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オリジナル小説 リアム・クルス(序章)

序章 ハンナ


 高校生の頃、ハンナの人生は実に順風満帆だった。恵まれた容姿に加え、社交的な性格で友人も多く、地元の学校では一二を争うほどの人気者だった。父親の仕事は弁護士で、わりあい裕福な家庭で育った。
――将来は教師になって、学校で子どもたちにいろいろなことを教えて、私のように素晴らしい人生を送ってほしい。
 子ども好きなハンナは、いつしかそんな想いを抱いていた。努力家な面も相まって、成績も優秀だった。
 当然、大学に進学するつもりだった。だが、受験シーズンを前に、両親から猛反対された。
「駄目よ、教師なんて。苦労が絶えないわ。徹夜が続いたらお肌に悪いし、あなたの美しさがかすむわ」
「お前に相応しい相手はパパが見つけるよ。高校を卒業したら結婚して、幸せにしてもらうんだ」
 いいね、と念を押されると、ハンナは黙って頷くしかなかった。怒鳴られたり、殴られたりしたことはないが、こうして威圧されると従わねばならないのがこの家のルールだった。

 卒業後、間もなく一人の男性を紹介された。彼の名はヘンリー・クルスといい、二つ年上の、資産家の息子だった。
 ヘンリーは話し上手で、結婚に乗り気でなかったハンナの心を瞬く間に掴んだ。
 また子ども好きでもあり、教師になりたかったというハンナに痛く共感してみせた。
「君は美しいだけじゃなく、心優しい女性だね。僕らが一緒になれば、きっと立派な子どもを授かるよ」
 彼はハンナに首ったけだった。何としても彼女を手に入れようと躍起になった。
「そうだ! 僕らに子どもができたら、君が勉強を教えたらどうかな。君なら、きっと普通の学校が真似できない教育ができるよ」
 彼の熱意にすっかり絆されたハンナは、ついに結婚を決めた。二人が出会ってから、三ヶ月後のことだった。
――どうせ結婚は避けられないんだから、私を愛してくれる人がいいわ……。
 ハンナは半ば諦めたような気持ちになっていた。

両親はハンナの決断を喜んだ。それから十ヶ月かけて準備をし、式を挙げた。何百人という人々が二人を祝福した。手伝ってくれた友人たちからも、祝いの言葉が贈られた。
「ハンナ、おめでとう! 旦那さん、素敵な方ね」
「こんなに早く結婚するとは思わなかったけど、幸せそうでよかったわ」
「とっても綺麗よ。さすが私たちのスターね」
 ハンナは微かに幸福を感じ始めた。教師になる夢は諦めたものの、幸せな結婚もまた、彼女の幼い頃からの憧れだったのだ。
「ありがとう。幸せになるわ」
 ハンナの自然に零れる笑みは、皆を魅了した。

 式の後、二人は海の見える高台の家に移り住んだ。周囲に店や民家はなく、坂を上ると森の中へ入っていく。生い茂る木々の緑に白い外壁が映えて美しかった。
「このサンルーム、やっぱり素敵ね。ここで紅茶を飲んでもいいかしら」
「もちろんだよ。子どもができたら、一緒に遊ぶのもいいね」
 ヘンリーはハンナに笑いかけた。ハンナのほうも笑顔で返した。
――ここから、私たちの新しい生活が始まるのね……!
 一年前とは打って変わって、ハンナの胸は新生活への期待に満ち溢れていた。

 ハンナは家事の一切を任された。もともと器用で、チアリーディングで培った体力もあり、大変だとは思わなかった。
 中でも料理は大の得意で、仕事から疲れて帰る夫のために、いつも手の込んだ食事を用意した。お菓子好きなハンナは、まるで売り物かと思うほどのものを作り、ヘンリーを驚かせた。
 だが、掃除はどちらかというと苦手だった。というより、汚いものが苦手なのだ。掃除機をかけたり、落ち葉を掃いたりするのはいいが、油汚れや生ごみの処理、排水口の髪の毛取りといったようなことがどうにも不得手だった。

 学生時代に比べて時間に余裕ができたハンナは、趣味として編み物を始めた。自分や夫のセーター、マフラー、手袋といった衣料品の他に、ぬいぐるみなども編んだ。
 本を読むことも好きだった。ヘンリーの書斎には大量の本が置いてあったので、好みのものを選んで読んだ。場所はハンナの趣味の部屋だったり、あの日当たりの良いサンルームだったりした。暑い夏や寒い冬などは、専ら部屋で過ごした。
 書斎の隣にある趣味の部屋は、中央に丸いテーブルと二人掛けのソファーがあり、奥の壁際にはクローゼット、ドアのそばには編み物の道具や材料、完成したぬいぐるみなどが入った収納ケースがある。ケースの数は少しずつ増え、狭い壁を覆い隠した。
 やがて読みたい本もなくなると、インターネットサイトで注文したり、夫に頼んで仕事帰りに買ってきてもらったりした。

