中国よもやま


 餃子もの語り

 
「餃子是主食,不是菜(餃子は主食で料理〔おかず〕ではありません」という文が中国語の教科書にあった。


 日本では、餃子をおかずにご飯を食べるが、中国では米のご飯と同じ主食に位置付けられるようだ。中国でも物流が全土に広がった現在と違い、昔は北方は小麦が主食、南方は米が主食だった。餃子は肉や野菜を包むが、麺類と同じように主食として小麦をメインに食べるものなのだろう。


 日本で最もポピュラーな中華料理といえる餃子は、中国では水餃子のことで、日本のような焼き餃子ではない。蒸し餃子もあるが、後述するように焼き餃子は、あまり見かけない。中国の餃子は、皮が厚く中の具より皮を食べる主食ならではだろう。北京より北の東北地域では、このほか饅頭(まんじゅうではなくマントウ)という肉まんから具を抜いたものが小麦の主食となる。貧しい農村を舞台にした中国映画では、スープと饅頭の食事という場面が見られる。味付けしていないから、まさに主食になる。


 具の入った餃子は一般的な食べ物、主食でありながら、家庭の食卓ではちょっと嬉しいメニューでもあるようだ。年末の大晦日には、家族が揃って餃子を作るのが北京などの恒例行事になっているようだ。年越し蕎麦ならぬ年越し餃子というわけだ。ちなみに餃子は作るという動詞よりも、包(巻く)という動詞を使うのが一般的だ。


 いつから、どこで始まったのかは不明だが、年越し餃子にコインや喜と書いた紙片の当たりを入れて、それを食べたらその年は幸福になるという風習もあるようだ。これは、比較的新しいトレンドのようだ。アメリカのフォーチュンクッキーも、中華街にいた日本人が発祥という説もあるから、ルーツは重なるのかもしれない。


 水餃子が一般的と述べたが、日本で食べる焼き餃子は餃子とは言わず、鍋貼(クオティエ)と呼ぶ料理に近いようだ。簡単に説明するなら、余った水餃子を焼いたもの。わざわざ作るのでなく、前日の餃子が余ったから炒め直して食べるという位置づけのようだ。日本でもご飯の保温機能がまだ今のようではなかったころ、冷や飯はお茶漬けにするか、炒飯にして食べることが少なくなかったが、そんな扱いなのだろう。


 今もどうかわからないが、餃子の王将で餃子を注文すると「コーテー イーガー!」という声が聞こえていた。最初に耳にしたのは学生時代だった。イーガー、リャンガーは1つ2つの意味で、コーテーは餃子の中国語かと思っていた。しかしその後、餃子はチャオズという発音だと知った。コーテー=クオティエは鍋貼のことで、王将創業者の加藤朝雄さんは、日本の餃子が中国の餃子とは別ものもので鍋貼に近いことを意識していたのかもしれない。
 なぜ、水餃子ではなくクオティエに当たる焼き餃子が日本で一般的になったのか。


 一説によると、戦後日本で餃子が食べられるようになったのは、満州からの引き掲げ者が作って売り出してからという。思わず、次のような知られざる満州餃子物語を想像してしまう。


 『戦争が終わり、満州吉林省の開拓団も、大連をめざして引き掲げて行った。着るものもボロボロ、疲労し飢えた日本人を中国人の王さんは、胸のすく思いでながめていた。戦争中、日本人は威張り散らし、王さんも撲り蹴られたことがあったのだ。ところが、その開拓団の中に、1人の日本人を見つけた。暴行を受けた時に、助けてくれたのも日本人で、まさに目の前の引き上げ者だった。


 王さんは、その引揚者家族を家に連れて帰り、とりあえず前の晩の餃子の残りを温めて食べさせた。食糧も乏しい日本人引揚者には、その焼き餃子は救いであり、美味なものとなった。


  運良く日本に帰りついたその日本人は、あの餃子の味が忘れられない。食糧難だが、運よく小麦粉が手に入った時に、皮をつくりフライパンで焼いてつくってみた。さらに、これをヤミ市で売ってみようと思い……。 』


 前述の加藤朝雄さんが王将を創業したのは昭和42年、すでに餃子は庶民の人気メニューだった頃だ。餃子の元祖ではない。しかし、ここで興味深いのは加藤さんが中国からの引き揚げ者だったこと。日本の餃子を見て食べて、看板の人気メニューにしたのも、なにかの縁だろう。しかし同時に、「これは餃子(チャオズ)ではなく鍋貼(コーテー)やないか」とおもっていたかもしれない。


小籠包はひと口で      


 小籠包(ショーロンポー)は、蘇州あたりが発祥のようだが上海名産の点心だ。


 冷凍食品など日本で売られている小籠包は、「残念な」ものが多い。本格的な日本の中華料理店では、きちんとした小籠包が出てくるかもしれない。また、最近は、台湾の鼎泰豊や上海の南翔も日本へ出店している。さらに台湾の鼎泰豊は上海にも出店し、割高にもかかわらず繁盛している。日本でも、このほか中国の点心師が来日した小籠包専門の店が登場している。
中国語では「小籠包」または「小籠湯包」と書く。


 小籠湯包なら、ショーロンタンポーとなる。


 包は、包子(パオツ)、肉まんのように餡を包んだ点心のことで、小さい蒸籠(せいろ)に入った肉まんのこととなる。
 肉まんと違って、薄い小麦の皮で包んでいるのは、餃子と一緒だ。ただ、中国の餃子は水餃子で皮が厚く、小籠包の皮は日本の餃子程度の厚さ。


 では、小籠湯包の湯とは、何か?


