷かれ、その向こうはブロック塀になっている。ブロック塀の前は桜の木が等間隔で植えられているのだが、花や葉が落ちすぎないようにかなり剪定されている。とくに初夏の頃には毛虫がたくさん発生するのでその対策もあるようだった。なかには幹のところから真っ二つに切られて乾いた年輪が見えている。その幹のところにちょこんと座っている中学一年生がいる。
ヨン様だった。
「見ざる、聞かざる、言わざるニダ」
ヨン様はそう言うと実際に耳を両手で押さえて三人の方をじっと見ていた。
「どうする」
「かまいやしないよ」
「いいさ、こいつバカだから」
三人はヨン様を無視して話しの続きをすることにした。
「さっきの話しの続きだけどさ。これを見てくれ。アイドル写真集、ただし、自費出版だ。だから一般には流通していない」
仲村トオルは長兄の所ジョージに貰った例の写真集らしきものを取り出すと、別所哲也とルー大柴のふたりの前に出した。
「なんだよ。これ」
「見て、見て」
ふたりはパラパラとその写真集をめくっている。
なぜだか、ヨン様までもがその写真集をのぞき込んでいる。
三人はよだれをたらしそうな感じでそれを見ていたが、最後のページをめくると一斉に声を上げた。
「おおおおお~~~~~」
それはヨン様も同時だった。
「チェ・ジュウじゃないか」
「ただし、盗み撮り」
仲村トオルは付け加えた。
「これを撮ったのは俺の一番上の兄貴の友達で市川崑って言う人なんだ。兄貴の話によるとその人は写真家としては今いちで、チェ・ジュウをモデルにして作品を作れば、売れっ子になると確信しているらしい、それに、わけのわからない写真集を自費出版して借金が五百万もあると言っている。一番上の兄貴に頼まれたんだ。チェ・ジュウにモデルになってくれるように頼んでくれって」
「たしかに、写真の出来というのはつまるところ誰をモデルに選ぶかということによるからな。チェ・ジュウはこの市の全中学一番の美女であるし、彼女を使えば、市一番の写真集が出来ることは間違いない、つまり、三段論法であるな」
ルー大柴は仲村トオルの顔を見た。
「それでチェ・ジュウは仲村トオルに好印象を持っている。それで向こうの方から電話番号まで教えてきた。じゃあ、簡単だ。チェ・ジュウにモデルを頼むのだ。簡単じゃないか」
ルー大柴は続けた。
「でもなぁ」
仲村トオルは複雑な表情をした。
「三人の会って言うのもあるしぃぃぃぃ」
「三人の会って言うのはルーの口からの出任せじゃないか」
別所哲也は口を添えた。
「トオル、お前の言いたいことはわかる。たしかに三人の会というのは俺の口の出任せだ。でも、その出任せから俺達三人とKK子はいつも行動を伴にしている。でもなぁ、KK子と俺達は夫婦だというわけじゃないし、チェ・ジュウとこれからつき合うというわけでもないだろう」
しかし、仲村トオルの心の中には引っかかるものがあった。
「じゃあ、こうしよう。ヨン様に意見を聞こう。俺達三人はチェ・ジュウにモデルを頼んでいいですか」
三人は一斉にヨン様の方を向いた。
「いいニダ」
ヨン様は一言で答えた。そして森の中に住む妖精のようにどこかへ行ってしまった。
そこで三人はチェ・ジュウに売れない写真家、市川崑のモデルをやってもらうようにたのむことにした。
仲村トオルがチェ・ジュウに会いたいという連絡をとると、チェ・ジュウが行きつけの店があるというので、バカ三人組はその店に行くことにした。
市の西側にスプーン橋という名前の橋があって、その橋を渡ると、ちょっとこじゃれたゆるやかな坂道があってその坂道の両側に洋装店や輸入家具などの店が並んでいる。
三人組にはほとんど縁遠い場所だった。休みの日には市の中学に通う女子などがよくこの通りに来て店の中の商品なんかをよく品定めをしている。
KK子も倖田來未も休みの日にはここによく来るらしい。
そんな店が並んでいる一郭に一階が入浴に関した、石鹸とかシャンプーとかバスタオルとか、香水や入浴剤、その他お風呂に関したものが置いてある店があって、その二階が南欧風のレストランになっている。場違いな買い物用の自転車に乗った三人がスプーン橋を渡って一階のその店の前に行くと二階のレストランのテラスから虎中の二年生のチェ・ジュウが手を振って三人を迎えた。そして彼女はレストランの中に消えて行った。
三人はいろいろな色の透明な入浴剤の丸い玉の横を通りながら店の中央に置かれている階段を通って二階に上がると外側の通りを背にしてチェ・ジュウが外の景色を眺められるテーブルに座っていた。
「よく、いらっしゃました」
三人はチェ・ジュウがなぜそういう言い方をするのかはわからなかったが、ここでくつろいでいる彼女の様子を見ると非常に頻繁にここに来ているという、つまり根城にしているらしいということは理解出来た。
「かばんを拾ってくれて、ありがとう。仲村トオルくん」
その横で別所哲也とルー大柴のふたりはさかんに自分たちの胸のあたりを指で指し示している。
「こっちが別所哲也、そして、こっちがルー大柴、ふたりとも龍中の二年生」
仲村トオルはふたりを紹介した。
「市電の停車場には、女の子がふたりいたみたいだけど」
「ああ、僕たちの友達でして、同級生なんですね。英語で言えばクラスメートっていうわけですね」
「まあ、座って」
チェ・ジュウに促されて三人は座った。
「突然、電話をかけてびっくりしたんじゃないの」
「でも、なんで、俺の家の電話番号を知っていたんですか」
「わたし、龍中にも知り合いがいるの。鳳凰中にも知り合いがいるわ」
「チェ・ジュウはこの市すべての中学の中でもナンバーワンですからね、きっといろいろな中学の男子生徒がつき合ってくれと言って寄って来るんでしょう」
語尾を変なに上げて、ニヤニヤしながらルー大柴がチェ・ジュウに媚びを売った。
「そうでもないよう」
チェ・ジュウはわざと男っぽく答えた。
「いやいや、そうでしょう」
ルー大柴はやはり変な目つきをしてチェ・ジュウを眺めている。
「その意見、賛成」
別所哲也まで同意の意を示した。
(おい、お前ら、仮にも俺達は三人の会というのを作っているんだからなぁ、ちょっとはKK子のことも頭の片隅に入れておけよ)
仲村トオルが小声で言うと
(ここに、KK子、いないだろう。トオル)
(そうだよ、トオル、ここまで来て、なに。KK子に義理立てしているんだよ)
(そりゃあ、KK子はおれたちの一番の宝物だけどさ。目の前に全中学最高の美女がいるのに)
「みんな、なに話しているのですか」
三人がチェ・ジュウに聞かれないようにごちゃごちゃ言っているのを怪訝な顔をして見つめている。
「そうだ、チェ・ジュウに見せたいものがあって持って来たものがあるんだ」
仲村トオルは腰のポケットのあたりをまさぐると例の小冊子を取りだした。
「見て見て」
「なに、これ」
テーブルの上に置かれたそれをチェ・ジュウの可憐な指がめくっていった。
「女の子たちの写真じゃない。わたしと同じくらいの年だわ」
それから最後のページをめくって
「あっ、これ私だ。でも、撮られた覚えはない」
「そうでしょう。盗み撮りですよ」
ルー大柴はまたニヤニヤしてチェ・ジュウの顔を見つめた。
「盗み撮りでもよく撮れているなぁ」
別所哲也もその写真を見てうなずいた。
「決して悪気があってやったことじゃないんだよ」
チェ・ジュウは仲村トオルの顔を顔にご飯粒でもついているのではないかという表情をして見つめた。
「この写真を撮ったのは俺の兄貴の友達なんだ。その人、売れない写真家なんだ。わけのわからない写真集を自費出版して五百万も借金があるんだよ。それで頼みというのが、チェ・ジュウにその人のモデルになってもらいたいんだ。そうしたら、その人、売れるに違いないと信じているんだ」
「というわけ」
「そういうこと」
チェ・ジュウは仲村トオルのその話しを聞くと、すっと立ち上がって店の奥の方に行くと何か大きな絵本のようなものを持って戻って来た。
そのあいだ、ルー大柴と別所哲也のふたりは紫色のよくわからないジュースみたいなものをすすっていた。それからテーブルの上に置いてあるメキシコのお好み焼きみたいなものを食べている。
(ふたりとも、がっっぃてるんじゃねえよ)
(いいだろう、ただで食わしてくれると言うんだから)
チェ・ジュウが椅子に座ったので三人はひそひそ話をやめた。
「これ、な~に」
ルー大柴がテーブルの上のその大きな絵本に疑問を持つ必要もなく、それは写真集だった。それもその表紙は白い地の中にチェ・ジュウの水着姿が写っている。
「これはなにニダ、なにニダ」
別所哲也は韓国人になっていた。
「なかを見ていいニダか、いいニダか」
「どうぞ」
「おい、これ」
仲村トオルはある部分を見て目を丸くした。
「撮影、篠山紀信って書いてある」
仲村トオルは自分の口の中に自分の手を突っ込んだ。
「篠山紀信って、あの有名な人」
「これはパイロット版だけど、写真集を出す予定になっているの」そこにいた三人は絶望的な気持ちになった。
これでは売れない写真家市川崑の手助けをすることなんか出来そうにもないと思った。
「別にこういう状況になっているからって、あなたたちの要求を断るというわけではないわ」
「じゃあ、兄貴の友達のモデルになってくれるのかい」
チェ・ジュウが無言でうなずいたので、仲村トオルはテラスから手を振ると、やがて売れない写真家市川崑が二階に上がって来た。
そして、そのうしろから階段を上がって来たのは仲村トオルの長兄の所ジョージだった。
「あんちゃん、何で、来たんだよ」
仲村トオルは自分の兄がのこのこここについて来たことに閉口して叫んだ。
「市川が心配なんで、ついて来たんだ」
「うそばっか。チェ・ジュウを見に来たんだろう」
「ばれたか、でも、市川のことが心配だからって本当だからね。この前、お前に写真集を見せてやっただろう」
テーブルの上にあるそれを見つけて長兄の所ジョージは喜んだ。
「それだって、あんちゃんが市川の助手をやって完成したんだからね。それに市川には致命的な秘密がある」
市川崑、彼こそがこの場のチェ・ジュウをのぞけば最大の主役であるべきである。しかるに彼は少し離れた場所から遠慮がちにその集団を見ていた。それはそれを客観的に観察するために遠く離れているというのでも違うようだった。その秘密というのはなんなのだろう。しばらく沈黙が続いた。そして、どもりながら
「ぼ、ぼ、ぼ、ぼく、女の人がこわいんです」
と言った。