 クルス家から街までは、長い坂道を下った後、しばらく山道が続く。車なら十分程度だが、ハンナの車は実家に置いてきてしまったため、ヘンリーが仕事の時は歩かなければならない。
 ハンナは滅多に出かけられなかった。家で大人しく過ごすか、時折森のほうへぶらぶら歩いてみることくらいしかできなかった。けれども、虫嫌い故に、あまり奥まで入っていくことは躊躇われた。
そうこうしているうちに、二階の小さな部屋は本やら編み物やらでいっぱいになった。
 若いハンナは退屈した。稀に友人たちが訪ねて来てくれることもあったが、大学に通う彼らはそれぞれに忙しく、三年が経つ頃にはそれも完全に途絶えてしまった。

 ある日、夕食の席で、ハンナはそのことをヘンリーに相談してみることにした。
「ねえ、あなた。私、ずっと何もすることがなくて退屈なの。外で働けるあなたが羨ましいわ」
すると
「……羨ましいだって? 僕は君を養うために必死で働いてるんだ」
ヘンリーは珍しく眉間に皺を寄せてハンナを睨みつけた。
 突然機嫌が悪くなったことに驚き戸惑いつつ、ハンナはなんとか取り繕おうと言った。
「ええ、もちろんわかってる、感謝してるわ。でも、あなた一人を働かせて暇してるのはもったいないし、申し訳ないと思ったのよ」
「暇? だったら早く子どもを産んだらどうなんだ! 僕が金を稼いで、君が子どもの世話をする、そう約束したじゃないか!!」
 テーブルを叩いて立ち上がったヘンリーにものすごい勢いでまくし立てられ、ハンナは唖然とした。彼が声を荒らげたことなど一度もなかったからだ。
――急に怒るなんておかしいわ。何かあったのかしら……。
目を見開いて呆気にとられたままのハンナを食卓に残し、ヘンリーはさっさと書斎へ引っ込んでしまった。
――きっと、仕事で何か嫌なことでもあったのよ。
ハンナはそう思い直し、深く気に留めないことにした。

案の定、ヘンリーは翌朝になるとハンナに謝ってきた。
「ハンナ。昨日はごめんよ。少しイライラしていたんだ……許してくれるかい?」
「ええ、いいわ。私こそごめんなさい」
 ハンナはホッとした。二人はハグを交わすと、静かに微笑みあった。

 ところが、この日を境に、ヘンリーは怒りっぽくなった。それどころか、日に日に機嫌の悪い日が増え、ハンナが原因を訊ねても頑として教えてはくれなかった。
 初めのうちは心配していたハンナも、しだいに恐ろしくなってきた。というのも、夫が物に当たることが多くなってきたからだ。シャツにアイロンがかかっていないと言って、洗いたてのシャツを投げつけてくることもあった。
 ハンナはできるだけ夫の機嫌を損ねないよう気を配った。だが、常に完璧を求められ、どんどん細かくなっていく注文に泣き出したい気分であった。
――もう、どうしてこんなことに? パパやママと暮らしてた頃より気を遣うわ……。
 唯一の話し相手であったヘンリーとまともな会話ができなくなったハンナは、何をしていてもひどく孤独だった。
 誰かに相談しようにも、高いプライドが邪魔をした。幼い頃から皆の憧れだったハンナは、死ぬまで人々の憧れであり続けたかった。友達はたくさんいたが、弱い部分を見せられる相手は一人もいなかった。

 結婚四年目を迎えた頃、ハンナは体調を崩した。熱っぽくなり、下痢が続いた。
 薬でなんとか治そうと試みるも、全く回復する兆しが見えず、気分も落ち込む一方だった。
 そんなハンナの様子を見てさすがに心配したヘンリーは、彼女を車に乗せて病院へ連れて行った。

「え?」
医者の診断を聞いたハンナは一瞬、耳を疑った。
「おめでとうございます。三ヶ月ですよ」
医者は笑顔でそう続けた。ハンナは妊娠していたのだ。
隣に座って一緒に話を聞いていたヘンリーと顔を見合わせ、再度確認した。
「えっ、ほ、本当ですか?」
「本当です。産婦人科で詳しい診察を受けてください」
 二人の表情は喜びに満ち溢れた。待ち望んだ我が子をようやく授かったのだ。

 それから二人の仲は一変した。ヘンリーはハンナの身体を気遣うようになり、乱暴に扱うことはなくなった。ハンナの妊娠を知った親たちは諸手を挙げて喜び、生まれてくる子のためにとあらゆる物を買い揃え、二人の家へ届けた。
 ハンナは幸せだった。ヘンリーの暴力から抜け出せたのはもちろんだが、今までどんなに良い成績をとっても当然のような顔しかしなかった両親が、初めて心から喜んでくれたことがたまらなく嬉しかった。
――この子のおかげね。ようやく認めてもらえた……。
 ハンナは自分に幸せをくれた最愛の我が子に、最高の愛情を注ぐことを心に誓った。お腹の中にある小さな命が、愛しくて仕方がなかった。

