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君が思い出になる前に


今の推し(自担)について書く前に、前の自担についてきちんと担降りをしておこうと思う。

私は小学5年生からいわゆるジャニヲタを始め、かれこれ10年になる。
今の自担が初めてのジャニーズ以外の自担だ。
SEVENTEENのバーノン。
でもまあSEVENTEENは実質ジャニーズみたいなものだろう。


小学生の頃初めて好きになったのは、嵐の櫻井翔。
クラスで嵐が流行っていて、5人の中だったら、という感じで見始めて、まんまとハマった。もともとオタク気質を持っていたせいだろう。
当時私を嵐に巻き込んだ友達は、中学にはとっくにオタクを卒業していた。
ただ、私も「櫻井担」と言えるほどハマったかと言われれば、そうではない。
とにかく、いわゆる「アラシック」ではなかった。

中学3年間は関ジャニ∞の安田章大が自担だった。
嵐の番組にゲストで来たとき、「かわいい!」と思ったから。ただそれだけで見始めた。
ひよこが初めて見たものを親と思うように、ヤスの好きな海、好きなファッション、好きなギター、話し方や笑い方、全部を後付けで好きになった。
本当に偶然の自担だったけれど、結果的に安田章大は私の人生の基礎になった。
また、思春期という暗黒時代に、心から笑える時間があったのも関ジャニ∞のおかげだ。
私のアイデンティティの基礎は「eighter」にある。

高校3年間は、Hey!Say!JUMPの山田涼介が自担だった。
これも伊野尾慧にハマった友達の影響だった。
最初は髙木雄也の顔が好きで、髙木担になりたかったのだけれど、そうはいかなかった。
これは担降りしてから知ったことだけれど、山田涼介の生年月日と私の生年月日は占いに使われる運命数みたいなものが同じで、だいたいどんな占いを試しても同じ結果か同じ属性の裏表の結果になる。
高校生の私には山田涼介の心のありようが痛いほどよく見えた。

山田涼介の傲慢さについて、降りてからもJUMP担の子やゲーム配信界隈の人を推している友人から聞くことがある。
それから、降りてから読んだ雑誌で山田涼介自身が、私が彼を見ていた頃の自分の不安定さについて回顧していた。
あれは私の思い込みではなくて、本当に山田涼介そのものだったのだなと思う。

信者のようなファンたちを見ながら、ああこの人を盲目的に信じる人や、何も知らずに美しくてしっかりした青年だと思う人、あるいは彼の歪みを見抜いて疎ましく思う人はいても、彼の本当の孤独を理解する人は私以外にいないだろう、そう思っていた。
つまり、とても不健康な感情を抱いていた。

私は大学に上がり、少し大人になって、山田涼介とHey!Say!JUMPに飽き、一時期関ジャニ∞に出戻った。
かと思ったら渋谷すばるが脱退を発表した。
学業が忙しかったこともあり、あまりオタクらしいオタクはしなかった。
ただ、脳腫瘍の手術を経て価値観が大きく変わった安田さんの言葉を摂取し、解釈し、人生の指針を得た。
それは「かわいい」だけで推していた頃とは違う体験で、この時期も必要なものだったなと思う。
解釈を経て一つの思想体系となった安田さんは、実体ある「自担」としては必要なくなった。
文字通り私の一部になった。

翌年錦戸亮が関ジャニ∞を脱退した。
6人最後のコンサートで圧倒的オーラを放つ安田さんを見て、「ここが最高だ」と思い、私は完全に関ジャニ∞を降りた。


大学1年生の冬に出会ったのがSixTONES(ストーンズ)だ。
インフルエンザに罹ってすることがなく、話題になっていたYouTubeの「ジャニーズJr.チャンネル」を見て出会った。
他のJr.のグループと違い、もともと存在は知っていたので「どうせ人気グループ」と斜に構えていたが、人気グループは人気グループたる所以があった。
動画が爆発的に面白かった。
「SixTONESになりたい」と思った。楽しそうすぎて、だ。
3月、初めてライブに入って、圧倒的熱量と演出のセンス、楽しさに衝撃を受け、「一生この人たちについていく」と思った。

自担は松村北斗だった。最初は消去法だった。
いや、その後のことを考えると、本当は消去法なんかではなかったのかもしれない。
松村北斗のインタビュー記事を追うと、どれもこれも言っていることが「わかる、わかる、わかる」だった。
好き、じゃない。「わかる」だった。
山田涼介も「わかる」だった。決して「好き」ではなかった。
けれど「わかる」は「好き」より強い。
強すぎる執着を生む。

