見出し画像

これはあのバックハグの写真を見て考えたことです

愛し愛されているだとかちゃんとそばにいるのだというようなところを見てしまうと心が弱ってしまう、というのは別に人間と人間のことではなくなにかもっと親密な自分自身の身体やなんかのことです。わたしは愛について語ることが多いのだと少し前に他人に指摘されるまで全く気が付かなかったのだけれどわたしは確かに多くのことを愛をベースに考えている。最近も、久しぶりにちゃんと向き合って勉強をしたら楽しくて、ずっとそこにいてくれたのだねと思った。学問や理解というようなもの、それらはどこかへ行ってしまうことはないね。わたしがどんなにそれらから心を逸らしてしまっても、遠くへいってしまうことはなくて、それは本当に優しいことだと思った。だから適切に愛したい。努力し続けたら実力がついていく、みたいなことはあるんだけどそれも本当に純然たる愛の前に勝ち目はないとわたしは思っていて、つまり能力が抜きん出て見える人というのは結局のところ対象についてとめどない愛があり、だからこそ対象に愛されているということなのだと思っている。その限りではない、つまりただの努力と結果である人ももちろんいるけどさ。でも最近、この人はこれを愛しこれに愛されていて、だからこそ己の身体やなんかがすごくそばにあるのだろうなと感じられる人を見てしまって、本当に悲しくて、つまり自分がそういう関係にあると思えるものがないことについて、本当に悲しくて、わたしはなにを心から愛して、何と生きていくのだろうと思う。あるいはそんなものないのだろうなとも思う。誰にでもそれがあるわけじゃないということもわかっていることのような気がする。悲しくて辛くてやりきれなかった。その穴を埋めるために人は人を愛するのかもしれないと本気で思ったりもした。だから人が人に抱きしめられて幸福そうな顔をしているのを見て安心したりもした。でも自分はそうはなりたくないとかも思った。というより、人間と人間が愛し愛されることよりも、前者の関係の方がより幸福なのではないかと思ったということです。わたしはなにかを愛してそのなにかに愛されて、ちゃんときみがそばにいることに安心したい。そばにいるねと思いたい。青山テルマです。青山テルマってめちゃくちゃいいよ、優しくて。それで、まぁそのうえで人間同士でも愛し愛されるみたいな関係も築きたいです。体裁や計画ではなくて、ちゃんと幸福になることをちゃんとやりたいです。何事に対しても誠実にありたいです。愛を持って接するということです。それはもちろん、自分自身に対してもそうです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?