羅漢拳  後編

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江尻伸吾の研究開発室は大阪府警の向かいにある交通安全協会という小さなビルの最上階の五階にあった。大阪府警の前が三つ又になっていて陸橋が離ればなれの島にかかっていてその陸橋を渡って交通安全協会のビルにわたることができた。もともとある保険会社のビルだったらしいが十年ほど前に交通安全協会がこのビルをゆずり受けたらしい。アコーディオンのようなドアをあけてエレベーターに乗り込むと五階でエレベーターは止まった。五階の鉄製のドアを江尻伸吾は鍵を取り出して開けた。ちょっと歴史のあるような古色蒼然とした、中古の、と言うのはあけるときにドアの蝶番のところがぎしぎしと音をたてたからである。しかしそれでいて軽い装飾のほどこされたそのドアを開けると村上弘明の目に飛び込んで来たのはほおずきを逆さまにしたような形をした金魚鉢とその中で松藻の間を泳いでいる金魚の姿だった。金魚の鉢はドアを開けてすぐ目の前にあるカウンターの上に置いてある。カウンター向こうにはなにやらねじれた感じのフラスコやそれにつながっているくるくるストローのようなガラス管、不気味な腐ったような緑色の液体の残っている試験管、赤いインキを水で薄めたような液体の入っているビーカーなどが部屋の左側の机の上に乱雑に置かれている。その机の横にはラック形式ではめ込まれている計測機械が五、六台置かれていた。金魚鉢の向こうの正面には頭蓋骨からつるされた人体の骸骨模型が横を向いて立っている。そのうしろにはとじひもで閉じられた資料が棚の中に乱雑に投げ込まれていた。それに反して、吉澤ひとみがこの部屋に入ったときから、何か、無機質な機械の動作する音が聞こえると思ったのは間違いがなかった。右手の方には最新式の電話局の交換機が多数収納され、作動していたからである。部屋の真ん中は両翼に十人ぐらいづつ座れる大きな大理石の机になっていてその机の真ん中はたて一列にテレビのモニターが埋め込まれていて机の両脇からその画面がのぞき込めるようになっていた。それらの家財道具の間にには黒い網で覆われた名前のわからないような鑑賞植物がいく鉢も置かれていて、触るべからずという札が貼ってある。入り口の左には大きな流しとガス台が置かれていた。右の方には入り口と同じような旧式のドアがあってその上にはトイレットと書かれている。部屋の大きさは左右に五メートル、奥行きが七メートルぐらいあった。
「おおっ。マドモアゼル、触らないで、エクスモゼ。」
吉澤ひとみがその珍しそうな鉢植えの植物を黒い網越しに触ろうとすると地獄から這い出て来た伊達男はあわてて吉澤ひとみを押しとどめた。
「マドモアゼル、これは大変な猛毒でござんしょう、触ると肌がただれるでざんすよ。」
吉澤ひとみは少しむっとした顔をした。
「マドモアゼル、あなたの仰りたいことはわかるでがんす。何で警察の中でこんな植物を育てているかってことでござんしょう。マドモワゼルの言うことはもっともでごんす。これは最近、生駒山の古豪の家で野生の毒草を使った毒殺事件があったでごんす。そのための資料でごんす。エクスモゼ。」
「江尻さん、仮にもここは大阪市民の税金を使って建てられた警察の機関ですよ。そんな勝手なことが許されるのですか。」
村上弘明はこの大仰な部屋の中を見回しながらあきれた顔をした。
「ノン、ノン、あなた方はカツ丼派に毒されているざますね。警察の犯罪捜査のゴールは何でごんすか。犯罪者の検挙でざます。われわれは法の番人でごんす。それが大阪府警の使命であり、市民に対する義務ざましょう。そのためには予算を最大限に割いてもらうのが、もっとも大阪府警を有効にアクティブ状態にする条件でごんす。おわかりかな。」
「そんなことを言っても訳の分からない植物を都会のど真ん中で勝手に栽培なんかしていいんですか。危ない植物なんかも栽培しているんじゃないですか。」
「ノン、ノン、ミーは法を守る者、あの川田定男なんかとは違うでごんす。」
川田定男の名前が出て来たので村上弘明は耳をそば立てた。
「江尻さんは川田定男のことを知っているんですか。」
「オー、イェー、あの義賊気取りの男でしょう。」
「兄貴は川田定男フリークなんです。」
「余計なことを言うなよ。」
村上弘明は耳を赤らめた。江尻伸吾は明らかに不快な顔をした。
「世の中のことが分からない人の中にはよくああいう人物を偉い人だと勘違いする人間がいるざんすよ。要するにあの男のしていることは株の不当な操作ざましょう。それも詐欺まがいのことをして。自分の私服を肥やすためにやっているんでざましょう。あれは最近捕まったあの詐欺の相場師と違いがないでごんす。」
村上弘明は内心、不服そうな顔をした。もしかしたらこの変な錬金術師は川田定男にライバル心を持っているのかも知れないと村上弘明と吉澤ひとみは思った。そう感じていることを微妙に江尻伸吾は感じとったのかも知れない。
「川田定男のやっていることぐらいなら、ミーと神山本太郎署長が共同で開発したこの装置を使えば簡単に出来るのことよ。」
そう言っておフランス帰りの伊達男はこの部屋の右手にある最新式の電話交換機みたいな機械を指し示した。
「ミーがこの装置について説明するざんす。これを使えばあなたたちがここを尋ねたというのも無駄じゃないということになるでごんす。これもみんな神山本太郎署長が金を出してくれなければ実現しなかったでごんす。うーん。」
ここで江尻伸吾は感嘆のため息をついた。そう言いながら彼は左手にある流しの方へ行き、アルマイト製のやかんに水をつぎながら吉澤たちにこの部屋にある大理石製の長い机につくように言った。
「今、紅茶をわかすから机に座って欲しいでごんす。」
見ると流しの左端の方に木製の食器棚が置かれて中に紅茶茶碗が逆さに伏せられて置かれていた。吉澤ひとみが机に座って後ろを振り返ると若いのか年をとっているのかわからない江尻伸吾がたくましいわけではないのに節くれ立った指で不器用にレモンを切っていた。吉澤ひとみは急にびっくりした。急に光りを感じたからだ。机の真ん中に埋め込まれているテレビの電源が入ったからだ。
「ああ、お嬢さん、びっくりしたみたいだね。そうでしょう。ミーにはわかるでごんす。その机の真ん中に埋め込んであるテレビは人がこの部屋に入って五分経つと自動的に電源が入る仕組みになっているでごんす。」
江尻伸吾は片方に包丁を持ちながら吉澤ひとみの方を振り返りながら声をかけた。机に備え付けられている椅子は鉄パイブが骨組みになっていたが厚い一枚皮が張られていた。吉澤ひとみと村上弘明はこの会議用の大理石の長椅子が大きいので江尻伸吾が立っている流しの方に座っていた。江尻伸吾は紅茶をいれて村上弘明と吉澤ひとみの前に置いた。そして彼は吉澤ひとみの横に座り、自ら紅茶をすすった。
訳の分からない植木の向こうに電話交換機の親玉のようなものが壁一杯をしめていてパイロットランブがぴかぴかと点滅していた。吉澤ひとみたちの前にはかりんとうも置かれていた。江尻伸吾はそのパイロットランプが点灯しているのを見て満足そうだった。彼はかりんとうをぼりぼりとかじった。
「さっき、江尻さんは川田定男のやっているようなことだったら、自分にもできると言いましたよね。どういうことですか。」
村上弘明がこの算盤漫談の親玉みたいな男が川田定男にライバル心を燃やしているのではないかと思ったのは当たっているようだった。
「川田定男のやっていることはほとんど詐欺のようなことでがしょう。そうでがしょう。ミーなんか、この装置の配線を変えればあんなことなんか朝飯前でがんす。、大阪府民の税金でやっているからそういうわけにもいかないんでがすが、それができれば川田定男のやっていることなんていとも簡単にできるってことでがんす。」
「よくわからないんですが。」
吉澤ひとみは異議を唱えた。
「これざんすよ。」
江尻伸吾は右手の壁一面をすべてしめている低い作動音をたてながらパイロットランプの点滅している電話交換機の親玉みたいなものを自分の子供を見るように目を細めて眺めた。
「これを使えば株で大儲けすることなんていともたやすいことでがんす。」
そう言って伊達男はあごをしゃくりあげた。
「こっちにご注目あれ。」
気が付くと江尻伸吾は安物のテレビのリモコンを片手に持っていた。吉澤ひとみと村上弘明は思わず手に持っていた紅茶茶碗を宙でとめた。芝居気たっぷりに伊達男がリモコンのボタンを押すとテーブルの真ん中に埋め込まれている十数台のテレビが一斉について電源の入った小さな音がして吉澤ひとみは静電気が生じているのを感じた。
江尻伸吾がリモコンのボタンをいじくるとテレビの画面にホームページのようなものが動きだした。
「吉澤さん、今年の五月十二日に大阪刑務所でオムライスを食べたのではないかな。時間は十四時二十八分以降ではござらんかな。」
江尻伸吾はそう言ってまた得意そうに顎をしゃくった。村上弘明は確かに五月の中旬ころ大阪刑務所に取材に訪れたことがあるような気がした。そのとき確か案内した刑務官にたのんで出前のオムライスを頼んで食べたことがあるような気がする。しかしそれが事実だとすると江尻伸吾はどんな手品を使ったのだろうか。よくあなたの誕生日をあててみせますと言っていろいろな日付を聞いてそれらの日付からの組み合わせでその人物の誕生日をあてる手品があるが、ちょうどそれにかかっているような気がした。しかし、村上弘明は江尻伸吾に何も言っていない。伊達男は少し得意気に鼻でせせら笑った。
「お主も報道の仕事に携わっている者ならこの大阪で起こったまことに興味深い事件を見逃しているとは笑止千万じゃぞ。」
いつの間にか江尻伸吾の口調は侍のようになっていた。江尻伸吾は口元に不気味な笑みを浮かべた。
「まず、君たちの住んでいる町で起こった事件でごんす。君たちの町のはずれた場所に照光寺という人が住まなくなってうち捨てられた古寺があるじゃろうが、そこで奇怪な事件が起こったことをご存知かな。そのあたりには何の建設用の重機もないのにかかわらずじゃ、夜があけたら古寺の屋根は落ちていてぺしゃんこになっておった。柱が何かにへし折られたからじゃ。そして古寺の回りの古木も幹の途中から変な具合に折れており、人間ではとても動かせないような大きな庭石の位置が違っていたり、墓石がこなごなに砕けておったりした。」
それは吉澤ひとみが松村邦洋と学校新聞のネタになると思って取材に行った事件だ。吉澤ひとみは当然、その不思議な出来事のことを知っていたが村上弘明はそのこと全くを知らなかった。
「まあ、この不思議な出来事のことは一部の新聞には載っていたでがんすがね。出来事という言葉を使ったのは被害者がいなかったからでごんす。無人の荒れ寺がつぶれただけでごんすからね。さらにどこの新聞でも取り上げなかった出来事で不思議なことがこの大阪で起こっているでごんす。ご存じかな。」
ここで江尻伸吾は目をぎょろりとさせて顔を斜めにして顎を再びしゃくった。
「大阪府立体育館をご存知かな。大阪に住んでいるのだから当然、耳にはしているだろう。変事はそこで起こったのじゃ。怪物プロレスラーとして広く世間に知られているゴーレムという招待選手の試合が日本の興業団体の段取りで行われた。ゴーレムは怪物めいた能力の割に試合においてはいつもクールだった。金めあてでその突然変異のような巨体を使っていたから試合が終わればいつでもすぐにロッカールームに引き上げて行ったのだが、その日は違っていたでごんす。」
吉澤ひとみは兄の村上弘明は知らないことだったがその試合会場に松村哲也や滝沢秀明と供にいたからその試合会場での出来事は知っていたが黙っていた。しかし、江尻伸吾はその場所に行ったのだろうか、さもなければ誰か情報提供者の力によってその情報を得たのだろうか。
「その試合会場で何かあったのですか。そのプロレスラーに関して。」
「それが大ありでがんす。いつもならその恐竜のような巨体を利用して早々と試合を終わらせて引き上げるのがいつものゴーレムの試合パターンなのじゃが、その日は違っていた。試合会場に意趣返しだと言ってある空手家がリングの隅にやって来て決闘を申し込んだでがんす。いくら身体を鍛えているからと言って相手は突然変異で生まれたような怪物だ。最初のうちは良かったがたちまち空手家の方の形勢は不利になってぼこぼこにやられ始めたでがんす。試合会場にいた観客は最初は空手家を応援していなかったがあまりに体格の差は如何ともしがたく、その上空手家が負け初めてぼこぼこにされているのを見て空手家の方を応援する気になっていたでがんす。そうしたら。天井から墨染めの衣を着た若い僧が降りて来て怪物を一撃で倒してまたどこへともなく消えたのでがんす。しかし、ミーはそんな表面的なことに目を奪われているのではないでがんす。ちょうどその頃ゴーレムの控え室で盗難が起こったらしいでがんす。それは後になって関係者が気づいたでがんすが。ゴーレムは誰にもその中身を教えないでがんすがいつも肌身離さず持ち歩いていた金属製のアタシュケースがあったでがんす。どうもそのアタシュケースが盗まれたらしいでがんす。その二、三日後にゴーレムは急遽帰国してしまったでごんす。ここ数ヶ月でこの大阪でこんな不可解な事件が起こっているんじゃ。お二人はそのことを知っておったかな。」
「もちろん、知りませんでした。江尻さん、あなたがそういう話をするということはK病院で起こった痴漢事件についても何か情報を持っているということですか。」
村上弘明はかりんとうをぽりぽりとかじりながら江尻伸吾の目を見た。
「ミーはその事件のことは知らないでごんす。しかし、たちどころにそのことを調べることができるでごんす。ただし、その元看護婦が一言でもその痴漢事件についてどこかの交番か、相談所にしゃべっていればでがすがね。」
「と言うと。」
すると伊達男は顎で電話交換機の親玉みたいなものを指し示した。
相変わらすその機械はぱちぱちとパイロツトランプを点滅させている。
「これは神山本太郎署長の特命で作られたものでごんす。ミーが留学中の研究と神山本太郎署長の情熱がなければこの装置は完成しなかったでごんす。同じようなものが東欧にあるでごんすが、ミーの作ったものの方が規模が大きい、その上、東欧の方が広い地域に張り巡らしているのに対してミーの方は大阪府内だけに限定しているのでがんすからその密度は遙かに高いでがんす。ミーがこうして話している間にもこの機械は稼働しているのでがんすよ。うひひひひ。」
江尻伸吾は下品に笑った。
「この機械で何できると言うんですか。何か、電話交換機の親玉みたいだけど。」
吉澤ひとみがテーブルの上に置いてある安物のテレビのリモコンをいじろうとするとあわてて伊達男はそれを遮った。
「だめだめ、それをいじったら、マドモワゼル、一般人には見せられないものがいっばいでてくるからね。よろしいかな、マドモワゼル。」
「でもなぜこの機械で僕が刑務所に取材に行ったときオムライスを食べたとわかったんですか。」
「ウィ。」
江尻伸吾はフランス語で同意したが小さな子供だったらその答え方も可愛いだろうにと吉澤ひとみは思った。
「この機械は神山本太郎署長の強い肝いりで制作されました。そもそも東欧の秘密警察がその原型を考え出したのじゃが部品の信頼性はあまり高くなかった、そこでミーは大阪の日本橋で部品を調達してリメークしたでごんす。この機械のさきには大阪府内のすべての交番の電話、大阪府警、裁判所、刑務所、救急病院、大阪市役所の市民苦情相談所、等々すべての苦情が持ち込まれそうな場所には有線、無線を問わずその電話線とつながっているでごんす。また神山本太郎署長のたっての願いにより大阪府警の課長以上の自宅の電話線にもつながっているでごんす。その電話線を通してその電気信号がこの機械に入ってくるでごんす。この機械に入ってくるとその電気信号はデーターか、音声信号かに分類されるざます。データーはそのままこの機械に入るざます。音声信号はこの機械に入るとその声紋を分析してその氏名を割り振るでごんす。それから音声信号はデーターに変換されて情報の圧縮がなされるでごんす。このリモコンでこの機械を操作するでごんす。だからこの機械の中には日芸テレビ、ニュースキャスター、村上弘明氏に関した項目が何百と入っているざますよ。うしししし、それであなたがうちの広報課に来たときにあなたの項目を調べて大阪府刑務所を訪れたときにオムライスを執務官が出入りの洋食屋に注文をしているのを調べたでごんす。ちなみにこの機械の名前は神山本太郎署長の栄誉を祝して神山本次郎と名付けているざんすよ。」
吉澤ひとみは話しを聞いていて胸がむかむかするのを禁じ得なかった。大阪府の許可さえも得ないで警察署長がそんなことをすることが許されるのだろうか。大阪府内の何千という電話線や無線の中継基地にそんな工事をしているとしたら工事費だけでも大変な金額になるだろう、吉澤ひとみには神山本太郎が自分の地位を守るためにこんなことをしているとしか思えなかった。
「工事費だって大変な額になるでしょう。大阪府民の税金を使ってそんなことをしているとしたら許せないわ。」
「ノンノン、マドモワゼル、お金なんて全くかからなかったざんす。さっき言ったざますよね。あのインチキ相場師の川田定男なんかのやることはミーにもできるって。神山本太郎署長の許可を得て大阪株式市場にこの機械をつながせていただいたでごんす。その結果、川田定男の偽名が判明したでごんす。ノンノン、それを知りたがってもだめざますよ。マドモワゼル、それで川田定男が株を買い始めたらミーも同じ銘柄を買って売り逃げるのでごんす。慣れない株の取引にはミーも大部頭を悩ましたでごんすが、川田定男もいい面の皮でごんすね。ミーに利用されているとも知らないで。うひひひひ。」
またもや吉澤ひとみは不快になって江尻伸吾に何かを言おうとしたがそれをさえぎるように村上弘明が口を出した。村上弘明は江尻伸吾が持っているリモコンを指で指し示した。村上弘明はここを訪れた本来の目的は忘れていなかった。
「じゃあ、この機械を使えばK病院のことで何か情報をつかむことができるというわけですね。」
「ウィ、ムシュ、もちろん、そうざますよ。」
江尻伸吾は手に持っていたリモコンを胸の前でぶらぶらさせた。
「ムシュ、アンド、マドモワゼル、実はミーもあのK病院のことは前から気になっていたざんすよ。大阪府内の七不思議の一つってことで、ゴーレムというプロレスラーの不思議な出来事があったでごじゃります。ミーはそのことに興味を持ったでごじゃります。それでもってゴーレムが来日している一週間前後に変わった出来事がなかったかこの神山本次郎こと別名神山本太郎二号で調べたでごんす。そうしたら、マドモワゼル、K病院の名前が出て来たんでがす。」
巨人プロレスラーとK病院、吉澤ひとみにはどうしても結びつかなかった。
「K病院に出入りしている牛乳屋が他の緊急病院に暇つぶしの電話をかけているのをこの機械が入力したんでがす。」
江尻伸吾はリモコンを操作するとテレビのブラウン管に文字が浮かんだ。
「みずほちゃん、さっきK病院に牛乳を届けたんだけどさ。」
「K病院ってあの市の肝いりで出来たという気味の悪い病院、」
「そうだよ。あのK病院。あそこの裏門にうちの軽貨物をバックで入れていたら、すっごく大きな外人がいるの。人目でわかったよ。特注の背広を着ていたけど、あれプロレスラーのゴーレムじゃないの。」・・・・
確かにK病院の名前が出ていた。ゴーレムとK病院、一体どんな関わりがあるのだろうか。
「確かにこの人はゴーレムをK病院で見たと言っていますね。」
吉澤ひとみも大きな瞳を見開いてそのブラウン管の文字を見た。でも何故、フランス帰りかアメリカ帰りかわからないこの男がプロレスラーに興味を持っているのだろうか。
「江尻さん、あなたは何故、ゴーレムに興味を持っているのですか。確かに大阪府立体育館で不思議な出来事があつたのは事実ですがね。」
村上弘明は実際にはその出来事のことは知らなかったから事実だと判断するしかなかったが。
「その疑問はもっともです。ムッシュ、実はミーはゴーレムの姿を見るのは日本に来てからが初めてだというわけではないんでがす。アメリカのFBIにいたときにも彼の姿をサーカスのプロレスで見たことがあるんでがす。それが背は高いんですがすっかりやせていて力も全くなく弱いプロレスラーでがした。それが二年前のことで、それが今は誰も対戦相手がいないような怪物プロレスラーになっていたんでがす。ミーはすっかり驚いてしまったざます。」
二年前には全く弱かったプロレスラー、それが今は対戦相手もいないような怪物プロレスラーになっていた。これは興味のある問題だと言えるかどうか微妙なところだ。人間離れをしたあれだけの巨体である。自分の身体を支えるのがやっとだった状態から自分の身体を動かせるようになっただけで体力だけで試合に勝てるということは充分に考えられる。
「ゴーレムとK病院に関連して何かあると考えているんですか。」
「さぁ、ミーには何もわからないでがんす。しかし、K病院が何か謎を持っている病院だということは明らかざます。それでミーはK病院で神山本太郎二号ちゃんを使って調べて見ました。その時の記録がとってあるざます。ムシュ、アンド、マドモワゼル、ご覧になりますか。」
村上弘明と吉澤ひとみは思わず身を乗り出した。
「もちろんですよ。」
「それなら。」
江尻伸吾はまたリモコンを操作した。テーブルの中央に埋め込まれているテレビのブラウン管にはまた文字が流れ始めた。
「春日安代、48歳
主婦、大阪府栗の木町5の8の9
K病院のことなんですが、私、義理の父が死んだので葬式を逆さの木葬儀場でやることに決めたんです。それで、もちろん、義理の父親の死因は変な死に方ではありません。お風呂から急に出て来てその前にお酒を飲んだのが悪いのかもしれません。急に倒れたんです。救急車を呼んだときはもう手遅れでした。それで前から栗の木互助会に入っていたのでそこで葬式をやろうと思ったんですけど、警察の方から死因に不明なところがあるから死体を燃やすのは少し待ってくれなんて言われて、警察がK病院の死体安置所に義理の父の死体を運んだんです。」
「それはいつのことですか。」
「今年の六月一四日のことです。」
「何日くらい死体はK病院の安置室に留め置かれていたのですか。」
「約一週間です。」
「警察に不当に死体を留め置かれていたことの補償ですか。」
「いいえ、そんなことより、一週間後に死体を焼き場に持っていくために受け取りに行ったら、受け取りに行ったのは逆さの木葬儀場の人なんですが逆さの木葬儀場で死体を見たら首のあたりに縫ったあとがあって、死体を傷つけられたと家族みんなで憤慨して逆さの木葬儀場の人にそう言ったら、死因が不明だったので解剖した。そのあと自分が死体の修復をしておいた。って言うんですよ。そのあと焼き場で死体は焼いたんですが、家族に聞きもしないで義理の父の死体をかってに解剖するなんてどういうつもりですかって、警察に抗議しに行ったら、警察の方は解剖なんてしていないと言い張るんです。補償問題はどうなるんでしょうか。」
「じゃあ、その死体が傷ついているのを実際に見たのは誰なんですか。」
「私の家族とその逆さの木葬儀場の人です。K病院の人も見ているかも知れませんが本当のことを言うかどうかわかりません。」
これが大阪府住民苦情相談所に来た春日安代という主婦の苦情電話の内容だった。この苦情を神山本太郎二号がデータとして入力したのだった。これが単なる文字でなく肉声として聞こえて来たらもっと迫真力があったかも知れない。しかしK病院に関する情報としては気抜けしたものだったことも事実だった。葬式のあと焼き場で焼くことになっていた死体が病院の死体安置室で留め置かれてその間に死体に傷がついたとその家族が大阪府庁の苦情相談所に苦情を申し入れたということは。
「ミーは初耳でしたがK病院には死体安置室があるざんすね。」
「それが条件で市が建設費を出したんですって。もちろん、それだけではないんだろうけど。」
「マドモワゼル、その死体安置室にマドモワゼルは入ったことがあるざんすか。」
「いいえ、ありません。」
吉澤ひとみはうんざりした顔をして答えた。もっと重要な情報がつかめるかも知れないと思っていた吉澤ひとみにははなはだ期待はずれな結果となった。これなら最新の技術を駆使して作った神山本太郎二号もあまり役に立たないということになる。しかし、村上弘明の方を見ると少し目に光りが感ぜられた。何故だろう。おもしろくないので吉澤ひとみはかりんとうを口に含むとばりばりとかじった。
「江尻さん、あなたはFBIにいたとき秘密兵器の開発だけをやっていたのですか。」
「ノンノン、そのほかには暗号の開発とか、交通費の削減の研究とか、やっていたでごんす。」
そう言いながら、江尻伸吾は左手で右手の指を折る仕草をした。
「ちょうど良かった。江尻さんに解読してもらいたいものがあるんです。」
村上弘明は手帳の間に挟んであったコピーを取り出すと江尻伸吾に手渡した。
「何ざますか。これ。」
それは
十月十一日
 こてにきうけおでぃう
という不可解な一文が載っているあの下谷洋子の手帳のコピー全部だった。
「どうも何かの暗号らしいんですが、僕らには解けないので江尻さんに解いてもらいたいんです。
「何ざましょう。暗号にしてはずいぶんと低級みたいざましょう。よろしい、こんなものならミーが解いてあげるざましょう。」
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(小見出し)「なあ、うちの高校の入校案内のポスターをやってくれないか。」
S高校の裏手にある小山の上から自分たちの校舎を見下ろしながら担任の畑筒井と吉澤ひとみの二人は並んで座っていた。
「実は校長から頼まれているんだよ。吉澤をうちの高校のポスターに使うようにって。」
畑筒井はそう言いながら手には一眼レフのカメラを持っていた。おわんを伏せたようなS高の裏山には背の低い草が木の下に一面にはえていて絨毯のような役割をはたしている。ここで寝ころぶことも可能だがそうすると青春映画の一こまとなるが相手が畑筒井では不自然な感じがする。小山の上からはまだ建てられてから数年しか経っていないS高の建物が数字のエルを逆にして校庭の右側に見える。その建物の背後にはうち捨てられたウエートリフティング部の掘っ建て小屋が小さく見えて下にいるときには見えなかった屋根の錆び付いた様子がここではよくわかる。遠く離れたところにアンテナ公園の観覧車が遠く離れているにもかかわらずそれなりの大きさで見える。その近くにK病院の妖しい威容が黒いシルエットとして浮かび上がっている。その病院の背後の森の奥の方に逆さの木葬儀場があるのだろう。S高校が建てられたのもここら一帯の名士、福原豪の影響があったからに違いない。だからS高校の校舎を作っているコンクリートを粉々にうち砕いてもその小さな一粒一粒に福原豪の威光が入っているのかも知れない。その事はK病院に関してはなおさらだ。だから松田政男の殺人事件に関してももとを辿っていくとこの栗の木市の名士である福原豪に行き着くかも知れないと吉澤ひとみは思った。全ての元凶は福原豪にあるのだとしたらこの奇妙でゆがんだK病院を作ったことやほかにでもあるだろう彼のこの市での金持ちであることや政治家としての圧倒的な権力を利用しておこなわれた横暴がそもそも何を持ってして福原豪を動かしているのだろうか。
「吉澤、校長のたっての希望だからな、聞いてくれるな。」
吉澤ひとみは立ち上がりながらこの小山から下界の景色を見ていることに気をとられてここに担任の畑筒井と来ているということも一瞬忘れていた。畑筒井は膝を抱えながら振り返った吉澤ひとみの顔を見た。
「それで物は相談なんだけど、前にも喫茶店で僕の婚約者と会ったやろう。」
「先生の未来の奥さんでしょう。神戸あずささん。」
「そう、あいつのおばあちゃんが**京で定食屋をやっているということは話したやろ。吉澤が**京へ行ったときそこへ行って飯を食ったとき写真を撮らしてやったという話。」
「ええ。」
「それでな、そのおばあちゃんが吉澤のことをすごく気に入っているというんや。うちの未来の嫁さんに頼まれて普段のときの吉澤の写真が欲しいと言うんや。おばあちゃんにやりたいんだけどこのカメラで写真を撮らせてくれないやろうか。」
「ええ、先生、ここでですか。」
「この赤松の林を背景にして撮るといいんやないかと思うんや。」
そう言いながら畑筒井は背景を物色し始めていた。
「この赤松がいいんやないか。雰囲気があるで。この幹のごつごつした感じなんかが、吉澤、悪いけどこの赤松の前に立って微笑んで欲しいんや。」
畑筒井は婚約者のおばあちゃんにかこつけて吉澤ひとみの写真を撮らせて欲しいと言ったが本当は自分の目的からだった。確かに婚約者の親族は関係があるのだが、その影響で多少写真にこり始めていた。この前の生徒と一緒に行った遠足のとき、カメラを持って行き、生徒を写してカメラ雑誌に応募したところ三等をとった。そこで欲が出て来た。被写体にもっと魅力的な対象を選べばもっと上位に行くのではないか、そこで吉澤ひとみに白羽の矢が立ったのである。吉澤ひとみがポスターのモデルになってもらうという話しは本当だったが、おばあちゃんの方の話は嘘だった。そこで少しうしろめたい気持ちもあっておばあちゃんの話を持ち出したのである。担任を持っている教師ほど被写体に困らないものはない。相手は活きのいい魚みたいなものだからある程度結果が期待できる。畑筒井の同級生で東京で高校の教師をやっている友達は生徒を使って二年に一度くらいづつ自主制作映画を作っている者もいた。それが教育者としてどうかと言うことになると個々のいろいろな場合があるだろうが、若い綺麗な女子生徒を撮るという部分では本人もうしろめたい気持ちがあることで証明されているように内心、不純なものがあるわけで、教育者としてはあるまじき姿かも知れない。
「先生、ゴーレムって知っていますか。」
吉澤ひとみはあっけらかんとして畑筒井の内心の企みなど何の関係もないようだった。
「なんや、やぶからぼうに。」
「人間離れをしたプロレスラーがいるんですよ、たまたま松村君や滝沢君とその試合を見に行ったんです。その人に関してなんですが、ある人がアメリカに行っていてまだ弱い頃のそのプロレスラーの試合を見たことがあると言うんです。その人が見たときにはそんなに強くなくてそんなに強くないプロレスラーにすぐ負けていたと言うんです。一年か二年くらいでものすごく強くなったと言うんです。そんなことがあるんでしょうか。」
「そうやな、なくもないがな、今まで体力や筋力はあっても技とか知らなかったら、ちょっと技を覚えればそう言うことにもなるかも知れないやろ。松村たちとどこにその試合を見に行ったのや。」
「大阪府立体育館。」
そこで吉澤ひとみは信じられないものを見たのだ。しかし二十メートルはある体育館の天井から江戸時代にタイムスリップしたような墨染めの衣を着た若い僧が舞い降りて来てその巨人を倒したなどということを自分の担任に言えるだろうか。それこそおとぎ話である。
「その怪物レスラーなんですが、二人の人に会ったとき最近彼が死んだという話しを聞いたんです。一人は建築家で今泉寛司という人なんです。先生、知っています。それからもっといろいろな事も聞いたんです。もう一人は大阪府警の人なんですが、その人の話によるとゴーレムは途中降板してアメリカに帰ったそうなんです。そして帰国した途端に死んでしまったんですって。」
担任の畑筒井は吉澤ひとみが何故大阪府警に行ったのかという事は聞かなかった。
「日本の相撲取りでも早死にする例はいっぱいあるやないか。そのプロレスラーも身体が異常に大きかったんじゃないやろか。」
「身長、ニメートル三十以上、体重三百キロ以上。」
「なっ、そうやろ。」
畑筒井は自分で納得していた。畑筒井は話しに夢中になって自分が吉澤ひとみを撮るために持って来たカメラを持っていることも忘れているようなので吉澤ひとみは木の切り株に腰を下ろして足下に落ちている小枝を拾うと日本刀のおもちゃのように胸の前で振り回した。
「先生、わたしたちと大して変わらない体格の人がその巨人プロレスラーをいとも簡単に倒したという話しを信じられますか。」
吉澤ひとみはあの体育館の中で見た天井からつるされたライトを背にしてリング上に舞い降りて来た僧の夢の中の出来事のような事件を想い出していた。
「その試合会場での出来事なんですが、実際にわたしたちと大して違わない背格好の人がリング上に降りたってその巨人を倒したんです。その人物はほとんど人間離れをしていました。だって二十メートルもある天井からリングの上に降りて来たんですよ。」
「吉澤、お前も次田の親父みたいなことを言うな。」
「次田の親父。」
吉澤ひとみは怪訝な顔をした。
「誰、それ。」
「わいの昔の同級生の親父で次田源一郎という人物がいるんだ。その人が一種の夢想家で本人は歴史学者だと言っているんだけど、また変な学説ばかりたててばかりいてね。牛若丸が鞍馬の山の中で剣術修行したとき、カラス天狗が毎日やって来て剣術指導をしたというおとぎ話があるが、それが事実だという学説をたてている人物だよ。そのほかにも信じられないような突飛な学説をたてているよ。塚原ト伝は宇宙人だったとか、上泉伊勢守に剣の極意を教えた小笠原氏隆は実在しないで氏隆の家に居候していた名前のわからない巫女が彼に剣の極意を教えたとか言うわけの分からない学説を唱えているんや。」
「名前のわからない巫女って。」
「名前のわからない巫女やがな。」
「先生、そもそも塚原ト伝とか上泉伊勢之上と言われてもわからないんですが。」
講談という寄席で行われる芸能がすっかり日常生活から離れてしまってテレビに変わってしまった現代においてはもっともな話だ。上泉伊勢之上の方が塚原ト伝よりも時代はさかのぼるが同時代に生きていたと言われている。塚原ト伝は講談の中によく出て来て舟の中で兵法者に決闘を申し込まれて機転をきかして小島に兵法者を置き去りにしたことで知られている。所謂無手勝流。少し先に生まれた上泉伊勢守より新陰流を学ぶ。一方、飯篠長威斎より正真正伝の刀術を学び一派を開く、将軍足利義輝に指南もする。上泉伊勢守の方は大部、現実味をおびて来て上泉伊勢守の方は剣道と呼ばれるものの元締めのような存在である。それを名前の分からない巫女が剣の極意を教えるとは一体どういう戯れ言なのだろうか。それを次田源一郎なる人物は学説として唱えているそうだ。
「次田源一郎の学説によれば牛若丸を教えた天狗は実在して、だから牛若丸の八艘飛びの伝説も事実だということになる。」
「八艘飛びの伝説って」
「知らないなら勝手に受け流していいよ。あんなの講釈師が勝手に考え出した作り話なんやからな。」
「先生、その人が書いた本を持っていますか。」
「何年か前にわてのところに送って来たのやけど、たまたま校長が興味があると言っていたからあげたんや。きっと校長が持っているやろ。」
早速、吉澤ひとみは校長室のドアを叩いた。数ヶ月前に村上弘明たちとこの部屋に忍び込んだことを校長は知っているのだろうか。その上校長の大木章は村上弘明と喧嘩までしている。吉澤ひとみはそれらの事がまるで他人事のようにおもしろく感じていた。ドアを開けると教育者然とした態度で校長の大木章が机に座っていた。
「校長先生、畑筒井先生から聞いたんですが、校長室に次田源一郎という人の本があるそうですね。それを読みたいと思って借りに来ました。」
「君が吉澤君か。畑先生から聞きましたか。君にうちの高校の入学案内のパンフレットのモデルになってもらいたいって。」
「はい、聞きました。」
吉澤ひとみは照れることもなく答えた。すると校長の大木章はほくほく顔になった。
「次田源一郎の本はどこだったかな。」
校長の大木章は自分の机の後ろの方にある本棚に目をやった。この本棚もこの校長室に松村邦洋たちと忍び込んだとき松田政男のビディオテープがかたづけてあつた場所だその棚の上にはそのときは気付かなかったがつるつるに磨かれてもとの形が何だかよくわからなくなつてしまったライオンの置物が黒光りしながら棚の上に鎮座していた。校長の大木章は背を屈めて本箱の中をのぞき込んだ。
「おっ。あった。あつた。これやがな。これやがな。」
本箱の中にあする一冊の本を取り出すと少しほこりを被っていたので片手でほこりを拭った。
「これ、これ。」
大木章はこの本を読んだことはないし、興味も持っていないようだった。その本を扱う無造作な態度にそういった事情が読みとれた。
その本はくすんだ朱色をしていて本の背表紙のところはすり切れていた。それは何度も読まれたというより粗悪な材料を使ってその上に西日の当たるところにそれが置かれていた結果のようだった。本の厚さは二百ページくらいで表紙はくすんだ朱色をしていて細かい編み目のような凹凸がついている。広く世間にその内容を問うというより専門雑誌を単行本の体裁をとっているようだった。表紙には牛若丸伝説考究というタイトルが入っている。吉澤ひとみはその本を校長から受け取ると誰もいない家庭科実習室に持って行って目を通すことにした。家庭科実習室の入り口に行くと思ったとおり中には誰もいなかった。中は電気がついていなかったので入り口の側は暗かったが外に面した窓のそばは外光が入ってくるのでほんのりと明るかった。吉澤ひとみは窓のそばの大きな机のところに光で本が充分読めそうなところに座った。改めて校長から借りて来た次田源一郎なる人物の著作に目を通す。窓の外から入ってくる柔らかな光が吉澤ひとみの美しい横顔を暖かく照らした。机の上に次田源一郎の著作を置いて裏の奥付きの所から見ることにした。次田源一郎なる人物がどんな経歴を持っている人間なのか知りたかったからだ。奥付きを見ると次田源一郎の略歴が載っている。千九百二十一年生まれ、大正十年生まれとなっている。千九百四十年に芝浦工業専門学校を卒業している。そのあと日本陸軍の少数民族調査部隊というものに入っている。そこでヒマラヤ山脈の裏側の方にあるカンティテ山脈というところに調査研究に行くと書かれている。軍の命令で行っているとすればきっと政略的な意味合いがあるに違いないのだろうがその部分は詳しくは書かれていない。そこで次田源一郎の略歴は途絶えている。吉澤ひとみは改めてその本の内容を知るためにざっと最初からその本を読んでみることにした。最初の内容は第二次世界大戦中、中国の奥地に少数民族の調査に行ったとき常識では考えられない事実に出会ったということが書かれていた。酸素濃度の低い、獄寒の地でその村の長老が秘蔵しているという秘密の薬草の調査に当たったがその現物を取得することはできなかった、しかるに数々の事実から宇宙飛行士が使っているような生命維持装置に匹敵するような特殊な薬、もしくは薬草、カビ類が存在するに違いないと断定している。その次の章では日本の牛若丸伝説に考究している。牛若丸、つまり源義経のことだが、この人物に対する評価は無骨な野人という解釈で歴史を少しでも勉強したことがあるものなら一致するだろうが、牛若丸と呼ばれていた子供の頃に何者かが彼に武術を教え、超人的な技を身に付けていたと本気で論じているのだった。その技を鞍馬の山の中で伝授した者が誰かということになると、講談本やおとぎ話ではからす天狗ということになっているが、その事については次田源一郎自身、からす天狗だというのはあまりにも非科学的であってそんな妖怪が実在しないことは明らかであるから歴史に現れない何者かがいたに違いない、その何者かが牛若丸に超人的な技を伝授したに違いないと結論づけている。そして第三章になるといきなり源頼光の時代に現れた鬼や妖怪が実は突然変異で生まれた生命体で実在していたとまで結論づけている。ざっと吉澤ひとみが第三章まで読んだところの結論はそうだったがあまりにもばかばかしい内容だったのでもう一度この人物の経歴を読み直そうかと言う気になった。しかし単に売るためにありもしない内容をおもしろおかしく書いているにしては少なくても装丁は学術本らしくなっている。気を取り直して第四章に目を通そうとしたとき家庭科実習室の入り口に誰かが立っているのを認めた。
「ひとみ、こんなところにいたんだ。」
滝沢秀明がこの部屋の中に入って来た。吉澤ひとみはその本の内容を知られることがいやだったのであわててその本を閉じた。
「技術科工作室が使ってもいいという許可が出たからその事をひとみに伝えようと思って、今日の放課後あそこに行こうよ。材料は用意してあるから、松村にも言ってあるって。」
新聞部のねた探しで一般の生徒に記事を投書してもらうために少し大きくて頑丈にできたポストを技術工作室で作ろうかと言う話題が出ていたのだ。新聞部内ではどうせそんな物を作ってもいたずらをされるのが関の山だからやめた方がいい、無駄な労力だと言う意見もあった。しかしやらないよりもやった方がいいだろう。こういう物を作るのにこれだけの金額がかかった。と言う実績を作っておけば今度の部活動費も得やすいなどと規模はあまりにも違うが大蔵省の予算案めいたことを言う部員もいた。そのポストを作るための材料も用意して技術科の工作室に用意してあり放課後に吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明の三人でそれをやろうと言う話になっていて後は技術科の工作室を用意しておけばよい段取りになつていた。滝沢秀明がその部屋を管理している教師に許可をもらいに行き、ちょうどその教師が趣味で作っている蒸気機関の模型を作るために放課後いのこるのでその時間帯ならいいという事になつたのだが、S高のマドンナという吉澤ひとみの存在がなければ許可にならなかっただろう。教師たちは吉澤ひとみがからんでいれば何となく許してしまうのだった。そんな仲の良い三人だったが吉澤ひとみがあわてて本を閉じたので気まずい空気が一瞬だが漂った。しかし滝沢秀明の言葉がその固まった一瞬をくずした。
「次田源一郎の牛若丸伝説考究を読んでいるんだ。」
滝沢秀明は吉澤ひとみが閉じた本の表紙の一部を見て言った。表紙のタイトルも吉澤ひとみの手に隠れて見えなくなっているから滝沢秀明はその本の事を知っていたことになる。
「滝沢くんはこの本を読んだことがあるの。」
「牛若丸の伝説は本当だったという本だろ。千百五十九年の平治の乱のとき藤原信西とくんだ平清盛が勝ち、藤原信頼とくんだ源義朝が破れた、それで後に源義経となる生まれたばかりの牛若丸が京都の鞍馬寺にかくまわれた。そこで何者かが牛若丸に武術の極意を伝授したという話じゃなかった。」
「その通り。滝沢くんはこの本を読んだことがあるんだ。」
滝沢秀明と牛若丸伝説とはどうしても結びつかない、どうしてこんな本に滝沢秀明は興味を持ったのだろうか。
「滝沢くんはこの本に書いてあることを信じるの。」
「信じるわけがないじゃない。だいたい経歴からしておかしいよ。中国の奥地に昔行っていたからって何をしていたと言うんだい。北京原人の頭蓋骨を盗んだという話の方がまだおもしろいよ。きっとありもしない事をおもしろおかしく書けばその本が売れるとでも思ったんじゃないのかな。」
「でも、それにしては地味な装丁じゃないの。それにね。滝沢くんも見たでしょう。プロレスを見に行ったときのあの大阪府立体育館での不思議な出来事を。牛若丸に武術の奥義を伝授したからす天狗というのもちょうどあんなイメージなんだよね。」
吉澤ひとみはそんな本の内容も次田源一郎に対しても信じていなかったが滝沢秀明が頭から否定するために次田源一郎の味方をした。
「あんな人間がいるということは否定しないけどそれが妖怪や魔法使いの仕業だとしたらその方がおかしいよ。僕はむしろ人工関節や人工筋肉を使ったサイボーグの見方をとりたいね。」
滝沢秀明の言葉にはどこか確信があるようだった。しかしその確信はどこからくるのだろうか。新聞部の仲のよい三人組の中で一番存在感のないのは滝沢秀明だった。吉澤ひとみはS高のみならずこの市では誰もが振り返って見る存在だったが、松村邦洋も平凡で目立たないとしてもそれなりの個性はあった。しかし滝沢秀明には全くの存在感もなかった。その滝沢秀明が他の二人の知らない何かを知っているのかもしれない。表面上は仲のよい三人組として世間には通っているがよく考えてみれば三人が三人ともお互いのことを何から何まで知っているというわけではなかった。特に滝沢秀明に関してはそうだった。東京から転校してきたという以外何を知りうるのだろうか。
「大阪府立体育館での出来事だけじゃないわ。松村くんから聞いたんだけど滝沢くんが松村くんと一緒に帰ったとき、放課後に鉄棒の練習をするために残ったんでしょう。その帰り道で覆面を被った正体のわからない怪人に襲われて変な老人が現れて助けてくれたというじゃない。その老僧は鉄の棒をへし折ったとか言っていたわよ。その人たちもアンドロイドだと言うわけ。」
滝沢秀明はその言葉に明らかに当惑気味のようだった。
「何だ。松村はそんな話しまでしたのか。」
しかしそのとき松村邦洋と滝沢秀明は吉澤ひとみこそがおかしいという話もしたのである。そのことを松村邦洋が吉澤ひとみにしたとは思えない。そこへいつもの通りにぎやかな声を出しながら家庭科実習室に入ってくる生徒がいた。
「なんや、なんや。わてをのけ者にして、そこで二人でなにを楽しそうに話しているんや。」
松村邦洋が太った身体を揺らしながら入って来た。いつもならここで物真似の一つでもやりながら入って来るのだが。松村邦洋、滝沢秀明、お互いに地味な存在ながらそこが違っていた。
「二人とも、放課後、ポストを作るという話やなかっの。」
吉澤ひとみは今まで読んでいた次田源一郎の著作をあわててかばんの中にしまった。
「吉澤、何、しまったの。わてにも見せてくれや。」
顔を斜めにしながら上目使いに松村邦洋は人差し指で土中を掘り進んで行く地中戦車のように吉澤ひとみの方を指した。
「何でもない。」
「そうだ、放課後になったら技術工作室に行く約束だったな。松村、行こう、行こう。」
意外にも滝沢秀明は松村邦洋をこの部屋から押し出した。吉澤ひとみはそのあとをついて行った。
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村上弘明がいつものように自分のアパートの食堂でテレビを見ながらビールを片手に南京豆をぼりぼりとかじっていると吉澤ひとみがうれしそうな顔をして玄関から片手に何かを持ってやって来た。
「兄貴、兄貴、来たわよ。来たわよ。恋人から手紙よ。」
その一言に村上弘明はビールにむせびそうになってしまった。吉澤ひとみはまだ笑っている。
「兄貴の恋人から。」
村上弘明はどきりとした。吉澤ひとみが自分の恋人なんて知るわけがない。東京に残して来た、と自分では勝手に思っている岬美加しか恋人と呼べるものはいない、しかし変な噂がたって自分の妹が見当違いの相手を自分の恋人だと思っているのだろうか。しかし封筒の送り主のところを見ると納得した。そこには村上弘明が情報を提供してくれるように依頼している伝説のフリーライター、川田定男の名前が書かれていたからだ。
「恋人と言うのは言い過ぎだろ。」
村上弘明はその封筒の裏面を見ながら吉澤ひとみをたしなめた。しかしそれが同性の相手なのにこんなに胸がときめくのが何故なのか自分自身でもわからない。しかし、とにかく川田定男なら知り得ない多くの福原豪に関する情報を持っているに違いない。村上弘明は期待を持って封筒をあけた。彼の後ろの方からは吉澤ひとみが好奇心を剥きだしにしてその手紙を覗き込んでいる。
「兄貴、何が書いてあるの。」
「あせるなよ。」
「あせるなって、兄貴の恋人からの手紙でしょう。」
吉澤ひとみから催促されて村上弘明はどこにでもある袋が二重になっている封筒をあけると中の青い内袋が見えた。中に入っている便せんは一枚だけのようだった。しかしその手紙の内容は充分に有意義なものだった。というのはには便箋が一枚入っているだけだと思ったのは間違いでこのコンサルタントに対する支払いの銀行振り込み用紙が金額入りで入っていた。その料金が川田定男のところにどういう仕組みで届くのかはわからなかったが今までに一度もそのことで川田定男に足がつくことはなかった。情報提供者と川田定男との接触で報酬の半分を依頼者との接触により残りの半分を情報提供者は受け取る仕組みになっているらしい。その手紙の内容は福原剛の情報を提供できる人物を村上弘明に紹介する事が可能だからどこそこで会えという内容だった。
「福原剛の最近の事を知っている人物と梶原インターチェンジの休息所で会えという指示が書いてあるよ。相手の名前も書いてある。福原豪の下で経理のような仕事をしていた人間らしい。相手の人物の携帯電話の番号も書いてある。会う日時は明後日の日曜日の午後二時ということになっている。」
村上弘明がその手紙を折り畳んで再び封筒の中に入れていると吉澤ひとみが弘明の顔を覗き込んだ。
「兄貴、もちろん、私も行っていいでしょう。」
しかし、何故か吉澤ひとみの顔は少し曇っていた。村上弘明は渋々了解した。日曜日の昼過ぎにルノーを走らせて止まった梶原インターチェンジの休息所は思ったよりは広いところだった。なにしろ最初は時代劇に出て来る茶店をイメージしていたから予想はすっかりとはずれてしまったのだ。そこは小さなフアミリーレストランぐらいの大きさはあり、道路公団から許可を得た個人経営のうどん屋が営業していた。車が何台か停まっている向こうに大きなガラス窓を擁したその建物があった。もちろん出している食べ物はうどんだけではなく、ごはん類、つまり丼ものも出していた。うどん屋の外側は大きな窓になっていて窓側のところに客が五、六人座っている、村上弘明が指定された電話番号を自分の携帯からかけると窓側に座っていたポマードで頭をなでつけた灰色の髪の中年の男が自分の持っている携帯電話を耳に当てたのでその人物を特定することができた。村上弘明と吉澤ひとみはガラスのショーケースを横に見ながらその店の内部に入り、その人物の横に行った。
「木下郁太さんですか。」
「ええ。」
そう言って木下郁太と呼ばれた人物は不安そうにあたりを見回した。
「川田定男氏から紹介された村上弘明と言います。こっちは助手のひとみくん。」
木下郁夫に頓着せず村上弘明と吉澤ひとみは向かい会わせのテーブルになっていたので彼の前に座った。
「私はあなたの事を知っていますよ。日芸テレビの人でしょう。まず約束してもらいたいんですがカメラやテープレコーダーは持っていないでしょうね。メモをとるぐらいならよろしいんですが、そういう条件なら何でも私の知っていることなら何でも話ますよ。わかるでしょう。まだ完全にあなたの事を信用しているというわけではないんですからね。」
村上弘明はそう言った木下郁太の態度は暗に謝礼金を要求していることではないのかと勝手に解釈した。
「そうだ。忘れていた。お礼のお金を持ってきたんですが。」
村上弘明が謝礼の金を渡すと男はあからさまにうれしそうな顔をした。銀髪で髪をポマードでなでつけているというと立派な中年の紳士を想像するがかなり貧相な感じの男だつた。金を受け取ると男の口は軽くなった。
「これでも結婚が遅かったからまだ子供が小さいんでね。何かとお金がかかりますよ。」
男は聞きもしないことを答えた。この席から少し離れたところに家族連れが一組と若い男女のカップルが一組いたが何かの商談で話していると感じているのかも知れない。吉澤ひとみはかばんの中からメモ用紙を取り出した。
「まず、あなたの事ですが、福原豪さんとの関係は。」
「福原氏の二番目の私設秘書のようなことをしています。そもそも福原氏には公設の秘書と私設の秘書の二つがあって私は私設の秘書として二番目の位置にいます。私より偉い秘書がもう一人いるからです。」
「じゃあ、福原氏のかなり個人的な事も多く知っているのでしょうね。」
「ええ、まあ。」
「福原氏に最近変わったこととかありませんでしたか。」
「変わったことと言うと。」
「K病院をご存知ですか。福原さんが実質的に経営者の。」
「知っています。あの気味の悪い建物でしょう。何であんな悪趣味な建物を建てたのでしょうか、よくわかりませんよ。」
「あのK病院のそばに逆さの木葬儀場というのがありますよね。あそこに元お殿様だとか言う栗毛百次郎という人物がいるんですよ。K病院に勤めている看護婦から聞いたんですが、その栗田が痴漢めいたことをしていたのに栗田を全くK病院側は訴えようとしないんですが何故なんでしょうか。」
「栗毛百次郎のことは昔からあそこに住んでいる連中ならみんな知っていますよ。今はあの市は実質的には福原豪のものですが元を正せばあそこら辺一帯は栗田家のものでしたからね。栗毛百次郎にしてみればK病院に対しても福原豪に対しても複雑なものがあるんではないやろうか。もしかしたら、K病院も本当は自分のものだと思っているのかも知りません。だからついふらふらとK病院に来るという事もあるし、そもそもあそこら辺が栗毛百次郎の遊び場になっていたんじゃないんですか。」
村上弘明は言葉をつないだ。
「栗毛百次郎はK病院の中も出入りしていたようですね。」
「ええ、あの敷地が元々自分の家の敷地だったからという事だけではなく、K病院の中に死体安置所があるのを知っていますか。栗毛百次郎はどこで覚えたのかわからないんですが死体修復の技術を持っていたんです。それでK病院の中、死体安置所に自由に出入りしていたみたいやね。」
「じゃあ、栗田はK病院の内部での出来事はいろいろなことを知っていたかも知れないんですね。」
「まあ、死体安置所は自由に出入りしていたやろ。だから死体安置所に関してはいろいろな事は知っていたかもしれないんや。」
「ちょっと前の時期に起こったことなんですが松田政男さんの事故について何か知っていますか。」
「K病院で起こった事故やろ。あれにはいろいろと噂があったんや、警察の発表では自分の部屋で事故で死んだということになっているんやが、死んだのは自分の部屋から風呂場に行く廊下だったとか、警察の方では松田政男が入っていた病室で事故死をしたんだとか、いろんな話が飛び回っているみたいやな。」
「松田政男さんの病名は何だったのですか。」
「さあ、生きているときはその人に会ったことがなかったのでわからないんやけど、もし事故というのが自殺なら鬱病かなんかやないやろうか。」
木下郁太は松田政男についてあまりよくわからないようだった。
「わては福原豪の秘書を四ヶ月前にやめたんやが、福原豪の様子は最近、変なところもあったんや。」
村上弘明と吉澤ひとみは思わず聞き耳を立てた。このインターチェンジは少し高いところに作られていてインターチェンジの内外を分けている亜鉛メッキをされた鉄板の向こう側には葡萄園が広がっていた。それも近郊農園の特徴を生かしてぶどう狩りもさせているらしく、葡萄園の外側には白い看板が掲げられていて、入園料一日大人一人三千円、巨峰一箱お持ち帰り、と書かれている。その看板の向こうの方に灰白色の葡萄の枝が見えるのだつた。木下郁太の向こうのガラス窓の外にそんな景色が見える。
「変な様子というと。」
四ヶ月前と言うと松田政男が不審な死を遂げた前後の出来事だ。その事に関係があるのだろうか。
「今まで何にも動ずることのなかった福原豪さんやったが、ときどき妙に落ち着かない様子を見せることがあったんや。自分の応接室の置物や机の上の書類なんかが、どこに何が置いてあろうと、全く頓着しなかつたんやけど、いつだったか、書類を置いて置く位置が変わっていたと言ってすっごく怒られたんや。」
「今まで、そんな事はなかったと。」
「そうや。あの人にはこわいものなんか、あらへんがな。金はあるし、この大阪では政治的力もある。」
「それが四ヶ月前なんですか。」
「そうや。」
「あなたとしては福原豪さんが何かを恐れていると、もしくはそれ程ではないにしても何か心配事があるとお考えですか。ちょうど四ヶ月前と言えばK病院に入っていた松田政男さんが死んだ頃ですね。その事と関連しているとは思えませんか。」
「いいや、違うんやないか。」
「木下さんの考える範囲で福原豪さんが人からうらみを買っていたという事はありませんか。相手が何の力のないような人間でもかまわないんです。いくら福原豪さんが力を持っているとしても、警察を自分の私兵のように雇えるわけではないし、やくざの力を借りて何かをしようかと思っても相手が特定しなければそんな非合法的手段には訴えられないわけですからね。」
「そうやな、わての思うところでは福原豪さんを一番恨んでいるのは栗毛百次郎やな。いわゆる、栗毛百次郎は昔の貴族で福原豪はその貴族につかえる侍という関係やったんじゃないかな。それが貴族の方はすっかりと没落して侍が天下を取った。福原豪の屋敷にある国宝とか言われているものも皆、栗毛百次郎の屋敷にあったものばかりなんやからな。みんな福原豪が金の力にものを言わせて栗毛百次郎から買い取ったものばかりや。でもそれで特別に恨みを抱いて栗毛百次郎が福原豪に何かをするとは信じられないや。」
「じぇあ、何か、心配事でも、福原豪さんは三人家族ですよね。あの広い屋敷に三人だけで住んでいるのですか。福原豪さんには奥さんと息子さんがいますよね。」
「そうや、でも、わてはあの家族に会ったことはほとんどないんや。奥さんには年に数度しか会わないし、福原豪の息子に至ってはほとんど会ったことがないんや。」
「福原豪さんの一人息子はいずれ福原家を継ぐのでしょう。その人に会ったことがないんですか。」
「何や、詳しいことは知らんのやけど、何か病気を持っているということを聞いたことがあるわ。名前は、ええと名前はなんと言ったかな。」
「福原一馬でしょう。どんな病気ですか。命にかかわるような病気ですか。直らないような。少し噂によると精神病にかかっているというような事を聞いたことがあるんですが。」
「かも知れんわ。詳しいことはわからない。」
K病院を建てるという名目が警察や市当局からの要請で死体安置所のある病院を建てるというのが一つあった、そして自分の利益誘導としての方面からものを見ると一つには自分の建設会社を使うことにより、不正に利益を得ていたのではないかと、村上弘明はそう思っていた。それが福原豪がK病院を建てる目的だと、しかし、福原豪の息子が不治の病に冒されているとしたら、金が無尽蔵にあるような金持ちなら自分の息子のために病院を一つ建てるぐらいの事はするかも知れない。福原豪は自分の息子の病気の事があって何かを恐れていたのだろうか。しかし、福原豪の息子が病気になったのが最近のことだと断定することはできない。そうなら三ヶ月前という時期に特別な意味合いをつけるのはどうしてだろうか・
「福原豪氏が何かを気がかりにしていた様子のほかに何か変わった様子を見せていた部分はありませんか。」
「それが変なことをやるなという出来事が一つあるんや。三ヶ月前のことなんやけど、福原豪の所有していた工場で今は使わなくなった工場があるんや。工場の作業場自体はちゃちな建物なんやけど劇薬物を使うという事で立派な倉庫がついているんや。その倉庫は地下に降りて行けるようになっていたんや。水が入らないようにその倉庫の中は一段地上よりも高くなっているんやけど中に入ると下に降りて行ける階段がついていて下に降りて行けるようになっていたらしい。しかし工場が閉鎖されて工場の敷地の中には誰でもすぐに入っていけるようになっていた。もちろん入るべからずという立て札は立っていたんやけど。子供がその倉庫に入って行くのは危険やからと言って倉庫の入り口を完全にセメントでふさいでしまったんや。それなのにわざわざセメントで作った壁を壊させてその倉庫を再び使えるようにしたんや。その工場の操業が再開されているわけではないのにやで。」
「じゃあ、その倉庫に何かを入れるつもりだったんですね。」
「そうや。」
「そこに何を入れていたのかはわからないんですか。まさか、コーヒー豆の麻袋をそこに入れるためにわざわざ作られているコンクリートの壁を壊したというわけではないでしょう。」
村上弘明は目の前に置かれた白いコーヒーカップの取っ手の部分を少し指に力を入れて聞いた。コーヒーカップが受け皿から少し離れた。いつの間にか店員がコーヒーを三人の前に運んでいたのである。村上弘明は自分でそのコーヒーカップの中に砂糖を入れたのかどうなのかよく覚えていなかった。吉澤ひとみもそのことに興味を持っていることは少し目を開き気味にした表情でその話を聞いていることからわかる。
「それがわからないんですよ。わざわざその倉庫に行ったわけでもありませんからね。」
しかし木下郁太の表情には少し余裕の笑みがあった。次に投げる玉を用意している投手のように、そしてその玉が打者にとって充分な効果のある球だと本人も自覚しているらしい。その言葉にならない腹芸のようなものを村上弘明も感じていた。木下郁太は何かもう少し掘り下げた部分を少しは知っているらしい。そして本人も村上弘明にとってその情報が有効なものだとわかっているらしい。
