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『麦』『髭』『かめ』

 男の前で波打つ黄金は血と汗でできていた。小麦畑である。畑を拓き、耕し、種を蒔き、地力を使い切っても実るか否かは五分と五分。加えて、実った小麦を奪いに来る卑しい不埒者モンスターの血も。味方敵方を問わず多くの血を受けた小麦畑は、豊潤に実ることで応えた。
 男は小作人を呼び止め、彼が担いでいるかめに満ちた麦汁を舐めた。大地を濃縮したような滋味としか言えない味わいを舌先で感じて、男は頷いた。麦汁には大麦を使っているが、ビールにするなら大麦の方が良いことを突き止めるまでにも長い探求が行われた。
 男は老いていた。冒険者稼業の果てに誰のものでもない土地を勝ち取り、農地を切り開いて村を起こした。彼は名も無き土地で最初の村長となったのだ。慣れていなければノウハウもない、農業というものは常に戦いの連続だった。気苦労が白髪を増やし、寄せ続けた眉間は皴になって固まってしまった。
 それでも彼は、力強く畑に立ち向かい続ける。彼の功績を受け継ぐ者が産まれたからだった。それは母屋の方から、元気な泣き声とともにやってきた。妻が抱く産着の中には、男に似た目元の子がいた。女の子だった。

「どうした、まだ農作業を覚えさせるには幼いだろう」
「それでも、いずれこの農園の主となる娘ですもの。収穫には立ち会うべきですわ」

 普段ならばたおやかな妻が、珍しくも強く抗弁してきた。男にとってそれは驚くべきことで、だから彼は丘の切り株へと妻を導いた。それは森の入り口で、やがて均して農地にすることを計画されている土地への入り口でもあった。

「乳離れは済んだと朝に聞いたが」
「ええ、ええ。時期が時期だからと産婆さんに言われて、今朝がた麦粥を食べさせたところです。あの美味しそうな食べっぷりと言ったら!」

 くすくす、と笑う妻に釣られて男も微笑む。長年土に向き合って硬直した頬が動き、黄金の髭が静かに揺れた。びゅう、と春の終わりを告げる風が吹いた。それは娘の産着をはためかせ、ようやく生え始めた産毛を撫ぜる。急な温度変化に驚いた娘はまたも泣き出す。それをなだめる妻と、財産としての農村。満たされた人生だと、男は満足を感じていた。

「ああーぁああ、あああ!」

 娘の泣き声がただならぬ様子を帯びたことに、真っ先に気付いたのは妻でなく男だった。妻から奪い取るように娘を奪い、切り株の上で産着を脱がせていく。脱がせる過程で気付く。下痢の便とはいえ殊更に臭い。まるで獣の脂ばかりを2パイント喰らった後に出るような、そういう限界状況で出る軟便の匂いであった。

「今日、この子に何を食わせた」
「小麦粥ですわ。他のものは何も食べさせておりません」

 娘のただならぬ病状に驚いた妻は、慌てながらも的確に返答を返す。男の動物的な勘働きに助けられ続けた経験がそれを選ばせた。だが、男の眉間に寄った皴はより深くなるばかりで、病状が好転するきっかけにはならないと悟って妻はため息を吐いた。

「どうなのでしょうか」
「この子は助からん」

 もはや唇を噛み千切らんばかりに力を込めた男は、口中に錆の味が広がるのも気にせず唸った。

「セリアック病だ」

 息を飲もうとしていた妻は、耳慣れない病名を受けて反応し損ねた。

「セリ……なんです?」
「麦を食うと腸が悪くなり、臭い糞を垂らしながら死ぬ病だ」
「あら、それなら小麦を与えなければよろしいのでは?」

 男が首を振る。その解法は何度も無駄だと確かめられてきたことを知っているからだ。一時的に麦を与えずに生かすことはできる。だが、そもそも麦以外に食える農作物はこの農園にはあまりない。娘は瘦せ細って飢え死ぬ他ないのだ。実った食料に囲まれて、それでも飢えて死ぬのだ。食える黄金である筈の小麦が、確かにこの子にとっては食えぬ金なのだった。

 男がすらりと短剣を抜いた。農園主になっても手離せなかった命綱。何度も命を救われた最後の武器。それを娘に向けることが男の心を蝕んだが、その合理的な思考は切っ先を振り抜かせる。技術も何もない、感情に身を任せた乱暴な一突き。
 不運なのは、妻がそれに反応できる程度に荒事慣れしていた事だった。重ねて不運なのは、体ごと庇える程度にしか荒事慣れしていないことだった。妻の肉を貫く短剣の感触で、もう助からないと知った。

「親が子を殺すなんて、そんな悲しいことをなさらないで」

 肺腑が傷ついたことがはっきり分かる、張りの無い声だった。それでも身に着けた合理性は男を突き動かした。それが最も傷の少ないやり方だと分かっているからこそそうせざるを得なかったから。

「ああ、あぁーあぁ!」

 喉が張り裂けるような喃語を上げる娘の心臓を狙って、男は短剣を振り下ろした。そのまま頭にも一刺しして、感じる苦痛が最小限になるよう取り計らう事も忘れない。徹底して合理的であるがゆえに、見た目には惨状でしかなかった。
 取り返しがつかない酸鼻極まる状況を見て、男は慟哭した。黄金と宝を与えるべき相手が誰もいなくなったことを悟って、由来の分からない笑いが我慢できなかった。
 春の終わり、初夏の始まり。波打つ黄金を見下ろしながら、全てを失った男は虚ろに笑い続けたのだった。

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