見出し画像

【考察】強烈な絆のものがたりー峰倉かずや『WILD ADAPTER』

はじめに

 はじめまして。透と申します。初投稿です。
 今回は、私の人生のバイブルのひとつである、漫画『WILD ADAPTER』(著・峰倉かずや)について考察します。『WILD ADAPTER』はふたりの人物、久保田と時任を主軸としてストーリーが進行します。
 全体のあらすじは以下のとおりです。

“90年代の横浜を舞台に、主人公で、ヤクザの年少組幹部を任されていた久保田誠と、居候の時任稔が、謎のドラッグ「W.A」に迫っていく物語。時任は誠と出会う前の記憶を失っており、右手が獣化しているのが特徴で、体が獣化して死に至るドラッグ「W.A」との関連を匂わせながらストーリーは進行していく。“  【引用元】https://reviewne.jp/contents/10070

 この考察は『WILD ADAPTER』の1〜7巻(とくに7巻)の内容に深く言及します。一度原作をご覧いただくことをオススメしますが、なるべく噛み砕いて書いていきます。

 さて、『WILD ADAPTER』は1巻ごとにストーリーが大きく分かれています。今回焦点を当てる7巻は梔子編と呼ばれ、「家族」を中心とした人間同士の関係性が大きなテーマになっています。そんな中で、時任は久保田との関係性について第三者に言いよどむシーンがあります。

「いつも言ってる友達のことかい?」

「………友達っつーか……なんだろな 家族?」
「違うか 家族ってのもよくわかんねーし」               【引用元】『WILD  ADAPTER』7巻

 ふたりの関係はたしかに何とも言い難いところがあります。
ーある日突然出会って成り行きで一緒に住んでいるけれど、血のつながりや書面上の契約もない。ほぼ同年代なので友人のようでもあるけれど、時任は久保田の保護下で生きているし、精神的にはお互いに依存しすぎている…。読者の立場から見てもその関係はひと言では言い表せないような気がします。

 ですが、7巻のラストで久保田と時任がその問いに決断を下します。それはたとえば「家族」や「友人」、「同居人」といった一般的にカテゴライズされた関係ではなく、世界にただふたりだけの「お前と俺」という関係であることでした。
 そんな7巻を読んだ当時(もう7年ほど前になってしまいますが…)、私はその決断に言葉にならない衝撃を受けました。それをどうにか言葉にしたくて、ようやくこの考察を書くことに決めました。彼らの、如何とも形容し難い唯一無二の絆の形を私なりに紐といていきたいと思います。
 それにあたり、「人に名前をつけること」「関係性に名前をつけること」など、名づけをめぐる問題に焦点を当てて、参考文献を参照しながらこの衝撃と向き合っていきます。
 前置きが長くなりましたが、ご興味をお持ちいただけましたらこの先もお付き合いいただけますとうれしいです。

名づけの意味

 久保田と出会ったときの時任は自分の名前すら覚えていない記憶喪失でした。久保田は路地裏で蹲っていた時任を拾ってきましたが、名前を呼べないことを不便に思い、「時任」と呼ぶことにしています。(実際には、記憶を失う前の名前の手がかりはあったのですが、その名前で呼べない理由があるので、縁もゆかりもない「時任」という名前で呼んでいます)

 ここではまず、人に対する名づけにはどのような意味があるかを調べ、名づけるという行為の意味を探っていきます。

以下は市村弘正著の『「名づけ」の精神史』より3点引用します。

“名づけるとは、物事を創造または生成させる行為であり、そのようにして誕生した物事の認識そのものであった。“
“人間は名前によって、連続体としてある世界に切れ目を入れ対象を区切り、相互に分離することを通じて事物を生成させ、それぞれの名前を組織化することによって事象を了解する。“
(中略)ある事物についての名前を獲ることは、その存在についての認識の獲得それ自体を意味するのであった。こうして諸々の物が名前を与えられることによって、(中略)それは「生きられる」空間が創造されたということであった。“

