『昆虫』『女優』『手紙』
手紙を出す理由なんて、見惚れたから以外にない。元より住む世界が違う人間だ。気持ちを振り切るために、振られる前提で手紙を書いてみた。
書いていて恥ずかしくなるような言葉をいくつも便箋に書き留めて、恥ずかしくなっては書き直して。気付けば、通り一遍の「好きです」の一言だけが書かれた便箋があった。
手渡す度胸があったら便箋なんて書いていない。夕方まで図書館で勉強して、帰り際にコソコソと下駄箱に入れるプランで行くことにした。
なので、こうして図書館で当の本人が勉強をしている状況は非常に困る。勉強は学生の本分なのだから勉強するのはまことに結構だが、俺のはす向かいで勉強されるのは困るのだ。
可能な限り様子を伺わないよう、勉強に集中する。化学の授業が始まっているというのに未だにモルを理解しきれていないのはまずい。そんな現実から目を逸らすために彼女を使っているというのも二重に失礼で、だからこそ早いうちに一目惚れから卒業する必要がある。
あるのだが、夏の熱気が香わせるシャンプーの残り香が俺を狂わせる。今彼女の方を向けば、物憂げな目つきと整った目鼻立ちによって獣にさせられるのだろう。女優の卵相手に不埒な事を考えてはいけない。昆虫で例えるなら、彼女は蝶で俺は蟻だ。蟻が蝶と関わるタイミングなんてのは死体になった蝶を巣に運び込むときと相場が決まっていて、だからこそ彼女と関わりを持つのは正しい事ではないのだ。
「頼みたい事があるのだけれど」
だから、声を掛けられると更に困る。応じないのは失礼だし、応じると挙動不審が表に出る。
「なんでしょうか」
同級生相手に敬語はどうなんだと思えば絶対に間違っているのだが、答えてしまったからには話を続ける必要があった。何はともあれ、会話をするのにノートに視線を落としたままというのは良くない。
「恥ずかしながら、私はいまいちモルが分からなくてね。君もよく分かっていない様子だし、一緒に勉強しようじゃないか」
その瞳は潤んでいて、頬も上気していて、これではまるで意識している異性と共にいるかのようで。
「──といった口調で話せば男性はドキドキするみたいですね。良い勉強になりました」
なるほど、全て見透かされていて演技の勉強に使われていたということらしい。流石女優の卵、演技はお手の物だなあという気持ちが生まれると同時に、なめやがってという反骨心がむくむくと立ち上ってくる。
こうなったら自棄だ。鞄からラブレターを取り出して、彼女の前に叩きつける。よくよく考えれば下駄箱に手紙を忍ばせるなど全く男らしくない。向こうから来ているのだし、告白する良い機会だ。
「好きです」
彼女の瞳をまっすぐ見て、視線で射殺すつもりで言葉を放る。その顔色の変化がどうであろうが、真っ向から受け止める覚悟を決めた。
だが、覚悟していた毛虫を見るような視線は来ず、かといって頬を染めたり瞳が潤んだりするようなラブコメめいた変化も無い。あったのは、ひたすら興味深そうに観察する視線だった。
「興味深い。友達からでどうかな」
俺の何が彼女の琴線に触れたのかが全く分からないので恐怖さえあったが、お近づきになれるとあれば断る理由は一つもなかった。
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