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『薬草』『一張羅』『縁台』

老人は、すっかり呆けていた。元々は研究者だったが、その面影はどこにもない。40年前に流行っていた釣り師のような服装にハンチング帽で、息子が日曜大工で作り上げた縁台に座っている。トレーニングや散歩を日課にしていたために体こそ矍鑠としたものだったが、それを制御する脳の方はすっかり衰えていたのだった。

「父さん、今日は元気そうだね」

「俺はいつでも元気だよ、三郎」

三郎と呼ばれた太郎は、苦笑いするしかなかった。太郎にとっての弟であり、老人にとって三男である三郎は大した奴だった。学校の成績が良いのは勿論、大学ではあっさりと恋人を作って学生結婚、就職して3年目にはマイホーム付きの一軒家を構えるに至っていた。

対して太郎は起業に失敗してしまい、実家で暮らしていた。成功したいという気持ちが失せた彼にとっては、居住費が減る実家暮らしは都合が良かったし、老い始めていた両親にとっても都合が良かった。テレワークで働いていたので母の葬儀も問題なくこなすことができたし、母が死ぬと同時に急速に老いた父の世話も両立できた。

思えば、太郎はいつも三郎と比べられていた。長男なのに三男よりも出来が悪いと責められたことは数知れない。弟のように立派な職に就くでもなく、テレワークで貯蓄形成も怪しい暮らしをしている太郎は老人になる前の父に何度も叱責されたものだった。勿論、父が褒めてくれることなど経験したこともなかった。

三郎と間違われる現状に、太郎は概ね満足していた。太郎として顧みられることが無かろうと、三郎としてでも、尊敬する父に褒められるのは太郎にとって喜びだったのだ。父の一張羅にアイロンをかけるのも、所かまわずする大便を片付けるのも、苦ではあったが老人の死を願うなど太郎には思いもよらないことだった。

「いや、お前は太郎だったな」

だから、急に正気を宿した老人の瞳が真っすぐに自分を射抜いた時に太郎は怯んだ。それがどういうことなのかを察して太郎は泣きそうになった。また子供の頃のように、実家に居つくことを決めた時のように怒られるのではないかと思ったのだ。

矍鑠とした歩き方で、老人が箪笥へと向かう。それは父の個人研究が詰まった大事な箪笥で、太郎は一度も触ったことがなかった。老人は箪笥の鍵を開け、何かの紙を取り出して太郎に手渡した。

「たまにな、頭がハッキリする時に研究していたのだ」

受け取って見ると、ノートの表紙に「痴呆を直す薬」と書いてある。めくってみると、どこにでもある雑草から抽出した薬品を飲むことで痴呆が治るのだと、ノートの末尾には結論されていた。雑草が薬草になる。それがどれほどの経済効果をもたらすのか、太郎にとっては自明のことだった。

「やる。好きに使え」

そのまま老人は倒れ、太郎は救急車を呼んだ。それでも間に合わず、老人は死んだ。葬儀の後で、太郎はもう一回だけ挑戦することに決めた。最後に一度だけ、真っ向から自分を見てくれた父に報いたいと思ったのだ。


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