市川崑は長兄の同級生のくせに所ジョージと較べようもないほどふけていた。
頭にはよれよれの正ちゃん帽をかぶり、長四角い黒縁めがねをかけ、首からは金属製の一眼レフカメラをぶら下げている。
口には煙草をくわえていて、その煙草もいったん灰皿で火をもみ消したものをふたたびくわえたようにさきの方がつぶれていた。
「女の人を目の前にすると何も話せなくなっちゃうんです。いつも女の人と目を合わせないようにしているんです」
奥の方で新しい客人の到来を見ていたチェ・ジュウが視線を市川崑の方に向けた。
「それでよく女の子が撮れたのね」
すると市川崑は殺人光線でも受けたかのように両手で自分の顔を覆うと指のあいだからチェ・ジュウの顔を盗み見た。
「だ、だ、だ、だめ、僕、美しすぎ光線でやられてしまう、ああああ、目がつぶれてしまう」
そう言って指まで閉じると指のあいだから見える世界までシャットアウトしてしまった。
「トオル、だからあんちゃんが助手としてつかなければならないんだ」
「わかったわ、市川崑さんには、もっと詳しい話しを聞かなければなりません、こっちにいらしてくださる」
そのテーブルにはチェ・ジュウを主客として席がとられていた。彼女にかしずくように仲村トオル、別所哲也、ルー大柴、それにあとから加わった長兄の所ジョージと市川崑が座った。
席に座ると長兄の所ジョージは自分をアピールした。
「トオルの兄であり、市川の同級生です」
「よろしく」
チェ・ジュウは愛想笑いをしたが、仲村トオルは閉口した。
「どんな格好をした女の人が好きなの」
「わたしから答えましょう、やはり豹柄を着た女でしょうか、なかでも好きなのはスケバンだそうです」
「それはあんちゃんの好みだろう」
「おれもそれ、好き」
「お前はなんでも好きなんだろう」
「中学生、やっぱり女に飢えているなぁ」
「あんちゃんだって、チェ・ジュウを見たいからここに来ているくせに」
また、沈黙を守っていた市川崑がおどおどしながら答えた。
「ぼ、ぼ、ぼ、ぼく、スケバン、好きです。手の甲に皮の手袋をはめた、ヨーヨーを使うやつ、ぼ、ぼ、ぼ、僕、好きです」
「スケバン刑事だ」
別所哲也が言うとルー大柴が横にいるチェ・ジュウに説明を始めた。さかんにヨーヨーをやるふりをしたり、セーラー服の説明をしたりしている。
「わかりません」
チェ・ジュウはスケバン刑事を知らないようだった。
「そうだ、あんちゃん、チェ・ジュウはパイロット版だけど、あの有名な篠山紀信撮影で写真集を出す計画があるということを知っている」
「おい、聞いたか、聞いたか、市川、篠山紀信撮影の写真集を出す計画があるんだってよ。これで市川の写真集も宣伝効果があがる」
長兄の所ジョージは何でもいい方向で解釈していた。
「篠山、篠山、篠山、しののののの・・・・・」
市川は意味もなくうめいた。
「そうだ、チェ・ジュウもどんな写真集を作るつもりか、わからないと困るよね。どんな写真を撮っても話題騒然、チェ・ジュウの魅力が百パーセント爆発するには違いないけど、市川カメラマンはどんな写真を撮るつもりですか」
ルー大柴はいやらしくニタニタしながら、テーブルの上に置いてある胡椒瓶をマイクみたいに握ると新たに来たふたりの方に向けた。
「その問いには市川の親友である、この自分から答えよう。なにしろ市川は女を、特に美女を前にするとなにも答えられなくなる。それにこの僕は市川の芸術の正確な伝達者である。彼の制作における微妙な制作意図の隅々のところまで説明出来るのは僕であるからな、市川がかたちのはっきりとしない発光体だとすると、それをはっきりとかたちにして印画紙に現すというのがこの僕なのだ。焦点を結像させるのは僕であるし、また像の浮き上がった印画紙を持っているのはこの僕なのだ。このことは市川も了解済みなのだ。僕が市川の正当な宣伝係だということを」
そのあいだじゅう市川崑は両手で顔を覆ってその指の透き間を閉じたり、開いたりしてチェ・ジュウを盗み見ているのは変わりなかった。店の中には彼らしかいなかったので奥の方ではこのレストランのオーナーが電卓を叩きながら伝票の集計をしていた。カウンターの奥にある石造りのかまどの中ではちろちろとたき火の火が燃えている。
「わたし、あなたのことを聞きました。カメラマンとして、これから活躍する予定だそうですね。わたし、あなたのお力になりたいと思っています。あなたに写真を撮ってもらいたいと思います。それでわたしを使って写真集を作ってください」
チェ・ジュウの言葉を聞きながら市川崑は恐縮して身を小さくした。こたつで丸まっている猫のようだった。
「でも、どんな絵を撮るのか、知りたいと思いますわ。だって、裸の写真だったら、困っちゃうもん。ハハハハ」
「そうですね、そうですね、困っちゃう、困っちゃう」
ルー大柴も調子を合わせたが、ぎこちない笑いだった。
「ハハハハハ」
他の男達も調子を合わせて笑った。市川崑は顔を赤くしてもじもじしながら下を向いている。
「その件に関して、わたくし所ジョージ、市川崑の助手兼コーディネーターを自認しているしだいです。詳しくこの男から今回の件については話しを聞いているのでチェ・ジュウにお話しましょう。まず撮影場所は決まっています。押さえる予定もたっています。まず、どんな設定にするのか、あなたもこのことについて多いに興味を持っていることでしょう。心配なくわたし所ジョージはここにいる市川崑から詳しく聞いています。結論から言いましょう。まず、チェ・ジュウは若い農家の嫁ということですね。それも何かの手違いで不本意に嫁いで来た花嫁です。夫にも愛情がないし、その家にも愛着がない、しかし、いろいろな手違いからその家を出ることも出来ないという。そして自分がここに来る以前のことを懐かしがっている。ふっと自分の娘時代のことを思い起こしてしまうのです。たまたまその農村には公民館があり。チェ・ジュウが女学生のころから親しんで来た雑誌があって、その公民館の二階に上がってその雑誌を見ることが唯一の楽しみである、つまり娘時代の思い出を呼び起こすことができるからですね。ということになっています。その姿をやはり公民館に来たひとりの中学生がチェ・ジュウの姿に見とれてしまう、そんな設定なんですね。そんな二階が図書館みたいになっている公民館みたいな建物がこの市にあるんですよ。**小学校の裏に市民会館があるじゃないですか。あそこがぴったりなんですよ。あそこを押さえる予定はたっています。チェ・ジュウもあの場所をご存知ですよね」
「知っていますわ。なかなか趣のある場所ですよね。五十年は経っていますよね。大昔のなんとかいう銀行家の私宅だそうですね」
「そうなんですよ。チェ・ジュウも気に入ってくださいましたか。だから、農家の若嫁ということで」
「裸も水着もないということ」
「そうです。安心してください」
その間中、金属製の一眼レフカメラを握りながら市川崑はぶるぶるとふるえてかつ緊張していた。
「ジョージあんちゃん、俺も助手として参加していいだろう」
仲村トオルが当然の権利だという顔をすると兄の所ジョージはあからさまに嫌な顔をした。
「こいつ、また、何をを言い出すやら、ああ~~~~小市民、これは人の歌だけどそんな歌が出てくらい非常識な弟だな、お前は。これは大人の仕事だ。本当に、困りますよね。中学生のくせに」
「いいですわ、わたし、むしろ、それを望みます。その方が精神的に安心できるし。それにわたしだって中学生ですよ。同じ年頃の人が多くいる方が安心できますわ」
「僕たちも」
「僕たちも」
ルー大柴も別所哲也も自分たちの方を指で指し示した。
「もちろんですわ」
チェ・ジュウがそう言うと所ジョージは
「全く中学生のくせ」とかぶづぶつ言いながら苦々しい顔をして弟たちの要求を認めざるを得なかった。
隣に座っている市川崑が所ジョージの方に耳打ちをした。そして所ジョージはふむふむとその言を聞いてうなずいた。
「テスト撮影をしていいでしょうか、この男はフィルムをつめたカメラも持っていますし」
「ええ、よろしいですわ」
とチェ・ジュウが答える間もなくカメラを握った市川崑はテーブルの上に駆け上がるとその巨大なレンズをチェ・ジュウの顔に近づけた。チェ・ジュウの顔と前方のレンズとの距離は五十センチも離れていなかった。すでにこのしなびた煙草をくわえた未来の巨匠はカメラと一心同体になっていた。
チェ・ジュウは思わずあとずさりした。
「なに、この人、なに~~~。こわい~~~~~」
仲村トオルも別所哲也も思わずのけぞった。
ルー大柴にいたってはのけぞりすぎて椅子をうしろに倒して転んでしまった。
チェ・ジュウのとまどいも無視して市川崑はシャッターを押し続けている。市川崑は仰向けになってみたり、はいつくばってみたり、立ち上がってみたりといろいろな体勢をとりながらチェ・ジュウにレンズの筒先を向けていた。
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第十七回
「あんた達、何か、楽しそうじゃないの」
三人組は椅子に座ったり、机の上に腰掛けたりして輪になって何か話している。三人組がいつもより楽しそうにしているのを何となく感じて、クラスメートの倖田來未が彼らに話しかけた。
彼らが何かを企んでいるらしいという事は感じていたがそれが何かということは倖田來未にはわからなかった。机の上に腰をかけながら別所哲也は否定した。
「楽しそうにしているわけがないだろう」
「そうだよ、倖田來未、変なこと言わないでくれる」
ルー大柴も女言葉で否定した。
「あんた達の楽しみって言ったら、くだらないことに違いないけどね、去年、バス旅行のときに同行していたガイドさんから、返事が来たとか。たしか神戸に住んでいるとか言った・・・・」
「手紙も書かないのに返事がくるかよ」
「あら、本当かしら。ずいぶんとバスの中では仲良くしていたじゃないの」
「してません。してません。バスの中ではもっぱら寝ていました。わたしたちは疲れていたんです。バスガイドさんとは話していません」
「そうだ、そうだ、バスの中ではただひたすら目をつぶっていました。目を開けたらマイクを握らされて歌わされるからな」
観光バスの中では窓のそばにマイクをさし込むジャックがついていてマイクだけは次々に手渡されて歌わされてしまうのだ。それが嫌さにそのカラオケの時間になると三人は目をつぶって寝たふりをしていたのだった。