松村北斗の好きな映画を片っ端から観た。
その多くが恋愛を描いていて、「自分に自信のない男性が、運命の女性に出会って徐々に唯一無二の関係となり、二人の世界で傷を癒し合い、救われていく」という筋書きだった。
私はその映画一本一本に号泣し、いつしかそのラブストーリーを北斗と自分に読み替えた。

私は男になりたいと思い、北斗は女になりたがっていた。
だから私たちは男女でありながら異性愛のイデオロギーの外側にいた。
互いだけが救いであり、答えだと思っていた。
北斗は私に「恋」の定義を与えた。
とてもまずい定義だった。

今振り返って、私は「スト担」であり「北斗担」でありながら、「スト担で北斗担」ではなかったのだと思う。
北斗は人間関係に臆病なところがあり、かつてはSixTONESのメンバーさえ嫌っていた。
私は彼のそういうところが好きだった。
だからSixTONESに一生を捧げてほしくはなかった。

北斗はときどき私の考えに反した言動をした。
そのたびに私は激しく怒り、その分執着の度合いを深めた。
好きなところも嫌いなところも、貶しながら北斗を語る私を、周りのスト担の友人たちは心配の目で見ていたことと思う。
それでもそんな私と縁を結び、今まで(そしてこれからも)友達でいてくれる人たちには感謝しかない。一生大事にしたいと思う。

SixTONESは少し先輩に当たるSnow Manというグループと同日デビューすることになった。
デビューは悲願だったが、まさかこんな形になるとは思わなかった。
このことは他に大量に文献があるはずなので、気になる方は検索していただきたい。この記事では本筋から外れるので割愛する。
とにかくあれは現代の戦争だった。
北斗ではなく、私はSixTONESのスポークスマンである田中樹のために戦った。
そして燃え尽きた。

その頃私は1000人以上のフォロワーを抱えていた。
中には1万人規模のアカウントもあったので私程度で大手とは言えないが、積極的にCD購買の啓蒙活動をし、お題箱にてあらゆる意見を持ったスト担の方たちのすり合わせ対応をしていた。
見る人が多くなると、正しいことしか言えなくなるし、できなくなる。
そもそも正しくない感情で自担に執着している私にとって、それはもう、地獄だった。

その頃ジャニーズJr.で「わかる」ではなく「好き!かっこいい!」の感情で推せる推しに出会い、一時そちらに軸足を置いていた。
これが本当のオタク感情なのだと思い、できればこっちを本拠地にしたいと考えていた。
そしてその推し用のアカウントでうっかりスト担を悪く言ってしまい、そこからは急転直下、私はSixTONESコミュニティにいられなくなった。

勘違いしないでほしいが、これは私が100悪い。
決してスト担が怖いとかそういうことではない。
どう考えても私が100悪い。
ただ、いずれ私に合わなくなるコミュニティだったというのも、また事実だ。

それからは約1年半、信頼できる友人たちだけを連れ、鍵垢だけで暮らしていた。
もう二度と表には出ないと決めていた。
快適で、ぬるま湯で、ギラギラしていたSixTONESはデビュー後どんどんスタイリッシュになっていくし、松村北斗はどんどんメンバーに懐いていった。
私が推していたJr.に対しては、北斗への感情を超えることはなかった。


SEVENTEENに出会ったのは大学4年の夏だ。
ジャニーズJr.のライブ配信の後、ARMYの友人宅でなぜかセブチのライブを見た。
その日配信をしていたグループの系統がセブチに近かったからだ。
スト担だった私は、ハマるならセブチよりBTSだろうと思っていた。
しかしそれから1週間後、私は1日4時間ぶっ続けでYouTubeのバラエティコンテンツ「GOING SEVENTEEN」を見る生活をしていた。
SEVENTEENは、爆発的に面白かった。

SixTONESはだいぶ前から単独チャンネルになっていた。
Jr.時代のような自由奔放さは減っていたし、忙しさからあまり力を入れられないこともあって、爆発的に面白いとは言い難かった。
ただSixTONESのライブは大好きだった。
他では得られない興奮や感動がある。
私はスト担としての目的を「ライブ」に絞った。
以前は心酔していたはずのSixTONESの思想は、デビュー戦争の熱狂が止んでから、よく理解できなくなっていた。