「福原豪が一泊で東京に泊まりに行ったときのことなんやけど、たまたま無くした伝票を探して福原豪さんの机の引き出しを物色していたら、そのとき福原豪は引き出しに鍵をたまたまかけていなかつたんやな。その中にその倉庫への移送伝票があったんや。品物は保冷材五百箱という事になっているんや。しかし一種類の保冷剤のはずなのに十数種類の品番が書かれているのや。福原豪が関連している会社で保冷材をそんなに大量にいろいろな種類のものを使う会社なんてあらせんがな。単に見本品としてそんなに他品種を取り寄せたとしてもそんなに大量に取り寄せる必要があるやろうか。そこでその保冷材はどこから輸入されているのか見ると中央アフリカのJ共和国という名前になっていたんや。わては信用していなかったんやけどテレビで見たことがあるで。J共和国というのは軍需産業のさかんな国で周辺の内戦状態にある国なんかに自分の国で開発した兵器をただで貸し出してその性能をテストして他の国に売り込むなんてことをやっている国だと聞いたことがあるで、またJ共和国経由で国際条約で輸入が禁止されている商品や原材料も輸入出来るという話を聞いたことがあるで。テレビで言っていたんやけどどこまで本当なのか信じられなかったやけどな。」
村上弘明もその話しは聞いたことがある。J国で開発された生物兵器があるゾーンを越えてその外に出てしまったのでエボラウィルスとなって広がったのだという説だった。それが本当かどうかわからない、まゆつばものの話だがJ国経由で何かが福原豪のもとに届けられたのは事実らしい。そんな作り話をしてもこの木下郁太にとっては何の利益もないだろう。しかし何が福原豪のもとに届けられたのだろうか。
「誰が福原豪の元に届けられたのか送り主についてははわからないのですか。」
「それは知らんがな。」
梶原インターチェンジの休憩所の大きな窓ガラスの向こうには客引きのための黄緑色の旗がひらめいていた。その旗には名物うどんなんとかかんとかと書かれている。そしてその向こうには葡萄園が見える。さらにその向こうには京都方面の山だろうか、滑らかな稜線が見える。テーブルの高さと大きな窓の下の部分の高さがほぼ一致しているので店内に居ながら外にいるような気分になる。店の中には五、六人の客がいるが村上弘明たちが福原豪の秘密をかぎ出すために川田定男から郵送されて来た手紙によって金まで払って福原豪の私設秘書に会っていることを知っているものがこにいるだろうか。遠い距離にあるJ共和国が関わっているという事は見えない何者かがこのインターチェンジの回りを影も音もなく囲んでいるように村上弘明にはした。この店の中の客たちは葡萄園を背景にした田園の風景の中で何も知らず昼食を食べていた。
「その工場の場所を教えてくれますか。」
村上弘明はたまたま栗の木市の全体の地図を持っていた。木下郁太はその工場の住所を言っただけではなく、そのテーブルに備え付けられていたコンピューター恋人占いの申し込み用紙の何も書かれていない白い裏面を使って栗の木団地駅からその工場へ行く道順と工場周辺の地図のあらましを描いて村上弘明に差し出した。木下郁太も車で来ていた。木下郁太がテーブルを離れてからも大きな窓越しに彼の姿を追っていくと白い八人乗りのワンボックスカーに乗り込むのが見えた。その車はハンドルを切ると車の向きを変え、高速車線の方へ向かって行った。村上弘明たちもインターチェンジを出ることにした。村上弘明はハンドルに両手をかけながら横に乗っている吉澤ひとみの顔を見た。吉澤ひとみは背もたれに身体をあずけながら前を見ている。吉澤ひとみの手には栗の木市の地図が握られている。車の天井についている毛糸で編んだマスコットがゆらゆらと揺れた。これは吉澤ひとみがつけたマスコットで村上弘明がこんなものはつけるな、と言っているのに強引につけたのである。
「行く場所はわかっているよな。」
「もちろんよ。兄貴。」
吉澤ひとみの手に栗の木市の地図も握られているし、木下郁太の描いたメモ用紙もある。
「とにかくその工場へ行くんだよね。」
「もちろん。」
村上弘明の乗ったルノーは高速車線に合流した。栗の木市に一番近いインターチェンジにつくには二十分分もかからないだろう。高速の下に大きな木々が途切れ途切れに見える。窓の外の景色は凹面鏡に映った中央部が肥大したゆがんだ映像として映っている。これは時間と空間の関係を表しているようだった。つまり空間が時間の作用によってゆがんでいると。中央分離帯によって仕切られた対向車が向こうから通り過ぎて行くときはその風景は絵を描くようにはけを横に動かしたものとなった。二十分のデートである。時々感じることだが隣の助手席に座る吉澤ひとみを見ながら考えた。村上弘明は吉澤ひとみのことを自分の妹だと感ぜられないことがあるのだ。どうしてだろう。吉澤ひとみは現在十七歳で村上弘明は二十八才である。九つの年の違いがある。しかし何故かその年の差をあまり感じられないのだ。ときどき吉澤ひとみのことを二十代半ばの大人の女ではないかと思うことさえあるのだ。吉澤ひとみは村上弘明がそんな事を考えていることを知っているのだろうか。吉澤ひとみは美しい横顔を真っ直ぐに前に向けたまま助手席のサイドボードの横、運転席と助手席の中間にあるCDのスイッチを入れた。CDのトレイに吉澤ひとみはケースの中から取り出したCDを滑り込ませると車内には音楽が流れ始めた。その曲は村上弘明がまだ東京で芸能関係のプロデューサーとしてぶいぶい言わせていた頃に流行っていた曲だった。その曲を聴くと東京に自分では残して来たと自分では思っている岬美加のことを思いだした。岬美加は今頃何をしているのだろうか。彼女との東京での数々の思い出がよみがえってくる。岬美加は特別に可愛いとも美人だというわけでもなかったが、男がまわりに集まって来た。それは持って生まれた才能ではあったが自然なものというよりも人工的な部分があった。いや、しかし生まれながらにして持って生まれたものだからこそそれが作り物のような感じを与えていても自然と言えるかも知れない。その意味では自然からのさずかりもの、しかし自然の摂理にあっていない印象もあった。岬美加も同じ職場に居たからその集まってくる男というのも芸能関係者や他のテレビ局のプロデュサー、広告会社、俳優、そんな華やかなエリートたちが多かった。そう言ったライバルを押しのけて村上弘明は岬美加を自分のものにしたのである。岬美加を自分のものにしたときは村上弘明は鼻高々だった。しかし何故、岬美加が彼らにもてたのか、今になって冷静に考えるとよくわからない部分もあった。自分も何故、彼女にそのように惹かれていたのだろうか。一時の熱病に冒されていた。岬美加が誰にもわからないような遠隔操縦の機械を持っていて村上弘明のことをあやっていたのではないだろうか。その一言で片づけるにはあまりにも多くの思いでを東京に残して来ていた。要するにあの頃には自分自身エネルギーに満ちていたのだ。そのエネルギーが枯渇したから東京を追われたのだろうか。東京を追われるように大阪に来てからは彼女からは何の連絡もない。村上弘明の方から連絡しても彼女はなかなか電話に出ようとしない、もしかしたら、彼女にはもう男が出来ているのだろうか。そんなことはない、東京ではあんなに激しく燃え上がった恋だったのに。彼女の愛らしいくちびる、神秘的な目、甘くやさしい声、でも何故、彼女の虜になってしまったのだろうか。再び車中に流れている音楽に刺激されて自問自答してしまう。確かに岬美加は可愛いが、特別な美人だというわけではない。美しさという点では遙かに自分の妹の吉澤ひとみには及ばない。東京での数々の思い出、六本木で雨の降る深夜、家に帰る電車もなく、ホテルに泊まった。何故だ。何故だ。しかしその岬美加は今はいないのである。横を見ると吉澤ひとみがにやにやと村上弘明の顔を見て笑っている。
「兄貴、また岬美加さんのことを考えているのでしょう。」
「ばか、そんなことはないだろう。」
すると吉澤ひとみは子供を見るような馬鹿にしたような顔をして村上弘明の方を見た。村上弘明の自尊心はひどく傷付けられた。内心を見透かされてしまったからである。
「ほら、兄貴、前をしっかりと見てこんなところで兄貴と心中するなんていやだからね。」
「わかっていますよ。全くこんな女がS高のマドンナなんてなんで言われているのか、わからないよ。」
「私がそう言ってくれって頼んでいるんじゃないもん。」
吉澤ひとみは洗い晒しのTシャツのように口をとがらした。
「君もいい加減に恋人でも作ったらいいんじゃないの。」
するとすかさず吉澤ひとみは反論した。
「兄貴も岬美加さんから、川田定男に乗り換えた方がいいんじゃないの。」
村上弘明は顔を赤くした。
「ばか、川田定男は男じゃないか。僕にはそんな変な趣味はないの。」
「でも、兄貴、川田定男に憧れているみたいじゃないの。」
「男のロマンだよ。男のロマン。」
「どこがロマンなのよ。単なる総会屋じゃないの。」
「たった一人で資本金が何十億という大会社の株価を自由に操作できるんだぜ、あのKやTでも出来なかったことだよ。」
ペテン師かつ総会屋として十年ぐらい前に闇の世界で一世を風靡したKやTの名前を村上弘明はあげたが、それはまた時代の生んだ申し子だということを村上弘明も承知していた。しかし吉澤ひとみはくすりと笑った。村上弘明は現代のこのかなりゆがんだ英雄にやはりゆがんだ想像と期待を肥大させているようだった。逆に言えば村上弘明がそんな川田定男の持っている力の数万分の一も持っていないことを意味しているからかも知れなかった。それでもやっぱり吉澤ひとみは村上弘明の子供っぽく思う。村上弘明は川田定男に対して空を飛ぶスーパーマンをイメージしているような気がした。村上弘明は川田定男に会ったことがないから余計そう感じているのかも知れなかった。いつまでも村上弘明がそんな思い出に浸っていても仕方がないと思ったのか、吉澤ひとみはCDを取り出した。すると車についているオーディオ装置は電源が落ちていなかつたのでラジオに切り替わった。そこに関西で人気のあるパーソナリティが出て来た。
「今日は思い出の人という番組やで、今日も忘れられない人を捜し出す企画です。今日は少し変わった人が出て来ました。この前の、疑獄事件で検察に引っ張られて、捜査を受けたという運転手さんです。その運転手さんはお亡くなりになりましたがその奥さんがスタジオの方に来てくれました。確かあの事件は首謀者の政治家がクロの判断をされて政治家生命を失った事件ですね。その政治家に雇われていた運転手さんの奥さんです。あのときは大変でしたね。今日はどんな人を捜していらっしゃるのですか。」
「ええ、主人はもう死んでしまったんですが、老衰でした。でも刑務所の中で自殺する寸前まで行ったんです。でも、助けてくれた人がいるんです。」
「どういう事ですか。わてにもわかりやすく教えてください。」
「わての主人は死んだ真壁六郎先生の運転手をやっていたんです。真壁六郎先生は真壁証券の社長でもありました。検察に証券に関する不正な政策を遂行するために不正な裏工作をしたことで追いつめられていました。それで私の主人も真壁六郎先生の秘書をやっていたことで検察に捕まってしまったのです。しかし検察のやり方はひどいものだったんですわ。私の主人に狙いをつけて来たのです。犯罪をやっている真壁六郎先生の方は検察の上の方の人がじきじきにお出迎えになり、失礼のないようにと気を遣っていました。冷暖房完備の部屋に三時間だけ入っただけで一時保釈金を払ってすぐ出て来ました。そこで検察は運転手である私の主人に目をつけたのです。いろいろな法律を引っ張って来て私の主人は窓もなく光も入って来ない取調室に入れられてこうこうと電気をつけられ眠れないようにされてやくざのような取調官に五人ぐらい囲まれて重要な鍵となる証言を強要されました。三十六時間連続でお前は真壁六郎が運んでいたのが札束だと見たんだな。とマシンガンのように何千回となく言われたそうです。でも途中で十分だけ休む時間があって休み時間に真壁六郎先生の知り合いという人から電話がかかって来ました。その内容はここで自分が札束を運んでいることを検察に話せばお前は主人をないがしろにする運転手だと世間様に顔向けできなくなるんだぞ。そんな事で次の就職口が見つかると思うのかと脅されたそうです。二日後に私が会いに行ったときはげっそりとやせていて今にも自殺をしそうな雰囲気でした。私も絶望して家に戻ってくると電話がありました。全く知らない人物でした。運転記録を全部提出してくれれば私の主人を助けてくれるという話でした。私はわらにもすがりたい気持ちでしたのでそうしたのです。それからです。真壁六郎先生の証券会社がつぶれたのは。保釈金の払えなくなった真壁六郎は再び刑務所に入れられて、主人は拷問のような取り調べから解放されたのです。」
「自宅にかかって来た電話の主にお礼をしたいと。」
「ええ。」
「でも、探し出すのは大変ではないでしょうか。」
今までラジオを聞いていた村上弘明が急に声を出した。
「これだよ。これが川田定男がやったことに違いないよ。」
「でも、いくら高級取りだからと言ってもつぶれた証券会社の人たちはどうするの。」
吉澤ひとみには少しの疑問が残った。
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(小見出し)素人探偵
栗の木市のその工場は川の横に建てられていた。川の両側には百メートルにわたりけやき並木が続いていた。けやきの上の方の枝がたわわにしなって屋根のように川の上の方を覆っている。その枝の下で川が静かに流れている。けやきの木で川面の上の方が覆われるくらいだから小川と呼んでもいいくらいな川だったがそれでも川幅は五メートル以上はあった。川の土手の両側は整備されていず、野草が自生している。それが土手の地盤を固めている役目も果たしていた。川の水が増えているとき、それは今なのだが水面下に隠れて見えないがこの川の横に建っている工場からの排水口があるらしい。この川の土手を上がっていくと錆びて赤茶けた金網の塀があってその向こうに工場がある。そんな赤錆た金網が工場の周囲をぐるりと覆っている。川に平行して自動車の通れる道路があり、工場の敷地にぶっかったところでその道路は直角に折れ曲がり、その折れ曲がったところが工場の入り口になっている。おおまかに考えてこの工場の敷地が四角だとすると隣り合った四つの辺は川と道路にはさまれている事になる。そして他の二辺は雑木林になっていて住宅や農地からは離れている。工場の本体は木造の板を張り合わせて作られているもので平屋建てになっている。もうすでにこの工場は操業を停止しているが水銀に何種類かの劇物に指定されているような金属を化合させて他の部品工場で使うような材料を提供する工場だった。十数年前に工場は操業を停止してここに通う人もなく建物は取り壊されずに残っているが長年の風雨のためにすっかりと朽ち果てている。窓ガラスなどはすっかりと割られ、機械類はほこりをかぶり蜘蛛の巣を張ったままそのまま残っている。工場の周辺を囲む赤錆た金網は錆びてはいるが人の入れるような穴もなく体裁を保っている。しかし金網の高さは一メートルぐらいしかなく人が足をかけて乗り越えようと思えば乗り越えることのできる高さではある。金網の内側には世話をする人がいなくなっても植物は地上から水分や若干のミネラル、空から太陽が当たるので植木が枯れずに生えている。そして敷地の中には雑草が我が物顔に生えている。この工場が操業していたときは取り扱いにいくつもの条例や規則を必要とする劇物を使用していたからコンクリート製の頑丈に作られた倉庫が用意されていてその保管には万全をきされていた。木下郁太の話によるとその入り口は残留物による危険性を考えて工場が閉められたときにコンクリートで封鎖されたという。しかし福原豪の命令によってその入り口が再び開けられて中に何かが運び入れられたという話だ。吉澤ひとみと村上弘明が車を工場の入り口につけてそこから降りて入り口の鉄格子を見るとその鉄格子を閉めている鉄の鎖とその鍵は錆びてはいず金属性の光沢を帯びて光っていた。これはその南京錠が最近に掛け替えられたことを意味している。そしてその下には車が通ったらしく雑草の生え方が他の部分とは少し違っている直線部分が続いている。その直線部分が廃墟となった工場の裏手の方にまで続いている。吉澤ひとみは入り口の門についているステンレス製の鎖を引っ張った。
「木下郁太の言った話は本当だつたのね。最近ここに誰か入ったというのは本当だわ。鎖も南京錠も新しいもの。それにきっと車が、貨物用の車じゃないかしら、兄貴、雑草の生え方がおかしいもの。」
村上弘明はさらに向こうの方を見ていた。工場の裏側の方だ。そこに木下郁太の言った倉庫があるらしい。しかし直線的にその後が工場の裏手に続いているわけではなく、工場の手前の方に小さな整備工場のようなものがあってその前にはガソリンスタンドにあるようなガソリンの給油機が立っている。もちろんその給油機も赤い塗装がところどころ剥げて錆び始めているが。この工場が操業しているときはここで貨物用のトラックがガソリンか経由を補給していたのだろう。
「とにかく、入っちゃおう。」
「お前、いいのか。勝手に人の敷地にはいっちゃって。」
「いいよ。いいよ。兄貴、入っちゃおう、入っちゃおう。」
こういう捜査に関しては法律上なんの権限もない吉澤ひとみはおかまいなしにこの工場の敷地内に入って行くつもりらしい。
村上弘明が何かを言おうとする前に吉澤ひとみはすでに金網の方へ向かって歩き始めていた。
「いいのかな。」
村上弘明は少し頭をひねったがやはり彼女の後をついて足を進めていた。金網はあってないも同然だったから左足を金網の中程にかけ、右足で金網の上部にもかすらず乗り越えることができた。。村上弘明は吉澤ひとみの後をついて金網を乗り越えた。
「待ちなさい、ひとみ、ひとみってば。全く何でこんなお転婆女が生まれたのか。」
村上弘明はぶつぶつとつぶやいた。それでも
吉澤ひとみは村上弘明の止めるのも聞かず、雑草の中をずんずん進んで行く。
「ここであの修理工場のようなところに立ち寄ったのね。雑草が横になぎ倒されて道順みたいになっているあとがここで一度立ち寄っているわ。兄貴、何でだと思う。」
「何でだって言われてもね。昔は結構、運送用の車が出入りしていたんだな。雪の日に使うチェーンなんかも置きっぱなしにしてあるよ。あっ。わかった。コンクリートを壊す時、工事をした人間がここで休んだんじゃないか。おかずかお菓子かコンビニの弁当かわからないが食べ物を包んでいたらしいアルミ箔が修理工場の中に散らばっていた。
「その通り。」
修理工場の後ろにガソリンの給油機が置いてあり、その給油機を背後にして村上弘明と吉澤ひとみは立っていたのだがその給油機の背後からぬっと首が出て来て声をかけられたので二人はびっくりして振り返った。
「お久しぶりでごんす。しばらくお暇しておったが、いかがお過ごしでしたかな。」
あごをさすりながら伊達男が挨拶をした。大阪府警の中で会った本山本太郎一派の主要構成員でありながらただ一人のシンパサイザー兼、党員である江尻伸吾だった。
「何を不思議そうな顔をしてござるのかな。」
江尻伸吾は得意そうに顎のあたりをなでると二人の方に近寄って来た。
「江尻さん、何でここにいるんですか。」
最初は大声で江尻さんと叫んだが後は周囲に誰かいたらという気遣いからか村上弘明の声は小さくなった。
「また例の捜査システム、あの何て言いましたっけ、本山本太郎二号で私の行動を調べたんですか。」
江尻伸吾はまた得意気にあごをさすった。
「ノン、ノン、本山本太郎二号というのは俗称でがんす。正式には神山本次郎、なかなか頼りになる相棒でがんす。捜査員五人分の働きをする働き者でござる。これをさらに有効に利用するために懸賞金制度を設けて神山本次郎あてに有力な情報を提供してくれた者には懸賞金を差し上げるという仕組みを大阪府警内に設けようと思っているのでがんすが、反本山太郎一派のためになかなか実現しないでござる。これは由々しき問題でござる。」
江尻伸吾は聞きもしないことを答えた。
「江尻さん、どうしてここに居るんですか。」
相手は一応、大阪府警の重要人物なので吉澤ひとみは尊敬の念を表して聞いた。
「これも神山本次郎の有効性を証明する結果でごんすよ。あなた達は拙者に松田政男氏の情報を集めるように言ったでごんす。それで拙者はその場で三ヶ月以内の範囲で松田政男に関する情報を集めてみました。それで見つかったのがK病院に関しての二、三の事実でがんす。松田政男に関する情報は何も得られなかったでごんす。それでさらに範囲を一年に広げて見ました。そこでまた松田政男がどこかに電話をかけていないか、調べたでござる。そうするとあったでござる。」
「松田政男はどこに電話をかけていたんですか。」
吉澤ひとみはこのうち捨てられた整備工場に置かれた椅子に腰掛けながら江尻伸吾の方を見た。この板張りの廃墟は窓ガラスが割れていて送電線とは切り離されているのだが電線が外に繋がっている。その電線に名前のわからない蔓草がからんでいる。
「フリーウェー貿易という会社をご存知かな。あっ、いや、答えないで結構でござる。大阪府警の中では名前がよく挙がる貿易会社でござる。ここは通常の貿易をやって商品を国内に入れているのではないでござる。たとえば輸入が禁止されているような商品をごまかして日本に輸入しているのでござる。」
「松田政男がその貿易会社に電話をしていたのですか。その内容はわかっているのですか。」
「残念だが、その内容はわからないのじゃ。なにぶん大分前のことだからな。ただ。松田政男が一昨年の十二月二日にその会社に連絡をとって何かを不正に輸入していたのは確かなんじゃ。」
「何で、不正に輸入されていたとわかるのですか。」
「店も構えてていない人間が大量にその会社を使って何かを輸入するという事はないからでござる。」
「きっと、松田政男は生化学者だから化学薬品か、試験機械に違いないわ。」
吉澤ひとみは勝手に断定した。
「しかしですね。江尻さん、僕たちと同様にしてこの廃屋となった工場にあなたがやって来たのはどういう理由からなんですか。」
「これもまた、拙者の頼りになる部下の神山本次郎の指し示した道に従ったに過ぎないのじゃ。」
「と言うと。」
吉澤ひとみは江尻伸吾がしゃべりたそうなので相づちを打った。
「松田政男がフリーウェー貿易に関係していることから拙者はフリーウェ貿易に関連した情報をやはり神山本次郎で調べてみた。そうしたら、興味のある電話の記録が残っているではないか。フリーウエー貿易に福原豪の会社から注文が出ている。そして今度の電話記録の方は残っているのじゃ。そこにはJ国を経由した輸入がされているのじゃ。お主らはJ国のことをご存知かな。輸入できないようなものをJ国は国ぐるみで外貨を稼ぐために書類捜査をやって不正に他の国に送りだすのでござる。松田政男がフリーウエー貿易に電話をかけた直後、やはりフリーウェー貿易からはJ国に向けてテレックスが送信されていた。前々からフリーウェー貿易が怪しいと睨んでそこにも大阪府警は神山本次郎を接続しておいたのじゃ。」
「フリーウェー貿易からこの工場にその品物が運びこまれたことがわかったということですか。」
「そうでござる。それで貴殿らは何故、ここに目をつけたのでござるかな。」
「福原豪の第二秘書という人物が情報を提供してくれたのですよ。四ヶ月前にここに何かわからないものが運びこまれた。奇妙に感じるところは一度閉鎖されている工場で倉庫に至っては入り口をわざわざコンクリートで固めていたのにそこもわざわざ壊して入れるようにしたと言ったんですよ。僕たちもきっと何か知られると困るようなものが運びこまれたと思ってここにやって来たんです。」
「と言うことはその倉庫に運びこまれたという事でごじゃるな。」
江尻伸吾はまたあごをしゃくった。三人はその倉庫に入って見ることにした。倉庫は工場の本棟の裏側にある。貨物用自動車でこののびきった雑草の間を走ったからか倉庫までの道ははっきりとわかった。いくつものうち捨てられたドラム缶が横に転がっていてふたの開いているドラム缶には中に水がたまっていた。
「あっ、あそこ。」
吉澤ひとみがその倉庫を見つけて指をさした。
倉庫というから掘っ建て小屋のようなものを想像していたが、かまくらのような球面をしていてこんもりと盛り上がっている前方に鉄製の扉がついている。
その左右にはコンクリートのがれきが積まれていて最近その入り口の部分を壊したということがわかる。村上弘明が入り口の取っ手の部分をがちゃがちゃと動かすと取っ手は回転しなかった。取っ手には鍵がかかっている証拠だ。村上弘明は今更ながら自分がこういった犯罪捜査に関しては全くの素人だという事を実感した。当然、鍵はかけられている事を想定していなかった。
「どれどれ。ミーがやって見ましょう。簡単に開いたら拍手喝采といってくださるかな。」
江尻伸吾が前に進み出た。ポケットの中から何か歯磨き粉のチューブのようなものを取り出した。
「江尻さん、それ、何ですか。」
「形状記憶形成剤。」
江尻伸吾はぽつりと言った。さらに江尻伸吾は鍵穴のところにそのチューブの口を押し当てるとチューブの中の歯磨き粉のようなものを鍵穴の中に入れた。それからチューブを引き抜くと一緒にガムのようなものも鍵穴から出て来た。最初は練ったうどん粉のようだったが江尻伸吾が持っているとしだいに鍵の形になっていって三分もするとすっかりと鍵の形になって江尻伸吾が指ではじくと小さな金属音をたてた。
「よし。」
江尻伸吾はまた自分で確認をとるとそれを再び鍵穴に差し込んだ。吉澤ひとみと村上弘明は江尻伸吾の左右にいてその様子を覗き込んでいた。
「形状記憶樹脂はチューブから出して最初の三分間はゴム状でがす。一分経ったときの形を覚えていて三分を過ぎるとその形に固まって金属のようになるでござる。」
そう言いながら江尻伸吾は鍵を回転させた。鍵はがちゃりという音を立ててあいた。ちょうどそのときだった。吉澤ひとみは後ろの方に人影を感じた。振り返ると五、六人のサングラスをかけて人相の分からない黒い背広に身を固めた男たちが立っていた。
「何をしている。」
男たちは低くうめくように言った。
「そう言う君たちこそ誰でござるかな。」
江尻伸吾はもったいぶって服の内側のポケットに手を入れたが、吉澤ひとみは江尻伸吾が警察手帳か何かを出すのではないかと思った。警察官として不審者を見つけたから工場の中に入ったとでもなんでも言えるだろう。しかし吉澤ひとみが江尻伸吾の内ポケットから何がだされたのか確認する前に江尻伸吾が手に持っていたものを外に出すとすぐに五、六人の男たちは倒れた。江尻伸吾がポケットから出したものは強力な睡眠剤の噴出器だった。
「ここを離れるでごんす。」
まだぴくぴくと身体を動かしている男たちを見ながら江尻伸吾は吉澤ひとみの手を引っ張った。
「きっと、あの鍵にはアラームがセットされていたに違いないでござる。お主たちが乗って来た車があるのでござろう。」
「こっちです。こっちです。」
村上弘明は自分の乗って来たルノーのとめてある場所の方へ急いだ。三人はまた金網を乗り越えて車のある場所へと行った。あわてて村上弘明は車のドアをあけると三人はそこに乗り込んだ。すぐに車は発車した。車を走らせて小さな山にはさまれた道をおりて行き、環状道路に出てから村上弘明は後ろに座っている江尻伸吾に話しかけた。
「あの取っ手のところにはアラームが仕掛けてあったんですね。電気なんて来てないはずなのに、随分と厳重な警戒をしていますね。あんな人間も見張りをしていたなんて思いませんでしたよ。」
「ミーの見るところ、それほど重要な何かがあの倉庫には隠してあるということに違いないでござる。」
江尻伸吾はまたあごをさすった。
「正式に捜査令状をとってあの倉庫の中を調べるというのはどんなものでしょうか。」
「明日になれば倉庫のものなんか、みんなどっかに移送されているに違いないでござるよ。福原豪の一味の仕業だすればそんな事は当然でござるよ。それにしても喉が乾いたでごんす。」
前の席では村上弘明が運転していて後ろの席に座っている江尻伸吾に話しかけた。横には吉澤ひとみが座っている。江尻伸吾は後ろの座席で自分の横に黄色いビニール製のクーラーバックが置かれているのに気づいた。クーラーバックのふたは開いているので中に入っている缶が見える。
「この缶コーヒーを貰っていいかな。」
江尻伸吾は缶コーヒーに手を伸ばした。
「どうぞ。」
江尻伸吾は喜んでその缶を取り出すと缶の上面に付いているプルトップを引き上げた。鉄製の缶で缶の側面には白とクリーム色と茶色を混ぜたような色が塗られている缶だった。うれしそうにその缶コーヒーを飲んでいる姿を見て吉澤ひとみは笑いを抑えられなかった。
「江尻さんって缶コーヒーが好きなんですね。」
「もう一本飲んでもいいでごじゃるかな。」
江尻伸吾は一本目の缶コーヒーを味わいつつ飲んでいてまだ三分の一も飲んでいなかっただろうがバックの中に入っていたもう一本のコーヒーを取り出すと上着の横に付いているポケットの中に押し込んだ。添田応化工場というのが三人が忍び込んだ工場の名前だったがその工場から大部離れた場所に来ていた。横には大きな送電線の鉄塔が見える。左側は畑になっていた。ここは高台になっているので高架式になっている栗の木団地駅が下の方に見える。その工場から離れてここまで来ていたが吉澤ひとみも村上弘明も次にどこに行こうかという当てもなかった。再開された、と言っても倉庫だけだがその工場に何かが運びこまれたかはわからないが、世間に公言できるものではないものが運びこまれたのは事実に違いないだろう。一体それが何であるのかは村上弘明には特定できなかった。しかし同じJ国経由で何かがこの栗の木市に時期をずらして運び込まれているというのは江尻伸吾の捜査システムを信用するなら確からしい。しかし松田政男が栗の木市に運びこんだものと福原豪が運び込んだものが同じものであるという保証はない。
「江尻さん、松田政男氏が栗の木市に運びこんだものと福原豪が栗の木市に運び込んだものは同じものなんでしょうか。」
車を止めて村上弘明は後ろの座席に座っている江尻伸吾に問いただした。しかし江尻伸吾はその問いには答えなかった。
「ユーが大阪府警のミーの犯罪捜査装置開発室に来たとき聞きましたでごんすよね。松田政男について調べてくれと。」
村上弘明は松田政男個人に関して調べてくれと言ったわけではなかったが、K病院や松田政男の不審死について調べてくれと言ったわけだから、まあ、同じ事かと納得した。
「松田政男は一年半ぐらい前に栗の木市に来た形跡があるでごんす。」
「それはうちの高校に講演に来たときの事じゃないかしら。」
吉澤ひとみが後ろを振り向きながら缶コーヒーを両手に持っている江尻伸吾に聞いた。
「ノン、ノン、それは二年前の事でごんす。そのあとにまたこの栗の木市を訪れているのじゃ。」
江尻伸吾の話方は妖怪じみて来た。
「貴殿たちは松田政男についてどの位の事を知り得ているのかな。」
「まず、彼には弟がいて今は兄の殺人事件がショックで病院に入院しているという事でしょう。それから松田政男は化学の方で大変な秀才で新薬か、化学薬品を開発してかなりの特許料を貰っているという事でしょう。」
それからそのさきの事を言おうかどうかと吉澤ひとみは躊躇した。松田政男は成功する前に矢崎泉という人物と同様にして謎の化学薬品の製造開発会社に就職していたのだ。その事をこの大阪府警の特異な構成員に話すべきかどうかわからなかった。すると村上弘明が言葉をつないだ。
「矢崎泉という今はアメリカで働いている化学者がいるんですが、その人物と同じ新薬の研究開発会社で働いていた事もあるそうですね。私はその人物とテーマパークで面会したことがあるから確かです。それに松田政男がS高で講演をしたビデオテープが残っていてその中にも矢崎泉の名前は出て来るんです。」
「その講演をしたという月日のことはわかるかな。」
「日にちまでは覚えていませんが、確か一九九九年の二月頃だったと思いますが。」
「それから半年後だ。ふらりと松田政男はこの栗の木市に立ち寄ったらしい。」
ここで江尻伸吾はまたあごをまるで名探偵のようにしゃくった。
「江尻さん、どこに行ったか、わかるの。」
「お嬢さん、もちろん、わかりますよ。」
「どこですか。」
村上弘明はこらえきれず止めてある車の運転席から後ろの座席に座っている江尻伸吾の方へ首を向けた。
「一九九九年の二月に松田政男はひとみ殿の通っている高校で講演をしたのだが、わずか半年後の七月十七日に松田政男はこの栗の木市にやって来ているのじゃ。これは確かである。」
江尻伸吾は得意気にまたあごをしゃくった。
「江尻さん、何で確かだと言えるの。」
「警察の記録に残っているからでござる。七月十七日に松田政男はレンタカーに乗ってこの街にやって来ているのじゃ。そのとき農家の庭先に停めてそこを離れてどこかに行ったらしくその家が駐車違反として警察に訴えた。その結果、駐車違反となり罰金を払っている。」
「何で、松田さんはこの街に来たのかしら。」
「お嬢さん、そうむずかしく考える必要はござらん。人は誰でも時として生まれ故郷を訪ねてみたくなる事があるのではござらんかな。」
「でも具体的にこの街のどこを訪ねたの。」
その点については村上弘明もきわめて興味がある。
「そこでじゃ、ミーもそのことについて興味があったのでどこで駐車違反をしていたのか、調べてみたのでござる。栗の木市の西方のアンテナ公園山の裏手にあたる場所に縦五百メートル、横二百メートルの人工池があるのをご存知かな。名称はなまずひょうたん池と言うのじゃが。」
村上弘明はただ単に栗の木団地に寝泊まりに来ているだけだったのでその人工池のことは知らなかった。しかし吉澤ひとみの方は高校生の活発さから栗の木市の中を結構歩き回っているようなのでその池の事を知っていた。
「アンテナ公園山と寝そべりカバ山の間にある池の事でしょう。」
寝そべりカバ山というのは正式な名称ではないが山の形が寝そべったカバの形に似ていることから古くから住んでいる住民がそういう名前で呼んでいる山のことでここら辺に住んでいる小学生は遠足でよくそこに行く。
「山がそういう名前で呼ばれていることは知らないでござるがその二つの山に挟まれた場所にある池のことでござる。そこで人工的に鱒の養殖がなされているのでござる。ミーはそこら辺に住んでいる人間で松田政男に関わりのある人間がいないか調べたでござる。」
そう言って江尻伸吾はポケットの中から電子端末を取り出してその画面をのぞきこんだ。自分の調べた結果がそこに記録されているらしい。その記録の細かいところを覚えていないのだろう。
「あったでござる。あったでござる。ミーは松田政男の知り合いが住んでいないか調べたところ太田原善太郎という中学時代の同級生がなまずひょうたん池の前にある土産物屋の長男だということを調べたのでござる。ここで大田原善太郎は土産物屋をやっていてここに住んでいるのでごじゃります。これは。あはははは、松田政男のことを調べるのに有力な情報ではないかな。松田政男の乗っているレンタカーが違反切符を切ったのはここのそばの農家の庭先でごじゃる。そしてここら辺には松田政男に関連した人間は住んでいないのじゃ。あははは。」
ここでまた江尻伸吾は高らかに笑ったが彼が何に対して勝ち誇って笑っているのか吉澤ひとみには理解できなかった。
「松田政男はその人のところに何をしに行ったのかしら。」
「まず大田原のところに行くことじゃな。その人工湖はアンテナ公園山の裏にあるそうでがす。」
村上弘明もアンテナ山には最近登ったばかりだ。村上弘明はサイドブレーキをはずしてルノーのアクセルをふかした。江尻伸吾はポケットの中に今入れたばかりの缶コーヒーを取り出すとまた開けて口に持って行った。松田政男は以前行ったことのあるアンテナ公園山の測道を抜けてその人工湖に抜ける道をルノーを走らせた。道の片側では雨による土砂災害を防止するために補修工事がなされていた。アンテナ公園山の裏を抜けるとねそべりカバ山が薄い霧の中にたたずんでいた。その手前になまずひょうたん池の姿が広がっている。なまずひょうたん池のまわりには松の木が並んではえていてそのまわりは舗装されていず砕いた中くらいの石がまかれているだけだった。池の端から端まで一番近いところでもかなりの距離があった。ここを泳いで渡ることなどよほど遠泳に自信のあるものではなければできないだろう。休日や小学校の終わった時間だったら何人か子供がここにつりに来ていることもあるのだが今日は誰もいなかった。池というよりも小さな湖だった。この人工湖の真ん中にはドラム缶が二十個くらい組み合わせて人工の浮島が作られていて上の部分が板敷きになっていて人が二、三人入れるくらいの木造の小屋がたてられている。小屋の屋根のところには竹竿で旗が立てられている。
「あそこでござる。ほらほら、白い二階建ての建物がござるでがしょう。あれが太田原善太郎がやっている土産物屋に違いござらん。」
人工湖の前後は二つの山に、と言っても丘のようなものだったが、はさまれていてこの湖に入っていける道路の向こう側は川になっている。そこには道はなかった。川をまたぐ橋が架かっているだけだった。だから道路の側から入って行くと湖の周辺をぐるりと回ってまた元の道路に戻って来るという地理になっている。もっともその橋が架かっている湖の端まで来ると川の測道がついていて自動車では無理だがオフロードバイクぐらいだったらさらに先に入っていけるようになっていた。土産物屋はその道路の入り口のところに湖から立ち上がるもやに少し煙って建っていた。白いコンクリート製の二階建ての建物で建築年数は作られてから十数年ほど経っているようだった。一階は土産物屋になっていて二階は住居になっているようだった。その土産物屋の後ろの方に長い塀が続いていてそちらの方はコンクリートが黒っぽく変色している。それがこの塀の建てられた年月を物語っていた。中の方で水の流れる音がしている。ここが鱒の養殖場らしかった。土産物屋の一階の方にはたばこの看板とボートの貸出券ありますという看板がかかっている。ここでボートも貸出しているらしかった。村上弘明は自分の車を土産物屋のそば近くに斜めにつけると車から降りた。同じようにして江尻伸吾も吉澤ひとみも降りて来た。土産物屋と言っても店の表側には特産品というのではなく全国各地どこででも見られるメーカー製のスナック菓子、キャラメル、チョコレートといった菓子類、使い捨てカメラなどが段々になつた金属製のかごに置かれていた。店の中にはデコラ製のテーブルが三つほど置かれてテーブルの真ん中にはアルマイト製のやかんが置かれていた。店の中にもやはりボートの貸出券あります。という張り紙がされている。店の前を水をまきながらほうきで掃いている三十前後の男がいる。これがこの店の主人の松田政男の幼なじみの太田原善太郎なのだろう。太田原善太郎は自分の店の横に車が止まったことも気づかないようだった。村上弘明が前に出て吉澤ひとみと江尻伸吾を従える形になって太田原善太郎のそばに近付いて行った。
「太田原善太郎さんですか。」
声をかけられてそばに人が来ていることにやっと気づいた太田原善太郎は背中を曲げていた姿勢のままで首だけを回して三人の訪問者の方を見た。
「そうですが。」
「私は日芸テレビで報道探検隊という番組を担当している村上弘明と言います。この二人は番組のスタッフで。」
村上弘明は余計な事を言うなというように江尻伸吾の方に目配せをした。江尻伸吾はいまいましそうに口をへの字に曲げた。
「何だ。どこかで見たことがあったと思ったんや。あんさんの顔、たまにテレビで拝見してますんや。うちの店がテレビに出るんやろうか。それともなまずひょうたん池の取材で来たんやろうか。こっちにテーブルがあるから座りながら話したらどうやろうか。」
太田原善太郎は今持っていたほうきとちりとりを地面の上に置くと三人を中のテーブルに案内した。三人が安物の椅子に腰掛けると店の中の自動販売機の表側のふたをあけるとガラス瓶に入ったコーラを四本取り出してふたについている栓抜きで栓を抜いた。ガラス瓶を水平に持って自動販売機に固定されている栓抜きに当ててガラス瓶を下に押し下げると栓が抜ける仕組みだ。自動販売機の方も料金を入れると一番下段の一本が引き抜ける状態になるので思い切り引き抜くのだ。今は都心ではガラス瓶用の自動販売機をあまり見ることがなくなったので珍しい品物と言えるかも知れない。もちろん料金を払わず中身を出すためにこの店の主人は前蓋を自前の鍵であけて四本のコーラを取り出した。太田原善太郎は自分の店を村上弘明たちが宣伝してくれるのだと思っているようだった。目の前に出されたコーラを江尻伸吾は下唇を付きだして飲んでいる。
「それでどんな御用なんですか。」
太田原善太郎の表情は自分の店を取材してくれるという期待が表情に出ていた。しかしすぐにその期待は裏切られた。
「太田原さん、あなたは松田政男さんの中学時代の同級生ですよね。」
「ええ、そうですが、それがどないしたんですか。」
「松田政男さんが去年の七月十七日に遊びに来ませんでしたか。」太田原善太郎の表情には失望の色が隠せなかった。太田原善太郎は頭の中でそのときの様子を反芻しているようだった。それもその事が事実であるかどうかという事ではなくその事実のあった時間が七月十七日として当たっているかどうかということを確認しているようだった。
「確かに松田政男はうちに来ました。でも、それが七月十七日かどうかという事はわからへんがな。でも来た日が七月十七日かどうか、わからなくても七月の半ば頃来た事は確かだったと思うんや。」
「ミーからも質問してもいいざんしょう。」
太田原善太郎はわけのわからない人物が口をはさんで来たのでとまどった。
「この人、誰や。」
「失礼な。こう見えても拙者は大阪府警のナンバー2という重責を果たしているのじゃ。」
「まあ、まあ、」
村上弘明は変な事になる事を恐れて江尻伸吾を制した。
「じゃあ、七月の半ば頃にここにやって来たという事は事実なんですね。」
「そうやな。ふらりとやって来たんや。」
「太田原さんは松田政男さんと親しかったんですか。」
「特別に親しいという間柄ではなかったんやけど。割と誰もがみんなわてには気安くものをしゃべるのや。」
そうなるとここで松田政男が何を話したのかが問題になる。
「松田さんとはどんな話をしましたか。」
「そうやな。」
太田原善太郎はその時の様子を思い浮かべているようだった。
「今と同じように店の前を掃いていたんや。そしたら湖のほとりをふらふらと歩いている人物が目に入ったんや。ちょうど光りが逆光になっていたんで誰だったかよくわからなかったんやけど、その人物は湖の方を見たりうちの店の方を見たりといささか挙動不審やったんや。湖の方を見ているかと思うとうちの店の方を見てわての方に歩いて来たいのか来たくないのか、迷っているようやった。でも結局うちの店の方に歩いて来たんや。遠くからではよくわからなかったんやけど近付くにつれて誰だかおぼろげにぴんとくるものがあった。中学時代の面影があったからや。ほぼその人物が松田政男だろうという事はなんとかわかった。松田政男の方も挨拶をしていいのか、悪いのか迷っているようだったからわての方から彼の方に近寄って行ったんや。それで今と同じようにこのテーブルに座ってコーラを出したんや。」
「このテーブルで差し向かいになつて話したんですか。どんな話をしたんですか。」
「それは昔の同級生の近況とかな、結婚したとか、子供が生まれたとかそんな話やな。わては噂で松田が化学薬品の開発かなんかで成功したとか言う話を聞いていたからその方の話をしたんやけど全然のってこなかったんや。あんまり自分自身の話はしなかったんやな。」
「話したことはあんまり深刻な内容ではなかったと。」
「そうやな。わてはあんまり松田政男と親しかったというわけやからなかったからな。」
「中学時代の同級生の誰それが誰と結婚したとか、そんな話ばかりしていたと言うわけですね。それで松田政男さんはどんな様子でした。」
「なんか、あんまり元気がなかったな。」
七月十七日にここに来たとするとその五ヶ月前にはS高校で意気こうけんな講演をしている。一体どうしたのだろう。太田原善太郎からはこれ以上聞いても有力な情報を得られそうにもなかったので三人は暇をとることにした。江尻伸吾は自分の住んでいる場所のことをはっきりとは言わなかったがどうも大阪府警のそばに住まいがあるらしく難波の近くまで江尻伸吾を送っていくために三人はルノーに乗り込んだ。そして大阪府内に入るとすっかりと夕方になっていた。大阪三光テレビのそばにおいしいハンバーグ屋があるのでそこで飯を食べようという事になった。鉄板の中に丸いボール状になったハンバーグが湯気をたてながら三人の前に運ばれて来た。目の前に置かれたハンバーグを店員が切り分けると肉汁がこぼれて熱くなった鉄板の上に落ちてじゅうじゅうと音を立てた。
「何故、松田政男はなまずひょうたん池にやって来たのかしら。」
ナイフとフォークを持ったまま江尻伸吾は無表情で吉澤ひとみの方を見た。
「人は時として故郷の山川を見たくなることがあるでごんす。」
「松田政男も故郷の空気に触れたいと。」
「そうでごんす。」
「松田政男が何か落ち込んでいた事は確かだと思う。太田原善太郎も言っていたじゃない。元気がないようだったて。」
「でも、半年前にはうちの高校で将来の展望も含めて講演もして行ったというじゃない。わずか半年でそんなに元気だった人間が元気がなくなるという事があるのかしら。」
「そもそも、松田政男の開発した新薬ってどんなものなんだろう。僕もひとみもまだその事について知らないのですが江尻さんはどう思いますか。普通の薬局で売っている薬なんですか。」
江尻伸吾はここで自分の持っていたナイフとフォークをきちんと目の前のテーブルに置かれたナプキンの上に置くとテーブルの上に用意されている三角に折り畳まれた別の紙ナプキンを取り出して自分の口を拭った。
「村上弘明殿、貴殿がミーの犯罪捜査装置開発研究所に来たとき松田政男の同僚の矢崎泉という人物がいて彼と松田政男氏は秘密の研究所で机を並べていたということを言っておったでごじゃるな。」
「ええ、その人とは彼が日本に来たとき松田政男氏のことを聞いたことがあるんです。」
「矢崎泉、その人はその後何か新しい事を貴殿に伝えたかな。」
「日本に来日していたとき彼から松田政男氏の事で何かわかったことがあったら連絡してくれるように頼んでいたんですが連絡がとれないんですよ。」
「ちょうど良い時間じゃ、今頃向こうは昼時でござろう。その代わり今晩の夕食代はすべて吉澤氏が持ってくださるのじゃぞ。この添え物の野菜アラカルトの油炒めが美味でござるなぁ。」
江尻伸吾はこのハンバーグレストランの食事代もすべて村上弘明たちに払ってもらう気でいるようだった。大阪府警で要職をしめている割にはみみっちい江尻伸吾であった。江尻伸吾はテーブルの下の自分のかばんの中から何かを取りだした。それが特殊な犯罪捜査の道具ならよかったのだが彼が取りだしたのは明らかにどこにでもあるような平凡な携帯電話だった。
「これで電話をかけるでござる。」
江尻伸吾の目の中の瞳は輝いていた。
「ミーとしたことが、忘れていたでごんす。」
江尻伸吾はそう言うとかばんの中からまた何かを取りだした。
「これをはめていて欲しいでござる。これをつければミーの会話が聞こえるでごじゃるでしょう。」
江尻伸吾は村上弘明と吉澤ひとみの二人にヘッドフォンのようなものを手渡した。
「拙者は今晩の食事代を払っていただけるのでござるから、このくらいの事はしなければならないでござる。」
村上弘明も吉澤ひとみも江尻伸吾に言われたように耳にヘッドフォンをつけた。店の中には村上弘明をのぞいて客は居なかった。カウンターのところで帳簿をつけていたこの店のオーナーはどこに行ったのか、いなくなっていた。
「ハロー、ハロー。」
江尻伸吾の電話は英語で始まった。という事は相手は英語圏内の人間だという事か。
「出ましたでがんすよ。」
江尻伸吾が耳に当てていた電話機をはずして吉澤ひとみの方に目配せをした。吉澤ひとみは江尻伸吾が誰に電話をかけるかわからなかった。ある程度誰にかけるか予想はついたが何故江尻伸吾がその人物に連絡をとれるのか可能性は低いと見ていた。しかし江尻伸吾のわけのわからない発明品といい、あの工場に来ていた事などを考えるとその可能性もなくはないと思う部分もあった。
「大阪府警の江尻伸吾でごんす。」
「江尻さんですか。」
電話の向こうの声は眠いようだった。
「矢崎泉殿、この前の電話で貴殿に松田政男氏の開発した新薬の事を調べて頂きたいという事をお願いしてござったがその後の展開はどうなっているでごんすか。」
「あっ、江尻伸吾さんですか。ちょつと待ってください。メモ用紙を持ってきますから。松田さんの開発した新薬について調べた事をメモに取っておいたんです。それを今、持って来ますから。」
電話に出た相手は矢崎泉だった。電話をテーブルの上にでも置いてそのメモというのを取りに行ったのだろう。村上弘明は連絡が取れなくなっていた矢崎泉にどうやって江尻伸吾が連絡を取る事が出来たのか不思議だった。それ以上に今、アメリカに居るだろう矢崎泉が思った以上に江尻伸吾に協力的になって松田政男の開発した新薬に関した事を調べているのか理解できなかった。しかし現実に矢崎泉がこう言った個別の案件について調べているという事は江尻伸吾が何らかの方法を使ったに違いない。再び堅いものの上で堅いものが転がったようなごろりという音が電話機から聞こえた。
「今、メモ用紙をとって来たところです。」
矢崎泉が自分の調べたことについて書いてあるメモ用紙を持って来たようだった。
「松田さんが開発した新薬は日本国内では発売されていないと思います。それだけではなくアメリカでも一般に発売されていません。」
それでは何故松田政男が急に裕福になったのだろうか。
「松田政男さんは日本いたとき熱によっても流動性のあまり変わらない油の化学式を発見しました。その特許でそこそこに潤ったのですが次に発見した化学物質によって大きな成功をつかむところでした。しかしその化学物質は日本でも海外でも市販はされていません。RD156という医薬品に姿を変えているはずです。このRD156によって松田さんは大きな収入を得るつもりでいたようです。この薬品を松田さんが開発したのが1999年の一月です。ここからの話は仲間の研究者からの噂話を集めた結果ですが」
今度は紙が握りつぶされるような音が受話器の向こうから聞こえた。矢崎泉はメモを取っていたのだろう。きっと仕事の合間にその事をやっていたので忘れてしまうと思い、その行為をやったのかも知れなかった。
「まず最初に温度によって粘性の変わらない油の分子構造の決定に関する特許は1997年の三月に行っています。そのときの研究は日本のF社に入っているときになされましたが、社内の研究所でなされた発見だったので特別手当と昇級、昇格を手に入れたようです。しかし特許料等の大部分は会社側に所属していたのであまり松田政男さんは潤わなかったようです。それでアメリカに渡る事にしたようです。アメリカの非公式の研究所でデトロイトのそばにサーニアという研究所があるのですがそこは非営利のある財団が運営している研究所で国家の利益に関する化学の研究がなされているという噂です。松田さんはそこの主任研究員になり、1998年の一月にある新薬RD156を開発しました。それが軍隊に採用されました。それで大きな特許料を得る予定だったようです。」
そのところでヘッドフォンを使って横で聞いていた村上弘明は思わず声をもらした。
「ある新薬。」
しかし送話器をつけていない村上弘明の声が矢崎泉に聞こえるはずもなかった。
「矢崎泉殿、その新薬というものがどんなものなのかご存知かな。」
村上弘明は最初気づかなかったが江尻伸吾の手元のところで録音機らしいものが動作していることに気が付いた。
「向精神薬らしいですよ。兵隊が戦場に立ったときその薬を服用すると恐怖感がなくなるそうです。そして痛みに関する感覚が麻痺してけがをしても痛みを感じないそうです。軍の内部ではその薬の名称はRD156と呼ばれているそうです。その開発によってそれが軍に採用される事によって松田さんは大部潤おう予定だったようです。」
しかしそれでは単なる松田政男の成功物語で終わってしまう。わざわざ日本に戻って来る理由がなくなってしまう。しかし1998年の一月にその新薬の開発に成功して大きな報酬を得たとすれば同じ年の七月に矢崎泉に意気揚々とした電話をかけて来たことがどういう意味があるのだろうか。そのとき松田政男は学会が大騒ぎをするような学説を発表すると矢崎泉に言っている。矢崎泉の話によるとそれは生理学に関した学説らしい。化学と生理学、違うものではあるが接点が多いにある事はあるが。
「ミーの思うところ、それでは松田政男殿がわざわざ日本に帰って来る必要もござらんではないでござるな。アメリカでプール付きの豪邸に住めばいいでごんす。」
「それがですね。それを試験的に使ったところ副作用が起こったらしいんです。約二十人の試験者にそれを服用させたところ気が違ったように走っている車にぶっかって行って死んだ試験者とか宝くじを買おうとして並んでいたときに急に他人に殴りかかった試験者などが居たそうです。それでその新薬の軍での採用は中止になつたそうです。その薬の副作用が出て採用が中止になって松田さんのところには入るものも入らなくなったそうです。知り合いの研究者が松田さんにその頃、接触していたんですが落胆していたそうです。それでそのRD156には大部思い入れがあったようですよ。必ずRD156は改良できるはずだとか言っていたそうです。具体的にどうやればその薬が改良できるかと言うことについては何も聞かなかったそうですが。その薬の採用の中止になったのが1999年の六月だそうです。」
村上弘明も吉澤ひとみもそれで納得した。松田政男が故郷のなまずひょうたん池を訪ねたのは1999年の七月だ。松田政男の中学時代の事は全くわからないがなまずひょうたん池やアンテナ公園山には彼だけしか知らない思い出があるのだろう、新薬の採用中止とそれで大きな収入があるはずのものが入って来ないという事は松田政男を意気消沈させたに違いない。その傷心した心を慰めるためにも生まれ故郷にふらりとやって来るという事は充分考えられる。太田原善太郎が見た姿はそのときの松田政男だったに違いない。しかしその目的は果たしてそれだけだろうか。若干の疑問が残るには残るが。
「RD156の副作用ということでごじゃるが、具体的にはそう言った事例があったという事だけでごじゃるのかな。」
「私が聞いた話ではそう言ったことになっています。」
「矢崎泉殿、引き続き良い情報があったら連絡してくだされ。デトロイトの晩夏はどうでごじゃるかな。ヒューロン湖で休みの日にはボート遊びでも楽しんでくだされ。」
そう言うと江尻伸吾はまたあごのあたりをさすった。そして矢崎泉への電話を切った。その経緯はすべて江尻伸吾の持っている簡易電子素子式の録音機に記録された。
「以上でござる。大部参考になったでござるかな。」
「松田政男ってアメリカで軍のために戦闘用の麻薬のようなものを開発していたんだ。」
吉澤ひとみが重要な事がわかったというかわりにそう言って驚きの声を上げた。村上弘明も同意した。ここである程度松田政男の経歴というもののおぼろげな線も見えて来た。まず松田政男は化学の大変な秀才として学生生活を終わる。そのときの彼は結果を出すことにあせっていた。まず名前のわからない秘密の研究所に入ってそこで矢崎泉たちと机を並べる。しかしそこでめぼしい成果は得られなかったのだろう。そこを出てから石油プラントの開発会社と提携しているF社に入って粘度が温度に依存しない分子構造式に関しての特許をとってそこそこの経済的成功を収めたようだ。しかし、それでは飽き足らなくてアメリカの軍関係の研究所に新たな活動の場を設ける。そこで戦闘において戦闘員が恐怖心がなくなり、痛みを感じなくなるという新薬を開発する。開発に関する経緯はわからない。そこで松田政男は多くの収入と確固とした地位を手に入れるはずだった。しかし試験段階において被験者の異常な行動によって試験は中止され、軍にその薬が採用される可能性はなくなった。その事が原因なのか、松田政男はふらりと日本に舞い戻って来て故郷の湖の周辺をぶらぶらと過ごしている。さらに自分の開発した薬を改良して軍に採用されるようになる日のことを夢見ていたという。また1998年の七月にはかなり興奮して学会をあっと言わせるような新学説を発表するというようなことを矢崎泉との電話の中で言っていたという。
「私、何故かひっかかるのよね。松田政男が矢崎泉さんに電話をしたとき、1998年の七月のことなんだけど随分と興奮して今度、学会をあっと言わせるような学説を発表するというような事を言っていたこと。それに何故、国防省が松田政男の開発したRD156の採用を中止したかということ、単に試験中に二人の人間が異常な行動を示したということだけかしら。」
「そうでごじゃるよ。松田政男殿の開発した新薬はまったく使い物にならなかったでごんす。」
江尻伸吾はあほくさいというように自分の開発した電子素子式録音機をそそくさとかばんにしまった。吉澤ひとみは江尻伸吾が自分の質問に真面目に答えていないようなので少しつむじを曲げたようだった。その二人の様子を横目で見ながら村上弘明はあることが閃いた。そのことを彼はずっと忘れていたのだ。江尻伸吾がここにいなければ思い出さなかっただろう。初めて江尻伸吾の犯罪捜査装置開発研究科を訪れたときにある約束をしていたのだ。江尻伸吾が飯を食って満足気な表情であとは村上弘明に自分の食事代を払ってもらうだけだという態度をあらわにして席を立とうとしているので彼に声をかけた。
「江尻さん、ほら、覚えていますか。あなたの犯罪捜査装置研究室を最初に訪れたときあなたに頼んだ事がありますよね。」
「頼んだこと。」
「頼んだこと。」
江尻伸吾と吉澤ひとみは同時に声を出した。
「手帳を渡しましたよね。」
「手帳とは何でござる。」
江尻伸吾はしばらく考えていたようだったがすぐに思い出した。
「ミーに言わせれば、手帳ではないでござる。正確には手帳の写しでござる。あの怪しい部分を解読するようにとの申し込みでござったな。ふはははは。あんなのは全然暗号でも何でもないでござる。きっと他人に見られるのがいやだったので怪しい文句を書いていたのでござるよ。ふはははは。すぐにあんなものは解けたでござる。」
その一言には村上弘明の自尊心は多いに傷付けられた。もっともそれを解こうとして努力もしなかったが。
「江尻さんにはすぐ解けたんですか。」
吉澤ひとみが聞くと江尻伸吾はまたあごをさすった。かばんの中からまたくちゃくちゃになった紙を取りだした。その紙をテーブルの上に置くとしわを伸ばし始めた。
「わけの分からない文面というのは。」
そう言って江尻伸吾は指先でその手帳の文面を追って行った。
「この部分でごじゃる。このおまじないのような部分でごじゃるよ。」
十月十一日
 こてにきうけおでぃう
「どこからどう見てもこれは意味をなさない。そこで拙者はこれは換字法であると見たのでごじゃる。つまりこの場合、両方とも日本語のひらがなを組み合わせて一つ一つのひらがなが他のひらがなに置き換わっていると見たのでござる。たった十個のひらがなでごじゃるが一つのひらがなに一つのひらがな、そうやって可能性のあるものを調べていっても大変な数になるでごじゃる。そこでこの手帳の中に書かれている事でおかしな部分を調べるのでごんす。きっとそこにこの暗号を解く鍵があるでごんす。この手帳の文面を最初から読んで行くと。」
吉澤ひとみは江尻伸吾の横に座っていたのでしわくちゃな状態から広げられた紙を横から見る事ができた。
「ここがおかしいわよ
新しく開発された口紅を購入、使用感は少し愛嬌が出るので満足。どちらかというと堅い感じだと言われるのでイメージを変える効果があるかもなんて、口紅なんて言っているのはおかしいわよ。日記に口紅の事なんて普通書く。」
「ひとみは気に入った買い物をしたとき、そのことを書かないのか。」
村上弘明が横から口をはさんだ。
「口紅の事なんか書きません。」
吉澤ひとみは口を尖らせた。
「では、村上弘明氏はどこがおかしいと思うのでござるのかな。」
江尻伸吾は兄弟げんかをしている二人を苦笑いしながら言った。
「僕はここがおかしいと思うな。この部分だよ。ここ、ここ。今、評判のラ・フォンテーヌで食事をとる。デザートはなかなか気に入る。料理法を知りたいと思い、店主に聞くとポイントを教えてくれる。簡単に教える。云々という部分。」
村上弘明がさらに吉澤ひとみの後ろから身を乗り出して江尻伸吾の前に置かれている紙に手を伸ばした。報道探検の顔もほとんど子供同然だった。
「村上弘明氏は何故この部分がおかしいと思うのでごじゃるのかな。」
「そうですね。このレストランの名前ですね。ここが何か鍵を握っているのに違いありませんよ。だいたいこんなラ。フォンテーヌなんて言うもっともらしい名前のレストランが大阪にありますか。」
「ラ。フォンテーヌ、フランスの詩人でごんす。表現においては簡素な形式と自然を重んじ、思想としては良識を中心におく古典主義の詩人でごんす。その名前がおかしいと。」
「電話帳がここにあればいいのになぁ。そうすればこの店があるかどうかはっきりとしますよ。」