「あんた達、気をつけたほうがいいわよ。三人の会というのを作っているんでしょう」
倖田來未はそう言うと、自分の席に座って何か考え事をしているKK子の方にちらっと目をやった。
「KK子、狙われているわよ」
「誰に」
仲村トオルがそう言うと、今度は倖田來未は教室のうしろの方でたくさんの女たちに囲まれて手振り身振りを交えて話しているイケメン転校生、イ・ビョンホンの方に目をやった。
「どういうことでしょうか、教えてくださいますか」
ルー大柴が涙目になって頼むと
「あいつ、KK子を狙っているわよ」
と倖田來未は繰り返した。
「どんな証拠があるんだよ」
仲村トオルがむきになると倖田來未は楽しそうだった。
「わたし、確かな証拠を見ちゃった」
「どんな証拠」
「あのイケメンくんが給食当番をしたときがあったじゃないの、そのとき、わたし見ちゃったのよ。KK子が空のお皿の載ったトレーを持っておかずをよそるイ・ビョンホンの前に並んだのよね。そのときわたしはKK子のうしろに並んでいたんだけどね。どんぶりの中にスパゲッティ用のミートボールを入れるときだった。KK子が彼の前に立ったとき、イ・ビョンホンはにっこりと笑ったの。そう個人的に、感情たっぷりに。そしてお玉を持って、ミートボール、好きですかって聞いて、KK子がうなずくとミートボールを一回よそって、さらにもう一個給食ばけつの中からすくい上げてKK子のどんぶりの中に入れたのよ。絶対、あいつ、KK子を狙っているわよ」
三人がその話しを聞いて少なからずショックを受けていると席に座っているKK子は急に三人の方に振り向いてニッと笑った。もちろんKK子は彼らが何を話しているかなんてことは知らない。でもなんで振り向いたのか三人組にはわからなかった。これは偶然なのだろうか。
「そんなことぐらい、なんだよ。男は可愛い子がいるとそんなことぐらいするよ」
別所哲也はむきになって抗議した。
「あの女、誰にでも愛想がいいからだよ」
「でも、そうでもないんじゃない。わりと男に対してつっけんどな態度をとるじゃないの。でもKK子って何か、目で訴えかけてくるものがあるのよね。この女、自分に好意を持っているんじゃないかという誤解を生むようなものがあるのよ」
するとKK子はまた三人の方を振り向いてニッと笑った。
倖田來未は知らなかったが、イ・ビョンホンのKK子へ示した好意にはそれ以上のものがあったのである。
つい最近、二年B組の国語の時間で創作劇というものをやることになったことがあった。
その教師は本当は劇団四季とかに入りたかったらしい。授業はもっぱらなげやりで、そう言った芸術活動みたいなものになるとテンションが上がって、かつ、神経質になった。彼の意識の中では中学生のやっているお芝居という感覚はなくなっていてどこかの小劇団の芝居をしているようなつもりだったらしい。
グループごとに十五分くらいのお芝居をするというのがその創作劇というもので、もちろん馬鹿三人組とKK子はグループになった。
その教師が神経質になったというのはどういうことかというと舞台照明にまで凝ったからである。ふつう中学生の学芸会にそんなことをうるさく言うような指導者はいないだろう。舞台照明と言っても、舞台は音楽鑑賞室が使われ、天井の照明を細かにつけたり消したりするといだけだったのだけれども。その細かに電気のスイッチをつけたり消したりすることに病的な神経をとがらしたのである。
龍中では彼は狂ったベートーベンと呼ばれていた。
三人組はおとぎ話の中で桃太郎の話しを中学生のレベルで変えて演じることにしたが、この教師は演出効果を上げるためだとか言ってこまめに照明をどうつけて消すのかと、細かい時間まで設定してやらせようとした。馬鹿三人は舞台、つまり音楽鑑賞室の方に立つことにしてKK子の方はその教室の控え部屋である、音響機材の置いてある調整室の方で十個ぐらいある照明のスイッチを入れたり切ったりするという放送局では正確に何と呼ばれているのかはわからないがテクニカルディレクターの役をしなければならなかった。
「何でこんな面倒なことをしなければならないのよ」
KK子は国語の教師の作ったこと細かに作られた電気のスイッチをつけたり消したりする予定表を薄暗い部屋の中で眺めていたが、変に失敗したら、またその教師に怒られるかも知れないと思って神経質になっていた。何しろ、当の教師はこんな中学生の遊びみたいなものを大劇場の演劇総監督のようなつもりでやっていたからだ。つまりこの教師は本当は劇団四季に入りたかったのだ。そして彼のあだ名は狂ったベートーベンである。
「全く、なんでこんなことしなければならないの」
KK子が暗がりの中で、ぶつくさ言っていると人の気配を感じた。
表が赤、裏が黒の遮光用のビロードのカーテンをこうもりのように身体に巻いて微笑む中学生紳士がいた。
「わたしが代わりにその仕事をやって上げましょう」
「イ・ビョンホンくん、なんで、こんなところにいるのよ。音楽鑑賞室の方にいないと先生に怒られるわよ」
「心配なく」
イ・ビョンホンはそのカーテンから出てくるとKK子の手からその時間割りを受け取った。
「さあ、始まりますよ。見てご覧なさい」
イ・ビョンホンとKK子が音楽鑑賞室の方をのぞき込むとガラス越しに見える景色の中で馬鹿三人組が桃太郎の格好をして立っている。そして例の教師が丸めた台本を片手に握ってまるで映画監督みたいに立っている。
「先生、イ・ビョンホンくんがいません」
倖田來未はイ・ビョンホンがいないことに気づいて言うと
「トイレに行くと言って出て行きました」
とほかの生徒が答えた。
「まあ、いい。時間も押していることだし、始めるぞ、キュウ」
ふたりはその様子を見て笑いをかみ殺した。
イ・ビョンホンはすべての電気の照明を消した。舞台は暗くなった。
そしてゆっくりと照明のスイッチを入れ始めた。
「おばあさん、川から大きな桃が流れて来ます」
おじいさんに扮したルー大柴が言うと
「おいしそうな桃ですね。とってください」
おばあさんに扮した別所哲也が答えた。
「どんぶりこ、どんぶりこ」
桃のかぶりものをした仲村トオルが教室のすみの方から歩いてくる。
「今だな、ベストタイミングにだ」
イ・ビョンホンは指定された電気のスイッチのいくつかをつけた。天井のスポットライトが斜めに点灯され、闇の中に一筋の光の経路が出来、天の川のようだった。その上を仲村トオルが歩いてくる。
KK子はガラス窓の透き間からその様子を見て笑いをこらえるのが大変だった。
その様子を見ているKK子のよこにイ・ビョンホンの横顔がある。
ふたりは滑稽な桃太郎の劇を微笑みを共有しながら見つめた。
イ・ビョンホンとKK子はお互い顔を合わせて大笑いしたかったが、それもまずいので声をたてないようにしたが、口をつぐんでも笑う息がもれてくる。下腹がいたくなった。
イ・ビョンホンは電気の照明のスイッチに指をかけ、次のタイミングを狙っている。
・・・・・・
そして無事に桃太郎は終わった。
照明係をやる必要もなく、観客までKK子はやることが出来た。
イ・ビョンホンにありがとうという前に彼は微笑みだけ残して、その部屋をすり抜けると音楽鑑賞室の方に戻って今の劇の余韻に手をたたいている。
KK子はイ・ビョンホンって何で親切なのだろうかと思ったが何でそんなに親切にしてくれたのかはわからかった。倖田來未もそんなことがあったとは知らなかった。
「絶対、あのイケメン、KK子のことを狙っているわよ。あんた達、気をつけなさいよ」
「平気だよ。あの女の実際の姿を知ったらイ・ビョンホンはKK子に近付こうとしないって」
「本当かな、あんた達、本当は内心であせっているくせに」
「あせってなんかいないよ」
遠くに座っていたKK子はまた何を勘違いしたのか、ニッと笑った。
「じゃあ、気をつけなさいよ。イ・ビョンホンにKK子を盗られないように。そう、それで*月*日って何の日が知っている」
「さぁ」
「さぁ」
「さぁ」
倖田來未の質問にも三人組は答えられなかった。
「馬鹿ねぇ、あんたたち。KK子の誕生日じゃないの。なんか奮発してプレゼントでもするのね。KK子の心をがっちりとつかむのよ。あたし、授業の始まる前にお便所行ってこよう」
倖田來未は教室を出て行った。
「おい、KK子の誕生日、覚えていたかよ」
「すっかり、忘れていた」
「俺も」
三人は三人ともKK子の誕生日を忘れていた。
「しかしだ、KK子のことはKK子のこと、今日はすごいイベントが控えている」
ルー大柴が言っているのはほかでもない、市川崑の撮影の手伝いがある。モデルは市、一番の美女のチェ・ジュウである。
三人はその日、授業中でも、チェ・ジュウのことで頭がいっぱいで、いつものことでありながら、さらにぼけっとしていた。
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第十八回
俺はお前らのことが嫌いだ。嫌いで嫌いで仕方ない。どのくらい嫌いかというと、ティスプーンぐらいだと思っているだろう。そうじゃない。そうじゃなかったらコーヒーカップぐらいかと思っているだろう。そんなもんじゃない。そしたら幼児の入るビニール製の簡易プールぐらいだと思っているだろう。そんなもんでたまるか。それもはずれだ。そしたら龍中のプールぐらいかと思っているかも知れない。そんなものでたまるものか。お前らを嫌っていることにかけてはゴビ砂漠よりも大きいんだ。憎んでいることにかけてはマリアナ海峡よりも深い。世界中で一番嫌いなもの、それはお前たちだ。いや、宇宙一と言ってもいいかも知れない。おれはお前らが大嫌いだ。世界中で一番、お前らを嫌っているのは誰あろう、龍中、国語担当の、この仲代達矢なのだ。あー、すっきりした」
そう言うと国語の担当の狂ったベートーベンは教卓の上のチョーク箱に入っているチョークを一本取り出すと、くるりと、身体を反転させて、黒板の方を向いて、黒板に三十センチくらいの白い線を一本ひいた。
途中まで線をひいて、止めてしまったのは、仲代達矢の頭の中に何かがひらめいたに違いない。
「きみたち」
急に振り向いた仲代達也の声は猫撫で声に変わっていた。
「きみたち、死んだ人間と一晩、一緒に過ごしたことがあるか。俺の父親は俺が中学二年のときに死んだんだけどな、この話しは前にしたことがあるか。居間に死体を一晩置いて、俺とおふくろは隣の部屋で寝ていたんだ。そしたら、夜中にスリッパのぺたぺたとする音がして、トイレにいくと水道の蛇口がしめたはずなのに開いていたのだ。そして、死んだ親父を翌日、見ると白くなったひげが三ミリほどのびていたんだ」