 食べたことがある人はわかるように、ジュワッと熱いスープがあふれるのが、小籠湯包の特徴で、湯とはスープの意味だ。前述の日本の冷凍食品は、このジュワッとしたスープがないものが多い。熱々の小籠包の食べ方として、熱いのでレンゲにのせて横からスープを味わってから食べてくださいといった食べ方指南を示している店もあったりする。私は、口の中に丸ごと頬ばって食べるのが好きでもあるのだが。中国では黒酢としょうがで食べるのが一般的だ。


  上海では、どの店の小籠包み外れがないように思う。ちゃんと湯包になっている。


 では、特徴であるスープは、どうやって包み込むのか。


 上海で小籠包を作っていたという人によると、豚の肉だけでなく皮も使っているのだという。豚皮を煮込んで煮凝りにしてひき肉に入れているようだ。つまり、スープの正体はは、溶けたコラーゲンということになる。


 上海では、小籠包だけでなく大包というのもあった。小籠包を大きくしたもののようだが、ストローを差し込んでスープを吸って食べるようだ。露店で売っているそばのごみ箱には、大包の皮が捨てられている光景もあった。

小籠包


蒙古斑はメイドインジャパン


 中国人の妻と日本人の私の間に生まれた娘は、ハーフということになる。
しかし、欧米人やアフリカ人のハーフと違い、外見では全くわからない。アジア系でも東南アジアなら外見がやや違うが、中国人は何も話さず同じようなファッションなら、日本人と見分けがつかない。半分は、日本人である私のDNAを持っているから、なおさらだろう。


 娘は中国語もほとんど話せない。大学の第二外国語は、中国語を選んだそうだが、成績はAではなくBだったという。リスニングは、初めて勉強する学生より有利だったようだが、書くことが苦手だと言っていた。


 子供が生まれ時にバイリンガルになるよう育てるか考えた。日本語、中国語が自在に使えて、両国語で考えることができれば良いことは確かだ。しかし、バイリンガルは、必ずしも良いことばかりではないということも聞いた。


 言葉を覚える段階で両国語を聞くわけで、混乱のなか言葉を見につける。実際、幼少期からのバイリンガルは、日本語の国語能力については日本語オンリーの子供より劣ることもあるという。
 また、情緒不安定になるという情報も目にした。バイリンガルでなくても他の日本人と一緒であり、特別でなくても。他の語学と同じように、大きくなってから勉強すれば良いと、バイリンガルへの道は求めなかった。


 大人になってから、バイリンガルで育った方が良かったかと娘に聞いたことがある。中国語をもっと話せたら良かったとは思うが、別に…ということだった。


 ところで、日本人に非常に近い日中ハーフの娘は、生まれた時に日本人と明らかな違いがあった。産科の女医さんが「アラッ」と言ったから珍しいことなのだろう、蒙古斑が全くなかった。
 出生児の尻などに現れる青アザ状の蒙古斑は、日本民族やモンゴル民族の独特な特徴らしい。漢民族のDNAを半分持っている娘は、蒙古斑が全くなかったというわけだ。


 妻に聞いてみると中国で9割以上を占め韓民族の赤ん坊に蒙古斑のようなものはないという。中国あるいはモンゴル以外の外国では、幼児を小児科医に連れて行く時には意識した方が良いかもしれない。蒙古斑が当たり前の日本の小児科医と違って、青あざの尻を見て幼児虐待と警察に通報されないとは言えない。

ウルムチ行き3拍4日寝台車


 日本人が中国旅行をする場合、時間的制約からだろうが飛行機で移動することが多い。列車での移動は、上海―南京といった中距離の移動くらいだろう。
 

しかし、長距離列車の旅は、中国大陸の広さを体感することができる。1989年の北京―ウルムチ列車の旅は車中3泊4日という長時間のものだった。まだ、中国へ留学することなど考えておらず、中国語もカタコトの頃だった。
 

 北京を出て30分も経たないうちに、車窓の景色は一面の畑になる。日本のように遠くに山は見えず地平線が続く。緑の地平線が荒地に入ると茶色に変わる。とうもろこし畑が延々と続き、黄色いものが見えてきたと思ったら、一面のひまわり畑。ソフィアローレン主演の映画『ひまわり』を思わせ、途中下車したくなる。


 しかし、景色をながめるのが新鮮なのは、初日くらいだったかもしれない。やがて、砂漠に入ると変化はない。砂漠といっても広い砂場のような『月の砂漠』を連想するものでなく、土の地面だった。それが最初は発見でもあったが、地面とわずかに生える草がいつまでも続くと飽きてしまう。

 西安を過ぎる後だったか前だったか、(万里の)頂上の西端という景色もあった。長城といっても北京近郊の八達嶺のように延々と続くわけでなく、長城の跡といった感じの壁が点々と続いていた。


 乗客は、雑誌をまわし読みしたり、トランプに興じたりしている。席は4人で1コンパートの寝台車で南臥という座席だ。
 硬臥という通路両脇に3談ベッドがずらりとならぶ席や硬座というベッドのない車両もあるようで、当時は比較的高収入の人が取る座席のようだ。実際、ほかの3人の中国客も仕事で北京に行っていたようだ。硬座となると、出稼ぎや北京見物の嘉帰りの農民風の客が多い。