江尻伸吾は物わかりの良いじいさんが孫を諭すようにうんうんとうなずいた。その姿はまるで森の中の動物が頭を下げているようだった。
「しかしでござる。村上弘明殿のご意見は残念ながらはずれでござる。電話帳を調べれば大阪の御堂筋にその店はあるでごんす。実際にミーもその店に行って鴨のなんとかかんとか言う料理を食べたでごんす。しかしでござる。村上弘明氏の着眼点はなかなか良いでござる。」
「ヒントぐらい教えてくれない。」
吉澤ひとみは再び口を尖らせた。すると江尻伸吾はテーブルの上に置いてあるメニューを右手の人差し指と中指ではさんで回転させた。メニューは半回転だけしてまた立った。そのメニューは下の台がついていてテーブルの上に垂直に立っていたからだ。すると今まで献立の書いてある面が裏側になり、コンピューター性格診断の案内が出て来た。テーブルのそばには別の入れ物があり、その申し込み用紙も置いてある。よく家族向けのレストランなどに置いてあるシステムである。
「性格診断テスト。」
吉澤ひとみが不審気な声を出した。村上弘明もそれがどうこの暗号らしいものを解く鍵になっているのか、予想出来なかった。
「この性格相性診断テストの用紙に何かを書いて申し込むと答えが出るというわけですか。」
「ノン、ノン。」
江尻伸吾はきざったらしく人差し指を立てて胸の前で振る姿は車のワイパーだ。
「その横を見て欲しいのでごじゃる。この性格相性判断コンピューター試験の横に何か書いてごじゃるでごんす。」
書いてあるという表現は正しくはなく、はさんであるという言い方が正しい。メニューもこの性格相性判断テストの説明書も二枚のアクリル板に挟まれているからだ。
「書いてあるって、カレンダーが挟まっているだけですよ。」
アクリル板の間にはメニュー、コンピューター性格診断の説明書、今年のカレンダーの三種類の印刷物が挟まっている。
「あっ、わかった。」
吉澤ひとみはそのことに気づいたようだった。
「兄貴、見て、見て。下谷洋子の手帳の最初の方、ほら、この部分よ。」
そう言われて村上弘明は改めてこの手帳の最初の部分を見た。それがどうこのカレンダーと関わっているというのだろうか。手帳の最初の方にカレンダーと関連出来る部分と言えば最初の下谷洋子の生年月日しかない。
「ほら、兄貴、見て、見てよ。下谷洋子の生年月日、昭和四十五年三月十二日、土曜日となっているでしょう。これが正しいと言える。私の高校の美術の先生がいるんだけど彼女下谷洋子と一日違いの誕生日なの。昭和四五年の三月十一日。新聞部で彼女にプレゼントをあげるために彼女の生まれた日の新聞の縮刷版を調べたことがあるのよ。そうしたら何曜日だったと思う、日曜日だったの。」
「と言うことは下谷洋子が自分の生年月日を手帳に記しているがその記述は正しくないということか。」
では何のためにそんなでたらめな生年月日を手帳に記したのだろうか。これこそがたぶん自分の覚え書きとして大事なことを忘れたときにそのことを思い出すために必要とされる手がかりとなっているのではないだろうか。
「吉澤ひとみ氏はよく気づいたでごんす。これは全くでたらめな生年月日だと言わざるを得ないでごんす。昭和四十五年三月十二日、この日付を見て何かおかしいと感ずる部分がないでごんすか。正しい事がただ正しく書かれているなら何のヒントにもならないでごんす。そこにほかのものと違う部分がなければそこがヒントだとは書いた本人自身も気づかないでごんす。つまりその手帳の中の部分に限ったときその内容で他の部分と矛盾する部分はないかとまず探したでごんす。これがまず論理的な矛盾を探す最初の段階でごんす。次にもう少しその世界を広げて時間的には一年以内、空間的には関西以内でこの手帳の文面の中に矛盾がないか調べたでごんす。それでも矛盾は出て来なかったでごんす。そしたらさっきの村上弘明氏の指摘したレストランは確かに大阪市内にあったでごんす。しかし栗の木市の中だけに空間の範囲を限定していたら判断不能もしくは矛盾の判定が出ていたでごんす。そして今度は時間を過去五十年以内に広げたとき矛盾が出たでごんす。それが昭和四十五年三月十二日の項目であったでがんす。これは実はミーが見つけたのではないでがんす。最近完成した偽造文書発見装置第六号の成果でごんす。村上弘明氏も吉澤ひとみ氏も気づかなかったかもしれないでごんすが、広域通信盗聴装置の神山本次郎のすぐ横にその機械は置いてあったでざんす。それにこの手帳の情報を入力したら数秒で結果は出て来たでごんす。わかりにくいならこれを数字に直してみるでごんす。すると45312と1から5までの数字が順番が違うのでごんすがすべて並んでいるでごんす。この5という数字にひらがなと何か意味があるという事は明らかでごんす。あいうえお、これは五文字でごんす。かきくけこ、これも五文字でごんす。これをローマ字で書けば、a、i、u、e、o`  ka,ki,ku,ke,koとなるでごんす。aが1、iが2、uが3、eが4,oが5にあたっているとすれば12345と書いてあればaiueoということになるでごんす。仮に45312と書いてあってこれをあいうえおと読ませるとするなら12345と書かれたときにはこれはえおういあと読ませるということでごんす。だから45312という世界に生きている人があいうえおと言ったら12345という世界に生きている人にはえおういあと聞こえているはずでごんす。」
「じゃあ、江尻さん、かきくけこと言った人の言葉は違う世界の人の言葉としたらけこくきかと聞こえるのね。もう江尻さんの言いたいことはわかったわ。この呪文のような言葉、こてにきうけおでいうというのはko te ni ki u ke o de i uであがえ、いがお、うがう、えがあ、おがいに当たっているから、この呪文のような文句は ki ta no ko ka i do u、つまりきたのこうかいどう、喜多野公会堂となるんじゃない。喜多野公会堂って私、聞いた事があるわ。」
ここで村上弘明も声を出した。
「喜多野公会堂って確かにあるよな。この時期だと何かの公演をやっているはずだね。」
「拙者もそのことについて調べたでごんす。この手帳に書かれている日付、十月十一日にはハンガリーの生んだ偉大なチェロ奏者であるクリストフ・ルカッチが演奏に来るでごんす。つまり、下谷洋子がその日に喜多野公会堂で何か行動を起こすということでごんす。」
「下谷洋子はどんな行動を起こすのかしら。」
「とにかく、その日に喜多野公会堂に行けば下谷洋子の姿が見られるというわけね。でも下谷洋子はそこで何をするつもりなのかしら。」
二人は音楽家クリストロフ・ルカッチについてはほとんど個人的な事は知らなかったが下谷洋子とクリストロフ・ルカッチを結びつける接点はあった。二人はそのことを知らないだけだった。そして江尻伸吾も彼らを結びつけるものが何であるかを知らなかった。この三人の持っているクリストロフ・ルカッチに関する知識と言えばハンガリーで生まれてハンガリー動乱のときにアメリカに渡って日本のチェロ奏者で有名な荻野洋子の先生だったということぐらいだろうか。
「クリストロフ・ルカッチって荻野洋子の先生だった人物だろう。」
村上弘明は荻野洋子のことは知っていたのでその先生であるということしか知らない。荻野洋子がテレビのインタビュー番組で答えていたのを聞いたことがあるのだ。しかし江尻伸吾に至っては荻野洋子さえも知らなかった。
「荻野洋子って誰でごんすか。」
「江尻さんはテレビを見ないんですか。二十の鍵というクイズ番組を見たことがないの。あの番組に時々回答者として出ているわよ。」
二十の鍵というのはそこそこに視聴率を取っている全国ネットで放映されているクイズ番組でお上品さを売り物にしている。毒にも苦にもならない番組で当然出演者もお上品な人物しか出て来なかった。江尻伸吾の見る番組はと言えば料理番組、十分クッキングとか五百円以内に出来る豪華料理とか、ほかほかの料理が画面いっぱいに映し出される番組か、幼児向けのお母さんと遊ぼうというような番組しか見たことがなかつたのでそんな音楽家がいることを露も知らなかった。
「二十の鍵と言えば。」
そう言って村上弘明がポケットの中をさぐった。村上弘明が出したのは自分の札入れだった。札入れの中にはチャックのついている内袋がついていてチャツクを開けると中から鍵を取りだした。
「鍵と聞いて思い出しましたよ。」
村上弘明はその鍵を指先でつまんで江尻伸吾の目の前に出した。鍵が大きく拡大されてその背後に江尻伸吾の三日月のような顔がぼんやりと見える。その鍵はそれが鍵だということははっきりとわかるのだがどこにでもある鍵のようだがそれでいて見たことがないような気もする。
「その鍵がどうかしたのでごんすか。」
村上弘明が江尻伸吾の目の前のテーブルの上に置いたので江尻伸吾はその鍵をしげしげと見つめた。江尻伸吾もその鍵が少し変わっていると感じたのかも知れない。ステンレス製で棒のところが直線でドリルで何カ所も凹みが掘ってある。
「この鍵がどうしたのでごんすか。」
江尻伸吾はまた顎をさすった。名探偵が帽子のつばをいじったり、指を鳴らしたりすれば何か名案が浮かんだという証拠だが江尻伸吾にはそういうことはなかった。それはただのくせで江尻伸吾の脳細胞のシナブスの中で特別な伝達物質が移動したというわけではなかった。
「この鍵はK病院の中にいる大沼という患者から貰ったものなんですよ。」
「大沼。」
「本人は自分が正常であの病院の事務長をしていると主張しているんですが、最初はすっかり僕らもそうだと思っていたんですが、全くの食わせ物で正真正銘の妄想に取り付かれた精神異常者ですよ。でも不思議に病院の中を自由に出入りしていてこっそり盗んだ鍵のコピーなんかも持っているようなんです。本人の正常な意識ではなく異常なところに事実は事実として刻み込まれているのではないかと僕は睨んでいるんです。異常なゆがんだ部分に刻み込まれているから彼の口から出て来る言葉はおかしかたりするかも知れませんが、やはり事実を言っているかも知れないんです。要はこっちがそれをどう解釈するかということだと思うんです。だから彼が自分のことを事務長だと主張していることも何か意味があるかも知れませんし、ほかにも何か知っていて言わないことがあるかも知れないんです。何よりも彼はあの病院の中を自由に歩き回っているんですからきっと無意識の中にしまい込まれたかも知れない記憶の中にも何か重要なことがあるかも知れないと思っているんです。それせで彼に話しを合わせて応対していたんですが、ある日彼から郵便でその鍵が送られて来たんです。その鍵がうちに届いてからすぐに彼から電話があって、この鍵がK病院に関した鍵で重要な意味を持っていると思わせぶりな電話がかかって来たんです。その上さらに、大沼氏は自分はもっと重要なことを知っているというようなことを言っていました。それから電話の向こうで病院の職員たちの声が聞こえてきて彼を向こうでとり押さえているような様子でした。病院の職員たちが電話を切ったと思うんです。何故なら電話の向こうからまた沼田さん関係のないところに電話をかけるのはやめて下さいという声が聞こえて来ましたから。江尻さんはどう思いますか。」
再び村上弘明のその鍵についての来歴を聞いた江尻伸吾はその鍵をつまみ上げると眺め透かししながらその鍵を見た。
「鍵というものには、だいたいどこのメーカーが作ったのかメーカー名がわかるようになっているものでごじゃるが、この鍵にはメーカーがわかる文字や商標がついていないでごじゃる。もちろん個々の鍵ではなくて切る前の鍵でごじゃるが。」
江尻伸吾はその鍵を裏表上下逆にしてまた見てみた。
「よろしい、大阪府警には防犯課があり、鍵に詳しい専門家がいるでごんす。防犯課に回してどこで作られている鍵か調べてみるででごんす。」
江尻伸吾はいつも持ち歩いているビニール袋を取り出すとその中に鍵を落とした。
「じゃあ、拙者はこれで失礼するでごんす。ハンバーグはかたじけなかったでごんす。ごちそうさまでごんした。」
江尻伸吾はナプキンで口をふきながら腰を浮かせて帰ろうとした。
「江尻さん、初めて大阪府警の中で江尻さんにお会いしたとき電話盗聴装置の神山本次郎を見せてもらいましたよね。」
「ノン、ノン、あれは盗聴装置ではござらん。正確には非常回線犯罪関連語検索装置と言ってもらいたいでがんす。」
「じゃあ、それで昭光寺というお寺で夜中に古寺がすっかりと壊れたという事件がありましたよね。その後、あの事件に関して何か関連のあることは分かったのですか。」
帰ろうという江尻伸吾を引き留めて吉澤ひとみが聞いた。新聞部でその事件を吉澤ひとみはとり上げたぐらいだからその事件については関心があるのかも知れない。江尻伸吾は斜め宙を見つめて思い出そうとしているようだった。
「ええと、そうでござるな。あの事件に関しては新聞による報道があってから二件、大阪府警の方に問い合わせがあったでござる。一件は高校生だったでごんす。」
「きっと、それは私です。」
吉澤ひとみは昭光寺に深夜に起こった奇怪な事件に関して自分で取材をする前に確かに問い合わせたのだ。しかしあの事件に関して自分以外の人間で興味を持っている人間がいるとは知らなかった。新聞には確か小さな見出しでしかその記事は取り扱われていなかったはずだからだ。
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(小見出し)照光寺
吉澤ひとみが再び七月の下旬に原因のわからない出来事から古寺が一夜のうちにつぶれてしまったという事件のその後の経緯を調べて見ようと思い、その寺に行ったのはその五日後のことだった。もちろん江尻伸吾に聞いたその事件について新聞社に問い合わせて来た人間が二人いるという事を聞き、一人は自分であるからもう一人は誰であるかという疑問から生じていた。吉澤ひとみがあのつぶれた屋根や倒れた墓石がそのままの姿で残っているだろうという予想は外れていた。まわりを工事用の金網で覆われていて倒れた墓石は元のままに立てられている。倒れた墓石と台座の間はコンクリートでつながれているのでコンクリートのあとがまだ白い。この寺の敷地は古寺の建っていた部分とお墓のある部分から成り立っていたのだがお墓の部分はすっかりと修復されているから、そのまま元と同じ状態にするのだろう。ただしお寺の建っている方はすっかり瓦礫の山もとり払われて整地されているから違う用途に使われるのかも知れない。吉澤ひとみはこに転校してから少したって新聞部の部員としてはじめて取材に訪れた家に再び訪ねてみることにした。前に訪ねたことのあるその家に行くと玄関からは前と同じように子供を抱いた若い主婦が出て来た。
「二週間前に学校新聞を作るためにお話を伺いに来たのですが、覚えていますか。」
「二週間前に来た子やね。覚えておるわ。」
若い主婦は子供をあやしながら言った。二週間前なら覚えていない方がおかしいからだ。
「照光寺のことでまたお伺いしたんですが、お墓は元通りになっていますが、本堂の建っていた敷地の方はすっかりと整地されているんですね。」
「そうや、お墓の方はそのままやなんだけど、お寺の方は公園にするという話やで。」
随分と急な話だ。
「役所の方からそういう話が来たんですか。」
「わては詳しい話はわからん。」
子供が少しぐずったので若い主婦は子供をまたあやした。
「あれからあの事件について何かわかった事がありますか。」
誰かがけがをしたという話ではなかったが吉澤ひとみはあえて事件という言葉を使った。
「何もわからへん。近所の人の話でも何で照光寺が一夜のうちになくなってしまったのかというのは誰にもわからへんのや。」
「和佳子、誰と話しているんや。」
奥の方から声が聞こえた。中から六十前後の女性が胡散臭いものを見るような目つきで出て来た。
「照光寺の事件があったやろう、あの事件を調べているのやて。S高のお嬢さんや。」
きっとこの二人は親子に違いないのだろうと吉澤ひとみは思った。二人の会話にはそんな気安さがあった。義理ではない実の親子という関係であろう。義理の親子であればもう少しよそよそしい感じがする。母親の方もしげしげと吉澤ひとみの方を見つめた。
「お母やん、あの事件のことで何か、近所で新しいことがわかったというような事はないやろう。」
「あれからあの事件のことを聞きに来た人がいたやないか。あんた覚えていないのか。」
「誰や。」
吉澤ひとみは耳をそばだてた。江尻伸吾の情報によれば新聞社にあの事件のことを二人の人間が問い合わせて来たと言う。一人は自分だからここに訪ねて来た人物はその人物だという可能性も高い。
「どんな人ですか。」
吉澤ひとみは慨然的な意味でそう質問したのだが、答えはいとも簡単だった。
「次田源一郎さんだよ。私にはそう言っていなかったけどね。前に市民会館の歴史講演であの人の話を聞いたことがあるんだ。あの事件のあった夜のことをしきりに聞いて言ったんや。」
次田源一郎といのは市井の歴史研究家でその著作を吉澤ひとみは校長から借りて読んだ。義経伝説が事実であるという事、つまり鞍馬山で源義経が烏天狗という正体不明な集団に超人的な技を伝授されて戦のとき活躍したという説を述べている人物だ。その考えを述べたのが次田源一郎の著した牛若丸伝説考究という小冊子に述べられている。しかし一種の夢想家に過ぎないそんな人物が何故この古寺の怪事件を調べに来たのだろうか。ちょうどその頃、村上弘明は江尻伸吾からの電話を待っていた。三日前から吉澤ひとみは兄の村上弘明に新聞部の活動があるので帰宅時間が遅くなると宣言していた。事実二日続けて吉澤ひとみが栗の木団地の自宅に戻って来るのは夜の十一時を最初の日は回っていた。村上弘明はすっかりと吉澤ひとみを信じ切っていてS高での新聞部の活動がそのように忙しいのだろうと信じ切っていた。しかし、村上弘明が日芸テレビから早く帰って来たとき、いつものようにキッチンでテレビを見ながらビールをちびちびとあおっていると電話がかかってきた。電話をとるとS高の仲良し三人組の一人の松村邦洋が出て来た。彼から話しを聞くと新聞部では別に残る用事もないとの事だった。だから吉澤ひとみは四時にはS高の校門を出ているという事だった。すると吉澤ひとみはどこに行っているのだろうか。そしてたまたま吉澤ひとみの予定表がテレビ台の下に置いてあり、それを見ると意外な人物のところに行く記録が残されている。村上弘明は全く予想もしない人物の名前だった。吉澤ひとみは学校が終わってから井川実の家というかアトリエに行っていたのだ。村上弘明はK病院の事を調べるに当たって栗田光陽という医師がそこに勤めていたという情報をS高校の三人組から貰ってそのアトリエに行ったのはつい最近の事だった。K病院にかって勤めていたという栗田光陽という若い医師が井川実という前衛画家と大阪港にある武庫川の倉庫を改築してアトリエのようにして住んでいるという情報をこの三人組から聞き、日芸新聞の業務用の四輪駆動車を運転して彼らのアトリエについた。栗田光陽の方は髪を七三に分けてきちんとした勤め人という感じだったが井川実の方は明らかに前衛芸術家という感じがした。栗田光陽の方からはK病院に関しては特別な情報を得ることはできなかったが井川実がK病院を建てるに当たってその設計をしたという今泉寛司の事を知っていて彼がK病院を設計したという事がわかったので今泉寛司の方へも村上弘明は取材に行ったのだった。その井川実のアトリエへ何故吉澤ひとみは行ったのだろうか。井川実と栗田光陽がまだ村上弘明に話していない何かを持っていてそれを感じたので吉澤ひとみは自分一人で彼らから何かを聞き出すために彼らの住んでいるアトリエを訪れているのだろうか。村上弘明にはわからなかった。しかし、最初に彼ら二人を取材に行ったときに受けた彼らの率直な印象と違って彼らはもっと何か秘密を握っているのかも知れない。これは江尻伸吾と彼の発明した犯罪捜査装置の手助けを得るしかない。そこで村上弘明は江尻伸吾に協力を、栗田光陽と井川実の事を調べてもらうように依頼したのだ。日芸テレビの中で彼からの電話を待っていたが彼からの電話はなかった。日芸テレビの玄関を出て外に停めてある自分の愛車に乗り込んだときにポケットの中に入れてある携帯がなり始めた。
「もしもし、吉澤ですが。」
「吉澤氏でござるか。江尻でござる。井川実と栗田光陽に関していささか調べたでごじゃる。」
「何か、新しいことが分かったのですか。」
村上弘明の声は思いのほかうわずっていた。
「今、どこにいるのでごじゃるかな。」
「日芸テレビの玄関の前で自分の車の運転席に座っています。」
「わかったでごじゃる。中之島公園のそばで待っているでごんす。そこで会うでごんす。ワゴン車に乗って待っているでごんすから車でなく電車で来てもらいたいでごんす。中之島公園に着いたらまた電話をくれるでごんす。そうしたら、拙者が村上弘明殿を迎えに行くでごんす。詳しいことはそのとき話すでごんす。」
村上弘明は早速電車に乗り込んだ。天満に着いたとき村上弘明が電話をかけると江尻伸吾は駅の出入り口のところで待っていると行った。そのとおり、村上弘明が天満の駅から出て行くとワゴン車が駅の出口のところで待っていた。後部の荷台のところにはあまり窓が開いていない。運転席には三日月のような顔をした江尻伸吾がこっちを向いている。促されて村上弘明はワゴン車の助手席に乗り込んだ。助手席に乗り込んで分かったのだが運転席にはいろいろな計器類が積み込まれている。この分だとたぶん荷台の方には江尻伸吾が開発したいろいろな犯罪捜査装置が積み込まれているのだろう。
「詳しいことは後で話すという話でしたよね。」
「そうでござる。これから栗田光陽と井川実の住んでいるアトリエのそばまで行くでござる。電波の届く範囲まで。」
「電場の届く範囲。」
村上弘明は再び聞き返した。
「あのアトリエの中に昼間、二人に知られないようにカメラを仕込んでおいたでがんす。」
「カメラ。」
再び村上弘明は聞き返した。
「絶対二人には知られないでがんす。」
「栗田光陽と井川実の二人に不審な点があると。」
「栗田光陽の方はK病院をやめてから実際には次の病院にはどこにも勤めていないでがんす。しかし、あの大きなアトリエを二人で借りていて明らかにおかしいでがんす。井川実の方の作品の収入があるとも思えないでがんす。その金の出所がどこか謎でがんす。」
「あの二人が一体何をしたと言うんでですか。」
「村上弘明氏から預かった鍵があったでごんすが、あのアトリエに忍び込んだとき同じような鍵が置いてあるのを見たでごんす。」
K病院にあったと同じような鍵をこの若い医者と前衛芸術家が持っているという事はどういう事だろうか。その場所に自分の妹の吉澤ひとみは学校が終わってから通っているらしい。これは由々しき事態だ。
「井川実に関してはもっと悪い噂があるでごんす。自分の作っている芸術作品のモデルを女性に頼んで何度かそれを頼んでいるうちに麻薬を飲ませて理性を喪失させたのちにいかがわしい行為に走っているという噂があるでごんす。しかし金銭的に報酬を与えているのでいかがわしい行為をされた女性もその事を訴えないので犯罪として立件されないのでごんす。」

「ええ。」
村上弘明はうろたえた。そんな場所に自分の妹は犯罪捜査のためにか通っているのだ。二人を乗せたワゴン車は倉庫街に来ていた。
「ここでよいでごんす。」
江尻伸吾は車を止めた。
「後ろの荷台に行くでごんす。」
二人は運転席から降りて車の荷台の方へ移った。村上弘明が想像していたとおり荷台の側面には江尻伸吾が発明したらしい犯罪捜査装置が積まれていた。その中に十七インチくらいのテレビが三台積まれている。
「これは。」
「これでアトリエの中を見るでごんす。」
アトリエはこのワゴン車から十メートルぐらい離れていた。井川実がモデルを雇っていかがわしい行為を行っているというのは本当だろうか。
「このスイッチを入れるでごんす。」
江尻伸吾が機械のスイッチを入れるとテレビに映像が表れた。その映像を見て村上弘明は自分の目を疑った。この前にあのアトリエを訪問したときはその部屋の中はつつましやかな芸術家らしい雰囲気があったが今は部屋の中は極彩色に七色で塗られて怪しい光を放つ照明が部屋の中を照らしている。部屋の中全体がゆがんでうごめいているようだった。
「おっ、忘れていたでごんす。」
江尻伸吾は機械のスイッチを入れた。するとスピーカーから音声が流れ出した。七色のペンキが塗られている部屋の中の間取りはここに最初に訪れたときと同じだったから土間の方が井川実の仕事部屋になっているようだつた。仕事部屋の方には座り心地のよさそうなソファーが置かれていてその真向かいにムンクの叫びのような大きな粘土の固まりが置かれている。仕事場では井川実はいらいらしながらたばこをふかしていた。それから生活空間の方に戻るとコップとウィスキーの瓶を取りだして酒をついでいる。きっと誰かが来るのを待っていらいらしているのだろう。ワゴン車の中のスピーカーからは彼の流している音楽がやかましいほど聞こえていた。そこで村上弘明はテレビの片隅に表示されている時刻を見た。時刻は四時五分、吉澤ひとみの学校が午後三時半に終わったとしてここにやって来るとすればちょうど良い時刻だ。吉澤ひとみがこのアトリエを訪れたらどうしょう、村上弘明は心の中で葛藤が生じた。吉澤ひとみの予定表にこのアトリエを訪れるという予定が書き込まれていたからだ。相変わらず井川実はいらいらとしている。きっとモデルを座らせるための椅子に座って水割りをあおっていた。
「いらいらしていますね。」
「きっとモデルが来ないのでいらいらしているでごんす。」
「モデルにいかがわしい行為をしているというのは本当なのでしょうか。」
「拙者の調べたところではかなり確かでごんす。」
井川は生活空間の方へ行って音楽を再びきり変えた。またもや訳の分からない多くの生物がのたくっているような不思議な音楽が大音量で聞こえて来た。井川はソファーに腰掛けて上半身をさかんにひねっている。音楽に合わせているのだろう。つましく芸術を追究しているという貧乏な芸術家という姿はそこにはなかった。音楽の中に微かではあるが呼び鈴を鳴らす音が混じっている。村上弘明は緊張した。そもそもこのアトリエを再調査しようと思った原因が吉澤ひとみの予定表にこのアトリエを訪れるという事が書かれているからであった。開けられたドアからひとみが出て来たらどうしようか。村上弘明はワゴンの中のテレビの画面に食い入った。ドアのチャイムが鳴ったことを井川実も気づいたのだろう。喜喜としてドアの方に近付いて行った。井川がドアを開けてモデルらしい女性を中に招き入れたとき村上弘明は安心した。入って来たのは吉澤ひとみよりも年上の女性だった。年齢的には二十代半ば位だろうか。肉感的な感じのする女だ。かと言って何も考えていないという感じではなく知性的な感じもする。江尻伸吾がわからないように備え付けた隠しカメラの位置が天井に近い位置にあるからだろうか。斜め上からその位置を写しているので顔を正面から撮られた映像ではない。井川実は以前に村上弘明が彼のアトリエを情報収集に訪れたときは洗いざらしたカーキ色の汚れても困らないような作業服を着ていたが今は上下とも七色の虹のような服の襟がひらひらの服を着ている。それがまるで井川実の欲情を表しているようだった。井川実は片手にウィスキーのコップを持ちながらその女性、女性モデルを自分の部屋の中に招き入れた。最初にそこを訪れたときにも感じていた事だが井川実は生活に倦んでいる要素をのぞいてもかなりいい男の部類に入るかも知れないという印象があった。髪を金髪に染め直したらちょっと盛りを過ぎた外国のロックミュージシャンという印象を見る人によっては与えられるかも知れない。
「江尻さん、声は聞こえないんですか。」
テレビのブラウン管をのぞき込んでいる村上弘明が音声のない画面に物足りなさを感じて江尻伸吾に言った。女性が部屋に入って来てからなおさら村上弘明はそのアトリエの中で何がおこなわれているのか、興味を引かれていた。
「村上弘明殿、これを装着するでがんす。」
江尻伸吾はそう言って二つのヘッドフォンを取り出すと一つは自分の頭に装着してもう片方は村上弘明の方に差し出した。

「これが隠しマイクの音量調節用のつまみでがんす。その横にあるのがマイクの集音方向を調節するつまみでがんす。これを調整することによりどの方向から音声を拾えるか選ぶ事ができるでがんす。」
江尻伸吾の得意気な説明も村上弘明の耳には入っていなかった。この女性を村上弘明はどこかで見たことがあるような気がするのだがどうしても思い出せない。年齢は二十五前後、自分の勤めているテレビ局の中で思いつく顔をいろいろと思い浮かべてみたが名前は出てこなかった。江尻伸吾がボリュームを上げたのだろう。空調の音に混じって中の会話も聞こえて来る。
「こっちに来て座って。」
井川実がそう言って大きなソファーの方に座るようにうながした。
「はい。」
その女は彼女の身体だと一人半ぐらい座れるような大きなソファーに身を沈めた。
「もうちょっと彼女の顔が大きく見えるように出来ませんか。」
村上弘明がそう言う前に江尻伸吾は隠しカメラの方向や画角を変えてその女性の顔を大きく拡大した。やはり村上弘明はその女性をどこかで見たことがあるような気がするのだが想い出すことができない。井川実はダイヤカットされたグラスにウィスキーをついでその女性のところに持って来た。ソファーの向かい側にはムンクの叫びのような粘土細工の固まりが置かれている。これをいじくって井川実が何か像を作るのかも知れない。江尻伸吾が盗聴マイクの指向性とボリュームを上げているのでアトリエの中の音声がよく入る。ブーンと虫の羽音のような音がするのは空調の音だった。マイクの位置が高いのでそういう音も取り込んでしまうのだろう。ソファーの斜め横に小さな椅子を持って来て井川実も座った。井川実は片手にはウィスキーのグラス、片手にはたばこを指の間に挟んでいる。
「今いくつだっけ。」
「二十五です。」
「そう。」
井川実がにやけて聞くとそう聞かれた女性は子供じゃあるまいし、にやけて私の年なんて聞かないでよ、という顔をした。
「奥野美加さんからの紹介だよね。君も美加さんと同じ銀行に勤めているの。」
「ええ、H銀行です。」
「名前は中井優さんだったよね。」
「そうです。」
「仮名じゃなくて。」
井川実はにやりといやらしい笑いを浮かべた。
「銀行では何をやっているの。」
「受付です。」
中井優と答えた女性の顔には少しこわばりがあった。
「どんな事をやるか、聞いてきた。」
「ブロンズの像を作るモデルだつて聞いていますけど。」
「僕のやり方は少し変わっているけど、あまり疑問を感じないようにしてね。奥野美加からどこまで聞いた。」
モデルを金で雇うのはいいが何故、井川実はこんな七色の虹のようなサイケデリックな格好をしているのだろうか。
「こんな格好をしているから少し驚いた。」
「いいえ、銀行の受付にいてもいろいろな人が来ますから。この前には受付の椅子に座ったと同時に大きな声で歌を歌い始めた人がいるんですよ。」
「へぇ、そんな変わった人間もいるんだ。」
そう言って井川実は笑ったが目はいやらしかった。
「モデル料って随分と高いんですね。相場って私、知らないですけど。井川さんはいいところの御曹司なんですか。こんなにいいところに住んで、モデル料もたくさん払ってくれるから。」
「そうじゃないさ。こう見えても、パトロンが居てね。作品料をたくさん払ってくれるのさ。それに同居人が医者でね。彼に半分家賃を払ってもらっているのさ。」
そう言って井川実はこの魅力的な訪問者を下から上からなめ回すように見つめた。
「モデル料が目当てでここに来たのかい。」
井川はグラスの中のウィスキーまた半分飲み干した。
「そんな事はないわ。私、モデルというのに何らかしらロマンを感じているの。昔、見た漫画でモデルになった女の子が画家にモデルを頼まれるの。しかしその画家は実は魔術を研究している魔法博士で美しいものを永久に生かす魔法を古書から見つけて来てその画布の上に定着させる事によって彼女は永遠の命を持つのよ。でも彼女の姿は魔法博士以外には見えもしなければ触れもしないの。その絵を見に来た美しい若者が彼女に恋をしてしまうんだけど。私がいつも読んでいた漫画雑誌に載っていた漫画なんだけど話が二回に分かれていてその次の方を読まなかったからそれで終わっているんだけど。」
村上弘明もその漫画も漫画家の事も知っている。デビュー作は江戸時代の飛脚をリアルに描いた劇画タッチの漫画だったと覚えている。その次の号も村上弘明は読んだことがある。井川実もそれを読んだことがあるらしい。
「境のりのすけの漫画だろ。僕もその本を読んだことがあるよ。境のりのすけって江戸飛脚つばめの三次を書いていたって知っている。その後どうなったか知りたい。」
井川実はまたいやらしい目をして中井優の事を見つめた。
「その若者は古道具屋をやっているんだけどその姉がやはり魔術に通じていたんだ。魔術を使う画家は今度はその姉に目をつけた。彼女も魔術を使えるという事も知らずにでだ。同じように姉の事を自分のアトリエにつれて来た。そこで姉の方は満月の九月九日に生まれた羊の血で作った油を絵の上に拭きかけると魔法博士の魔術が解けて娘は現実の世界に戻って来たんだ。」
そこで井川実は飲みかけのウィスキーをあけるとのどがやけついたのか、軽くのどを鳴らしてにやにやとした。
「僕が魔法博士だったらどうする。」
中井優がモデルという言葉にロマンを感じていると言ったので彼は調子にのって彼女をその気にさせようとしているのかも知れなかった。
「ありがとう。あの漫画を読んだのは子供の頃だったけどその後どうなったのか、気がかりだったの。結論が分かって良かったわ。」
「僕に感謝している。」
「まあね。」
酒の酔いが二人に回ったのか、中井優はかなりなれなれしくなっていた。
「何だ、あいつ、ロマンという言葉の意味を知っているのか。あんなに女を酔わせて何をするつもりだ。ロマンというのはロマンス語で書かれた物語という意味だぞ。」
江尻伸吾も同意した。
「同感でごんす。」
「さっきの話の続きだけどこんな大きな倉庫を個人で借りるなんて井川さんて金持ちなのね。」
「金持ちは好きだろ。

「もちろん。」
そう言って中井優はまた笑った。カメラに映った彼女は相当酔っぱらっているようだった。
「この倉庫の内装は随分と素敵ね。自分でやったの。」
「何で、そんな事を聞くんだい。」
「だって芸術家でしょう。自分の好きなように内装を組み合わせるのかと思ったのよ。」
「そんな事より僕の芸術に協力してくれるかい。」
「協力って。」
井川実はまたいやらしく笑った。そしてアトリエの作業場でない、生活空間の方を指さした。作業場と生活空間の間はカーテンで閉められているのだがいつの間にかカーテンは開けられていて大きなベッドが見える。そして中井優は半ば酔っぱらっていて目の前の画像が夢の中のように見えるのだが、ベッドの横に誰かが立っている。彼女自身はそれが誰であるかは分からなかった。
「江尻さん、ちょっとカメラを移動して中井優という女の子が何かを見ているよ。」
「分かっているでがんす。今、カメラを移動しているところでがんす。」
江尻伸吾はカメラの遠隔操作スティクを盛んに動かした。カメラの視野は作業場から生活空間の方に移った。大きなベッドが見える。そしてその横には。
「あっ、あいつ。」
江尻伸吾はその人物を見てもわからなかったが村上弘明はそれが誰であるか、すぐに分かった。
「栗田光陽じゃないか。」
村上弘明は計器類に囲まれたワゴン車の荷台の中で叫び声をあげた。大きなベッドの横にはかつてK病院に勤めていたという栗田光陽が立っている。ネクタイを絞めない白いワイシャツのままでワイシャツの上の方のボタンははずれていた。心持ち肩のあたりで息をしているような感じだ。
「薬の効き方もいいじゃない。」
栗田光陽は女のような言葉で井川実に話かけた。中井優は半分うつろな目をして栗田光陽の方を見た。
「すっかり眠らせないでそのくせ身体の自由は利かないようにしておく、この頃合いがむずかしいのよ。おほほほ。局部麻酔なんかを打っちゃえば簡単なんだけど飲み薬でそんな便利な薬が発明されないかしら。意識はある程度はっきりしていて身体の自由が利かないなんて薬がね。」
「余計な事はいいけど何分薬の効果が持つんだよ。」
「せいぜい十五分というところね。」
「たった十五分かよ。」
「それ以上の時間、薬が利くような分量をお酒に混ぜたりしたら全く意識を失っちゃうわよ。それどころか死んじゃったりしちゃうかも知れないわ。おほほほほ。」
「そんな御託はいいから早くベッドの方へ運ぼうぜ。」
栗田光陽の立っている横には大きなベッドが置いてある。そしてその横には三脚に立てられたビデオカメラが用意されていた。ビデオカメラの横にはビデオカメラ用のライトもセットされていた。中井優がこのアトリエに入って来たときにはカーテンで仕切られてそのビデオカメラとビデオ用のライトは見えなかったがカーテンの向こうにはベッドの方を向いてその機材がメタリックシルバーの光沢を光らせながら対象を待っていたのだ。カメラの横にはMIYAKOのロゴの彫刻が貼られている。宮古光学、日本では一番信頼性のある光学機械メーカーとして知られている。黒い三脚の上に備え付けられているそのカメラは放送局で使うものほどの機材ではないにしても素人が遊びで使うには高級な機能と高い画素数、充分な色再現性を持っていた。カメラとライトの電源コードは木製の床の上に延びていて暗がりで見えなくなっている部屋の片隅にある電源コンセントにつながっている。ベットは金色の太いパイプを使った装飾性の高いものでその前後に金色のしゃれた柵がついていた。ベッドには白い洗いざらしの木綿のシーツと上掛け、大人の頭の三倍くらいの大きさのこれもやはり木綿の枕が置かれている。上掛けはめくられて、そのシーツの上に置かれる生身の女の身体を待っていた。ビデオカメラの横に栗田光陽が立っているという事は彼が撮影をするという事なのか。ソファーの上で栗田光陽が調合した薬を混入された酒を飲まされた中井優はだるそうに半ば目を閉じて背もたれに身体をあずけている。彼らが言っているように身体の自由は利かないが意識はあるという状態なのかも知れない。井川実はソファーの中で動かなくなっている中井優の頬を軽くつついて見た。中井優はあきらかに目だけで敵意の表情をあらわした。しかし身体の自由は利かないのでどうする事もできなかった。
「ほらほら、怒っているよ。」
「おほほほ、僕の言ったとおりでしょう。」
栗田光陽はベットのそばに立っていやらしく笑った。
「早くベットのそばにつれて来なさいよ。準備は整っているんだから。おほほほ。」
テレビのブラウン管にはあのアトリエの中の井川実と栗田光陽の犯罪行為が音声入りで鮮明に映し出されているので村上弘明は彼らの行為を止めようと今にも車の中から飛び出して行きそうな勢いだった。それをあわてて江尻伸吾が止めた。
「出て行ったらだめでがんす。ミーたちの正体が彼らにばれたらまずいでがんす。彼らはいろいろと重要な証拠を握っているようでござる。彼らはまだ泳がせておくでござる。」
江尻伸吾はその三日月のような顔を村上弘明の方ににゅうと伸ばして制した。江尻伸吾の顔は実際よりも二倍くらい拡大されて村上弘明の前に飛び出しているようだった。
「江尻さん、そんな事を言ったって放っておいたら大変な事になってしまいますよ。」
村上弘明はテレビのブラウン管の方を指さして憤慨した。すると江尻伸吾はしたり顔で再び尖ったあごをなでた。江尻伸吾が得意なときにするポーズである。
「吉澤殿、心配する必要はござらん。あのアトリエに監視カメラとマイクを取り付けたときから、取り外すときの事も想定しているでござるよ。」
江尻伸吾はここでまた得意気にあごをさすった。
「あそこに取り付けてあるのは単なるマイクではないでござるよ。」
「と言うと。」
「マイクは音を拾うだけでござるが電気を逆につなげば音を出す事も出来ることをご存知かな。ここをちょっとボタンを押せば。」
江尻伸吾はワゴン車の荷台に積まれている機械類のたくさんのボタンの一つからDANGERと書かれているボタンを押した。するとどういう事だろうか、テレビのブラウン管に映っている栗木光陽と井川実の二人はふらりと立ち上がると身体をふらふらと揺らして眠るように倒れてしまった。
「今でござる。あのアトリエの前に車をつけるでござる。」
江尻伸吾はワゴン車の荷台から運転席の方に移ったので村上弘明もあわてて運転席の方に移った。と同時に江尻伸吾はワゴン車を発進させた。と言ってもそのアトリエのある倉庫は車を停車させている場所から数百メートル離れているのに過ぎないのだが。アトリエのある倉庫の前で何食わぬ顔でワゴン車を止めた江尻伸吾は荷台の方のテレビを見た。そこにはまだアトリエの内部が映っていて井川実も栗田光陽もそして彼らの毒牙にかかろうとしていた中井優も寝ていた。
「首尾は上々でござる。うししし。」
いつにもなく江尻伸吾は上機嫌であった。
「マイクは音を拾うだけではなく音を出すことも出来ると言ったでござろうが、鶏のある部分を人間がマッサージすると鶏は寝てしまうでござるだろう。人間とても同じ事。ある周波数の音を特別なパターンで人間に聞かせると寝てしまうのでござる。備え付けたカメラが見つかりそうになったとき隠しマイクからその音波を流すでござる。そうすれば対象者は寝てしまいマイクを取り外しに行くことができるでござる。」
江尻伸吾は車の運転席から降りながらそう言った。
「おっ、忘れたでござる。」
江尻伸吾はそう言うと車のダッシュボードのあたりから何かTの字の形のしたものを取りだしてポケットの中に入れた。
「用心のためでござる。」
以前来たことのある彼らの住んでいる倉庫は全く変わっていなかった。鉄の鋼板の上にコールタールのような黒いペンキが建物全体に塗られていて正面には大きな引き戸がついているのだがそこは内部から太い鎖でつながれていて普段は開く事ができないようになっている。その代わり小さな潜り戸が引き戸に付いていてそこから出入り出来るようになっているのだった。中井優はそこからこのアトリエに入って来たのだった。
「この扉から入るのでござるな。」
大きな引き戸には横文字が横一列に書かれていて潜り戸のところは一文字が占めている。その文字は英語のKという文字でKの三本の棒が一致する場所に半円形のステンレスメッキをされた取っ手があり、江尻伸吾がその取っ手をひねると鍵がかかっていず、扉は難なく開いた。引き戸の裏側は防火処理のほどこされたカーテンがかかっている。
「悪い事をしようとするには不用心でござるな。」
江尻伸吾が再び言った。倉庫の中はワゴン車の中のテレビで見たとおりだった。作業場のようなところにはソファーが置かれていてそこに中井優が眠っている。その横では井川実が倒れたまま眠っている。金色のベッドの横では栗田光陽が同じように倒れている。これからいかがわしい映像を撮影しようというそのままの状態になっている。ビデオカメラの電源はそのままの状態でパイロットランプの緑色の光がついたままだった。その緑色の光の下に宮古光学のロゴのレリーフが浮かび上がっていた。江尻伸吾はアトリエの中に入るやいなや、倒れている人間よりも何か梯子のようなものを探していた。
「江尻さん、この女の人を外に連れ出す方が先じゃないんですか。」
「平気でござるよ。まあ、二十分はこのまま寝ているでござるよ。それより、あった。あった。でござる。前もってここに忍び込んでいたとき、隠しカメラを取り付けるのに使ったでござる。フヒフヒ。」
江尻伸吾は変な笑い方をしてその梯子を取りに行った。その場所で梯子を立てると部屋の横にある換気扇に手を伸ばした。倉庫の中は言葉の印象からは剥きだしの鉄板が部屋の中を覆っているような印象を受けるがすっかりと人間の居住空間としての体裁は整えていた。部屋の中は大部分保温剤を詰めた内壁が張られていたのである。
「外側から取り外しても良かったんだでごんす。最初にセットしたときには外から電話工事を装って取り付けたのでござるからな。」
部屋の中には壁面にいくつか換気扇が取り付けられていて外気を取り入れるようになっていた。その換気扇の内側の外からは見えないところに隠しカメラとマイクは取り付けられていた。江尻伸吾は壁際に梯子を立てるとそこを上って行き換気扇の内側に手を伸ばした。村上弘明は江尻伸吾は何をしているのだろうか、といらいらしてその様子を見ていたが江尻伸吾は全く気にしていないようだった。彼が見ているとゴム粘土の固まりのようなものを江尻伸吾は取りだした。ゴム粘土の端からガラス玉のようなものが見える。それにプラスチックの黒い管も見える。それがカメラのレンズとマイクだつたのだろう。ワゴン車の中の遠隔操作装置によって江尻伸吾がそれを操作していたのだ。江尻伸吾はほこりを吹き払うつもりか、レンズの部分にふっと息を吹きかけるとポケットの中にしまい込んだ。井川実と栗田光陽は相変わらず眠り込んでいる。江尻伸吾と村上弘明の二人はオレンジ色のソファーに眠らせられている女の横に行った。中井優というその女性は眠っていた。鼻と口からは呼吸をしている証拠に吐息が漏れている。
「二十分はこのままの状態でがんす。」
「とにかく彼女を車の中に運び出しましょう。この二人が眠っているすきに、僕らがここに入って来たとわかったらまずいんでしょう。僕がおぶいますから江尻さんは彼女を僕の背中にのせて下さい。」
村上弘明が腰をかがめると女の両脇に腕を差し入れた江尻伸吾が彼女を村上弘明の背中に負ぶわせた。江尻伸吾は先頭に立って村上弘明を誘導していく、江尻伸吾の乗っていたワゴン車には簡易ベッドの用意もされていた。彼女をそこに乗せて江尻伸吾は車を発車させた。二人が彼らのアトリエから彼女を救い出したという事を知られたくなかったからである。そこから少し車を走らせてやはり倉庫の建ち並ぶ港に江尻伸吾は車をつけた。目の前には光のかげんからか、くしゃくしゃにしたセロハン紙を広げたような海面が広がっていた。その向こうには工場の灰色の建物が並んでいる。建物の下の方には雑草の緑色が見える。埠頭の土台の部分は海面から少し上の部分は変な茶色に変色している。工場のそばにはオレンジ色をした巨大なクレーンが動かないまま五台も並んで立っていた。工場の中では人が働いているのだろうがその人間の姿も見えない。ここら辺の建物は台風のときに海から来る高波の被害を恐れるからだろうか。高くて丈夫そうなコンクリートの塀でおおわれているものがある。その一方でそんな事を全く気にかけず塀も無く鉄条網で囲まれただけの建物もある。江尻伸吾はアトリエの中から連れ出した女をつれて台形の形をした塀に囲まれた建物の横の大きな木の下の日陰になっている場所に車を停止させた。建物の入り口のところには港湾消防設備倉庫という看板が地面の下に落ちている。
「あの二人があんな事をしているなんて意外でした。」
助手席に乗っている村上弘明は横にいる江尻伸吾が何を言い出すかと期待して言った。
「やはり後ろで寝ている彼女をあのベッドの上に寝かせていかがわしい撮影をしようとしたのでしょうか。」
「吉澤殿、ミーも意外でござる。と言ってもあの二人がああいういかがわしい行為に及んだという事からではないでござる。彼らがそんな事ができるという経済的事情からでごんす。あの二人の経済状態を多少調べてみたでごんす。栗田光陽の方はK病院をやめてから新しい病院に勤めていないでごんす。そして井川実の方は芸術家と言っても肩書きだけであんな事をやれるだけの経済的余裕があるはずがござらん。」
「誰かの秘密を握っていてゆすりか、たかりをやっていたのでは。」
「もし、そうだとすればその相手が誰かと言うことになるでござる。あの倉庫の賃貸料だって並大抵の事ではないでござろう。」
ここで江尻伸吾はまたあごをしゃくった。江尻伸吾は得意でも得意でなくてもあごをしゃくる。
「建築家の今泉寛司では。彼らが今泉寛司がK病院を設計したという情報をくれたんですよ。」
「吉澤殿、しかし自分の金蔓である人物を失うようなまねをするでござろうか。今泉寛司を失ってしまったら彼らのみいりはなくなってしまうのでござるよ。」
「今泉寛司の金払いが悪くなったので脅してやれという気持ちからそんな事をやったのだとは考えられませんか、」
「そんな危ない事をやるでござろうか。」
江尻伸吾はハンドルを握ったまま前方を見つめていた。
「そうだ。江尻さん、あの倉庫の中を物色していたら何かおもしろいものを手に入れたとか言っていましたよね。それってなんですか。」
「鍵でごんす。」
「鍵、そうだ。思い出した。」
村上弘明も江尻伸吾から最初電話がかかって来たときの事を思い出した。江尻伸吾はその鍵をあのアトリエの中で見たと言った。今も江尻伸吾はその鍵をもっているのだろう。そもそもその鍵はK病院の入院患者、大沼が村上弘明のアパートに郵送してきたものだった。彼は電話でこの鍵は重要なものだと思わせぶりな事をほのめかした。村上弘明はその鍵を調べて貰いたいと思って江尻伸吾に渡したのだ。彼は大阪府警の防犯課の方に渡すと言っていた。何か新しいことがわかったのだろうか。あのアトリエの中に似たような鍵があるという事はどういう事なのだろうか。
「あの鍵に似た鍵があのアトリエの中にあったとか言っていましたよね。」
「たぶん、同じ鍵だと思うのでござるが、あのアトリエのキッチンにいてある食器戸棚の引き出しの一つに入っていたのでござる。」
「日本ではあの鍵を作っているメーカーはないのですか。」
「防犯課に問い合わせたところ見つからなかったでごんす。しかしあの鍵と同じ種類の鍵が新潟東港にある島見という町で大量に見つかったという報告がなされているでごんす。」
「新潟東港ですか。じゃあ、その付近の工場で大量に鍵型をきざむ前の鍵は大量に作られたという事でしょうか。あのあたりには燕というような洋食器工場があるからそんなものが作られても不思議ではないでしょう。」
「しかし日本のメーカーの中ではあれと同じような鍵を作っているメーカーはないでごんす。それは大阪府警の防犯課で調べたでごんす。」
「何故井川実と栗田光陽の二人があの鍵を持っていたかとい事も一つの疑問ですね。この女性に聞けばあの二人の陰の部分もわかるかも知れませんよ。」
そう言いながら村上弘明が後ろを振り向くと憂慮すべき事態が起こっていた。後ろの荷台の簡易ベッドで寝かせていた女性の姿が見えない。
「江尻さん、彼女の姿が見えませんよ。」
「おかしいでごんす。最低で二十分は眠っているはずでごんすが。」
二人は運転席から飛び出してあたりを見回した。周りには誰もいなかった。江尻伸吾が車をとめている場所の前方は直角に折れ曲がっていてそのさきは海になっている。彼女が前方に抜けて行ったとすればその行き止まりの場所を右に折れ曲がってさきに続く道を歩いて行かなければならない。しかし、ルームミラーに不注意な二人だったとしても前の方から抜けて行けばわかるだろう。したがって車の後方からか、側面の方へ行ったのだと思える。車の横の方には一つの建物の幅が十メートルぐらいの倉庫が五棟ほど続いている。倉庫の扉は閉まっているし、そこを開け閉めするには大きな力を必要とするので女一人の力では大変だろう。とにかく村上弘明と江尻伸吾の二人はワゴン車の後方を探すことにした。居なくなった女の姿を二人は捜した。倉庫の正面の道を小走りに走っていくと倉庫のとぎれたところに海運関係の会社が所有していたらしい事務所があった。今は使っていないらしく扉が壊れている。
「まっすぐ続く海沿いの道に見あたらないという事はあの事務所の敷地を抜けて裏の方に出て幹線道路に出るという手がありますよね。彼女、そうしたんじゃないですか。」
「そうかも知れないでござる。」
江尻伸吾も同意した。息切れをした村上弘明が廃止された事務所のあたりに来ると意外な人物にばったりと出会った。
「松村君じゃないか。こんなところでどうしているの。」
「吉澤さんじゃないですか。」
「今、二十五くらいの女性がそっちの方に行かなかったかい。」
「あっ、それならその壊れた事務所の中に入って行きましたよ。」
後ろから江尻伸吾も追い付いて来た。
「江尻さん、彼女、その事務所の中に入って行ったそうです。そこに入っていきましょう。」
その事務所の窓枠には金網が張られていたが窓ガラスは大部割れていた。敷地の中は大部雑草が生えている。昔の大きな雑貨屋のような感じがした。外側は板張りで板にはステン剤が塗られていた。
「とにかく中に入って見ましょう。」
江尻伸吾と偶然、そこに居合わせた松村邦洋がついて来たが江尻伸吾は松村邦洋に面識がなかったからここいつ誰だろうと思ったに違いなかった。村上弘明がその事務所の扉をあけると中は外側の敷地より一段高くなっていた。人がいなくなつたにしては内部はこぎれいになつている。梁を支える柱が何本も部屋の中に立っている。管理者がいなくなっているのかも知れない。しかし、その中はあまり汚れていなかった。外の光が割れた窓ガラスを通して部屋の中に入って来る。
「誰もいないみたいやな。」
松村邦洋が部屋の中を見回して言った。
「おっ、あれは何だ。」
村上弘明は部屋の中央より半分くらい後ろのところに大きなウィスキーの樽のようなものを見つけた。
「あの樽の中に誰かが入っていたりして。」
松村邦洋がおどけた調子で言った。誰もそんな事を信じていなかったからだ。三人は揃ってその大きなウィスキーの樽のそばまで行くと中を覗き込んだ。その中にはもちろん誰もいなかった。
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(小見出し)S高の食堂で牛乳をテーブルの上に置き、菓子パンをかじっていた吉澤ひとみの携帯に意外にも江尻伸吾から電話がかかってきた。食堂の中では少し離れたところに同じ学校の生徒が二、三人並んでしゃべっている、携帯電話が鳴ったとき一瞬、彼女たちは吉澤ひとみの方を見たが吉澤ひとみが携帯を取って電話に出たので着信音が聞こえなくなりすぐ向こうを向いた。吉澤ひとみは携帯電話をわしづかみにするとももんがのように身を丸めた。もちろんただの高校生が大阪府警のかなり変な警察官から個人的な電話が来るという事がかなり特異な事であり、他人にその電話を聞かれる事はまずかった。
「江尻さん、困るじゃありませんか。高校にまで電話をかけてくるなんて。まわりで誰が聞いているかわからないんですよ。」
「ひとみ殿、これは申し訳ござらん。大変、興味ある事が判明したでござる。村上弘明殿も来ると言ってござるので大阪府警に来ないでござるか。ミーは待っているでござる。」
「困っちゃうな、勝手に決められたら、興味ある事ってどんな事なんですか。」
彼女は声を潜めて問い質した。
「それは来てもらわなければ教える事はできないでござるよ。待っているでござるよ。」
そう言うと江尻伸吾は勝手に電話を切ってしまった。
「何よ、勝手に電話を切って。あの三日月顔、ばかにしてるわ。」
そこに向こうからテニス部の日色知子がテニスの道具一式を抱えてやって来た。彼女はテニス部の中でも一番スタイルがよく新聞部のクラブ紹介の記事で彼女の写真を撮るという話があった。具体的な日時はまだ決まっていなかったが。
「ひとみちゃん、テニス部の紹介で私の写真を撮ってくれるという話があったじゃない。今日はどう。」
「あっ、あれね。今日はちょっと忙しいの。そのうちね。」
吉澤ひとみはあわててかばんを取るとその場を逃げ出した。吉澤ひとみが小走りに食堂を出て行く姿を食堂の入り口のあたりで白い割烹着を着てガラス製の棚の中に菓子パンを入れてパンを売っているおばさんが不思議そうに見つめた。彼女は頭に白い三角巾を被っている。食堂が吉澤ひとみの下駄箱に行く通路は食堂にある別棟とS高校の本棟をつなぐ通路でもあり、よく彼女はそこで知り合いの生徒に出会うのだが今日は顔を合わせてもほとんど何も喋らずにそくさと下駄箱に向かった。大阪環状線に乗って大阪府警と旧交通安全協会に挟まれた三つ又の交差点に着いた頃には吉澤ひとみは大部空腹を感じていた。食堂でもう一つ菓子パンを食べておけば良かったと思った。食堂では薄いハムの挟まった調理パンを食べていたのだがガラスケースの横に置かれていた玉子パンも食べておけばよかったと思った。まだはち切れる青春の十代である。若いので食欲もそれなりにある。大阪府警の建物は二十年前、旧交通安全協会の建物は三十年前に建てられて、後者はその前はある保険会社の所有していたビルだったが安普請な割には大阪府警のビルよりも風格があった。昔はベージュ色だったのだろうが今は長年の年月のために建物の色は赤っぽい茶色に変わっている。ドイツ表現主義の映画監督ラングの作った映画メトロポリスの中に出てくる建物のように人間がまだ宇宙旅行に出る前に想像されていたロケットのような縦の線を強調した凹凸が大きくつけられている。ここは三つ又になっていて陸橋も三つの場所に降りていけるようになっている。そのうちの二つが大阪府警の玄関前の広場と旧交通安全協会の前の歩道を結んでいた。大阪府警の玄関前の広場には半分枯れかかったつつじの木がすかすかの状態で植えられていて花壇の地面の土が見える。。旧交通安全協会の方は歩道から直接ビルが立っている。もちろん吉澤ひとみは江尻伸吾の犯罪捜査装置開発研究室のあるビルの方へ向かった。花崗岩の三、四段の階段を上がって正面に入って行くと貨物用のエレベーターかと思うようなちゃちなアコーディオンの引き戸の扉のついたエレベーターに乗り込んだ。吉澤ひとみは普通警察の建物というものは玄関のところに警官が立っているものだが立っていないのが不思議な気がした。そして玄関を入ったところのエレベーターホールに立つとその土台全体が大きなモーター仕掛けの回転台の上にあって地面全体が回転していねるように感じた。そして天井の方を見ると三台のテレビカメラが付いている。そのカメラが普通玄関に立っている警官の代わりをしているのだろうかと思った。そしてそれらのテレビカメラに写った彼女自身の映像は江尻伸吾のいる部屋に置かれている訳の分からない機械類の一つに接続されているのだ、ここで手を挙げて挨拶をしてもいいのだがあまりにも子供らしいのでその考えは自分自身で取り下げた。アコーディオンのカーテンドアを開け古色蒼然としたエレベーターに乗り込み、中の行き先階ボタンを押すとガラガラという音がしてその乗り物自体が生きている生物のようにドアが閉まった。そしてガタンという音がしてエレベーターは上の階に向かって動き出すとがくんとゆれて停止階に着いた。そこが江尻伸吾の犯罪捜査装置開発研究室のある七階だった。吉澤ひとみが金色の真鍮製のボタンを押すとエレベーターの扉はあいた。江尻伸吾の部屋の扉を開けると例の大きなテーブルの向こうに座っていた江尻伸吾と村上弘明が研究用の植物の蔓の間から吉澤ひとみの方を振り返った。
「ひとみ、来たのか。」
「ひとみ殿、待っていたでごんす。」
江尻伸吾の部屋は吉澤ひとみが最初に訪問したときとほとんど変わらなかった。部屋の中央にテレビの埋め込まれた大きな机が置かれ、壁面にはわけのわからない犯罪捜査のための機械が置かれている。その間には毒性の化学物質を抽出するために栽培されている植物の鉢がいくつも置かれて変にうねっている蔓が伸び放題に延びて葉っぱが変な具合に茂っている。江尻伸吾は吉澤ひとみが彼の部屋に入って来るとにやにやしながらガス台の方へ行き、吉澤ひとみが飲む紅茶を入れて来た。
「ひとみ殿、いい香りでごんす。ひとみ殿はミルクかな。レモンかな。」
江尻伸吾はそう言ったがレモンが冷蔵庫の中に入っているのにもかかわらず冷蔵庫の扉を開けようともしなかった。江尻伸吾がいれた紅茶はティーバッグをカップの中に入れ、紅茶特有の色が茶碗の中の熱湯を満たすとティーバッグを取り出してミルクを入れただけだったが江尻伸吾は勿体ぶって英国紳士のようにその香りを嗅いだ。いつの間にか、江尻伸吾は吉澤ひとみの事を下の名前で呼ぶようになっていた。狂人と呼んでもよいような江尻伸吾にそう言われ、目の前に紅茶茶碗を置かれた吉澤ひとみはただ恐縮し、しちゃちほこばるほかなかった。吉澤ひとみがステンレス製のスプーンを取り上げて中の砂糖を紅茶に溶かすためにかき混ぜると村上弘明の横に座っている江尻伸吾の方がその回転する紅茶の表面のうずを見ながら話だした。
「これを見て欲しいでごんす。」
江尻伸吾が吉澤ひとみに差し出したのは新聞の学芸記事のコピーだった。村上弘明も同じものを持っている。コピー用紙特有の本来の何も印字されていず白くきれいなところにも遠くから黒いインクの粒をふったようにそばかす状の点々がついている。村上弘明の前の紅茶茶碗の横に同じものが置かれている。
「これ、何ですか。」
吉澤ひとみの目に入って来たのは太陽新聞の学芸欄のコピーだった。。吉澤ひとみが間違っても一番読まない分野でコピーされた新聞記事には外国人の四角張った顔の年寄りの顔写真が載っている。吉澤ひとみはとにかくその記事を読んでみる事にした。新聞の記事を書いているのはこの太陽新聞の学芸欄を担当している小貝郁夫となっている。最後の署名にそう書かれていてその名前が目についたのだ。
 有機化合物が二種類の原子から作られる?

