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『麦』『消える』『額』

麦わら帽子の彼女と出会ったのは真冬の麦畑。冬蒔き小麦の播種が終わってすぐ、芽も出ていない畑は土ばかりが広がる殺風景。そんなところで白いワンピースと麦わら帽子、長い黒髪 ── 夏と青春を煮詰めたイデアのような恰好をしているのが、いやに目を引いた。

タケノコ狩りもそこそこに、畑の際に立つ彼女の方へと近寄って行ってしまう。今思うと、吸い寄せられていたのだと思う。

「ぽ」

近寄る度に、彼女の身長が異様に高い事を知覚してしまう。190cmある俺からしても見上げるほどに大きい。八尺様というやつか、と他人事のように思った。奇妙な声で笑い、人間を襲う怪異であるとか、子供を特に狙うとか。インターネットのジャーゴンだろうと思っていたのだが、実在するとはちらとも思わなかった。

昼日中に出くわして吸い寄せられ、むざむざ死ぬとは運が悪い。だが、人生とはそういうものだと思った俺は、八尺様が手を下すに任せることにした。工場で働いていた時、職場結婚した相手がバランスを崩して転炉に落ちた時から人生は余禄だ。面白い死に方ができるなら、むしろ悪くないとも思った。

「さあ、やれ」

堂々と、両手を広げて心臓を見せつける。これなら過たず殺してくれるだろう。

だが、八尺様なる怪異は対面した今にもなって何もしてこない。よくよく見れば、その体は震えていた。

「なんだ、寒いのか?」

そりゃそうだろうと思った。真冬に夏の格好をしているのだ、人間なら風邪の一つも引くだろう。怪異が風邪を引くかどうかは知らないが、寒さを感じるのはいかにも哀れだ。ジャンパーを脱ぎ、八尺様に手渡してやった。ジャンパーを脱いだ時に奇妙な戸惑いを見せたが、一切構わず無理矢理押し付ける。

受け取る手が、酷く焼け爛れていることに気付く。爛れ。転炉に落ちていく婚約者の姿を思い出す。体内の水が急激に沸騰し、皮膚が爆ぜては解けて無惨に焼け爛れていくのを目の前で見た。その記憶は、助け出そうと差し伸べた手の火傷と共に覚えている。

八尺様の手は、彼女の手と同じ形で、同じ爛れ方をしている。

ハッとして、八尺様の顔を見上げる。見下ろす位置にあった彼女の顔が、今は見挙げる位置にあった。目も鼻も、頬も額も。焼け落ちていったあの時と同じ形をしていた。

ああ、と気付く。彼女はきっと、八尺様になって俺を迎えに来たのだ。だが、今もって彼女は俺に手を下そうとはしない。彼女を見つめていると、恥ずかしそうに身をよじってから手紙を差し出してきた。彼女の姿は爛れではなく炭化へと移行しつつある。同じ死に方が再現されようとしているのだと気付く。

「ぽ」

何かを言おうとした彼女は、やはりそれしか口にできない。だから手紙なのだと気付いた。彼女は俺に言葉を残すために来たのだ。震える手で手紙を受け取り、貪るように手紙を読んだ。書かれていたのは平凡な告白。彼女が俺をどう思っていたのか、どういう暮らしをしたかったか。それが二度と叶わないことを思うと、忘れていた涙が頬を伝う。

滲む視界で手紙の末尾を見る。彼女は、煤けて崩れつつある手で、ハンカチを使って俺の涙を拭ってくれる。だから、涙を流しながらも手紙の末尾まで目を通した。

── 私がいなくても、ちゃんと生きてください。

心配かけ過ぎた事を詫びながら、崩れていく彼女を見送った。彼女は夕日へと溶けるように消え、ワンピースも麦わら帽子も残さずに消えてしまった。一つだけ、手の中に残った手紙だけを握りしめる。

心配をかけないように、今度は笑顔で見送った。

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