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生まれた町でもなく、そこで育ったのでもない町について語るということ――下北沢ノート①(承前)

避難所としての町と店

 二十世紀の終わりに、都内での十度目の転居の結果、下北沢の町に転がり込んできたとき、私は少々疲れていた。昔風の言葉でいえば神経衰弱である。ここに住もうという強い意志があったわけではなく、いわば消去法だった。調子の狂った自分の人生を立て直すために、しばらくこの町で骨休めしようと考えたのだ。

 ただし一つだけ、下北沢に住もうと考えた積極的な理由があった。それは二十世紀から二十一世紀への変わり目を、断絶ではなく継続の相で見たい、という気持ちだった。下北沢の北口駅前には、戦後間もない時期の闇市の名残であるバラックがあり、そこにはいまもなお、小さな商店が軒を並べている。あわただしく姿を変え続ける東京のなかで、この町だけは、二十一世紀にもすぐにはその姿を変えることがないように私には思えたのである(その思いこみはやがて無惨にも打ち砕かれるのだが)。

 下北沢は、基本的に商業の町でもある。よく知られていることだが、現在「下北沢」は正式な地名としては存在せず(かつては存在した)、二つの私 鉄が交差する駅の名前として名残をとどめている。「下北沢」は、世田谷区北沢、代沢、代田という三地域によって構成されるが、これらの地域は世田谷区屈指の高級住宅地でもある。商業地としての下北沢は、高台の住宅地に囲まれた低地帯に、湿地に叢生する植物のように繁茂する中小の店舗によって構成されている、といってもいい。当然、これらの商業施設の入れ替わりは激しい。

 私の下北沢に対する愛着は、この町にあるいくつかの店の存在とも深く結びついている。もしも別の町にそれらの店があったなら、私はその町に特別な感情を抱いただろう。だが、仮定法で語っても意味はない。それらの店は現実に下北沢に存在しており、だからこそ私はこの町を好ましく思い、引っ越してこようと考えた。その意味では、店も私にとっては友人に近い存在である。

 私にとってそのような大事な店の一つが、北口にある音楽喫茶(中古レコード屋でもあり、古本屋でもある)「I」だ。今年で開店から三十周年(※ 執筆当時)を迎えるというこの店にしばしば通うようになったことと、私が下北沢を「町」として意識するようになったこととは切り離すことができない。

 ところで、ある場所を「町」として意識するとは、どういうことだろうか。たとえば私は、寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉が、長いことどうしてもピンとこなかった。書を捨てよというアジテーションは分かる。だが、それにつづく「町へ出よう」が分からない。「身捨つるほどの祖国はありや」どころか、「書を捨てて出るほどの町はありや」というのが正直な気分だったのである。

 町は街とは微妙にことなるニュアンスをもつ。街ではなく町と書くとき、寺山が「大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ」という歌で「大工町」「寺町」「米町」「仏町」という言葉に込めた思いを考えずにはいられない。歴史性から自由な場所として想起されがちな街(ストリート)に対して、町はその来歴から完全には自由にはなりえない場所として語られるべきである。

 と同時に、ある種の町は、都市において「避難所(アジール)」として機能する。都市自体が国家における避難所であり、町はその都市における避難所である、という入れ子構造を考えたとき、町のなかで喫茶店のような場所がもつ意味がようやく理解できる。避難所とは町が町であり、都市が都市であることを象徴する性質である。したがってそのような場所(それは必ずしも喫茶店でなくてもよいのだが)のない町は「町」ではなく、都市でもない。

 以前「I」の店主が、店に置いていたワープロ打ちの粗末なフライヤーに寄せたエッセイで、喫茶店を「都市の虚構性」の象徴だと書いていた。虚構性というとわかりにくいが、ようするにそこは「なにもしないことが許される」場所、つまり反行為=無為の場所であるということだ。寺山の「町へ出よう」という言葉が、なんらかの積極的な行為(政治的であれ、性的であれ、文化的であれ)へのコミットメントのみを意味していたなら、私にはさして魅力的なアジテーションだとは思えない。

 だが、もしも寺山修司の言葉が、「なにもしないこと」が許される時間と空間を得るためにこそ、書を捨て、「町に出よう」と言ったのだとしたら、ずいぶんとこの言葉の印象はちがってくる。町の思想は本質的に持久戦の思想であり、「街」という字が喚起する市街戦の思想とは根本的に異なる、ということだろうか。


再開発から考える

 かつて下北沢の賑わいの中心は、北口の「一番街」と呼ばれる商店街だった(商店街はまさに「街」の原型である)。「かつて」とは、「戦前」と呼ばれる時代のことだ。その頃の一番街は、東京の三大商店街のひとつに数えられ(残りのふたつは巣鴨と武蔵小山)、その盛況ぶりを視察するためにヒトラー・ユーゲントが訪れたこともある、との逸話が残っている。

