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『煙』『紫』『インク』

 どうしても編集者から逃げたくて、キャンプ場まで来てしまった。私はインドア派だ。編集部もそれを知っている。だからこそ、こんなところまで逃げてくればひとまずは目を晦ませられるだろう。
 中天に昇ってきた太陽に照らされながら、道中で買ってきたキャンプグッズを下ろして設営する。まずはワンタッチテント、次に焚火台、炭と着火剤。ザックに横付けしたスキレットを下ろし、食料が潰れないようにテントへとザックを入れる。銀マットやシュラフを荷解きしていき、食料の上に詰めたノートパソコンを取り出した。火を焚くより何より、パソコンを起動して書かなければならない。
 言い訳に過ぎないが、私はあくまでも編集者から逃げたかっただけだ。あそこまで催促に催促を重ねられては書ける物も書けない。逃げる必要があったから逃げたのだ。
 Colemanの折り畳み椅子に腰掛けて、膝に置いたノートパソコンの上で指を滑らせていく。プロットは元から出来ている。山場も書き終えてある。筆が止まっていたのは、野営描写が必要な前半部分だ。インドア派の私からするとこういった描写は想像で補わなければならない部分が多く、筆が止まって仕方なかったのだ。

「お姉さん、近くに設営していいですか?」
「お好きに」

 広々としたキャンプサイトなのに、何故わざわざ私の隣にと一瞬だけ思ったが、その違和感にヒントを感じて打鍵のギアが一段上がる。離れた場所で設営すればいいのに、わざわざ主人公の側に寝床を作るヒロイン。悪くない。こういう接近の仕方は今まで私の中には無かったものだ。

「おや先生、備長炭とは奮発しましたね。火を熾しておきます」

 代わりに火を焚いてくれるとは気が利く女性だ。打鍵の手が更に速まる。主人公と協力して火を熾したり料理をしたりして距離が縮まっていくヒロイン。聖女のたおやかな手が、炭を扱ったり煙で燻されたりして所帯じみていく。

「スキレット借りますよ。うっわ、牛肉にエクストラバージンのオリーブオイル……ステーキもいいけどアヒージョにしちゃいましょうか」

 もはや紫の首掛け紐ストラ──贖罪の祈りの象徴は煤け、聖女の胸に宿った恋心が使命と対立する。悪くない構造だ。使命と恋慕の対立。使い古されたクリシェなテーマではあるが、王道とはそういうものであるからして。

「よし、第一稿としてはまずまず」
「できましたか。後で見せてください」
「これは世に出るので、ちょっと他人には──」

 既に陽は落ちていて、焚火台の明かりに照らされながら牛ステーキのアヒージョを作っているのは編集者だった。

「うっ……追って来たんですか」
「先生の行動パターンは把握できてましたから。詰まっていた部分も承知していましたし、最寄りのキャンプ場はここです」

 ため息が出る。全てお見通しだったとは、編集者という生物は探偵の才能も必要なのだろうか。一旦メモ帳を保存して、ノートパソコンを畳んで電源に繋いだ。いつのまにか充電が怪しくなっていたのだ。

「作品さえ上がってくれば先生がどうなっても知ったこっちゃないんですが、女性のソロキャンプで危険な目に遭われても困りますからね。まだ完成していませんし」

 中々の言い草だが、心配をかけたのは事実だ。いくら毎日鍛えているからといって、素人がいきなりソロキャンプは無謀であろう。
 はい、と言ってアヒージョを乗せた取り皿を渡してきた編集者は、私の横に彼女用の折り畳み椅子を寄せてくる。邪魔だなと内心思いつつもアヒージョを口に含むと、ニンニクとオリーブオイルが効いた、濃厚な牛の旨味が舌を楽しませてくれる。
 彼女もまた取り皿にアヒージョを取り、口に含む。そこからは2人とも無言で肉の味を楽しみ続けた。食べ終えて、一つの感想が浮かんでくる。

「ご馳走様でした。……ビールが欲しくなりますね」
「同感です。ま、女性のデュオキャンプで飲酒は危険ですからやめておきましょう。代わりにほら」

 彼女が空を示す。そこには黒のインクを垂らしたような夜空と、割れたガラスのように煌めく星々があった。

「この景色、悪くないでしょう?」
「否定はしないです」

 決してこれを機にキャンパーになろうだとかインドア派を止めようだとかの気概は湧かなかったが、綺麗なものは綺麗だ。
 いつか、この景色を読者に伝えられれば良い。そう思った。

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