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かわら版No.12 米沢の経済とは何か?そして米沢の経済にとって何が必要か?【米沢経済編①】

いつもお読みいただきありがとうございます。9月定例会も一般質問が終わり、現在は決算特別委員会中であります。昨年令和4年度の米沢市歳入歳出決算書を4日間にわたり集中質疑しています。議員として初めての経験となりますが、これから始まる来年度令和6年度の予算編成に関わる内容でもありますので自分なりの視点も大切にしながら明日からの3日間に臨みたいと思います。

さて、5月より市民の皆様から米沢市議会へとお送りいただき、市政課題について向き合って参りましたが、一つの大きな感想といいますか、視点といいますか、米沢市役所の行政や議会において“経済”に対する考え方が正直弱いなあという思いに至っております。かくいう僕も大学・大学院で経済学を専門にしていたわけでも、現在においも専門の研究分野は経済学関係分野ではないので大層なことは言えないのですが、やはり、米沢の経済とは何か?そして米沢の経済にとって何が必要か?という視点は、今後議員という市民の皆様の市民生活の良し悪しに直接的にも間接的にも関係する立場にある以上、専門書を手に取り、理論や政策、実践的な地域経済に関する知恵を付けて市民の皆様にわかりやすく提案していくことはとても大切で重要なことでないかという思いがあります。

そこで、千里の道も一歩からということで、かわら版において「米沢の経済とは何か?そして米沢の経済にとって何が必要か?【米沢経済編】」というタイトル・テーマを掲げて米沢経済についての論考を書き重ねて行きたいと思います。経済とは、中国の古典の言葉では、経世済民、世を経(おさ)め、民を済(すく)うとの意ですし、日本民俗の言葉では、働くとは、傍(はた)を楽(らく)にする、自分以外の誰かを楽にすることの意※です。
※働くとは、傍(はた)を楽(らく)にする、自分以外の誰かを楽にすること。このお話は、民俗学者の佐野賢治先生からお聞きしました。

日本や中国では、経済のような言葉の中には、その前提として、私ではない誰かのためにという視点が含意されいることを、ここで確認しておきたいです。西洋でもこのような視点は、下記のインド出身の経済学者によって20世紀後半になって厳密かつ明確に経済理論として提供されています。

僕が法学研究科の大学院生のころに、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者・哲学者のアマルティア・センのエッセイ「合理的な愚か者 経済理論における行動理論的な基礎への批判」をはじめて読みました。ここで、詳しくは論じませんが、センは、経済学モデルにおける人間の捉え方が、自己利益を追求する利己主義者という人間観に傾きがちである点を批判し、“共感”と“コミットメント”の区別が大事であると説きました。すごーく簡単に言うと、共感に基づく行為ではなく、コミットメントに基づく行為が経済倫理的に価値が重いということを説明しました。

「コミットメント〔という概念〕は、一つのやり方として、その人の手の届く他の選択肢よりも低いレベルの個人的厚生をもたらすということを、本人自身が分かっているような行為を〔他人への顧慮ゆえに〕選択する、ということによって定義しうる。」※(134p)
※アマルティア・セン「合理的な愚か者 経済学=倫理学的探求」勁草書房
(1989.4)

センは、コミットメントという概念によって、それまでの伝統的な経済理論上同一視されてきた個人的選択と個人的厚生の間に楔を打ち込むことで、他人にも倫理的関心を持ち、経済的自己決定にちゃんと倫理的区別を伴った動機付けをすることができるような個人像を創造しました。経済理論に温かさを取り入れることで、社会問題や政治問題に経済倫理のポテンシャルを練り込もうとしたのです(当たり前のように感じますが、これは結構革命的なことです)。

人口減少・低経済成長の時代において、経済とは何か?経済とは何であるべきか?米沢の経済とは何か?そして米沢の経済にとって何が必要か?これから生真面目に考えていきたいと思います。

かわら版No.12



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