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グラスリップとでびる様

でびでび・でびる様を見ていると、思わず1ヶ月と半分くらいが過ぎていた。文章を書いていると、あれもこれも話したいことが出てくるが、次回に取っておこう。そうこうしているうちに書きたい旬は過ぎていってしまうが、それは別にたいした問題でもないだろう。

4日もあった休みが、もう最終日に差し掛かっている。
見逃すことのできない「にじさんじ甲子園2021」の決勝戦の日でもある。
昨年の甲子園では、でびでび・でびる様は聖シャープネス学園にて足の速さを発揮していた。
今年のでびる様は、バーチャル関西圏立高校にてエースとして活躍している。しかし惜しくもにじさんじ高校に届かず、決勝進出はかなわなかった。

もともと、甲子園というものはこういうものなのだ。
高校球児の夢を的に、炎天下の中で争っているひと夏のドラマを、涼しいクーラーの中で味わう。地獄のようなエンタメだと思いながらも、物語が好きな我らは消費せずにはいられない。
銀河鉄道999の停車駅「ライフルグレネード」のような残酷さをいささか感じるがやめることができない。

こうした終わりゆく休日に焦燥を覚えながらも、新しくも消費しやすい快楽を求め続けてしまう気分をそらすための考えを巡らすと、だいたい同じ結論にたどり着く。

あの夏を取り戻したい。

あの夏というのは、学生時代に過ごしたずっと終わらないかのような夏休みのこと。
午前中に、家にだれもいない中、BSアニメ劇場に浸りきる。
これが僕の夏休みの原風景だ。
何を言いたいかというと、子供のころのように、休みにグラスリップを見たいのだ。

2020年のでびでび・でびる様の七夕企画に、いくつか送っていた短冊がある。

その中でもひとつ採用されてよかったものがある。
31:16「なにかいろいろうまいこといけ」
これは、グラスリップの主人公、深水透子の言葉を真似たものだ。
正しくは「何があっても未来の私が全部解決してくれますように」だけど、そのまま使うのもなんなので雑にぼかしたものを送った。

グラスリップは一般的には悪評高い作品である。
人物の話した言葉の意味はまるで当たり前のように誤認されるし、描かれるシーンは人物自身の主観が大いに混じっている。
これほどまでにすれ違う物語はないだろうが、しかし物語の根底をなす価値観には、あらゆる包容力と大いなる楽観が含まれている。
グラスリップの物語は、人と人とのあらゆるすれ違いを乗り越えて、落ち着くところにたどり着く。それは物語だからだろうか?
いや、「人は問題を乗り越える力を持っている」という、とても力強く支えてくれるメッセージであり、真実だからだ。

そして、それはでびる様も同じだ。
この短冊が読まれたあと、でびる様は「うまくいかない」と返答されるが、同時に「でも、僕が見ている」とも言ってくれる。
やさしい視点だ。この視点があることにどれだけ救われるか。

「ラ・ラ・ランド」がハッピーエンドでないことに怒りを抱く知人がいるが、僕はラ・ラ・ランドこそ現実の幸せの形を最大限に肯定していると思っているため、そうした声には抗わなければならない。
彼あるいは彼女が言うには「セブとミアは恋を諦めなくていい。関係を続けながら、仕事も成功するように描けるはずだ」とのこと。
それはそれでいいと思うが、この作品がカバーしているのは、幸せの形はたくさんあるという視点だと思う。
たしかに、あのときのセブとミアの恋は上手くいかなかった。でも、それでもセブとミアは幸せを手に入れている。
現実を生きる僕らは全てを成功しているわけじゃないし、なんならミアよりもセブよりももっとずっと失敗していることのほうが多い。
でも、それでもつかめる幸せはあるはずだ。それらを比べて、一方的にどっちのほうが幸せだとはいえない。
物語の最後、セブはミアに笑いかける。それで、幸せの表現は充分なはずだ。
そうした視座を持つこの物語は、確実に見る人を救っていると思う。

にじさんじ甲子園2021においてはどうあっても、でろーんの涙をぬぐえない。
だれも悲しみを消し去ってしまえないし、そうしてはいけない。
喜びがでろーんのものならば、悲しみもまたでろーんだけのものだからだ。
でも、このにじさんじ甲子園、つらいことばかりではなかったはずだ。
「パワプロはいいゲーム」この一言には感謝しかない。

これまでがんばってやってきた。そしてこれからもできるはずだ。
自分を信じる力をくれるのが、僕にとってはグラスリップだし、でびでび・でびる様だ。
たとえ何も生むことがなくても、でびる様は見てくれているはずだ。
何があっても最終的には死に、でびる様に魂が回収されるはずなのだから。

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