 乗客は、ひまつぶしに西瓜の種やひまわりの種を食べてたりしている。ひまわりの種は、私ももらって食べたが、歯でまわりのカラを開き、中の種子の部分を食べる。焙煎されているのか香ばしくナッツ類のようだ。
 欠点と言えば、殻より中身が少ない。西瓜の種は、日本で食べる西瓜の種と違い、平べったく少し大きい。まさか西瓜を食べた残りを集めのではないだろうから、種専用西瓜があるのだろうか。

 どちらも、中国人は器用に歯だけで中身を取り出し、次々と食べていく。しかし初心者のこちらは、歯でカラを傷つけ両手で割って中身を取り出してから口に放り込む。
 中国人が10秒でひとつ食べるところ、こちらは1分以上かかる。もらった分を食べ終わる前に、面倒で中止した。しかし、また退屈したらトライしてもいい。到着まで、時間はたっぷりとある。


 ところで、車内で種を食べる時、カラはすべて床に捨てられる。種どころか、ブドウを食べても皮は床にポイ。半日に1度ほどやって来る乗務員が、ほうきで掃いて捨てている。西瓜の皮は、さすがに床には捨てず、窓から放り投げていた。

 日本人の常識からすれば袋にでも入れておけば、床に捨てるのは不快、と思うかもしれない。しかしこれは慣習の違いだろう。郷に入っては郷に従え。私も最初はためらったが、そのうち床に捨てるようになった。


 大阪・梅田のあるショットバーは文字通りカウンターの前がバーになっていてそこに座るクラシックなスタイルだが、そこでは必ずカラつきの落花生が出て来る。客は落花生を食べると、カラを床にポイと捨てる。初めて行った時に、連れから、そう教えられた。床はカラだらけだが、それも粋(いき)と見えた。


 レストランでも、最近は少し行儀が良くなったようだが、鶏の骨付きや蟹の殻は、食べたら器に入れず、テーブルにそのままにしていくことが多い。中国では常識かもしれないが、日本へ旅行した中国人がレストランでこれをやったら顰蹙(ひんしゅく)を買うことだろう。


 夕方になると乗務員が椅子仕様からベッド仕様にしてくれる。昼間は4人掛け向かい合わせになる。なにしろ3泊4日の長旅だから、当時は中国語を勉強し始めたばかりだったが、中国人はこちらが理解していなくても話しかけて来る。
 わからないかと言えば筆談になる。これが、意外と通じる。もちろん、日本語と中国語で、同じ文字で意味が違う語もあるが、概ね共通する。特に固有名詞は共通だから、日本の俳優や女優、映画監督、小説家など中国人が知っている名前が書き連ねられることになる。


 こちらもどうせヒマだからと、何しに北京からウルムチに行くのか、どんな仕事をしているのかなど、とりとめもなく聞くことになった。日本人なら4日間顔を突き合わせていても立ち入った話にはならないだろうが、中国人は気にしない。
 普通の中国人と話す機会としても、長距離寝台車の旅は使えるかもしれない。



トルファン、ウルムチ              シルクロードには別の中国が


 シルクロードを西へ西へ。新彊ウィグル自治区は、中国で最も西にある地域だ。ここは同じ中国でも北京、上海、広州とは、まったく違う世界が広がる。


 まず、顔。ここでは、中国では圧倒的多数の漢民族が少数派で、ほとんどがウィグル族だ。彫りの深い顔、青い目も珍しくない。女性は、なかなか美女ぞろい。宗教はイスラム教、文字も漢字ではなく、楔型のアラビア文字だ。書店には、漢字とウィグル文字が混在する。学校でも、ウィグル文字を教えるところが多いという。


 同自治区のなかで、吐魯藩(トルファン)は、オアシスの街といわれている。地図では茶色の高地が広がるシルクロードで、薄緑色になっているところだ。西安からさらに西、天山山脈の東に位置する。
 訪れたのは真夏だったから、砂漠気候はさぞかし暑いだろうと思っていたが、それほどでもない。気温が40度でも乾燥しているから、日陰に入れば過ごしやすい。


 ここはぶどうが名物で、街の小道にはぶどう棚が続き涼しい。「取ったら罰金20元」と書かれた注意書きが少々無粋だが、棚には薄緑で飴色のぶどうの房がたわわに実っていた。


 {牛の乳首のような}と表現するそうだが、細長い。マスカットを長くしたような粒で、浴びる太陽が強いためか、すこぶる甘い。そのまま食べるほか、ほとんどは干しぶどうになるという。


 トルファンの観光スポットとしては、郊外の砂漠地帯に古城があるが、実はそうしたスポットには行かなかった。


 中心地のバザーをのぞき露店で珍しそうなものを食べてみる。イスラム圏では肉はすべて羊だ。白い固まりがあったので、好奇心から注文してみる。ぷよぷよとゼラチン状で、口に入れると、羊特有の臭いが口いっぱいに広がった。どうやら、羊の脂をゆでたものだったようだ。この臭いは強烈。とても全てを食べる気にはならなかった。


日本ではマトンは臭いと敬遠され、ジンギスカンにも臭みが少ない子羊のラム肉が使われるようだが、羊肉文化の地域では、むしろ食欲を誘う香りなのかもしれない。


 観光地には行かなかったが、街の裏道まで歩き回った。すると、ちょっと変わった小屋が立っていた。入り口には人が座り、石けんを売っている。見ていると、小屋から水が流れてきた。公衆浴場らしい。入場は一元もしなかったように思う。入ってみた。


