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ソナエトロン ep.18 ソナエあートロン

ソナエトロン

(音声:29分57秒、テキスト:約6900文字)

ソナエトロン、今日は、エピソード21(*現在は、18)になりますね。

今日は11月の15日金曜日、今は21時42分ですね。前回の、まあちょっとふざけたって言うか、ふざけてるわけじゃないんですけど、配信で触れた、『アートラヴァーズ共和国宣言』という放送したんですけれども、配信をしたんですけれども、まあそれでですね、今回はちょっと、アート、アートとは何かというね、ちょっと大きなテーマで、ちょっと話してみたいなということがあって、それをちょっと話してみます。

アートっていうのは、僕が考えるものですけれどもね。僕はあのもう、学問的には、中学の時の、美術の授業、もう何やったか覚えていませんけれども、そこでもうその、知識としての美術の体験っていうのは、もうそこで止まっておりますんで、だから今、考えている、アートっていうことのお話になります。

アートっていうのは、僕が考えるのには、アートってまあ、語感から言って、まあ美しいものとかね、美とか、そういったものを想像される方が多いと思うんですけれども、僕は、「美」というものの、美が何でもいいんですけど、そのもの自体ではなくて、美を追求する行為ですね、美を追求する、うーん、姿勢って言うか、それがアートではないかって、考えているんですね。

その、追求している姿勢を見せている人っていうのが、その行為者になりますけれども、その方のことを、アーティストと呼ぶと。

だから、アートっていうのは美の追求であって、追求している姿を見せている人のことを、アーティストと言うのではないかっていうふうに、僕は今のところ考えているんですね。

でまぁそういう話をするとですね、当然まあ、概念的なって言うか、哲学的な問題が出てきますけれども、えーと、「美」、美って、その美しさですね、それは何なのかって言う、さらにこう、大きな問題がね、大きなテーマとも言えますけども、それの問題に当たってくると思うんですよね。

【3分54秒】

まあ、人間みたいな生き物が感じているものというのは、生き物の、その行為っていうのは、まあ一般的に言って、「五感」ですね。五感っていうのは、1・2・3・4・5の「五」と、感情の「感」で、感じる・感じないの「感」で、五感ですね。

それは、ちょっとまあ簡単に、「視(し)」「聴(ちょう)」「臭(しゅう)」「味(み)」「触(しょく)」ですね。「見る」「聞く」「嗅ぐ」「味わう」「触る」。

それを使う、まあ生き物はそれを使って、またそこにその、五感に訴えかけられてくるものですね、それを使って、何かをまあ、生きているわけですね。生きているっていうことになりますけども。

その「美」というものを考えた時に、どの感覚に訴える場合も、見るとか、聞くとか、嗅ぐとか、そのバラバラではなくて、どの一つ一つの感覚に訴える場合も、バランスと調和ですね。

バランスと調和っていうのは、例えて言えば、例えば、見ることなら「眩しい」っていうことと、「暗い」って、まあ、見えないっていうことになりますね。聞くことだと、すごく「大きな音」と「微かな音」、その先は聞こえない音になりますね。匂いとかでも、すごくこう「強く香ってる匂い」と「微かな香り」。で、味で言えば、「酸っぱい」とか「甘い」とかね。で、まあ触るとか触らないっていうことになると、「痛い」とか「気持ち良い」とか、まあそういうことになると思うんですけれども。

で、そのバランスが崩れてしまえば、何て言うのかな、辛いものになりますよね。例えば、眩しすぎれば、目が眩んでしまうし、暗ければ、暗すぎてしまえば何も見えないと。そういったことが、全ての感覚に対して、あるわけで、そのバランスと調和の姿ですね。

それが、何て言うのかな、自然に成り立っているような姿っていうのが、まあ実はその、「美」の、僕はそれが美だと思うんですね、そのバランスと調和がとれている状態ですね。まあ「秩序」と言ってもいいのかもしれないのですけど。

