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「死」という投影された完全性

(2014年に突然死が増えたという
ニュースを見て考えたこと)


突然死が増えている、
という記事の見出しを読んだ。

それがどれくらい本当のことか
というデータを見ていないのでわからない

が、自分のざっくりした印象では、
本当のことかも知れないな、と思う。


実際私も
今年に入って2人のご縁ある知人を
突然と言っていい形で失くした。


さて、Facebook上で
突然死のニュースなどを見ての
私の正直な反応をお伝えしようと思う。


人によっては不謹慎とか、
亡くなった方への冒涜とか受け取る方も
いるかも知れないが
そんなつもりは毛頭ない。


誤解や多少の批判も覚悟の上で書くのは、
大げさかもしれないが
究極的には自分の命を救うためだし、

そのことで
何かを受け取ってくださる方が
一人でもいれば、

それは私が存在し、
生きる意味へと繋がるからだ。


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例えばその突然亡くなった人が
知っている人だったりすると、

驚きとか、嘆きとか、悲しみとかがあり、
その先に受容とかがあるわけだし、

それが知らない人だと、
そうなんだ、程度の認知だが、

そのどちらのケースに置いても
共通する私の感覚は、
そこはかとない「羨ましさ」である。


突然死、
とくに心不全というからには、
あっという間に亡くなったのだろう。
と言う印象を受ける。


苦しんだとしてもそう長くはないはず。
と事実はどうであれ
予測することで現れる気持ちが
「羨ましさ」なのだ。


それは
「楽に死ねていいなー」

「急に全部を終了できていいなー」

「理由もなく、終わりにできていいなー」

みたいな単純さで。

それは裏返せば私の中に、

「さっさと楽に死にたい」

「全部を終了したい」

という願望がある、と言うことだ。


その奥には
完全な平和への
神聖な憧憬があるのは知っている。


平和と、
万物と一つであることへの
回帰への憧憬が、、、。

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私はハワイ島にいるときには
ほぼ毎日なんらかの形で海に入る。

一人で行くことも多い。


何日かにいっぺんは
珊瑚礁を超えて
底の見えない深いところへ行く。


ただ青と
そこに差し込む光だけの世界へと。


スノーケル、マスク、フィン、
ときにウエットスーツを
つけていることもあっても、

私は水の中で、
青との、水との、光との、
世界との一体感と、
地上ではない自由さを感じる。


体を水の動きに任せては、、、。


そしてそんなとき
思考は著しく減ってはいるものの、
「死」についての思考が現れることが
しばしばある。


憧れとしての「死」


「死」という投影された完全性に
誘惑されるかのように惹かれる心。


少なくてもそこに、
これと云って
現実でかかえている難題があるわけでも、
日頃から鬱状態にある訳でもない。


どちらかと云えば、
いや間違いなく、
日々を自分なりに
豊かに楽しんでいる方だろう。


それでも「死」への憧れは
いつも私とともに
ここにあるのを知っている。


それは自我の消滅、
自己の終わり、
思考がストップする、
というスピリチュアルなステイト、

完全な悟り状態への憧れこそが
本質であろうと、頭では思う。


しかしながらたった今
私にとってのリアリティは

実際の命を終わらせること、
であるのだ。

そしてかつてはそれがもっと能動的な、
絶望感から来る死への欲求で
あったこともあった。

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そんな考えの中、
海の中で私は、

ほんの少しでも命の危険を感じると、
体の中で

「生きたい!」

「生きなきゃ!」

「生きろ!」

「生きる!」

という原初の動機が
発動するのを感じる。

それは「恐れ」として
私の命への欲求を発動する
という面白い反応をくれる。

人間、この未知なるもの。

人間、この興味深きもの。

私は、恐れながらも、
その命の欲求を面白く味わう。


「ああ、私は生きたいのだ。」

「もっと、もっと生きていたいのだ。」

と。

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こういうことを言ったり、
書いたりすると
心配してくれる人が現れる。


ご心配なく。

私は死なない。


少なくても
自分で命を終わらせたりはしない。


死への願望や衝動は、
ヒーラー歴よりずっと長い。


そしてもしも私が人の癒しや、
成長をお手伝いするものとして、
信頼に足る部分があるとしたら、

実はこことしっかり仲良くやって、
それを受けいれるとともに
超えて行ったところは大きいと思う。

せっかくいただいた命、

「生きなきゃ」

は確かに本当のことだろう。

しかしプレッシャーは
生へのそれでさえ
あなたの心を重くする。


死んでもいいのだ。

命の終わりに憧れてもいいのだ。

それは失敗ではない。

私たちはそこからも生きられる。

だからこそ豊かに、
きらめくほどの光を
小さな日常に感じるられることもある。


そして、生きて、そこのあなた。


私も生きる。

死の真隣にあるほどの、
命の輝きを味わい続ける。

(味わっていないときにも。
味わわなくてもいいし、ね。)

「生きてるだけで丸儲け」

とは明石家さんま氏の大名言。


そう思えない日にも
私の魂は知っている。

それが本当のことだと。


同時にそれは意味付けにすぎない。


そして私が本当に終わらせたいのは、
このような意味付けなのだ。

そのように意味付けをする「私」なのだ。

と言うところへと、結局立ち戻る。


(2014/3/22)

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