【 レイシストをしばき隊は、何を間違えたのか? 】


アンサイクロペディアで、しばき隊をくさす項目があるが、あの記事は正しい。

差別がいけないのだとしたら、まともに考えてふさわしくないから、やめるべきなのであって、反差別カウンターが一般的な感覚から乖離したなら、その告発も同じくらい重要だからだ。

しばき隊についてふりかえるさい、モンスターを討伐しようとして、みずからも怪物になってしまった組織の失敗例として、自戒の念をこめるべきだ。

なぜ差別は厳然として存在し、それを維持する勢力は、あきることなくリソースをわりあて、反差別運動は無力化され空中分解するのか? 

キューブリック監督の映画『スパルタカス』をなぞる必要はないのに。

高田誠がクラウドファンディングで組織した 在特会 の、醜悪なデモ行進に対抗するため、 しばき隊 はあつまり、ヘイトスピーチを発信する人種こそ「レイシスト」であるとカテゴライズして活動をはじめた。

憎悪表現をつつしみ、差別を助長せず「仲良くしようぜ」と、日・韓・朝の民間レベルでの交流と融和を目指すなら、わたしだって、そちらの側だ。

しかしネット民には、女性の精神科医が中指を突き立てるイメージしかないほど、受け入れられなかった。なぜなのか?

イジメをやめよう、と言っただけでは無くなりはしないからだ。差別は、やる側にメリットがあり「イジメみっともねぇよ、多人数でよってたかってヒトリにあたるな美しくないと」イジメや差別を解消しようと抵抗するなら、ターゲットが自分に向けられることもある。

イジメは、やるぶんには楽しい。低コストというか無料( タダ )の娯楽だ。差別は、差別する側にいるか、まわりこめば、差別される側ではないという安心感ならびに、さまざまなメリットがある。

不正をして得る収益が、あまりにもボロすぎるから無くならないように、イジメや差別も、根本的に減少させることは難しい。

さらに反差別運動が支持されず「つまりウケないということは、もっと先鋭化すべきでないか?」「やって効果がなかった過去のまま継続することこそ、不真面目で将来性がない」と、前衛がふつうの生活感から離れすぎることを過激化という。
暴力や実力行使まで一直線だ。

反差別という(被差別者視点に立つ自分たちにとって)正しい運動をしても世間は無関心、在特会は肥大化、そのため運動の成果と変化をもとめ、あせり分裂した。

活動の根拠である、被差別者視点をも喪失してしまい、遂に危険な領域へと突入する。

本質的に、抑圧や貧困を解消しようという政治運動は至難なのだ。

ネルソン・マンデラが、何年、牢獄の中にいたというのか?


カウンターデモをしても世間が無関心で、逆に、髙田が勢力拡大するのを、まず受け入れるべきだった。

政治運動なんかより、残業や休日出勤して収入を増やす必要があるとか、ショッピングや外食、あるいは旅行を優先したい。

娯楽を消費したいので、抵抗運動なんかに興味がない。


そんな大量生産社会における、俗世の消費者が、残酷なまでに妥当であることを無視しすぎた。


存在と時間について、手もちのお金を快楽にかえる効率化としてならば向き合う、無関心層を侮るべきではなかった。

打算的に多数派につくノンポリや無党派層こそ、あるべき生活者の姿かもしれず、いのちより大事な政治使命をもっているほうが奇特だ。

鼓腹撃壌という言葉もあるのだ。



この記事は、まとめサイトの再録です。初出はコチラ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?