思えば、常に未来を先回りして「こう動けば間違いない」と石を置いていくSixTONESのやり方に、かっこいいと思いながらも疲れていたのだと思う。
同時に、松村北斗はもはや私の好きだった松村北斗ではなくなっていた。
松村北斗は成長し、私も別の成長を遂げていた。
スト担コミュニティを追われたあのときはまだ、発言が炎上しやすい北斗と仲間意識を感じていたはずだった。
そんなものはもうどこにもなかった。
北斗はいまや全くの他人だった。

自分とアイドルを過度に同一化し、理想像を求めるという暴力。
それを自覚して、あえて松村北斗の解釈違いな部分を見るようになっていた。
「嫌い」ではなく、「興味がない」状態になっていった。
唯一無二の理想の人でないのなら、べつに北斗に執着する理由もない。
北斗を全肯定し、真っ当に「推す」北斗担の友人たちが、遥か遠くに見えた。


大学を卒業すると同時に、私は北斗担を降りた。
きっかり約3年だった。
私の自担は3年周期で変わる。
3年間で私は自担から膨大なものを吸収し、変化し、学業や人間関係からもさまざまに学び、成長し、自担が必要なくなる。
いくつもの濃密な3年間は、どれも私の人生の重大な思い出だ。
3年という時間は、私にとっては、十分に長い。
3年をともにした北斗は、私の中で息づいている。

私は安田担っぽくも山田担っぽくもなかったけれど、北斗担っぽさは十分にあった。
北斗は私の大学の学部にいそうなタイプの人間だ。
その雰囲気で自担として選んだこともあり、私はいかにも「松村北斗を好きそう」な人間だった。今はどうかわからない。
初めて「らしい」自担だったので、安田さんや山田涼介を降りたときよりもずっと、「北斗担」というアイデンティティがなくなるのが怖い。
まだ「バーノンペン」としての私が確立されていないから、「北斗担」にすがりたくなる。

しかし、仮にすがったとしてその北斗は過去の北斗であって、今の北斗ではない。
幻想の北斗であって、画面の中の北斗ではない。
痛いけれど、不安だけれど、私は北斗から卒業するべきだと思うし、卒業したい。
卒業したいしたいと思って担降り感情に酔いしれるアホな私もいる。
しばらくは許してほしい。
それに、今でも仕草を目にしたり発言を聞いたりして、あ、好きだ、と思ってしまうことがある。
きっと嫌いになんかならないんだろう。
3年間見つめ続けて、散々振り回された相手なのだから。


今でも山田涼介の雑誌を立ち読みしてしまう。
松村北斗もきっとそうなる。
私と北斗の問題は、一生消えはしない。
でも、北斗と私には未来がない。
私の未来に北斗はいない。
私は前へ進まなくてはいけない。

もう一曲、北斗との別れの曲を置いておこう。

誰も許してくれないなら一緒に逃げようって泣いたね。
私たちの行かなくてはいけない場所は、北斗と私では行けない場所だ。本当にそうなのだ。

北斗は最近たびたび、「一生SixTONESでいる」ということを言う。
この人はもう、私と一緒に逃げてくれる人ではないんだなと思う。


ねえバーノンちゃん、
私あなたを好きになって、びっくりするくらい毎日幸せだよ。
バーノンちゃんはわからないことだらけで、でも、わからないからこそ、毎日昨日よりもあなたが好きなんだ。
「好き」ってこれなのか、と生まれて初めて知ったよ。

たった一人にすがらなくても、痛みを癒してくれて、愛し合って、救い合える。
そんな居場所がこの世にあることを、初めて知りました。
好きになって1年も経っていない私は、まだまだSEVENTEENとCARATのお客様だなと思うことも多いけど、
でも、私、SEVENTEENが好きです。
涙が出るほど好きです。
3年間なんて言わず、時間を止めて、
永遠にここにいられたらいいのに。
友人がみんな、「れおんさんが健康的なオタクしてる!」と喜んでいます。
あなたたち13人のおかげです。

いずれ終わってしまうことなんてわかってる。
でも3年間一緒に過ごせば、私の人生では永遠になる。
5年も契約期間を延ばしてくれてありがとう。
セブチとバーノンちゃんから卒業するとき、私はどんな人になってるのかな。

セブチとバーノンちゃんのことは、また改めて書きます。


私の未来に北斗はいないけれど、北斗との3年間があったから、バーノンちゃんを好きになった。
それは確かに言えることだ。
人生に無駄は一つもない。
さよなら北斗。
SixTONESの音楽とライブは、まだまだずっと好きです。

ニューシングルが出ます。
7枚目です。
フゥ。

こっちも出てます。
サイコー。


ではまたそのうち。

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