 すると、脱衣かごがあり、その向かいに仕切りのついたシャワースペースがある。海水浴の海の家についているシャワー室のようだ。シャワーの蛇口をひねったが、なかなかお湯にならない。入り口のそばに、ドラム缶で作ったようなボイラーがあったから、そのうちお湯にはなるのだろう。しかし真夏の昼間でもあり、水のシャワーを浴びた。


 ところで、入った時から気づいていたのだが、ここでも強烈な羊の匂いがする。壁や床に羊の脂を塗りつけたかのようだ。


 シャワーを浴びて出たが、なんとなく髪に羊の臭いが染みついたような気がした。ホテルに戻ってから、お湯の出るシャワーを浴びた。
 しかし、羊の肉は懲りごりかというと、そうでもない。特に、串羊肉、シシカバブは、シルクロードの味といえる。


 北京でもウィグル人が露店で焼いて売っていたが、トルファンでも省都のウルムチでも、あちこちの露店で串羊肉を焼いている。ウルムチのビルの一画にある広場では、三十店近くがズラリと並び、白い煙がもうもうと立ち昇っていた。


 羊肉は、鉄串にさされ赤い肉と肉の間に白い脂身がはさまれている。燃料は日本なら備長炭というところだろうが、石炭が使われているのはお国柄。焼く前に特有の香りがする黄色いスパイスと岩塩を砕いたもの
がつけられる。脂身が焼けてジュウジュウ音がする頃、再びスパイスをパラリとかける。


 食べると、スパイスの香りは、羊の臭いを打ち消すというより、引き立てるようで、うま味が口いっぱいに広がる。肉は少々硬いが小さく切って串ざしにされているから、それほど気にならない。


 当時1元で2、3串はあり、地元の人は、10串、20串と食べていた。

 この串羊肉のスパイスは専用のもののようで、日本の中国食品店でも売っている。マトンを買ってつくってみたが、少し上品になってしまった。脂身がキレいにないため、肝心の羊の臭いが少なかった。肉質もやわらかく、それはそれで美味しいのだが中国で食べた串羊肉とは別物のようだ。

ソ連崩壊後の国境の街で

公安につかまった話

 黒龍江省の北、黒河(ヘイホ)市へ旅行したのは平成4年の夏だった。この時には、斉斉哈爾(チチハル)、哈爾浜(ハルピン)、大連(ターリェン)など中国東北地方、旧満州を旅行したのだが、旅行の計画を立てるために地図を見ているうちに「行ってみよう」と決めたのが、黒河だった。ここは観光地ではないが、黒龍江岸の街。対岸はロシアだ。


 ソ連が解体されたのが、この8カ月ほど前。国境からでもロシアを見てやろうと思ってのことだった。


 予約がない気楽な旅で、列車が駅に着いて最初にすることはホテル探し。しかし、これが苦労だった。ロシアとの国境に近いこの街には、ソ連がロシアとなったことによる変化をビジネスチャンスとして、全国から商用客が訪れているらしい。2軒、3軒とまわっても満室と断られた。最後は調子の良いタクシー運転手に、部屋ならあると言われ連れて行かれたホテルまで満室だった。


 現在は多様化、自由化が進んているが、当時中国で外国人旅行者は、原則としてホテルにしか泊まれない。たとえば知人の家に泊めてもらう場合には、公安局に出向きパスポートを見せて宿泊先の所在地を記入しなければならない。
 中国人向けには、ホテルより安い旅館や旅社という看板がかかった安宿もあるが、パスポートを見せた途端、断られる。仮に中国人並みに中国語ができて、中国人のふりをして泊まろうと思っても無理。中国人も宿泊の際には、身分証が必要になるからだ。


 大きな都市なら、本当に困ったら大学を訪ねれば良い。たいてい招待所という宿泊施設があり、学生でなくても泊まれる。

 しかし、黒河には大学もなさそうだ。困った。


 カバンをひきずり、どうしようかとトボトボ通りを歩いていると、「オーイ、旅行者か」という声がアパートの2階から聞こえてきた。「泊まるなら、ウチに泊まれよ」窓には、民宿一泊いくらという文字が貼られている。「でも、外国人だけど…」と答えると「問題ない。大丈夫」という調子の良さ。結局、ここに落ちつくことになった。


 部屋は普通のアパートで2部屋あり、1部屋を客用にしているらしい。念のため貴重品を身につけ、カバンに鍵をかけ、街の散歩に出かけた。
 街に出ると、ホテル満室のわけもわかった。自由市場の買い物客には、ロシア人が混ざっている。黒龍江、ロシア側から言うとアムール河を渡り、買い出しに来ているらしい。


 通りのわきに、布団袋ほどの袋を開け、ドサドサッと品物を出し始めた人がいた。見ると、すべて靴。これから道で商売を始めるようだ。


 こうした商人は、上海、広州から遠征して来ているようだ。ビジネスチャンスと見て、やって来たわけだ。個人営業だけでなく、会社も乗り込んで来ていることだろう。


 ロシア人の乗ったバスが通りかかった。すると、中国人が品物を手にバスを囲んだ。1人のロシア女性が毛糸の帽子を見せる。バスの窓を開けると中国人が掲げていた品物と交換した。


 自由市場に並ぶ商品を見てもロシア製品らしきものが多い。武骨そうなカメラ、腕時計、ぶ厚いコート、毛皮などが並ぶ。

 黒龍江が流れる方へ出てみた。細長い街だから、北へ北へと歩けば良い。
 黒龍江は、幅百m足らずで、対岸には、こちら側とは明らかに違う、ロシア建築の建物が続いていた。夏だったから、両岸に水着の人がいたが、これも好対象。中国側の人は、水中で泳ぎ遊んでいるのに対してロシア側では、ほとんどが甲羅干しをしていた。


