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Socially Engaged Artについてのもやもや

少し前に、東京の3331 Arts Chiyodaで「ソーシャリー・エンゲイジド・アート展」を観てきた。

ソーシャリー・エンゲイジド・アートというのは最近注目されているアートの1潮流で、簡単に言うと「参加や協働によって、社会の問題を明らかにしたり、その解決を目指したりするアート」のこと。東日本大震災を経て、「アートに何ができるか」なんていう議論を、一部の「アーティスト」がしていたことを覚えているひともいるかも知れない。そのことの是非はさておき、少なくともこの国では、ソーシャリー・エンゲイジド・アートは、現代社会のいろんな課題への応答ということに加えて、震災後の社会的な混乱の中で注目されるようになった経緯をもつ。震災と復興、福島第一原発の事故、それらを受けて各地で起こった大規模なデモ。そういうものをモチーフにした絵が、映像作品が、戯曲が次々と発表され、芸術にさほど関心のなかった人達も、それが社会的なものだとあらためて気付くに至った。

ソーシャリー・エンゲイジド・アート自体は国際的な潮流だけど、その意義の認識のされかた、受け入れられかたは、そういうわけで、日本には多少独特の文脈があるんじゃないかとわたしは思う。もっとも、震災を経験しなかった2017年の日本をわたしたちが生きることは不可能だから、比べることはできないのだけれど、それでも、日本型のある種の極めて優等生的な感覚と「アート」が奇妙に結びついて、しかも、多くの人の目にはその結びつきが奇妙でなく写っているということでは、震災の果たした役割はやはり大きいのではないかと思う。昨年の瀬戸内国際芸術祭では、幸運なことに仕掛け人である福武財団のかたに一部作品を案内していただく機会を得たけれど、彼等が熱っぽくその意味を語るボルタンスキーの非常に慰霊的な作品が、来場者の人気も集めているというのは不思議に感じた。その作品の意味や意義が分かることと、アートとして素敵だと感じることって、ちょっと前までこんなに同じこととして扱われていただろうか?

「ソーシャリー・エンゲイジド・アート展(以下SEA展)」を見て、わたしはもやもやした。すごくもやもやした。このもやもやはいつか言葉にしないとだめだ、と思った。じっくり鑑賞して、来場者アンケートでは直截に企画内容を酷評して帰った。今でも伝わる書き方ができていた自信がない。作品の、少なくとも一部はとても良かったし、好きだと思った。けれどそれらがSEA展として並べられていることに強烈な違和感があった。誰のための展示なんだろう、と思った。もしわたしが作家だったら、社会を変えるために作品を作っているのだとしたら、こんな風に並べられたりなんて絶対にしたくない。仮に啓蒙のためにやっているんだとしても、まちの中や美術館の中で不意に出会うのではなくて、こういう意義があるんです、とあらかじめ説明された状態で受け入れようとする人に、新しく何が刺さるのだろう。それだったら社会科の資料集とかでいいんじゃないかしらと思ってしまう。


表現ということを考えるとき、わたしは、薬害エイズ問題で立ち上がった人達のことをいつも想う。厚生省の官僚の胸倉をつかみ、前後不覚になるかのような勢いで怒りをあらわにする人の映像を、大学のゼミで見たことがある。初めてそれを目にしたとき、わたしはものすごくどきどきした。そのひとが生きようとしていることが分かるような気がした。それを受けて官僚は言った。「あなたのように乱暴な物言いでは、話にならない」と。ああ、いつもそうだ、とわたしは思った。

本当に追い詰められた弱い者には、言葉と暴力しか残されていないということが往々にしてある(もっと言えば、言葉も残されていないということだってある、スピヴァクにはじまるサバルタンをめぐる議論にそのあたりは詳しい)。アートや表現と呼ばれるものは、そういう者たちの味方であり、よすがでもある。Socially(社会的)に、たとえengaged(契約し、従事している状態)でなくても、related(関係している状態)ではある。Relationship(関係性)のありかたを考えるときに、engagement(情緒的に積極的な関わり、絆)でしか考えられないのだとしたら、それはとても薄い社会だと言わざるを得ないんじゃないだろうか。

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