Came back to 兵庫。 その1

本州に戻ってきた。

さすがに、本州では笠に杖に白装束は違和感がある。

岡山から電車に乗って東に向かう。

このまま、兵庫県の実家まで戻ってもいいが・・・

その前に、姫路に立ち寄ることにした。

お礼参りではないが、

西国三十三か所の札所である、書写山圓教寺と姫路城、そして姫路のカトリック教会に立ち寄りたかった。

西国三十三か所参りは、四国遍路を志す二年ほど前から続けていた。

一番初めは、京都の清水寺。

私が、ちょうど塾に勤め始めたころだった。

清水寺から夕日の沈む京都の街並みを見ていて、

ふと、自分と世界と心とが一つであるという感覚を覚えた。

大乗仏教の唯識説やユング心理学に触れたこともあっただろうか、

そのころは、日本の寺社や仏閣をめぐり、自然と自心の仏、生命に出会う旅をしていた。

何か月に一回かの休日は、あちこちの寺を回った。

その延長線上の憧れに四国があった。

そして、今、私はあの憧れていた四国巡礼を終えて、本州に戻ってきたのだ。

魂の経験値はたまり、きっとレベルも上がったはず。



姫路城を近くに望み、名門校である純心学院や賢明女子学園に挟まれて、カトリック姫路教会がある。

空いている会議室を借り、固い床に寝袋を敷いて一泊させていただく。

幕屋の方から頂いた、手島郁郎の伝記を読みふける。

私の心のうちに後ろ髪を引かれる思いが強かったのが、

「やはり、私は『幕屋の民』にならなければならないのだろうか。」

ということ。

出会った幕屋の人たちを私は本当に感謝して愛を感じて、何度も何度も心の中でその愛を反芻して暖かく感じていた。

しかし・・・

無教会なので、入会制度も洗礼もないが、それでもやっぱりあの濃いコミュニティのなかで、集団に合わせてそういう信仰をしていくことはあるだろう。

「一度入ったら抜けられないし、辞めたら地獄に堕ちる」ということもないだろうし、高額なお布施や献金を迫られることもないだろう。

しかし、心配なのが、「私が私で居られるか」「自由に自分の素敵だと思う価値観を選び取れるか」「自分の考えていることを自由に話しても非難されることなく、受け止めてもらえるだろうか。」ということだった。

あの濃い人間関係の中でのしがらみが強くなって、

自分に仮面をつけて偽って、組織に合わせたまま、

幕屋の関係の中だけで一生を終えてしまうなんて言うことにならないだろうか。

私のアイデンティティは、やはりカトリックにある。私がいかに、教説からずれた考えや行動を持とうとも、教会は母のように家のように平凡な仕方ではあるがそこにあって受け入れてくれる存在なのだ。

魅力は落ちることがあっても、この「母」との血縁は切れることはない。


あの独立心に満ち、教会、無教会と飛び出して独自の道を切り開いた創始者は、70年代に亡くなり、それから、40年が経っている。

そして、組織に残っている人は、多くが二世三世、場合によっては四世までいる。

いわば、「もう出来上がっちゃった集団」なのだ。

幕屋は、「ホーム」となり、血縁集団となり、民族となる。

創始者の精神はそのまま生きたまま受け継がれているだろうか。

どんなに素晴らしい人でも、人間の集まりである限り、絶対何の問題もないわけではない。

どんなに、組織の在り方に細心の注意を払っていても、腐敗は必ず出てくるものだという、認識がこれまでの経験からあった。

伝記は、教祖・手島でなく、躓いた人もいたと、人間手島を隠すことなく描いている。

多くのカルト化する組織というのは、組織を神聖化するあまり内部のドロドロした事件をもみ消そうとするものだ。

健全な組織を測る度合いは、「オープンさ」にあるともいえる。


私は、組織集団に組み込まれることよりもまず第一に、

ただ生命そのものを欲していた。

それこそ、「私だけの神」と出会うこと。



地球は、「魂の夜明け」の時代を迎えている。

あらゆる生命が一つにつながっていて、違いを認め合い互いに照らしあう。

対話と深い祈りによってつながることが出来る。

キリスト教を相対化することはできないが、すべてが一つにつながっている。

そうした、宇宙的なビジョンに開かれた宗教を超えた宗教が必要だ。

そう考えていた。



朝のミサのあと、フィリピン人のおばちゃんたちと一緒にモーニング。



姫路城を、遍路姿で見学する。

外国人観光客が、「なんでそんな姿をしているのか。」と聞いてくるので、

「シコク・ピルグリム(巡礼)」と応え、説明する。



圓教寺まで、ロープウェイでのぼる。

天台宗の別格本山でもあり、映画「ラストサムライ」の舞台でも使われた。

街から離れた、山の上。

澄み切って静寂な境内に凛とした神聖な気持ちになる。


境内で大きな声でお経を挙げていると、ある女性の方が話しかけてくださる。

「いい声ですね。その恰好は、お坊さんですか?」

と聞かれ、

「いえ、実はクリスチャンなのですが、ちょうど四国八十八か所を回り終えたところです。」

と。

「私は中東に住んでいるのだけれども、うちの旦那はクリスチャンで、『キリスト教徒でないと天国に行くことはできず、イスラム教も仏教もみんな悪魔だ』と言っていて・・・」

ということでお話される。

そんな排他的な在り方の人が、世界では一般的なのかしらないが、いるのか、と思う。

「大丈夫ですよ、みんな救われますよ。」

ということを宣言すると、その方はとても安心した顔つきになって、くれて嬉しく思う。

「是非、またお話させてください」と、連絡先をいただいた。

こうして、お話ができたことも一つの導きだったのだろう。



いよいよ、三田に帰る。

その先のことは、まだ何も考えていない。

姫路駅。

本屋で、

『夢がかなうとき何が起こっているのか』(石井久二)

『五時間目の戦争』(優)を買う。


あれから、74日ぶりに戻ってくる我が家だ。

子どもの頃から育ち、親しんできたニュータウン。

白装束に杖でコープに入ると、レジの人が、「お遍路お疲れさまでした。」と声をかけてくれる。


家に入り、自分の部屋に戻ってくると、

「何も変わっていないな」ということを感じる。

それでも、この白い部屋に閉じこもったままでいてはいけない。


高野山に行き、そこではじめて「結願」だ。


元職場から、恐れていた催促状なりなんなりは来ていなかった。







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