怒ることを許す

前回の記事を投稿してから、文章を書きたい欲求がいい具合に循環したようで、仕事のブログの他にも新聞のコラムを書くことが決まりそこに熱中していた。コラムの原稿を書くのはそれはもう楽しかった。書く媒体が違うとこんなにも感触が違うものかと思うほど面白かった。書きたい内容について資料を用意し調べ、言葉を練りながら文字数などのある程度の縛りの中で書く文章は今読み返しても満足感があり自画自賛している。

今月に入り、楽しいことも忙しいことも辛いことも色々あった。人から見れば些細と思われることでも私には大概大きく感じられるものらしい。人はこれ以上の戦いの世界で生きているのかと慄く。

「怒り」という感情が苦手だ。他者が怒っていることにこの身が晒されることも勿論、自分自身が怒りという感情を抱くことが苦手だ。それについて考えさせられることが度々ある。私は怒らないので舐められやすく依存されやすい。依存された、と感じると距離を置くのだがそれでは効果が薄いらしくまた距離が近くなると繰り返す。依存する相手の問題と自分との問題がそれぞれにある。

自分の問題は何なのか、と考えた。私は失礼な態度を取られた時に怒って相手に感情を露わにしたり話し合おうとしたりはせず、距離を取ることをひたすらしているような気がする。

この理由の一つとして相手が失礼な態度を取る裏に「理解してほしい」という無言の訴えが聞こえるからだ。失礼な態度は無言の訴えを丸ごとラッピングしたものなのだと思う。態度と訴えは相反するメッセージを含んでいて、一瞬どちらに対応していいのか分からなくなる。そこで反応が遅れる、というか人から見たらスルーしているように見えるのかもしれない。きっとそこで「舐めていい人」認定をされているのだろう。

「怒った方がいい」と言われるが態度に対して怒ると無言の訴えの方を無視する形になり後になって罪悪感が出てくる。私は比重としてその訴えの方が重要なキーワードに感じるのだ。しかし無言の訴えである以上、そこを汲み取ることは相手の境界線を侵すことになり結局はうまくいかない。そこでNVC(非暴力コミュニケーション)やアサーションの出番だろうと思う。NVCは今勉強中なのでここに活躍の場が期待される。活用できた暁には今よりぐっと人間関係が円滑になることが見込まれる。楽しみだ。未だこれらのコミュニケーションスキルが未熟な私は結局のところ「あなたの問題はあなたでどうにかしてください」という祈りの気持ちを込めた「放置」という表現になっているのが現状だ。

そして怒ることが苦手な理由のもう一つ。私自身が自身の怒りという強いエネルギーをうまく扱うことができないまま今まで生きてきたことにある。どうにもここにブロックがあるようで、ブロックがあるとまるで自分の身体を内側から縛りつけているようなエネルギーの巡りが滞る感覚があるのだが、そのブロックについて今日の昼間、神社や食事に行く散歩がてら考えてみた。子供の頃から怒ってもそれがいい結果を結ばないことが多かったように思う。相手がそれ以上に怒って仕打ちを受けたり場の空気が悪くなって結局自分が悪いと諦めることがあったようななかったような。思春期に入り、すっかり怒りを表現することが苦手になった私は怒りのエネルギーの向く方向を自分に向けることで対処しようとした。しかし結局のところその対処方は、破壊行動や問題行動となり私は無言の訴えを活用し怒りを周囲に撒き散らすことで自分も周囲も戸惑わせ傷つけた。それから大人になるにつれ怒りを合理的に解釈してエネルギーにしたり抑圧するようになったと考えられる。エネルギーに昇華するのは円滑にことを運ぶには少々難があるが大きなエネルギーを生むことができる点は評価したい。しかし、私が本当にその時にすべきことは「怒りの感情に隠された自分の本当の感情」に目を向けることだった。そしてそれが難しい状況だったことも今ならわかる。その時の自分の置かれた状況での有効な生存戦略をとってきたにすぎないのだ。よく生き残った私。

怒りに対する身体に記されたブロックはなんなのか。それは「過去に怒ることで自分を傷つけようとした自分への恐れ」というもののようだ。そこに気づいた私は散歩の途中、トイレの個室でひとしきり泣いてスマホにその気づきをメモした後、自分に対し今後自分で自分を傷つけることはしない、と誓い謝罪しそして感謝した。このブロックのおかげで私は今まで自分や他者を怒りをぶつける攻撃の的とせずにいられたのだ。そこに気づいてから身体を包む自縄自縛の重苦しさと息苦しさは消え、代わりに怒りのエネルギーが身体の中を巡りそして身体の外へと溢れるような感覚があった。その感覚を抑えずただ感じ、出し切るまで時間が経つのを待った。その間、食事をし仕事場へ戻りサプリを飲んで昼寝をした。目が覚めたらスッキリしていたので出し切ったのだろう。また湧いてきたらまた出し切ろう。

この怒りについて気づいてから解放の動きが終わるまで、私は自分や他者へ攻撃する行動をせずに済み、「怒りを表現できない自分が間違っていたのか」という疑いを一蹴し「私の対応は間違っていなかった」というところへ落ち着いた。外から見れば何もせず1日が終わったかのように感じるだろうが、ブロックが外れたことにより何かしらこれから起こす行動が変わってくるだろうし、怒りという二次感情の奥にある自分の本当の感情へのアクセスもしやすくなるだろう。そこから出てくる表現が周囲にとっても自分にとっても豊かなものへと導くものであればと願う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?