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メロディの軌跡

心の底から欲しくても、どうしても手に入らないものがある。そして、それを持っている人が目の前にいれば、仮に平静をよそおっていたとしても、心のどこかではきっと嫉妬している。

僕の好きな有名なヴォーカリストもどこかにそういう気持ちがあったのだと思う。自分が書いた曲よりも、バンドのギタリストの書いた曲のほうが好まれ、ソロコンサートでも自分の曲よりもそのギタリストの曲の方が盛り上がる。曲を書きたいと強く思っていればなおさらである。観客の反応は正直だ。観客の反応はお金では操作することができない。イイねは何らかの手法で操作できたとしても、観客の反応はごまかせない。人の心を動かす能力は努力だけでは手に入れることができない。それを分かっているからこそ嫉妬心は深くなっていく。

僕はメロディをつくるセンスが欲しかった。自身の作詞・作曲クレジットで誰かの心を動かせるものを創りたかった。そのために多くの努力をしたつもりだが、それを手にできていないと感じていた。でも、そのセンスを持っている人が身近にいた。名前は Johnny

彼は生粋のメロディメーカーだ。僕が一番ほしかったセンスだ。そう感じたことはないと思っているが、きっとどこかで嫉妬している自分がいたのだと思う。その昔、一緒にバンドをする機会があり、気づけば Johnny, TAKと一緒に音楽を制作して演奏していた。彼から出てくる音楽は、内面から湧き出ていると感じはじめていた。いつだったか、それは「音楽」の原点だったと気づかされた。内面からでてくる訴えや叫び。それが楽曲として表現されたとき、リスナーはその訴えや叫びに共鳴し、ダイレクトに伝わっていく。本来音楽に求められていたであろうシンプルな役割だ。彼はきっとブルースの心や音楽家の心を根底に持ち、本能的にその本質を読み取っている。その根底があるからこそ、独自の感性を交えながら人の心に伝わるメロディーに変換できているのだ。単に技術だけでは伝わる音楽にはならない。深層にある精神の理解あってこそ、楽曲に魂がやどる。

時がすぎると欲しかったものの捉え方は変わる。あれだけ欲しかったものも見え方が変わる。欲しかったもの以外をもっていることに気づく。「欲しいものが手に入らない」ではなく、「持っているものに気づかない」ことの方が重症だと気づく。空気のようにこなせている、自分が持っていることが他の人から必要されていることだと気づくことで、嫉妬心から解放され、本来の自分と向かい合えるのだから。

僕は歌は歌うけど、ヴォーカリストではない。なれない。僕は曲はつくるけど、作曲家ではない。なれない。でも、それでもいい。久しぶりに一緒に創作活動を再開した時、彼らは何かの会話の中で、僕のことを「実験的」だと言った。実験的なヴォーカリスト・作曲家・メロディメーカーでいられるなら、それは欲しかったものだ。日常的に行っていたことが、自分が「持っているもの」だと気づくのに時間がかかりすぎたようだ。僕たちが創ってきたメロディ、創っている楽曲は、そんな精神の軌跡を経てきた。

結局、内面に眠っているものが、その人のオリジナリティーなのだろう。

僕の内面に眠っているものは、、

(2019/2/23 20:44, 3/6 Update&Publish) 

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