 名づけることは、名づける対象をほかと区別し、それを取り巻くものたち(社会)が対象となる存在を承認することのようです。名づけられたものは、その名を承認する社会の中で存在を認められることで“生きられる”ようになります。このように、人物への名づけには、社会的誕生の役割があるようです。時任は久保田に名付けられることで、「時任」という人間としての生を獲得し、新たに生まれ直したとも言えます。

 また、問題なのは、時任は戸籍上ではすでに死亡している人物だということです。普通の人であれば、氏名などを含めた情報が戸籍によって管理されることで、社会から存在が承認されているようなものです。戸籍上、死亡認定がされている時任は、広義の社会的には「もうこの世にはいない人」になります。けれど時任は自分が何者であるかの記憶を持たず、保証になるものもほとんどない、身ひとつで久保田と出会います。久保田に名前をつけられて、周りの人々からその名前を呼ばれることで、やっと存在が保証されるのです。これらのことから、久保田が行った時任への名づけは、今ここにたしかに生きている時任という人物の存在を保証する、とても重要なものであることがわかります。

関係性の役割

 続いては人と人との関係の名づけについて見ていきます。
 以下2点は、比較家族史学会監修、上野和男・森謙二編の『名前と社会 名づけの家族史(シリーズ比較家族)』より引用しています。

“二人の人物がまずあって、その役に関係が樹立されるのではなく、社会関係の方が「人格」に優先する“
“「自己」意識は、それのみで存在しえるものなのではなく、外部にある「自己」ではないものを表示する名前から逆行を受けるようにして、空白の虚像としてはじめて生成可能になるもの“

 上記について、補足していきます。
 たとえば、「親子」という関係があったとします。その関係は「親」と「子」の、少なくともふたり以上の役割の人物がいて成り立つものです。私が仮に「親」であるならば、「子」という存在が必ずあるということになりますし、私に「親」という立場の人がいれば、私は必然的にその人にとっての「子」になります。そういった「親」ー「子」の間の、役割を結びつけている関係性が、「人格」とか「自己意識」に大きく影響する、という一説になります。
 Aさんにとっての子である私、Bさんにとっての姪である私、といったように、「誰かから見た私」によって自分と他者を関係性で紐づけていくことで、「私」という存在が何者であるかを認識していく、ということだと考えます。この説によれば、関係性の名づけには、人に自己意識を芽生えさせる役割があることが分かります。

 ここで、作中で見られる久保田の存在希薄感について取り上げます。以下は、中学1年の頃の久保田とその叔父・葛西とのやりとりと、葛西のモノローグです。

「だから俺に声かけたのか」                     「……いや 聞こえてるの忘れてたから」                 【引用元】『WILD  ADAPTER』7巻
俺が扱いに困った様にーーーこいつ自身 自分を人間扱いすることができていなかったのだと                             【引用元】『WILD  ADAPTER』7巻

 大人物(詳細は不明ですが、警察に圧力をかけることができるほどの地位の人物)の愛人の子という立場で生まれた久保田は、養子に出されるなどして存在を隠蔽され、家では「見えないもの」として扱われたようです。そういった家庭環境もあってか、久保田は「自分がここで確かに生きている実感」がとても薄い人物として描写されています。両親は存在したけれど、互いに関係性の線がうまく結びついていなかったと思われます。久保田は、いちおう戸籍上は、きちんと「存在するもの」として認識されていました。でも、家族という小さな社会の中で存在を否定され続けたために、久保田自身に「ここに自分が存在している」という意識が形成されなかったため、自分を人間扱いすることができなかったのではないでしょうか。

久保田と時任の関係

 それでは、久保田と時任の関係性は彼らに何をもたらしたか、周囲の第三者にはどう影響するかを考えていきます。
 生きている実感が無かった久保田と、記憶を失った時任は、どちらも自分が何者かわからない状態と言えます。ですが、ふたりが出会って関わりあっていくなかで、互いに執着心を持つようになります。いつも隣にいて、隣にいることを願って生きるふたりは、互いにとって、「自分がここに生きていること」の証明なのです。
 そんな彼らが、自分たちの関係性について、この世でただふたりだけの「お前と俺」であると承認し合いました。その表現は、例えば「友人」や「家族」といった、大抵の人が一定の認識を持つ、カテゴライズされた言葉ではありません。ということは、当事者以外にはなかなか理解されないのです。 
 ここで、『名づけ』の意味についてもう一度振り返ってみます。

