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文学と、ワインと、組織マネジメントと。

note初投稿です。普段はインターネットベンチャー企業で経営に関わる仕事をしています。昔の学生時分は建築の設計やっていたり、社会人駆け出しのころはコンサルティングの仕事をしていたり、ちょっと前までは海外ビジネスに携わっていたりしました。

どっぷりビジネスの世界につかり始めて早10年ですが、ビジネスの世界でも、本当に深い気づきは、違う領域での文化的な体験から得られることが多いな、と思う今日この頃。

ということで、文学、映画、アニメ、アート、デザイン、建築、都市、ビジネスなどを横断して、色々な気づきや学びを、徒然なるままに書いていきたいと思います。今回は、文学について、ふと気づいたこと、最近感じたことを書きます。


小説を読む時の4つの観点

ぼくは、小説を読むときの観点として、①文体(=スタイル)、②登場人物(=キャラクター)、③話の筋(=プロット)、④趣旨(=テーマ)、の順でみていくようにしています。

ファーストインプレッションとしてまず感じるのが、①の文体=スタイル。これは作家の肌触りみたいなもので、この人は比喩が多いな、とか、リズムが良いな、とか。

次に②の登場人物=キャラクター。これは読んで文字のごとく、登場人物が魅力的かどうか、感情移入できるかどうか、など。

その次に③の話の筋=プロット。話が進んでいくにつれて、しかけられた出来事の伏線が回収されたり、人間関係のしがらみが一定の落ち着きどころを見せたり。

最後に④の趣旨=テーマ。要は「この人はこの作品を通して何を伝えたかったのか?あるいは何を問いかけたかったのか?」という最も深淵な部分。


純文学と、娯楽小説との違い

で、ここからが重要なのですが、個人的に、文学と呼ばれるものに特有なのは、①のスタイルと④のテーマだと思っています。

一方で、娯楽小説とかに必須になってくるのは②のキャラクターと③のプロットではないか、と。

文学的な金字塔となるような作品を映像化しても、エンターテインメントとしては面白くならなかったりするのはこのせいかな、と(もちろん、表現するメディアの特性の違いもあるのでしょうが)。

残念だったなぁ、と思う文学系の映像作品はいくつか思い浮かびます(たとえば「ノルウェイの森」。映像はキレイでしたが、あの村上春樹の洒脱な文体は、映像になった瞬間に消失してしまった感があります)


乾いている文学と濡れている文学。明るい文学と暗い文学。

と、ここまではずっと以前から思っていたことなのですが、最近久々に文学を読み漁った中で、さらにこの持論が発展。

感覚的なものではありますが、スタイルの観点では乾いている文学と濡れている文学、テーマの観点では明るい文学と暗い文学って対比的な形であるのではないか、と。

スタイルについての違いは抒情的な情景か叙事的な描写を中心に書くか、テーマについての違いは人間や時代や社会の様相を闇と光のどちらからどう描き出すか。

これを別々の2つの軸と考えると、4つの異なる象限=タイプが出てきます。

(1) 明るく乾いている文学(=仮に理知型と呼ぶことにします)には、近代文学でいうと夏目漱石、現代文学でいうと吉田修一とか。
(2) 明るく濡れている文学(=仮に耽溺型と呼ぶことにします)には、近代文学でいうと川端康成、現代文学でいうと村上春樹とか。
(3) 暗く乾いている文学(=仮に批評型と呼ぶことにします)には、近代文学でいうと芥川龍之介、現代文学でいうと村上龍とか。
(4) 暗く濡れている文学(=仮に退廃型と呼ぶことにします)には、近代文学でいうと太宰治とか三島由紀夫とか。現代文学でいうと??(すみません思い浮かびません)

もちろん、作家もスタイルやテーマの変遷があるので、作品によって変わってくる(三島由紀夫一つとっても、『金閣寺』みたいな退廃的な文学もあれば、『潮騒』みたいな初期の抒情的な文学もある)とは思います。

大事なのは、そういう見方もあるな、ということ。

これって嗜好性が出るな、と思うのは、ぼくは多分明るく乾いている理知的な文学が好きなタイプで、たしかに現代文学の中では吉田修一をすごく好んで読んでいます。そして同時代に生まれていたら夏目漱石を特に愛読しただろうな、と。

でも、人間って浮気性なものですし、たまにはしっとり耽溺したくて村上春樹読んでみたり、もう少し社会の闇なる部分を除いてみたくて村上龍を体験してみたりもするものだと思います。


文学と組織マネジメント。文学とワイン。

と、そこまで考えてみて、ハッと思ったんです。この文学の「乾いている⇔濡れている、明るい⇔暗い」という考え方、最近聞いた、組織マネジメント理論における「ハード⇔ソフト、ブライト⇔ダーク」の軸に似ているな、と。

組織マネジメントでいうと、ハード⇔ソフトは手法の問題で、ロジカルな説得性とヒューマンな納得性のどちらを使うか、ブライト⇔ダークは価値観の問題で性善説的な考え方と性悪説的な考え方のどちらをベースにするか、というもの。

文学と同じく、ぼくはハード&ブライトな組織マネジメントが好きなんですが、時にヒューマンにもなってみたいし、性悪説も好きではないけど知っておかないとな、と。でも、ソフト&ダークの政治どっぷりのじめっとしたマネジメントにはなじめない笑

で、さらにさらに、この文学の「乾いている⇔濡れている、明るい⇔暗い」の観点って、ワインの味を選ぶときによく使われる「辛口⇔甘口、軽い⇔重い」の軸となんか共通性あるんじゃないか、と。

ぼくもワインはシャトーや生産者などあまり詳しくはないのですが、フランスに住んでいた時に安いワインをたくさん飲んでいたこともあり、なんとなくの野性的な肌感はあると思っているんです。

で、これも文学や組織マネジメントと同じく、辛口の軽めが個人的には割と好き。もちろん、どっぷり重めのボルドー飲むときもあれば、リースリングとか貴腐ワインみたいな甘口飲むときもありますが。

というわけで、文学もワインも組織マネジメントも、ぼくの中の嗜好性はある一定の考え方や軸で共通していたのかも、とふと思ったわけです。なんと徒然なるかな、この越境する「際」の文化的ノート。

こういうネタって、アッ!と思いついたときに、飲み会とかで酒の肴に語ったりはするんですけど、大体スルッと跡形もなく消えてなくなっちゃうんですよね。

領域や分野はぜんぜん違うけど、ものごとの本質や文化のあり方って実は共通性があったり通底するものがあったりして、だから面白い。

そういう、一見どうでも良いように思えて、でもなるほどー、と思わせてくれる、スパイス感のある気づきをこれから書いていこうと思います。

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