仲村トオルも別所哲也もいつもの話しが始まったと思った。横を見るとルー大柴もあくびをしているし、KK子はシャープペンの芯を出したり引っ込めたりしている。倖田來未は爪のさきをやすりで削っている。
いつも、そのあとで、有名劇団に入団した話しにつながり、経済的な問題から、道なかばでそこを退団した話しにつながっている。
いつもと変わっているのは、ふたたび黒板の方に向くと、黒板に頭を三四度たたきつけて、何か自問自答していることだった。
すべての生徒たちが無視しているのにもかかわらず
ひとりの声が聞こえた。
「先生、先生は生徒のことを愛していなくちゃいけないと、父ちゃんが言っていたぞ」
黒目が大きくて丸眼鏡をかけた小柄の優等生が、いつも仲代達矢を無視している生徒たちばかりなのに、何を勘違いしたか、この教師を相手にした。
仲村トオルたちは全く、それらのことに興味も関心もなかった。
それよりも今日のチェ・ジュウの撮影のことで頭がいっぱいなのである。
すると突然、例の教師は教卓を叩いた。
そして、青い顔をしている。
「愛だと、愛だと、お前らなんか、愛せるか」
クラス中のみんなは仲代鉄也を無視しているのに、おかねどんぐりみたいなこの中学生ひとりが相手をしていた。
「先生、何か、とってもいやなことでもあったんか」
すると仲代達也の瞳の中の虹彩は急に細くなった。
それから教室の横のガラス窓を軽く叩く音がする。
仲村トオルがその方を向くと入り口が細くあいた透き間からたらこくちびるをした校長が目をぎょろりとさせて、教室の中を盗み見ている。
ちなみに校長の名前は松本清張と言った。
「ちみ、ちみ、ちょっと、こっちに来てくれるか」
仲代達矢は校長の松本清張に呼ばれて廊下の方に出て行った。
戻って来たときはくちびるをへの字に曲げていた。
今度は教室中の連中が仲代達矢の方を見ていた。
何を言い出すだろうと思って。
おかねどんぐりくんと仲代達矢の目が合った。
「やっぱ、俺はお前らが嫌いだ。世界一嫌いだ。いや、宇宙一だ」
それから黒板にチョ-クで小さな円を
それから丸をどんどん大きくして
自分がどのくらいこのクラスの生徒を嫌っているか現しているようだった。
それから生徒の方を向いた。
ほかのクラスの連中を無視して、おかねどんぐりくんの瞳だけをじっと見つめて仲代達矢は彼に言葉を投げつけた。
やっぱ、俺はお前らが嫌いだ。世界一嫌いだ。いや、宇宙一だ」
しかし、
おかねどんぐりくんは言葉をひとつも返さなかった。
おかねどんぐりくんの瞳はうるうるし始めた。
そして涙がいっぱいたまって、あふれ出た涙は重力の法則にのっとって頬を伝わって落ちて行った。
「今日は気分が悪い。俺は帰るぞ。あとは自習にしとけ」
仲代達矢はドアをいきおいよくしめるとどこかに行ってしまった。

お昼の給食を食べたあとで、二年B組の連中はみんな、校庭に出てバレーボールなんかをしている。
教室の中にはバカ三人と倖田來未とKK子しかいなかった。
倖田來未は窓際に行くと下の校庭でバレーボールをしているクラスの連中を見ている。クラスの連中だけではない。他のクラスの連中もいろんなことをしている。校庭の端の方にはバスケットボールのコートが立てられていて、シュートをうったりして遊んでいる。ゴールのはしにボールがあたって地面に落ちた。
「おかねどんぐりくんもさっきは目に涙をいっぱいためていたことも忘れて今はバレーボールにうち興じていた。
「いつも、仲代の奴、きちがいじみているけど、もっと変だったじゃない。それに校長の松本清張にちみちみなんて呼び出されて、なんか、言われていたでしょう。何でか、わかる」
「知らねぇよ。そんなこと」
「ばかねぇ、あんた達、何も知らないのね」
「ばかで結構」
「おれ、聞きたい。何か、あったのか」
別所哲也は興味を示した。
「あいつ、また、何か、問題を起こしたみたいよ」
「それって、華道部の連中から聞いたのか」
ルー大柴が言った。
倖田來未は意外にも華道部に入っていた。
「なんか、消防車まで来たんだって」
「なんで、そんなこと、知っているんだよ」
机の上に腰掛けながら、仲村トオルが倖田來未にたずねた。
「夜、うちの中学のそばをランニングしている華道部の部員がいるのよ。京子のこと、知ってる」
「へぇ、すごいんだ。毎日」
KK子も口を挟んだ。
龍中の前は広い空き地になっていて、草がぼうぼうと生えている。龍中の校庭とその空き地のあいだは生徒達の通学路になっている。その境は金網の塀が立っているのだった。
「いつも、そこをランニングで通っているんだけど、校舎の近くに懐中電灯の光がちらちらしていたんだって、それで、京子、何があるんだろうと金網に手をかけて、じっと見ていたら、懐中電灯を持っていたのが、うちの国語教師の仲代達矢だったというわけよ」
「ぇぇぇぇ、夜中に校庭で何をやろうとしていたっていうわけ」
KK子も驚いて、倖田來未の方を見た。
「校舎の中に忍び込もうとしていたというわけじゃないだろうな」「まさか」
別所哲也が否定した。
「そこにいたの、仲代達矢だけだというわけじゃないのよね。知っているでしょう。仲代達矢のお気に入り、山口や高田たちもいたのよ」
「あいつらも、いたのかよ。あいつらって、仲代達矢と学校の外でもつき合っているという話しだよな」
仲代達矢の一種の弟子みたいな中学生が五六人いた。
「そう、そう、仲代達矢を崇拝しているんだよな」
「京子が見ていたら、校舎の真ん前のところでドラム缶を囲んで瞑想に耽っていたんだって、それから、そのそばに段ボール箱が置いてあって、服を脱いで全裸になると、段ボールの中から安物の布きれを取りだして身にまとうと、両手を上げて、何かに祈るようなポーズをしたんですって」
「どういうことだよ、それ、何かの新興宗教か」
「そのうえ、頭にはボール紙で出来た仮面みたいなものを被っていたそうよ」
「仲代達矢もそんなことをしたのか」
「もちろん、そうよ。それからが大変なのよ。京子の見ていたとおり話すと、ドラム缶の中に木とか紙とか、投げ込んで、最後に白灯油を注ぐと、仲代達矢はそれに火をつけたのよ。それから、あいつら、そのドラム缶のまわりを変な踊りをしながらまわり始めたんですってよ。火の勢いがすごくて、三メートルくらい火柱が上がったみたい。京子がわなわな震えながら見ていると、少し離れたところにある団地の窓にいくつか明かりが点いて、窓ガラスが開いたみたい。それから、しばらくすると赤い消防車がサイレンを鳴らしながらやって来たというわけ、仲代達矢、消防署の人にだいぶ絞られていたみたい。それから、校長の松本清張も来たみたいよ。あいつ、よく、首にならなかったわよねぇ」
「なんだ、それで、あいつ、廊下でちみちみなんて言われていたんだ」
仲村トオルもこぶしと手の平を合わせた。
五人がそんな話しをしていると、たまに顔を合わせる三年生の担当の教師がやって来て窓から首を出して
「昼休みなんだから、教室なんかで、話していないで、校庭に出て運動しろ」と言ったので五人はへいとうなずいた。
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第十九回
「おい、おい」
ルー大柴が二階にある二年B組の教室の窓から指をさしながら仲村トオルの肩を叩いたので、仲村トオルがその方を見ると、校門のところで自分の兄の所ジョージとカメラマンの市川崑がこちらの教室の方を見ている。あわてた仲村トオルは窓のところに乗り出して、姿を引っ込めろという合図をすると彼らにもそれがわかったのか、見えない位置に移動した。
「おい、おい、何、見てんだ」
倖田來未が仲村トオルの肩越しに校門の方を見たので仲村トオルは焦った。そのうえ、KK子までやって来た。
「何でもないって。そうだよな」
仲村トオルがあわててルー大柴に同意を求めると、
「からかっただけ」とか、ルー大柴も生ら返事で答えた。
「こいつがテレビの撮影をしているなんて、からかうんだよね。ハハハハハハ」
「えっ、どこで、どこで、テレビの撮影しているの。誰が、来ているの。僕の知り合いかも知れない」
別所哲也も身を乗り出して来たが、仲村トオルに頭を軽く叩かれた。
「ルーが俺達をからかったんだよ」
そう言いながら仲村トオルはドキドキしていた。
「ルーのうそつき」
倖田來未がルー大柴を非難した。机のそばに優等生のオカネドングリくんまで来て、五人の様子をじっと見ていた。
「おい、何でもねぇよ。向こう、行け、向こう」
オカネドングリくんは指をくわえながら、自分の席に戻った。
オカネドングリくんが席に着くと、教室の前の方から、英語の教師の中条きよしが入って来た。ただれた感じの二枚目である。龍中の中学生たちにとっては得体の知れない存在である。仲代達矢と同じように授業は投げやりだったが、生徒たちを憎悪していることはない。
遠山の金さんみたいな感じで教卓に手をかけると、自分の教科書を開けた。英語の教科書の中には外人の女の写真がのっている。
「何で、外人ってスタイルがいいんだろう、きみたちも、そう、思わない、ほら、出ているところは出ていて、おしりが、こう、きゅっと上がっていて」
そう言いながら、中条きよしは両手でおっぱいをさする仕草をした。
「ほら、きゅっと、きゅっと」
教室の一番前に座っていた、優等生のオカネドングリくんがまた抗議の声をあげた。
「先生、先生は授業をするのが仕事だって、父ちゃんが言っていたぞ。そんなくだらない話しやめて。早く、授業をするんだ」
「父ちゃんが言えば、お前は死ぬのか。あぁぁん、死ぬのか」
するとオカネドングリくんの目がまたうるうるし始めたので
「まぁ、いいだろう。授業をはじめっか。お前達にとっても不本意だろうけどな。え~~と、アイ ハブ ア ペン。わたしはペンを一本、持っています。一本だから、ア ペンだ」
机の上に主語だとか、述語だとか、動詞だとか、書き始めた。
「わたしたちは鉛筆を一本、持っていますだったら。トオル」
「ウィ ハアブ ア ペン」
「鉛筆だろうが、鉛筆だから・・・・」
と中条きよしが話しながら、教室の前の入り口の方に目をやると表情が固定された。
「あんた」
教室の前の入り口には美しいが、ただれた感じのする、あきらかに水商売風の女が縞模様の着物に身を装って、じっと中条きよしの方を見ていた。
