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「わかる!」という安心感と、「わからない…」という発見

ラグビーW杯が盛り上がっていますね。
日本の快進撃で、メディアも日増しに盛り上がっている感じもします。

先日職場の上司、同僚と、このラグビーの話になりました。
ちなみに私はそこまでラグビーに対し熱があるというわけではなく、スポーツ全般に対し、大きな熱量を持っている人ではありません。

上司「●●くんはラグビー見てる?」
私「いいえ、見ていません」
同僚「わたし、全然ラグビー知らなかったんですけど、見てみると面白いですよ!」
私「へえ、そうなんですね・・・」

一同「・・・・・・」

とまあこんな感じです。全然会話は盛り上がりませんでした。(笑)
私ももっと積極的に会話に参加するという手もありました。
「へえ!結構面白いんですね!どの辺が面白いんですか?」とか。
しかし私はそうしませんでした。
自分が興味ないことを聞いても自分が疲弊するだけだからです。自分に無理をさせると、そのはねっかえりが後々必ず来ることを知っています。

この会話を俯瞰的に見てみるとどうでしょうか。
私は自分の興味のある分野から離れた会話を持ち込まれたので、そこまで積極的に絡むことはしませんでした。

なぜ自分が興味のある分野から離れた会話をされると、興味をなくすのでしょうか?

それは、自分の価値観にはまらないものを提供されるからだと思うのです

例えば、誰かから「これは30メートル」だと言われたら、大体の長さがわかるでしょう。
これはなぜわかるのかというと、「メートル」という概念が自分の頭の中にあって、長さが自分の尺度で測れるため、理解ができます。

一方こう言われたらどうでしょうか。
「これは30ヤードの長さがあります」と。

これで大体の長さが想像できる人は先程の例と比べて、かなり減るかと思います。
なぜかというと、自分の中で「ヤード」という長さの概念がないためです。概念が頭の中にないと、30ヤードと言われても、それが意味することを理解することが出来ません。


冒頭のラグビーの話に戻りましょう。
私はラグビーにそこまで興味がないという価値観を持っています。その理由もいくつかあります。私には興味がないので、興味があるという人の価値観がわからないのです。
「メートル」の概念を持つ私には、「ヤード」の概念を持つ人の言うことが理解できないのです。

もし私が「ヤード」の概念を持ち、ラグビーに興味がある人だったと仮にしましょう。上司と同僚との話はもっと盛り上がったでしょう。

私「私もラグビーにはまっているんです!あの試合のあのプレー!よかったですよね!!」
上司「おお、僕もあれはいいと思ったんだよ」
同僚「あの海外の選手もいい動きしますよね!」

ここでの3人は「ヤード」の概念で話をしています。
これは60ヤードだ。30ヤードだ、15ヤードだ・・・。概念を共有しているため、ツーツーで話が通じます。

ここでの3人が得られるものは何なのでしょうか。
それは「安心感」なんじゃないかと私は思います。
話が通じ合うことによる安心感、一体感。海外に行って日本語が通じたときに感じるあの安心感に似ていると思います。概念、価値観が同じ人といると、安心感が得られるんだと思います。

一方、「メートル」と「ヤード」の概念をそれぞれ持った2人が同じ空間にいるとどうなるのでしょうか。
私のように自分が分からないことに対しては、一歩引いた立場を取る人もいるでしょう。しかし私は違うアプローチもあると思うのです。それは「ヤード」の概念を理解しようとする姿勢です。

「1ヤード」とはどのくらいの長さなのか。自分が知っているメートルでいうと、何メートルに相当するのか。
自分の殻、価値観で固まっている限り、新しい知見は得られません。新しいものを受け入れるのは勇気と痛みが生じます。今までの自分の価値観がひっくり返るかもしれないし、否定されるかもしれない。中々自分に余裕がないときは受け入れることは出来ないでしょう。しかしもし少しでも余裕があったなら、「ラグビー面白いんですね、ちなみにどんなところが面白いのですか?」と声かけしてもいいと思うんです。
もしかすると人によっては「長さ」ではなく、「重さ」の概念を持っている人がいるかもしれません。「メートル」しか知らない人には到底理解が出来ない話でしょう。この時、一歩踏み出して聞いてみるのか、それとも今の位置にとどまるかで、今後の自分の姿が変わってくる気がするのです。

今日は以上となります。
お読みいただき、ありがとうございました。

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