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ほんとうに ろくでもないのが このせかい

⚫︎ お断りしておくが、いまからぼくが書くことは小説の創作のための方法論でもなければ(そんなものは生憎開業していないので、他をあたってくれたまえ)、小説の創作に対する情熱の告白でもない(ぼくはそんな高尚な意志を持っていない)。これは単なる愚痴である。愚痴というのは構築ではなくて無駄である。それでもお付き合いいただける読者様、本当にありがとうございます。無駄の中にこそ構築があると思うのです。真剣な顔をして真剣なことを喋るやつを信用してはいけない(例外多数あり)。
⚫︎ 小説を書いているわけですが、それは要するに程度の差こそあれ自分のいま書いているフィクションを信用するということであるわけです。もちろんフィクションの強度はじめ「程度問題」ではあるわけですが、少なくとも書き終えるまで書くということは、「書く」ということです。ですがぼくはだいたい途中で嫌になってしまうので、「そんなわけないだろアホ!」とか思ってしまうし、思ってしまうならまだしも、割と高頻度で登場人物にそういう類の台詞を吐かせてしまうから困る。こんな感じ。
Aくん「なあ、ふと気になったんだが、俺たちは生きてるんだろうか。」
Bくん「分からないなあ。まあ『生きている』と言うのが嫌なら、『俺たちは生きているかも知れないし、生きていないかも知れないし、まあ生きているんだろうなあ』とでも言えばいいんじゃないか。」
Aくん「へえ。」
Bくん「まあ、要するに『ジミー・ペイジ』なんだよ、きっと。」
Aくん「なあ、さっきから思ってたんだが、おまえ何を言ってるんだ?」
Bくん「正直なところ、私にもさっぱり分からない。
⚫︎ なんというか、「現実」を真似て「現実らしいこと」を書ければいいのだろうけど、そもそも「世界」=「現実」という考えは馬鹿げている(と、思う)。テレビの仕組みなんぞさっぱり知らないが、テレビを見ている。なんで「ピッ」でエアコンが動くのか、仕組みはさっぱり知らないが、「ピッ」する。人工物に限らなくとも、古代人にはあらゆる自然現象が「ピッ」だったわけだ。なんでか知らんが雷は落ちる火は燃える。そこで「ピッ」と「エアコンがウイーン…」の連動、もう少し美しい言葉で言えば非現実的な感覚と現実的な感覚の調和。それが達成されれば、馬鹿馬鹿しいフィクションは、違った現実味をもって立ち上がるのではないかと思われる。そういうわけでぼくはとりあえずのところ、文章を書いては「正直なところ、さっぱり分からん」と愚痴を吐く。実際、ぼくが世界について知っていることはあまりに少ないのだ。だが多くの人間はそれでも物語るのである。ぼくもその例に漏れず。カリカリ。ピッ。カリカリ。ピッ。