 遊覧船にも乗ってみた。これは、さらにロシアが近い。対岸まで10mというところまで船が近づく。手を振ると、ロシア人も手を振ってくる。申し込めば、翌日には簡易ビザが出て、日帰りのロシアの旅もできるようだ。
 かなり歩いたので、今度はタクシーに乗った。どこか見物するところはないかと聞くと、貿易中心(貿易センター)はどうかと言う。行ってみることにした。


 貿易中心という名前だったが、建物はプレハブ風、広いことは広い。入り口で入場料2元を払って入った。中は、自由市場とそれほど変わらなかったが、違うのは客。ほとんどすべてがロシア人だった。見ると中国人店員はロシア語で応待している。そのレベルはわからなかったが、会話は成立している。


 面白い、とビデオカメラで撮影していたら、トントンと肩を叩かれた。公安(警察官)だった。何をしているのかと聞かれ、ちょっと来いと、公安が待機している部屋へ連れて行かれた。


 パスポートを出し、正直に答えると、「ここは日本人は入れない。直ちに立ち去れ」と言う。入場券を買って入れたではないかと反論しても、「帰れ」。それでも大した問題にならなかったとホッとしていると、今度は「泊まっているホテルの住所を書け」と言う。


 ここは、正直に話すしかない。民宿に泊まっている。住所はわからないが、場所はわかると答えた。

 すると、相手は「外国人はホテルにしか泊まれないのを知らないのか」
 「知ってる。でも、ホテルを4軒まわってもどこも満室。仕方がない」と反論したが、公安は何か書類を作り、封をして私に渡した。


 書類を持って公安本局に行けと言う。貿易中心は出たが、大変なことになったという思いだった。
 このまま無視しようか。しかし、その後に捕まったら、余計恐い。パスポートも控えられている。結局、公安本局へ出頭した。


 公安本局では、女性の係が応待した。書類を見るとどこかに電話をかける。

 その会話を聞いて、いくらか安心した。女性公安は電話を切り、私にメモを渡し、「このホテルに行けば、部屋はある。ここに泊まれ」と言った。


 さすが地域に権力を誇っている公安。アパートの民宿を引き払って移ったホテルは、料金が4倍だったが、居心地ははるかに良かった。

 桂林の川下りは、山水画と大盛りの蟹


 桂林へは、父をともなっての旅だった。これは、観光旅行らしい旅行をあまりしない私にとって絵に描いたような旅になった。


 大正15年生まれの父は、団体行動の集団ツアーは嫌いで外国語はダメだから、ハワイに行って以来、外国にはあまり行きたがらなかった。しかし、専属ツアーコンダクターの私付きだったから、なんとか満足してもらえたと思う。


 北京をまわって飛行機で桂林に着いた。私1人の場合は着いてからホテルを探すのだが、この時は日本でホテルも予約していた。
 着いたのが夜だったので、ホテルのツアーデスクで翌日の漓江下りを申し込んだ。これは、ツアーといっても、バスで舟付き場まで行って舟に乗るだけで、団体行動というほどではない。


 桂林は景勝地として有名だが、メインとなるのはこの漓江下りだ。
 まずバスに乗り、途中、桂林の少数民族の村に寄って、舟着き場へ。水が多い夏場はコースが長く、冬には短縮されるようだ。


 舟には、観光客が30人ほど、日本人は私達だけのようで、白人がチラホラ。後は中国人か台湾人、香港人だろうか。
 舟は漓江をゆったりと下って行く。両側に見えていた民家が次第に少なくなり前方に山が見えてくる。九十九曲がりというそうで、曲がりくねっている。漁をしているのか小舟も見え
る。
 何分ほど経ってからだったろうか、気がつくと川の両側が切り立った岩壁に変わり、山水画の世界が開けて来た。
 日本人がイメージする山は、富士山のように斜面が30度から45度ほどの山だろう。ところが、ここは 60度、70度の山が連なる。壷を伏せたような山も少なくない。孫悟空が雲に乗り、飛び回るのはこんな山間だろう。


 山水画は、空想上の風景のような気がしていたが、漓江からながめる風景は写実的だ。山という文字は、一つの山を模したものではなく、まん中に高い山、その両側に低い山という三つの山の風景を形象化したのかもしれない。


 「山水画のようだなあ」と父も同じ感想だった。


 “現実”の山水画を楽しんでいると、舟の乗員がメニューを持って来た。食事付きのはずだかオーダーするのかと見ると、別料金の追加メニューらしい。上海蟹(かに)のようなものかと思い、蟹という文字が書かれた料理を注文した。


 ここで中国語のメニューは、日本人なら法則さえ知っていれば料理の想像はつく。料理名は、材料、切り方、調理法、味つけの組み合わせで決まる。

 たとえば、青椒肉絲(チンジャオロースー)は、青椒はピーマンで、絲は細切りだから、ピーマンと豚肉の炒めもの。中国では、肉は一般に豚肉のことだ。調理法では、炒、蒸など日本語と共通だが、それ以外に、挨が酢のもの、炸が揚げもの、溜があんかけ、?が煮込み、?になると弱火で長時間煮込む。?がが直火焼きするぐらいを覚えれば何とかなる。