「あんた、浮気したでしょう」
そう言うと、つかつかと教卓の方にやって来て中条きよしの胸ぐらをつかむと、きちがいじみて、わめき始めた。
「あんた、花梨に手を出したでしょう。わかってるわよ」
「おい、何すんだよ。ここは教室だぞ。生徒たちが見ているだろう。よせよ。よせって言うんだ」
「生徒さんたちも聞いてください、この男はね。わたしと同棲しながら、籍も入れずに、店の女の子に手を出して、遊び歩いているんだからね」
「うるせぇぞ、引っ込め、ホステス」
「何が、ホステスよ。本当にこんな、遊び人の教師に教わっていたら、どんな生徒が出来るのかしら」
「おい、落ち着けよ。ここは教室だぞ、話したいことがあるなら、あとで、ゆっくり聞くから」
「みんなの見ている前で話しましょうよ。その方がごまかしがきかないから」
廊下の方から用務員のおじいさんがのこのこやって来た。
「奥さん、休み時間まで、待つというから、校内に入れたのに、さぁ、さぁ、こっちに来て」
「そんなときまで待てるわけがないじゃない。この男、すぐに逃げ出すんだから」
「おい、おい、生徒たちが見ているじゃないか」
三人はもみ合いになりながら、教室を出て行った。
「おい、みんな、自習にするぞ」
三人は廊下の奥に消えて行った。
「自習になったのはいいけど。中条の奴、最低じゃない」
倖田來未が椅子に座りながら足をぶらぶらさせて言うと
仲村トオルは何となく、英語の教師の中条きよしをかばいたくなった。そして、何かを言いたかったが、その前に別所哲也が言葉を発した。KK子はトイレにでも行ったのか、その場にはいなかった。
「でも、ひどすぎるよ。あれ。自分たちの生徒の前であんなに恥をかかして。男の体面ってものもあるんだからさぁ」
「何が、最低よ。あいつのにやけた二枚目ぶりは前から気に入らなかったんだ。ア・タ・シ。浮気なんてするの、最低だね。そう思うだろう。ルーも」
「結婚したら、俺は絶対、浮気しないな」
「何だよ、お前だけ、いい子になって。その前に俺達には三人の会ってのが、あるんだぜぇ」
「三人の会って、俺達、作っているわけだけど、ほかの女の子と話してもダメだっていうわけ」
別所哲也がそう言うと
「わたしと話しているじゃんか」
倖田來未が抗議した。
「三人の会って、考えてみると、あいまいだよね。要するに俺達三人がいつもKK子のことを応援しているというわけだろう」
「ほかの女の子とキスまでするのはありにしない」
別所哲也が言った。
「わたしとキスする」
倖田來未がふざけて別所哲也の方にくちびるをさしだした。
「言われてみれば、三人の会ってあいまいだよなあ」
「そうだ。そうだ。KK子ひとりで三人の男を受け持っていても荷が重いだろうしぃぃぃ。やっぱ、哲也、わたしとキスする」
その話しを聞きながら、仲村トオルは重い心になった。友達のルー大柴や別所哲也とは三人の会の意味が違っている。仲村トオルにとってKK子の存在の重みが違うのだ。しかし、やはり、ルー大柴も別所哲也もKK子のことが好きだということに違いがないはずなのだ。
気がつくとオカネドングリくんが横に立って四人の方をじっと見ている。
「キスだとか、言ってちゃだめだじょう。不純異性交遊をやったらだめだって、父ちゃんが言っていたぞ」
「わかった。わかった」
倖田來未がそう言うと
「本当にキスなんか、しないな」
オカネドンクリくんは満足そうな表情をすると向こうに行って、また英語の教科書を読んでいる。
今日の一日の授業が終わって、馬鹿三人組がわくわくしながら下駄箱のところにいると、下駄箱の上の蛍光灯に照らされながらヨン様がじっとこちらを見ていた。
三人が振り返るとKK子と倖田來未が廊下から下駄箱に降りる出口のところで、こちらをじっと見ている。
仲村トオルは蛍光灯の光に照らされたその姿がスターウォーズの宇宙帝国の姫君のように見えた。その姫君たちが馬鹿三人の方に寄ってくる。
やばいっと一瞬、仲村トオルは思った。
技術工作室の裏庭でと同じパターンだ。
すぐにふたりは三人のそばに来た。
「ふたりを置いて行くなんて、罰金だぞ」
「今日、ちょっとやばいんだ。電車に乗って、都会に行かなければならないんだよ。うちの父ちゃんの用事でね。役所に行かなければならないんだ。使用願いを頼むんだ。ふたりとも、役所なんか、行きたくないだろう」
ルー大柴が口から出まかせを言った。
「良いわよ。一緒に行くから」
「あいつも、ついて来るって言うんだけど」
別所哲也が倖田來未が嫌っている男子の名前をあげた。倖田來未に結構、つきまとってくる男子だった。
「あいつが来るなら、行かない。でも、なんか、怪しい感じがする」
「怪しくなんか、ないよ」
別所哲也もルー大柴も明らかに動揺している。
しかし、内心の苦しさが明らかに出ているのは仲村トオルだった。
外見的には動揺が見えないが、その目の中に悩みの色があらわれていた。
「ふたりだけで帰りましょう。來未」
KK子がそう言ったので仲村トオルはKK子の方を見つめた。
きっと、仲村トオルの瞳の中の心を見たのに違いないと思った。そうでなければ、目に見えない信頼がKK子と自分のあいだにはあるからだと仲村トオルはうぬぼれても見るのだった。
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第二十回
ふたりと別れたルー大柴は
「ウハウハだね。ウハウハだね」
とさっきまで動揺していたことも忘れて、うきうきしている。
それは別所哲也も同様だった。
駅のそばの喫茶店もやっているカレーライス屋で兄の所ジョージがカメラマンの市川崑と一緒に待っていた。
「中学生たち、お前らはあくまでもおまけなんだからな。主役はあくまでもチェ・ジュウで、それを補佐するのが兄ちゃんと市川崑カメラマンだ」
「もう、くどいなぁ、ジョージ兄ちゃんは」
「さぁ、行こうか」
みんなは撮影場所の旧市庁舎に行くことにした。
歩いて五分とかからない場所である。
五人が撮影機材を背負って旧市庁舎のそばに行くと高級車が停まっている。そして、目立たないところに業務用の黒い自転車が停まっていて変な老人が立っていた。
ここはなかなか趣のある建物だった。まだ木造の二階建てで市の文化財にも指定されてもいいくらいだった。そして二階は本が少ししか置いていなかったが、図書館になっていて、自由に市民が出入り出来るようになっている。
二階には大きな木製の机がいくつも並べられている。
兄の所ジョージはここの使用許可を取ったらしい。どんな方法を使ったのかは仲村トオルたちにはよくわからなかった。
三人組たちが、その建物に近付いて行くと、変な老人の姿がはっきりとわかった。三人組が前に見たことのあるあの自転車屋の老人だった。その老人、武田鉄也は自転車のハンドルを握りながら、朽ちた枯れ木のような表情でこっちをじっと見ている。歯まで見せている。
やがて、そのそばに停まっている高級車のドアが開いて、ぱっと華が開いたようになり、女の子が出て来た。チェ・ジュウである。
所ジョージが手を振ると彼女も手を振った。
三人組も市川崑もそのそばまで行った。
五人の男達とチェ・ジュウが歓談していると、不機嫌そうな声が聞こえた。
「チェ・ジュウ、市内、最高の美女という噂、本当らしいな、まあ、美しいことは美しいが・・・・・・」
その言葉はひどく不機嫌な調子がこもっている。
その場にいたみんなはその方を見たが老人はニタニタしているだけで、無言だった。馬鹿三人たちはこの無礼なじじいに何か言おうと思ったがその価値もないと思ったので何も言わなかった。
「待ちました、待ちました、待たせてごめんね」
所ジョージはカメラマンの市川崑を無視して、ひとりはしゃいでいる。はしゃいでいるのは他の四人も同様だった。
カメラマンの市川崑だけが表情に表れていないだけだった。
「使用許可はちゃんと取ってあるからね。行きましょう、行きましょう」
「ここを上がって行くんでしょう」
チェ・ジュウの衣装らしいかばんを持った別所哲也が奪うようにそれをとって背負うと、入り口から入ってすぐの階段をどんどんと上って行った。
そして、大きな声をあげた。
「使用許可を取ってあるんじゃないの。どういうこと、これは」
二階から別所哲也の声が聞こえる。
「おい、どうしたんだよ」
仲村トオルが一階から声をかけたが返事はなかった。
みんなは二階に上がって行った。
そして二階の入り口のところで立ち止まった。みんなが二階で見たものが何であったか。
大きな机がいくつも並んでいる。人は一人もいないはずだった。
しかし、机の一つに人が座っている。それも女だ。その女は机に座って詩集でも読んでいるようだった。
カメラマンの市川崑が不機嫌な表情をして、所ジョージの肩のあたりをつんつんとつついた。
長兄の所ジョージが前の方に出てくると、大声をあげた。
「あんた、一体、誰だい、誰だい、何でここにいるの。ここはこの時間にはこの人の撮影のために、わたし達が使うことになっているんだからね」
しかし、やはり女は無言で詩集らしいものを読んでいる。
「あんた、何か、言いなよ。一体、どんな了見なんだよ」
ルー大柴が毒づくと
その女は顔をこちらに向けずに手の平だけをこちらに向けると
「ウワァー」
その場にいた連中は何か知らない巨大な風圧を感じてうしろの方に飛ばされて尻餅をついた。
「いてててててて」
みんなが尻餅をついていたが、そのうしろにあの自転車の老人が立っていた。そして、その女の方をじっと見つめた。
「山田優、思い出に耽っているのではない」
その声を聞いて女は振り返った。
「その声は風船拳老師、武田鉄也」
山田優と呼ばれた女は感情を刺激されたのか、憎しみに満ちた目で風船拳老師、武田鉄也の方を睨んだ。
「お前は他の市の中学に奉職しているはず、この市に戻ってくるのではない」
「武田鉄也、余計なお世話だ」
「お前のためを思って言っているのだがな」
「どういう意味だ」
三人組たちはよくわけがわからなかった。
しかし、この女に伝説の大番長たちと同じにおいを感じていたのはたしかだった。
「わたし、こわいわ」
チェ・ジュウがそう言うと
「僕が守ってさしあげますよ」
所ジョージがそう言った。その言葉が気に入らなかったのか、山田優は軽く自分の耳たぶを弾いた。すると、何かわからないものが飛んで来て、所ジョージの頭の毛を二三本、断ち切った。
「ひぇ~~~~~」
所ジョージは悲鳴を上げた。