イギリス王立科学員会員、マンチェスター化学研究所主任研究員、サー・ジャーミッシユ博士六四才は現在の有機化合物で構成されている物質と同じ世界がたった二個の原子から作られる可能性をマンチェスター化学研究所の実験室から示した。現在の地球上の常温、常圧、常気圧の世界は金属化合物、もしくは金属単体、それに有機化合物から成り立っていると言える。有機化合物とは炭素を含む化合物の一部を総称する名称で昔は生物を構成、もしくは生物から生み出される、生命に関する物質だと考えられていた。そのためそれらの化合物を生命に関係する化学物質ということで有機化合物という名称を昔の化学者はつけたのだがウェラーが無機化合物から有機化合物である尿素を合成した事からその定義は現在では誤っていると言える。有機化合物の有用性は炭素、水素、酸素、窒素、などの小数の元素を組み合わせる事により、多種多様な化合物を生成できる事にある。生物の生成している物質はアミノ酸であり、これも有機化合物の仲間である。有機化合物の構成元素は原子番号の最初の方にある原子であり、それらの原子の結合はそれらの元素の原子核の回りを回る自由電子であるということを学校時代に習った事があるという読者はテスト前の化学式の暗記として悩まされた事があるかも知れない。サー・ジャーミッシュ博士六四才はこれらの原子が原子番号の最初の方に出て来るという事に着目した。それぞれのメンデレエフの元素周期表を見れば一目瞭然の事であるが水素は自由電子の数が一個、酸素は六個、窒素は五個、炭素は四個、それぞれの自由電子の数がうまく八個になるように結合して二酸化炭素や水として安定した分子を作る。これがもっと原子番号の大きい原子について成り立たないかという事にサー・ジャーミッシュ博士は挑戦した。原子番号の大きな原子、自然界には一般に存在しないランタノイドやアクチノイドなどの元素の事だが、これらについてはオランダのスミス・ハーディ博士の発見があった。スミス・ハーディ博士は心臓病の化学療法に関する権威であり、彼は多くの心臓病に苦しむ患者を助ける薬を開発した。心臓病の薬を開発しているときに彼が発見した事は現実の自然界には存在しないような原子番号の大きな元素同士の結合は非常に大きな結合エネルギーを持ち、科学的に安定する事があるという現象だった。サー・ジャーミッシュ博士はそれを研究のよりどころとした。大きな元素番号の二つの種類の元素を何個か組み合わせて見かけ上、それが水素や窒素、酸素や炭素と同じ自由電子数、空間での陽子の存在確率が同じものを作る事ができないかという実験を繰り返した。そして水素、窒素、炭素まで自由電子数と陽子の存在確率の同じ分子を生成する原子番号の高い二つの元素を発見したと昨年の七月に開かれたハーグでの高分子学会で発表した。酸素の代替となる分子は開発中であるとサー・ジャームッシュ博士は解説している。またあらたな発見があり、陽子数が高いためなのか、その分子の結合力は原子番号の低い分子結合に比べて数百倍になり、ある反応ではその性質が完全に金属と同様になる。つまり自由電子の軌道がつながり電気的には抵抗が少なくなる。ただし博士は陽子の質量が非常に重くなるのでその物質は全てにおいて大変に重くなり、これから新たな現象の発見もされるだろうと述べている。もし酸素の代替となる高い原子番号の物質の化合物が発見されればたとえば飛躍的に強度の増した繊維が作られる可能性もあるかも知れないと同博士は述べている。ただしサー・ジャームッシュ博士はその高い原子番号の物質がなんなのか発表していない。スミス・ハーディ博士の発表した心臓薬から研究が始まっているので専門の研究者の間ではスミス・ハーディ博士がその元素が何であるか、知っているだろうと言われている。
吉澤ひとみはその新聞の学芸欄を読み終わると江尻伸吾の方を見た。
「この記事がどうしたの。」
吉澤ひとみは江尻伸吾の方を見たのだが村上弘明の方が答えた。
「日芸テレビの解説員の中にそのスミス・ハーディ博士の開発した心臓病の薬に詳しい人間がいてね。どんな化学物質を使って生成するか知っているんだよ。」
ここで江尻伸吾がまた口を開いた。
「ミーと吉澤さんたちで添田応化工場という福原豪の息のかかった工場に忍び込んだのは数週間前でござるな。村上弘明殿は福原豪の第二秘書から得た情報でその工場の倉庫に何かが秘密裏にはこびこまれているという事を知りその工場に忍び込んだのでござるな。しかしミーの方の入り方は違うでござる。不正な輸入を専門にやっているサンウェー貿易を調べて福原豪の息のかかっている添田応化工場を見つけたでごんす。しかしでござる。その倉庫に何が持ち込まれたかは分からなかったでごんす。しかしだ。独自のルートを調べたことにより、何が輸入されたかわかったのでござるよ。」
いつものとおり江尻伸吾は三日月型のあごをさすった。今度は村上弘明の方が身を乗り出した。
「それが不思議な事なんだよ。スミス・ハーディという外国の化学者の開発した心臓病の薬を作るのに必要な薬品が全てサンウェー貿易から秘密裏に輸入されているんだよ。サンウエー貿易を窓口にして添田応化工場の倉庫に同じ物が運ばれているとすればそれが何故必要なのかという事がわからない。福原豪は心臓病の薬でも作ろうとしていたということなのか。」
「それは確かなの。」
「ひとみ殿、確かでござる。」
「でも同じ化学物質を輸入しているからと言ってスミス・ハーディという化学者が発明した心臓病の薬を内緒で作っていたという事にはならないでしょう。」
「それはそうでござるが。」
江尻伸吾ははなはだ不満そうだった。
「福原豪についてまた一つ調べたことがあるんだ。」
村上弘明は自分の手帳を開いた。
「最初にK病院へ調査に行ったときゴミ捨て場で立っていた幽霊のような若者がいただろう。かなり薄気味悪い。」
吉澤ひとみもそこでそんな若者が村上弘明の横に立っていた姿が車のバックミラーに映っていたことを想い出した。吉澤ひとみは車に乗ったままでバックミラーに映っている姿を見て車から降りるのが面倒だったので車の窓から首を出すと少し離れた場所にあるゴミ捨て場のそばで村上弘明のそばにそんな幽霊のような若者が立っていた。
「あれが福原豪の一人息子なんだよ。強度の鬱病で精神病院へ入院した経歴もある。これは確かだよ。その精神病院へ行ってカルテを見せてもらったのさ、そこの院長が僕の番組をよく見ているらしくて彼が入院していたときの事も教えてくれた。やっぱりそこに入院していたときも幽霊のようだったそうだ。それから栗木百次郎の逆さの木葬儀場で彼のたんすの引き出しに入っていた脅迫文や何枚かのメモをカメラで写しておいたじゃないか。あの中に英語で書かれた住所が載っていたがそれが松田政男がアメリカに住んでいたときの住所だったんだ。」
この事は吉澤ひとみにとっても意外だった。松田政男がアメリカにいたときの住所がわかったなんて。でも何故何の接点もないような松田政男のアメリカでの住所が栗木百次郎の引き出しの中に入っていたのだろうか。
「松田政男がアメリカに居たとき研究していたものの事はわかったの。」
「矢崎泉の言っていたとおり軍で使う向精神薬だったらしい事は確かなんだ。しかし軍事機密の壁があって詳しい事はわからずじまいだったんだ。しかし矢崎泉が軍関係で松田政男の近いところで働いていた人物というのを紹介してくれて電話で聞いたところさっき言ったオランダの化学者トマス・ハーディの開発した心臓病の薬にかなり近い薬らしい。それからこれは江尻伸吾さんが調べてくれた事なんだけど松田政男が軍で彼の新薬の副作用から採用されない事になってその傷心旅行からか、それは僕の推測なんだけどこの故郷である栗の木市に戻って来た事があるよね。そこでひようたん池で土産物屋をやっている太田原善太郎を訪ねた。ただ単にひょうたん池で遊んで帰ったというだけじゃないんだ。松田政男は帰国しても実家に立ち寄らなかったし。ただ遊びや気晴らしのために日本に帰って来たのだろうかという疑問がわく、それで松田政男が帰国していたときにどこに宿泊していたか調べた江尻伸吾さんはつい最近彼がどこに泊まったかさぐりあてた。それは大阪にあるライトウイングホテルだったんだけどね。」
ライトウィングホテルなら吉澤ひとみも知っていた。航空会社と契約していて空港に近い場所にあるホテルだ。実家にも戻っていないぐらいだから家族に帰国している事も知られたくなかったんだろう。それで少し離れた場所にある大阪にあるホテルに泊まった事も考えられる。
「そのホテルのラウンジでぼんやりと新聞を読んでいる姿をよく見たと話してくれた人間がいる。それが何故松田政男だとわかったかと言うとその姿を見たのがS高の生徒だったからだ。彼はS高で松田政男の講演を聴いている。そして夏休みの小遣い稼ぎのアルバイトでライトウイングホテルで働いていた。しかしあまりに彼が意気消沈しているような様子だったので声をかけられなかった。しかしあるときから松田政男の表情が急に明るくなったそうだ。」
「その原因はわかるの。」
吉澤ひとみは思わず身を乗り出した。
「その生徒はかなり確信を持って言える事だと言っているのだがあの人に会ったときからだと言っている。やはりホテルのロビーでその人物と話しているの見たと言っている。」
「その人って誰。」
ミルクティを口につけて村上弘明の方を見つめているひとみの瞳は大きくひらいた。
「ひとみは知っているかな。次田源一郎という人物なんだけど。」
「次田源一郎なんていかさま師でごんす。何も実証されていないオカルト研究者でござる。」
横に座っている江尻伸吾は紅茶をすすりながら口を尖らした。
「江尻さん、お言葉ですが次田源一郎がいかさま師であるかどうかはともかくとして僕に話させて下さい。」
江尻伸吾は多いに不服そうな表情をしたが村上弘明はかまわず話し続けた。
「そのS高の生徒の話によるといつもならホテルのラウンジで松田政男はひどく脱力感におそわれている表情でソファーに腰をかけながらまだ誰もラウンジに来ない時間にそこにある新聞をぼんやりと眺めているというのがお決まりだったんだけど、その日は少し様子が違っていたそうだ。朝からひどく楽しそうな様子だったし、髪もとかさず着ているワイシャツの襟もよれよれだったのがきちんとアイロンをかけていた。そしていつものソファーのところに腰掛けて誰かが来るのを待っている様子だった。松田政男はきっと誰かを待っているのだろうと彼は思った。その生徒が玄関の灰皿を片づけていると自動ドアがあき、体格の良い老人がホテルのロビーに入って来た。彼はその人物を知っていた。」
「それが次田健一郎というわけなの。」
「彼は次田源一郎を知っていた。次田源一郎は栗の木市ではかなり有名な人物らしいんだ。変わり者の著述家として。それに自宅の一部を解放して自分の集めた資料を自由に見られるようにしている。彼の家は代々続く材木問屋なんだけど商売そっちのけで彼の研究に没頭しているらしいんだ。次田源一郎の自宅に行くと彼の集めた資料が部屋の一室に堆く積まれているらしい。ホテルのロビーに入って来た次田源一郎はあたりを見回した。ラウンジのソファーに腰掛けている松田政男をすぐに見つけた。それから彼はソファーのところにやって来ると挨拶をまじわして二人で外へ出て行ったそうだ。それから二、三週間ほど松田政男はそのホテルに泊まっていたそうだが、ここに来たときとはひどく違っていて表情なんかもかなり明るくなっていたそうだ。そうですよね。江尻さん。」
村上弘明は隣に座っていた江尻伸吾に同意を求めた。江尻伸吾は相変わらずにがにがしそうな表情をしていた。江尻伸吾は次田健一郎の事をオカルト研究者としてとらえているらしい。と言う事は江尻伸吾が自分自身の事を科学者としてとらえているという事か。
「次田源一郎というのは単なるオカルト研究者でごんす。彼の書いている牛若丸伝説考究というわけのわからない本があるのでごんすがその内容たるやまったくの陳腐奇天烈な事ばかりでごんす。なにしろ牛若丸に剣術を教えたからす天狗が本当に実在していたなんていう事を言うんでがんすからな。さらにそのからす天狗は自由に十五メートルもの高さのある木に飛び上がる事ができたし、本州の端から端までを半日で駆け抜ける事ができたなどと言う戯れ言を言うに当たっては笑止千万でござるよ。」
吉澤ひとみは次田源一郎の著作、牛若丸伝説考究を読んでいたが何も言わなかった。
「彼の略歴を少し調べたでごんす。その本の後付にも載っているでござるが、千九百二十一年生まれ、大正十年生まれとなっているでごんす。それから千九百四十年に芝浦工業専門学校を卒業していのでごんす。そのあと日本陸軍の少数民族調査部隊というものに入って中国の奥地に入っているのでごんす。そこでヒマラヤ山脈の裏側の方にあるカンティテ山脈というところに調査研究に行くと書かれているのでごんす。軍の命令で行っているとすればきっと政略的な意味合いで軍部が他国支配をするのに都合の良い歴史事実をねつ造する目的があったのかも知れないでごんす。しかしその部分は詳しくは書かれていないのでごんす。それで、中国の奥地に少数民族の調査に行ったとき常識では考えられない事実に出会ったということを言っているでごんす。それがつまり彼のオカルト体験の最初の出会いだったようでごんす。酸素濃度の低い異常な気象条件の場所に探検に行っていたわけであるから地元の住民がそれらの自然条件を克服するために使っているような麻薬類を知らずに食していた可能性もなきにしもあらずでそのために幻覚を見た可能性もあるのでがんす。それが次田源一郎の言うところの超常現象の秘密に違いないでござる。」
江尻伸吾はあくまでも次田源一郎に対しては否定的だった。
「江尻さんは次田源一郎に対しては随分と否定的なんですね。」
「次田源一郎は警察の記録にも残っている人物なんでがす。ただ単にでたらめなオカルト信奉者というだけではなくてね。」
その事実は村上弘明にとっても意外だった。村上弘明はその事を知らなかった。
「次田源一郎が何をしたんですか。」
「1999年の一月という記録が残っているでがんす。上野駅にとまっている常磐線の中で置き引きをしようとしたでがんす。ちょうど上野駅を出発しようという時刻に電車の中に乗り込んで石岡に行こうとしていた乗客の鞄を持ち逃げしようとしていたでがんす。それに気がついた乗客が次田源一郎をつかまえて鉄道警察に引き渡しでござる。乗客の方は二十代半ばの屈強な若者で泥棒をしようとした方は七十近い老人でしたからつかまってしまうのに違いないのでござった。本当に鉄道警察隊はあきれてその老人に何をしているのかと問いただしたそうでござる。そこで鉄道警察隊は次田源一郎の調書をとろうとしたのでござるが若者の方が急いでいると頑強に逃げ出したので調書も不完全な記述のままで次田源一郎は放されたでごんす。」
「何て言う人の持ち物を置き引きしようとしたの。だっておかしいじゃないですか。次田源一郎の実家というのは富裕な材木商なんでしょう。」
「荷物を持ち逃げされそうになったのは無双弘という一種の冒険家でごんす。日本の高い山をいくつか踏破してこれから外国の山にも挑戦するとか周囲の人間に言っていたらしいでがんす。」
「言っていた。」
隣に座っていた村上弘明が江尻伸吾の方を少しおどろいた表情をして見た。すると江尻伸吾は彼の方を見て口元を変な風にゆがめてにやりとした。
「その若者はすでにこの世にいないでがんす。事故でなくなったでがんす。しかしその若者には不審な点が二つあったでごんす。」
いつものようにあごをさするではなく江尻伸吾は自分でいれた紅茶をすすった。ミルクティだった。江尻伸吾が紅茶のカップを受け皿に置いたとき紅茶の鳥の子色をした表面が揺れた。
「一つはその若者、無双弘でがんすが、登山家というか冒険家のような事をやっていて今度は新しい山に登る事になっていたでごんす。そのための訓練として八王子の方に高層住宅街の開発地があって山を切り崩してコンクリートのブロックで固めた切り通しがあるでごんす。高さが二十メートルぐらいあって子供がそこを登ったりするので近所では有名な場所らしいでがんす。子供だとだいたい十メートルぐらいのところしか登っていけないでがんすが時々登山家みたいなのが練習にとそのその切り通しを登って行くので有名だつたそうでごんす。無双弘もそこに登って登山の練習をしたでごんすが一番上の場所から手を滑らして一番下の舗装されたコンクリートの道路に叩き付けられて死んでしまったでごんす。しかしそんな激しい衝撃を受けて死んでしまったにしては外傷はほとんどなかったという話でごんす。落ちたときのショックで脳の一部が損傷して心臓が停止したのが死亡原因だったという話でごんした。そしてもう一つ不審な点は無双弘は一度国内で遭難したでごんす。ニュースにもちらりと出ていた事があったという話でがんす。真冬に二日分の給料しか持っていずに和歌山の方の山を縦走して来るとか言って二週間も戻らずに捜索隊まで出た始末でした。しかし人里近くに彼の姿は発見されたのでごんした。彼の肩のあたりには熊に襲われたらしい傷跡もあったでごんした。彼の装備の中には食料は一切なくなっていたでごんす。熊にかまれた傷の大きさからすると彼は当然死んでいなければならないはずでごんした。しかし病院に収容されて驚異的な回復力を見せて社会復帰をしたのでごんす。」
テレビのニュースか何かでほんの少しそんな遭難事件があったかも知れない。しかしニュースの中でもほんの一、二分の事だったら村上弘明は忘れているだろうと思った。
「それはいつの事だったのですか。」
「1999年の二月の事でござる。そして無双弘が切り通しを登っていて転落事故を起こして死んだのが二千年の一月二十一日でごんした。」
「その無双弘の鞄を次田源一郎は常磐線の電車の中で盗もうとしていたんですか。」
「そうでござる。それだけではないでござる。無双弘が遭難して救助された後に入っていた病院にたびたび次田源一郎は訪れているのでごんす。」
「次田源一郎はその登山家の無双弘に興味を持っていたのね。」
「そうかも知れないでごんす。」
「次田源一郎の書いた牛若丸伝説考究、あれは随分と古い本ね。昭和三十六年に書かれた本でしょう。あれから次田健一郎のオカルト信奉に進化はあるのかしら。」
「それから次田源一郎は何冊か自説に対する小冊子を出しているでごんす。つい最近に出された小冊子を詳しく読む機会があったでごんす。それによると次田源一郎は人間に関する超常現象について二つの考えを持っているでごんす。一つは秦の始皇帝の不老不死の妙薬という考えに似たものでごんすが、薬によって人間は不老不死になれたり、自分の姿を他人に見えなくさせるようにできるという考え方でごんす。八百比丘尼の伝説というのをご存知でござるかな。福井県の小浜というところにある日人魚を釣って来た漁師がいてその娘に人魚の肉を食べさせたら八百年間生き続けたとい話でごんす。これらはみんな薬、つまり何かの物質を食べたり、飲んだりして人間の超常現象が起こるという話でごんす。その一方で物質によら吉澤ない超常現象についても小冊子の中で次田源一郎は論じているでごんす。役の小角をご存知でござるか、霊力を身につけていたと言われているでござる。空を飛んだり、念力で物を動かしたりと科学でこじつける事もできないような現象も気のエネルギーという説明をとっているでござる。ここには何も物理的、化学的なものは存在しないでござる。物理法則を離れた気のエネルギーの話でござるからである。それは幽霊や霊魂にも通じる話でござる。そして次田源一郎は後者を前者より上位に位置させているでござる。つまり秘薬を飲んでどんな怪力を得たとしても気の力による念力にはかなわないと。」
「次田源一郎の妄想ね。そんな非科学的な事が起こるわけがないじゃない。」
「何を持ってして非科学的というかはっきりしないんじゃないか、ひとみ。心なんて言われても見えるものじゃないしね。あくまでも物理現象として現れた心が引き起こす運動を観測しているだけじゃないか、ひとみ。」
「きっと次田源一郎は中国の奥地で何かを見たのでござるよ。それからオカルト信奉者になったのでござるよ。たとえそれが幻覚を起こさせるような毒カビだとしてもでござる。」
説明も証明も不可能な超常現象についてここで語るのはやめようと江尻伸吾は言いたかったのかも知れない。現代の科学文明は物質を基礎にしている。物質の原子核を構成しているクオークから始まって陽子、中性子、電子が生成されてそれが原子となり、分子となって我々の世界を構成しているという事ぐらいしか村上弘明はわからなかった。宇宙の始まりというような話になると村上弘明はちんぷんかんぷんになってしまうのだ。筋力増強剤を使って筋力を増す事はできる。それによって怪力を得る人間も生まれるかも知れない。しかし気という話になると眉唾ものだ。気とは本来この世界に満ちている何でも姿を変える事のできる全ての生成物でそれ自体が運動している。その気を遣って離れた場所にある巨大な岩石を動かしたり、空中を浮遊したりというのが次田源一郎の説だ。次田源一郎が登山家の無双弘を追いかけているという事は次田源一郎の自説を証明する何物かを無双弘が持っているという事なのだろうか。
「吉澤殿、ひとみ殿にあの鍵の事は話したでござるか。」
宙を見て方針状態の村上弘明は江尻伸吾にそう言われて吉澤ひとみに栗田光陽と井川実のアトリエで起こった出来事について話していない事を思いだした。そこには吉澤ひとみはいなかったのだ。そして改めて松田政男の周辺に起こった事件について整理しなければならないと思った。
「江尻さん、メモ用紙はありますか。松田政男を中心にして起こった出来事を自分なりに整理してみたいんです。」
江尻伸吾は立ち上がると三人の空になった紅茶茶碗をお盆の中に入れると流しの方へ持って行った。三人の紅茶のおかわりをいれてくれるらしい。流しのところでごそごそしている。流しの横には江尻伸吾お気に入りの文房具用の整理戸棚が置かれていてそこでも江尻伸吾はごそごそと何かやっていた。江尻伸吾はお盆の中に入った三つの紅茶茶碗とメモ用紙と鉛筆を持って来た。
「これを使って欲しいでごんす。」
江尻伸吾は村上弘明の横に座ると鉛筆を差し出した。尖った鉛筆の頭のところには子豚の人形が付いている。どうやらこれが江尻伸吾のお気に入りの鉛筆らしかった。
「この鉛筆を使っていいんですか。」
村上弘明は鉛筆を受け取った。紙の上で鉛筆を少し動かしてみる。黒炭の粉が紙の繊維の間に絡まっている。
「まず、ひとみは一緒行かなかったからわからないだろうが、一昨日江尻さんと栗田光陽と井川実が一緒に住んでいるアトリエに行ってきたんだ。もちろん彼らには知られないようにしてね。」
そこで何が行われようとしていたかは吉澤ひとみには言わなかった。そこでまずK病院の患者である小沼が送って来た鍵と同型のものが栗田光陽と井川実のアトリエから何故みつかったかという事、それに二人とも働いていないように見えるのに何故あんな裕福な生活が出来るのかという事が疑問。それらの事を村上弘明はメモ用紙に書いた。
「松田政男の事だけど彼は最初に秘密に運営されている化学会社の研究所に入った。そこで矢崎泉という同僚を得た。それからアメリカに渡り、高性能の油を開発した。それでも満足がいかず軍事研究に手を出し、向精神薬を開発したがその薬は副作用が多くて軍に採用されなかった。戦闘のとき恐怖心をとりのぞく薬だそうだ。またそれは鬱病にも利くという話だ。その薬を開発した当初、1998年の七月には松田政男は元の同僚の矢崎泉に意気揚々と電話をかけている。しかしいろいろな副作用からその薬が認可されない事になると傷心旅行なのか、松田政男は1999年の七月、日本に戻って来てひょうたん池のあたりでくつろいでいる。しかし単なる傷心旅行でなかったらしい。それが本人の意図したものか、偶然によるものかはわからないが希望を抱ける条件に出会ったらしい。それは彼の事を知っているS高の生徒の目撃談なのだがある人物に出会って急に表情が明るくなったと言う。それが次田源一郎という町のオカルト学者らしい。次田源一郎は自分の学説として牛若丸の超人的な伝説は真実であり、不老不死になる事も不可能ではないと主張している。その人物に会って松田政男が感化されたとしたら松田政男自身がかなり追い込まれた状態だったのかも知れない。仮にも秀才化学者として知られた松田政男が荒唐無稽なほら話を信ずるとしたら。そのうえ次田源一郎には奇矯な行動がある。遭難から奇跡的に生還した無双弘という登山家を追い回して常磐線の電車の中で置き引きまでしている。そして松田政男は調査によると二千年の二月三日にK病院に入院して二千年の六月十七日にK病院の中で死んでいる。これが松田政男のおおまかな行動だ。そしてK病院の方へ目をやれば福原豪がどういう目的で建てたのかははっきりしないがまるで中世の要塞を思わせるこの病院の建設にはこのあたりの政治的、経済的な支配者の福原豪が大きく関わっている。最初にK病院を村上弘明が調査に行ったとき幽霊のような若者をK病院のゴミ捨て場で見た。それが福原豪の一人息子である福原一馬である事を村上弘明は後で知った。福原一馬は極度の鬱病で精神病院で入退院を繰り返していたらしい。二千年の九月二十一日に吉澤ひとみや松村邦洋たちはプロレスの観戦に行ったのだがそこには巨人プロレスラーのゴーレムが来日していた。そのプロレスラーもお忍びでその前後にK病院にやって来たらしい。K病院に関しては疑問がさらに続く、病院の中を自由に出入りしている小沼という患者だ。ここまで村上弘明は松田政男とK病院を軸にすえて動いている事件に関して小沼という男は一体何物だろうかと考えた。江尻伸吾のサジェスチョンによれば小沼が送って来た鍵は重要なものらしい。それと同型なものが栗田光陽と井川実の住んでいるアトリエにあるという。ここまで思いつくままに村上弘明はメモ用紙に書いて来たが少し不安になったので真向かいに座っている吉澤ひとみに見せる事にした。
「思いつくままにここまで書いてみたんだけどこの栗の木市で起こっている事件はこれだけだよね。」
「兄貴、忘れているわね。私たち一家がここに引っ越して来る前からここで起こっていた事件、犬の連続虐殺よ。」
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その材木問屋の前の道は地方の道路がこんなところまでと言えるぐらい整備されている事が多いのに砕いた小石を地面いっぱいに撒いてお茶を濁していた。その道をはさんで向こう側には水を張った田圃の中にたわわに実った稲が隙間なく並んでいる。水面の上に浮かんでいる浮き草の下を見たら小魚や小動物が水中を泳いでいるのかも知れない。その向かい側にある材木問屋はかなり大きな建物で塀の向こう側に材木がたくさん立てかけてあるのが見える。材木問屋には珍しいと思えるのだが材木運搬用の車両の出入り口の大きな戸はオレンジ色に塗られていて塗料の後も新しく最近ここが立て直されたらしい事がわかる。材木屋でオレンジ色の戸を使っているなんてあまりないかも知れない。何となく火事を連想させて危ないかのではないか。次田源一郎の実家はこの材木問屋とすれば次田源一郎もここで今、働いているのかも知れない。オレンジ色の大きな鉄の扉は少し開いていて中に材木が立てかけてあるのが見える。村上弘明と吉澤ひとみがそこの隙間から中をのぞき込んでいるとだいだい色の噴射ノズルのついたホースを持った四十くらいの男が向こうから歩いて来る。
「早くうちの前も舗装してくれないんやろうか。ほこりが立ってしょうがないわ。」
口をもごもごさせてつぶやいている。それから鉄の扉の前に出て来るとホースで砂利道に水をかけ始めた。農家の跡取りの二代目という感じがあった。これが畑筒井の同級生の次田源一郎の息子に違いない。そばに二人がいる事も全く気にしていないようだった。ホースの先を飛び出した水は蛇が首を振っているように砂利道に吸い込まれていく。
「あの、ここは次田源一郎さんの御住まいですよね。次田源一郎さんはいらっしゃいますか。」
すると農家の跡取りはホースで水をまいていた顔を上げて村上弘明の方を見た。
「あんたは。」
「次田源一郎さんの著作を読みましてお話を伺おうと思って来たんですが。」
すると息子はまたかと言う顔をしてうんざりするように言った。きっと次田源一郎のオカルト学説に同調してここに彼を訪ねて来る人間も何人もいるのかも知れない。息子の方は全くそういう事は信じていないし、興味もなくて困っているのかも知れない。
「次田源一郎は出かけているんや。いつ帰って来るかわからへんよ。」
「次田さんの家族の方ですか。」
「息子なんや。」
「明日は帰っていらっしゃいますか。」
「わからへん。」
息子はまたうんざりとした顔で言った。彼の頭の中は材木の売り上げの事で頭がいっぱいなのだろう。
「いつ帰って来るのか、どこに行ったのか、さっぱりわからないんや。よくこんな事はあるんやけどね。だいたいいつも三ヶ月ぐらいで戻って来るんやけど。それも平均しての話や。いつ頃戻って来るのやろか。」
跡取りはのんびりとしたふうだった。
「何だ。居ないのか。」
吉澤ひとみが悪びれて一人つぶやいた。すると跡取りは村上弘明と吉澤ひとみの二人が自分の父親と同じオカルトかぶれの同類だろうと思ったのか、二人がわざわざここに来たことを後悔しないような提案をそのホースを持ったまましてくれた。
「あんた達、うちの親父どんの本を見てここに来たんやろ。うちの親父どんが作った資料館みたいなものがあるんや。見て行ったらいいがな。」
「資料館。」
「まあ、資料館と言っても自分の家の離れを改造しただけのものなんやがな。ほら、あそこに看板が立っているやろ。」
跡取りは車の出入り口になっているオレンジ色の鉄扉の向こうに立っている木製の郵便ポストのような看板を指し示した。看板の矢印は家の奥の方を指し示している。
「資料館と言ってもお金をとるものじゃないよ。うちの親父どんが道楽で始めたもんや。その看板のあるうちの庭への入り口を通って行けばいい。離れが使わなくなったので親父が勝手に資料館に直しているんや。入って行ってその離れの右側があんた達みたいな人たちが喜ぶ資料館になっている。左側が親父どんが集めて来たがらくたや。」
村上弘明は自分たちがそれらの人として判断されているのかと思ったが息子はホースを持ったままさらに道路の側に出て行き水を撒いている。もうすでに二人の存在も眼中にないようだった。
「そういうものがあるなら、入らせてもらいますよ。」
村上弘明のその言葉も跡取りは聞いていないようだった。この道路に面した出入り口の並びに石灯籠のようなものが立っていてその手前に朽ちかけた木で作られた郵便ポストのような看板が立っている。その横は田圃になっていて田圃の手前が細い道になっていてこの材木問屋の中庭に通じているらしい。遠くからではわからなかったが看板のところまで行くと看板には次田源一郎資料館、入館料無料、自由にお入り下さい。と書かれている。この小道を通って自由に次田源一郎の集めた資料を閲覧できるのだ。しかしここを訪れる人間は月に一人もいないだろう。その小道は一メートル位の幅があって両側はトタン板を使った壁になっていた。その五メートル位の小道を通ると中庭になっていて隠居所のような小さな家が建っていた。その隠居所の横にはやはりトタン屋根で作ったような片方が柱で支えられていないテントのような小屋があってそこには材木がたくさん積まれていた。しかし不思議な事にその隠居所には入り口が二つあって二つドアがついているのだった。
「兄貴、ここでは誰でも出入りが自由みたいじゃないの。でもどうしてドアが二つあるのかしら。」
「片方には資料館と書いてあるけど、もう片方には何も書いていないな。」
どちらもドアの上の部分は窓になっていてそこには擦りガラスがはめられている。したがってその中の様子が何となく見ることができる。片方のガラスの向こう側には積まれた本が見える。それは資料館の方だがもう片方のガラスの後ろには何か黒いものが見える。
「誰かいるみたいだわ。」
しかしその黒い影の上の方は何だか白っぽかった。そっちの方のドアが開いて中からマッチ棒のような白髪の年寄りが出て来た。開けられたドアの向こうには江戸時代に使われたような瓶や竹で編んだざる、壺などが見える。これが入り口のところで跡取りの言っていた事なのか。右手の方は次田源一郎の資料館になっていて左手の方はがらくたが置いてあると言っていた。そのがらくたというのが江戸時代の農家に置いてあるような花瓶や骨董の皿の山だと言うことらしい。マッチ棒のような白髪の年寄りは村上弘明と吉澤ひとみの二人がその資料館の入り口に立つと目があって睨んで来た。きっとこの資料館を訪れる人間なんてろくな人間がいないと思っているのか、彼自身が資料館を訪れる人間だからちょっと普通と違う人間なのかも知れない。白髪のマッチ棒は再びがらくたが積み上げられている左のドアの方に行こうとしたが村上弘明は跡取りの方とも何も話しもせず、次田源一郎の事を何も知らなかったのでもしかしたら彼は次田源一郎の事を何か知っているかも知れないと思い話しかける事にした。がらくたの山を見ると白髪のマッチ棒は山と積まれた骨董の中を一つ一つ眺め透かして値踏みをしているようだった。
「何をしているんですか。」
吉澤ひとみが話しかけるとその老人は不機嫌そうに二人の方を振り向いた。
「骨董の値踏みをしているんや、これを売ろうと思って、あんたらで買ってくれるか。」
この老人はここに置いてあるがらくたを売ろうと思っているらしい。しかしその持ち主でもない人間がどうしてそんな事ができるのだろうか。これらの所有者は次田源一郎なのだろうからそんな事をすればたとえがらくたであろうとも窃盗罪になってしまうだろう。しかし次田源一郎がオカルト研究だけではなくこんながらくたを集めているというのも意外な事だった。
「これを売るんですか。」
村上弘明が怪訝な顔をすると白髪のマッチ棒の方も彼が何故ここでそんな勝手な事をやっているのか疑問に感じたのだろう、もしくは自分自身が泥棒と間違われているのかも知れないと感じたのか、二人の方に向かって口を開いた。
「何も次田源一郎の許可を得ないでこんな事をしようと思っているわけではないよ。次田源一郎とは昔からの幼なじみでね。次田源一郎が集めて来たこんくな骨董をわしが値踏みをして売って歩くという仕事をしているのや。わてはいつもは農業をしているんやけど、仕事の合間にこんな事をしているのや。次田源一郎の方も古文書のあるような古豪なんかに行くんでこんながらくたを見つけて来ることが多いんや。」
「じゃあ、次田源一郎さんの事は詳しく知っていらっしゃるんですか。さっき玄関のところで息子さんらしい人に会ったんですが、次田源一郎さんは旅行に出かけていて帰っていらっしゃらないそうですね。」
「そんな事はよくある事なんや。研究に行くと言って自分の家をあけて数ヶ月くらいよく居なくなるんや。そしてそのうちにひょっこりとこんながらくたや、わては知らんのやが伝説の秘薬なんて事が書いてある古文書を持って帰ったりするんや。その間にわてがこうやって次田源一郎が集めて来たがらくたなんかを代わりに売ったりするんや。」
「次田源一郎さんがどこに旅行に行ったのかわかりませんか。」
「さあ、聞いてないなぁ。」
白髪のマッチ棒は手に持っていた燈火の油でくすんでいる竹のざるを眺め透かしていた。
「次田源一郎さんの本を読んだことがあるんですが、最近、何か関心を持っていた事なんてあるんですか。」
「それを話したら。」
白髪のマッチ棒は少し挑戦的な表情をした。
「それを話したら何かわてに得になる事があるんか。」
「別に得になる事があるというわけでもないけど・・・・。」
吉澤ひとみは少し困ったような表情をした。すると白髪のマッチ棒は少し満足気な表情をした。
「昔から次田源一郎の事は知っているのやけど最近、少し変やったな。次田源一郎は。ここ、三、四年のことやったな。なんか、自分の研究がこれで完成するみたいな事を言っていたんや。」
「自分の研究が完成する。」
村上弘明は自分の耳を疑った。それは一体どんな事だろう。
「自分の研究が完成するなんて。どんな研究の事ですか。」
「次田源一郎の本なんかを読んでいればどんな事なのかすぐにわかるやろ。牛若丸を教えたからす天狗が実在したなんていうことや。」
「そのからす天狗の実在が証明されたという事ですかね。」
「たぶん、そうやろ。」
ここで吉澤ひとみも村上弘明も両方、江尻伸吾から聞いた情報の事を思い出していた。上野で止まっている高崎線の列車の中で登山家の無双弘のかばんを置き引きしようとした話だ。
「無双弘という人物の事を知っていますか。」
白髪のマッチ棒はしばらく考えていたようだったがその名前を思い出したようだった。
「こっちに来てくれるか。」
二人を隣りの資料館の方につれてきた。資料館と言ってもドアをあけると真ん中はコンクリート敷きになっていてその両側が縁台のように高くなっており、その縁台の上には畳が敷かれていてその上に大きな本棚が置かれている。そして色あせた本が大量に積み上げられている。彼はコンクリートの土間の上に靴を脱ぐとその畳の上に上がった。右手の本棚の奥の方へ行って何かを探していた。
「ここや、ここや。次田源一郎がここに自分で手書きで書いた資料を置いてあるのや。草稿みたいなものやけどな。」
白髪のマッチ棒は再び二人の方を向いて挑発的な表情をした。彼の言うところによると現在進行形で自分の研究成果を草稿の段階でここに書いていてそのうちまとまると製本するつもりだと言っていたというのだ。その草稿の中に確かに無双弘という名前を見た事がある。そう言ってその草稿を村上弘明に渡した。村上弘明はそのノートをペラペラとめくった。草稿と言っても日記のようになっているだけだった。無双弘という名前だけを探して。吉澤ひとみも後ろからその草稿をのぞき見ている。そして村上弘明はその名前をノートの中に見付けた。日付は一九九九年二月十一日となっている。そこには簡単な覚え書きのような事が書かれていた。登山家無双弘、救出される。ー一九九九年一月二日、無双弘ー大阪保険病院に収納される。ー一九九九年一月九日。
「この無双弘という人物について何かご存知ではありませんか。」
「さあ、」
白髪のマッチ棒は気のない返事をした。この無双弘が何故次田源一郎の興味をひいたのか。次田源一郎は無双弘のかばんを置き引きしようと上野の列車の中で追いかけたことまでがあるようだ。次田源一郎はこの無双弘について多いに興味を持っていたのにかかわらず周りの誰にも彼のことを漏らしていない。それは何故だろうか。江尻伸吾の調査によれば自分自身の登山の訓練で滑落事故を起こして死んだという話だがその身体はほとんど損傷していなかったと言う話だ。この白髪のマッチ棒はもっと内実に通じているのかも知れない。しかし彼が本当の事を言うかどうかは期待できなかった。しかし村上弘明と吉澤ひとみたちから提案した事ではなかったがその白髪のマッチ棒はもし次田源一郎の居所がわかったら、もしくはその居所をどうしても知る必要があるなら自分の所に連絡するようにと住所や電話番号を交換してくれた。そのあと大阪のラジオ局に外国のプロレスラーを招聘することで辣腕をふるっているという人物が東京から来ているというので村上弘明と吉澤ひとみの二人はそのラジオ局へ行った。しかしラジオ局で会ったその人物はゴーレムについて詳しい事は知らなかった。しかしゴーレムは心臓病があり、何かの薬を飲んでいるという噂はアメリカでもあったと言う話だった。ラジオ局の玄関に出るとあたりは大部暗くなっていた。ここで村上弘明は御堂筋まで行かなければならなかった事を思い出した。今度の事件には全く関係のない事だったが今度の十二月十一日に二百三十年に一度、地球に接近する彗星があり、それをある料亭の入っているビルの屋上からおもちゃのような望遠鏡で見ようという番組のプランがあり、村上弘明はそのための打ち合わせに行かなければならなかった。吉澤ひとみも一緒に連れて行く事は少し気が引けたが彼女一人を帰す事もためらわれたのでその料亭のあるビルに一緒につれて行くことにした。ラジオ局の中でハイヤーを呼んでいたので運転手がロビーまで二人を呼びに来た。白いカバーのついた帽子、白い手袋、薄ネズミ色の制服を着た五十前後の運転手だった。ラジオ局の玄関に黒いハイヤーが止まった。黒く塗装された車体はつるつるで夜の照明の光を反射していた。鏡と違ってその車体の塗装は銀色ではないのに周りの風景を黒く写すことができた。
「村上弘明さんですか、ST交通です。」
二人はそのハイヤーの後部座席に乗り込んだ。座席に腰を下ろすと同時に強く身体が後ろにのけぞった。運転席のシートとは違って後部座席のシートは傾斜が後ろに傾いているからである。背もたれに身体を預けなければならない。車の中に入るとひんやりとした空気が鼻をついた。村上弘明が行き先を告げると運転手は車を発進させた。細い道から大きな幹線道路に出るとそこそこに自動車は走っていた。信号のところで止まっている車が同時に発車してハイヤーの横を走っている。隣りに走っている車に乗っている人間の顔もはっきりと見えるのに道路だけは後方に下がっていくのが不思議な感じがした。その様子は二つの並んでいる水銀計が上がったり下がったりしているようだった。これから行く御堂筋のビルのある場所を運転手は知っていた。
「お客さん、もしかしたらテレビに出ている人じゃありまへんか。」
車に乗り込んだときからあまり口数の少ない運転手だったがちらちらと助手席の村上弘明の顔を見ていたのはその事が気になっていたのかも知れない。
「そうです。日芸テレビの報道探検隊という番組です。」
「あっ、そうだ。思い出した。」
頭の白い運転手も相づちを打った。車は流れに沿ってスムーズに走って行く。村上弘明も吉澤ひとみもこの車に乗ったときから気になっていた事があった。運転席と後部座席のあいだに小型の液晶テレビがついているのだがそれがちやんと機能しているか知りたかったのである。つまり今日一日のニュースを聞きたいと思っていた。
「今日のニュースが聞きたいんだけど、このテレビ映るんでしょう」
「あれ、気がつかなくて」
運転手が液晶テレビの電源を入れると大阪近郊で展開している洋菓子屋のコマーシャルがテレビの小さな画面に現れた。ちょうど夜七時のニュースが放送される時間だった。経済関連のニュースが続いたあと突然知っている名前が出たので村上弘明と吉澤ひとみは驚いた。ニュースのアナウンサーが無感情でニュースを読み上げた。
「今日、午後五時二十七分、観音峠で大阪在住の井川実さん、栗田光陽さんの二人が乗用車に乗っていたところカーブを曲がりきれずにそのまま谷底に転落しました。二人とも即死という状態です。」このニュースを聞いて村上弘明と吉澤ひとみの二人もあまりの事に声も出なかった。
「誰か、知り合いの方ですか。」
運転手は後ろを見ながら二人に声をかけた。
「ええ、ちょっと。」
村上弘明は適当に言葉をにごした。二人ともあの二人が突然に死を迎えたとはどうしても信じられなかった。それも観音峠でカーブを曲がりきれず谷底に転落して死んだという。これがただの事故死だろうか。吉澤ひとみも村上弘明も同じ疑問を持っているらしい。思わず二人は顔を見合わせた。とりあえず村上弘明は江尻伸吾に電話をかけてみることにした。村上弘明は背広の内ポケットから携帯電話を取り出すと江尻伸吾の携帯電話にかけた。五回くらい呼び出し音が鳴り、江尻伸吾が電話に出た。この電話が大阪府警につながっているとはこのハイヤーの運転手も信じられないだろう。報道探検隊のキャスターが大阪府警の変わり種の警察官と共同で事件の解決をしているなんて事を。しかしその電話での会話を聞いているうちにどこかにその電話の内容をおもしろおかしく話すかもしれない。とにかく江尻伸吾に電話をかけてみる事にした。
「もしもし江尻さんですか」
「そうでごんす」
「夜七時のニュースを見ましたか」
「もちろんでごんす」
江尻伸吾はどうやら自宅やどっかの飲み屋ではなく大阪府警の中にいるようだった。
「そちらに詳しい情報は入っているんですか。」
吉澤ひとみも村上弘明の方に身を近づけてその会話の中身を聞こうとしている。運転手から見たらこの高校生は何者かと思うだろうが彼はその質問をしてこなかった。黙って前方を見ながら車の運転をしている。
「この事故はただの事故でしょうか。何の作為もない。」
村上弘明は声を潜めて言った。
「現場検証をしたものからの報告によればカーブのところで曲がらずにそのまま谷底に転落したそうでごんす。その上カーブのところでブレーキを踏んだ形跡もなかったそうでごんす。」
ここでその言葉を聞いた吉澤ひとみと村上弘明は再び顔を見合わせた。
「それだけではないでごんす。二人の乗った車というのが今泉寛司の所有していた車なんでごんす。今泉寛司の取り調べに大阪府警の人間が行っている最中でごんす。」
今泉寛司、K病院の設計をした新進の建築家だ。泉大津のうどん屋で今泉寛司に会ったときは彼の建築論に煙に巻かれて何もつかめないまま別れてしまったがやはりあの男は何かを知っているか、われわれに言えない後ろ暗い事をしているのに違いないのだ。前田光陽と井川実に何故、車を貸す必要があるのだろうか。あのK病院の建築に当たって何かがなされているに違いない。
「今泉寛司が所有していて前田光陽と井川実が乗っていた車でごんすが車は大破して元の原型をほとんどとどめていないそうでごんす。二十メートルの崖を転がり落ちて炎上し、二人の死体も焼けこげてしまっているそうでごんす」
「やはり、今泉寛司が関わっていると」
「確かに今泉寛司のその事故があったときのアリバイはほとほと不確かでごんす」
村上弘明はここで沈黙した。吉澤ひとみもまたそうだった。すると電話の向こうで江尻伸吾が再び話した。
「吉澤氏、井川実と前田光陽の二人が住んでいるアトリエにあった鍵の話でごんすが、あれと同型の鍵が大量に見付かったでごんす」
「どこで」
思わず村上弘明は聞き返した。
「九州の福岡でごんす。同じ型の鍵でごんす。その写真が福岡から送られて来たのでごんすが形はそっくり同じでごんす」
その鍵はK病院の中にある鍵だということでK病院の入院患者でもある小沼が村上弘明のところに郵送してきた鍵でもある。小沼、本名は大沼と言うのだがこの鍵は重要な鍵だとひどく思わせぶりな事も電話で言っていた。
「その鍵はどこのメーカーで作られた鍵なんですか。」
「それが特定出来ないでがんす。とにかく大量に出回っていて、しかし今のところ日本の建築基準に合わない鍵らしい事は確かでごんす。福岡の建築業者の話によるとここ二、三年に福岡を中心に出回っていて値段がほかの業者の鍵に比べて三分の一以下だそうでごんす。」
その九州と同じ鍵がこの栗の木市の病院建設にも使われたという事だろうか。村上弘明と吉澤ひとみの二人は福岡までその鍵の謎を調べに行くことは無理だろうと思った。時間的にも経済的にも無理がある。日芸テレビがそんな時間も取材費も提供してくれるとは思えない。吉澤ひとみはもちろん二人がただの交通事故で死んだとは思えない。何かの力が働いているのは確かだ。しかし、その前に吉澤ひとみには何かがひっかかるものがあった。それは井川実のことだった。最初にあの漂流民のような若い芸術家を見たときの印象だが、どうも日本人ではないのではないかという印象を受けたことだ。それがどこの国の人間かは特定できないが、少なくとも日本で生まれ育ったらしい日本語を話しているが遺伝的にはどうも違うのではないかという印象はぬぐえない。そのことがこの鍵の一件にも関与しているのだろう。
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(小見出し)犬が殺された
 村上弘明が日芸テレビの自分のデスクに付いて今日の企画書に目を通していると自分の机の上に置いてある内線電話が鳴り始めた。すぐに電話を取ると編成部長の新垣が出て来て重役室に来るように言う。隣に座っている同僚のアナウンサー、真柴初美は昇進の内示かも知れないわよ、と冗談を言ったが村上弘明にもそうでない事はわかった。重役室、と言ってもその隣に付いている応接室だったが、そこには編成部長の新垣と社長の金木が座っていた。
「単刀直入に言おう、今、福原一馬という人間のことを調べているね。君は。その若者が今、栗の木市で起こっている犬の連続殺害犯ではないかという放送を流したそうじゃないか。一体どういう根拠でそういう事をしたのかね」
「福原一馬の名前は出していません。犬が殺されたとき、近所の住民が福原一馬らしい人間を見たという証言があったからです」
「しかし、その証言者は一人だけなんだろう。警察の方の話によるとむしろ多数の被害者が栗毛百次郎という近所の葬儀場の管理人の名前を挙げていると言うじゃないか。むしろ、その人物の方が犯人に近いと言われていると聞いたよ。栗毛百次郎のことは何か調べたのかね、君は」
「栗毛百次郎は失踪していて居場所がわからないのです」
「だったら、栗毛百次郎の居場所を確かめる方が先じゃないかね。」
限られた時間と予算の中でそんな余裕がないことは新垣自身よくわかっているはずだ。村上弘明は警察ではない、なにしろ、警察の一部の協力、江尻伸吾の協力を得ている。しかし、彼の強力な解析装置、神山本太郎二号を使っても栗毛百次郎の居所はわからないのだ。
「福原一馬の家族から苦情が来ている。福原一馬自身が精神病なのに、彼のプライバシーをあばくことは人権侵害だと。今すぐに彼、および、彼周辺の取材をすることは禁止だ」
そのあいだ社長の金木は何も言わなかった。むしろそうやって村上弘明に圧力をかけているようだった。村上弘明は無力感を感じた。確かにこの一連の事件に置いて、その一部をなすであろう犬の連続殺人事件でさえもそのはっきりとその本質を知ることもできない。福原一馬自身が犬の連続殺害の犯人だという確証はないのだ。しかし、彼が何かに関わっていることは確かなのだ。しかし、どういうふうに福原一馬がこの事件に関わっているのか、そのおぼろげな姿もつかむことは出来ない。自分のデスクに戻って来ると真柴初美はすべてを知っているようだった。
「福原一馬の取材はするな、と言われたでしょう」
「・・・・・」
「隠してもだめよ。顔にそう書いてある」
「しかし、情報が早いな。いつ、そんなことを調べたんだ。どこから聞いてきたんだよ。そんなこと」
今更ながら、真柴初美の地獄耳には驚いてしまう。きっと変な噂話を給湯室か、どこかでしこんで来たのだろう。真柴初美は村上弘明が日芸テレビに引っ越してくる一ヶ月前ぐらいにここに入社した新人のアナウンサーである。新人と言っても地方局で二年ぐらいアナウンサーを経験してからここに来たのだ。
「社長の差し金らしいわよ。そのもとをたどって行くと、福原豪にたどり着くの。きっと福原豪はよほど探られたくない腹があるんじゃないかしら」
「それは確か?」
村上弘明は声をひそめた。ここにも社長のスパイのような人間がいるから、あからさまに何でも話すことは出来ない。
「確かよ。福原豪の政治的後ろ盾になっている人物で瀬の田という政治家がいるじゃないの。あれがうちの社長の高校時代の同級生なのよ。だから社長が裏で糸を引いているのに違いないわ。」
「糸を引いているも何も、その場に社長はいたけどね」
そんな個人的なつながりまで利用してこの取材をやめさせようとするということは福原豪にはほじくり返されるとまずい何かがあるのかも知れない。それはかなり確実なことだが。
「ねえ、福原豪の取材を続けるつもりはない」
真柴初美は声をひそめて隣りの村上弘明にささやいた。もちろん、内緒で村上弘明は取材を続けるつもりである。しかし、新垣たちに気付かれずにそのことを続けるとなるとかなりむずかしいことになるかも知れないと思った。
「新垣の鼻をあかしてやりたいと思わない」
この新人アナウンサーから過激な言葉がでてきたので村上弘明は驚いた。
「あいつ、聖人君子ぶっているけど裏でろくなことをやっていないんだから。あいつが中野にマンションを買ったのを知っている。それがなぜだか、わかる。今度日芸テレビから緒八出佑というアイドル歌手がデビューするのを知っている。まだ十八になったばかりなのに新垣が愛人として自分のマンションに住まわせているのよ。」
それから村上弘明は真柴初美が新垣に対して反感を持っているもう一つの理由を知っていた。真柴が教育番組みたいなものに出ていたとき、それは主に性に関する啓蒙的な番組だったのだが、真柴はあるアイドルグループの十六才の少年とつき合っていた。日芸テレビの内部でもそれは知られた事実となって、ちょうど法律的にもそれが禁止されていたので、もちろん、二人の間は金銭による愛人関係ではなかったが、一般視聴者の目をおそれて別れさせてしまったのである。村上弘明が真柴初美が新垣に対して反感を抱いているのもそのことがあるのではないかと思った。
「真柴くん、**と別れさせられちゃったしね」
「何よ、そんなこと」
村上弘明は真柴初美がくやしまぎれか、照れ隠しからそう言っているのか、どうなのか、わからなかった。
「しかし、どうするかな」
村上弘明は軽い脱力感に襲われながら力なくつぶやいた。
「川田定男から電話があったのよ」
村上弘明は消しゴムで机の上に書かれた落書きを消していたところだったが、その名前を聞いてあわてて突っ伏しそうになった。
「何を驚いているのよ。吉澤さんは川田定男のファンなんでしょう」
「いつ」
「昨日よ。吉澤さんが外に取材に出歩いているとき、電話を転送しましょうか、と言ったら、用件だけ伝えてくれって」
「用件ってどんなこと」
「福原豪のところによく出入りしていたという女の子がいるそうなのよ。福原豪の家でお花を教えていたそうよ。その女の子が福原豪のことを教えてくれるから、会わないかと川田定男は言っていたわ」
村上弘明はこんな好運があるだろうかと思った。福原豪の取材はやめろと会社から言われたあとに、その取材源が向こうから飛び込んでくるとは。
「明日、トンネルランドで会いたいと言って来たわ」