 炒墨魚なら、何かの魚の炒めものと想像できる。正解は、墨を吐く魚、つまりイカの炒めものではあるが。


 さて、隣りに座ったのはシンガポール人の夫婦。シンガポールは中国系が90%で英語のほか中国語を話せる人が多い。この夫婦も祖父母の時代に中国からシンガポールに渡ったそうだ。


 そうこうするうちに、昼食となった。追加注文の蟹は、小さな沢蟹のようなものが、から揚げにされていた。しかし、その量がスゴイ。30cmほどの皿にドサッと盛られている。


 中国では、ホテルのレストランはそうでもないが、街の食堂ではこうした大盛りが多い。とても食べ切れないと思ってしまうが、これも食文化の違いが根底にありそうだ。


 中国人家庭で食事に招かれると、「これでもか」というくらいの数の料理が出てくる。とても食べられる量ではないが、残しては失礼だからとベルトをゆるめて全部食べたら、きっと相手は大慌て。急いで、追加の料理を出して来るかもしれない。


 つまり、中国では食べ切れないほどの料理でもてなすのが礼儀。客人が残さず食べたら、料理が不足していたと恐縮するわけだ。出された料理を全部食べないと失礼になると思う日本人とは正反対だ。また、残った料理は翌日にでも家族が食べるから心配はないとか。


 自前で外食する時は、それほど余分な注文はしないようだが、残すことにはあまり抵抗がないようだ。キレイに食べ切るのは、カッコ悪いような印象があるのかもしれない。そこで、店の方でも“顧客のニーズをキャッチして”ドサッと大盛りとなる。


 さて、蟹のから揚げは甲羅や手足もパリパリで香ばしかった。2つ、3つ食べるなら美味しいといえるだろう。ところが、10、20と食べても皿の上の蟹の山は低くならない。


 隣りのシンガポール人にも「食べて下さい」とすすめ、向かいの人にもすすめたが、遠慮なのか、あまり減らない。


 父もいくつか食べたが、もう食べられないらしく、私に食べろという。
 無理して食べたが、結局半分ほど残してしまった。大正生まれの父は、勿体ないという気持ちからか、私にもっと食べろと言った。

 
一人っ子政策の落とし子たち


 中国では、1976年頃から長い間一人っ子政策をとって来た。2015年にはひとりっ子夫婦には2人目が許され、さらにふたりっ子という制限も消えようとしているという。


 中国語では独生子と呼ぶが、一人っ子政策は、これ以上人口が爆発的に増えたら食糧さえ賄えないという危機意識からだったようだ。一人っ子は、当初は奨励の形で79年には計画成育政策として強制になったようだが、2020年現在は一人っ子世代は40代になっていることになり、それより若い夫婦はほとんど一人っ子夫婦ということになる。


 一人っ子政策の前に生まれた中国人の私の妻は4人姉妹で、同級生でも兄弟3人は普通、4人、5人も一般的で、8人兄弟もいたという。上の世代は兄弟姉妹が多い。
 これは毛沢東の時代、ちょうど日本でも戦前がそうだったように、産めよ殖やせよと、子だくさんが奨励されていた。これが70年代後半になり、すでに子供がいる家庭は、子供をつくらないようにと世代の断層ができた。


 たとえば、一人っ子世代が小学校に入るようになると、それまでのクラス数は半分以下になる。この世代が2年生、3年生と進むに従い生徒数が減り、統合され廃校になった小学校も多かったそうだ。ひしめき合っていた子だくさん世代と一人っ子世代では、ものの考え方も違うだろう。日本でも段階の世代、新人類、ゆとり世代、ゆとり後世代など、時代、時代の若者世代がネーミングされている。中国では、世代分けを、80后、90后などと表現し、1980年代以降、90年代以降と、これまでと違ったライフスタイル・意識の世代を表現している。


 北京や上海などの都市部では、80后、90后世代の一人っ子率は99%を超えていたという。1人めを産んで、さらに妊娠した場合は、地区の世話役や職場の上司が、堕胎するようにと説得に来る。地域や職場の結びつきが強いだけに、半強制的だ。拒否して二人目を出産すると、年収に相当するほどの罰金が課せられる。


 妻に、仮に双子が産まれるとどうなるのか聞いてみた。すると、出産の前に堕胎し再度妊娠するまで待つことを薦められただろうとの返事だった。


 もっとも、都市では厳しい一人っ子政策がとられているが、地方農村部ではそれほどではなかった。まず、人口の1割を占める漢民族以外は、法的に二人の子供を持つことが認められていた。漢民族でも、農村部では兄弟を見かけた。二人めを産むために一人めは戸籍に入れない「黒子」がいたようだが、これも実際にはそれほど深刻そうでなく、上の子も小学校に通っていた。


 農村では労働力として一人でも子供を多くほしいようだ。また「跡継ぎ」の意識も日本より強いようで、男の子をほしがる家庭が多い。一人めが女の子なら二人めに男の子を生もうとする。国も、ある程度これを認めざるを得ないようだ。開放化政策により、農村に自由を認めてきたことも大きいようだ。


 一人っ子政策下の年間出生数は、約1600万人で、当時の人口12億人の10分の1以上に達する。日本の出生数は2019年には90万人を割り、人口の1割りに及ばない。


 現在は、一人っ子政策はなくなったわけだか、この間に子供に対する意識も変わって来たようだ。当初は、2人、3人の子供を産むことが禁じられたが、現在は2人目、3人目を生む制限がなくても、子どもは1人で良いという意識が浸透しているようだ。