「七海十六結の使い手、山田優、ここで死人を出すつもりか」
「神脈風船指の使い手、武田鉄也、お前がここをさきに去るべきだ」ふたりの巨人が対峙していた。
そのあいだにはさまれて、三人組には何が何だかよくわからなかった。
「七海十六結とか、神脈風船指とか、何のことでしょうか」
別所哲也はおろおろしながら横に立っている自転車屋の親父に聞いた。
「困りますよ。わたし達、ここで撮影許可をとってあるんですからね。チェ・ジュゥだって暇じゃないし、ここから出て行ってくださいよ」
所ジョージがおろおろと言って、すぐに武田鉄也のうしろに隠れたた。
「お前も無粋な奴よのう。なぜ、ここにのこのこと戻って来たのだ。隣の市でお前は美術の教師をしていると聞いたぞ。わしは」
「ふふふふ、どこへ行こうとわたしの自由、ここで詩集を読むのも、わたしの自由」
山田優は武田鉄也の方を向いてにやりとした。
「詩集とは、また乙女チックな。神州巨象足の使い手、平万里と死闘を繰り返したお前らしくもない答えだな」
「神州巨象か、何か、知らないけど、ちゃんとここで許可を得て、僕らは写真撮影の許可を得ているんだからね、あんたも市民なら、市の規則を守って貰わないと困るよ」
所ジョージがやはり武田鉄也の影にかくれながらそう言って、ちょっこと顔を出してまた隠れた。その言葉を聞いた山田優は
「うるさい」と短く怒鳴った。
そして向こうを向いて、急に振り返ると
「七海十六結」
と叫んで、手のひらを馬鹿三人組の方に向けると、十字に光る光の固まりのようなものがいくつも重なって、光る玉のようになったものが武田鉄也老師の方に飛んで来た。
武田鉄也老師の方は倒れながら、自分の右手の人差し指をその飛んで来るものに向けた。
「神脈風船」
ふたつの流星のようなものが空中で衝突して、軌道をそれたふたつのそれは、二階の開け放たれた窓から空の方に飛んで行き、大爆発を起こした。
「山田優、ここはお前にとっても大切な場所なはず、無用な争いを起こさずにここを去るがよい。それとも詩集を読むことに重大な意味でもあるのかな」
「ここをそのままにして置きながら、お前らをダンプにひかれた蛙みたいにぺちゃんこにすることだってできるのだ。ふはははははは」
山田優はまた、手で印を組むと
「七海十六結」と叫んだ。
すると十字の光の固まりが無数に出来、それが集まって球のようになった。
今度はさっきと違うのは、山田優がその球の中にいることだ。
「ふはははは、風船拳老師、武田鉄也、お前達がここを出て行かなければ、この球が膨らんで、お前達を壁に押しつけ、ぺちゃんこにしてしまうだろうよ」
「先生、あんなこを言っていますが」
所ジョージが風船拳老師、武田鉄也の腕にすがりながら、心配気に老師にたずねた。
その所ジョージの腕にすがっているチェ・ジュウが「わたし、こわい」と小さくささやいた。
そして、そのうしろには馬鹿三人と市川崑がいる。市川崑は苦々しい表情をしてもみ消したたばこを口にくわえている。たばこには火がついていない。
「わしの内力も増加した。この前のようなわけにはいかぬぞ、山田優」
そう言って身構えた風船拳老師武田鉄也は、ふたたび右手の人差し指を山田優の方に向けると
「風船神脈指」
と叫び、その指のさきからは雷みたいなものが無数に発射されている。その雷みたいなものの力だろうか。大きくなっていき、山田優を取り囲んでいる光の球はその成長をとめた。
「やった。先生、すごい、すごい」
所ジョージがパチパチと手を叩いた。
武田鉄也の指はその球にじょじょに近付いて行き、指先がその光の球の表面に接した。
「どうだ、山田優、お前の七海十六結、破れたぞ」
「ふははははははは」
まだ山田優はその中で笑っている。
「山田優、空威張りをしているのではない。風船神脈指、お前にお見舞いするぞ」
「ふはははははははは」
山田優はまだ高笑いしている。
「先生、やって下さい、やって下さい。あの無礼者にひとつ、ばちんとかませてやってください」
所ジョージが風船拳老師武田鉄也に催促した。
「神脈風船指」
球の内部を突破した武田鉄也の指から雷が無数に発射された。
「ふはははははは」
山田優はまだ高笑いしている。
するとどうだろう、雷は発射されるが、山田優のそばに行く前にその勢いは弱まって、ほとんどなきが如くのようになっている。
「風船拳老師武田鉄也、七海十六結の神髄、理解していないようだな。七海十六結とは球の中に七つの海も収めるという意であるのだ。この球の中は五メートル四方の部屋であるが、どんな矢も大砲もわたしのところまで届くことが出来ない。風船拳老師、お前の風船神脈もわたしのところに届くことはないのさ。あはははははは。この球をどんどん大きくしていけば、ここにいる連中は壁に押しつけられてぺちゃんこになってしまうのだ。あははははははは」
所ジョージは風船拳老師武田鉄也にすがった。
「先生、あんなことを言っています」
「所さん、こわいわ。私」
チェ・ジュウも不安な表情をした。
馬鹿三人たちは大きく目を開いてあわてふためいている。そして、市川崑はやはりもみ消したたばこをくわえている。
「先生、このさい、降参した方が」
所ジョージの言葉を聞いても風船拳老師武田鉄也は無言である。
「じいちゃん、こんなところで、何、遊んでいるんだよ。家で自転車屋の仕事もちゃんとやらないで」
その声が聞こえたので武田鉄也のみならず、馬鹿三人たちもその方を見た。
「あれは」
別所哲也が声をあげた。
仲村トオルもルー大柴も同じ言葉を発した。
それは武田鉄也自転車屋にいた風船拳老師の孫娘だった。
彼らが自転車の修理でその店に行ったとき、その孫娘を見た。
じじいとお医者さんごっこの遊び道具のことでけんかしていた。
「鉄也、何で、こんなところで遊んでんだ。わたしのおじいちゃんだからって、承知しないからね」
「くははははは、相変わらず口の減らないわが孫だな。今は説明している暇はないわ。ミカちゃん、突け、突け、その女を突け」
武田鉄也が叫んだ。
孫娘は隠し持っていた長剣を山田優の方に向けたので山田優はバランスをくずした。さかんにミカちゃんの剣の攻撃をよけている。
「ふはははははは、わが孫娘、またの名を無境界童女、このわっぱの行く手をさまたげるものはない」
山田優はまたにやりと笑った。
「そうなら、七海十六結の大きさを変えるだけ」
山田優がそう言うと光の球の大きさがどんどん小さくなって行き、
ミカちゃんは外に出て来た。
「何で、七海十六結の外に出て来るのだ」
「うるさい、じじい、あそこ、せまいんだよ。じじいの馬鹿」
山田優を包んでいた球は山田優をそのままにして空中に上がり、山田優の身体は反転して、山田優は長剣をかまえて、風船拳老師を急襲するかまえをとっている。
それを予想した風船拳老師武田鉄也は神脈風船指を山田優の刀の切っ先の方に向けて、その準備をしている。
そのとき、空中に浮遊している山田優の表情が急に変わった。
チェ・ジュウたちもその方を向くと、ひとりの少年が立っていた。
「あんたは、あんたは」
山田優は絶句した。そして、静かに地上に降り立った。
地上に降り立った山田優は十六結界を解いていた。
馬鹿三人がうしろを振り返ると、小学生が立っている。
その小学生を馬鹿三人たちは知っていた。
それは上戸彩の弟だった。
「ここで写真の撮影がおこなわれるんでしょう。見せて貰おうと思って来たんだ」
さっきまでの死闘のことを知らないのか、この場所にいるのが山田優だということも知らないのか、上戸彩の弟は無邪気に言った。
「わたしは用事を思い出したんで、おさらばするよ」
すると、また山田優は手で印を組んで、何かを唱えると、窓から空中を飛んで行った。山田優が飛んで行くとき、ちらりと上戸彩の弟の顔を盗み見たが、それは魔女のそれではなかった。
「あいつ、一体、何者なんだよ。チェ・ジュウも怖かったでしょう」
所ジョージはそばに立っているチェ・ジュウの方を向いて、愛想を振り向いたが、なぜかチェ・ジュウは三人組のそばにいて、ルー大柴の腕にすがっている。
「あいつ、何、読んでいたんだ」
ルー大柴が山田優が読んでいた詩集を取り上げて見ると、それは名もない詩人の詩集だった。
この図書館のあまりない蔵書のひとつだった。本の裏の方に判子が押してある。
別所哲也もその中をのぞき込んだ。
ルー大柴がそのページをくくっていくうちに、そのページの中のはしの方にハートマークが落書きされていて、ユウさんとか、ケンくんとか、書かれている。なかには相合傘が描かれていて、その中にその名前が書き込まれているものもある。
上戸彩の弟もそれに興味を持っているのか、のぞき込んでいる。
「七海十六結の使い手、山田優、ここで平井堅と連絡を取り合っていたのか、それにしても、詩集をその連絡のために使うとは、随分、乙女チックな方法を使ったものだな」
その声の聞こえた方を見ると、ひげをさすりながら風船神脈指の使い手、武田鉄也が自分でそんなことを言って自分で納得していた。
その横には、下の自動販売機で今さっき、アイスクリームを買って来たらしい孫娘のミカちゃんがソフトクリームの渦巻きのところをなめなめしている。
その姿を途中でもみ消したたばこを口にくわえながら市川崑がうさんくさそうに眺めていた。
「先生、それはどういうことなのでしょうか」
命を助けて貰ったものだから、すっかりと武田鉄也を尊敬していた。長兄の所ジョージは神仙武田鉄也を仰ぎ見た。
風船神脈指武田鉄也は図書室の窓際のところに行くと外に広がる悠々たる雲の流れに視線を落とした。
「この市には、常軌を逸した三人の大番長が覇を競っていることは、みんな、ご存知のことと思う。彼らが肉体的能力が常人を越えていることは確かだが、彼らはまた、内力を鍛錬したことにより、絶技の持ち主であるのだ。たとえば、チェ・ホンマンなら度量無限量、假屋崎 省吾なら、火焔火狼星だ、そして平井堅、彼は七海十六結を使う。まだ不完全ではあるが」
「それ、聞いた、聞いた。さっきの女が言っていたよな」
ルー大柴が口を挟んだ。
「そうだろう、七海十六結を平井堅に伝授をしたのは山田優なのだからな」
ざわざわとしたざわめきが起こった。
馬鹿三人とチェ・ジュウは椅子に腰をおろした。所ジョージは武田鉄也の顔を見上げた。
市川崑はしけたたばこに火をつけた。ミカちゃんはソフトクリームをなめなめしているし、上戸彩の弟は自分の身体よりも大きな椅子に腰掛けて足をぶらぶらしている。
