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シャニアニ劇場先行上映備忘録─とても写真的な、/これから見たいもの


 シャニアニ1期が描こうとしたものは、"暗い部屋"だったのかもしれない。

 第3章まで終わって感じたのは、アニメらしいアニメというより、脚本化されていない日常とライブ(非日常)の接続を図った作品だったのかなというところ。それは、1stライブを描くためにある構成だったというところもあるが、というより、ここで言いたいのは、文脈とメタファーがあまりにも少ないというところだ。いや、少ないというよりも。アンティーカファン感謝祭を想起させたり、それこそ空だったり、とにかく、あっても「説明がなされない」のである。メタファーに限らず、大筋のシナリオですら、こちらが読み取ろうとするまで、浮遊している。それでいて、諸描写があたかも物語で重要なものかのように振る舞っている。振る舞っているけれども、思いを巡らせようとしなければ、温かい空気の中、淡々とぷかぷかしたままである。
 つまり、シナリオらしいシナリオは(明示的で)なく、大筋とコンセプトがあるのみで、「ただあるもの」を意図的に写しだし、心理にも迫らない。意味を絶対化することなく、見るまなざし(我々)にすべてを委ねている。いや、委ねてすらいない。シャニマス初期(ストレイライト加入前)を参照とする「ただあるもの」なのだ。
 急造感やまだ作りこみが固まってなさそうなところは結構あるため、どこからが意図的な演出なのかが難しいが、アルバムだとかクロニクルだとかそういうものが、シャニアニ1期のコンセプトだったのかもしれない。なんというか、写真的なアプローチなのだ。アイドル達のカメラ、ドキュメンタリーのカメラ、MV撮影のカメラ、固定カメラ、ライブのカメラ、というように映し出し方の違うカメラ越しのアイドルが描かれる機会が多い。しかし、我々視聴者では捉えきれないほどに、キャプションのない他人としての写真の様なのだ。その点でやはり、脚本化されていない日常+非日常ライブパートで構成されているともいえる。
 まず、それをやり切ってしまった作品である、というところが特異だ。日常の写真的な美しさとそれを他者から見たまどろみ、ライブのカタルシスに終始してしまっている。語弊があるかもしれないが、ウケようとすらしていないように思える。
 世に向けて、というよりは、世にあるための作品というか────

 同時に、新規に見る視聴者のことを第一に考えた作りかというと(人によるだろうけども)かなり怪しい。それから、万人受けするタイプの作品かと言われるとそれもどうだろう。要するに、「評価」と相性が悪いのではないかと思う。この作品は、集団として持つ既成の価値には合致しない。彼らは「テンポの良い展開や話の起伏による面白さ」も「メタファーを生かしきった文脈をありありと伝えてくる面白さ」も削ぎ落とされた作品を見ることになる。空っぽに見えるかもしれない。それはある意味でそうなのだ。その空は、彼女たちが見るから美しいのである。
 既成の価値から離れて、ようやく「彼女たちの日常は決して二世界的に特別なものではない、それでも彼女たちが見る世界は美しいのだ」と思える。まだ展延を知らない"暗い部屋"────。

 あとは、様々な面で劇場だからこそという良さはあったかもしれない。
 とはいえ、新規で見る方にもこの空気感とまどろみからのライブシーンによるカタルシスが刺さる人はいると思う。
 美術、音響、モーション、アイドルの声(演技)は、先述の特異性を際立たせている。
 今だから言えることだが、5thライブ会場で3Dアニメ化発表を見て、歓喜するとともに「あ、3Dなんだ」と一抹の不安を感じた。あの時点では映像美術も完成されてないものだったから、というのもある。しかし、実際に見ると、手書きじゃ生まれなかっただろうなという質感もある。特にシームレスに「ここもうイラストじゃん…」みたいなカットがあるのが魅力だと感じた。なにより生き生きしている。果穂が最強だったし、こんなにも一人一人の「らしさ」がここまで強く出るものなのかと驚愕した。そういうのは置いといても、(気になるところは多少あれど)個人的に好みの映像だった。常にくっきりとした且つ空気感としての温かみがある。






 続編の可能性が作中で示唆されている今、「こういうのが今後見てみたい」というなんでもない願いをここには書き留めてみたい。予告で流れた新曲である真乃の『想像のつばさ』は作中で(ハミング以外)流れていないし、TV放送版はもしかして劇場先行上映版からはEDとかは少しだけ変えてくるのかも?と思ってはいるが、そこら辺は考えないものとする。

 自分が今後シャニアニで見たいものの一つは、やっぱり、コミュニケーションに注視したアプローチだ。
 今回のアプローチも、ストレイライトやノクチルと相性はいいと思う。むしろ、ストレイライトやノクチルの方がめちゃくちゃ相性がいいのかもとも思う。
 ただ、やっぱりストレイライト加入(=2年目)以降のコミュにおいて怒涛の「関係、メタファー(モチーフ)、テーマへの追求に殴られる」体験をアニメで味わいたいという気持ちもある。なんだかんだ言っても、わかりやすく刺されて喰らいたい自分もいる。アニメでしか味わえない表現を、そういったアプローチでも可能だと思っている。それはわかりやすい出来過ぎたアクシデントみたいな展開重視なイベントが欲しいわけでは必ずしもなくって、写真の意味が広がっていく"明るい部屋"を脚本家されたコミュの形で見てみたい。1期をこう描いたからこそ、繋げ重ね、展延していく意味でも。というか、それを意識してのこの1期の描き方だったと勝手に思っている。
 そうすると、振り返れば1期の始まりでも終わりでもある「私たちは知らなかった──」が生き生きとする構図となるし、加入に合わせたそこからの広がりと激動とも重なる。
 ところで、ツバサグラビティって、OP尺だとオープニングらしい印象で完結してるのにフルになるとSpread the Wings!!の顔になるの伏線回収みたいで。それが自分の中でじわじわと愛しくなってきている。それも含めてああいった形で1stライブに焦点を当てたのは「これから」を思わずにはいられないし、だからこそ、あるなら文脈的にも、よりひらけた続きを見たい。……いやまぁ、なんでもいいから続き見たい、というだけなんですけど。
 ともかく、どちらにせよ、あの演出なら2期はもう決まってるものと思いたいし、楽しみ!

 ともかく『Straylight.run()』とか『天塵』とかもやって欲しすぎるな〜…… でも、やんない感じもするな? 2期やらなかったら亡霊になります。




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