 一人っ子政策以前の中国は多兄弟姉妹の時代で、これから高齢化していく。一方、その後四半世紀のひとりっ子が現在の労働を支え、その後もひとりっ子政策がなくなったとは言え、日本のような少子意識は続く。近い将来、日本の少子高齢社会が、中国にも広がりそうだ。 一人っ子政策の落とし子たち


 中国では、1976年頃から長い間一人っ子政策をとって来た。2015年にはひとりっ子夫婦には2人目が許され、さらにふたりっ子という制限も消えようとしているという。


 中国語では独生子と呼ぶが、一人っ子政策は、これ以上人口が爆発的に増えたら食糧さえ賄えないという危機意識からだったようだ。一人っ子は、当初は奨励の形で79年には計画成育政策として強制になったようだが、2020年現在は一人っ子世代は40代になっていることになり、それより若い夫婦はほとんど一人っ子夫婦ということになる。


 一人っ子政策の前に生まれた中国人の私の妻は4人姉妹で、同級生でも兄弟3人は普通、4人、5人も一般的で、8人兄弟もいたという。上の世代は兄弟姉妹が多い。これは毛沢東の時代、ちょうど日本でも戦前がそうだったように、産めよ殖やせよと、子だくさんが奨励されていた。これが70年代後半になり、すでに子供がいる家庭は、子供をつくらないようにと世代の断層ができた。


 たとえば、一人っ子世代が小学校に入るようになると、それまでのクラス数は半分以下になる。この世代が2年生、3年生と進むに従い生徒数が減り、統合され廃校になった小学校も多かったそうだ。ひしめき合っていた子だくさん世代と一人っ子世代では、ものの考え方も違うだろう。
 日本でも段階の世代、新人類、ゆとり世代、ゆとり後世代など、時代、時代の若者世代がネーミングされている。中国では、世代分けを、80后、90后などと表現し、1980年代以降、90年代以降と、これまでと違ったライフスタイル・意識の世代を表現している。


 北京や上海などの都市部では、80后、90后世代の一人っ子率は99%を超えていたという。1人めを産んで、さらに妊娠した場合は、地区の世話役や職場の上司が、堕胎するようにと説得に来る。地域や職場の結びつきが強いだけに、半強制的だ。拒否して二人目を出産すると、年収に相当するほどの罰金が課せられる。


 妻に、仮に双子が産まれるとどうなるのか聞いてみた。すると、出産の前に堕胎し再度妊娠するまで待つことを薦められただろうとの返事だった。

 もっとも、都市では厳しい一人っ子政策がとられているが、地方農村部ではそれほどではなかった。まず、人口の1割を占める漢民族以外は、法的に二人の子供を持つことが認められていた。漢民族でも、農村部では兄弟を見かけた。二人めを産むために一人めは戸籍に入れない「黒子」がいたようだが、これも実際にはそれほど深刻そうでなく、上の子も小学校に通っていた。


 農村では労働力として一人でも子供を多くほしいようだ。また「跡継ぎ」の意識も日本より強いようで、男の子をほしがる家庭が多い。一人めが女の子なら二人めに男の子を生もうとする。国も、ある程度これを認めざるを得ないようだ。開放化政策により、農村に自由を認めてきたことも大きいようだ。


 一人っ子政策下の年間出生数は、約1600万人で、当時の人口12億人の10分の1以上に達する。日本の出生数は2019年には90万人を割り、人口の1割りに及ばない。


 現在は、一人っ子政策はなくなったわけだか、この間に子供に対する意識も変わって来たようだ。当初は、2人、3人の子供を産むことが禁じられたが、現在は2人目、3人目を生む制限がなくても、子どもは1人で良いという意識が浸透しているようだ。


 一人っ子政策以前の中国は多兄弟姉妹の時代で、これから高齢化していく。一方、その後四半世紀のひとりっ子が現在の労働を支え、その後もひとりっ子政策がなくなったとは言え、日本のような少子意識は続く。近い将来、日本の少子高齢社会が、中国にも広がりそうだ。