「そもそも、山田優って何者なんですか」
所ジョージは武田鉄也の顔をのぞき込んだ。
すると、武田鉄也は窓際から外に見える山並みのひとつに指をさした。
「あそこにも、拳法の聖地がある。霞雲天下閣という武林の聖地が。山田優はそこの姫君でもあるのだ。霞雲天下閣には男子の赤子が生まれない、そこで姫君は婿をとるために身分を隠して、この市に降りてくるのだ」
「この市にどうやって降りて来たのですか」
同じぐらいの年頃の女として、熱心な興味を持っているらしく、チェ・ジュウが問いただした。
「そう、七海十六結の使い手、山田優は中学の教育実習生としてこの市に降りて来た。選んだのは鳳凰中だった」
「鳳凰中って、平井堅のいる鳳凰中」
仲村トオルが素っ頓狂な声をあげた。
「そうなのだ。誰にも知られず、美術学部出身の教育実習生としてこの市の、鳳凰中にやって来たのだ」
ここで武田鉄也は深いため息をついた。不思議な縁に思い当たって深い感銘を受けていたのかもしれない。
「それは、平井堅が中学一年のときのことだった、あの日本人離れした容貌のためにとても中学一年生には見えなかったがな。くくくくくく。まだ、山田優の方は女子大生のあどけなさも残っていたが、中学生から見れば、立派な大人だった。少し地味めな紺色のスカートと少し浅黒い肌を白いブラウスのリクルートスタイルで包んだ山田優が教室に入って来たときには中学生たちはすっかりと心を奪われていたのだ。山田優の素っ気ない、冷たいといえる態度にも、みんな、中学生たちは山田優に恋心をいだいてしまったのだ。校庭で生徒たちが植物のスケッチをしているときも、そのかたくなな態度はくずれなかった。山田優と親しくなりたいと思った生徒が自分の描いたスケッチの批評を求めても、その批評は素っ気ないものだし、血の通わないものだった。しかし、蝶が飛んで来たり、空をひばりが飛んできたりすると彼女の態度は変わった。それらの生き物が山田優を同類であるようにそのまわりをまわり、会話しているようだった。その一方で生徒たちはその冷ややかな横顔に想像力をたくましくしたものだ。この魅力的な女性がどこから来たのだろうかと。武林の聖地の姫君、山田優の本当の隠された真意も知らずに。もちろん平井堅も他の中学生たちと一緒だった。しかし、平井堅はそのことを認めたくなかった。心の奥底に閉じこめていたのだ。平井堅は中学一年にして、すでに大番長だった。不良グループの代表だった。授業中は山田優にことさら反抗的な態度をとった。実は好きだったからだ。平井堅は山田優の言うことをきかなかった。平井堅くん、答えてください。冷たい口調でたずねた山田優に対して、平井堅は、先生、どこから来たんですか、恋人はいないんですか、などと、山田優を馬鹿にしたような、おどけた調子で答えたものだ。それに対して山田優はこの生徒を度し難いものと、いらいらを募らせているようだった。しかし、本当のことを知らなかったのだ、山田優は男女のかけひきを。
なにしろ、拳法の聖地で男を知らずに育った彼女は恋の微妙なからくりも知らなかった。山田優は平井堅のことを中学一年生にしては大人っぽい、少し、格好いい、でも、生意気で反抗的な子供だとしてしか見ていなかった。わしは山田優が地上に降りて来たことに危惧していた。山田優が何かをすることに対してではない。山田優は確かに絶技を身につけているが、それで何かをなすということはないだろう。あの女の目的は花婿を見つけることにあるのだからな。しかし、あの女の七海十六結の奥義を盗もうとしている人間はいる。その筆頭が假屋崎 省吾だった。案の定、龍中大番長假屋崎 省吾が子分を使って、山田優が地上に降りて来て、鳳凰中に教育実習生として来ていることを知っていた。そこで同じ武林に住むものとして山田優に知られずに彼女のそばを離れなかったのだ。山田優が言うことを聞かない平井堅に腹をたてていることはわかった。わしは平井堅がおぬしに惚れているからのことだともわからないのか、うぶな女だと苦笑いをしていたのだが、平井堅に対して、絶技を使うことだけは危惧していた。七海十六結が新聞種になってしまったら大変だからな。しかし、その危険性はあった。
そして事件が起こった。
こともあろうに山田優は人のいない体育館に平井堅を呼び出すという愚をおかしたのだ。きっと、絶技の初歩のところで言うことをきかない平井堅に脅しをかけるつもりだったのだろう。体育館に平井堅はひとりで待っていた。わしにあとをつけられているとも知らずに山田優は入って行った。わしはふたりの会話をこっそり聞いていた。

***平井堅くん、あなたをここに呼び出したのは、何でかわかる。****俺様に愛の告白をするためか。まあ、しょっているのね。わたしから見たらあんたなんてまだまだ子供だわよ。******俺から見れば、先生、あんたは射程範囲内なんだぜ。******ふふふふふ、あなた、まだ、わたしがただの女子大生だと思っているわけ。****わしはこの女は、平井堅に絶技の初歩、不動観音拳を使うつもりだと思った。平井堅を金縛りにして、ちょっと脅すつもりなんだと思った。****あなたたち、不良たちが影で何をうわさ話をしているのかは、知っているわよ。誰がわたしのくちびるを最初に奪うことが出来るかと賭をしているそうじゃない。******へへへへへへ、そんなことを知っているのかい。先生。******わたしがあなたたちみたいな子供を相手にするとでも思っているの。こう見えてもわたし、武術の達人よ。あなたが瞬きをするあいだに、あなたの第一ボタンを取ってみせましょうか。*****瞬間的にわしは、この女、わざをしかけるなと思ったから、逆不動観音返し拳を山田優にかけた。すると一瞬、山田優は身動きが出来なくなり、何も知らない平井堅はくちびるを山田優の方に近付け、中一の分際でそのくちびるを奪ったのじゃ。くちびるを奪われた山田優は平井堅を払いのけた****あんたね。そう言って山田優は憎々しげな表情をしてわしの方をにらんだ*****わしの存在に気づいた、山田優はわしに落花百万波を送ってきたが、ときすでに遅しじゃ、平井堅にくちびるを奪われたという事実は事実じゃなあ。呆然としている山田優の目は潤んでいた。このことに驚いたのは平井堅だった。今までの気強い山田優とは多いの違いようじゃからな****先生、はじめてだったのかい****言うまでもないじゃろう。霞雲天下閣には男がいないのだからな。*****あなたが悪いわけじゃないの、あのじじいが悪いのよ。あのじじいが****わしは思い切りあかんべえをしてやった。****ごめん、先生がはじめてだって知らなかったんだよ。あの、じじいが悪いのか、じゃあ、俺があのじじいを懲らしめてやる。******あなたなんかに歯が立つ相手じゃないわ。でも、先生が悪いんだよ。こんなところに呼び出すから。*******わたしだって、こんなことになるなんて思っていなかったよ。このことは誰にもいわないぜ。絶対に、こんなこと、誰にも知られたら先生だって困るだろう。俺だって不良だけど、そのくらいのことはわかるさ。だって先生が全然よけないだもん。絶対、誰にも言わないから****山田優は目のあたりを指で拭っていた。結局、わしが悪者になったわけじゃがな。それからが見物じゃ。わたしのくちびるを奪ったからには、結婚してくれますわよね。今日からわたしはあなたの花嫁です。霞雲天下閣の姫君、山田優は平井堅を勝手に花婿に決めてしまった。教室にいるあいだは全くの赤の他人としてお互いにそしらぬふりをして、実際は永世の夫婦としての契りを結んでいるのじゃからな。これはおかしなものじゃて。教室の中ではふたりは互いにそ知らぬふりをしていながら、心はつながっているのだから、まわりの人間にとっては迷惑だというものだよ。お互いに感情を押し殺していても、その妖しい雰囲気は他の生徒たちにもわかる。それが山田優と平井堅のためだということがわからなくても、今まできれいなお姉さんが教室の中にやって来て、毎日楽しかったのに、何だかおもしろくない、その理由がわからないのだからな。教室にどんなに多くの人間がいても、その中には山田優と平井堅のふたりだけしか、いないというわけだ。結局、おもしろくない原因というのがそのふたりであって、何で、そういうことになったのか教室の連中はよくわからない。しかし、ふたりだけは、この世のものではないというくらい楽しいときを過ごしているのだからな。美術の教育実習生として山田優が鳳凰中に来ていることは言ったけど、美術の歴史の勉強のとき、教科書の中に出てくる画家の評伝のような話しになった。その画家がモデルの女とつぎつぎと浮気をしている話しになり、山田優はそのことについて生徒たちの感想を聞いていった。つぎつぎと質問されて答えていく生徒たちの答えはそれについて肯定的なものが多かったが、山田優はいつものような冷たい調子で平井堅にも同じ質問をした。そして平井堅も同じような答えを用意していた。
すると、黒板の方に向いていた山田優は、みなさん、同じような意見なのですね。少し、違った意見も聞きたいと思いました。と少しだけ感情の片鱗を見せる意見を言った。教室の生徒たちは山田優がなぜそんなことを言うのかわからなかった。学校が終わったあとで山田優と平井堅は会っていたのだ。山田優は平井堅を霞雲天下閣の花婿にしようと思っていたから、七海十六結を伝授しなければならなかった。この市の裏山にたまにロッククライミングの練習でしか人が来ることしかない春には新緑が秋には紅葉で絵のような風景になる神仙倒郷という場所があるだろう。そこで山田優は平井堅に七海十六結を教えていたのだ。山田優が木の枝にふれると小鳥が集まってくる。
****先生、小鳥と話しているみたいじゃないか。小鳥の言葉がわかるのかい。
*****わたしはあの山の頂上で、誰も友達もいなかったわ。話す相手というのは小鳥だけ、小鳥の言葉だってわかるわ
******小鳥と話して、何をしていたんだい
*****小鳥が武術の練習相手でもあった。でも、今はあなたという話し相手がいる。そして武術を教える相手も、ひとりぼっちじゃない。
そして、山田優は平井堅をじっと見つめた。
****俺も、ひとりぼっちじゃない。でも、何で七海十六結なんてものを身につけなければならないんだ。
****それも、わたしと結婚するためよ。ねぇ、堅くん、今日のあなたの答えにはがっかりしたわ。あなたも男だから、わたしと会っていないときには、わたし以外の女にやさしくすることもあるの
****いつも、俺の心の中をしめているのは先生、あんただけだよ
すると山田優は悲しそうな顔をした。