“名づけるとは、物事を創造または生成させる行為であり、そのようにして誕生した物事の認識そのものであった。“

その一部には「物事の認識そのもの」とあります。久保田と時任は自分たちの関係性のあり方を定義しました。その共通認識によって、ふたりの間に関係性が成立しているのです。けれど、その定義は、当事者のふたり以外にも共通の認識を抱かせるものではありません。つまり、第三者にとって久保田と時任の関係は「認識不可能なつながり」であり、それはある種の「名付けられていないもの」であり、「存在しないもの」になりかねないということです。
 それでも第三者は彼らについて、自らが認識している言葉で勝手に定義しようとする場合もあるでしょう。ただ、それはあくまで第三者にとって都合の良い型に収めるだけで、久保田と時任はそのカテゴライズに対して否定の立場を示しています。彼らの本当の関係は、彼ら以外には正しく認識できないし、誰が見てもわかるようなもので保証することもできません。よって、久保田と時任の間ででしか成立し得ない、社会的認知のない関係性ともいえます。

関係性をカテゴライズしないということ

 自分たちの関係性を他者に説明するときにどうするかについて話し合っていたのに、彼らが出した結論は、「他者に理解されなくてもよい」という見方にとれます。
 それなのに、なんの保証もない彼らの絆はなぜか異常なほど強いものに思えるのです。一体なぜなのでしょうか?これについては関係性のカテゴライズという観点から考えていきます。
 人には「母親」や「父親」、「友達」、「恋人」、「子ども」…といった、いくつもの関係性の役割があります。たとえば血のつながりがなくても「子ども」の「母親」や「父親」になることはできますし、今の「恋人」と別れて新しい「恋人」をつくることもできます。仕事であれば、誰かが退職をするときに、その人が担当していたポジションに後任として別の人をあてて、取引先との関係を維持するなんてことはザラにあります。このように、だれかとの関係を「役割」としてとらえると、代替可能となる場合があるのです。もちろん、一人ひとりはこの世で唯一であることは間違いありません。それでも、「役割」なら替えがきくことがあるのです。
 ですが、久保田と時任の関係性は、そのようなカテゴライズと距離を取っています。すべての関係の可能性を残しながら、どれか一つに縛られるでもないその関係性には、互いが「ほかに替えることのできない存在」であることもあらわしているように見えます。

おわりに

 さあ、最後です。ここでは久保田と時任の関係を深掘りしていく中で見えてきたことをふたつ挙げていきます。

 ひとつは、普段何気なく誰かの名前を呼んだり、呼んでもらったりしていることが自分や相手の存在の肉付けをしているのだということです。久保田から名前を与えられて存在を保証されている時任と、久保田の名前を呼んでその存在をたしかにしている時任。どちらかだけが、ではなく、互いに作用しあうことで自分の形を確かめながら存在しているのだなと感じました。
 ふたつ目に、目に見えない絆の不確かさは、きっと誰にでも共通するのだろうということです。戸籍や婚姻届など、何らか書面上の約束があろうとなかろうと、やっぱり絆は目に見えません。それでも相手の思いや自分の思いをどうにかすり合わせて、たしかめて、安心して生きていたい。そのために自分たちの関係性を定義して周囲に伝えて理解してもらったり、形で見えるもので証明したりするのでしょう。そうやって確かめあったり、時に当事者以外の第三者にも介在してもらうことで、見えない絆の信憑性を持たせたいのかもしれません。
 でも久保田と時任は少し異なります。彼らの関係性の定義には、第三者に承認・カテゴライズされなくても、自分たちの絆はたしかに今ここに存在するのだという強い意志を感じます。ふたりが出会うまでの環境や互いの今の立場がそうさせるのかもしれないけれど、ふたりだって絆が目に見えないのは同じだし、1秒先のことも保証はできない関係です。それでも「お前と俺」という定義で納得してしまえるのです。強すぎる。
 いつ壊れてもおかしくない関係でありつつ、いまこのときの強烈に強固な彼らのつながりを、私は愛してやまないのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?