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おいしいとこだけ/食べ物にまつわる文章が書きたい

 高校生の頃だったと思う。現代文の教科書に、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の抜粋が載っていた。細かいところまでよくよく記憶しているわけではないのだけれど、笑った時に見える歯は真っ白でピカピカなのより黄ばんでちょっとガタついてるぐらいの方が良い、だとか(違ったかな……)、なんとなく子供がムキになってテレビや雑誌で見る、または普段僕らが当たり前だと思っている美意識の逆張りをやっているような感じがして、なのにそれを綴った文章がやたらめったらうつくしいせいなのかそこには妙な説得力があって、とにかく、他の色々はすっかり忘れてしまったのだけれど、陰翳礼讃だけは印象に残っている。眠気の強い午後の現代文の授業で、先生に当てられたクラスメイトの音読が妙に艶っぽかったせいもあるかもしれない。
 何より僕の興味を引いたのは、その中に出てくる羊羹のくだりだった。

 そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉ぎょくのように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う青空文庫)。

 高校生の僕にとって、羊羹はいってみれば「ダサい」食べ物の筆頭株主だった。少なくとも、積極的に食べたくなるお菓子ではなかった。たまの夏休みに祖父母の家で、出されるか、出されないか。小皿に乗ったあの、黒と紫の間の子。もったりした口当たりと、舌の上から目の裏までをべっとりと覆い尽くすようなあの甘さ。
 餡子ってやつは、本当に、心底甘いものが好きな人間か、普段の生活では甘いものなんてまったく食べられなくて、これがとんでもない贅沢品だった時代の人間が食べてようやくおいしいと思えるものなんじゃないか、と当時の僕は考えていて、相変わらず甘党ではない僕はまだその考えを捨てきれてはいないのだけれど、どうせ「甘い高級なお菓子」を食べさせて貰えるならシュークリームやケーキの方がずっと良かったし、なんならポテトチップス二袋か、西瓜の切れ端でも出して貰える方が、ずっとずっと嬉しかった。
 けれどもその午後、初めて僕は、猛烈に羊羹というものを味わってみたくなったのだ。薄暗い部屋で、塗り物の菓子器で、今まで一度だって「食べたい」なんて思ったことのない羊羹を、積極的に「おいしい」とさえ思わなかった羊羹を、どうしても食べてみたい、味わってみたいと、そう思ったのだった。
 同時に頭の片隅の、もう一人の僕は知っていた。今、僕がこの文章を通して味わっている「陰翳礼讃の羊羹」に、現実の羊羹が、今後僕が食べることができるであろう全ての羊羹が、絶対に絶対に敵わないことを。
 それから僕は、「食べ物」に関する文章を探して、好んで、読んでいる。
 単純なレシピを伝えるものじゃなくて、味やサービスを評価するようなものでもない、食べ物にまつわるエッセイみたいなものを。吉本ばななさんの「ごはんのことばかり100話とちょっと」だとか、三浦哲哉さんの「LAフード・ダイアリー」だとか、有元葉子さんの「ごはんのきほん」なんかも好きだ。そこに出てくる食べ物と一緒に、周りの空気や、食べている、あるいは作っている人のちょっとした価値観みたいなものまで見えてきて、実際に食べるよりも、もっと「おいしい体験」をさせてくれる文章たち。
 そうして、僕も、僕のような不思議な趣味を持っている人に読んで貰える「おいしい体験」が書けたらいいなと思う。
 評論家のようにきめ細やかな舌を持っているわけじゃないし、自分の料理の腕がプロ並みというわけでもない(正直言って、まぁ食べられる、そんなにまずくもないけど、それ以上でも以下でもないっていうレベルだ)。特別高級な料理を食べられるような財力があるわけでもないけれど。
 僕の備忘録を兼ねて、あるいは同好の士が見つかりますように、願いをこめて。「おいしいとこだけ」書き残していきたいなと思っています。
 どうぞよろしくお願いします。


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