 ハンナには少々気になることがあった。お腹が張るような感じが続いていた。一時横になっているとよくなるのだが、ちょっとした家事をこなしただけで腹痛に見舞われた。
 ある日、少量の出血があった。不安になったハンナは夫に頼んで病院に行った。そこで切迫流産と診断された。医師からは絶対に安静だと言われ、帰宅した。
 それからは食事とトイレ以外は極力動かず、ずっと横になっていた。家事は可能な限りヘンリーが担った。親たちには言わなかった。親に頼りたくないという気持ちは、子ども好きな点を除けば、二人が最も共感し合える面だった。

 ハンナの体調は一向に良くならなかった。それどころか、だんだん悪化しているようにも思われた。
 ある時、ヘンリーの出張が決まった。ごく短い間だったが、どうしても断れないと言って出かけて行った。ハンナは仕方なく体を動かしたが、これがいけなかったのかもしれない。
 出張から帰った夫が目にしたのは、血を流して倒れる妻の姿であった。

 結局、子どもは生まれてくることができなかった。ハンナは流産してしまった。
 定期健診の時、子どもは男の子だと聞かされていた。名前も、既に考えてあった。待ちに待った第一子・リアムを失った悲しみは、二人の関係を壊すには有り余るほどだった。

 二人は口をきかなくなった。ハンナは毎日泣いていたし、ヘンリーは魂が抜けたように長い時間ぼーっとしていた。何日かして、彼は高台の家を出て行った。
 また何日かして、やっと落ち着いてきたハンナは実家へ戻り、両親にすべてを話した。嘘をつく気力もなかったからだが、そんなハンナを、両親は受け入れてはくれなかった。「いったい何を考えていたの! どうしてそんな大事なことを親に話さないの? そんな親不孝な娘に育てた覚えはないわ!」とヒステリックに喚き散らす母親とは反対に、父親は終始黙っていた。
 ハンナは、いつもなら真っ先に口を出す父の意外な反応に違和感を抱いたが、疑問はすぐに払拭された。母親が散々喚くのを聞いた後、父親は静かに、一言だけ言った。
「出て行け。お前はもう私の娘ではない」
 さすがの母も驚いて、言葉を失った。それ以上に、ハンナのショックは大きかった。出て行けと言われたが、しばらくは立ち上がれそうになかった。父親はそんな娘に目もくれず、無言で部屋の外へと消えていった。

 ハンナは両親と夫と息子、そのすべてを一度に失ってしまった。

 二ヶ月後、ハンナとヘンリーの離婚が成立した。高台の家は、ハンナが受け取れることになった。独りぼっちのハンナには広すぎる家だったが、勘当されてしまったため、住む場所は他になかった。実家から車だけを持ってきた。
 ハンナはすぐに仕事を探した。婚姻期間が短かったせいで、ヘンリーからもらえる生活費も長くは続かない。人前に出るのは億劫で、様々な在宅ワークを始めた。

 街に買い物に来たとき、ふと思い立ち、スーパーの駐車場に車を停めて、辺りを歩いてみることにした。少しでも気分転換になればとハンナは思った。
 少し歩いたところに、公園があった。たくさんの子どもたちが遊ぶ姿や、母親同士でおしゃべりに興じている光景が目に入った。ハンナは思わず顔を顰めた。息子を亡くして間もない彼女にとって、彼らの眩しい笑顔は見るに堪えなかった。
――来るんじゃなかった。早く買い物して帰ろう……。
そう思い、来た道を引き返そうとしたとき、公園の入り口近くにあるベンチのそばに、一台のベビーカーが置かれているのに気がついた。周りに人はおらず、紺色のベビーカーだけが、ぽつんと置かれている。
――……。
 ハンナは引き寄せられるように、そのベビーカーのもとへ向かった。まさかとは思ったが、なんと中には赤ん坊がいた。
――こんなところに赤ちゃんを一人で放置するなんて、なんて親なの! 危ないじゃない……!
 ハンナは初めこそそう思ったが、なぜだか目が離せなかった。赤ん坊を心配する気持ちからではなく、何とも言えない胸の高鳴りを感じた。赤ん坊は、薄い金色の髪の毛に、青くくりくりした瞳で、自分をじっと見つめるハンナに可愛らしく笑いかけた。
 ハンナも、そしてヘンリーも、美しい金髪だった。生まれてくるはずだった子の髪も、きっと綺麗な金色をしていたに違いない。ハンナの目の色はヘーゼルだが、ヘンリーはこの赤ん坊のようなブルーの目をしていた……。

 さっと赤ん坊を抱き上げたハンナは、足早に公園を後にした。追ってくる者は一人もいなかった。

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