この新しい情報源のことは吉澤ひとみに教えるのはやめようと村上弘明は思った。何か、ぼんやりとした、いい印象が村上弘明にはあったからだ。今度の志水桜への取材についてである。場所も良かった。トンネルランドというのは大阪の近郊に最近出来たアミューズメントスポットでトンネルランドそのものがかなり大きな敷地を持っている。その中にレストランがあるのだが敷地の入り口のところで車から降りなければならない。車でそこに来ても電車で来ても同じことだ。そこには小さな一人乗りのゴーカートがあって入り口で渡された地図をもとに行き先のレストランに行くことが出来るようになっている。だいたい洋食と中華と和食に分かれていて、一見、迷路のような道を地図をもとに一人乗りのゴーカートを運転して目的のレストランにたどり着くのである。その目的地にたどり着くのにある種の冒険に似た興奮があった。レストランにたどり着くとそこは小山の横に穴をあけて黒く光る御影石で固めてある。その奥にライトが夜空に光る星のように点々と光っている。その中にゴーカートを乗り捨てて入って行くのだ。その中に店がある。そこで二人は食事をするのだ。かつての恋人、岬美加のことは日に日に忘れつつある、村上弘明だった。何故、ああまで自分が東京にいるとき、彼女を追い回していたのか、今になるとはっきりとした理由がわからない、結局、あの女は何だったのか、すべてが女神のように見えてその背景には神々しさまで漂っていた。超自然的な理由までつけて、解決点を運命の女神にまで求めていた。しかし、東京から流されてこの大阪にまで来て、あの頃の熱に浮かされたような時間を省みるとき、あのときの時間は一体、自分にとって何だったのか、あの時代の自分は一体なんだったのかと今更ながら思うのだった。そしてただ無償の愛を彼女に捧げていたと思っていた自分がある夜、夢の中で彼女を殺すという行為をしていた。そして目が覚めたとき、本来ならば罪悪感に、そんな夢を見たことに対して、取り付かれていなければならないはずなのに、本当に新生とでも呼んでいいくらい、すっきりした精神状態の自分を見付けたとき、彼女への献身とでも呼んでいいと思っていた愛が本当は完全なる偽善だったのではないかと思えてくるのだった。岬美加のまわりにはいつも男の影がちらついていた。その競争相手を意識して、自分はうまく彼女にあやつられていたのではないか、周りに男がいるという彼女の状態が自分自身にとって彼女の本当の価値を誤って自分に伝えていたのではないか。つまり、自分は鼻先ににんじんをぶら下げられていた馬だったのだ。今にして思えば、岬美加の行動はことごとく芝居がかっていた。結局、自分に利益を誘導するための計算づくの色気や行動ではなかったかと思えるのだった。自然な好意から行動しているとは思えなかった。今は岬美加のことが箸のあげおろしから何からすべて不愉快な思い出として残っていた。もし彼女と結婚することになったとしても彼女の奇矯な言動に振り回されるのではないかと今にして思えば思えるのである。そうなると、村上弘明は新しい相手が見つかるのではないかという漠然とした期待が変な希望とともにひしひしととわき起こって来た。それは最近入ったゲームセンターでの体験も作用していた。紫や赤や黄色のアクリル板で作られた照明が点滅するそのゲームセンターに入っていくと奇妙な空間の占いの部屋というのがあって、いろいろな方向に成長している色とりどりの巨大な水晶がその部屋の裏や表を針鼠の針のように覆っていた。どういうきっかけだったか忘れてしまったが、そこにたまたま入って占いを受けたら、霊界の使者のようなマントを頭から被った予言者のようなのが、新しい恋人が見つかるだろうとご託宣を授けたのだった。村上弘明はそのとき以来から少しうきうきした感情が続いていたのだ。そして、まだ二十代なのだから、そういった期待を村上弘明に明日会うことになっている志水桜に期待を抱かせるのだった。まだ七十パーセントくらい恋愛を神聖なものとして彼は受け取っていた。できれば家庭的な女性がいいとか、一人都合のいい思いにふけっていた。トンネルランドの入り口に立つと受付の男がゴーカートを押しながら持って来た。ただ飯を食うためだけに何故こんな面倒なことをやらなければならないのか、自分でもわからなかったが、結構、こんなことでも喜んでいる人間もいるのかも知れない。
「当施設では、三つのレストランが利用出来ます。洋食、和風、中華の三種類です。それぞれにそこへ行くことの出来る地図が用意されていますので、それを見ながら、その施設に向かってください」
まるでボート乗り場の受付のようだった。村上弘明は志水桜の指摘したとおり、洋食コースを選んだ。受付のボーイはその地図を村上弘明に手渡した。そのゴーカートというのもまるでみのかさごのような子ども用の自動車のようだった。四つのタイヤはボディの外に大きくはみ出していて、しかし、タイヤの上には泥よけがついている。単にボディのフレームだけで作られているというのではなく、その上には銀色のアルミの板が張られている。しかし、その縁のところとか、角の曲がったところには青色の金属パーツがつけられていてそれが魚のひれを思わせる。それでそのゴーカートはみのかさごのような印象を与えるのだった。村上弘明はその車に乗り込むとアクセルを踏んだ。車はするすると走り出す。エンジンのようなものは実は飾りで、その中にはバッテリーとモーターが入っているようだった。バラ園のアーチのような下をくぐると車はすぐに上り坂にさしかかった。やっとのことで坂の頂上に登ると横にこびとが住んでいるような小さなお化け屋敷のような家が建っている。そこでゴーカートを止めると半分壊れているような道路に面した窓があいて小さな骸骨が首を出した。片手を前の方に出して、レストランはそっちと機械によって合成された声で道を指し示して、首をがくんがくんと揺らしてその中に引っ込んだ。そこは道が三つに分かれていたが、その骸骨の指し示す方を走って行くと思いのほかはやく、その洋食のレストランに着いた。黒い御影石を固めて作ったトンネルの中には照明が点々とついている。床もやはり御影石で出来ていて、床の方は光沢を放って鏡面のようになっていた。そこには赤い絨毯が敷かれている。絨毯の両脇には背の高い観葉植物が並んでいる。ベゴニアが天井の照明を受けて美しく輝いている。その絨毯の上を歩いて行くと店の中に入ることが出来た。店の奥の方には照明で照らされた廊下が続いている。深い海の底に沈む青い水中都市のようだった。そこを進んでいくとボーイらしい人物が村上弘明を呼び止めた。
「吉澤さんでいらっしゃいますか。待ち合わせのお客さまがさきに待っていらっしゃいます」
薄紫色の深海の中のような客席の方に目をやると客たちが談笑している。まるで江戸川乱歩の小説に出て来る、情景のようだった。そう感じたのはそこがまるで深海のように奇妙な形をした岩がせり上がっていてそれがオブジェになっている。そして空中につるされている照明が大部、デフォルメされているがいろいろな形の魚を連想させたからである。たとえばちようちんあんこう、しゅもくざめ、魚ではないが水くらげなどである。それにまんぼうもいた。テーブルの中は向かい合わせに座っている客が多かったのだが、一人連れの客もいる。その中には女一人の客もいるのだ。村上弘明の相手はあの中にいるかも知れない。村上弘明は期待を膨らませていた。相手が魚鱗と出れば、鶴翼と出ようというはらずもりであった。何しろ、占いではいいお告げが出ているのだから、きっと結婚相手も見つかるかも知れないと、いままでは失恋に打ちのめされていた村上弘明であったが今はどこまでもお気楽な村上弘明であった。
「僕の相手はどこにいるの。その人に会ったことがないからわからないんだけど。」
客席の入り口のところで小鼻を広げてボーイに問いただすと「あちらに座っているかたです」ボーイの指し示す方を見るとその女性の横顔だけが見える。村上弘明はほくほくとした。自分の好みのタイプである。彼の頭の奥の方でワルツの調べが流れてきた。つかつかと彼女の座っているテーブルのそばまで行くと彼女の顔がさらにはっきりと見える。「おっ、可愛い、やった」村上弘明は心の中で思わず、つぶやいた。志水桜という名前のイメージにぴったりだった。
「志水桜さんですか。川田定男さんから、紹介された」
「はい」
志水桜は村上弘明の方を見てほほえんだ。村上弘明は彼女の前の席に座った。
「福原豪氏の家に出入りしていて生け花を教えているそうですね。」もし、心の中の様子を画像として見ることのできる人間がいたら、村上弘明の口の端からよだれがたれているのを発見したかも知れない。
「ということはお花の先生ですか」
「いいえ、記録映画をとることを仕事にしています」
この言葉に村上弘明はびっくりした。
「じゃあ、ご同業と言うわけですね」
村上弘明の心の中に遠い日の記憶が呼び起こされた。何となくそういう方向に進もうかと思っていた高校生の頃の想い出だ。
「もしかしたら、高校生の頃は放送部に入っていたとか」
「ふふふふ、その通りですわ」
「年はいくつなんですか」
それに対して彼女の答えは意外にも一つしか違わない。彼女は一つ年下だった。
「高校の頃は給食なんか、なかったですよね。もちろん弁当でしたよね」
「ええ、そうですよ」
「給食のほかに、パンなんかが売っていて、牛乳なんかも売っていたな。テトラパックなんていう容器に入っている牛乳なんかも売っていたんだけど、最近、見ませんね」
明らかに村上弘明が何のためにこの取材をやっているのか、その本来の目的から逸脱しているのは明らかだった。
「その弁当のことなんですけどね。弁当を持って来ない生徒はパンなんかを売店のおばさんから買ったりするんですけど、独身で弁当を持って来られない先生なんかも、パンを買ったりするんですが、何でも見繕って入れてください、ってその先生が言ったら、おばさんが高いパンだけ見繕って入れたりね。そんなこともありました」
「うふふふ」
志水桜にはその話も少し受けているようだった。口で手をおおって身体を前後に揺らして笑っている。こんなつまらない話で笑ってくれるとはありがたい。
「地学の先生が映画なんかを作っていて、僕たちの修学旅行を映画に撮っているんですよ。それで教室の中で女子が合唱する声が聞こえるから何だろうと思ったら、効果音で歌謡曲を歌わせてそれを録音していたんですけどね、今の時代だったらあんなことをしたら、教育委員から文句が来て、その地学の先生は減給処分になっていますよ」
「なんて歌を合唱させたんですか」
「瀬戸の花嫁」
この歌を知っていると言うか、この歌がヒットしている頃に思春期に当たっているとするとだいたいの年齢が推測できるだろう。小柳ルミ子という歌手の最初のヒット曲の私の城下町という曲から何曲か目のヒット曲である。小柳ルミ子と同時に売り出している歌手では天知マリ、南佐織という歌手が出ている。何でも三人ひと揃いで売り出すというのは昔からの商売の常套手段でその中で一番歌唱力のあるのが小柳ルミ子だった。その歌は昔の国鉄の旅行キャンペーンの一環に乗っている企画で電通か博報堂かどこかの公告屋が仕掛けたという話だが、はっきりしたことは憶えていない。日本再発見とか、遠くに行こうとか、そんなうたい文句だったかも知れない。
「わたし、知っています。その歌、瀬戸内海に住む女の子がお嫁さんに行くことになって、自分の弟が別れを惜しむというような内容でしたよね」
「そうです。そうです。話が合いますね。ぐふふふ」
村上弘明は変な笑い方をした。
「でも、もっとその歌を歌ってもらいたい人がいたんですよね」
村上弘明は勝手な想い出話しに耽っていた。
「うちの高校の隣にも高校があったんですよ。そこにそこらへんでは有名な可愛い娘がいたんですが、その娘に歌ってもらいたかったなあ」
村上弘明の勝手な想い出話はさらに続いた。
「その娘はうちの地区では可愛くて有名だったんです。でも、その娘と一緒に踊ったこともあったんですよ。隣の高校で文化祭があって、僕らはその娘がお目当てでその高校へ行ったんです。安っぽい段ボールとか、色とりどりのセロファンで教室の中はすっかりと飾り付けられていて、その校舎の三階の教室でディスコが作られていて、その頃ディスコという名称だったかどうか、はっきりしないんだけど、そこで何かの懸賞として、彼女と一緒に踊るというおまけがついていたんだな、それで偶然にもくじに当たって彼女と一緒に踊ったんだけど、可愛かったな彼女、顔が三十センチまで近づいて彼女の顔が薄暗い照明の中でよく見えたんだけど」
そう言いながら、村上弘明は目の前にいる志水桜の顔をしみじみと見つめた。
「あの志水さんはなんていう高校に通っていたんですか。僕の高校の憧れの君の名前も桜と言ったんだけど、名字もわからなくて、ただ桜ちゃんとだけ呼んでいたんだ」
「****高校」
志水桜がぽつりと言うとしばらく沈黙が続いた。
「そう、私の名前は志水桜、あなたの通っていた高校の隣の高校に通っていたのよ」
「ええ、ええ」
村上弘明は天地がひっくりかえるくらいびっくりした表情をした。何しろ自分の高校時代の憧れの君が目の前にいるのだ。あの頃より少しふっくらして女ぽくなったもののあの頃の彼女と少しも変わっていない。なぜ、最初に見たときにそのことに気づかなかったのだろう。彼女はただほほえんでいるだけである。
「なんだ。あの桜ちゃんだったんだ」
「文化祭であなたと踊ったことは憶えているわよ。それから。うふふふ、これを覚えている」そう言って志水桜はペンキのはげかかったクラスを表示するバッチを差し出した。村上弘明は何のことかわからなかったが、村上弘明は吉澤ひとみをつれて来なくて良かったと思った。ひとみが現在、マドンナと呼ばれていたとしても、自分の妹ではあることであるし、自分の時代のマドンナの方が貴重だ。その高校時代の想い出にはさらにあとが続いていた。その文化祭には悪友の何人かと一緒に来ていたのだが、志水桜の高校の文化祭が終わって夕方になった頃、一緒について来た悪友がペンダントを差し出した。「これ、なんだよ」村上弘明が聞いてもにやにやしているだけで答えようとしない。この悪友は手先が器用でロッカーの鍵なんかはヘアピン一本であけてしまうし、学生証を偽造することなんかも朝飯前だった。親が何を職業にしているのかは謎だった。そのペンダントは金色のゴルフボールぐらいの大きさをしていて中からふたが開く仕掛けになっていてふたをあけると、中には子犬の写真が仕込まれていた。「これを持って校舎の入り口に立っていろというの。そして志水桜が来たらそれを渡すんだよ」そう言って彼は村上弘明の背中を押した。村上弘明はそのとおりにした。校舎の中では文化祭の後片付けをしているらしい。それが終わった高校生たちが連れだって校舎から出て行く。校舎の前は売店があってジュースやアイスクリームなどが売られている。店の前には公園に置いてあるようなベンチが置かれているのだが、ちょっと違うところは背もたれの後ろにお菓子のメーカーの宣伝が書かれているホーロびきの看板がついていることだった。村上弘明がその背もたれに背中を預けて校門の方を眺めているとマドンナ志水桜が顔を出した。村上弘明は心臓の高鳴りを感じたが志水桜の前に出て行くと無言でそのペンダントを差し出した。すると志水桜はびっくりした顔をして立ち止まると村上弘明の顔をのぞき込んだ。「今日、文化祭のとき、一緒に踊った人じゃない。」
「これ」そう言って村上弘明が悪友から渡されたペンダントを差し出すと志水桜は驚いた顔をしてそのペンダントを受け取った。「これ、どこで拾ったの、なくして困っていたのよ」村上弘明は何となく予想がついた。悪友がその手先の器用さを利用して志水桜から盗んできたに違いない。そう思っていると向こうからその悪友がやって来る。片手を振りながら天下太平な顔をしてやって来た。「なんだ。こんなところで何をしているんだよ。お好み焼き屋へ行くという約束だったじゃないか。あれ、誰、それ、これからお好み焼きを食べに行くんだけど一緒に行く」それはみんな悪友の策略だった。この得体の知れない悪友が自分の特技を生かして、志水桜のペンダントをどこかでちょろまかして来たに違いない、しかし、そのおかげで志水桜を誘ってお好み焼き屋に入ることが出来たのだ。三人でその店に入っているあいだ、悪友はおもしろおかしく話を盛り上げていたし、村上弘明はすっかりと楽しい時間を過ごすことが出来た。夜の八時頃にお開きということになり、村上弘明は志水桜と同じ方向だということで一緒に帰ることにした。夜の商店街の店は半分ぐらいがシャッターをおろしている。そして半分の店がまだ開いていて歩道にショーウィンドーの照明の光を投げかけていた。歩道の反対側には街路灯がつけられている。村上弘明は志水桜とつれだって歩いた。ショーウインドーの中に飾られている熊のぬいぐるみが二人が歩いているのを祝福しているように勝手に村上弘明は思っていた。村上弘明は歩きながら何かを言おうと思って志水桜の方を向いたが途端に言葉を失った。何を言おうか、何も考えていなかったのだ。志水桜の方も村上弘明の方を見たのだが何かを話そうとしてけらけらと笑い出した。「何が言いたいの」志水桜は村上弘明の方を見て言った。村上弘明は自分でも何が言いたかったのか、よくわからなかった。そのとき遠くの方からパトカーのサイレンが聞こえてきた。緊急車両特有のあの点滅する赤い光が火の玉のようにふたりの方に近づいてきた。村上弘明は悪友が、きっと、これは確かなことなのだが、志水桜からペンダントをちょろまかして来たことがばれてパトカーが追って来たのだと思った。しかし、自分がやったことではない。しかし、それによって志水桜と知り合いになれたということは事実だ。村上弘明は内心の動揺をけどられないようにした。すると夜の歩道のはしにするするとパトカーは近づいて来て、白と黒の二色の色をぬられた車は二人のすぐ目の前に止まった。そしてドアがあくと中から警官が出て来て二人の方に歩いて来る。村上弘明は自分では悪いことは何もしていないわけだが万事休すだと思った。そして警官が次ぎにしゃべる言葉をちょっと先の時間のことだがシュミレーションしてみた。まず最初に自分は警官に腕を捕まれるだろう。そのあとには何が待っているのだろうか。しかしパトカーから降りて来た警官は自分に用があるようではなかった。自分の前を素通りして志水桜の方に行くではないか。そして警官は志水桜の方に近づくと言った。「志水さん、この近所で強盗事件があって、今、犯人を探している最中です。よろしければパトカーで警察まで送りましょうか」「いいえ、けっこうです。つれの人がいますから、この人と一緒に帰るので大丈夫です」警官は村上弘明のことを上から下までしげしげと眺めた。村上弘明は何故、警官が二人のところに来たのか、わからなかった。また、志水桜もそのことを語ろうとしなかった。また少し歩いて行くと背後から高級外車が後ろから迫って来るのを村上弘明は感じた。その車がゆるゆると彼らの背後からせまって停止した。ちょうど二人の横にその車が止まると、今度は座席から車内の人間が降りて来ることはなく、窓ガラスが開くと一人の女性が顔を出した。村上弘明が驚いたことはその女性がこの世のものとも思えないほど美しかったことだ。それは志水桜よりも美しいかも知れない。しかし、志水桜のような暖かみはなかった。年齢は五六才上かも知れない。村上弘明はこの女性をどこかで見たことがあるような気がした。そんな感想を抱いている村上弘明のの内心には忖度なしにその女性は志水桜に話かけた。「桜ちゃん、こんなところで何をしているの、早く家に帰らなければだめでしょう。その人はお友達、そう。私の結婚問題もあるんだからね。少しは私に気を使ってちょうだい」何に気を使うというのだろう。ここで村上弘明はやっと気付いた。どこかでその高級車の女性を見たことがあると思っていたが、そう言えば週刊誌で彼女の姿を見たことがある。皇室に嫁ぐ予定だとか、何とか、その記事には載っていた。その記事の女性の名前は志水遙と言った。そういうことは志水桜の姉ということなのだろうか。またまた世間に疎い高校時代の村上弘明だったが、志水家というのが皇室の縁戚関係にあたっていて、天皇の近い筋の男性と志水遙が結婚するという話がその週刊誌には書かれていた。それで彼女の実家には常時警官が常駐しているのだ。その家族にも警官の護衛がつくこともある。「驚いたでしょう」志水桜の声はどことなく沈んでいた。「姉なの」「あの人、週刊誌で見たことがある。***と結婚するとか、書いてあった。あの人が桜ちゃんのお姉さんなんだ。じゃあ、桜ちゃんの家って歴史の教科書に載っている****なんだ」村上弘明は歴史のことはあまり詳しくはなかったが、志水遙の家が歴史上の人物で****の血筋を引いているということを知っていた。「警官の簡易交番なんかが、玄関にあるんだ」「そう」志水遙の結婚のことで報道統制のようなことがしかれているのも知っていた。「今、姉の結婚問題で忙しいの。姉って綺麗でしょう。私よりも綺麗でしょう。日本で一番綺麗だって言う人もいるわ」確かにそうかも知れないと村上弘明は思った。「私の家って代々、娘が偉い人のお嫁さんになることによって成り上がっていったのよ。室町時代からずっとそうなの」そこでまた志水桜は少し複雑な顔をした。「今度の姉の結婚もそうだわ。姉さんは****と結婚するのよ」村上弘明は何と答えていいかわからなかった。マドンナと呼ばれている彼女にもいろいろな事情があるのだということだけはわかった。しかし、何故、そんなことを自分に言うのだろう。たぶん、二人で夜の歩道を歩いていることが、また、パトカーがサイレンを鳴らして走って来たことが彼女を不安にしてそんな言葉を言わせているのかも知れなかった。「十年後にまた会うことは出来るかしら」志水桜は突然にわけのわからないことを言いだした。「十年後に会ったら、今日のことを忘れないように、そうだ、あなたのその学校のクラスの書かれているバッチをちょうだい」彼女は村上弘明のクラスが書かれている真鍮製のバッチを取り上げた。そのバッチは真鍮のところに白いペンキのようなものが埋め込んであるのだが、少し、そのペンキもはげかかっていた。
「思い出したようね」志水桜は村上弘明の方を見て睨むような仕草をした。
「報道探検隊での活躍をいつも応援していたんですよ」
「それはどうも」
「でも、このバッチのことを忘れていたのは大失点だわ」
村上弘明は頭をかくしかなかった。
「あなたがニュースキャスターになるなんて思いもしなかったわ」
「あのとき、自分は何になりたいと言っていたっけ」
「探検家」
「まさか」
「だって中央アジアのことをさかんに話していたじゃないの」
「ちょうどそのとき、そんな本を読んでいたんです」
「そう」
「桜ちゃんは結婚しているの」
「秘密」
客席は丸くなっていてそこにばらばらにテーブルが配置されている。その感じは座席を取っ払った円形劇場のようだった。その周囲にローマ時代の建物のような出入り口がついている。それなのに村上弘明はその内部に高校時代の学食を連想していた。その内部の片側は映画のスクリーンのようになっていて、また演劇の舞台のようでもあった。そのスクリーンに南極の氷山が映し出された。だからその舞台の向こうは南極の海面が見えるわけである。南極の海面は座っている村上弘明の胸のあたりにあった。スクリーンには南極の氷山だけが映し出されているわけではなく、氷山の横の方には大きな港の艀があって艀の根本の方には温泉ホテルのようなものが建っている。そして何故かビルの建設工事で使うような巨大なオレンジ色のクレーンが見える。このレストランを設計した人間がどういう考えを持っていたかは不明だが、まるでこの場所が海底の奥深くに存在しているという印象だけは与えることができた。そしてその海底から南極の氷山にこの場所は接続されているのだ。
「あなたがニュースキャスターになっているなんて思わなかったわ」
「僕もそう思う」
「最初、あなたの姿をテレビで見たときでもこの人が高校のとき、文化祭で一緒に踊った人だとは思わなかったの、でもあなたのクラスのバッチをどういうわけか持っていたのよ」
「光栄なことです」
「それで川田定男からあなたが福原豪のことを調べているから知っていることを教えるようにと言われるじゃない」
「川田定男とはどういう関係なの」
「それは秘密」
「じゃあ、そのことは聞かない」
村上弘明はグラスを手持ちぶさたに軽くふりながら、その内心の嫉妬を気取られないように言った。
「福原豪とはどういう関係なの」
「あの母親にお花を教えていたのよ。今は彼女は死んでしまっていないけど、週に何度が福原の家にお花を生けに行くの」
「僕も福原の家の玄関までは行ったことがあるんだけど、彼の家の構成というのはどうなっているんだい」
「なんだ、キャスターをやっているのにそんなことも調べていないなの」
「戸籍上のことはわかるけど」
「父親の福原豪と福原一馬の二人住まいよ。そして秘書やお手伝いさんなんかもいるけど」
「福原一馬ってもしかしたら、まるで幽霊みたいな若者じゃないかい、K病院のごみ捨て場で見たことがあるんだ」
「そのとおりよ、私があの家に行ってもほとんど姿を見せないわ」
「何かの病気にかかっているという可能性は」
「おおありよ。秘書から聞いたんだけど、精神病らしいわ、それも現代の医療では治らないらしい」
「それなら、大変じゃない、あの資産や政治力を持った福原豪のあとを誰が継ぐことになるんだ」
「さあ」
「福原豪とK病院のことについて何か、知っていることってある。あの病院は福原豪が自分の持っている建設会社を儲けさせるため
作ったという噂があるんだ」
「私は違うと思うわ、きっとあの病院は福原一馬の治療のために作ったのよ」
これは初耳だった。福原一馬の治療のためだなんて、そんなことは考えもしなかった。
「なんで、自分一人の息子のためにわざわざ病院なんて作るんだ」
「福原一馬の精神病の治療法は発見されていないと、福原豪の下で働いている人間が言っていた、だから認可されていない薬でも何でも使っているのよ、きっと」
「ふつうの人間ならとても考えられないことだな、自分一人の息子のためにわざわざ病院を建てるなんて」
「福原家の持っている財産や政治力という遺産を考えたら別に不自然なことじゃないけど」
「ここ最近に起きている犬の惨殺事件についてはどう思う」
「わからない」
「福原豪の建てたK病院で不審な死に方をした松田政男という化学者がいるんだけど知らない」
「知らない」
「君はK病院に行ったことはある」
「ないわ、でもさっき言った犬の惨殺事件のことだけど急に凶暴になった犬が人間を襲ったとい事件があの病院のそばで起こったということを聞いたことがあるわ」
そのことは村上弘明にとっては初耳だった。ここで村上弘明は布製のかばんの中から二枚の写真を取り出すと志水桜の前に差し出した。
「知っている。何度も福原豪の家の中で見たことがある。秘書がこっそり教えてくれたの。こっちにいるのはロシア人との混血らしいわね、闇の建設屋と呼ばれているらしい」
「闇の建設屋」
村上弘明は低くうなった。世の中にそんな変わった職種があるのだろうか。この写真の二人というのはK病院で働いていたという医師、栗田光陽とその同居人の井川実である。志水桜はこの二人が倉庫を改造した家で同居していたことなど知らないようだった。
「闇の建設屋というのは、ロシアが崩壊した直後から仕事にあぶれた旧ロシア軍の関係者と新興のマフィアが結託して作られた闇の組織なの、その国の建築基準に合わない建築物とか、知られてはまずいような施設を作って利益を受けているという話だわ、主に日本では日本海側の地域で暗躍しているという話を聞いたわ、まるっきり日本での建築資材を使っているというわけではないから、日本の規格に合わない、鍵や錠前を使っているという場合もあるということを聞いた。九州の方で日本の規格に合わない鍵なんかがたくさん見つかったらしいけど、それも闇の建設屋のやった仕事らしい」
「ある場所でそんなような鍵が見つかったんだ。この二人が住んでいる場所なんだけどね」
「こっちの男はロシア人との混血らしいわ」
「そんな連中がなぜ福原豪の家に出入りしていたんだろう」
「そこまではわからない」
「この二人は原因不明の自動車事故で最近死んでしまったんだ」
「まあ、こわいわ」
「この二人は一人は栗田光陽と言ってK病院に勤めていたと言っている、そしてもう一人のロシア人との混血の方は井川実と言って前衛芸術家だと名乗っていた。この二人を福原の家で見かけたのはいつ頃のことなんだい」
「1999年の十一月の頃よ」
その頃にはすでにK病院は完成している。その数ヶ月後に松田政男はK病院に入院しているのだ。志水桜とそのレストランで別れてから村上弘明は幸せな気持ちでいっぱいだった。志水桜は自分が独身だとはっきりと言わなかったがどうやらそういった感じだった。村上弘明は志水桜との結婚のことをぼんやりと考えてみた。最初はそうだったとは思わなかったのだが、結論から見ると岬美香に捨てられた自分だったのだ。自分自身そのことをはっきりと認めたくなかったのかもしれない。しかし、志水桜という新しい出会いによって自分自身その事実を素直に受け入れるゆとりが出てきた。そして勝手に志水桜とのゴールインを心の中で想像してしまうのだった。
「兄貴、何をにたにたしているのよ」
この事実を知らない吉澤ひとみは自分の兄のふぬけた表情を見ながら言った。
「これ見て」
吉澤ひとみは丸めた雑誌を村上弘明の前で広げた。
「うちの高校で評判になっているのよ、これ」
「なにが」
「なんだ、兄貴、テレビ局に勤めているのに知らないの」
「高校生の関心のあることと大人に関心のあることとは必ずしも一致しないからな」
村上弘明は負け惜しみを言った。
すると電話が鳴って。その話は中断された。電話に出るとかけてきた相手はあの江尻伸吾だった。
「吉澤どの、最近のニュースを聞いておるかな、要注意人物が来日しますぞ」
「要注意人物」
自分こそそれに確答するだろうと村上弘明は江尻伸吾に言いたかったが、それに確答する人間が誰だがわからない、吉澤ひとみも知っているらしい。
「あいつのいんちきをあばいてやるつもりでがんす」
江尻伸吾は川田定男に対したときと同じように敵愾心をもやしていた。
「急に言われても。誰が来日するんですか」
「ロストホラフエルティスでがんす」
いやに長いもったいぶった名前が出てきた。
「ノルトホルテン」
「違う、ロストホラフェルティス、ホルナンデス、」
「一体、何者なんですか、それ」
「ロストホラフェルティス、ホルナンデス、FBIにも協力している天文学者にして医学者、そして霊能力者です。バンクーバーで起こった資産家老女の殺人事件を霊能力を使って解決したといわれています、しかしあっしはそんなことは信用しておりゃせん」
いつからおまえは岡っ引きになったんだと村上弘明は言いたかったが黙っていた。
「どっかのテレビ局が座興に招いたらしいでがんす。吉澤氏のいるテレビ局が招いたのではないのでがんすか」
「いいえ、そんなことは知りません」
「まあ、どこのテレビ局が招いたのでもいいでごじゃる。麻呂は霊能力なんてものは信じないでごじゃる。きっと麻呂がそのいんちきをあばいてやるでごじゃる」
そう一方的に言うとがちゃりと電話を切った。
「うちの高校でもすごく評判になっているのよ、ロストホラフェルティス、ホルナンデス」
「ちまたではそんなに評判になっているのか」
村上弘明は全くそのことを知らなかった。
「そいつがそんなに評判になっているの」
「そうよ」
「そいつが来て一体何をするというんだ」
「きっと犯罪捜査じゃない。江尻伸吾さんのライバルなのよ」
「どんな犯罪捜査の仕方をするというんだ」
「おもに霊視ね。犯人のいる場所を地図を指し示して指摘したり、遠く離れた場所の姿を絵で描いたりするの、そのほかにはアルファベットの入ったスロットを回してそのアルファベットを並べて固有名詞を特定したりするの」
「まるで手品じゃないか」
「でもFBIもCIAも全面的に協力しているし、仕事の依頼もしているの、アメリカではその捜査の模様は完全にテレビ中継されていて、いつも高視聴率をあげているらしいわ」
「くだらない」
「兄貴も一度見たほうがいいのよ。外国おもしろテレビって、阪神テレビでやっているじゃない、あそこで取り上げたわよ、兄貴も違う局のテレビ番組も見るようにしなきゃ」
「おまえに視聴率のことで説教されたくないよ」
村上弘明は日芸テレビに出勤する途中の駅の広告にライバル局の阪神テレビのポスターが張られていて、そこにロストホラフェルティス、ホルナンデスの番組の宣伝が書かれている。吉澤ひとみの言ったとおりちまたではかなりの評判になっているのかもしれない。しかし、村上弘明はしんからそのロストホラフェルティス、ホルナンデスを馬鹿にしていた。ポスターにのっているその人物の写真はエリマキトカゲのような襟をつけた変な服を着て、頭にはシルクハットをかぶっている、まったく手品師と変わらなかった。しかし、日芸テレビに出社すると全く状況は変わっていた。編制局長の新垣が村上弘明を呼びだした。
「栗の木市の周辺で犬が多数惨殺されているというじゃないか、なぜその事件を調べないのかね。」
「局長が言ったんじゃありませんか。福原一馬の周辺を取材することは人権問題だからやめろと」
村上弘明は口をすぼめてふくれ面をした。
「福原一馬の周辺を探ることは人権問題だからやめろと言った。しかし、犬の惨殺事件を調べることはやめろとは言わなかったはずだぞ。それに犯人らしいのは栗毛百次郎という人物らしいじゃないか、そんな重大な事件が発生しているのになぜ調べないんだ。それにそのことの捜査で有名な霊能力者が来日するというじゃないか、なぜそのロストホラフェルティス、ホルナンデスの放送の準備をしないんだ」
「そのロストホラフェルティス、ホルナンデスですがね、阪神テレビで招待したとか言う話ですよ」
「何を言っているんだ、君は、あれは大阪府警が招待したんだぞ」
村上弘明は自分のデスクに戻って来ると隣に座っている真柴初美が笑いながら声をかけて来た。
「犬の殺害事件を調べろ、しかし福原豪のことは調べるなと新垣が言ったでしょう」
「君は何でも知っているな、そのとおりだよ」
「別に犬の殺害事件が大事だというわけじゃないのよ。ロストホラフェルティス、ホルナンデスとかいう占い師が来るでしょう。それを放送しろということらしいわよ」
「手品師の放送をなんで報道番組が放送しなければならないんだよ。それほど視聴率が大切なのか。そのロスなんとかがどのくらいの視聴率を取れるのか知らないけど、全く局長の奴、何を考えているんだ、そもそもそのロスなんとかって何物なんだよ」
「ロストホラフェルティス、ホルナンデス、テレビに出るときの肩書きは心霊捜査官と呼ばれているの。世界中のいろいろなテレビ番組に出てある程度の視聴率は稼いでいるようね、だからうちの局でもこの機会を逃したら大変だと思ったんじゃない」
「どうせ、まゆつばものだろう、出て来るときの衣装が仰々しいらしいんだろう、てっきり阪神テレビが招待したと思っていたよ」
「でも、大阪府警が呼んだみたいね。これは、内密なことだけど、このことが公になったら大変よ。税金を使ってそんなわけのわからない見せ物を招待したんだから」
「まあ、とにかく仕事だからそのロストホラフェスを放送しに行かなきゃならないな」
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(小見出し)心霊捜査
大阪府栗の木市の隣にあざみ姫公園市という街がある。最近のニュースを聞いた人間は憶えているかもしれないが、百面相クラブという狂信的なカルト教団が大阪府警に逮捕されたという事件があった。この教団の教祖は街の薬屋から出発して既成の宗教教団に入信してその教団運営のノウハウを身に付けたと言われている。ニュース番組を見た人間はこの男が逮捕されたときの画面と一緒に彼があざみ姫公園市に建設した地上高百メートルに及ぶ永久のあざみ塔と呼ばれる宗教的な建造物を見たことがあるかもしれない。それはまるで万国博覧会のときに岡本太郎が建てた太陽の塔に似ているがちょうど太陽のような顔のところにとげとげのねぎ坊主のようなオブジェがくっっいているのだった。それは単なるオブジェクトではなく、そこには物見台もついているのだった。霊能力者ロストホラフェルティス、ホルナンデスは自分の霊能力を使った捜査を行うためにそこに登ることを要求した。と同時に阪神テレビと日芸テレビの生中継をすることを許したのである。村上弘明が以前その教祖の事件で取材に来たことのあるその永久のあざみ塔に吉澤ひとみと一緒にかけつけると、そこには両局のテレビ中継車が到着していてテレビ局員たちが放送の準備をしていた。そのあわただしい風景の中に村上弘明は見たことのあるワゴン車を見つけたので吉澤ひとみと一緒にそのワゴン車の方に近づは、いて行くと、三日月のような日本人離れをした顔をした男が耳にヘッドフォンをして顔を出した。
「江尻さん、こんなところで何をしているんですか」
「吉澤氏もロストホラフェルティス、ホルナンデスの霊能力捜査のお手伝いかな」
「江尻さんは彼の霊能力捜査の化けの皮をはいでやろうとでも考えているのですか。あの人物はテレビ局が招待したのではないんですね。警察の方で招待したという話ではありませんか」
「麻呂もそのことを知らなかったでござる。たぶん、反神山本太郎一派の発想でござるよ」
「反神山本太郎一派の考え出した捜査にしては江尻さんもいやに協力的なんですね」
村上弘明の背後にいた吉澤ひとみが口を出した。
「ひとみ殿もいらっしゃいましたか」
「江尻さんは神山本太郎二号を車の中に積んでいるんですか」
「ひとみは何でそんなことを聞くんだ」
「だって、いつも江尻さんは神山本太郎二号と一緒にいるじゃない」
「マドモワゼルもちろんでございますよ」
「あっ、本当だ。あの機械が車に積んである

「大阪府警の中では据え付けられている機械だと思っていましたが、車に載せて移動することもできるんですね」
「電源は車の中のバッテリーからとってあるでごじゃる。そして大阪のすべての電話中継局につながる線はここから出ているのでごじゃる」
車の中の機械類はすべて作動中のパイロットランプが点灯していた。
「でも、なんでそんないかさま師のような男を大阪府警は招待したのかしら、江尻さんはロストホラフェルティス、ホルナンデスを見たことがあるんてすか」
「すべては反神山本太郎一派の考え出したことであるでごじゃる」
「でも、おかしいな、あんなに福原に関している捜査からはいっさい手を引くようにって社長の金木や局長の新垣が圧力を誰かにかけられていたのに、ロストホラフェルティス、ホルナンデスの心霊捜査の報道をしなければいけないなんて、犬の惨殺事件がそんな重大なことなのだろうか」
「市民から大阪府警の方にそれを解決するようにと大部苦情が来ていたみたいでがんす」
江尻伸吾は何かに気がついたのか、村上弘明たちの背後に目をやった。村上弘明も背後に目をやると黒塗りの高級外車が入って来た。そしてその車が止まると中から村上弘明が一度だけ以前に見たことのある署長の本山本太郎が車から降りて来た。そしてそのあとからよれよれのゴルフウェアーを来たかぎ鼻の外国人が降りて来た。三人がその様子を見ていると片手に持ったスーツケースをあけるとけばけばしい衣装を取り出して何の囲いもないところで堂々と着替えはじめて村上弘明がポスターで見たと同じような中世のいかさま錬金術師のような格好になった。その黒塗りの高級外車の前にもう一台車がさきに到着していてそこからロストホラフェルティス、ホルナンデスのお付きの者のような人間が五六人降りて来て彼の警護をしながら永久のあざみ塔の方へ向かった。
「仕事でがんす、仕事でがんす」
ワゴン車の機械類のパイロットランプが点灯している中に江尻伸吾は入っていくと、彼はヘッドフォンをはめて本山神太郎二号の前にじんどった。さかんにスイッチ類を捜査している。その一方で村上弘明が自分の放送クルーの方に目をやると静かに車の周りを動いていた連中が持ち場についたところを見るとロストホラフェルティス、ホルナンデスの心霊捜査の実況中継が始まるのだろう。
「始まりますね」
江尻伸吾は何も言わないかわりに村上弘明と吉澤ひとみに目で合図を送った。
「何だ、吉澤さん、こんなところに居たんですか」
日芸テレビのスタッフの一人が近づいて来て言った。
「ロストホラフェルティス、ホルナンデスが心霊捜査を始めますよ。あざみ塔の最上階まで行かないでいいんですか」
「現場は君たちにまかせるよ、なるべくいろんな角度から撮ってくれよ。編集作業には僕も加わるから、あと何分で中継が始まるんだ。」
「七分です」
スタッフは自分の中継車の方へ戻って行った。無言で機械類を捜査している江尻伸吾のワゴン車の中に村上弘明と吉澤ひとみは乗り込んだ。ワゴン車の中にはいくつものモニターがあって阪神テレビも日芸テレビも映っていた。なぜ関西の二つのテレビ局がこのいかさま師の中継を同時に行っているのか、村上弘明には理解できなかった。テレビに映っているロストホラフェルティス、ホルナンデスは帝政ロシアのラスプーチンのように両手を広げてあざみの塔の物見台の上に立つと眼下を見下ろした。そこはアンテナ塔公園の観覧車の最上位置と同じように栗の木市の全景を見渡すことができた。ロストホラフェルティス、ホルナンデスは静かに目をつぶって何かを瞑想しているようだった。この中継をあとで村上弘明はどうやって再編集するかいろいろなことを考えてみた。何よりもこの仰々しいパフォーマンスのあとで犬の惨殺事件の犯人が見つかるかどうかでその放送の趣旨が変わってくるのはもちろんだが、もし、犯人が見つかったり、有力な情報を得ることができれば神秘という見出しになるし、まったくそういうことがなければいんちきということになる。放送が始まってから数分後から江尻伸吾の本神山本太郎二号はぽつぽつと反応し始めて十分を過ぎる頃から激しく反応した。
「江尻さん、この機械が激しく反応していますね」
「この放送に対する視聴者の苦情やら投書やらいろいろなものでごじゃる。それらはすべてこの機械の記憶装置の中に記憶されている最中でござる」
機械がフル稼働していることは動作中を示すパイロットランプがその赤い光を激しく点滅させていることからわかる。そのランプの点滅の光がそれを見つめている村上弘明と吉澤ひとみの顔を照らした。モニターに映っているロストホラフェルティス、ホルナンデスは相変わらず大仰なパフォーマンスを続けていて下に大阪府の地図を広げてその上にフーコーの振り子のようなものが三脚からつり下げられている。フーコーの振り子と違うところは振り子自身が磁石になっていてその三脚の足のところには三つの足をめぐるように輪になった磁石がいくつもついていてその磁力の微妙なバランスの上に大阪府の地図の上に位置している振り子が微妙にゆれている。砂時計を見ながらロストホラフェルティス、ホルナンデスは下の地図をさかんに位置を変えていた。そのたびにメモ用紙に何かのメモをくり返していた。江尻伸吾は本神山太郎二号の捜査をさらに続けていた。○と×の二つの選択肢のついたスイッチの○の方に切り替えた。
「○と×の二つの選択肢は何を意味しているの」
「ひとみ殿、これはロストホラフェルティス、ホルナンデスのこの心霊捜査を信じているかどうかで分けているのでござる。○の方はロストホラフェルティス、ホルナンデスのことを信じているという選択でがんす」
そしてさらに細かな選択スイッチを江尻伸吾は操作していった。そして十個以上のスイッチを操作し終わると江尻伸吾はまたヘッドフォンを耳に装着した。江尻伸吾の顔には緊張が走っている。そして生放送の中盤にさしかかったとき、神山本太郎二号の条件一致と書かれたランプが点灯した。
「行くでごじゃります。もちろん、ついて来るでごじゃりますな」
江尻伸吾は荷台の方から運転席に移ったので、村上弘明もむ吉澤ひとみもあわてて運転席の方に移った。二人がシートに腰を沈める前に江尻伸吾はワゴン車を急発車させた。
「どこへ行くんですか」
「ここでがんす」
プリペイド式の携帯を禁止されたので助かったでごんす。奴は公衆電話からかけているでがんす」
「江尻さん、ここに行くんですか」
「ちょうどK病院と福原豪の屋敷の中間の位置にありますね」
「そうでがんす」
江尻伸吾は何度も急カーブを切った。栗の木市の隣にあるあざみ姫公園市からその目的地に向かうのだからそれほどの時間がかかるというわけではなかった。しかし、道路はやがて人の住んでいない農家の朽ちた生け垣にはさまれた舗装されていない泥道に入るとその道の車幅はワゴン車とたいして変わらなかったのでそのスピードは急に落ちた。
「このさきに目当ての電話ボックスがあるんですか」
「ウィ」
「そうだ、この道、思い出したわ。学校の帰り道にここを通ったことがあったわ」
「ひとみ、こんな寄り道をして家に帰っていたのか」
「地域社会に密着しなきゃね」
吉澤ひとみは泥道にがたごとと揺れながら村上弘明の方を見た。江尻伸吾は黙ってハンドルを握っていた。
「確か、このさきには昆虫飼育工場があったと思ったけど」
「なに、それ」
「丸太製のバンガローのような建物があるのよ。そこで昆虫を飼育してマニアに通信販売をしている会社があるそうよ」
「その横に公衆電話ボックスがあった」
「あった。あった」江尻伸吾の運転でもその細道を抜け出すことができた。その細道の出口にまで来ると昆虫工場の丸太小屋が見える。その横には公衆電話のボックスが立っている。
「あそこだ、あそこだ」
三人は車から降りるとその電話ボックスに走って行った。隣に建っている昆虫工場と合わせているのか、木製のりんご箱を大きくしたような電話ボックスだった。
「やられたでごじゃる」
江尻伸吾が低くうめいた。三人の走って来た方向の向こう側に電話ボックスの開閉口があったのでわからなかったが、その木製の扉は開いていて、中にははずされたままになっている受話器がゆらゆらと揺れていた。
「今、さっきまでここで電話をかけていたのは間違いがないでごじゃる」
「ほら、見て、見て。電話帳が開かれているわ」
「電話帳でどこの電話番号を調べたのかしら」
「永久のあざみの塔の一階にある事務所の電話に決まっているでごじゃる」
「鉛筆で線が引いてある。江尻さんの言ったとおりだわ。あざみの塔、一階事務所に線が引いてある」
「もう、電話の主はここにはいないだろう」
近所の住人、昆虫飼育工場の管理人、そこには一人しか、従業員がいなかった。それらの人間に聞いても怪しい人物の情報はとれなかった。
「とにかく永久のあざみの塔に戻るでごじゃる。まだロストホラフェルティス、ホルナンデスはいるはずでござる」
三人は江尻伸吾のワゴン車に乗り込み、またあざみの塔に戻ることにした。その帰路、江尻伸吾は一言も言葉を発せなかった。三人があざみの塔に戻ると手を振っている人物がいる。よく見ると、ゴルフウェアーを着たロストホラフェルティス、ホルナンデスだった。江尻伸吾が車を到着させると、わし鼻の下の控えている口を逆への字に曲げてにやにやしながら運転席に座っている江尻伸吾の方へ向かって来る。
「どんな、あんばいやった」
中世の錬金術師から意外にも大阪弁が出てきた。
「誰かに見られるとまずいでごじゃる。荷台の方には椅子もあるから、そっちの方に移るでごじゃる今、荷台の扉を開けるでごじゃる」
荷台には江尻伸吾の捜査用の設備のほかに長椅子が置かれて、コーヒーメーカーも置かれていた。村上弘明は荷台の中でロストホラフェルティス、ホルナンデスの姿を見ると、顔だけは中世の錬金術師のようなのにブランドもののゴルフウェアーを着ているのが奇妙な感じがするのだった。その上、話す言葉は大阪弁である。江尻伸吾が荷台にいる三人、村上弘明、吉澤ひとみ、そしてロストホラフェルティス、ホルナンデスにコーヒーを配った。
「かかってきたでごじゃる」
「やっぱり、そうでんがな」
ロストホラフェルティス、ホルナンデスが変な大阪弁で答えた。
「わからないわ、どういうこと、なぜ、あなたは大阪弁をしゃべるの」
「大阪弁だけではないでんがな、世界中で十七ケ国語をしゃべることができますでんがな。こう見えてもわてはICPOの職員なんやがな」
「ますますわからない」
村上弘明もため息をついた。
「麻呂が説明させていただくでごじゃります。日芸テレビの金木社長が圧力をかけられたとしても、その相手よりさらに権力のある相手が、この捜査を続行するように指示されたのでごじゃります。だから金木社長もこのロストホラフェルティス、ホルナンデスの心霊捜査のテレビ中継をやらなくてはならなかったでごんす。しかし、それは何も日本だけに限ったことではないでごじゃります。このロストホラフェルティス、ホルナンデス氏の霊能力というのは世界中で知られていることでごじゃります。だから犯罪者は彼をおそれているでごじゃります。そして世界中の人々がロストホラフェルティス、ホルナンデス氏の霊能力を信じているのでごじゃります。そしてテレビ中継をするとすると何百万という人間がそのテレビを見るのでごじゃる。そこでロストホラフェルティス、ホルナンデス氏が湖のそばに被害者の死体が見えるとテレビで言うと全国にある湖から死体を見たという投書やフアックスが何千と届くのでごじゃる。したがって世界中の警察で捜査に行き詰まると、ICPOに連絡が行き、ロストホラフェルティス、ホルナンデス氏の招待が決まり、政府からテレビ局に圧力がかけられて、彼の心霊捜査の実況がなされるのでごじゃる」
「じゃあ、みんなお芝居なのね」
「それはわからないでごじゃる。真実を知っているのはロストホラフェルティス、ホルナンデス氏のみでごじゃる」
「わてのやっていることが手品かどうかということは商売上の秘密やで」
「しかしでごじゃる。ロストホラフェルティス、ホルナンデス氏のテレビを見ているのは一般視聴者のみではないでごじゃる。犯人も見ているのでごじゃる。だいたいの犯人は自分のやっていることに罪悪感に似た不安感を抱いているのがふつうでごじゃる。ロストホラフェルティス、ホルナンデス氏の言った一言が犯人を自首させるきっかけになったり、変な虚勢から墓穴を掘ることもあるでごじゃります。そしてこの犬殺しの犯人もぼろを出そうとしているのでごじゃります。さっきのテレビ中継のあいだ、犯人は確かにテレビを見ていた形跡がありますでごじゃります。あのあざみの塔の一階の事務所に意味不明の電話がかかってきたでごじゃります。その電話の発信先はあの昆虫育成工場の横にある電話ボックスでごじゃりました」
そのことはロストホラフェルティス、ホルナンデスにとっても初耳だったらしい。
「とにかく、その電話を聞かせてくれや、神山本太郎署長はその電話を聞いたらしいんやけど。わてはまだ聞いていないんやで」
「よろしい。その電話を再生するでごじゃる」
江尻伸吾は神山本太郎二号の前に行くとスイッチを操作しはじめた。
「いいでごじゃるか、不審な電話を再生するでごじゃるよ」
スイッチを入れるとハンカチで口を覆ったようなくぐもった声が神山本太郎二号から聞こえてきた。
「まだ、私が誰だかわからないのかね。今度、十月十一日に君らを驚かせることが起こるだろう。せいぜい警備をしっかりすることだな。うわははははは」
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(小見出し)誰もいなくなった校舎の端のところに音楽室はある。校舎の中に誰もいないのではなくて音楽室が校舎の端にあるから誰も来ないのだ。まるで病院の廊下のような音楽室へ行く廊下の天井の照明は消されていて、薄暗い。吉澤ひとみが音楽室の中に入ると教室の横に置いてあるドラムの金属の光沢が目に入った。教室の前方の黒板の横には今度来日予定の音楽家のポスターがコルクの壁に画鋲でとめてある。強制的に行かせるというわけではないが、音楽の教師がそれの関係者とのつながりからその公演のポスターを貼っているのだ。吉澤ひとみはそこに行こうという気はなかったのだが、ちらりと見たそのポスターに記憶があってその内容を確かめに来たのだ。だいだい色と黒の二色で刷られたポスターだった。掲示板のところに少し斜めに貼ってあるポスターを見ると,たしかにお目当てのものはある。クリストフ、ルカッチ、チェロ演奏会、場所は喜多野公会堂、二千年十月二日から十月二十一日という公演の内容が書かれている。それは下谷洋子の手帳の謎と一致している。犬の殺害事件に関して、その調査に現れた下谷洋子が特別の日として予告しているのが十月十一日である。大阪府警ではその十月十一日という犯行予告の日が指定されても誰にもその日が何を意味しているかわからなかった。江尻伸吾は村上弘明と吉澤ひとみの二人を自分のワゴン車に乗せて神戸港に来ていた。少し高台になっている場所に車を停めているので神戸港が一望できる。港の中に泊まっている外国汽船のライトが点滅している。江尻伸吾の乗っているワゴン車にはコーヒーサーバーも積み込まれているが、紅茶も飲めるようになっている。江尻伸吾は二人に紅茶を差し出した。港の風景に目を奪われていた二人は背後から江尻伸吾が紅茶の入ったカップを差し出すまで気がつかなかった。
「紅茶が入ったでがんす」
「ありがとう」
「何に心を奪われていたでがんすかな」
「兄貴、そんなぼんやりした顔をしていた」
村上弘明と同じように港の景色に心を奪われていた吉澤ひとみは自分の兄のその最近の変化には少しも気付いていないようだった。
「うそつけ、この風景があんまり、きれいだったからだよ」
「うそ、つくな。何か、あるんだよ、兄貴、白状しな」
江尻伸吾は一人、悟りきった坊さんのように紅茶をすすっている。しかし、うれしいことがあると人に言いたくなるものである。
「昔の憧れの君に出会ってね」
「どこで」
吉澤ひとみはひどく興味を持ったのか、顔を伸ばして村上弘明に聞いてきた。しかし、江尻伸吾はどこから持って来たのか、プリンを手に持ってスプーンでしゃくって、食べている。
「だめ、教えなきゃ」
「君にも、知らない、わが、青春の日々があるわけだよ」
「もう、兄貴の、いじわる」
江尻伸吾は一個目のプリンを食べ終わって舌を伸ばしてその底をなめていた。兄弟げんかをやり始めないとも限らないので江尻伸吾はあわてて話題を変えた。彼自身もプリンを食べ終えてほっとしたのかも知れない。
「あざみの塔にかかってきた電話はいたずらではないとミーは思うでごじゃる。」
「わたしもそう思うわ」
