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自分の人生振り返り

自分自身についても書いていこうかと思う。自己紹介になるようなものになるかな。


時系列に沿って書いていこうと思う。写真も少しずつ加えられたらなと思う。手持ちにある写真はあまり写りが良くない。もう少し笑ってる可愛い写真に変えたい笑

幼少期

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記憶はあまりないが、この頃からすでに医者になりたいと声高々と宣言していたと思う。

親に聞いたところ、ずる賢い子供だったらしい。あと、周りの子供たちを率いて、いろいろ命令していたらしい。え、これ社長将来できるかなー?笑

従兄弟を率いて、妹をいじめていたらしい。

札幌生まれ札幌育ちの両親が中国人の子供です。幼稚園ではトンボの羽をむしっていた記憶しかない。友達もいたようないないような。幼稚園の記憶はほぼない。

ただ、悪気はなくて、いたずらっ子って感じなんだとは思う。自分で言うのもなんだけど、結構自分は優しくて、家族のみんな優しいから、それがデフォルトだと思ったら、世の中には人を騙したり、アドバンテージを取ってくる人間がいることに、小さいながらショックを受けていた記憶はある。

アニメとかみていて、善と悪があるのが理解できなかった。悪を理解できなかった。今は、それも個性だと理解できるようになったように思う。


小学生

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ここもほとんど、記憶がないが、小学校3、4年生の頃一年だけ中国の杭州に留学?していた。この頃親元を離れ、親に嫌われたのだと思い、今思うと、この頃から性格的にソシオパスへとグッと近づいた気がする。今ではこの頃親に中国に送ってもらえたことには大変感謝している。中国では成績は結構良く頑張った記憶がある。中国に対するイメージはこの頃の強制的な圧力を学校ホームステイ先の人友人の雰囲気などから形成されている。

ホームステイ先の住んていたところは集合住宅だったが、結構家も広く、料理も美味しくいただけた。しかし、学校では初め中国語が話せないことで一瞬いじめかけられたが、いじめっ子を初日に突き飛ばし、クラスの男子の覇権を握りクラスの男女の仲を取り持ち、仲良くみんなでワイワイ過ごした記憶がある。学食が本当に食べれるものではなく、白米に漬物を家から持ってきて初めは食べていたが、後程すぐに適応した。

この留学があって、また通っていた日本の小学校に帰った直後は日本語をほとんど忘れてしまったが、すぐに日本語を話すようになり、むしろ中国語を忘れた。この時期の言語能力って不思議だ。

帰ってきて一発目の漢字テストで6点を100点満点でとった記憶がある。日本と中国の漢字は違う。日本での学校の行事がすごく好きで、周りの人も先生も大好きだった。よく休み時間には隣のクラスの友人に話しかけに行ったりもしていた。水泳教室や絵の教室などいくつか習い事もしていた。

日本の給食は美味しい。今でも恋しくなる。ただ、学校の先生の考え方だけは相容れなかったように記憶している。年始の目標に、何々を頑張るのように書いたのだが、コツコツ頑張るに直されたことがいまだに納得いっていない。子供の思うようにやらせるべきだと思う。そこの教育論については、少し議論したい。

もちろんコツコツやることが大切なことは最近身に染みてきてはいるが。ちなみに中学受験をしたが失敗した。お勉強はそこまで得意ではなかったが、塾にも行かせてもらって、予習をするのが好きだった。今思えば、アメリカでこれをやっていれば、飛び級なんかもしてたかもしれないな。

水泳に通うときにアラームを持ってサボって時間になったら帰ってくるということもしていた。サボることがたまにある。飽きが来るとどうしても物事から目を背けたくなる。

同窓会でも、ボスザルのように、友達を率いて、やいやい人の悪口を言っていたらしい。それは結構覚えてて、その反応が好きなだけだったんだよな。悪口が人にどのくらい影響を与えていたのか知らなかった。ソシオパスってのは小さい頃からかもな〜

中学生

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おそらく10〜20人くらいの女の子に告白を毎月のようにしていて、話したこともない人もほとんどのため、全部振られた。結構ショックだった。でもこの頃のトライアンドエラーが今のメンタルにもつながっていると思う。バドミントン部でダブルスの相方が現役で東大理Ⅲに合格したと少し前に聞いて驚いた。コンタクトは取れたけど、また会いたいな。

たくさん恋をした時期になったと思う。今思えばソシオパスが原因なのか、人の気持ちを考えて行動するということが念頭にはなかった。それが芽生えたのはアメリカに来てからだ。18歳までない。中学のラインのグループチャットで余計な発言をして、グループ崩壊を招いてしまったことをいまだに反省している。同窓会定期的にして、みんなと会いたい。

学級代表を2年間半努めた。いろんな委員会に参加して、組織運営ってこんな感じなのかなと、違う組の人に出会えるのが楽しくて、誰もやらなかったからいつも立候補していた。この頃は人前に立つことはすごく緊張したが、今思えば、こういうところで少しずつ慣れていったのだと思う。1年生の合唱会の時指揮者をしたのだが、発表会当日に先生に直されるほど、リズム感はなかった。もっと早く自分が下手なことをみんなに指摘して欲しかった。

高校生

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初めて彼女ができたりもした時期仲良くなった子にオシャレについて教えてもらったりして、この時期以来ネックレスなんてしたことないけど、またしてみようかな。中学の終わり頃に初めてカラオケに行きとても楽しく、友達とはよくいった。

いまだに目指せ医学部だが、F判定以外とったことはなかった。勉強のため部活には入らなかったが、ずっと小中高ゲームをしていることが多かった。中学の頃には3DSを学校に友達と持っていって、没収されるほどだ。