そういったことがですね、どういうとこから来るかって言うと、よくねぇ、あの比率でいうと、黄金比(おうごんひ)、黄金比というのは、黄色い、金(きん)の、比率ですね、黄金比。これがよく言われるんですけど、長方形のなんかバランスみたいな感じなんですけど、組み合わせのね。

それがまたどこから来るかって言うと、自然界に存在しているものの、当たり前のバランスっていうのから、導き出されているバランスで、ちょっとなんかこう、専門用語的になりますけれども、「フィボナッチ数列」とかね。フィボナッチ数列っていうのは、僕が習った時はね、「フィボナッチ級数」って言ってたと思うんですけど、なんかこう、ものがこう、ものって言うか生物界のものが、自然にだんだん増えていくような状態とか、自然に減っていくような状態のところに、数学的な、数列っていうのかな、それがまぁ現れているんですよね。

簡単に、簡単にって言うか、例えて言うと、アンモナイトのような、巻貝があります。まあ、僕、“まきがい”って名前使ってるんで、それ無理矢理こじつけますけども、内側の細かいところから、だんだん螺旋状に広がって行きながら、大きくなって行くというね。

対数螺旋って言うんですかね。そこの数学的な、あの何て言うのかな、姿っていうのが、すごく数学的にハッキリしているところもあり、それが当たり前に自然界に存在しているわけですね。

そういった事が、そういった姿を、植物でも何でもあるんですけれども、自然界にあるものの、そういう美しいバランスっていうものが、「美」として、人は受け取っていると。

【10分15秒】

僕が考えるアートっていうのは、そういった、例えば音楽とか、美術・絵とか、舞台とか、舞踏とか、そういうことだけではなくて、実は、学問的な研究ですね、どんなことでもそうなんですけど、哲学でも。

哲学っていうのは、その研究のことを全部ばっくり括れば、全部、哲学なんで、それを分けていくと、科学とか、化学(ばけがく)とか、分子生物学だなんだとか、そういうのが出てきますけれども、まあ大きく言えば全部が、考えるのは哲学なんですね。

そういったものをやっぱり、追求していく人っていうのは、それがやっぱり僕は、それもアーティストなんではないか、アートを追求する人たちの姿ですね、ではないのかなって、僕は考えているんですね。

そういうその、例えばノーベル賞とかなんかそういう、ノーベル賞取る・取らないは別なんですけど、そういうふうに、研究している人っていうのは、ただ闇雲に、手当たり次第に探求していっても、簡単には、なかなか成果が得られないもので、自分が見ている世界の、ほんのわずかな、揺れとか、違和感とか、そういうものを、発見していくセンスが必要だと思うんですよね。直感的なものっていうことになりますけど。

そういったものを使って、ずっと自分の専門のところを、こう考えながら、その直感に従って、これじゃないかっていうところを、掘っていってね。そこを解き進めて、「あ、やっぱり」っていう、「ここに、このバランスがありました」っていうことを、バラバラに見えているものの中に、突き詰めた結果、そこに「こんな美しい秩序がありました」っていうことを発見するわけですね。それがやっぱり、その、アーティスティックなセンスではないかなって、僕は、そう感じるんですね。学問の中で。

えーとまあ、一番見えやすいものとしては、建築っていうことがありますけれども、例えば、バランシング、ストーンを積み重ねるとか、そういう事でも同じ事なんですけれども、バランスが取れていなければ、建築物っていうのは、倒壊してしまうわけですね。重力がある限り。

地球では重力がありますので、必ずそれは、バランスがとれなければ倒壊してしまうと。それを考えて、きちんと建物を作るっていうのが、建築家の仕事であって、しかも、大きな、建築物がその集まった空間を想像するとして、それは都市とかそういうことになりますけれども、全体的な風景との調和とか、そういうことも求められていくわけですね。

単なる奇抜な建築をそこにドーンと1個作ってしまって、それがその風景との調和を乱してしまえば、その建築物っていうのは、受け入れられないものになってしまうので、そういうことも、現代としてはそれを考えていかなくちゃいけないわけですね。