****うれしい。でも、先生なんて呼ばないでください。今は身も心もあなたのもの。あなたは未来の霞雲天下閣の主人、そして、あなたはわたしの夫・・・・・・・
こんな調子じゃったのじゃ。平井堅の七海十六結、修得のための修行も進んでいた。山田優と平井堅、ふたりはこのうえもないお似合いの組み合わせだとばかり思っていた。しかし、どういうわけか、山田優は平井堅のもとを去ったのじゃ。しかし、けっして山田優が平井堅を思う心に間違いはないはず、だから、ふたりの思い出にひたるために山田優はこの市に戻ってくるのじゃ」
「先生、お言葉ですが」
ルー大柴も命を助けて貰ったために、風船拳老師、武田鉄也のことを先生と呼んでいる。
「わたくしの目が間違っているのでなければ、山田優は、ここにいる上戸彩の弟を見たときに明らかに態度が違って来たのではないかと思うのですが」
そのことは確かに、仲村トオルも感じていた。山田優はここに上戸彩の弟を見たときに態度が変わって、自分たちに対する攻撃を中止したのである。
武田鉄也は上戸彩の弟を見つめた。
「たしかに、そのことはわしも感じた。上戸彩の弟、お前は何か、知っているのか」
「僕、何にも、知らないよ。それに、お前なんか、耄碌した自転車屋のじじいじゃないか。僕の父さんはこの市の市長なんだぞ、失礼じゃないか。それに、僕のお姉ちゃんは昔、日本全国美少女大会で優勝したんだぞ」
その言葉に武田鉄也の孫娘も黙っていなかった。
「うるさいわねぇ、うちのおじいちゃんを侮辱する気、うちのおじいちゃんなんか、毎日、十円、あげておけば喜んでいるんだから」
「まあ、まあ、いいじゃないですか。市長の一家さんも、武田自転車店の皆さんも同じ市に住んでいるんですから、仲良くしましょうよ。じゃあ、これからチェ・ジュウの撮影が始まりますから、帰って頂けますよね」
長兄の所ジョージが調子よく言うと
「わしはここで見ているぞ、味噌味のおにぎりも持って来ているんだからな」
「僕だって帰らないよ。撮影を見ていくからね。そのために近所の駄菓子屋でソースカツ煎餅まで買って来たんだからね」
「もう、まったく、非業界人のくせに」
長兄の所ジョージが息巻き、市川崑が苦々しげにしけたタバコをかみしめた。市川崑がこんなに苦々しい顔をするのは東京オリンピックを映画に撮って、サザエさんで冷笑されたとき以来である。
「わたし、いいわよ。いいですわ」
チェ・ジュウが鈴のような声で答えると
「ここのご主人さまもそう言っていらっしゃる、とにかく、撮影の邪魔はしないでくださいよ」
さっきは命を助けられて、先生と呼んでいた所ジョージが、その恩も忘れて苦々しく答えた。
「この線から出ないこと」
所ジョージが白い布テープで線を引くと、観客たちは大人しく、その線のうしろに座った。
早速、首からカメラをぶら下げた市川崑はそこらじゅうを測量士のように歩き回っている。
仲村トオルは大人しく座っている彼らを見ながら、この市には三つのグループがいると思った。
一つは伝説の大番長たち、彼らは人間離れしている。山田優も、武田鉄也もこのグループに入る。
そして、自分たち一般人だ。
それから得体の知れない人間がいる。むしろ大番長たちよりも不気味だとも言える。
それがヨン様だ。そして仲村トオルはなぜか、上戸彩の弟にこのヨン様と同じにおいを感じているのだった。
そして撮影が始まった。つぎつぎと焚かれるフラッシュ、その中で市川崑が舞い踊っている。
神殿の前で踊られている古代の舞のようだった。
チェ・ジュウは神殿に飾られている神鏡である。
チェ・ジュウはいろいろな表情を見せた。
ときどき、チェ・ジュウが仲村トオルの方を見て、微笑むので、彼はドキリとした。
実際は市川崑のカメラのレンズの方を見て微笑んでいるのだが、仲村トオルが自分の方を見て微笑んでいると勘違いしているだけだったのだ。
チェ・ジュウの着替え室は二階の小さな事務室があてがわれていた。
入り口にはひっくり返せる札がかけられていて、チェ・ジュウが着替えているか、どうかがわかった。
仲村トオルはよく乾燥したタオルを持って来て欲しいと頼まれたので、それを持って着替え室の前に行くとチェ・ジュウは部屋の中にいるようだった。
「タオル、持って来ましたよ」
仲村トオルがドアをノックすると
「入ってください」
仲村トオルは中に入ると、どきりとした。チェ・ジュウは髪を三つ編みにして、普段と同じように白い体操着を着ていたからだ。
振り返ったチェ・ジュウの顔は自分と同じ中学生のそれだった。椅子の上から生足が出ている。
「タ、タオル、持って来ました」
「こっちに持って来て」
チェ・ジュウは甘えた声を出した。
「ふう、暑い、暑い」
チェ・ジュウはくちびるをとがらせて息をはげしくしている。
額のあたりには汗が浮かんでいる。
「タオル、貸してくださる」
仲村トオルがタオルを手渡そうとすると、その手をとって自分のふともものところにぴったりと押し当てた。
「ねえ、熱いでしょう」
チェ・ジュウは顔を上げて仲村トオルの方を見た。
チェ・ジュウのふとももの上の汗が仲村トオルの手のひらについた。
「チェ・ジュウ、用意できましたよ」
部屋の外の方で長兄の所ジョージの声が聞こえると、チェ・ジュウは他人行儀になって、
「はーい」
と大きな声で返事をした。
「ねぇ、あとであなたに渡したいものがあるの。受け取ってくださいますか」
仲村トオルが返事をしないうちに、チェ・ジュウは何事もないように出て行った。
撮影はほぼ二時間くらいで終わった。
風船拳老師武田鉄也は孫娘を自転車の荷台に乗せて帰って行った。上戸彩の弟も野球帽を被って帰って行った。
長兄の所ジョージも市川崑もチェ・ジュウを送って行くとか、何とか、言い訳を作って、チェ・ジュウの車に乗り込んだ。
馬鹿三人は旧市庁舎の前に立っている。
街路樹にはいい具合に緑の葉がついていて、爽やかな風が流れている。仲村トオルはこの秘密をルー大柴や別所哲也に話していいものかどうか迷っていた。
撮影が終わり近くになったときに、誰も見ていない場所で、仲村トオルとチェ・ジュウはふたりきりになり、そこで彼女は仲村トオルに秘密のプレゼントをしたのだ。それは未現像のスライド用のフィルムだった。
「これ、受け取ってくださいますか」
「なに、これ」
「市川崑さんが、くれたのよ。記念にって、ちょっと大人ぽすぎる表情ばかりになっているから、写真集にのせられないから、記念にくれるって言ったんです。受け取ってくれますか。現像したら、その表情が載っているはずだって」
「何で、僕に」
「ヒ・ミ・ツ」
チェ・ジュウは謎の微笑みを残して、その場を去った。
秘密のフィルムがポケットの中に入っている。
一体、何が写っているのか。
このことを他のふたりに話していいものか、どうか。
「別所、お前、チェ・ジュウの着替え室の前であたりを伺ってうろうろしていただろう」
「何で、知っているんだよ。そういうお前だって、チェ・ジュウの更衣室の中を伺っていたじゃないか」
「お前も知っているのかよ」
仲村トオルの知らないところで、ふたりは何かをしていたらしい。
そんなことは全く、仲村トオルは知らなかった。
「ポケットが膨らんでいるんですけど」
「そういうあなたもポケットが膨らんでいます」
「同時にポケットの中のものを出すか」
「よし、そうするか。いち・に・さん」
ルー大柴と別所哲也は同時にポケットの中のものを出した。
ふたりの手には黒い柔らかそうなものが握られている。
「お前ら、何、やってんだよ」
仲村トオルは絶句した。
「お前ら、犯罪者か」
「仕方ないだろう、記念品が欲しかったんだよ」
「右に同意」
「これ、一生の宝物だからね」
「右に同意」
ルー大柴の手には刺繍の入ったチェ・ジュウのパンティが握られていた。
別所哲也の手には同じように刺繍の入ったチェ・ジュウの黒いブラジャーが。
「チェ・ジュウ、気がつかないか」
「大丈夫、大丈夫、下着類、だいぶ持って来ていたみたいだから」
「それにしても、中学生のくせに大人ぽい、下着をしているな」
「右に同意」
仲村トオルもその事実よりも下着の意外さに驚いていた。
「隠せ、隠せ」
別所哲也が声を立てた。三人はあわてて、ポケットの中に下着をしまった。
「おーい、元気か」
向こうの方から倖田來未がやってくる。その横にはKK子がいた。
「道の真ん中で何、話してんのよ。また、くだらないことだと思うけどね。用事は終わったの。今日、下駄箱で話していたじゃない」
「終わった、終わった」
ルー大柴がにたにたして答えたがその表情はどこか、ぎこちなかった。
「何か、ポケットが膨らんでいるみたいだけど」
「何でも、ないよ」
「それより、ふたりともどうしたの、こんな時間にこんなところを歩いていて」
別所哲也が照れ笑いをしながら答えた。
「下着を買いに行ったところなのよ。ちょっと大人ぽい、下着を買おうと思ってね。ふたりとも、うんと大人ぽい、セクシーなの買っちゃったんだよ、三人にも見せてあげたいわ」
KK子が少し、照れた表情をして、仲村トオルの方を見上げた。
仲村トオルは心苦しかったというより、何で、ふたりが下着どろぼうのような真似をしたときに、KK子と倖田來未のふたりが下着を買いに行ったのに出会ったのだろうかと思った。
この不思議な一致をどう思っているのだろうかと、ルー大柴と別所哲也のふたりを見たが、ふたりは何も感じていないようだった。
「女子中学生が下着の話しをしちゃ、だめだと、父ちゃんが言っていたぞ」
「ニダニダ」
その声をする方を見るとヨン様とおかねどんぐりくんがふたり並んで、五人の方を見ている。
「お前達、友達だったのか」
「そんなことはどうでもいい」
「ニダニダ」
ヨン様とおかねどんぐりくんは声を合わせた。
本当に不気味なグループの中にこのおかねどんぐりくんを入れておくのを忘れていたと仲村トオルは思った。
確かに、このおかねどんぐりくんもヨン様や上戸彩の弟と同じにおいがすると思った。
「女が自分から下着の話しをするのは男を誘っている前兆だと、父ちゃんが言っていたぞ」
「ニダ、ニダ」
ヨン様も同意した。

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