この頃に3年間同じ担任だったこともあり、その恩師のおかげで今の自分があると思っている。そのくらい自分の人生に大きな影響を与えた人物の一人に思う。その先生に7つの習慣や人を動かすなどの啓発書を教えてもらい。それぞれ早くて1日で読み終えてしまうほど、熱中して読んでいた。その先生に言われ、日々思うことをノートにしてまとめていて、今でもそれを補完していて、PDFに少しずつ移していきたいのだが、ずっと後回しになっている。小中高までは年に1度ほど冬になると中国に基本的に毎年帰っていた。親戚と会ったり、親の友人と会ったりしていて、その非日常な感じが結構好きではあった。ちなみに高校でも学級代表みたいなのを3年間やっていた。クラスのみんなと話せる機会が好きだった。


アメリカへ、ロサンゼルス時代

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語学学校登校初日の自撮りがイキっていて我ながら可愛いなと思う。

医学部に入ることをまだ諦めていない当初、英語が一番苦手だったため、英語を勉強するために後先考えずに、高校3年生の10月ごろから、留学斡旋のところで少しずつ、計画をしていって、カルフォルニア州のサンフランシスコというところに行くことにした。母の勧めで、面白そうだという理由だ。世界中の人がアメリカに行っているイメージがあったので、その人たちはどんなことを考えているのか見てみたかった。いってみると、ここでの大学進学も悪くないと思い、そのまま進学した。人より遅れてはいるものの、大学生活をかなり満喫していると思う。

ここで多くの友人と出会い人生で大きな挫折をした。それは医学部入学への断念である。しかし同時にアメリカでの目の前で起こっている事、やることがたくさんあり、楽しくもあった。特に日本人と中国人と自分の3人でルームシェアをし始め、その後3年ほど一緒に過ごした友人とは家族のような絆が生まれた。その日本人の友人に、ジョージは機械のような心を持っているねと言われ、初めて、自分の言動に目を向けるようになった。

アメリカに来てからは、自分と向き合う時間が多くなった。親元を離れ、自分で生活の意思決定をするようになってから、自分の根本と向き合った。周りの留学生は一癖二癖あるような連中ばかりでとても楽しい。
別に悪いことではないが、日本にいた頃は夢を語ってもあまり相手にしてもらえることはなかったが、ここでは毎晩のように友人達と夢や考えを語り明かした。ある時期は朝昼晩毎日ルームメイト達と過ごし、本当の家族のように過ごしていた。

JSAというクラブに行きいろんな海外の人と日本語や日本文化とその方々の言語文化の交流などをして、いろんな友人と知り合った。

妹が同じ大学に通ってきて、これで幼稚園からコミカレまで全て同じ学校にいたことになる。幼い頃から、今まで妹との関係は切っても切れないし、私がお風呂をしていると、『ねえねえ、聞いてよ』と入ってくるくらい仲がいい。シスコンブラコンと言われるが、特に否定する必要はないと思っている。家族を大切にしたいとアメリカに来て感謝の大切さに気がついた。


コロナ期

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アメリカの大学生の時間も一旦突如として世界を変えるほどの大きな流行病によって、変化があった。合計で1年と少し日本に戻り、半年休学をしたりして地元の会社でインターンをしたりした。周りの友人が皆やっているゴルフを初めてみた。サンフランシスコに来てまだ自分一人では打ちっぱなしに行けていないが、日本にいた頃は5回ほどコースに通い習っていた。今思えば、この時期が今のアメリカに残りたいと思うきっかけになった年に思える。とても人も良くご飯も美味しい日本だが、やはり張り合いがなく、夢が語れないという点は自分として、成長できるように思えなかった。


アメリカ留学、サンフランシスコ編

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サンフランシスコに来て、半年、初めて長期間の一人暮らしに寂しさのあまり今までは、みんなと楽しく飲むものだったのが、今や一人で飲むときの方が多くなったお酒の習慣を早く断ちたいと思う日々であるが、どれだけ、家族や周りの人間に支えられていたかがわかる日々である。

なのでよくロサンゼルスに戻ることもある。早くここでの友人達と深く付き合いたいものである。

ロサンゼルスでは中国語やビジネスを学んでいたが、統計学に学部を変え心機一転クラスを取り始めた。データサイエンスという職業に興味があるからだ。

さて、今まではざっと自分の過去について今パッと思いつくことを書いたが、書こうと思えばもっとたくさんもちろん出来事はある。

今後の目標について、最後かいて終わろうと思う。

今私にはいくつもの夢があり、その夢実現のためには自分は社会経験とお金が必要だということ。また、分析が好きでAIの技術やブロックチェーン、ITの業界に興味があり、そこの先端的な場所であるベイエリアで仕事をしていくのがこれからの目標である。この記事を書いているときに24歳でまだ大学3年生なのは恐ろしいことでもあるが、特に少ししか焦っていない。

今までの人生の選択を悔いても仕方ないし、これからも楽しんでいこうと思う。特に毎年自分の道がどんどんクリアになっている気はしているし、別に成功してもしなくても、人間結局死ぬし、特にたまに急ぐことがあれば十分に思う。それが自分には合うと思う。能力が秀でている自分ではないが、人と人の間に立って、面白い化学反応を起こせるタイプだとは思う。そのために一歩一歩前に進んでいきたいと思う。

どんな人生を歩んでいくか予定通りに今まで一回もなったことのない人生なので、どんと迎えて、適応して楽しんでいきたいと思う。

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