だから日本はね、全体的な都市設定っていうのが、ちょっと遅れている感じも、ちょっとしますけどね。

【15分10秒】

でまあ、僕が一番得意なって言うか、慣れ親しんできたものとしては、やっぱりその音楽っていうものがあって、やはりその、音楽が、音楽になっている、音楽たらしめている理由っていうものがあって、だからその、音量的に大きすぎてしまえば、騒音になってしまいますし、あまりに聞こえなければ、そもそも音楽、音としても音楽としても、受け入れられることはできないと。

僕、あの、昔っていうか、YouTubeなんかの講義なんかを、たくさん見ていた時に出会ったもので、「1/f(エフブンノイチ)ゆらぎ」って言う、ゆらぎの研究者の方が、おトイレに入った時に、パイプから水滴が滴り落ちていていたと。

落ちるタイミングっていうのは、一定ではないわけですね。溜まった時とか、勢いとか、水流がその穴に対して、抱えてる圧力に従って、こう微妙な揺れがあるわけで、その「ゆらぎ」のことを、「1/fゆらぎ」っていう言い方をしますけども。

で、その方は1/fゆらぎの研究者の方だったので、その音を聞いた時に、「あっ、これ」って思って、それを録音して、コンピューター解析して、それをなんか音楽的なものに再生、何て言うのかな、再現した時に、それはまさに、ショパンの『雨だれ』という曲に。

僕その、ショパンの『雨だれ』っていう曲も聴いたことありますけども、その、再生した曲ね、それも、ショパンの『雨だれ』っていう、これは作品28-15っていう作品になりますけれども、それにまあ、非常にほぼ一致しているようなね。

要するに、滴りの、コンピューター解析したら、その音楽になっていると。それはだからつまり、ショパンの耳が捉えた、自然界の「美」と言うか調和をね、とか、比率とかいうものを、音楽的にショパンが再現した時に、作品化した時に、それが調和が現れていたっていうことの証拠になっているんだと思うんですね。

【18分44秒】

だから、例えばだから、音楽に限らず、料理とか、何でもいいんですけど、人が作り出す何かとか、姿勢とか、何かの全てにね、アートが求められているのではないかって、僕は思うんですね。最終的な目標としてね。その、姿勢としては、アーティスト的な資質っていうことになりますかね。

でその、これちょっと嫌な話になりますけれども、その逆にね、いろんな人がいろんなことをしますけれども、その中に、そういったその、アートが微塵も見えないような、見えないし感じられないようなものね。その行為っていうのは、やっぱりその僕から見ると、ちょっときつい言い方すると「下品」な感じとかね。下品だけならまあいいんだけど、特に人に嫌悪感を催させるものね。行為ですね。

要するに、人間社会の秩序を破ろうとする行為っていうのは、人間社会では、今ではだから、現代では「罪」っていうことの、概念の根本になっていますね。

それがだから、秩序を破ったら罪ですよっていうことになってしまうので、だから、やっぱりその、極端にその調和を乱していくような行為っていうのは、まあ罪として罰せられても仕方ないのかなっていうことも、少し感じるんですね。

大体その、僕が感じている仲間って言うか、見ている中で、人との付き合いの中で、大体そのアート的な感覚を持っている人たちね、それはだから、その人がアーティストであるとか関係なく、言論、言質のそういうことから感じられるものがね、アート的な感覚を持たれている方っていうのは、僕から見てやっぱりその、「バリア」って言うか、垣根がなくて、軽々とそういうことを、垣根っていうのを超えて、共鳴していくことができる感覚を持っている人達っていうのが、僕はいるような気がするんですよね。

例えば、こないだその『アートラヴァーズ共和国宣言』の中でも言いましたけども、職業とか、性別とか、経歴とか、年齢とか、生物・無生物のバリアとかね、そういうものを、軽々と超えていくものが、あるんじゃないかなって、僕は思うんですね。