「ありがとうでごじゃる。それがなぜ、いたずらではないかと思うかと言えばでごじゃる。下谷洋子が残したと言われる手帳の暗号を解読した結果、犯行予告の日と手帳に書かれている日が一致しているからでごじゃる」
「その電話が犯人、もしくはただのいたずらではないということは、クリストフ、ルカッチの喜多野公会堂での公演と一致しているということ以上に重要な部分があるのですね」
「そうでごじゃる。ミーは知らなかったでごじゃるが、クリストフ、ルカッチはいつも公演を行うときは自分の十二匹の犬をどこに行くにもつれて行くという話でごじゃる。公演会場にもつれて行くという話でごじゃる」
「犯人はその犬を狙っているのに違いないわ」
「そうすると、その犬たちを守るのは比較的簡単でごじゃる。ミーが調べたところによると公演会場でいつもクリストフ、ルカッチは自分の犬たちを待たせておく部屋を確保しておくように興業主に契約として入れておくようでござる。だから、その部屋を監視しておけばいいでごじゃる」
「警察の応援も頼むんですか」
「ひとみ殿は大阪府警の中でのミーの立場を知らなさすぎでごじゃる。そんなことを言っても笑われるだけでごじゃる。もっと悪い状態を想定すれば、ミーの犯罪捜査研究所は閉鎖されて、ミーはどこかにとばされるかも知れないでごじゃる」
「じゃあ、われわれ三人で犬たちの護衛をするということですか」
「そういうことでごじゃる」
「わたしには新聞部の友達がいるの。信用できるわ。松村邦洋と滝沢秀明というんだけど、同じ高校生よ」
「うーん、むずかしい問題でごじゃる。しかし吉澤ひとみ氏が信用するというなら、その御仁にも協力を頼むでがんす」
「そうなら明日にでも学校で二人に事情を説明するわ」
十月十一日の朝がやってきた。村上弘明が吉澤ひとみと松村邦洋、滝沢秀明の二人を車に乗せて、喜多野公会堂の従業員入り口のところにやってくると、すでに江尻伸吾はやって来ていて、そこで待っていた。赤煉瓦の壁に古ぼけた鉄製のドアがついていてそこが従業員の入り口だった。その入り口のところには二段くらいの階段があってその階段の上がったころに江尻伸吾は頭から巨大なヘッドフォンをかぶってしきりに頭を左右に振っている。従業員入り口といってもそこから出演者が出入りするわけではなく、大きな楽器や舞台装置も出し入れする関係から出演者の出入り口は別にあった。世界的なチェロ奏者クリストロフ、ルカッチとその犬たちもそこから喜多野公会堂の中に入ったらしかった。
「もう、すでに、クリストロフ、ルカッチはこの中にいて、リハーサルをやっているでごじゃる」
静かな弦楽器の響きが建物の中からもれて来る。
「クリストロフ、ルカッチ氏を見たんですか」
松村邦洋が江尻伸吾を見ながら聞いた。
「見たでごじゃる。たくさんの犬たちと一緒に入って来たでござんす。そうそう忘れていたでござんす。特別な身分証明書を、報道機関の証明書を作っておいたでごさんす。みんな、これを持って欲しいでござんす。これがあればこの公会堂の中ではどこでも入って行けるでござんす」
「肝心の彼の犬たちの部屋は」
「この入り口から入ってすぐ左側の部屋でござんす。プロモーターと話をつけてあっしがその犬の面倒をクリストロフ、ルカッチが演奏をしているあいだ、見ることになっているでござんす。だから、その部屋に二人ばかり、かかりきりで犬の監視を続けていれば、犬殺しの魔の手から犬たちを守ることはできるでござんす」
「その係りは僕たち二人がやりましょう」
吉澤ひとみがつれて来た二人の新聞部員が名乗り出た。
「それならそれを頼むでござんす。犬たちは全部で十二匹いるでござんす。あっしがその部屋につれて行きゃしょう。犬の世話をそのするためのものはその部屋の中に全部、用意されているでござんす」
「観客の入場は何時からなんですか」
「十時四十五分からでござんす」
「江尻さん、じゃあ、わたし、公会堂の中を見て回って来る」
「私もこの中に不審な人間がいないか、見てまわりましょう。地下室なんかにも行けるんですよね」
「もちろんでござんす」
吉澤ひとみは前に一度、この公会堂にある劇団を見に来たことがあったが従業員の入り口からここに入ったのは初めてだった。天井には太い冷暖房の管がはしっている。細い管は電気系統の管かもしれない。無造作に白いペンキで道順などが壁に書かれている。その天井の管に沿って歩いていくと、左側から上に登っていける階段がいくつもある。特別に江尻伸吾の捜査がここで行われているということは、この公会堂の中の人間は誰も知らないから、いつものように静かである。この廊下を歩いていると一つの階段の下からビロードのような調べが聞こえてくる。吉澤ひとみはその階段をあがっていった。階段を上がりきるとその音はさらに大きくなった。上がった場所は廊下には絨毯が張られ、部屋には立派なドアがついている。そこから、音がもれていたのだ。吉澤ひとみにも察しがついた。クリストロフ、ルカッチは舞台の上でリハーサルをする前に自分の控え室で楽器の調子を整えているのだろう。短い小節をとぎれとぎれに繰り返しているだけなのだが、吉澤ひとみはその音にすっかりと耳を奪われていた。するとが外国人らしい老年といってもいい女性が吉澤ひとみの横に立っていて、聞いたこともない外国語で二言三言、はなしかけて来たので、彼女は自分でも、なんと言ったのか、憶えていない言葉を言って、あとずさりをした。するとその女性はほほえんで、そのドアをあけて入って行った。その女性がどうやらクリストロフ、ルカッチ夫人らしい。その部屋の中では楽器の響きがとだえて、話し声が聞こえた。あわてて吉澤ひとみはその場所を離れた。吉澤ひとみは今度はその廊下をさらに行き、下に降りていく階段の先に進むとホールの前の談話室のようなところに出た。そこには観葉植物がところどころに置かれていて、そのそばにはソファーもあった。少し離れた場所に売店がおいてあり、その従業員が不審な顔をしているので、これは自分が入場客であり、開演前に入って来たのだと勘違いしているのかしらと思ったから、そのそばに行き、自分の報道機関用の身分証明書を見せると納得した。
「今、ここで演奏会を開いている音楽家の人はいつも犬をつれ歩いているんですって」
「そうよ。十二匹の犬をつれあるいているの」
「今日は休日だから早めにお客さんが入ってくるかもしれない」
「忙しくなるかもね」
「そうでもないんですよ」
「この期間中、何か、おもしろいうわさとか聞きませんでしたか」
「うわさってどんなもの」
「なんでもいいんです」
「いえ、別に何も聞いていません」
「あら、今、何時かしら、もうすぐ十時四十五分じゃない、客の入って来る時間だわ」
吉澤ひとみはその場所を離れた。入場口から客が入ってくる時間だったからだ。客は正面の出入り口からしか入って来ない。ものかげから隠れて入って来る客を観察しようと吉澤ひとみは思っていた。正面入り口のそばに行くと吉澤ひとみの目的にかなった場所が見つかった。そこに隠れて正面入り口の方を見ているとガラス戸の向こうの方にこれから入ろうとする客が並んでいる。十時四十五分になると係員が正面入り口のドアをあけ、いっせいに客が入り始めた。その客たちを見ていても、その中に犬の殺害目的で入って来る人間がいるか、吉澤ひとみにはわからなかった。肩口のあたりで吉澤ひとみは声をかけられて、振り返った。
「吉澤さんやない。こんなところで何をしているんや」
「あら、深見さんじゃない。あなたこそ、ここになぜいるのよ」
「演奏会に来たんやないの。チェロの演奏を聴きに来たのよ」
吉澤ひとみを驚かせたのは、同じ高校に通う漫画を描くことを趣味にしている深見美智子だった。彼女は自分の飼っている犬に関係して、彼女の家にインチキ商品を売りつけに来た下谷洋子というセールスマンのことで相談に来た女の子だった。もちろん、彼女は江尻伸吾が解読した下谷洋子の手帳の内容から、この十月十一日が特別な意味をもっていて、あざみの塔にかかってきた脅迫電話が犬の殺害の日をその日に指定していること、手帳に喜多野公会堂のことが書かれていることによって、江尻伸吾がやまをかけて、この日、この場所、つまり喜多野公会堂のクリストロフ、ルカッチの演奏会の会場で、つねに十二匹の犬をつれ歩いているという、彼の飼い犬が殺されると判断したのだった。もちろん、深見美智子はそのことを知らないだろう。
「なんで、ここにいるかって、音楽の阿久津先生に券を無理矢理に買わされたのや」
「また、なんで、深見さんは音楽会へ行くことを趣味にしているとは聞いたことがないけど」
「今度、描く漫画のためや、今度、大阪で漫画の自主出版の大規模なフェスティバルが開かれるやろ、そこで売る漫画の主人公を音楽家に設定しているんや、それで、音楽の阿久津先生に相談したら、音楽会ぐらい聴きに行かなきゃだめだと言われて、阿久津先生が知り合いの音楽家からこの演奏会のチケットをゆずってくれたというわけや」
「そうなの」
「そういう、吉澤さんはなんでここにいるんや」
「学校新聞でクリストロフ、ルカッチのことを取り上げようと思って」
吉澤ひとみは口から出任せを言った。
「そうなんや」
「だから、松村邦洋くんも、滝沢秀明くんもここに来ているのよ。どっかにいると思うんだけど。深見さんの席はどこなの」
「右側の前から三番目の席、Tの三番よ。吉澤さんの席は」
「私は取材に来ただけだから、チケットは取っていないの」
「学校新聞にわたしの演奏会の視聴記をのせてちょうだいよ。イラストも少し描かせてもらうわ」
「ありがとう」
吉澤ひとみが深見美智子と話しているあいだ客はすっかり演奏会場の方に入ってしまい、正面入り口から入って来る客もまばらになった。吉澤ひとみがクリストロフ、ルカッチの犬を預かっているという部屋のドアを細めにあけると、松村邦洋があわてて手を振った。
「だめだめ、しめて、しめて、早く、部屋の中に入って」
部屋の片隅に毛糸玉のようなものが固まっている。松村邦洋と滝沢秀明のまわりに十二匹の小型犬がまとわりついている。ポラネシアンだ。水木しげるの漫画に出て来る毛玉という妖怪のように見える。二人の間にまとわりついているのも、もっともで二人の手には乾燥肉が握られていた。えさで動物をつろうという魂胆である。いくら動物が馬鹿であると言っても、犬が満腹になってもこの方法が使えるのだろうか。
「そんなにえさを食べさせて平気なの。おなかでもこわして死んでしまったら、警戒している意味は全くないわよ。動物は馬鹿だから、えさをあげればいくらでも食べるけど」
「江尻さんが、えさをあげていれば、静かにしているって言ったのや」
「そんなことよりドアのところに金網でも張っておいた方がいいんじゃないかしら。ほら、そこに金網があるわ。江尻さんは」
「公会堂の中を見てまわると言って出て行ったわ」
「兄貴は」
「ああ、村上弘明さんも出て行ったわ」
松村邦洋が犬の頭をなでながら言った。村上弘明は舞台の上のカーテンの陰から観客席の方を見ていた。演奏が始まる前、プログラムをめくるかすかな音が聞こえる。ここで客席を監視することが不審人物を発見する一番効果的な方法ではないかと村上弘明は判断したのだ。江尻伸吾はどう思っているのか、わからない、江尻伸吾は江尻伸吾でどこかで不審者を発見しようとして、公会堂の中を動き回っているのだろう。村上弘明は江尻伸吾から犯罪捜査のための道具を借りていた。それは外科手術のための機器を改良したもので、数ミリの隙間から百五十度の視野で部屋の内部を観察する装置だった。舞台の裏の壁にうまい具合に穴があいていてそこからその装置を使って観客席を見ることができた。もちろん、村上弘明にこの位置から見られているということを知っている観客は一人もいない。観客はそれぞれ、隣に座っているつれに向かって談笑したり、プログラムをぱらぱらとめくって出演者の経歴を参照したり、作品の背景を見たり、また、自分の持って来た本や新聞を読んだりしていた。そしてやることが何もない人間は目をつぶって黙想しているのか、寝ているのか、わからない。それらの観客たちを一人一人、目で追って行った村上弘明だつたが、そこに吉澤ひとみと同じ高校に通う深見美智子にも目がとまったが、彼女のことをすっかりと忘れていた。しかし、その目の動きもある一点ですっかりと止まってしまった。村上弘明の目はある人物に釘付けになってしまった。それは女性である。
「彼女、なんでここにいるんだ」
村上弘明を驚かせると同時に彼の表情をゆるませるのに充分な女性だった。
「志水桜さん」
村上弘明は心の中でつぶやいた。
「ぐふふふふふふ」
高校時代のときをへて十数年ぶりに再会した志水桜は村上弘明の心のオアシスだった。彼女が福原豪に関する重要な情報を与えてくれたというだけではない。岬美香に利用されていただけの自分に気づいたとき、神々しくあらわれた村上弘明の女神だったのだ。村上弘明は彼女のことを思うと幸せな気分になれるのだった。それは彼女との間の遠い昔の美しい、想い出を基盤にしていた。十数年ぶりに出会った彼女は昔のままに美しかった。さらにそのうえに大人の色気まで身につけていたのだ。
「ぐふふふふふ、結婚、結婚」
村上弘明のお気楽な空想はとどまるところを知らず、彼女との新婚生活まで、その人生設計に織り込んでいるのだった。そして、村上弘明は彼女がなぜ、ここにいるのか、考えることまで放棄していた。志水桜はその端正な横顔を村上弘明の視界に与えながら、プログラムに目を通している。とにかく、この演奏会が無事に終了したら、志水桜に声をかけようと村上弘明は思った。村上弘明がポメラニアンの宿に戻って来ると、江尻伸吾もそこに戻っていた。吉澤ひとみは自分の兄のふやけた顔の変化に気づいていた。
「どうしたのよ、兄貴、ふやけた顔をして」
「なんでもないよ」
「きっと、何か、うれしいことがあったんだわ。兄貴、白状しなさい」
犬たちと遊んでいた松村邦洋と滝沢秀明も村上弘明の方を振り向いた。村上弘明は隠しきれない内心の喜びを悟られては馬鹿にされると思ったのでわざとむずかしそうな顔をした。
「江尻さん、来ているんですよ。福原豪に関する情報提供者が、志水桜がこの演奏会の会場に来ているんです」
「川田定男が紹介したという、女性でござんすね。あっしも参考のためにあとで見に行くでござんす」
「わたしも行く」
吉澤ひとみがそう言うと村上弘明は複雑な表情をした。
「でも、なんで、ここに来ているんでござんすか」
「知らないですよ。ぐふふふ」
「あっ、そうだ。知っていた。クリストフ、ルカッチって、演奏会に犬だけをつれて来るんじゃないのね。奥さんもつれてくるみたいね」
「なんで」
「クリストフ、ルカッチの奥さんを見たのよ、チェロの美しい響きが聞こえて来たから、その場所に行ったら、控え室の中でクリストフ、ルカッチがリハーサルをしていたの、そこに外国の女の人が来て、その部屋に入って行ったから、あれが彼の奥さんなんじゃないかな」
「初耳でござんす」
「あっ、僕、そのことを知っていますよ」
クリストフ、ルカッチの奥さんって彼のマネージャーもやっているんですよね。ハンガリーの動乱のとき、彼が外国に脱出するときの援助もしたんでしょう。音楽ファンなら常識らしいですよ」
「初耳でござんす」
そういうことに疎い江尻伸吾は驚いた様子だった。
「あっ、そうだ。忘れていた。松村くん、深見美智子さんもこの演奏会に来ているのよ。音楽の阿久津先生に聴きに来るように言われたんですって、今度、描く漫画の参考にするんですって」
「深見さんも来ているの」
「偶然の一致だとしたらおもしろいなあ」
松村邦洋はポメラニアンの喉仏のあたりをさすっていた。
「ずいぶん、その犬たちも君たちになついているみたいね。乾燥肉を大部、やったみたいじゃないの」
「それほど、やっていないよ。僕たちの気持ちが伝わったんだよ。なぁ、滝沢」
「でも、あなたたちが動物を可愛がっているのをあまり見たことがないんだけど、きっと飼い主だと思わず、自分の仲間だと思っているんじゃないの」
「ひどいなぁ、吉澤さんは、お兄さんからも何か、言ってくださいよ」
「せっかく、S高のマドンナとか、言って持ち上げてくれる友達なんだから、もっと優しい言葉をかけてあげなさい」
「やだわ、いつも顔を合わせているクラスメートなのに、そんなことを言われたら、気持ち悪いでしょう。滝沢くんもそう思うでしょう」
「僕はそうでもないけど」
「とにかく、あっしの思うところ、この犬たちの毛一本、けがをさせず、この犬を殺害しようとする犯人をつかまえることでござんす」
「江尻さんは怪しい人物を見つけましたか」
「皆目」
「この場所ではなく、クリストフ、ルカッチが帰路につくときに摩の手が伸びるのかもしれませんね」
そのとき、ポメラニアンの館のドアをたたく音が聞こえた。
「誰でござんすか」
「深見美智子です。吉澤ひとみさんと同じ高校に通っています。吉澤ひとみさんがここにいると聞いたので来たんですが」
「深見美智子さんだわ。今、あけます」
ドアを細めにあけると、深見美智子が中に入って来た。深見美智子の家も犬を飼っていたので、たくさんの犬がいるのを見て、深見美智子も嬌声をあげた。
「まあ、可愛い。誰の犬」
「クリストフ、ルカッチの飼っている犬よ、」
彼女もそのことを知らなかった。しかし、本当の犬好きということを、ポメラニアンたちもわかるのか、深見美智子が部屋の中に入って行くと、犬たちもうれしそうに吠えたてた。深見美智子は犬たちのそばに行くと腰をかがめて犬たちの首をさすった。乾燥肉を差し出さなくても子犬たちは深見美智子にじゃれついた。腰をかがめていた深見美智子は首を吉澤ひとみの方に向けて、彼女の顔を仰ぎ見た。
「忘れていた。忘れていた。大切なことを言うのを忘れていたわ。吉澤さん、来ているのや、来ているのや」
「誰が」
「下谷洋子や、客席の中で見かけたのや、向こうも気づかなかったみたいやから、吉澤さんに報告に来たんや、吉澤さんは下谷洋子の顔を見たことないやろ」
「下谷洋子って」
「なんや、もう忘れたのか、犬のいんちき器具の訪問販売員や、彼女の手帳の写しを渡したやないか、ちょっと男好きの顔をしているから、美人だと言う男もいるかも知れないやで」
「えっ、下谷洋子もこの場所に来ているのか」
村上弘明は興味津々な内心をけどられないようにわざと声を沈めて聞いた。
  ウーウーウー
そのときけたたましいサイレンの音が鳴り響き、廊下の側から火事だあ、火事だあ、といさけび声が聞こえた。江尻伸吾があわててドアをあけると、廊下は煙でもうもうとしている。ドアには金網が張ってあったので子犬たちが逃げ出すことはなかったが、突然の騒ぎにびっくりしたのか、きゃんきゃんと吠えたてた。廊下に充満した煙の中から、この公会堂の責任者がかけてくる。
「みなさん、心配しないでください、これは火事ではありません、ボイラー室の故障で冷凍庫の中のドライアイスが大量の煙を発生している模様です。ご心配なく、みなさん、落ち着いてください」
「ドライアイスの故障でこんなに廊下が煙りだらけになるなんてことがあるでしょうか、江尻さん」
「あっしもそう思うでござんす」
また煙の中から誰かが、叫びながら走ってくる。
「江尻さん、大変です。大変です。大変です」
その男は廊下に立っている江尻伸吾の方へ向かって、走ってくる。その後ろには意味不明の外国語をしゃべりながら外国の夫人がついて来た。
「桝沢さん、落ち着いてくれでござんす。
何があったでござんすか」
「クリストフ、ルカッチ氏の犬が、クリストロフ、ルカッチ氏の犬が」
男は息を切らして言葉が続かないようだった。村上弘明も、この男がクリストロフ、ルカッチの通訳だということを思い出した。
「クリストフ、ルカッチ氏の犬がどうしたでござんすか、犬は十二匹全部、ここにいるでござんすよ」
「そうでないです」
後ろにいる外国夫人も通訳に負けずおとらずおろおろしている。
「ここにいるのが、はあ、はあ、クリストロフ、ルカッチ氏の夫人なんですが、最近生まれた子犬を一匹だけ、つねに手元に置いて可愛がっていたんです。はあ、はあ」
「じゃあ、犬は全部で十三匹いたんですか」
「そうなんです、それでその一番、可愛がっている犬が、黒服面をした男が突然入って来て来て、その犬を夫人から奪いさって、公会堂の時計台に上がって行く階段を上っていったんです。上がって行く途中で、ドアにかぎをかけちゃったんです」
「吉澤殿」
「江尻さん、鍵は全部、預かっていますよね」
「もちろんでござんす。ひとみ殿とお友達はここに残って、残りの犬たちを守っていて欲しいでござんす。あっしと吉澤殿は賊を追って公会堂の屋上に上がるでござんす」
公会堂のちょうど中央のところにこの喜多野公会堂の屋上へ、さらに屋上にある時計台の最上部までのぼることができる階段があった。江尻伸吾はその階段の入り口まで行くと非常入り口のドアには鍵がかかっていなかった。
「おかしいでござんす、通訳は賊は鍵をかけて屋上に上って行ったと言っていたでござんすが、まあ、いい、とにかく、急ぐでがんす」
江尻伸吾は後ろを振り向くと、村上弘明のほかにもう一人人間がいる。深見美智子だ。
「わてもついて行かせてもらうで、漫画の題材に出来るやないか、よろしいやろ」
「あっしたちから、充分、離れているでござんす、何があるのか、わからないでござんすから」
非常階段をかけあがって行くと村上弘明の息は切れた。週に一度、ランニングをおこなっている村上弘明ではあったが、こんなことなら、もっと体力を鍛えておけばよかったと思うのだった。それでも屋上に出る出口が見えたとき、青空の中に人影が見えたので、村上弘明はびっくりした。
「なんで、なんで、あの人がここにいるんだ」
「吉澤殿、どうしたでござるか」
「あそこに、あそこに、出口に立ってい人」
「誰なんでござんすか」
「想い出のマドンナ、そして福原豪の情報提供者の志水桜です」
志水桜は時計台の方をじっと見ている。時計台の中程のところには黒い人影が小さな子犬の首輪に手をかけてこちらを見ている。
「来るな、来ると、この子犬を殺すぞ」
男は大声で叫んだ。江尻伸吾と村上弘明から遅れて深見美智子もふたりのところにかけつけて来た。そして屋上への出口に立っている人影をみつけると叫び声をあげた。
「江尻さん、江尻さん、あれや、あれや、あれが、犬のインチキ、販売員、下谷洋子なんだ」
「えっ」
村上弘明は絶句した。すると階段にしかけられていたらしい発煙筒が点火され、階段に煙りがみち始めた。村上弘明はさらに階段をかけのぼり、犯人と対峙している下谷洋子であり、志水桜である女性のところに行った。
煙の中で志水桜はその端正な顔を村上弘明の方へ向けた。深見美智子が男好きのするちょっと可愛いぐらいの女と言ったのは同性のねたみかも知れなかった。
「きみは一体、誰なんだ」
村上弘明は志水桜に詰問すると彼女の襟首をつかんだ。村上弘明が押している手は力があまって滑ると彼女の襟のボタンをはじき飛ばして、彼女の鎖骨のあたりがあらわになった。そこには伝説のフリーライター、神に指名された審判官の証、天秤のあざがあったのである。
******************************************************************************
(小見出し)幼なじみ
「誤解しないでちょうだい。クリストフ、ルカッチ氏の犬を殺害しようとしているのはあの男よ」
志水桜は村上弘明の腕をふり払った。そのとき、屋上にしかけられていた爆発物がふたたび爆発して屋上は煙で充満した。
「油断していたでござる。こんなに周到に用意されていたとは予想もしなかったでござる」
煙の向こうから
「近寄るな、近寄ると、この犬を殺すぞ」
狂ったようなさけび声が聞こえ、煙がとぎれたあいだから子犬をナイフで刺し殺そうとしている犯人の姿が見えた。村上弘明がそばを見ると志水桜の姿はなかった。また煙があたりに充満して犯人の姿は見えなくなった。ハンケチで口をおさえながら江尻伸吾と村上弘明、深見美智子の三人は犯人のナイフを恐れながら、時計台のそばに近寄って行くと、子犬の吠える声が聞こえて、クリストロフ、ルカッチの秘蔵の愛犬が走り寄って来た。深見美智子はその犬を抱き上げた。やがて煙がとだえて時計台の下が視界に入るとそこには一人の男が立っていた。胸にはナイフが突き刺さっている。そして上がってくるときには気づかなかったが、時計台の下のところから非常用の避難のためのコースターがついていて、そこから地上に降りられるようになっていた。煙がすっかりはれると、志水桜の姿はすでになくなっていた。このできごとがあってから週に一度くらいあった大阪府内の犬の虐殺事件はすっかりとかげをひそめた。クリストフ、ルカッチ氏はこうして自分たちの愛犬を守ってくれた労をねぎらうために、大阪でも有名なイタリア料理店に予約をとって、日本を離れて行った。ナイフを胸にさされて殺されていた犯人は栗毛百次郎だった。大阪府警は栗毛百次郎の住んでいる逆さの木葬儀場の家宅捜査をおこない、栗毛百次郎のかずかずの犯罪の証拠を押収した。犬を殺害したと思われる凶器は発見され、また彼が女子高生たちを狙っておこしていたいくつかの犯罪もあきらかになった。吉澤ひとみは変わった色に揚げられた海老をナイフで切り分けると、村上弘明の方を見た。
「でも、意外だったわね。川田定男が女だったなんて、そのうえ、兄貴の幼なじみだったなんて」
「幼なじみじゃない、高校時代のマドンナだ」
村上弘明は憮然とした表情をした。志水桜と再会した村上弘明は彼女との結婚まで思い描いていたのだ。その幸福な未来の設計図はすっかりと、破れてしまった。
「でも、本当に栗毛百次郎が犬殺しの犯人だったのかしら」
「そうに違いないでござる。逆さの木葬儀場からあんなにたくさんの証拠が発見されたのでごじゃるからのう」
「じゃあ、江尻さんは、栗毛百次郎が犯人だと確信しているの」
「ひとみ殿、こういう、パラドックスを知っているでござるでごじゃるか、すべてのクレタ人はうそつきだとクレタ人が言った。つまり栗毛百次郎が犯人であり、また、犯人ではないとも言えるのでごじゃる。栗の木市で起きている女子高生に対する、のぞきなんかのいかがわしい事件、犬を殺すなどという脅迫状、それらは栗毛百次郎がやったかも知れないでごじゃります。しかし、実際に犬を虐殺したかどうかということになるとかなり疑問が生ずるのでごじゃる」
「江尻さん、わたしにも、疑問が残るのですが、なぜ、喜多野公会堂にあんな大がかりな爆発物の準備がなされていたのでしょう」
「それは、あの時間、あの場所を混乱させるためではないかしら」
「ひとみ殿、ある音響メーカーがこんなものを発明したでごじゃります。まだ市販はされていないでごじゃるが」
そう言って江尻伸吾はガリレオが発明した望遠鏡のようなものを取り出した。安物の双眼鏡のような大きさである。
「江尻さん、それはなんですか」
「どんなスクリーンにも正しい形で映像を映す機械でごじゃります。これが、あの公会堂の屋上の隠れた場所にとりつけてあったのでごじゃります」
「じゃあ、煙を大量にたいたというのは煙をスクリーンがわりに使ったといわけですか、それでわたしたちにあの場面のある部分は幻影を見せて混乱させたと」
「そうでごじゃります」
「志水桜さんはなぜ、あの場所からいなくなったと思いますか、どうやっていなくなったのでしょか」
「時計台の下に非常避難用のコースターがあったでごじゃる、あれを使ったとしか考えられないでごじゃる。弘明殿、あなたさまはまだ、志水桜殿のことを愛しているでごじゃるか」
「そんなことを急に言われても」
「兄貴、照れずに白状するのよ」
「もちろん、高校時代のマドンナですから」
「こんなものが送られて来たでごじゃる。川田定男、こと、志水桜からでごじゃる」
「なに、写真じゃない」
その写真をとりあげた吉澤ひとみは急に悲鳴をあげた。
「そのものずばりじゃない」
「そのものずばりでごじゃります」
その写真は気味の悪いものだった。そして冷徹な事実そのものだった。青白い若者がナイフを持って犬の首を切り離そうとしている。手は血だらけになり、頬のあたりに血がついた若者が薄気味悪くほほえんで、こちら見ている。
「これは、福原豪の一人息子の福原一馬じゃないですか」
村上弘明は福原一馬の顔を知っていた。K病院のゴミ捨て場でも見たし、そのあとで別の写真でも見たことがある。
「じゃあ、江尻さんは、福原一馬が犬殺しの犯人だと確信しているのですね。じゃあ、なぜ、福原一馬を捜査せずに、栗毛百次郎を犯人であるかのような扱いをしているのですか」
「大阪府警も証拠つかめないでごじゃる。こうやって栗毛百次郎が犯人であると思っているふりをすれば、福原一族も油断をするでごじゃる」
そこへ長身の外人が近づいて来た。そして彼は江尻伸吾の隣の椅子を勝手にひくと、そこに座った。すぐにウエーターに料理の注文を外国なまりの日本語で告げた。
「紹介するでごじゃります。今、日本に来日中のマイケル、クランプトン氏でごじゃります」
「ハウ、ドュ、ドウ、ミスター江尻に紹介された、マイケル、クランプトン、です。どうぞ、よろしく」
「マイケル、クランプトン氏は**に勤めているでごじゃります」
吉澤ひとみも知っている外国の証券会社の名前をあげた。
「彼には本山神太郎二号の改良を頼んだでごじゃります」
「どんな改良を頼んだのですか」
「本山神太郎を使って、大阪府内の銀行の金の振り込みをすべて調べられるようにしたのでごじゃる」
「マイケル、栗毛百次郎の通帳にふりこまれた金がどこから流れこんだのか、わかったでごじゃるか」
「ミスター、江尻、わかったよ。恵比寿建設というところだよ」
「恵比寿建設というのは、福原豪の経営している建設会社じゃない」
「そうでごじゃります」
「じゃあ、これで、犬殺しの犯人は、福原一馬に決定ね。あとは証拠を固めるだけ」
「そうでごじゃる。そう思って、福原豪の一家には大阪府警から尾行をつけているでごじゃります」
そのとき江尻伸吾の携帯電話が鳴った。村上弘明も吉澤ひとみも自分の携帯を取り出して耳につけた。江尻伸吾が二人の電話に改良を加えて、江尻伸吾のところにかかってきた電話はすべて聞かれるようにしておいたのである。
「江尻課長、大変です。福原親子が小型飛行機に乗って、大阪湾の上空を飛んでいるとき、空中爆発をしてふたりとも死んでしまいました。」
「なにをやっているのでごじゃりますか。なんで、福原親子をどこまでも追って行かなかったのでごじゃりますか」
「そんなことを言ったってそこまでできるほど大阪府警は予算をもらっていないです」
「いいでごじゃります。それでふたりの死亡は完全に確認されたのでごじゃりますか」
「海上にただよっている二人の死体を確認しました」
「これで松田政男の事件は完全に迷宮入りね」
吉澤ひとみがつぶやいた。
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吉澤ひとみは明日の学校の宿題をやろうと思って自分の机に座って日本史の教科書を読んでいたが、古本屋で買ってきた雑誌を机の上にひろげてちらちらと眺めた。日本史の中でも現代史のところで、調べたい項目があって、そのことが書いてある二十年ぐらい前の雑誌を古本屋でみつけたのでむだにはならないだろうと思って、その雑誌を買ったのである。その雑誌の中に執筆者の顔写真がのっていて、その古ぼけて紙の質までおかしくなってしまった雑誌のなかを見ているとき思わず、ちらりと目をとめた。その顔写真の中の一人がどこかで見たことがあるような気がしたからである。しかし、教科書を広げていた時点で充分、眠気にさそわれていたから、吉澤ひとみはそのまま服を脱いでベッドにもぐりこもうと思った。上着の第一ボタンをはずしたところで食堂の電話がなり始めた。吉澤ひとみはそのまま、食堂へと行った。
「なんだ、兄貴、電話に出ればいいのに」
スリッパをつっかけて電話をとると、相手が出てきた。
「吉澤さんのお宅かな」
「どなたですか」
「K病院に入っている沼田です」
電話をかけてきたのは精神異常者の沼田だった。しかし、いつものあの凶人特有のうわついた声の調子はなく、声が落ち着いている。
「村上弘明さんに代わってもらえますか。話したいことがあります」
「ちょっと待ってください。今、兄を呼んで来ますから」
吉澤ひとみは電話の受話器を置くと、村上弘明を呼びにリヴィングへ行った。村上弘明はソファーにもたれかかって居眠りをしている。
吉澤ひとみは彼をゆり起こした。
「兄貴、電話よ、電話。あのK病院の大沼よ。兄貴に何か、大事な用件があるみたい。早く、起きてよ。いつもと様子がちょっと違うよ」
「なんだよ、こんな夜中に、誰から電話なんだよ」
「大沼、あのK病院のか」
村上弘明は急に眠気がさめたのか、眠っていたソファーからとび起きると電話口に行った。吉澤ひとみが食堂にいる村上弘明を無言で見つめていると、村上弘明はときどき合いの手を入れてうなずいたりするが、ほとんど無言だった。
「じゃあ、そういうことで」
村上弘明はそう言うと受話器をがちゃりと置いた。吉澤ひとみはソファーに腰掛けながら、村上弘明が戻って来るのを待っていた。
「兄貴、なんだって」
「あさって、K病院に来てくれと言う話だ。自分の知っていることは全部、話すと言っている」
「いつもと、あの大沼は調子が違っていたわ」
「ひとみもそう思うか」
「うん、まるでふつうの人みたいだった」
「一体、どんなことを話すと言うんだろう」
「兄貴、福原豪が死んでから、あの病院の経営権はちゅうぶらりんになっていて、どこかの会社がその権利を買うという噂じゃない」
「どこの会社があの建物をゆずりうけるの。もう市役所の管理ではなくなるんでしょう」
「今までもほとんど、病院としては機能していなかったんだからな、仕方がないさ、全くの私的な建物とあそこがなったら、そう簡単にはあの中に入ることはできなくなるさ、どこの誰があの建物を買うのか、江尻伸吾さんでも全く、わからずじまいなんだ」
「大沼さんも、あそこを追い出されるというわけ」
「そう、最後の入院患者としてあそこを出て行くわけだ」
「あの病院がなくなると、警察署に死体安置所を作らなければならなくなるのね」
「あの病院にしか、死体安置所はないわけだからな」
すでに村上弘明がK病院のことを調べはじめてから三人の人間が死んでいるというのに、次の日のテレビ局の仕事はのどかな企画だった。アイドルが奈良にある古寺を訪ねるというもので、最近、テレビに出始めている女性を起用していた。その寺のしおり戸をあけると、楓の木立で囲まれた細道になっていて、道の両側の木の根本には村上弘明が名前も知らないような草がはえている。細い葉を何百もたばねてかつらのような草の束がいくつも並んでいる。
「見て、見て、この墓、ちょっと形が変わっているわよ、吉澤さん来てよ」
村上弘明がそこの墓に行くと、確かに変わった形をしていた。この寺の案内を買って出ている僧侶が横から口を出した。
「太鼓橋を作った人物の墓ですよ」
「太鼓橋というと」
「太鼓みたいな形をしている橋だから太鼓橋と言います」
「太鼓橋って、ここの本堂のある山と毘沙門堂のある山を結んでいる橋です」
「その橋で、絵になるから撮影をすると言っていたわよ」
「その橋は明治になってから作られたんですよ、江戸時代には小さな山でしたが、坂をくだって、また、坂をのぼって、そこに行かなければなりませんでした」
そのあとでその僧侶はその橋の来歴をくどくどと説明した。しかし、村上弘明には寺の中堂から出ている渡り廊下がイタリアにある橋の上の市のようになっていて、その上、そこが無想窓ではなく、武者窓になっていることに興味をひかれた。しかし、太鼓橋のところに彼女と来て、撮影をはじめても、大沼のことが気になっていた。そんなふうに、本来なら気晴らしになるような仕事だったが、村上弘明にとっては少しも気が晴れない一日だった。日芸テレビに戻って、テレビ局の中の食堂でご飯がぱさぱさしたカレーライスを食べているとお尻のポケットに入れておいた携帯電話が急に鳴りだした。
「村上弘明殿でごじゃりますか。麻呂でごじゃります。江尻伸吾でごじゃります。大変でごじゃります。大沼が水死体で発見されたでごじゃります」
「本当ですか、場所は、場所は、すぐそこに行きます。場所はどこなんですか」
「武庫川が大阪湾に流れ込む河口付近の横に走っている運河のあたりで、大沼の水死体が水面に浮かんでいるのを河を行き来している運搬船の乗組員が見つけたのでごじゃる」
村上弘明がその場所に行くと江尻伸吾はそこにいた。場所は船を停泊させるためにひいた水路の川縁だった。航海や漁の安全をいのるための神社がたてられていて、その神社の中の大木の木陰が水路になっていて、その水路の中で大沼の死体が浮かんでいたらしい。場所がわかりにくい場所になっていたためか、野次馬もいなかった。
「河の上流から流されて来て、潮の満ち干で特異な水の流れが出来たためにこの水路に流されて来たのだろうと、ベテランの刑事は言っているでごじゃる」
「河の上流から流されて来たということしかわからないのですか」
「そうでごじゃる
「大沼からおととい、電話があったのです。自分の知っていることは全部、話すからK病院に来てくれと言っていました」
「なにを話すつもりだったのか、なにも、言わなかったのでごじゃるか」
「そうです」
「口封じで大沼は殺されたと、村上弘明殿は思うでごじゃるか」
「それしかないでしょう」
「そうすると、大沼は非常に重要ななにかを握っていたということになりますでごじゃる」
「栗田光陽や井川実、そして福原親子の死因についてはなにかわかったことはあるのですか」
「皆目、見当がつかないでごじゃります。なにぶん、神山本太郎二号を使ってもあまり古いことは出てこないでごじゃります。しかし」
「しかし、なんですか」
「大阪湾に墜落して死んだ福原一馬の死体解剖に関して、今、警察の鑑識だけでは、理解できない部分があり、その遺体の一部は大学の研究所に運ばれているでごじゃります」
「福原一馬はたんなる精神病なだけではないのですか」
「そうではないようでごじゃる」
「そうすると、精神病の新薬を開発していた松田政男になにか関係があるということですね」
「そうでごじゃる」
「大沼についてはなにもわからないのですか」
「そうでごじゃる。今、言ったように神山本太郎二号を使っても古いことはわからないでごじゃります」
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「ひとみ殿の手料理をごちそうになるなんて、思わなかったでごじゃる」
「江尻さん、好きなだけ食べてください」
村上弘明と江尻伸吾の前のテーブルの中央には餃子が山と積まれた大皿が置かれていた。
「餃子作りには自信があるの、皮も自分で作ったんだから」
江尻伸吾は大ぶりな餃子をさらに一個とると自分の小皿に入れた。
「餃子だけではあきると思ったからざぁさいも買って来たの」
大皿の横にはざあさいの小皿が置かれている。その横にはビールの中瓶が何本か置かれている。もちろん、江尻伸吾と村上弘明の目の前にはビールが置かれ、コップの中には泡が残っている。
「ひとみちゃん、テレビをつけて」
食堂には電話のほかにもテレビが置かれていた。吉澤ひとみがテレビのスイッチをいれると村上弘明がよく見ている番組が映った。テレビのブラウン管上には、赤や黄色や青色のペンキをぬった、ブリキ製のおもちゃが映しだされている。だいたいが昭和三十年代の頃に日本が外貨を稼ぐために作られたおもちゃだ。作られた当時は単なる子供が遊ぶための玩具だったが、コレクターが収集を始めたので価値が出てきた。自慢の宝を持って来て、それを自慢するという番組も成り立つわけである。司会者の横には町のおもちゃ屋の店主だという卵みたいな顔をした男が自慢のぶりきのおもちゃを持ってきていた。それはコック帽をかぶった豚の人形で豚は片手にフライパンを持っている。豚の前にはレンジが置いてあり、ぜんまいを巻くと、豚がうまく、フライパンを動かして、フライパンの中のハンバーグを空中に放りあげて、また、フライパンでとらえるというものだった。おもちゃ屋の店主がぜんまいを巻くと、その動作をぎこちはなかったが、確実にした。すると評論家がそのおもちゃの価値とか、どのくらいの数がコレクターの手にあるか、その当時の輸出はどうなっていたか、どんなところで作られたかを説明した。そのあとでそのおもちゃの値段がついて、司会者はせっかくテレビに出ているのだから、何かもし、親戚にでも話したいことはないかとたずねた。
「あの、昔のわたしの幼なじみで、大沼という男がいたんですが、その男から村上弘明という人にあげるようにとあずかっているんです。もし、テレビを見ている村上弘明さん、その品物をとりに来てください」
「あの、なんだ、村上弘明さんのことを言っているの、おとうさん、その人、日芸テレビのキャスターやないか」
村上弘明はすぐに関西テレビに電話をかけた。
「兄貴、思い出した。大沼さんの顔がのっている古雑誌を最近、買ったのよ、どこにやったか、憶えていないけど」
村上弘明、江尻伸吾、吉澤ひとみがおもちゃ屋の店主が待っているという古城という喫茶店に行くと、店主はフロアーの隅にかなぶんのようにちっちゃくなって、三人の来るのを待っていた。
「吉澤さんってテレビに出ている人だったんですね。まったく、知りませんでした」
「大沼さんとはどういう関係なんですか」
「小学校までの幼なじみなんですよ、戦前のことですが、それから大沼くんがなにをやつていたかは、少しも知らなかったんです。それがつい数ヶ月前、彼に再会しまして、たまたま、わたしの名前をどこかで見て、幼なじみだとわかったみたいですね。向こうから声をかけてきて、もし、自分が十月十八日までに連絡をすることがなかったら、村上弘明とう人にこれを渡してくれと言われて」
そういうと、おもちゃ屋の主人はその封筒を渡して、席を離れた。それは事務用のB5の封筒に入っているもので、中身が厚くなつているため、封筒はふくれてしわがよっている。封筒の口はのりで完全にしめられていた。その中にはその倍の大きさの紙の束が二つ折りになって入っていることはあきらかだった。誰にも読まれないためにその口をのりで封印していたのだろう。うす茶色の封筒の紙の厚みがごわごわしていた。
「大沼が残してたというのはなにかの文書だったのね」
「大沼とはなにものだったので、ごじゃりますかな」
「それは、この中身を読めば、はっきりしますよ」
三人はその封筒をのぞき込んだ。
「とにかく、中身をあけましょう」
村上弘明がその封筒の口を破ると、たしかに二つ折りになったコピー用紙の束が顔をのぞかせた。村上弘明がそれを取り出してテーブルの上に置くと、そのコピー用紙は自分の力でもとに戻った。紙の表面には、ワープロで打ったらしい印字が印刷されている。精神病院に入った、大沼がどうやってこの行為をおこなっていたのかは謎だった。夜中に精神異常者が自分の病室で月のあかりをたよりにタイプを打っている姿を想像すると不気味なものがある。その書き物のはじめはこんな書き出しで始まっていた。
ー この記録を読む、村上弘明さん、あなたはわたしのことを精神異常者だと思っていたかも知れない。しかし、それはわたしの演技にすぎなかったのだ。K病院での、わたしの異常さは、すべてまわりの人間、病院関係者をだますための演技にすぎなかった。それはなぜかと吉澤さんはたずねるかも知れない。そもそも、わたしがなにものであるかを話そう、昭和二十七年に明石電線という会社が土地の転売によつて不当な利益をあげ、それが当時の大蔵大臣の佐伯正一が裏で手をひいていたという事件があった。その特ダネはわたしがあげたのでした。今の人はその事件のことはほとんど憶えていないと思うが、その当時は脚光をあびた事件でした。それによって、内閣は総辞職して総選挙がおこなわれたのでした。当時、わたしは辣腕の事件記者として知られていた。しかし、わたしは上司と衝突して雑誌社をやめた。それ以降、わたしは職を転々としたが、あの輝かしい、事件記者としての時代のことは忘れたことがなかった。
いつかまた世人を瞠目させるような特ダネをあげることを心のどこかで抱いていた。そして、ふとしたことで聞きつけたのが、福原豪が市と共同で病院をそれも精神病院を建設しようとしているという話だった。わたしはあきらかに不審な何かがこの病院建設の裏に潜んでいるのを感じた。そして、この市で起こっている犯人不明なままに進行している犬の惨殺事件である。わたしは福原豪の家を監視している途中でその犯人を見つけたのだ。夜中にこっそりと福原の屋敷の裏口から一瞬悪魔かと思えるような表情でやせた若い男が出て来た。自分の目の迷いだったのかも知れないが、男の口は大きく後ろに張り裂け、目の中にある瞳は赤い点であるかのように感じた。男は手に何かを隠し持っていた。彼はわたしに気づかないようだった。彼自身が自分の力に絶対の信頼をおいているからか、まわりのものに何も注意を払わず、ただ自分の目的だけに進んでいこうとしているらしかった。わたしは彼が誰であるかを知っていた。福原豪の一人息子、福原一馬である。彼は暗い、冷たい息をはきながら夜中の道を歩いて行った。彼の手はだらりと下げられて、ゆっくりと進んで行った。だからわたしでも彼のあとをついて行くことが出来たのだ。しばらく歩くと彼は農家の庭先に来ていた。農家の庭先には犬がつながれていた。福原一馬が隠し持っていたのは、ビスケットのようなものだった。それを出すとその雑種の中型犬に差し出して犬をてなづけた。それから、犬の首輪の鎖をはずすとその犬を河原までつれていった。そこで福原一馬は片手に握られていたナイフを取り出すと犬の喉元にナイフを刺したのだ、犬は一声だけ叫ぶと息を絶えた。それから福原一馬はナイフを抜くと、首のところにふたたびナイフを刺すと首をきり離したのだ。遠洋漁業の乗組員やエスキモーが哺乳動物の解体を返り血を浴びながらおこなうことはあるだろうが、驚喜の目をしながらその作業を行っているのは福原一馬、ただ一人だけだったかも知れない。その姿を見てわたしは、背筋が寒くなるのを感じた。そのうち、どこからか、ワンボックスカーがやって来て、ここだ、ここだ、あそこだとか、さわぐ声が聞こえ、二、三人の男が出て来て、福原一馬をつかまえると、車の中に福原一馬を押し込んで走り去った。福原一馬は犬を殺したことに満足しているのか、ほとんど抵抗らしい抵抗もしなかった。これでわたしは最近、この町で起こっている犬の惨殺事件の犯人が福原豪の一人息子の福原一馬だという確信を持った。福原豪の一人息子に関したことと言えば、学生時代は目立たない、幽鬼のような若者で、ほとんど鬱病に近いという話を聞いていたのだが、この凶暴性はどうしたということだろうか、そのうえ、農家の庭先から犬を河原に連れ出すときは怪力さえみせたのだ。ふつう精神病の患者といのは外部の世界とは何も、関係をもたず、自分自身の中での妄想の中だけで生きているはずである。自分自身、自殺にすすむことはあっても、他人に、犬に危害をくわえることなど考えられもしない。まして福原一馬は鬱病の患者だったらしい。その福原一馬が自分の外の世界にかかわりをもつとは信じられない。そしてある日、変なうわさ話を聞いた。近所に住む飼い猫が電車にはねられたのにけが一つしなかったという噂だ。栗の木市にもJRの本線の一つが街のはずれをかすめるように走っている。そこを二十分に一本ずつ、時速、八十キロで上り下り、急行電車が走り抜けて行く、その上りの走っている電車の前をその飼い猫が通り抜けようとして、はねられ、二十メートルも空中をとばされたといのに傷一つ、おわなかったという話だ。そして近所の人間が見ていたのだが、その猫はある老人がつかまえて、持って行ったという話である。その様子を見ていた人間がその老人のことを知っていた。それはこの街では変わり者の歴史家と知られている次田源一郎であると、そして、その猫はときどき、福原豪のゴミ捨て場でゴミをあさっていたという話も聞いた。わたしはさっそく、次田源一郎に会いに行ったが、とぼけるばかりだった。それから、わたしは福原豪の屋敷のゴミ箱を毎日のように、知られないように漁った。そしてある日、製造した会社もわからない薬の空き袋をみつけた。袋の中にはまだ白い薬品が残っていた。わたしにはあるひらめくものがあった。それを大阪医科大学の研究室に持って行くと、頭に白髪の混じった研究員が分析してみようと言う、三日後に再び、その研究室をたずねると、この薬品をどこで見つけて来たかと、しきりにたずねてきたが、わたしはあいまいな返事だけをしておいた。彼の話によると、噂に聞いていたが実際に見るのははじめてだと言う。アメリカの軍で日本の松田政男という化学者が研究開発した向精神薬で、これを使うと戦闘のときの恐怖感をにぶらせることができるという話だった。しかし、副作用が多くて、心臓病を誘発するとか、麻薬性があるとかいうことで、それが採用されることはなかったということを言った。その話を聞いてから数日後だっただろうか、名前のわからない男が福原豪の屋敷に入って行くのを見た。それが松田政男だった。わたしは松田政男が認可されていない薬を特定の人間に与えているということを次田源一郎に言って、そのことで大きな事故が起きるかもしれない。もし、次田源一郎が松田政男と面識があるなら、もっと詳しい話を教えてくれないかと言った。わたしは最初、福原豪が不正な利益をあげるために病院の建設を進めているのかと思っていたのだが、現実はもう少し、福原豪の家庭の事情に端を発しているのではないかという気がして来た。そして、次田源一郎から連絡があり、この計画が完成するまで口外しないならすべてを話、この計画に協力してもらうとまで言ってきた。わたしは特ダネをつかんだと思った。あの若い頃の感覚がよみがえってきた。道頓堀のそばにあるレストランの一室で彼らは待っていた。松竹演芸場の横を通ったとき、演目を見ている入場客が、このわたしが大阪の中の地方都市で起こっている犬の惨殺事件の真相を解き明かすために、ある場所に向かっていると思う人間は一人もいないだろうと思った。鉄の扉をあけて、白い壁の中にある玄関を通って、横に下に降りて行ける階段があり、すたすたとそこをおりて行くと中くらいの太さの丸太で区切られた一角があり、そこに次田源一郎と松田政男が並んで座っていた。
「福原豪のゴミ捨て場をあさっていた猫をさらっていったのはあなたなのですか、次田源一郎さん、そして、その猫はなぜ急行列車にはねられても無傷だったのでしょうか」
「そのことは、わたしから話ましょう。べつにわたしたちは違法なことをしているわけではありませんから、特定の薬を患者の了解のもとで与えているだけです」
「RD153とか、言っていました。その薬を分析した人は、軍関係の向精神薬だと」
「そう、副作用さえなければ完全な薬です。そしてすべての人に副作用が出るというわけでもありません。そのうえ、RD153には副次的ないい作用もあるのです。それが猫に作用して猫は怪我ひとつしなかったのです」
「RD153は理想の健康薬です。もし、それが改良されるなら」
横から次田源一郎が口をはさんだ。
「時期が来たら、すべて話してくださって結構です、時期というのはこの薬が完全に改良を加えられて完成したらということです。そのあいだ、わたしのそばにいて記録していてくれてもいいのです」
わたしにとってまったく渡りに舟だった。
「RD153はまだ完全な薬だというわけではありません、しかし、それが完成すれば、ビタミンCを飲むようにRD153を飲むようになるでしょう。そもそも、わたしがアメリカに渡って軍の研究所でこの向精神薬を開発したときは、そんな効用があるなんて思いもしませんでした。しかし、副作用があるということになってその開発が中断されたのです。そもそも、その開発モデルはある心臓病の薬を使っています。そして開発された薬を向こうの要望で提供しています。それはアメリカのプロレスラーで、わたしが彼に与えてよい効果があらわれています。ゴーレムというプロレスラーです。彼はそれほどでもないプロレスラーだったのですが、それを使うことにより、無敵のプロレスラーにりました。それは専門的な話になるのですが、筋肉細胞の組成を一部変えることによって可能になりました。驚異的に強靭な肉体を作ることができるのです。それが猫が急行列車にひかれてもけがをしなかった理由です。ある心臓病の薬をモデルにしていると言いましたが、オランダのスミス、ハーディ博士の心臓病の薬をもとに開発した薬と同じアイデァでアミノ酸の構成元素が一部変換されているからなのです。しかし、こんなにいいところのある薬の開発を軍に中止され、わたしは失意のどん底におとされました。そして帰国して傷心をいやそうとしていたとき、ここにいる次田健一郎さんの著作が目にとまったのです。人間の身体能力を向上させる薬が存在すると、わたしもはじめは信じませんでした。私が開発した薬以外に過去にそんなものが存在するとは信じられなかったのです。しかし、その実例が存在したのです」
「その実例とは」
わたしは思わず身を乗り出して松田政男氏に聞きました。
「無双弘という登山家を知っていますか。彼は遭難して、本来なら死んでもおかしくない状況に置かれていたのですが、驚異的な生命力を見せて、一命をとりとめて救助されました」
「わたすからそのことについて話ましょう。無双弘が救助されたとき、夢の中で誰かに薬を飲ませてもらったと言っていました。誰もがみな、それが意識を失っている夢の中での架空の出来事だと判断していましたが、わたすはそれが事実だと判断したのです。わたすの調査ではそういう実例が歴史の中で何度も出てきているからです。実にわたすはその実例を発見することに一生を捧げてきたのです。わたすは無双弘に近づきました。彼のかばんを電車の中で盗もうとして警官にとっつかまったこともあったのです」
「彼の血液から、RD153を服用している人間と同じ結果が得られたのです」
「どこからも認可されていない薬でしたがRD153を服用している人間は何人かいました。いま言ったプロレスラーもそうなのですが、日本では福原豪の家族でその一人息子の福原一馬がそうでした。福原一馬もRD153を服用していたのです。それまでは何度も福原一馬は自殺未遂をくり返していて、困った福原豪はRD153を頼ったのです。その向精神薬としての効能から」
