血の滴る弱音を吐け

弱音とは、その名の通り弱い気持ちを言葉にすることである。弱音を吐きたくなるとき、吐かないとどうしようもない時はある。その頻度が増えるほど、追い詰められているのを実感する。

しかし、弱音とは簡単に吐けるものではないのである。それはプライドが邪魔をしていることもあれば、余計な心配をかけたくないとか、そんなことをしても意味がないという諦めとか、いろんな要因がある。

弱音を吐くとき、精一杯の勇気を振り絞らなければならないのだ。その感情を言葉にしたとき、どんな反応をされるか、どんな目で見られるか、覚悟を持たなければならない。
本来、物事に対する決断を迫られたり、周りとの関係を保とうとすることで精神が疲弊し、その結果、弱音という形で体の外に感情を押し出そうとするというのに、覚悟を持って実行しなければならない行為となっているのはなんとも残酷である。

Twitterを始めて少し経って、なんとなく仲の良いフォロワーが増えてきた頃、私は割と弱音も吐くし、ネガティブなツイートが多かった。それは根っからそう思ってたからだし、当時のフォロワーにはそれを言っても大丈夫だと信用していたからだと思う。それに加えて、自分が何者か、今以上に伏せていたから、弱音を吐いて「カッコ悪い」と思われたとしても、現実の私にはノーダメージだった。だから、たくさんネガティブなことを言っていた。

それからまた少し経って、自分の心境にも変化があって、多少ネガティブなツイートは減ったと思う。それは別に意識してそうなったのではなく、大学生活が結構充実していて、ある程度の道筋も見えて精神的に安定した時期だったから、自然とそうなったんだと思う。

そして、ここ数年、フォロワーと直接会う機会が出てきた。そうすると、今までのインターネットで隠してきた、本当の自分がバレてしまう。大抵の人は、「すばやいもふもふさんはTwitterとイメージが変わらない」と言う。それはそう。隠してるとはいえ、根っこの部分までは隠しきれないし、何でも遠慮なく書き殴る場としてTwitterとか使ってるわけだし。隠していると言いつつ、性格的なところはかなりオープンにしている。

しかし、実際に会った以上、「この人はこんな感じで、ああいうツイートをしているのか」と思われることもあるかもしれない。いや自分はそう思ったことないけど、他の人はそうなんじゃないかって思うわけです。
そうしたとき、Twitterで弱音を吐いている自分と、リアルの自分をリンクされるのが恥ずかしいとか思うのです。これはある種のプライドで、カッコつけたい自分がどこかにいるということ。

物腰は柔らかく、感情は出さずに、スタイリッシュに振る舞うことが大人というもの。目の前で起こっている様々な現状を冷静に噛み砕いてく。それが理想の将来像。
私の好きなロックバンドはそうやって歌いました。そしてそれを、「なんだ、つまんねぇ。そんな生き方」と評してもいるが。

アイマスきっかけと、瑠璃子さんきっかけでフォローしてくれた人には、元々のありえないくらい根暗で後ろ向きなツイートを見られてなかったから、ちょっとカッコつけたくて、なるべく明るい人間っぽく振る舞おうとしていた。

明るく(楽しく)振る舞うこと自体は別に無理していなかったのだけど、本音の部分、本当は疲れててしんどいとか、そういういわゆる「弱音」という部分。これが限界値を迎えたとき、別にこんなところでカッコつけても仕方ないわ、って思って、また少し弱いところも見せ始めている。それがここ1、2年の話。

それでどう思われてるのかは知らないけど。
でもなんか、みんな優しいんだよな。ほんとうに。

私の好きなロックバンドはこう歌いました。
「血の滴る弱音を吐け、醜くとも。明日に生贄捧げるが如く」
弱音を吐くというのは、血を流すほどの覚悟がいる行為。それができるのは、それを受け入れてくれるという信用があってこそ。

いつも、ありがとうございます。



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