喧嘩をすること、悲しい気持ち


けんかってどうやってするんだっけか。なんか、よく考えたら、家族以外とけんかしたことってほとんどないかもしれないな。小さい頃は兄弟喧嘩していたし、親に文句も言える健全な家庭で育って、なんか多分叱られとかじゃなくてけんかも一応したことあると思う。けど、少なくとも高校生のときには「喧嘩ってどうやってするんだ?」と自覚的に思っていて、友だちに気持ちをぶつけてやり合うみたいなことをしなくはなっていた。優しい人間でありたいとは思っているけれど、それでもいろんな気持ちには一応なってはいて、でも自制の心も自省の心も手に入れたので、簡単に人に気持ちをぶつけたりはしなくなった。そうするとけんかとかにはならない。

けんかしたいんだよなと思う。けんかするとか、実際に言い合ったりしなくてもけんかをするような気持ちになれるというのは尊い。そうじゃない人が多すぎる。わたしは怒りより先に悲しみに飛んでしまうタイプで、勝手にへなへなになっていることの方が多い。愛が不足していると感じる。見切っているのだと思う。そんなつもりはないけれど、結果的にそうだと思う。喧嘩しようなんていうつもりがない。喧嘩したくないし。めんどうだし。お前にそんな心割いてらんないし。みたいな気持ちが絶対にある。わたしが怒っている人たちは、きっとわたしに愛されている。感情をぶつける価値を感じている。そうじゃないものに対しては、そんなのは通り越して悲しんでいる。そして、悲しむというのと笑うというのは近くにあるので、そういう場合わたしは笑っている。「あなたってどうしてそうなの?」とくすくす笑う。これは、愛を経由してもたどり着ける行為だけれど、正反対の方向からも辿り着いてしまう行為で、ここに愛があるかどうかを見極めるのはとても難しいなと感じる。

ちゃんと喧嘩をして、言い合って、同じ空間で気まずくなって、そういうのは、もう恋人とかとしかしないと思う。友だちともここまで健全にやり合ったりはすでにできていない。なにかを言う前から、うまくいかない現実を前に途方に暮れてしょんぼりとしている。そして家に帰る。きちんと言い合ったあとのため息と、何も言わずにつくため息は全く異なるもので、わたしは後者が好きではないのでかわりに眉を下げてしょんぼりとする。でもそうならば、ため息としょんぼりは同値で、わたしもそうやって人を傷つけている。嫌な時間。意味のない時間。そんなことをするくらいなら帰って寝た方がいい。

それはさておき、とにかく、喧嘩をするというのは愛の証になってしまったのだ。いつからか。
愛を感じたいので喧嘩をしたい。愛されているというのではなく愛しているという実感がほしい。

喧嘩をしない選択をして、わたしがその人を愛していないこと、愛する気がないことを実感してしまった。わたしはこれからその人に、心の底から優しくだけする決意をした。もう絶対に、心をゆるしたりしないと決めたということだなと思った。

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