だからよく、その「バリアフリー」っていう、僕そういう、なんて言うか、カタカナ用語っていうのが、そんなに好きなものではないですけれども、その「バリアフリー」っていうこと自体が、それは「アート」っていうことに、「アート」そのものじゃないかって思うんですよね。

「アート」っていうのは、「バリアフリー」の言い換えであると。「バリアフリー」とは、「アート」そのもののことではないだろうかっていうような感覚を、僕は、今は感じています。

【23分16秒】

これからあの、まとめになりますけども、アートをしている人、アートを目指している人、アートを追求する行為をしている人ね、その結果として、「作品」っていうものが残る場合がありますね。

例えばだから、今で言ったら、CDになってるとか、絵画作品として額の中に収まっているとかね。

それはですね、これはその辛い、僕は辛いものだと思うんですけれども、結果として、まとめられていることがね、そういうふうに形として固定した時に、色んな迷いを、ある程度もう、「これでいいや」って言って、放り出してしまうしかないんですよね。あの、作品として出す時に。

それはだから、絵なら、例えば「もうちょっとここ描き足したかった」とか、「もっとここを最初からやり直さなくちゃダメだった」とか、そういうことを、掛かった時間とか、いろんな自分の気持ちを押し殺して、最終的にポンとこう、空中に放り出すみたいな感じで、出していかなければならないと。

で、その出したものが、今度は、出した以上は、評価されるわけですね。その評価される時に、やっぱり自分は、あそこをやり直さなくちゃダメだったなぁというところを指摘されたりとか、そういう辛いことが出てくるわけですね。

例えば、音楽とかでも、プレイしている最中の曲っていうのは、いくらでもプレイしながら、それはあのなんて言うんですかね、コンサートとかそういうことじゃなくて、出なければやり直していくことができるんで。

だけれども、CDとか、そういうものにした瞬間に、完璧なものとして、出さなければならないと。これはね、それは僕が言っているだけではなくて、ギタリストの、福田進一先生と、ジョン・ウィリアムズさんて、その世界的に有名なお二方のギタリストが、対談されている時に、ジョン・ウィリアムズさんがですね、本来は、そういうふうにレコードとか録音作品を残すっていうのは、間違っているんだと。間違っているって言うか、それは本来ではないと。なぜなら、そこを、その、作品化した時に、常にその完璧さが求められていくと。それは本来の、アートの姿、アーティストの姿としては違うんだと。

それをその仰られていたのを聞いて、あ、なるほどねーって、僕、深く考えたんですね。深く、その気持ちの中で落とし込むことができたと言うか。まあ、そうですよねーって。

例えばだから、ちょっとしたサロンみたいなところの空間を、皆で共有しながら、ギターを弾いていくとか。そっちがまあ本当で、そういう活動されているギタリストの方、大変多くて、ほんともう、数十人を集めて、リクエストされた曲を弾いたりとか、まあ自分が弾きたい曲を弾いたりとか、指導しながらとかね。

だからそれが、その、そういうのいま映像で、インターネット上にあがっているものもあるんで、そういうの見て、あと例えば福田先生、あ、福田先生のは出てなかったかな、要するに、マスタークラスで指導している姿みたいなね、ワークショップみたいな感じで、あ、これがやっぱり本当なんじゃないかなって、そのアートっていうのね。

だから絵画とかも、非常に難しいところありますよね。絵画っていうのはその、出た瞬間っていうのはもう、一瞬で見えてしまうんですけれども、そこに掛けられていた、努力とか、時間とかいうのは、全く失われてしまいますんでね。見た瞬間に。一瞬でその終わってしまうんで。

だからその、やっぱりそのアートっていうのは、美そのものではなくて、美の追求と、追求している行為っていうことになり、を、僕は、アートと呼ぶのが、良いんじゃないかなって、今のところは考えています。

まあ、くどくど話してきましたけれども、今回のソナエトロンのエピソード21(*現在は、18)は、アートとは何かっていうことを、ちょっと自分なりに、話してみました。

ご清聴ありがとうございました。

【29分57秒】

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