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選択の力を取り戻す

いくらセラピーを続けても、
セラピーや数々の意識の変容の方法論を
頭で理解しても、
それを生業にできたとしても、
「自分の人生に責任をとる」
「自分に起きることは自分のものである」
という根本的なところに立つという
意図そして意志がないと、
被害者の人生は終わらない。


最初は単なるコンセプトへの
賛同に過ぎなかったそれも、
まずはそれを意図し、
その考えを実践するという
自己規律によって
自己の内側の質として安定化して行く。

長いことセラピー的なことや、
グループで学んだり、
受けたりして来た人たちが陥りがちなことは、
やればやるほど、
自分の感情や思考に気づき、
今度はそれと自己同一化してしまうということ。

つまり、自分の感情や思考が自分だとし、
それに耽溺してしまうのだ。

それは、
セラピーや親しい友人との会話の中で
それらを癒す、変容する、
という意図の元で扱われるのと、
ただそのつもりでいても
垂れ流している部分の方が大きいのとでは
違うのだ。

そう言った人たちは、
過去の物語に執着し、
それを繰り返す話すことで、
まわりの人たちから注目を得よう
とする傾向を多く見かける。

(それがいけない、
と責めているわけではないので、
自分がそうだな、
と思った人は気づきへと
エネルギーの方向を変えてみて欲しい。)

今度はそこで与えられた注目の心地よさから、
傷を通して繋がる、
というパターンをつくってしまう。

それは成長のプロセスとしては
有効、自然なフェイズと言えないこともないが、
長く続けばそれはそれまで以上に
あなたの心を蝕むことになるかも知れない。

少なくてもあなたの可能性を著しく
制限することになるだろう。

私にもそういう時期があった。

全くの勘違いによって、
傷を通して繋がること=親密感
のように捉えてしまっていたのだ。

それでいて埋まらない孤独感と
飢餓感に苦しんだ。

だからと言って、
実際ある心の痛みを、
誰にも伝えることなく
ただすべてを抱えればいいと言うのではない。

伝えて、そこから手を差し出すことが
本当に必要なときもあるだろう。

そしてある日あなたは、
そうでないやり方をする日が来ていることに
気づくのだ。

「起きたこと」「起きていること」
を自分のものとすること。

それは「自分に起きることは
自分が変化することで変えて行ける」
ということだ。


つまり他人や出来事から来る反応の人生から、
自分が選ぶ人生となり、
あなたは「自由だ」と知ることだ。

しかし今度は同時に、
全く選んだことなどなかった自分へと
開かれて行く、という
なぞの領域へと導かれるかも知れない。

ここでの「選んでいない」は
「力のない被害者である」というところとは
全く違うフェイズである。

それはこれまで限られた枠の中で起きており、
知っていたフローと言う状態から、
人生そのものがフローの状態に入ってくる、
と言う言い方ができると思う。

それは決して現世的に言う
好調の波に乗っているときだけ
をいうのではない。

あなたは未だ人間であり、
思考も喜怒哀楽も持っていれば、
体の好調、不調もある。

ただなぜそれをするのか、
という過去や未来からの理由から
どこか自由になっており、
ただするべきことをしているという
(内なる批判者の自己的見地から
ではない意味で)
感覚とともにあることだろう。

そしてざっくりと
それに抵抗しているときか、
ただ導かれるままでいるのか、
のどちらかとなって行く。

抵抗することであなたは
「自分である」「自分がやっている」
というところへ戻ってくることができる。

そして被害者の自己、
それから選択している自己、
への進化を遊ぶことができる。

(わかるかな〜?わかりづらいかな〜?)

「私」という
究極のアトラクションへと戻れるのだ。

それは例え楽しいとしても
ディズニーランド的娯楽に過ぎない。

だからと言って、
ディズニーランドを楽しんじゃいけない
わけじゃない。
何でもアリ、ですよ。
みんな好きにするのがいい。

ただそれ以上の喜びを
一度知ってしまったら、
その喜びへと戻りたくなるのは
自然なことだ。

いくら都会が楽しくても、
自然豊かな故郷に戻りたくなるように。

うまく繋がっているように聞こえない
かも知れないが、
ここへの練習の一つが、
自分に起きることは自分のものとすること、
自分の選択の力を取り戻すこと、なのだ。

選択の力を取り戻す、
そこへの責任を取る、ということで、
選択をしていない状態へと導かれる、
という一種逆説的であり、
矛盾するかのように聞こえることが、
同時に本当である、と言うことの可能性に
オープンでいて欲しい。

難しいよ、と思った人は、ただひとつ、
例え嫌なことがあっても、
人のせいにしない、
自分のせいにもしない、と決める。

そしてそれを変える力は自分の方にある
ということの可能性にオープンになり、
実際それをサポートするような
ワークをしてみる。

自分のパターン外のことをやると人は、
それを無理矢理に感じることも多いが、
騙されたと思って練習してみれば、
目が覚めるような思い
をすることも多いことだろう。

(2013/11/10)

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