一人っ子政策の落とし子たち 中国では、1976年頃から長い間一人っ子政策をとって来た。2015年にはひとりっ子夫婦には2人目が許され、さらにふたりっ子という制限も消えようとしているという。
 中国語では独生子と呼ぶが、一人っ子政策は、これ以上人口が爆発的に増えたら食糧さえ賄えないという危機意識からだったようだ。一人っ子は、当初は奨励の形で79年には計画成育政策として強制になったようだが、2020年現在は一人っ子世代は40代になっていることになり、それより若い夫婦はほとんど一人っ子夫婦ということになる。
 一人っ子政策の前に生まれた中国人の私の妻は4人姉妹で、同級生でも兄弟3人は普通、4人、5人も一般的で、8人兄弟もいたという。上の世代は兄弟姉妹が多い。これは毛沢東の時代、ちょうど日本でも戦前がそうだったように、産めよ殖やせよと、子だくさんが奨励されていた。これが70年代後半になり、すでに子供がいる家庭は、子供をつくらないようにと世代の断層ができた。
 たとえば、一人っ子世代が小学校に入るようになると、それまでのクラス数は半分以下になる。この世代が2年生、3年生と進むに従い生徒数が減り、統合され廃校になった小学校も多かったそうだ。ひしめき合っていた子だくさん世代と一人っ子世代では、ものの考え方も違うだろう。日本でも段階の世代、新人類、ゆとり世代、ゆとり後
世代など、時代、時代の若者世代がネーミングされている。中国では、世代分けを、80后、90后などと表現し、1980年代以降、90年代以降と、これまでと違ったライフスタイル・意識の世代を表現している。
 北京や上海などの都市部では、80后、90后世代の一人っ子率は99%を超えていたという。1人めを産んで、さらに妊娠した場合は、地区の世話役や職場の上司が、堕胎するようにと説得に来る。地域や職場の結びつきが強いだけに、半強制的だ。拒否して二人目を出産すると、年収に相当するほどの罰金が課せられる。
 妻に、仮に双子が産まれるとどうなるのか聞いてみた。すると、出産の前に堕胎し再度妊娠するまで待つことを薦められただろうとの返事だった。
 もっとも、都市では厳しい一人っ子政策がとられているが、地方農村部ではそれほどではなかった。まず、人口の1割を占める漢民族以外は、法的に二人の子供を持つことが認められていた。漢民族でも、農村部では兄弟を見かけた。二人めを産むために一人めは戸籍に入れない「黒子」がいたようだが、これも実際にはそれほど深刻そうでなく、上の子も小学校に通っていた。
 農村では労働力として一人でも子供を多くほしいようだ。また「跡継ぎ」の意識も日本より強いようで、男の子をほしがる家庭が多い。一人めが女の子なら二人めに男の子を生もうとする。国も、ある程度これを認めざるを得ないようだ。開放化政策により、農村に自由を認めてきたことも大きいようだ。
 一人っ子政策下の年間出生数は、約1600万人で、当時の人口12億人の10分の1以上に達する。日本の出生数は2019年には90万人を割り、人口の1割りに及ばない。
 現在は、一人っ子政策はなくなったわけだか、この間に子供に対する意識も変わって来たようだ。当初は、2人、3人の子供を産むことが禁じられたが、現在は2人目、3人目を生む制限がなくても、子どもは1人で良いという意識が浸透しているようだ。
 一人っ子政策以前の中国は多兄弟姉妹の時代で、これから高齢化していく。一方、その後四半世紀のひとりっ子が現在の労働を支え、その後もひとりっ子政策がなくなったとは言え、日本のような少子意識は続く。近い将来、日本の少子高齢社会が、中国にも広がりそうだ。

中国元にはふた通りあった頃


 中国の通貨単位は元ということは知られているが、実は中国の紙幣、貨幣には元という文字はない。単位には圓、つまり円が使われている。
 圓と元は、ともにユワンという発言で同一だからこれで良いのだと聞いたことがあるが、さらに、買い物では、ユワンではなく、一塊(クワイ)、二塊という言い方をする。これもそういう習慣だと言われればそれまで。こういう大まかというか、いい加減さが中国らしいところではあるが。


 また、外国幣は、ドルが美圓、円が日圓と呼ぶのに対して元は人民幣と呼ぶ。頭に人民とつくのには、わけがある。

 1992年以前は、中国元には2通りあった。人民元と外国兌換券、一般に外幣と呼ばれる紙幣だ。外幣はドルや円を両替えした時に渡されるもので兌換とあるように、ドルや円に替えることもできる。これに対して一般の中国人が使い広く流通している人民幣は、両替えできない。


 表向きは外幣一元と人民一元は等価とされていた。実際、町の商店で外幣を使うと、同じように使えた。外幣10元で5元のものを買うと、店員にちょっとアレッという顔をされながらも、人民幣5元のお釣りが来た。


 しかし、中国国内でもまったく同じではなかった。外国人が泊まるホテルや外国人向け商店では、外幣しか使えなかった。
 駅でキップを買う時も、外国人は特別の許可書がない限り、外幣しか使えなかった。根底には、外貨獲得をめざし外国のお客さんには特別の待遇をという国策があったことも確かだ。実際、駅には外国人窓口があり、ここなら行列をしなくてもキップが買えた。


 だが、外国人が買える商品やサービスは、中国人もほしい。特に最新の外国家電製品などは、お金があっても手に入らない。


 そこで等価は崩れることになる。外幣を人民幣に替えると、1・5倍、時には1・6倍ということもあった。
 両替は、当然、国策に反するから民間、いわゆるヤミ両替屋がいた。路上で外国人を見ると「チェンジマネー?」と声をかけてくる。留学生の多い学生街の写真屋や洋服屋には、看板だけで本業は両替屋というところもあった。

前述のように観光客は人民幣を使う場所が少ないが、生活する留学生は人民幣を使う機会が多い。
 両替屋は、言わば仕入れで、その裏にはブラックマーケットがあるとも聞いた。


 さて、非合法の両替屋の中には、マージン以上にもうけようという者も少なくない。


 たとえば、両替で人民幣300元を渡す時に、10元札にしてごまかす。相手が1枚、2枚と数えていると、別の仲間が「公安(警察)が来た」と言って逃げ出すという具合。これに懲りると、先に相手に外幣を渡さなくなる。


 しかし敵も心得たもので、まず自分の10元札30枚を数えさせる。相手が確認すると、一旦自分の手に人民幣を戻し、今度は外幣と引き換えに渡す。
 この時、相手の手にのせた瞬間、数枚を抜き取り手の平にかくす。相手は一度数えているから、しばらくは気がつかない。この手品のような技はウイグル人が使うことが多いことから、ウイグルマジックと呼ばれていた。


 91年以降、外幣はなくなり人民幣1本になった。アメリカや日本との貿易収支も黒字となり、一般の中国人が海外旅行で日本円や米ドルを手にできるようになった。かつてのウイグルマジックは、どこかで使われることがあるのだろうか。


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