松田政男はその薬のいいところしか言わなかったが、そのために福原一馬は凶暴になって犬を殺して歩いていたり、ゴーレムは心臓病で死んだのだろう。
「K病院は自分の一人息子の治療のために福原豪が建設したのです。そして、彼の治療のためにはRD153の製造を続けることも必要でしたから、その薬を製造するための工場も必要でした。K病院のなかにはその施設もあったのです」
「しかし、そんな個人的な目的で作られた病院のすべてを一般の住民の目にふれさせるわけにはいきませんから、松田さんの部屋から抜けて行ける部屋をいくつか用意する必要があったのです。それにわすの学説を証明する目的もあったのです。ふつうの業者に、日本の国内の業者にその施設を作らせるわけにはいきませんでした。それで知られない違法な施設を建設することを仕事にしているロシアからマフィアの力を借りました。それが栗田光陽と井川実のふたりなのです。井川実は日本人ではありません、あの男はロシア人です。だから鍵なんかも一部、日本の規格に合わないものを使っているわけです。その鍵はあの病院の中の秘密の施設に通じる鍵なのです」
「わたしはRD153を改良するという目的がありました。そのための研究室、そして生きた細胞を確保する必要がありました。それが死体安置所で、あの死体保存の施設は葬儀場にこれから荼毘にふするための死体を安置するというような機能の制限されたものではありません、その死体を半永久的に冷凍保存をおこなうこともできるのです。そして幸運なことにあの死体安置所が完成した直後に無双弘は事故で死にました。わたしの抱いていた疑問を解決する解答がそのまま、そっくりと手に入ったのです。もちろん、その死体は福原豪が手をまわしてあのK病院にもってきました。そして今もその研究を続けているので、RD153の改良が成功するのは間違いがないでしょう」
「じゃあ、その薬が完成したときには、それがたんなる向精神薬ではなくなるということですか」
「そう、もちろん、向精神薬の薬として鬱病の患者の治療に利用されることはもちろんですが、人間が十メートルの空中に飛びあがつたり、走ってくる車と衝突してもけが一つしないということになります」
「そして、わすの牛若丸伝説考究が事実だということが証明されるでしょう」
「しかし、不完全だとしても不滅の肉体をもった無双弘が事故で死んだというのはなぜなのですか」
「わたしたちが資料を得るために殺したなどと思わないでください、彼は何者かに毒をもられたのです。そしてとらわれの身となって、逃亡してきて、わたしたちのところにたどり着いたときに息をたえました」
「それが何者だか、わからないのですか」
「さあ、無双弘を助けたものが、その秘密を封じるために殺してしまったのか」
それからわたしはK病院の中で精神病者と偽って入院することになった。松田政男がそのことを許可したわけは、わたしが意外な事実を知っているために口封じという意味もあったかも知れないが、福原豪を信じていなかったという理由もあっただろうと思う。何かがあったとき、わたしを使ってこの事実を青天の下にあきらかにしようとしたのかも知れなかった。だから、この病院に入院しているのは松田政男をのぞいては、わたし一人だった。そして無双弘のまだ死んでいない細胞も。松田政男が便宜を図っているからか、病院内のどこでもわたしは出入りが出来たし、鍵も手に入れることができた。そして松田政男のまるで手術室のような実験室に入ることも出来た。そこには無双弘の切り取られた細胞の断片が特殊な容器に入れられていて、電子線を利用した分析装置も置かれていた。そのうち松田政男はわたしに信頼を置くようになり、外への用事も頼むようになった。わたしは病院の外に出て、彼の用事などもこなした。何も知らない病院の関係者は不思議に思っていたかも知れないが、あの病院の内部には松田政男たちしか知らない秘密の通路がいくつもあったのだ。松田政男の研究はすすんでいっているらしかった。ある日、プロレスラーがK病院をたずねてきたことがあった。日本に来日中に空き巣が入ってきて、RD153を盗まれたという話だったRD153は服用を途絶えるとその肉体がぼろぼろになっていく、それも副作用の一つだった。松田政男がその薬を与えるとそのプロレスラーは安心した。しかし、その薬の改良を待たないあいだに変化が起こっていることにわたしは気づかなかった。福原豪になにものが接近していたのだ。それが無双弘を殺した犯人だった。それは個人ではなく、ある組織のようだった。もしかすると松田政男は本能的にそのことを感じていたのかも知れない。今までの研究結果というのをまとめて、もし、自分に何かがあったときは、この資料を次田源一郎にわたすように依託された。福原豪に接近しているなにものかというのはたんなる犯罪者ではないようだった。それはその集団がある工場を改造してRD153の製造をはじめていると知ったからだ。もしかしたら、福原豪もそれらをおそれているのかも知れないとわたしは思った。それが無双弘が遭難したとき、救った集団なのか、わたしにはわからなかった。しかし、その危機は突然にやってきた。わたしは松田政男の部屋で秘密のモニターを見ていた。松田政男の部屋には彼の持っている実験室がモニターで監視出来るようになっていた。わたしがそのモニターを見ているとき、松田政男は死体安置所にいた。無双弘の死体が冷凍保存されている場所だ。しかし、そこはまた逆さの木葬儀場に遺体を運ぶまでの一時安置所でもあった。そこに緑色のマントを着て、黄金の仮面をかぶった怪人が一人とその手下らしいのが三人入ってきた。モニターは音声まで拾うことができなかったから、無言の場面が続いていた。黄金の仮面の怪人は松田政男に詰め寄った。松田政男の表情は恐怖でゆがんでいた。これが無双弘を殺して、松田政男にとってかわってRD153の製造をはじめている連中だということは直感でわかった。黄金の仮面は松田政男をつきとばすと、死体安置用の冷凍庫のふたをつぎつぎとあけはじめた。たしか昼間、焼き場に持っていく一般人の死体が一つ入っていたはずだと思うと、それのふたをあけて死体を引きずり出すと、床の上に投げ出した。死体には傷がついたようだった。そのあとその死体の修復が栗田百次郎によってなされたということを知った。栗田百次郎というのは逆さの木葬儀場の管理人で、ここら一帯のお殿様だつた人物だが、すっかりと落ちぶれて、福原豪に何から何まで、援助を受けているので、福原豪の言うことはなんでも聞かなければならないという哀れな人物だった。さらに彼らは死体を探していたが、無双弘の死体を探し当てると頷いた。そしてさらに松田政男に何かを詰め寄っていたが、黄金の仮面の人物が松田政男を押すと彼は簡単に倒れて息絶えたようだった彼らが部屋を出て行こうとしたので、わたしは急いで松田政男の部屋を出ると自分の病室に戻って部屋の鍵をかけたのである。福原豪たちもわたしと松田政男の関係については気づかなかった。そのつぎの日、松田政男の部屋のからくりは警察にわからないように封印され、松田政男は自殺をしたということで落ち着いた。そういったカムフラージュがなされたのである。そのあとでも福原一馬にはその薬が与えられたということはその薬の製造があの黄金の仮面の一味によってなされていたということを意味していると思われる。そして、いつか、K病院にあらわれたプロレスラーが海外で死んだという記事を見た。わたしはすぐに松田政男の研究成果を次田源一郎に託した。そして、松田政男の死に疑問を持っている、村上弘明という、キャスター、つまりあなたたちがK病院に来たときに、精神異常者のふりをして対応したのだ。わたしはさらに福原豪でさえ、おそれている集団の正体をみきわめようと思った。その後、この病院にとどまったのだが、つぎつぎと、栗田光陽と井川実、そして福原豪の親子までが殺された。わたしも身の危険を感じつつある。次田源一郎は何かをつかんだようだ。この覚え書きをあなたに渡します。
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(小見出し)ふたたび
滝沢秀明は授業が終わったので教室から出ていこうとすると松村邦洋に呼び止められた。
「おい滝沢も帰るんやろ。」
「ああそうなんだ。松村も、もう何も用はないだろう。一緒に帰ろうか。」
「まあ、でも吉澤さんが何か言っていたよ。入院している松田のところへ見舞いに行こうとかなんとか言っていたんや。」
「はあ、そうなんだ。それで松村は一緒について行くつもりなんだろう」
「ああそうや」
「ここで吉澤さんが来るまで待つことにしよう。吉澤さんが職員室に呼ばれとったみたいやから。もうすぐ来るやろう」
二人が教室のうしろところで合奏部の定期演奏会のポスターを見ていると吉澤ひとみがやって来た。
「待った」
「ねぇ、滝沢くんも行くんでしょう。」
「ん、僕も行くよ。でも松田の入院している病院どこか知ってるの。」
「うん僕知っているある」
「そうか」
ということで三人はいま入院している松田努の病院に見舞いに行くことにした。学校の近くの駅からふた駅はなれた駅の南口から続く道を歩いてしばらくすると商店街に入った。新興住宅地にできた商店街だといっても商店街そのものの歴史はだいぶい長い。商店街の入り口はその名称の書かれた空中で道の両端をつなぐ大きな鉄の看板がかかっていて、その看板をささえている銀色にぬられた鉄柱にはセルロイドでできている米だわらや桜の花やちょうちん、繭玉などが飾られていた。日中の日差しも弱くなったことや夕方であること、また商店街の中は買い物の客が雨にぬれないように大きなアーケードの天井で囲まれているのでけっこう涼しかった。その商店街の中は夕食の支度をするため買い物客が行き来していたある。手に買い物かごをぶら下げていたり買い物かごに車輪のついたもの引っ張って店先をのぞいたりして品定めをしてしていた。三人がその店先を抜けて病院へ行こうとすると花屋の店先には赤や黄色、白や紫いろいろな花が飾られていた。花屋の店の前は打ち水されていて草花の葉も同じように水を打たれて青々としていた。吉澤ひとみはその花に目をとめた。松村邦洋と滝沢秀明は彼女が何を思っているのかと思って振り返ったが彼女のその目にはいま考えついたことがきらきらと輝いていた。を
「ねえ、松田君の見舞いに花を買っていかない」
三人は小遣いを出し合い松田の見舞いのための花を買った。透明なセロハンで花は包まれて根本のところはリボンで巻かれていた。この商店街を抜けて少し歩くと松田努の入院している病院が見えた。昔は木造で規模も小さかったのだがある医大の系列病院として建て直すとき最新式の設備が導入され、床も窓ガラスもピカピカと輝きフロアは大きな吹き抜けとなっている、病院の受け付けはホテルのそれのようだった。
「ここの医者知ってる。D大系列の病院で新人の医者の研修に使われているんや。それでインターンが多いんや、知り合いでここで勤めている人がいるんや」
松村邦洋が巨大なホールを見ながら言った。吉澤ひとみも滝沢秀明もう東京からきたばかりなのでそういうことはよくわからず松村邦洋の言うことを聞いているばかりだった。受け付けのところで松田努の名前言うと病院の事務員はその部屋の番号を教えた。入院患者の部屋はホールから放射状続いていて、その部屋の上には部屋の番号がわりふられている。向こうからは病院食をのせたワゴンがやつてくる。三人は松田の部屋を探し当ててドアをノックした。事務員から聞いた番号の松田の部屋のドアをあけると廊下より松田の部屋の中の方が窓からの光をとり入れて明るかった。中に入るとまず松田の部屋の窓辺に置かれた小型のテレビが目に入った。窓辺には花瓶が置かれ、花が一輪、いけられていた。松田は松村の顔は知っていたが、滝沢秀明や吉澤ひとみの顔は知らなかった。松村邦洋が松田努に話しかけた。
「やあ、元気。」
「なんだ、松村か」
「お見舞いに来たんだ」
「やあ、それはわざわざ、ありがとうさん」
松田努は今まで読んでいた読みかけの雑誌をワゴンの上にのせると起きあがった。
「ああ、無理しはんな」
「いや大丈夫だよ。いつも病院の廊下を歩いているさかいにね」
そう言って松田努はベットの上に起きあがった。「あっ、そうだ。紹介しとくは。この二人は今度、東京の方から引っ越してきた吉澤ひとみさんと滝沢秀明くんや」
「わて、松田政男いいますねん、よろしくなな」
そう言って松田努は二人が頭を下げた。吉澤ひとみは今買ってきた花束を胸の前に差し出すと
「これ、お見舞いに買ってきたのよ。そこにさしてある花はもうすっかりとしおれちゃっているみたいだからかわりにこの花をさしておくわね」
吉澤ひとみはそう言うと、窓際へ行き、花瓶の中をのぞき込んだ。その中の水は大部汚れていた。
「あら、この中の水、大部、汚れているみたいね。まず水を取り替えてこなくちゃ、だめだわ。松田君、流しはどこにあるの」
そう言って吉澤ひとみは花束を窓辺に置いた。「ドアをあけて、右に行くと流しがあるからそこで入れて来てくれはる」
吉澤ひとみは花瓶を持って廊下に出た。
「見たところだいぶ元気そうやなぁ」
松村邦洋と滝沢秀明はベットの横の方に置いてある椅子に腰掛けて言った。
「まあ、おかげさんでな。みんなどうしている。クラスの連中、変わりはないか」
「誰か、僕たち以外にも見舞いに来てくれたか、誰かが見舞いに来ても、断ってしまうんじゃないの」
「死んだ兄のことで、いろいろと言ってくる人間もいるんや、そんなときは断っているんや、それより毎日、窓からみえるやろ、あの庭を散歩したりしているのや」
窓から見える庭はよく整備されていて病人が散歩するくらいならちょうどよいと思われる。
「それよりな、すりの名人がこの病院にいるんやで。向かい側の棟に入院しているんやけど」
松田努はそう言って指で向かい側の棟を指さした。
「すり歴五十年の奴がそこに入院しているという話や。看護婦から聞いたんやけどなあ」
「どれどれ」
そう言って松村邦洋と滝沢秀明は松田努の指さす方を見た。病室の窓にはカーテンが引かれていず、白いシーツカバーやまくらが見えた。
「なんや、裁判の途中で倒れたとか言っていたわ。ドアの前にはいつも刑事が立っているんやで」
そのとき吉澤ひとみは花瓶の中の水を入れ替えて入って来た。そして窓辺の置いた花束を花瓶にさした。少し離れてその花瓶に刺された花をいろいろな角度から見ていたが、花のかたちをととのえて安心したようだった。
「これでいいわね」
「あんな花でもこうやって飾ってみると意外と綺麗やろ」
「そりゃあ、そうだよ。一人二百円ずつ出したんだから」
「合計で六百円やな。じゃこっちでも少しお返しをせな、あかんな」
松田努はそう言って棚のところを見ていた。手が届かないのでベツトの下に置いているスリッパを出してはいた。ベットのそばにある整理棚の中から缶詰を取りだした。
「何もないけどこんなものでも食べてくれる、貰い物やさかい」
そう言って松田努は桃の缶詰を出し、缶切りであけ、四人分に分けて菓子皿に入れて出した。
「これなかなかうまいじゃん」
「こんなのは病院食や」
「でも夕食は何時ごろなの」
「もうすぐやろ、病院の晩飯は早いんや。何ならみんなも食べていったらええがな。付き添いの人にも食事が出ることになっているんや」
「付き添いって言ったて、こんなに人数がいるのに、食事が出るのやろうか」
「まあ、平気やがな。みんな、ちょろまかして食べてル
のやからな。こんな大きな病院やろ、人数なんてだいたいで料理しているのや。そうや、みんなも夕飯食べていきなはれ」
松田努は熱心にすすめた。。ふだん人がいないので夕飯を食べるときは淋しいのかも知れない。三人はそんな松田努の気持ちを察して一緒に夕飯を食べていくことにした。夕飯ができるまでの一時間ぐらい三人でトランプをしたり、テレビを見たりして時間を過ごした。松田はふだん安静にしている分の反動か異常にはしゃいでいてかえって松田の病気が悪くなるのではないかと心配した。
「松田くんに聞きたいことがあるの」
急に吉澤ひとみが声を出したので松村邦洋と滝沢秀明の二人はびっくりした。そんなことにもおかまいなしに吉澤ひとみは話しを続けた。「松田くんのお兄さんは、K病院に入院していたんでしょう。そこに大沼という人も入院していたの。うちの兄貴、報道番組のニュースキャスターをやっているんだけど、K病院に取材に行ったことがあるのね。そこでその大沼さんから頼まれたんだけど、松田さんから貰ったものだと言って、ペンダントをさしだしたの。それを買って欲しいと言うんだけど、本当の話はどういうことかは知らないんだけど、松田さんは大事な研究をやっていて、ここにその成果が入っていると言ったそうよ。それで兄貴が値段がいくらか聞いたら、十万円なんて法外な値段をつけるのよ。それでも、あの病院のゴミ問題に興味を持っていた兄貴はそのペンダントを買ったの。それがこのペンダントなの」
松田努が手をさしだしたので、吉澤ひとみはそのペンダントを松田努の手に握らせた。
「べつに、なんの変哲もないペンダントでしょう。警察じゃないから、これがどんなものなのか、まだよくわからないんだけど、その後、あの病院の理事長の福原豪も死んでしまったし、病院の一部も知らないあいだに取り壊されてしまった。うちの兄貴がまったくのペテンにあっただけだとも信じられないのよね。松田くんはこれに見覚えはない」
松田は眺め透かしてそのペンダントを見ていたが、まるで心当たりがないようだった。もう午後の六時を少し過ぎていた。家族でもない面会者は帰らなければならない時間だつた。会には買い替えなければならない時間なった。三人は松田に別れを告げた。彼はひどく心残りのようだった。
「もう帰ってしまうのか」
「ああ、また来るから」
「じゃあ、お大事で」。
「お大事にな」
「そうか、じゃあ」
松田これから三人が帰ってしまったあとこの部屋に一人残っている時間のことを想像しているようだった。
三人が病院の外に出るとあたりはすっかりと暗くなっていた。
「ひとみのお兄さんはあんなペンダントを松田の兄さんの形見だということで、大沼から買ったんや。わて、少しも知らなかったで」
「兄貴と私しか知らないわよ」
「大沼はそれに松田の兄さんの研究の成果が入っていると言ったのか」
そう言うと松村邦洋はそのペンダントを吉澤ひとみから受け取っていじくっていたが、その中には何も入っていないようだった。
「これを売った大沼も死んでしまったし」
「松田の兄さんってどんなことを研究していたんだ」
滝沢秀明は何も知らないようだった。
「化学薬品を開発していたと聞いていたけど、そうやったな、ひとみちゃん」
「でも、このペンダントにはまったく心当たりが松田努くんにはなかったようね。全然、興味をしめさなかったから」
「と言うことは死んだ大沼が金をだましとるつもりで、でっちあげた品物ということやろうか」
「そんなことはないわ。松田政男はK病院に入院する前は優秀な研究者だったのよ。」
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(小見出し)老僧と若い僧の住む庵の前では老僧が若い僧に稽古をつけていた。二人は五,六メートルぐらいの距離を離れてお互いに向かい合っていた。若い方の僧は構えを変えるたびにその全身に力がみなぎっていくようだった。それに引き換え老僧の方はただ手をぶらりと下げてほとんど構えらしい構えもしていなかった。前にも述べたように老僧の目は羊のように柔和だった。若い僧は構えを変えながらしだいに老僧との距離を縮めていった。若い僧と老僧の視線が合った。若い僧は老僧の目を見た。ほとんど目の光りもこの老僧には消滅してしまったようだった。しかし老僧との距離を縮めながらこの若い僧はこの老僧の目を見ているうちにその中に何か底知れないもの見ているような気持ちになった。その目を見ているとどこまでもどこまでも引き込まれてしまうような気が若い僧にはした。それは決して枯れたこともないような泉のようだった。若い僧はそのあやしい目の光引き込まれるようにして正拳を出した。老僧は若い僧のの不用意に出した右の正拳をよけると若い僧の脇腹に当て身を加えた。それは一瞬の出来事だった。あっと言う間に勝負はついた。
「私がお和尚さまの域に達するのはいつのことになりますやら」
「いやいや、心配することはない。お前も精精進しだいじゃ」
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このころ黄金の仮面をかぶったアンドロイドは改造に改造を重ねられていた。このアンドロイドはR3号と呼ばれ戦闘用をとして制作された最新の人造人間だった。この前の老僧との戦いに敗れたR3号が老僧と互角もしくはそれ以上に戦えるための研究と改造がなされていた。二人の人物がR号のパワーアップを図るために十倍の出力のでいるジェネレーターを古い型のジェネレーターと交換した。そしてR3号の各部が点検され、老僧に打たれて凹まされてしまった黄金の仮面の代わりに今までの材質の十倍の強度を持つ黄金の仮面がはめられた。その黄金の仮面をはめられるとその怪人は目が覚めたようだった。ぶるっと身体をふるわせて上半身を起こした。
「やあ、R3号、それとも個別名称で呼んでやろうか、ラーマヤーナ、日が覚めたか」
「R1号ナーランダあの老僧のデータを分析したか」
「ああ、分析は終わった。恐ろしい奴だ。しかし今の君なら十分にいやそれ以上にあの老僧に対抗しうる。旧式なものに比べると十倍以上も出力の出るジェネレーターに交換したのだ。いまや君の戦闘能力は重戦車十台並みに匹敵する」
「おお、そうか。そう言えばなんだか体中に力が感じられる。今までの十倍以上もパワーが出るようになったのか。」
「そうだ。君はわれわれの中でも最新式のハード思ったんだ。君の体はその内部に重戦車十台分の力を蓄え外部は地上で最も強力なよろいで固められているのだ」
「じゃあ、さっそくあの羅漢拳の奴らを葬り去りに行くか」
「まあ、待ちたまえ。羅漢拳の奴らもあいつらだけではあり得ないだろう。あいつらだけをやってしまったとしても羅漢拳の奴らはあとからまたやってきてしまう。それより君はニュータイプのハードのフロンティアなのだから君の持っている能力がどのくらい向上したのか十分な測定をしなければならない。君の調子がよければ、われわれも新しいハードを使用するつもりだ。さあ、作業台の上から降りて解析機のある部屋まで行くことにしょうか」
R一号ナーランダがそう言うとR3号ラーマヤーナは作業台から降りようとした。ラーマヤーナが作業台から降りようとしたとき、床に足が着くか着かないかという瞬間、しゅっと軽い音がしてラーマヤーナは白い煙を発して身体がくずれ落ちてしまった。それを見たナーランダは苦り切ってつぶやいた。
「やっぱりダメだったか。ジェネレーターから発する磁気が他の回路を誘導して中央回路をショートさせてしまった。やはり金属から出発するのではなく、有機材料から出発して戦闘兵器は開発しなくてはならないのか、そうなるとやはり松田政男の開発した新薬、さらには羅漢拳の秘密を解き明かさなくてはならない」
ナーランダは床の上に崩れ落ちたラーマヤーナの体をベッドの上に寝かせてつぶやいた。
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吉澤ひとみは食器棚の中から夕飯の準備をするつもりで兄の村上弘明の皿を取り出そうとして、思わず、苦笑いをした。
「そうだ、兄貴は昨日から出かけているんだっけ」
村上弘明はある目的があって栗の木市の外にある用事で出かけていた。村上弘明が日芸テレビの玄関から外に出て、近所の公園を横切ろうとしたとき、彼の目をとめるものがあった。少し離れたところを志水桜が歩いているのだ。喜多野公会堂の一件以来、村上弘明は志水桜に会っていなかったが彼女のことを忘れたことはなかった。彼女が川田定男だということは、少しも村上弘明は考えもしなかった。しかし、彼女が川田定男であっても、下谷洋子であっても、彼女にほれていることに変わりはない、村上弘明は再び、彼女に会いたいと思ったが、彼女からはもちろん、同一人物である、川田定男からも連絡はなかった。しかし、その志水桜の姿をちらりと見付けたのである。村上弘明は期待に胸を躍らせて彼女の姿を公園の中で探した。そのとき、滑り台の横にあるおもちゃの家に備え付けてある電話のベルが鳴った。日芸テレビのあるビルの前の公園はかなり広くなっていて、公園の何カ所かに童話に出てくるようなおもちゃの家が建っている。その中には幼児向けの椅子やテーブルが置いてあり、子どもが二人ほど入るといっぱいになる。テーブルの上にはおもちゃの電話が置いてあって、その公園の中にある、おもちゃの家の中にある電話同士がつながっている。ピンク色に塗られたテーブルの上に置かれた黄緑色の合成樹脂製の電話をとると、女の声が聞こえた。
「日芸テレビから出て来る僕の姿がみえましたか」
「もちろんよ」
「あの音楽会の一件以来、あなたとお話したかったのですが、何故、連絡をくれなかったのですか」
公園は広いので、どこから電話をかけて来ているのか、わからない。
「それより、大事な話よ。松田政男、井川実、栗田光陽、福原親子、沼田、そして、栗毛百次郎も殺されたかも知れない。相手は巨大よ」
「犯人の目星はついているのですか。もしかしたら、無双弘を救った連中かも」
「そうではないわ。もうかなり以前から、あなたの住んでいる栗の木市で活動を始めている連中よ。彼らが松田政男の開発した薬を完全なものとしたら、大変なことになるわ、人々はその恐ろしさも知らずにそれを使用して無制限な殺し合いをはじめてしまう」
「それを阻止するための方法は」
「彼らがK病院の松田政男を襲ったとき、彼の研究成果の重要な部分と死んだ無双弘の万能細胞を奪うことは出来なかった、それらは次田源一郎に託されたらしいの。それを持って次田源一郎はどこかに雲隠れしているに違いないわ。あいつらが次田源一郎を探しあてて、松田政男から預かっているそれらのものを奪う前に、焼き捨てなければならない」
「次田源一郎がどこにいるかわからなければそれは不可能ですよね」
「いいえ、わたしは彼の居所をさがし当てたわ」
「それはどこですか」
「和歌の世界で六歌仙って知っている」
「さあ、落花生ですか」
「それは食べ物のことでしょう。古今集に書かれている代表的な六人の歌人のことよ。その中に正体のよくわからない喜撰法師という坊主がいるの、その坊主が京都の宇治に隠遁したということになっていて、その住んでいたという庵が復元されて残っているのよ。次田源一郎はそこに隠れているらしいわ。そこへ行って、松田政男の研究のすべてと無双弘の万能細胞を消却させてちょうだい」
 村上弘明は京都の喜撰法師が住んでいたと同じ場所に建てられいる庵に向かって愛車のルノーを走らせている。そもそもこの一連の殺人事件の出発点は軍事用の向精神薬を開発した松田政男にある。松田政男自身もそれが軍事兵器に使われるとは思わず開発したのかも知れない。その薬のモデルとなったのはスミス・ハーディ博士の心臓病の薬がモデルになっているし、その理論はサー・ジャームッシュ博士の大きな原子核を持つ原子によって代替された有機化合物が物質として安定することが可能だということの発見にある。それを利用して作られた骨にしろ、筋肉にしろ、異常な強度と物理的な力を発生する肉体をもつ改造人間が薬、一つで作られたとしたら、この地上に暴力と破壊が満ちあふれるに違いない、そう言った改造人間たちは自分の肉体の一部となっている武器を持つことになるからだ。マシンガンの機銃掃射を浴びても死なない肉体と、一撃で自動車のドアを打ち抜く腕力を持った改造人間が街中に出現したら、銀行はどうやって警備をしたらいいのだろうか。その薬の完成はどうしても阻止しなければならない。しかし、遭難した無双弘の肉体の中には、その改造人間としての兆候があらわれていたと言う。無双弘に薬を与えたものがすでにその薬の完成を成し遂げていたということか、この一連の殺人を犯したものが、その薬の完成者なのだろうか。しかし、無双弘がその改造人間としての肉体を持っていたなら、何故、彼が簡単におこなえる犯罪に手を染めなかったのかも、村上弘明には興味があった。人間というのが本来、善なるものなのか、自由に使うことの出来る武器を持っていたとしても、それを使う気にならないものなのか。村上弘明は大阪の自宅を出てから、約、六十分で宇治に到着した。喜撰法師が住んでいたという庵はここから少し入った場所だった。目の前には竹林が続いている。ここからは車も中に入れない。村上弘明は時代劇に出てくるような孟宗竹に囲まれた細道を歩いて行った。そのうちに童話の世界に出てくるような藁葺き屋根の庵が目に入った。庵の前では一人の老人が薪を割っている。村上弘明は竹の葉を踏みしめる音をさせながらその老人のそばに行った。
「あなたは、次田源一郎さんではありませんか」
すると老人はあきらかに不快そうな顔をして否定した。
「私は怪しいものではありません。テレビ局で報道番組を担当している村上弘明といいます。死んだ沼田さんから、一連の事件の真相を手紙で教えられました。この事件はRD153とその薬を改良するために死んだ登山家、無双弘の細胞を奪おうとする何者かの仕業だったんですね」
「わたすが次田源一郎です。とにかく中に入ってください」
村上弘明が庵の中に入ると、その庵の中はまるで茶室のようだった。こじんまりとしていて入り口は小さな障子で、部屋の真ん中はいろりが切ってある。しかし、電気はここに来ているらしく、天井には蛍光灯がついていて、部屋の隅には小さな冷蔵庫が置いてある。
「ここに隠れているのですが、どうやってわたすの居所をつかんだのですか、ある人に教えてもらいました。でも、心配しないでください。その人は敵ではありません。あなたがここに隠れているというのは、松田政男さんや沼田さんが何者かに殺されたということを知っているからなんでしょう」
「もちろんです。わたすは長いこと、歴史に埋もれた伝説が事実だということを証明するためにいろいろなことを調べてきました。たとえば義経のことだとかです」
「わたしはあなたの義経伝説考究を読んだことがあります。そのためにあなたは中国の奥地にまで行かれたのですね」
「わたすは中国の奥地でそれらの実例を見てきたのです。人間が二十分以上、水の中にもぐって活動ができたり、幹の太さが一メートルもある大木を引き抜いたりすることをです。しかし、日本に戻ってからはその実例を発見することができませんでした。しかし、日本のどこかに自分の論を証明できる実例があるに違いないと信じていました。そして、無双弘という登山家が登山中に滑落事故にあって、とても生きていないはずだったのに、生きて戻って来たのを知りました。そして、ふと、何者かにある薬を飲まされたということを一度だけもらしたことも、そのあとで無双弘はそのことを否定していましたが。わたしは中国の調査でもそういう薬があるということを確証を持っていました。無双弘に近づいて何かを聞き出そうとしましたが、彼はそのことについて何も語ろうとしませんでした。しかし、あるとき、彼の異常な行動を発見したのです。いつものように彼の尾行を続けているとき、夜中にある高層団地の横を通っていたとき、八階のベランダから三歳ぐらいの幼児が身を乗り出していました。私が危ないと思ったときは幼児はすでに空中にいました。すると無双弘は飛び上がって空中に上がって行き、七階ぐらいの高さまで飛び上がると、その子どもを空中でうけとめて、地上に降り立ちました。そして、またその子どもを抱いたまま、空中に飛び上がるとまたもとの八階にその子どもを降ろして地上に降り立ったのです。ちょうどその頃です。松田政男氏がわたしのもとにやって来たのは、彼はRD153という向精神薬の開発をしていたのですが、その薬のある作用でプロレスラーにその薬を与えていたとき、筋肉の一部に変化が生じてある部分では筋繊維の収縮率が五百倍になっているという話をしました。過去の歴史の中でそういう薬が存在していたのかという疑問をわたしのところに持って来ました。そこでわたしは中国で見た実例を話し、さらに無双弘の不思議な夜の目撃談を話しました。松田は多いに興味を持って、一緒に研究をしようという話になりました。松田の話によると、自分の薬を必要としている精神病患者で福原一馬という人間がいて、その父親は福原豪という大阪の経済界の有力者だという話しで自分の息子の治療のためにK病院を建てる気になっている、そして松田の要望を取り入れて、実験室を作ってくれるという話でした。そのために無双弘の協力はどうしても必要でした。わたしは彼を尾行して目撃した、その夜の不思議なできごとを彼にぶつけてみました。それは彼のマンションの一室で話してもらったことです。確かに彼は遭難したとき、瀕死の重傷を負いましたが、気がつくと古代の都市のような場所に運ばれていたそうです。そこには数千年も前から続いている武術の集団が存在したそうです。そこである薬を飲ませられて、瀕死の重傷から驚異的な体力を持つまでの身体に変わっていたそうです。その集団は羅漢拳と呼ばれていて、数十トンの岩石を軽々と投げ飛ばしたり、時速五百キロの早さで地上を走ったり、燃えさかる炎の中で何時間でもいることのできる武芸者たちの集まりでした。彼らの調合した薬を飲むことによって一部、自分の身体もあの夜のできごとのようなことのできる肉体に変わっていたのだと、無双弘は言いました。無双弘は自分のふだんの生活に戻りたいと思い、下山することを申し入れると、絶対にここでのできごとを他言しないという条件で下山を許されました。もし、他言するようなことがあれば殺しに行くと言われたそうです。また、その能力を悪用しないことも誓わされたと言いました。この羅漢拳という集団が私が長年、追い求めていた、自分の論を証明する実例だとわかり、わたしは驚喜しました。しかし、一つ、わすにも疑問が残りました。たとえ、その力を使うことが禁止されているといえ、半分、不死身のような肉体を使用すれば犯罪を何者もおそれずおこなうことが出来るのではないか、そうすれば簡単に不正な利益を得ることが出来るのではないかということです。そのわすの問いには彼はビデオカメラ用のカセットを取りだすと、それをデッキにセットしました。これを見てください。テレビを見ていると一人の老僧が写し出された。平らに磨かれている岩の上につくねんと座っている。その老僧が目を閉じると、彼の目の前にある何百トンもある巨大な岩石が突然、空中に浮かんだ。これは何かのトリックですか。わたすが聞くと彼は答えました。トリックではありません、私が目の前で見たものをビデオカメラで撮ってきたのです。これを目の前で見たとき、物理的、物質的な肉体の優位がまったく意味をなさないということがわかりました。この老僧が身につけた究極の武術の技だったのです。これを身につければあらゆる物理的攻撃から身を守ることができて、また、あらゆる攻撃をうわまわることが出来ると老僧は話しました。物質というものは細かく分割していくと、分子にそして、原子に、さらに素粒子に、そしてクォークまでいきつきます。しかし、老僧の話によるとクォークをさらに分割すると源物質というものがあり、そこには識別名というものが書かれているそうです。老僧の使った技はその識別名をすべて老僧の名前に書き換えるということらしいのです。その究極の技を身につけた老僧には、あらゆる物理的、物質的攻撃は効かないそうです。それで私はそれによって銀行強盗をおこなったりすることが無意味だということを知りました。無双弘はそう言いました。それから数日後に無双弘は死にました。そして福原豪が手配して、無双弘の死体を松田政男のK病院にある死体安置所に運んだのです」
「しかしですね。そんな源物質の識別名を変えると言っても、その老僧しか、それを出来ないわけでしょう。重戦車のような戦闘能力を持った人間がそこかしこにいたら、大変なことになります。どうしても、RD153の改良は阻止しなければなりません。松田政男さんたちを殺した連中がその薬を手に入れたら大変なことになります。松田政男さんの研究の結果と無双弘の万能細胞を焼却しなければなりません。これはあなたがここにいることを教えてくれた人物の意見でもあります。協力してくれますか」
「もちろんです。源物質の識別名の書き換えという究極の術の存在を知った今、RD153の改良などなんの意味もなしません。協力しましょう」
そう言って次田源一郎は小さな冷蔵庫をあけると棚の中に入っている書類のたばを取りだした。それから密閉されたガラス容器も取り出すと、その中には冷凍保存されたまぐろのさしみのようなものが入っている。
「じゃあ、これらを焼却処分しましょう」
庵の外に今さっきまで次田源一郎が割っていた薪が積み重ねてある。ふだん、ごみの焼却で使っているのだろう、一斗缶も置いてある。次田源一郎はそこに薪を入れると火をおこして、松田政男の残した書類やら、無双弘の万能細胞などを投げ込んだ。
「すべて燃えてしまいましたね」
「これで、ひとまず、安心というわけですね」
村上弘明が一斗缶から上がっている炎を見ていると、どこからか、若者がやって来た。
「おじさん、ただいま」
「努くん、今日も何もなかったかい」
「努くん」
村上弘明は耳をそばだてた。
「ここにいるのは、松田政男くんの弟さんで、松田努くんですよ。松田政男くんがなにものかによって殺されたとき、松田努くんの安全を確保するために一緒につれて来たのですよ」
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吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明の三人は授業の終わった放課後、担任の畑筒井に呼ばれて校長室の床にある応接室に通された。三人が応接室も入り口のところで躊躇していると中から担任が手招きをした。応接室の中には担任のほかに見たことない男が一人いた。白くのりが効いてごわごわしているシーツの上に三人は並んで座った。天井にはホーローびきの反射板のついている蛍光灯が白々と部屋の中を照らした。
「ああ、三人とも来てくれたか。この方は松田の親類のかたで吉田さんとおっしゃるそうや。みんなが松田を見舞いに行ってくれて大変感謝しているとおっしゃっている。何か、吉田さんがみんなに話があるそうやから、わしは席を外すわ」
担任は自分の座っていた少しあんこの出ている椅子をひくと応接室を出ていった。ふだんは使われていない校長室の横にある応接室には松田の親類と名乗る吉田という男と吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明という新聞部の三人組が残された
「みなさん、松田の親類で、吉田、言いますねん。あそこの兄弟、二人ともあんなことなって本当に残念なことですわ、それでもあなたがた三人がお見舞いに来はったことで、松田努は本当に喜んでおりましたわ」
松田努はひとみたちが見舞いに行ってから数日のうちに内蔵疾患で死んでしまった。
この大阪商人の番頭という感じの男はなぜ、ここに来たかの理由を纏綿として説明した。男の話によると結論としては、自然に囲まれた墓地に松田努の墓を作ると言う話だった。それで彼が死ぬ前に見舞いに来てくれた三人に礼を言いたくて来たという話だった。
「しかし、自分の親戚のことでなんですが、努の兄の松田政男は優秀な化学者だったらしいですわ、ふたりともこんなに早死にするとは思わなかったんやけど、最初、政男が薬の研究でどこか、外国に行っているなんていう話を聞いたときは、学生として、勉強に行っていると思いましたんや。難波病院に橋田っちゅう、よく流行っているお医者さんがいるんやけど、そこの医者でわては腎臓の病気の手術をやったんやけれど、政男は化学のなんとか言う賞を貰ったとそこのお医者さんが言っていたのでびっくりしましたわ」
吉田という松田の親戚はソファーの上で身体を揺すぶりながら、田舎の人間の純朴さを見せながら、自分の感じた松田政男に対する驚きを話した。そのことは吉澤ひとみにとってはすでに知っていることだった。
「わしが庭先でトラクターのエアーフィルターを交換していたときだったでっしゃろうか。カナブンみたいな形をした小型の乗用車がやって来て車が止まると中から黒いの背広を着たセールスマンみたいな男が二人、降りてきましたんや。わたしは新しい車のセールスマンかと思いましたんやけど、出された名刺を見ると、大同インキ株式会社と書かれていましたんや。すいかでも食べるかと聞くと、食べると言ったので、縁側ですいかを出して一緒に食べながら話を聞くと、松田政男さんのことで来たと言ったんや。松田政男さんの親戚はあなたしかいないので、あなたに聞きたいことがあって、大同インキから来たと言っていました。話によると松田政男は大同インキという会社から依頼を受けて、金属に書いて消えなくなるインクを発明したということで、そのインクのもう一つの効用として、それは一時間ぐらいほおっておくと書いてあるものが消えてしまうのだけど、ある薬品にヒたすとその書いてあるものがふたたび浮かびあがり、その意味で消えないインクということなのです。と言うんや。うちの会社にはその浮かび上がらす方の液体はあるのだけれど、金属に書く方の薬がなく、松田政男氏はすでにそれを作っているという話だった。それでうちの会社ではその薬を探している。もしかしたら、唯一の親戚であるあなたがその薬を持っているか、もしくは、それが書かれた金属片を持っているのではないかと思い、伺ったのですと言うんや。その発見者にはそれ相応の報酬を差し上げますと言って、そのことを詳しく書いてある権利書を見せてくれたんや。それが、これ」
吉田は肩でかつぐバッグの中から羅紗紙の封筒に入っているその書類を取り出すとテーブルの上にのせて吉澤ひとみたちにもみせた。そこにはその彼らの探している薬、もしくはそれを作用させた完成品を譲ってくれれば数百万をくれると書かれている。
「その松田政男の遺品が松田努に渡されていないかと思いましてね。みなさんにお聞きすればわかるのやないかと思いましたんや」
吉澤ひとみは松田努のところに行ったとき、彼から貰った金属製のペンダントをポケットの中で握りしめた。
「いいえ、松田努くんから預かったものは何もないんです」
吉澤ひとみは心持ち顔を上の方に傾けて吉田の目をしっかりと見つめた。
「そうですか。まあ、これでわたしの気持ちもすっきりとしましたわ。もし、それがあれば、そのお金で松田兄弟の歯かも立派なものを作ってあげようと思っていたんですわ。それを探すのが、死んだ松田兄弟に対する宿題のように思っていましたんや。それにみなさんに、努のところにお見舞いに来てくれたお礼もできましたんで、胸のつかえがおりた気持ちですわ」
その男はそう言うと、みやげで持って来たカステラのような饅頭をテーブルの上に残して応接室を出て行った。
「ひとみくん、なんで、ペンダントを松田努から貰ったことを言わなかったんだい」
「絶対、あの男、怪しいわよ。松田努の親戚か、どうかなんて、本当かしら。きっと、このペンダントには何か、秘密があるのよ」
「あいつが言ったみたいに、何か、薬品につけると、書いてあることがうかびあがるということかい」
吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明の三人はその月に出す学校新聞の仕事で遅くまで学校に残っていた。そこで使う印刷機が職員がテストの用紙を印刷した段階で壊れてしまい、その機械に詳しい職員がなおすまで待たざるを得なかったからだ。それの印刷もすみ、三人は帰ることにした。あたりはもうすっかりと暗くなっていた。いつも通り校門を出て栗の木団地へ向かう道を歩いていた。舗装された道の両側に立っている水銀灯はもう明かりがともっている。栗の木団地の入り口から数百メートル離れている場所にワゴン車が止まっている。ライトも全部消している。そこは以前松村邦洋と滝沢秀明が黄金の仮面の人物に襲われた場所の近くだった。それ以来二人はこの場所通ると薄気味悪い気持ちがするのである。そして今夜はライトを全部消したワゴン車がとまっているのでなおさらだった。栗の木団地には駐車場がある、わざわざこんなところにとめなくてもいいと思われる。滝沢秀明なんとなく不安を感じていた。吉澤ひとみも何となく無口になっている。ふたりの方に向かって話しかけた。
「ねえ、さっき松田君の親戚だといって人、本当に親戚の人かしら。滝沢くん、どう思う、あなたは疑っているようだったわね。だから私がペンダントを持ってることを言おうとしたとき目で合図をしたんでしょう」
「うん、まあね。兄弟が二人がそろって変死するなんてどう考えてもおかしいよ。何か秘密が隠されているに違いないよ。あのペンダントがそのかぎを握っているんじゃないかな。吉澤さん、まだあのペンダント、持ってる」
「持っているわよ」
吉澤ひとみはそう言うとペンダントを取りだした。
「どこから見ても何の変哲のないものやけどなあ。たまご型でひらぺったくて、表面積が大きいからなにかを書くのには都合がいいと思うけど」
松村邦洋はそのペンダントをしげしげと見つめた。
「それにしても思いだしてしまうわ。滝沢、俺達があの変な黄金能仮面をかぶった男に襲われたのもこの辺やなかったろうか。あのとき、あの変なおじいさんだ助けてくれたからよかったけど」
松村邦洋がそう言い終わるか終わらないうちに三人の周りに人影いることを三人は感じ取った。三人は前に二人後ろに一人の人影によって取り囲まれてしまった。その内の一人は昼間は三人が応接で会った吉田と名乗った松田の親戚だった。そしてこの男の本当の姿はR1号であり、ナーランダという名称を持つアンドロイドだった。
「あら、昼間、お会いした吉田さんじゃありませんか」
そのナーランダは低い声でふふと笑った。三人が逃れられないようにナーランダとその部下の二人は三人の前後からその距離も縮め始めた。
「私は松田の親戚ではありませんよ。美しいお嬢様。とにかく三人には私の用があります。一緒に来てもらいましょうか」
吉澤ひとみと滝沢秀明、松村邦洋の三人はナーランダとその部下に腕をつかまれてしまった。逃げようともがいても三人はびくともしなかった。そのうえ腕をつかまれたその感触は何か冷たい機械的な感触を与えるものだった。そのうえ彼らはその体積に比べ非常に重量があるのか、彼らの横腹をたたいても鈍い音が返ってくるだけだった。三人は身動きもできないままつかまえられてワゴン車に乗せられてしまった。ワゴン車の側面や後方には窓もなく運転席が見えるだけだった。吉澤ひとみ滝沢秀明。松村邦洋の三人が何か言おうとするとナーランダの二人の部下が横腹をつつくので彼らは何も言えなかった。彼らは無言のままワゴン車は走って行き、車は地下の駐車場ようなところについた。三人はそこでワゴン車から降ろされた。その地下駐車場の端の壁のところに立つとなにもないようなところが急に穴があいて入り口になった。三人はこずかれるようにして中へ入った。その地下空間の中は白い陶器の内部に入れられたように、ちりひとつ落ちていずあたかもどこかの電機会社の精密部品の製造工場のようだった。三人はその地下空間の奥深くへ連れていかれた。そしてある部屋の前に来ると部下に一人が扉を開けた。それはまるで銀行の金庫のような分厚い潜水艦のハッチのような扉だった。扉をあけるとナーランダは滝沢秀明と吉澤ひとみをその中へ押し倒した。二人は転がりながらその部屋に入れられてしまった。転がったひょうしに吉澤ひとみの腕時計は壊れてしまった。そのため彼女はひどくがっかりしているようだった。二人がその部屋に押し入れと同時に金庫のような強固な扉は閉ざされてしまった。しかしその内部は照明装置が施されているらしく壁全体が明るく輝いている。なぜか松村邦洋だけはこの部屋に押し込められていなかった。ふたりだけが閉じこめられている吉澤ひとみと滝沢秀明の二人がこの部屋の中をさぐると、もう入り口の金属の扉も跡形もなくなくなっている。部屋全体が明るいというのは壁の材質そのものに発光するなにかが埋め込まれているのかもしれない。壁のどこかにつなぎ目があるのか、二人は探したが見つからなかった。その上扉をしめたあとはあとかたもなくなくなっている。
「一体ここはどこなのかしら」
「わからない。それにしても、まあ、僕らの命だけは保証するみたいだね。松村はどこに行ったのだろうか。いないみたいだが」
「松村くんを探してもむだよ。彼ら私たちの仲間ではないわ」
「やっぱりそうか。そのことを僕もうすうすは感じていたのだが、彼がいるときに限って事件が起こるのでどこがおかしいと思っていたが、やはり松村は敵のまわしものだったのか。でも君にはなぜその事がわかったのだい」
「放射能よ。彼の体からは微量ながら放射能を検出できたの。かれと一緒に古寺へ取材に行ったときコンバクトカメラだと偽って放射能測定器を持たせの。その結果、彼が普通の人間ではないことがわかったの。たぶん彼の体の中には超小型の原子炉が組み込まれていてそれがジェネレーターを作動させ、発電させて各部を動かしているのね」
「そういう吉澤君、君一体なにものなんだい」
「そういうあなただっていったい何者なの。肉体上は一般の人間とは変わりないけど、その能力は人間をはるかに超えていようでもある。わたしたちの機関でも把握できなかったわ」
吉澤ひとみがそう言うと部屋全体から声が聞こえてきた。壁そのものが有機的生命よ持っていて壁が震動して声を発しているようだった。
「お嬢さん、お嬢さんの言うとおりだよ。松村邦洋はわれわれの仲間だ。お嬢さんは滝沢秀明の正体を知らないようだから教えてやろうか。なあ、滝沢くん、君から言うより僕が言った方がいいだろう。滝沢くんは羅漢拳と呼ばれるある集団の一派で日本で言うところのからす天狗みたいなものなのだ。われわれと互角に対抗できるのはおそらく君たちだけだろう。あと二人仲間がこの付近にいるようだがその仲間はどこにいるんだね。そして君たちの集団はどこに住んでいるのかね。教えてくれればこの部屋から出してあげてもいいよ」
滝沢秀明はきっぱりと言った。
「断る」
「そうか、残念だが。この部屋は私たちの能力を持ってしても壊せないのだから君のような未熟な者ならばなおさらだな。しかしお嬢さん、君は一体何者なんだい」
吉澤ひとみは見えない壁の向こうの怪人に向かっていった。
「そういうならあなた方の正体から教えてくれるのが順当ではないかしら」
「わはははは」
部屋全体が前後に振動して植わっているようだった。
「まあ、そういえばそうだな。失礼しました。お嬢さん、じゃは、私たちの正体から話してあげようか。私たちは人間でありながら人間ではないのだ。肉体はすべて人工の作り物だ。そこに私たちの以前にあった自我を注入したアンドロイドなのだ。きみの想像していたとおり超小型原子炉でジェネレーターを発電させて各部を動作させている。われわれは永遠の生命を持ち、不死身なのだ。しかし、私ちの目の前にも口うるさいおせっかいがいる。それが滝沢くん。君の仲間たちなのさ、羅漢拳と呼ばれている仲間だ。しかも君らはなかなかうるさい上に邪魔もする。過去の歴史でことあるごとに登場してきてお節介なまねをしてくれた。私たちにとっては本当に目の上のたんこぶなんだ。そのために私たちはどうにかして君たちをつぶさなければならない。しかし君たちの本拠を探すことも重要なことではあるが、その前にわれわれもパワーアップする必要があった。そのためにはどうしても技術上の障害があったのだ。今までのやりかたではどうにもならない。そこに目をつけたのが松田政男の開発した人工細胞を生成する薬だ。彼の薬によって、細胞を新しい仕組みに作り替えれば、われわれの目的は達せ留ことが出来る。松田政男は福原豪の建てたK病院の中でその研究を続けていた。松田政男に変わってわれわれがその研究を続けようと提案した。しかし、松田政男は不満そうだった。だから、私たちは彼を殺したのだ。その事に気付いた羅漢拳の連中は動き出した。きみたちが助けた登山家の無双弘のことも気になっていたのだろう。なにしろ、松田政男が目標にしている薬は完成していて、羅漢拳の連中がそれを無双弘に飲ませたから彼は助かったのだ。君たちはおれたちことを調べ始めた。私たちもそれがだれにある家を調べ始めた。なによりも、無双弘に飲ませた薬の秘密がばれることをおそれたからだ。この栗の木市にうろついている何者かをわれわれも調べはじめた。そしてそれがあの古寺に移り住んできた若い僧だということがわかったから、われわれの仲間、最強を誇っているR3号、個別名称はラーマヤーナというアンドロイドに彼を倒すように命令したのだ。しかし力は互角で彼を倒すことはできなかった。そして私たちには以前からこの栗の木団地に送り込んでいるR7号、個別名称はブラフマンと言う男がいる。君たちもよく知っている松村邦洋だ。きみたち二人が転校してきたときから怪しいと睨んでいたのでブラフマンにいろいろと調べさせたのだよ。そして松田政男の作った薬の秘密がペンダントに仕組まれていると知って、きみたちを誘拐して、このペンダントを貰ったのさ。吉澤さん、さっきワゴンの中であのペンダントは確かに受け取ったよ。これでわれわれの目的もほぼ達成された。しかし、君は何者なんだ」
「わたしが何者などということは、もったいなくて、こんな下劣な方法しか使えない、あなたなんかには、言うのは勿体ないわ。ただ、志水桜、つまり下谷洋子もわたしたちの仲間だとだけ言っておくわ」
「まあ、いいさ。そんなことは僕たちにはどうでもいいことさ。羅漢拳の仲間をおびき出すためにも滝沢くんの正体さえわかれば」
そういう声が聞こえると今まで小刻みに揺れていた壁は動かなくなった。
「なんとかして、ここから出なくては。自分を餌にして仲間がつり上げられるなんて、まっぴらごめんだ」
吉澤ひとみが壁によりかかって滝沢秀明の悩んでいる姿を見ていると滝沢秀明は立ち上がって壁に正拳を加えた。ふつうのコンクリートの壁なら穴が開いていたに違いない。滝沢秀明の拳のあとがはっきりと残っていたがいつの間にかそれももとに戻って消えてしまった。
「ダメみたい」
「そうみたい」