 下北沢一番街は、いまも昔ながらの商店街の佇まいを残しており、音楽喫茶の「I」も、二つの通りからなるこの商店街が折れ曲がるちょうど角地の二階に位置している。だが、この牧歌的な商店街風景は、遠からず過去のものになることが決まっている。二〇〇七年に正式に事業認可された、「補助五四号線」と呼ばれる幹線道路が予定どおり建設されれば、一番街の中心部は環七並みの幅二十五メートルもの道路で寸断され、商店街としてのまとまりを失うことになる。

 私がこの道路計画のことを知ったのは、二〇〇三年の春のことだ。下北沢の町が遠からず大きく変化することは、この道路の事業認可以前から決まっていた。長く続いた小田急電鉄の高架訴訟が結審し、下北沢周辺の線路が、高架ではなく地下化によって複々線化されることが決まったのがそのきっかけだ。悪名高い下北沢駅周辺の「開かずの踏み切り」が解消され、老朽化した駅舎も改築されると知り、私自身も、小田急地下化にともなう町の変化を基本的に歓迎していた。

 だが、「補助五四号線」の建設は寝耳に水だった。なぜ、住宅地と商業地が密集している地域のど真ん中に、いまさら幹線道路を通さなければならないのか。昭和二十年に計画されたまま凍結されていた道路計画が、合理的な説明もなくこの時期に再始動することに、なによりも不審の念を抱いた。

 道路計画への反対を訴え、積極的に活動をしている「SAVE THE下北沢」という市民運動グループのおかげで、下北沢駅周辺地域の地区計画(再開発計画)において、高層階の建物が建設可能となるよう、道路と線路が複数個所で交差する「連続立体交差事業」が方便として用いられていることを知った。この事業として認められると、私企業による開発計画であっても、事業費の九割が国庫からの補助金によってまかなわれる。補助五四号線は、下北沢の再開発計画が「連続立体交差事業」として認められるための要件として遙かなる過去から召喚された、まさに亡霊のような道路なのである。

どこまでが下北沢か

 「SAVE THE下北沢」のメンバーである大学院生らを中心とするグループが、下北沢をテーマとする『ミスアティコ』というフリーペーパーを創刊したのもこの頃である。この創刊号に載っていた、「下北沢はどこで始まり、どこで終わるのだろうか?」という問いかけの言葉が刺激的だった。

 たしかに下北沢という場所は、「北沢・代沢・代田」という行政区画と正確に対応するものではない。どこからどこまでという正式な区切りをもたない、いわば一種の「幻想の共同体」であり、だからこそ、先の喫茶店主の言うような「虚構の場所」でありうる。少なくともそのように考えたほうが、下北沢という町の本質が明瞭になる。

 四方を高級住宅地に囲まれた商業地区としての「下北沢」は、茶沢通りと鎌倉通りという、さして太くもないが交通量も多くない二本の道路と、北口の一番街商店街によって囲まれた地域を指す。世田谷区が地区計画として想定しているのは、ほぼこのエリアだけである。だが、「虚構の場所」としての下北沢は、その外側に漠然と広がっており、より広大な地域までを含んでいる。

 茶沢通りは、下北沢で交差する二本の私鉄のさらに南を走る東急田園都市線の三軒茶屋駅まで伸びており、鎌倉通りは、北側を走る京王線の笹塚駅ちかくまで通じている。東北沢、世田谷代田(小田急線)、池の上、新代田(京王井の頭線)という下北沢に隣接する四つの駅周辺の町並みも、「虚構の場所」としての「下北沢」を支えている重要な要素だ。下北沢の魅力の少なからぬ部分が、じつはその周辺に広がる地域との関係によって生まれている。たとえば池の上から茶沢通りまで降りてくる道は、下北沢の町へのアプローチの仕方として、もっとも魅力的なコースである。

 『ミスアティコ』の創刊メンバーは、やがて下北沢から二駅離れた東松原の駅近くに一軒家を借り、ルームシェアをして暮らしはじめた。「松亭」と名づけられたその家は、行政区画としての「北沢・代沢・代田」には属していない。住人は何度か代替わりしているが、この家はいまも、彼らが下北沢の問題を考えるうえで、重要な場所でありつづけている(※注・「松亭」の建物は2014年現在もある。ただし雑誌『ミスアティコ』はその後休刊)。

 家族でもなく、恋人でもなく、もしかしたら友人でさえないかもしれない人間と、人はどのように付き合うことができるか。

 都市や町について考えるとき、私の頭にいつもうかぶのは、この問いである。他人同士が、互いの微妙な距離感を大事にしながら、ともに暮らすルームシェアという方法は、「生まれた町でもなく、そこで育ったのでもない、そんな町について、人は何を語ることができるだろう」という冒頭の問いとつながっている。町について考えることは、人と人との関係を、もっとも基本的なところから考えることだ。

 下北沢の町に住むことで私が神経衰弱から脱することができたとしたら、それはこの町に、店や友人たちとのつき合いから生まれるごく当たり前の人間関係が存在するからだ。そのような関係が(それは会話によってであっても、言葉にならない交感によるものであってもいい)が生み出されるような場所こそが、本当の町だろう。

 繰り返そう。下北沢は街ではなく、町である。

下北沢ノート②につづく

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