Rー一号ナーランダはそのとき、吉澤ひとみから奪ったペンダントに書かれた松田政男の研究の分析をはじめていた。松田政男の目標としている薬の秘密を握れば、ここはK病院など比べようもなく、設備が充実しているから、その研究成果を実現させることは容易である。その内容は簡単に解読することが出来た。扇の要となっている部分を彼らは解読した。薬はすぐに合成され、R3号の待っている部屋に運ばれて行った。R3号の内部からは小型原子炉は取り除かれて、動力を疑似タンパク質、分子間力の大きな有機化合物を使ったものに変えられている。Rー3号ラーマヤーナの首にある体液の取り出し口からその薬は注入された。
「あとは完全に化学変化が終了するのを待つだけだ」
薬を注入し終わったR1号はその部屋を出て行った。
滝沢秀明と吉澤ひとみのふたりは閉じ込められているその部屋をなんとかして抜け出そうと画策していた。
「あなたの方は仲間の人がいるの」
「ああ、指導者がね。羅漢拳全体を統率している。それにその下で働いている、僕のような仲間がいる」
「その人たちがあなたのことを助けてくれないのかしら」
「うん、今、それを僕も考えていたんだ。念で通じるかも知れない。ちょっと僕に話しかけないでくれる。念を送ってみるから」
そう言うと滝沢秀明は座禅を組んだ。そして目を閉じると心の中で平静を保った。しばらくすると彼の仲間が呼びかけてくる声が聞こえた。
{統率者、私は今アンドロイドたちに捕らえられ監禁されています。ここがどこかはわかりません松村邦洋も敵側のスパイでした。吉澤ひとみさんと一緒にいます。助けに来てください}
{そこがどこかわからないのか}
{いいえ、ワゴン車に乗せられてここに連れてこられたのでここがどこなのかわかりません。壁をうち破ってここを出ようと思ったのですができませんでした}
{そうか、場所わからないのか。じゃあ、そのまま意識を集中させていてくれ、お前の念をたよりにそこに行けると思う}
庵の中にいた老僧と若い僧は寝床からむっくりと起き上がると墨染めの衣をひっかけた。早く行かなければ滝沢秀明と吉澤ひとみの命が危ない。老僧と若い僧は衣の帯を結んで、手足には手っ甲脚絆をつけて、ものすごいスピードで滝沢秀明の念を追って夜の街を走り抜けていった。自動車を次々と追い抜いて行く。夜の闇夜走りぬけていく二人の姿は光の矢が的めがけて一直線に飛んでいくようだった。二人はまたたくまに市街を走り抜け、町はずれに来ていた。そして丘陵の前で立ち止まった。それは小さな小山のような形をした墓だった。その小山は円墳であり天皇家とのかかわりあいから周りを鉄柵で囲まれその墓を採掘することは固く禁じられていた。なぜならその墓には神武天皇以来も何台かの天皇が埋葬されているからだった。墓の前方には封印された入り口があったが、ふたりはそのコンクリートの扉を開けて、中に入って行った。中には階段があり、そこをおりていくと、さらにコンクリートの壁があったが、何十トンもあるその扉を開けて、ふたりはさらにその奥に入って行った。中に入ると、いつの間にか作られたのか、白く清潔な廊下が続いている。それはまるで病院の廊下のようだった。
{アンドロイドたちの隠れ家までやってきたもう大丈夫だ。心配するな}
{統率者、そうですか。なるべく早く来てください}
二人が奥深く中まで入っていくと以外にそこには誰もいなかった。老僧と若い僧は吉澤ひとみと滝沢秀明の閉じ込められている部屋の前まで来た。
{おい、聞こえるか。お前達の閉じ込められている部屋の前までやってきたぞ。いま、助けてやるからな}
{やっとこれで安心した}
吉澤ひとみと滝沢秀明の閉じ込められている部屋はまるで銀行の地下倉庫のような扉がついていたが、若い僧はその扉をねじ切った。中から吉澤ひとみと滝沢秀明が出てきた。
「統率者、ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いだろう。とにかく、そのお嬢さんを連れて外に出ることが先決だ」
滝沢秀明は吉澤ひとみの手をひいて老僧と若い僧のあとをついて外に出た。出るとき、石の扉はもとと同じようにしめられた。外はもうすっかりと暗くなっていた。夜の闇の中に大きな円墳はまるで有史以前の恐竜のように寝そべっている。その円墳を背景にして四人を人影が立っている。
「これが空也の心を乱している女性か」
老僧は吉澤ひとみの方見て言った。滝沢秀明はその集団の中では空也と呼ばれていた。
「お嬢さん、どこにもけがはありませんでしたかな」
吉澤ひとみは自分の興味をそそられる対象を見つけ、喜びで目を輝かしていた。
「とにかく、ここ早く離れなければならない。われわれ三人だけならともかく、この生身のお嬢さんのことも考えなければならないからね」
老僧がそういう終わらないうちにいつのまにかこの四人を黒い人影が囲んでいた。
「やあ、これで羅漢拳の諸君、全員が顔を合わせましたな」
見るとR1号、ナーランダがそこに立っていた。そして十人前後のアンドロイドたちが彼を取り囲む円陣をくんで攻撃を仕掛けようという状態だった。この円陣の鎖の中には戦闘能力を十倍以上に強化したRー3号ラーマヤーナの不気味に光る黄金の仮面もある。四人は背中を会わせてアンドロイド達に対した。
「さあ、ここは私たちで間に合うから、空夜。そのお嬢さん背負ってて早く安全な場所に逃げるんだ」
若い僧がそう言ったので滝沢秀明は吉澤ひとみを背負った。若い僧は空中高く飛び上がるとその円陣の真ん中へ降下していった。若い僧が飛び上がる瞬間その場所には重力が消失したようだった。若い僧は。垂直に跳び上がり斜めに降下していった。そして身構えているアンドロイドがよけようとするよりも早くそのアンドロイドの頭部にけりを加えた。そのアンドロイドはけりの衝撃で飛ばされた。その飛ばされたアンドロイドの間隙を埋めようとして、その両端にいたアンドロイドたちが若い僧めがけて打ちかかってきた。同時に二人に挟まれた若い僧は片方を右足で蹴り上げ、もう片方を右の正拳で突き倒した。それはほとんど同時に瞬時におこなわれた。そこに包囲網があいたので滝沢秀明は吉澤ひとみを背負って掛けだした。するとアンドロイドがかかってきたので滝沢秀明は吉澤ひとみを背負ったまま、そのアンドロイドの足にけりを加えて足払いのようにして倒した。滝沢秀明は自分の後ろの方で老僧と若い僧がアンドロイドと戦っている様子を感じながら吉澤ひとみを背負ったまま駆け出そうとした。すると目の前に黄金の仮面をかぶったRー3号ラーマヤーナが立ちはだかった。ラーマヤーナの足は地面に少し潜っていた。
「小僧、逃げられると思っているのか、お前をひねりつぶしてやろう。」
滝沢秀明は吉澤ひとみを背負ったまま身構えた。どうにかしてRー3号のスキをついて逃げ出さなければならなかった。するとRー3号、ラーマヤーナは手刀をふるってきた。滝沢秀明は吉澤ひとみを背負ったまま右に左に飛び跳ねてRー3号の攻撃をかわしていた。滝沢秀明は最初のうちはRー3号ラーマヤーナの攻撃を軽快にかわしていたが足元に木の切り株がありその切り株に足をとられて倒れてしまった。そこをすかさずRー3号ラーマヤーナは攻撃を仕掛けてきた。Rー3号ラーマヤーナが大きく両手をふり上げて両手をくみ、そのまま滝沢秀明の上にふりおろそうとしたとき何者かがその両手をがっしりと受け止めた。それは若い僧だった。若い僧は両手を交差させその交差させところでラーマヤーナの両手うちを受け止めた。そこには人間を越えた力の衝突があった。若い僧の踏ん張った両足は地中に埋まっていた。
「さあ、、今のうちだ。空也、行くのだ」
老僧がそう言ったので滝沢秀明は吉澤ひとみを背負ったまま全速力で駆け出した。どんなアンドロイドも自動車も追いつけないような速度だった。滝沢秀明は吉澤ひとみを背負ったまま全速力でかけ出して老僧と若い僧の住んでいる庵にたどり着いた。そして少し疲労のいろの見える吉澤ひとみを庵の中に入れて休ませていると老僧と若い僧も庵にやってきた。二人の衣服はところどころ破れていて戦闘の激しさを物語っていた。滝沢秀明は二人の僧を庵の中に招き入れた。月は天上で輝いていた。庵の外では小川のせせらぎが聞こえる。月の遙か向こうに輝いているのは金星か。いまさっきの戦闘が嘘のようだった。老僧が吉澤ひとみに話しかけた。それは遠い昔を懐かしむような声だった。
「吉澤ひとみさん、われわれは羅漢拳と呼ばれる。われわれは熊野の山奥で暮らしているのだ。われわれのことは誰も知らないはずなのだが、われわれのことを知らべ始めているものたちがいた。わたしたちは遭難していた無双弘という登山家を助けた。そのために彼の肉体の秘密がそれを悪用するものの手に落ちることをおそれた。まず、天空が最初にこの地に調査に向かった。そこで不審な事件が起こった。松田政男の死だ」
「その事でわかったことがあります。松田政男の研究はいいところまで進んでいたものと思えます。それも無双弘の死体から細胞を取って研究を続けたからでしょう。その研究が松田努がくれたペンダントに書かれていたようです。そのペンダントをわたしは盗まれてしまいました。あの研究の秘密が解き明かされて、羅漢拳にある秘薬と同じものが作られたら、大変なことになります。とても制御出来ないような犯罪集団が次ぎから次へと現れてくるでしょう。あの薬が完成したら大変です」
「実はもう完成しているんだよ」
若い僧はそう言って衣の袖まくりあげた。すると腕は赤く、はれあがっていた。
「天空、その腕はどうしたんだ」
「いやいや心配することはないさ。ほおっておけば治る。さっきあの黄金の仮面をかぶったアンドロイドのも両手打ちを手でとめたとき出来た傷なのだ。秘薬の力によって、われわれと同じ力を得ているが、身体が大きいぶん、われわれよりも攻撃力がある」
「それでは羅漢拳の誰ひとりとしてあの巨人アンドロイドを倒すことはできないのでしょうか」
「うーむ、たぶん無理だろう。身体の大きい分、われわれより強くなっているから」
「それではいったい私たちはどうすればいいのでしょうか」
「さあ、どうするか、思い切って彼らすべてをわれらの本拠におびき寄せて、われらがすべて力を会わせて闘えば彼らを全滅させることができる可能性はある。しかしそれもまた絶対だとは言えないが。もっとももうひとつ方法がないわけではないか」
「もうひとつの音のどんなことですか」
「いや、それはまだ言わない方がいいだろう。それより吉澤さん、いったい君は何ものなんだね」
老僧は吉澤ひとみに興味を示しているらしく吉澤ひとみの方を見ていった。
「私、さっき滝沢くんに行ったのだけどまだ本当のことは言えないわ。志水桜もわたしの仲間なの。ここに来たわけは何の変哲もないところに異常なほどの放射能を感じておかしいと思ったの。それでその放射能のもとを辿っていったら松村君にたどり着いて彼が人間ではなくアンドロイドだということがわかったの。そしてさらに調べていくうちに滝沢くんに関心出てきて羅漢拳のことも知ったというわけよ。でも兄貴にはなにも言わないでね。あいつは何も知らないから」
そう言って、吉澤ひとみは老僧にほほえんだ。
この庵を引き払って老僧と若い僧のふたりは滝沢秀明の寝起きしている家に共同で住むことになった。その家は吉澤ひとみの家のそばにあった。滝沢秀明たちは村上弘明に吉澤ひとみの秘密は黙っていた。しかし、ふたりの時代遅れの坊さんが吉澤ひとみの友達の知り合いだと知って不思議な顔をした。松田努が次田源一郎といることや無双弘の話などを村上弘明は吉澤ひとみに話したが、羅漢拳の存在を兄貴に話すとますます話がこんがらがると思った吉澤ひとみはそのことは話さなかった。だから村上弘明の目にはふたりの坊さんの姿が奇異に映ったのだろう。しかし、羅漢拳の秘薬のことはわかっていて、その薬の製法が何者かによって成功していることを聞かされ、村上弘明は事の重大さを感じた。その薬を飲んだ人間が一般の社会に入ったら、警察署、一つでは制御不能だろう。軍隊、一戸師団が必要となる。そのうえ、風邪薬を飲むようにその薬を飲むだけで容易に自動車のドアに素手で穴をあけ、機関砲の弾を浴びても傷一つつかない怪物が雨後の竹の子のように出現するのだ。街にはとどまることのない殺戮がはじまる。それは終末を意味していた。吉澤ひとみとしては村上弘明や警察の力を借りてもあの古墳の中の捜査をしたかったのだが、羅漢拳の存在が公になることをおそれた滝沢秀明はそれを押しとどめて、必ずこの問題を解決できると明言したが、松田政男の開発した薬がどのくらい出来ているのか、わからない危険な状態でことは推移した。そして数日後にはアンドロイドたちの巣窟は完全に破壊しつくされ、その行方を捜す手がかりもなかった。滝沢秀明も吉澤ひとみもいままでどおり学校に通うことになり、しかし、アンドロイドたちが。いつ襲ってくるのかもわからなかったので老僧と若い僧が人に知られないように警護することになった。もう学校には松村邦洋は出てこなかった。
そんなある日、吉澤ひとみは滝沢秀明の住まいの窓際があまりにも殺風景なため、自分のアパートにある植木を持ってくることを思い付いた。
「ねぇ、滝沢くん、私、アパートに植木をとりに行って来るからついて来てくれない」
「植木ってなんだい」
「パセリやセロリを植えたのよ」
吉澤ひとみのアパートのベランダには合成樹脂でできた白く長いはちが置いてありそこにはいくつか黄緑色野菜が植えられていた。ふたりでそれを滝沢秀明の家にまで運んで来ようというのである。
「吉澤さん、その野菜でビタミンを取ろうというのかい」
「まあね」
吉澤ひとみのアパートに入るとふたりは洋間の方へ行った。白いソックスが部屋の敷居をまたいだ。そのままベランダのところまで行くと白くて長い四角の合成樹脂の容器に植えられた野菜がみえる。これを滝沢秀明の家の庭にまで運ぶつもりなのだ。
「ここにある野菜をあなたの家の庭にまで運ぶのよ」
「そう」
「冷蔵庫の中になにか入れておいたと思うの。冷たいもの、飲ませてあげる。少し、待ってて」
吉澤ひとみはそう言うと冷蔵庫のところまで行って缶ジュースを出してきた。同時にくず餅も持って来た。
「これ,この前食べた残りだけどいいわよね。でも大丈夫かしら。三日前のだから平気だと思うけど」
そう言って吉澤ひとみはくずもちのはしをつまんで味見してみた。
「大丈夫みたい」
吉澤ひとみは小皿にくずもちを二つにわけて黒みつをかけた。滝沢秀明は缶ジュースのふたをあけ、冷たい液体をのどに流しこんだ。それを飲んだり食べたりして一段落ついたところでそれの野菜を滝沢秀明の家の庭に運ぶことになった。滝沢秀明は野菜の鉢をふたつ持った。そして、残ったひとつの鉢は吉澤ひとみが持った。それらを持って部屋を出て行こうとしたとき吉澤ひとみはなにかに気付いた。
「あら、私、忘れていたわ。そうそう、部屋の中のヒヤシンスの花があった。あれも、持って行こうと思っていたのよ」
そのヒヤシンスの花は彼女の机の上に置かれていた。二、三日水をあげていなかったので大部、元気がなくなっていた。机の上にのっていたその花は手前の方に少し、おじぎをしている。吉澤ひとみは自分の持っている四角な鉢のうえに、うまい具合に組み合わせてその鉢をのせると、滝沢秀明の家にまで運んだ。老僧も若い僧もアンドロイドたちのその後の行方を調べるために出かけているので家の中には滝沢秀明と吉澤ひとみしかいなかった。吉澤ひとみはアパートから持ってきたばかりのヒヤシンスのはなびらをそっと指で触れてみた。するとヒヤシンスの鉢ところから紫色の煙が急に噴き出してきた。そして、瞬間的にその煙は部屋の中を充満して、吉澤ひとみも滝沢秀明もその煙を吸うと意識を失った。滝沢秀明はひとり残された部屋の中で誰かに起こされた。部屋の中で滝沢秀明を見つめているのが老僧と若い僧だということがわかった。滝沢秀明はあたり見ました。そこには吉澤ひとみの仕事はなかった。
「リーダー、やられました。吉澤さんはいますか」
「いやこの家の中で誰もいない」
「あのヒヤシンスの鉢の中から紫色の煙が出てきてそれを吸ったとたんに意識を失ってしまいました」
若い僧が窓際のヒヤシンスの花鉢から花を引き抜くとその中には金属製の機械が埋まっていた。その金属製の機械の中には小さなタンクがついていてその中には何か薬品らしい液体が入っていた。若い僧はそのタンクを手にとると窓の外へ投げ捨てた。
「吉澤さんは奴らに誘拐されたのでしょうか」
「うん、たぶんそうだろう。誘拐されたということは向こうの方にも何か条件があるに違いない。きっとその条件を奴らが出してくるだろう。その連絡があるまで待つしかないだろう」
滝沢秀明は気が気でなかった。吉澤ひとみのことを思うと胸がふさがってしまうのだった。
「空也、心配するな、われわれの力なら必ず、彼女を助けだせるさ」
「しかし、リーダーあのアンドロイドたちは今までのアンドロイドではないのですよ。松田政男の薬を改良した、われわれの秘薬とほぼ同じものを開発して、われわれと同じ能力を身につけているではありませんか。一体私たちは彼らに勝つことができるんでしょうか」
滝沢秀明の家の玄関のチャイムが鳴った。
「滝沢くん、うちのひとみがお伺いしていないかな」
「あれは」
「吉澤さんの兄さんの村上弘明さんです」
「まあ、いい。とにかく事情を説明しよう」村上弘明が滝沢秀明の家の中に入って行くと異様な風体をしたふたりの僧が立っている。村上弘明には最初、事態がまったく飲み込めなかった。次田源一郎の関わりからK病院で松田政男が特殊な薬の開発をおこなっていることや、無双弘の存在は肯定するものの、次田源一郎の探し求めている、その実体が目の前に存在したからだ。
「次田源一郎という人物を知っていますね」
「もちろん」
「わたしたちが次田源一郎が追い求めている実体なのです。まず、われわれのことを誰にも口外しないと約束して貰いたい。われわれの活動が出来ないということになりますから、つまりわれわれは覆面パトカーのようなものなのです。われわれの行動はこの世界の福祉にのっとったものです。わたしたちの活動を外部にもらすことがあると」
部屋の中に鋼鉄製の置物があったが、一瞬のうちに老僧がみつめると蒸気となって消えてしまった。村上弘明の首筋にはひんやりとしたものが走った。
「吉澤ひとみさんはあるグループに誘拐されました。それは福原豪の親子や松田政男を殺した連中です」
「ええっ」
村上弘明は絶句した。
「家に入ると、こんなものが投げ込まれていたんです」
村上弘明は手に握られていた封筒を老僧にさしだした。その封筒の表にはこれを滝沢秀明の家に持って行けと書かれている。
「とにかく、なにが書かれているか、読んでみましょう」
老僧は村上弘明から受け取った封筒を破るとその中身を確認した。中には
 羅漢拳のみなさま、吉澤ひとみは預かっている。吉澤ひとみを取り返したかったら、今夜、十時に大阪港公園にやって来い
 と書かれている。
「十時ということはあと十五分しかありません。これからわたしたちは大阪港公園へ行きます。あなたも行きますか」
「十五分では無理ですよ」
「いいえ、無理ではありません。あなたも行きますね」
若い僧は村上弘明の身体を小脇にかかえた。
「なにをするんですか」
四人は家の外に出た。外はもうすっかりと暗くなっていた。空には干しが輝いている。滝沢秀明は宇宙の調和性を感じていた。
「では、私について来てください」
滝沢秀明は走りはじめた。後ろからは老僧と村上弘明を小脇に抱えた若い僧がついて来た。三人は風よりも早かった。前方を走る自動車を何台も追い抜いて行き、ヘッドライトが後方に流れていった。自動車の運転手は彼らを見てなんと思ったのだろうか。ただ黒い人影があっと言う間に車の横を通り抜けて行くのだった。三人は通天閣のネオンを横に見ながら大阪港公園へと向かった。滝沢秀明の家を出てから十分ぐらいで大阪港公園に三人は着いた。車で走ればどんなにスピードを出しても一時間はかかる距離だった。大阪港公園はその名前のとおり港を望む場所に作られていて公園内には玉砂利が敷かれていた。公園の中には蘇鉄のような木が生えていてそこは小高くなり、芝生で覆われていた。三人がその蘇鉄の木のあたりにやってくると隠れていたアンドロイドたちが姿を現した。Rー一号ナーランダは吉澤ひとみを連れていた。Rー3号生やな脳姿も見に行った。Rー3号ラーマヤーナの黄金の仮面は港の夜景を背景にして不気味に光らせ、改良された松田政男の薬で身体は一回り大きくなっていた。
「羅漢拳のみなさん、よく、いらっしゃいました」
「まず吉澤さんを返してもらおうか」
老僧が言った。
「お前らを呼び出したのはほかでもない、お前たちの本拠を知りたいからなのだ」
Rー一号ナーランダが言った。
「断る。羅漢拳の本拠にはさまざまな秘薬がある、お前たちにそれを渡すことは世界の滅亡を意味している」
「そんなことを言っていいのかな。われわれはお前たちの秘薬の一つを手に入れた。薬を手に入れる基礎戦闘能力がまさっているわれわれが君たちと同じ条件の改造を受けたということはわれわれの方が戦闘能力が上がっているということではないか、そのことがわかっているのかな」
「そんなことはどうでもよろしい。早く吉澤さんを返してもらおうか」
「そうか、そんなに言うなら、この女を返してやろう。もう戦闘能力の上がったわれわれにとってこんな人質は必要ないのだ。どうしても羅漢拳の本拠地のことを言わないなら、きみたちから無理矢理聞こう、きみたちの持っている秘薬もすべていただくことにしよう」
Rー一号ナーランダはそういうと吉澤ひとみの手を放した。
「兄貴」
「ひとみ」
吉澤ひとみは走るようにして村上弘明の方に走り寄って来た。
「吉澤さん、けがはなかった」
「いいえ、なにも」
「吉澤さん、後ろに下がっていなさい」
老僧そう言うと吉澤ひとみを背中に隠し、滝沢秀明と天空に目配せをした。二人はアンドロイドたちの中へ突っ込んでいった。Rー一号ナーランダとRー3号ラーマヤーナは動こうとしなかった。二人は六人のアンドロイドたちを相手にして五分五分で戦っていた。組み討ちをするたびに鈍い音がしてアンドロイドたちを衝突させると空中に火花が散った。アンドロイドたちは。倒されても倒されても向かってくるが滝沢秀明島と天空によって一人、二人と倒されていった。アンドロイドたちは劣勢になりじりじりと後退していった。業を煮やしたRー3号ラーマヤーナが出てきた。Rー3号ラーマヤーナの正拳を受けると滝沢秀明は後方へ飛ばされた。天空もまたそうだった。十倍に戦闘能力が上げられたRー3号の威力は絶大だった。滝沢秀明や天空の力をはるかに超えていた。天空の力を越えているということは老僧の力を物理的には越えているということを意味する。滝沢秀明と天空が後ろに控えている老僧のところまでにじり下がってきたとき老僧は静かに前に歩み出た。
「リーダー」
二人は老僧に声をかけた。
「しじい、お前が俺にかなうと思ってるのか。俺は最初にお前に会ったときの俺ではないのだ。お前の能力は完全にコンピューターで分析し終わっているのだ。物理的には若いほうの七十パーセントの力しかないではないか、あとはフットワークだが、それも二十パーセントしかない、合わせて九十パーセントだ。総合力では俺の百パーセントに及ばないのだ」
Rー3号ラーマヤーナの黄金の仮面は勝ち誇ったように笑った。そしてRー3号ラーマヤーナはこの前と同じ攻撃パターンを取り、老僧の事情めがけて手形脳振り下ろした。老僧はその攻撃を指一本ぐらいの見切りでよけると五、六メートル後方に鳥のように飛び退いた。老僧の長く垂らした衣のそでは空気を含んで蝶のように舞った。
「自分の力が完全だと思い進歩を止めたときもうお前は自分にやぶれているのだ。空に雲は流れその形は一時として一定の形をとりうることはなく空に日が照ると思えば暗雲が生じ、嵐を呼ぶ。雨は豪雨となってすべてのものを流す。しかし翌日には昨日のことも忘れたよう空は晴れ、太陽が落ちれば漆黒の闇となり、星が天に輝く。漆黒の夜は永久に続かずまた明けの鳥が鳴くときまた朝が来る。物事は移ろいゆく。なにをちっぽけなお前の頭ですべてが御せるものか、今日のお前が昨日のお前でないようにに今日の私も昨日のわたしではないのだ。」
老僧はそう言うと両手を合わせてゆっくりと息を吹き始めた。老僧の体の中には力が満ちあふれていくようだった。それと同時に老僧の肩のあたりが金色に光り輝き始めた。
「あれは」
滝沢秀明は驚いて天空に説いて出した。
「ああ、あれか。あれは噂には聞いていたが、私も見るのは初めてだ。羅漢拳最終奥義のひとつ、原書書き換えの法だ。しかし」
若い僧はそう言うと両手を合わせた。彼の声には悲しみが含まれていた。滝沢秀明も何か不思議な感動に身を任せて老僧の方を見て手を合わせた。老僧の体は徐々に光輝き始め、最初は肩のあたりだけが金色に輝いていたのだが、輝きが全身をおおい、老僧の体は光の塊のようになった。その輝きが最高に達すると老僧は目をひらいた。するとR3号の首は消えていた。そして彼はブリキのおもちゃのように倒れた。老僧は崩れ折れた。
「リーダー、どうしたんだ」
「いや、今の攻撃のためだいぶ体の中の生命をすり減らしてしまった」
アンドロイドたちは形勢が不利になるとたちまち消えてしまった。
「リーダー、あれが原書書き換えの法なのか。噂によるとあれを使うと寿命が十年縮むと聞きましたが」
天空が心配して老僧に尋ねた。
「いやいや、そんなことはない。それは原書書き換えの法の使い方を知らないからだ。しかし少し疲れた」
五人はあの庵に戻った。四人はまたものすごいスピードを出し始めて、あっという間に自動車のスピードに達した。そして老僧と若い僧がともに住んでいた庵の前にやってきた。「少し横にならせてもらおうか」
老僧はそう言うと床に横になった。
「リーダー、大丈夫か」
「お茶でもいっぱいもらおうか
」老僧がそう言ったので吉澤ひとみはお茶をわかして老僧にさしだした。
「この年になって女の子からお茶を入れてもらえるとは思わなかった」
そう言うと老僧は吉澤ひとみのを見てほほえんだ。
「おじいさん、大丈夫ですか」
「いやいや、大丈夫」
「吉澤さん二人を呼んでくれないか」
老僧にそう言われて小川で茶椀を洗っていった滝沢秀明と天空の二人を吉澤ひとみは呼んだ「リーダー、大丈夫か」
「二人とも来たか。わしはもう長いことはないように思う。さっきの原書書き換えの法を使うには年をとり過ぎてしまったようだ。体にかかる負担があまりにも大きすぎた。あの世からお迎えが来ている。私が死んだらリーダーがだれかは皆で決めるように、私心のない、控えめな人物の選ぶように。もちろん、究極の法、源物質の所有者名の書き換えの法と原書書き換えの法は身につけているものでなければならない。それからアンドロイドたちはまた修理してわれわれをを襲ってくるだろう。だからお前達伝えておきたいことがある。残念ながらあのアンドロイドたちにかなうものは羅漢拳の中にはすでにいない」日
「ではリーダー、どうすればよいのだ」
滝沢秀明は目に涙をためながら言った。
「だから、これから、わしいうことをよく聞いておくんだ。羅漢拳のものだけでは彼らにに立ち向かうことのできるものはいない。しかし羅漢拳すべて力とある一人の男の力を合わせれば彼らに勝つ可能性もある。そこで天空お前はこれから故郷に戻るのだ。このお嬢さんと吉澤さんをつれて。アンドロイドたちを熊野の山におびき寄せるのだ。それから空也、お前はある男を熊野の地に連れてくるのだ。その男はインドの山奥ヒマラヤの麓にいるはずだ。その男の力をもってすればRー3号をうち負かすことができるだろう。その男に会うためにはこれがいる」
老僧はそういうと懐の中から原書を取りだした。それは宇宙のシナリオの書かれた設計図のようなものだった。しかし、人類の歴史が始まって以来、その巻物の中身をあけたものはいない。
「これを見せればその男はきてくれるはずだ」
そう言って老僧は滝沢秀明に原書を渡した。
「さあ、私も、もうこの世ともお別れだ。皆怠らずに努めるように」
老僧はかすかになっていく声でそういうと静かに息をひきとった。
「空也、わたしは吉澤ひとみさんと村上弘明さんをつれてゆっくりと歩きながら熊野の地に行く、アンドロイドたちをおびき寄せるためだ。そして一週間後には熊野の地に着くつもりだ。お前も一週間以内にヒマラヤのふもとへ行き、リーダーの言った人物をつれてくるのだ。頼むぞ」
「よし、わかった」
滝沢秀明夫は天空たちと別れた。滝沢秀明は一週間以内に熊野の地にリーダーの言った人物を連れてこなければならなかった。滝沢秀明は敵の尾行を恐れて夜にこの地を立った。滝沢秀明はリーダーから預かった原書を胸抱いていた。そこには宇宙のプログラムが書かれているという。
「一週間したら、会いましょう」
「うん、一週間後には熊野に戻れると思うよ。では、失礼」
滝沢秀明はそう言って自分の家を飛び出し、空港へと向かった。滝沢秀明はどうすばRー3号を倒すことのできる人物に出会うことができるのかわからなかった。ただ、死んだ老僧にあの世から導いてもらうしかないと思った。そう思うと何かふところに抱いている原書がうやうやしく思え、その原書を取り出すと目の前に置いて拝んでみた。これからの旅とその人物に会える僥倖を祈ってである。そうして目をつぶるとなにか、光の固まりが見えるような気がするのだった。飛行機に乗り込むと滝沢秀明は機内を見回した。どうやら尾行はついていないようだった。怪しい人物いない。飛行機はインドのニューデリーについた。それからさらに鉄道に乗ってヒマラヤ山脈のふもとへと急いだ。滝沢秀明の周りには肌の色も顔の骨格も違った人々がまわりに座っていた。異国から来た侵入者をなにをしに来たのかという目で見られているような気がした。それは言葉が通じないからそう思うのかもしれなかった。滝沢秀明はリーダーから預かった経典を指に触れてみた。日本と違う雄大な風景か広がっていた。線路はゆるやかなカーブを描いて滝沢秀明の行く先をさし示していた。滝沢秀明が行こうとしているところは決まっていた。シャカが悟りを開いたというと菩提樹を訪ねてみようと思った。それはリーダーが夢の中でそう告げたからである。滝沢秀明がどこ訪ねたらいいかと思い悩んでいるうちに飛行機の中でうとうとし始めた。窓の外には白い雲が広がっているだけで飛行機は雲の上に出て眼下には雲がじゅうたんのように広がっている。滝沢秀明のまわりの席は空席だった。滝沢秀明はトイレに行きたくなり、トイレに行って戻ってくると見たことのない光輝く動物がそこに座っていた。しかし、そのことはなにも不思議な感じがしなかった。
「きみは誰だい、なぜ、こんな床に座っているの」
「きみがどこにいってよいのか分からないだろうと思ってやってきたのだよ」
「実はそうなんだ。われわれを救ってくれる人がどこにいるのか皆目見当がつかないんだ」
「そんなことだと思っていた。ゴータマ、シッダルータが悟りを開いたという菩提樹の下に行ってごらん。そうすればあなたを助けてくれる人に出会うことができるだろう。ところで原書を持っているかな。その原書がその人を探し出す手がかりになるでしょう」
見たことのない動物がそう言ったので滝沢秀明はその動物に原書を手渡そうとするとバランスを崩して前のめりになった。滝沢秀明はそれが夢だったこと悟った。しかし滝沢秀明には何の手がかりもなかったのでその動物の夢のお告げに従って羅漢拳に救済者を探し求めようと思うのだ。滝沢秀明は飛行機を降りてその村へ行った。その村に菩提樹があった。菩提樹の前に立っていると一人の老人が近づいてきた。
「菩提樹をじっと見つめているようだが、こんなところに立ってなにをしているのかな」
「ああ、おじさん、実は人を捜しているんです。その人は大変強い人で、具体的にはどんな人なのかよくわからないのです」
「強い人」
滝沢秀明の話にその老人は興味を持ったようだった。
「おじいさんにはだれか心当たりがあるのですか」
「心当たりというほどのことではないが、人づてに聞いた話によるとさらに西方の山へいくと険しい山がありその山にはヨガの行者がいるそうだ。その行者は象を片手で持ち上げという話だが」
滝沢秀明はその男こそ羅漢拳を救済する人物だと思った。
「さらに西へを行けば良いのですか」
「そうだよ」
そう言ってその老人は西を指さした。その指し示した方向には峻厳な山が控え、山のふもとは霞がかかっているようにぼんやりとしてよく見えなかった。
「ここから二百キロぐらい離れている。車でも使わなければ無理だろう」
その山に向かって走り始めた。滝沢秀明の走るあとには砂煙が舞い上がった。滝沢秀明は二時間ぐらい走り続けてその山のふもとにたどり着いた。ここまでくるとこのあたりはだいぶ高度があるようだった。山肌も赤土から岩に変わっていた。道の傾斜も厳しくなり、そのうち一本道に変わった。山の斜面の一本道を大きく巻くようにして上っていく。上っていくといっても滝沢秀明はぴょんぴょんと飛び跳ねてのぼっていくのだった。道の片側は山の斜面、もう片方は切り立った崖になっていて、はるか下の方に谷底が見える。滝沢吉郎は大きな岩の上に飛び乗り、その岩の上からジャンプしてつぎの岩の上に飛び移るのだが、その大きな岩がゆれるたびに生きた心地がしなかった。滝沢秀明が飛び移った大岩が谷底へ落ちていくこともしばしばだった。それらの岩は転がり落ちていく音だけを残して谷底に消えた。滝沢秀明は岩から岩へとび移っていくことで精一杯でまわりにほとんど注意を払えなかった。しかし気がつくと目の前の男が一人、後ろに男が一人立ちはだかっている。こんなところにやってこられるのは普通の人間ではない。しかも彼らは日本人だった。したがって彼らはアンドロイドにほかならなかった。滝沢秀明の前に立ちはだかった男が叫んだ。
「おい、胸にしまわれている原書をこちらに渡してもらおうか」
「なんだと、きさまたちは一体何者だ」
「君が先刻ご存じで一味だよ」
そう言って前後のアンドロイドが滝沢秀明のほうへにじり寄ってきた。滝沢秀明は身構えた。いつでも体中のエネルギーを筋肉の動きに変えられる用意をした。前後のアンドロイドは同時に滝沢秀明の方へ向かって飛びかかってきたので滝沢秀明は彼らよりさらに高く跳び上がった。滝沢秀明に襲いかかったきた二人は緩やかな弧を描いてお互いに相手の立っていた位置に着地した。滝沢秀明も着地した。大きな岩に滝沢秀明が飛び乗るとその岩はぐらりと揺れ、滝沢秀明はバランスを失って谷底へ転落していった。滝沢秀明は落ちていくとき、まわりの壁面がはっきりと見えた。落ちながら彼は懐の中の教典をにぎりしめた。滝沢秀明は地面にたたきつけられる衝撃を感じながら気を失った。滝沢秀明は気が付くと大きな一枚岩の上に寝かされていた。目をあけると大きな空が見える。滝沢秀明は一体どうしたのだろうかと思った。崖から転落したところまでは覚えていた。滝沢秀明を襲ったアンドロイドたちはどうしたのだろうと思ってあたりを見回すとアンドロイドたちはそこにはいず、ヨガの行者が火を焚いているのが見える。どうやらここは山の頂上らしかった。まわりを見回しても周囲は雲と青空が見えるだけだった。滝沢秀明はリーダーから授かった原書をなくしてしまったのではないかと思い、ふところの中を探ってみるとたしかにそこにある。山の中腹転落して、今こうして頂上にいるということはたき火にあたっているヨガの行者に救われたということを意味している。滝沢秀明はそのヨガの行者のところまで行くことにした。ヨガの行者はこの険しい山を裸足で過ごしていた。身にはボロきれをまとっているだけである。髪も髭も伸び放題に伸びていた。ほとんど枯れ木のようだった。焚火の前でかがんでいるヨガの行者を見て滝沢秀明はこれこそ自分の探し求めている人物に違いないと思った。彼が近づいていくとヨガの行者のほうから声をかけきた。
「今、起きたところか」
「はい、助けてくださったのはあなたなのですか」
「そうだ。谷底で気を失っているお前を見つけたのでここまで運んできたのだ」
「実は私は羅漢拳と申しまして拳法の奥義を会得している者たちの集団の一員です」
「羅漢拳、わしもその名は聞いたことがある。わしもこの山の頂上でただ一人、三千年の歴史を持つヨガの秘伝をことごとく会得しているものだ。その目的は不老不死にある」
「そうでしたか。あなたこそ私の探し求めていた人に違いありません。実は谷底に転落したのもみな理由があるのです。聞いていただけますか」
「話してみなさい」
「実はいま日本が危機に陥っているのです。日本征服をたくらむアンドロイドたちの毒牙にかかろうとしているのです。われわれ羅漢拳の者たちは日本の歴史が始まったときから日本を守ってきました。しかし、アンドロイドたちはわれわれの存在に気づきにわれわれの本拠を襲撃し、秘薬をすべて奪う準備を進めています。実は私もその一味に襲われて崖から転落しました。われわれのリーダーが生きているならともかくリーダーも彼らと戦いに敗れ、今はいません。残念なことに彼らにかなうものがわれわれの中にはいないのです。そして私たちの指導者の臨終の言葉としてゴータマシッダルータなら悟りを開いた菩提樹の木陰へ行けば、われわれを助けてくれる人物に出会うことができるだろうということでした。しかし、そこへ行きましたが、それらしい人物に会うことできませんでした。しかしそこで老人と出会い、この山に一人ののヨガの行者が住んでいてその人があなたの探し求めている人かもしれない、と言われ、ここまでやって来たのです。あなたこそ、私の探していた方ではありませんか」
「残念ながらそれは人違いであろう。私は確かにヨガの奥義を習得して五百年の生命を保っている。しかしそれは戦うためではない。肉体を精神によって完全にコントロールすることにより、何も食べすに呼吸もせずに生き続けることが出来るからだ。わたしは何も必要としないし、誰からも必要とされることはない。つまり完全なる無の存在なのだ。したがって君たちを助けることは出来ない」
「そうですか」
滝沢秀明は残念そうにつぶやいた。
「しかし、私には見える」
そう言ってヨガの行者は目をつぶった。
「君の探し求めている人物はあの菩提樹の周辺にいる。今なら遅くはない。早く下山するのだ」
「はいわかりました」
「私は君の役に立つことはできなかったが、これを使えば何かの役に立つこともあろう」
そう言ってヨガの行者は滝沢秀明に自分の首にかけていた首飾りを手渡した。
「何か、どうしようもない時にはこの首飾りを相手に投げつけ、アノクタラサンボダイと三回繰り返すことだ。では気をつけて」
ヨガの行者はそう言って滝沢秀明に首飾りを手渡した。滝沢淑郎は早速下山した。岩から岩へと飛び移って行き、山のふもとに立つとまたものすごい速度で菩提樹と向かった。そのころ滝沢秀明と別れた吉澤ひとみたちは徒歩で熊野の山へ向かっていた。熊野の山奥の羅漢拳の本拠地へ滝沢秀明と同じころ到着するため、吉澤ひとみは徒歩で熊野へと向かっていたのだ。そうした人目につきやすい行動はアンドロイドたちの尾行を引き付ける目的もあった。一日に三十キロぐらい歩き、宿をとることにしていた。それはまるで江戸時代の旅のようでもあった。この物語りの始まりは初夏のころだったが、もうそこに秋の気配が忍び寄っていた。彼らは日本旅館に泊まることにした。吉澤ひとみが旅館の部屋に入ると窓からは外の景色が見える。下界は杉木立で囲まれていた。下の方には川が流れていて岩の間を水がちょろちょろと流れている。
「まあ、いい景色よ。兄貴、こっちに来て見てごらんよ」
吉澤ひとみにそう言われて村上弘明は窓から見える景色を眺めた。
「羅漢拳の本拠ってこんなところなのかな」
「うん、ここに似ていますよ。しかしもっと険しい深山ですよ」
うしろから天空が首を伸ばした。
三人が窓辺から外の景色を眺めていると宿の人がやってきた。
「お風呂がわいております」
「そう、じゃあ、先に入っていい」
吉澤ひとみはこの旅館の廊下を歩いていた。
「私どもの宿はお風呂だけは自慢なんですよ」
「どんなお風呂なんですか」
「入ってみればわかりますよ」
吉澤ひとみは脱衣場で静かに服を脱ぐとその滑らかな肌をあらわにして浴室へ通じる戸をあけた。宿の女の人の言ったことは誇張ではなかった。その湯船は吉澤ひとみの泊まった部屋と同じように杉木立の山の斜面に面して作られていた。湯船の中へはといで山中からわき出すお湯を導き入れている。杉の木で湯船は作られていてあふれるお湯に濡れて光っている。吉澤ひとみは湯船の中に静かに足を入れた。お湯は少しぬるい方が旅の疲れいやすにはちょうどよい。浴室の窓からは杉木立が見え、その窓の下の方には深山の川の細い流れが続いている。吉澤ひとみが湯船の中に身体を沈めると湯船からはお湯があふれ出た。吉澤ひとみは今さらながらこの事件に関わりすぎたことをひどく反省した。滝沢秀明たちは知っていることだが、自分が村上弘明の憧れの人である、志水桜たちの仲間だということを自分の兄に言うことが出来るだろうか。
「兄貴」
吉澤ひとみは小さくつぶやいてみた。しかし、それでは不真面目な気がして、
「マ・サ・カ・ズ」
と新たにつぶやいてみる。その思いは深山の杉木立の中に吸い込まれていくようだった。吉澤ひとみが風呂から上がって出てくると天空は窓辺に座って外を眺めていた。
「天空さん、おふろ上がりましたよ。お入りになれば」
「そうですか。じゃあ私も入らせてもらいましょう」
そう言って天空は窓辺から立ち上がろうとした。すると天空は何かの気配を感じて立ち止まった。そして吉澤ひとみが部屋の中に入って来ようとするのを手で制した。天空は閉じられている六畳の襖に手をかけると急に開け放った。すると中から黒い人影が飛び出した。その人影は四畳半を走り抜け、窓から外に飛び出した。吉澤ひとみは突然のことに声も出なかった。吉澤ひとみと村上弘明が窓から下を見るとその人影は七十メートルくらいの谷底に降り立って走り去ろうとしているところだった。
「どうやら魚はひっかかってきたらしいな」
天空は言った。
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(小見出し)滝沢秀明は下山して菩提樹の木陰にいた。滝沢秀明の懐にはリーダーから授かった原書と山の頂上にいたヨガの行者から受け取った首飾りが入っていった。滝沢秀明は最初ゴータマシッダルータが悟りいう開いたという菩提樹のことしか頭になくてこの村のことは詳しく見ていなかったが、もしかしたらこの村の中に羅漢拳を救う人物がいるのかも知れないと思った。家々は泥で塗り固められた壁で覆われていて日中の強い日差しを遮っている。集落から少し離れたところに田圃はありそこで米を作っていた。日中は日差しが強いので外へ出ている人はいないようだった。あたりを見回してもそれらしい人間は一人も見つからず、滝沢秀明はまた菩提寺の木陰へ行こうと思った。菩提樹のそばまで行くと大きな樹木の背後に人の気配を感じた。滝沢秀明身構えると山の途中で彼を襲った人物が待ち伏せていた。
「おい、まだ生きていたのか。まあいいその原書をこちらに渡せ」
滝沢秀明の前後アンドロイドたちは取り囲んだ。二人のアンドロイドは同時に滝沢秀明に飛びかかってきた。滝沢秀明は二人よりも高く飛ぶと両足をほぼ平行にひらいて二人を蹴った。すると二人のアンドロイドはバランスをくずして地面に落下した。いま一撃でアンドロイドたちは滝沢秀明から原書を奪うことが困難なことを悟った。滝沢秀明が二人のアンドロイドたちとにらみ合いを続けていると急にアンドロイドたちはかけ始めた。滝沢秀明も走り出し、彼らを追った。アンドロイドたちは村を目指していた。村の住人たちは突然のことにあっけにとられていた。滝沢秀明がアンドロイドたちに追いつく前にアンドロイドたちは民家の中へ逃げ込んだ。二人のアンドロイドたちは女と子供を抱えて自信ありげな表情をして外に出てきた。
「さぁ、こちらには人質があるのだ。この人質の命を助けて欲しいと思うなら原書を渡すことだ」
いつの間にか村人たちが集まってきて彼らを遠巻きにとり囲んだ。滝沢秀明は手も足も出ないことを自覚した。今は原書を渡すしかないと思った。そう思って原書を手にとってみると不思議なことが起こった。原書がうっすらとオレンジ色に光っていたのだ。
「さあ、すぐにその原書をこちらに渡すのだ」
アンドロイドたちは催促した。すると滝沢秀明の頭の中に誰かが話しかける声が聞こえた。
{原書を渡すことはない}
{一体、誰だ。誰が話しかけているのだ}
{原書を渡すことはない}
滝沢秀明が手にしている原書はさらにオレンジ色に光り始めた。そしてその輝きはますます強くなった。するとアンドロイドたちはブルブルとふるえ出し、女と子どもを放した。滝沢秀明があっけににとられて見ていると、ますますアンドロイドたちはブルブルとふるえだし、急に頭が破裂して金属部品が四方に飛び散って倒れた。{お前はいったい誰だ。こんな芸当のできるのはお前なのか}
{そうです。私です。私は原書の書き換え、および、源物質の所有者名の書き換えという究極の技を身に付けています}
{もしかしたらあなたが羅漢拳を救ってくださる方なのですか}
{そうです。羅漢拳を救うために私は使わされました}
{あなたはどこにいらっしゃるのですか}
{右斜め後ろに見える家にいます}
滝沢秀明は右斜め後ろの家を見た。何の変哲もない家のようだった。滝沢秀明はその家へ歩みを進めた。不思議なことにその家に近づくにつれて原書はオレンジ色に強く光り始めるのだった。その家の中に入ろうとしたとき玄関のドアのところで老婆に押しとどめられた。
「旅の人、今、ここに入られたら困ります」
「この家の中に私の尋ね求める人がいるのです」
「そんなこと言ってもここの奥さんが赤ちゃんを落としているのですから」
そうやって滝沢秀明と老婆が押し問答している間に奥の方から赤ん坊の鳴き声が聞こえた。
{さあ、お入りなさい。}
滝沢秀明は中へ入った。滝沢秀明が中へ入っていくと生まれたばかりの嬰児がベッドの中に寝かされていた。
{さあ、私があなた仲間です。羅漢拳の本拠地にいきましょう}
羅漢拳を救う人物は意外なことに生まれたばかりの嬰児だった。滝沢秀明は思いもしなかったことに目を丸くした。
{行くといってもどうやって行くのですか。それに貴方生まれたばかりの赤ん坊だというのに}
{私はあなたがここにやって来ることを母の胎内にいる三カ月前から知っていました。私は吉澤ひとみさんのことも知っています。あなたはヨガの行者に会いましたね。ヨガの行者から受け取った首飾りがあるでしょう。それを空に投げ上げ、言われた呪文を三回繰り返せば良いのです。その前に私を抱き上げてください}
そう言われて滝沢秀明はその赤ん坊を抱き上げた。そしてヨガの行者からもらった首飾りを空に投げ上げると三回、呪文を唱えた。すると目の前にいくつもの虹が現れ、滝沢秀明意識を失った。気がつくとを滝沢秀明は懐かしい熊野の奥地、羅漢拳の本拠地に来ていた。石造りの神殿に寝かされ、気が付くとメンバーに囲まれていた。あの赤ん坊はどこかと思うとリーダーの代理の腕の中に抱かれていた。
「やあ、気がついたか。いろいろご苦労だった。すべてのことはこの赤ちゃんから聞いた。今はただ、戦いに備えるだけだ。天空たちもも一時間ばかり前に着いたばかりだ。天空たちをつけていたアンドロイドたちもこの地を探し当てた。もうすぐ総攻撃をかけてくることをことだろう」
滝沢秀明があたり見回すとそこには吉澤ひとみや村上弘明の姿もあった。
「やあ、吉澤さん、羅漢拳の本拠地にこらえて満足かい」
「まあね。しかし救世主がこんな赤ちゃんだったとはね」
{私は赤ちゃんではない。Rー3号ラーマヤーナを撃退するために使わされたものです}
「まあまあ、、こんなところで喧嘩をしていても仕方ない」
そう言ってリーダー代理はアンドロイド軍団を迎え撃つ態勢を着々ととりつつあった。羅漢拳の本拠地の要所要所にメンバーたちは配置された。来るべき敵の襲来を待っていた。偵察に出ていてメンバーが戻ってきて、リーダーの代理のところに行って状況を報告した。
「アンドロイドたちが攻めのぼって来ます」
「それで何人ぐらいいるのだ」
「およそ、三十人くらいだと思われます」
「そうか、では各自戦闘態勢に入るように。じゃあ、この方を頼みます」
リーダーの代理はそう言うとRー3号ラーマヤーナに対するためインドからやってきた赤ん坊を吉澤ひとみの手に渡した。座禅堂を中心として各所にメンバーは配置された。杉木立の中を秋風が吹きぬけていく、メンバーたちの衣のたもとをひらひらと揺らした。メンバーたちは白い帯をきつくしばり直した。やがてアンドロイドたちはゆっくりとこの地に上がって来た。顔の造作もはっきりととわかるほどの距離になっていた。先頭にいるのはのはRー一号ナーランダだった。その横にはRー3号ラーマヤーナもいた。
「ついにお前たちの本拠地を探し当てた。これでお前達もおしまいだ。秘薬をすべて渡すのだ。さあ、みんな、かかれ」
Rー一号がそう言うとアンドロイドたちは蜘蛛の子を散らすように散らばっていった。メンバー二人に対してアンドロイド一人ぐらいで当たっていた。空中を飛ぶもの、杉の木に跳び上がるもの、多くの技が繰り出されていた。大体において羅漢拳の方が戦いを優勢に進めていたがRー3号ラーマヤーナの前に敵はなかった。Rー3号ラーマヤーナに立ち向かっていくメンバーはことごとく空中高くく投げ飛ばされた。老僧の亡き後、羅漢拳の中で秘技を持つリーダー代理がRー3号を攻撃しようとするとインドからきた赤ん坊の声が聞こえた。
{おやめなさい。Rー3号は私に任せなさい}
そのため師範代はRー3号への攻撃をやめ、ほかのアンドロイドたちに矛先を向けた。吉澤ひとみの腕に抱かれていた赤ん坊はR3号に秘技を二つ同時にかけた。Rー3号はぎしぎしという音を立てて動かなくなった。
{だれた。俺の動きを止めを切るものは}
{そんなことはどうでもよい}
Rー3号はあたりを見ました。自分に秘技をかけているものは吉澤ひとみの腕に抱かれている赤ん坊しか見当たらなかった。
{さては吉澤ひとみの腕に抱かれている赤ん坊だな。お前が俺の存在プログラムを抹消しようとしているのだな}
「おい、だれか。あの赤ん坊に石を投げつけろ」
R3号は味方のアンドロイドに命令した。味方のアンドロイドは地面に落ちている石を拾って吉澤ひとみの方へ投げつけた。石は風を切る音を立てながら飛んでいった。赤ん坊はRー3号に向けていた秘技を一時的に解き、念を石に向けると石はポンという音をたてて破裂して粉々になった。滝沢秀明は石を投げたアンドロイドの頭に飛び蹴りを加えると頭の内部でショートする音がして頭部は破裂した。Rー3号そのすきに吉澤ひとみの方へ向かって走って来ようとすると、再び、赤ん坊はまた秘技をかけた。Rー3号はまた静止した。時間がたつにつれてRー3号の各部はきしむ音を立てはじめ、そのうち赤く燃えだし、蒸気となって雲散霧消した。あっけない最後だった。羅漢拳のメンバーは各所で勝利を得始めていた。ところどころにアンドロイドたちの残骸が転がっていた。最後のアンドロイドを倒したとき、メンバーはみな、大理石で出来ている神殿にいる吉澤ひとみのところに集まって来た。
「これですべてが終わったのね」
「長かったかな」
「たったの、四カ後月だった」
「天空、空也ごくろうだった。われわれはお前達の働きを忘れないだろう。それから吉澤ひとみさんと村上弘明さん、あなたたちにも感謝しています」
「そんな」
村上弘明は多いに照れていた。
「兄貴、兄貴に伝えたいことがあるの。いいえ、村上弘明個人に伝えたいことだわ」
吉澤ひとみはポケットの中から口紅を取りだした。そしてそれを唇に塗ると、吉澤ひとみの姿かたちは、川田定男こと、下谷洋子、つまり村上弘明の憧れの人である志水桜に変わってしまった。
「ど、どういうことなんだ。君は志水桜なのか、それとも僕の妹の吉澤ひとみなのか」
「どちらでもないわ。兄貴、いや、村上弘明さん、あなたには妹なんていないの。あなたの記憶の中にインプットしただけ、あなたと一緒に住むために。まだ全然、わからないと思うけど、兄貴と行動を供にしているとき、よく、襲われたわよね。それも兄貴がこの事件に首を突っ込むように仕組んだ芝居だったの」
「ひとみ、じゃあ、君は僕の幻影の記憶なのか、過去にはいない」
「まず、私が何者なのかを言うと五千念の未来からやって来た未来人なんです。私の仕事は極端に間違っているその時代の歴史認識を適当に修正して人類が変な方向に進んでいかないように印刷物とか、記録とか、学説を直すことです。その仕事にとりかかろうと思ってこの時代のこの場所に立ち寄ったら異常な放射能を感じた。それがあの古寺で戦っていたアンドロイドでした。そして、わたしは羅漢拳の存在も知ったの。羅漢拳の存在がこのアンドロイドの戦いで知られることになったら、過去の歴史に少なからず、影響を与えると思ったので、兄貴の記憶をいじって憧れのマドンナの志水桜をつけ加えたり、妹、つまり、吉澤ひとみという私も付け加えた。そして、兄貴の家族の一員となってこの事件の捜査を始めた。最初から松村邦洋がおかしいということは古寺に一緒に取材に行ってカメラだと偽って測定器をもたせたからわかっていたわ。そして兄貴や滝沢くんと一緒に犯罪の捜査をした。アンドロイドたちにとらわれたとき、時計を壊した。あれがタイムマシンなんです。あれを使ってこの時代のこの場所にやって来たのです。今はそのタイムマシンも直りました」
そう言って吉澤ひとみは腕時計を目の前にさしだした。それはアンドロイドにとらわれてからしばらくはしていなかったものだ。
「わたしは自分の時代に戻らなければなりません。兄貴、一緒に盆踊りに行ったわね。あのときは楽しかったわ。でも、この時代を離れるに当たって、ここにいるすべての人々の私に対する記憶をけさせてもらてます」
「ひとみ、そうだったら、僕が目を覚ましたら自分のベットに寝ていて自分には妹がいなかったじ分を発見するというわけか」
「そういうことになります」
「吉澤さん、僕らの記憶を消すことはいいけど、君の記憶はどうするんだい」
「それは職務場の秘密よ。でも、あなたたちのことは一生忘れません。タイムマシンのスイッチはもう入っているわ」
「もう私は帰らなければならないわ。」
そう言うと吉澤ひとみは腕時計のねじを回した。すると吉澤ひとみの姿は足下からじょじょに消えていった。ただ思い出だけを残して。

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