雨季と乾季のバラッド 星野智幸論

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 「文学」あるいは「近代文学」は終った、という物言いは決していまに始まったことではないが、ここ数年とみにためらいなしに口にされるようになった。だが、よく考えてみるとわかるとおり、ここで意味されている「文学」あるいは「近代文学」とは、言葉による表現すべてを指すわけでもなければ、近代という時代における文学という意味でさえない。
 日本でいう「文学」あるいはそのほぼ同義語である「近代文学」とは、世界的に見ればごく特殊な意味を担わされた言葉だといっていい。近代文学といえばふつう近代における文学のことだが、日本の近代とは正確には「近代化の時代」であり、近代そのものではない。したがってこの国でいわれる「近代文学」あるいは「文学」とは、いち早く近代市民社会を実現した英仏といった「先進国」に対し、自らを「後進国」と位置づけた国に発生した、いわば「近代化」文学のことだった。
 そのような歴史的概念としての「文学」あるいは「近代文学」と、私たちがいま接している膨大な小説をはじめとする言語表現(それをここでは仮に「現代文学」と呼ぼう)との間にはあきらかな切断面がある。だが、そのような切断をもたらしたのは、言葉の表現における進歩でも革新でもなく、たんに政治経済あるいは社会における「近代化プロセス」そのものの終焉でしかなかった。その結果、文学表現においても強い切断が起きたことは確かだとして、それがどの程度の鋭さをもった刃によって行なわれたのか、という問いに対しては、いくつかの立場がありうるだろう。
 両者の不連続を強調する見方(私自身もどちらかといえばその立場にたつ)がある一方で、「近代文学」と「現代文学」の間に切断があることをはっきりと認識しつつも、両者の連続性を同時につよく意識しつづける作家も少ないながら存在する(残る大半の作家は、連続しているか不連続であるか、という問いそのものに鈍感である)。
 先行作家たちへの言挙げに満ちた「最後の吐息」という奇妙な作品でデビューした星野智幸も、そのような「連続性」の存在を強く意識している現代作家の一人だ。彼の小説の文体は、どことはっきり指摘しにくいのだが、全体としていつもどこかギクシャクした感じを与える。比喩的に言えば、それはまるで鋭利な刃物でスッパリと切断されてしまった「文学」という生き物の頭部と体とを、必死で繋げようとする身振りのように見える。人は真摯な思いに突き動かされているときほど、滑稽に見える動きをするものだろう。彼の文体のギクシャクした印象は、そのようなヘンテコな動きでもしなければ言語表現の連続性が見失われてしまうという、アクロバティカルで捨て身の体技なのだ。
 星野智幸のデビュー作である「最後の吐息」という作品は、「近代文学」と「現代文学」を架橋するだけでなく、「日本文学」と「世界文学」の関係を暴力的に逆転させることまでをも企図しているかのように、ガブリエル・ガルシア=マルケスのあまりにも有名な長篇『百年の孤独』を大胆に換骨奪胎した作中作をその胎内に収めている。「最後の吐息」は、あのマコンド村の物語が終ってもなお続いた別の「孤独」の構造を明らかにするために書きつがれた後日談であり、意識的なリメイク作だった。
 多くの読者には言うまでもないことだろうが、ここであらためて『百年の孤独』という物語を思い起こしてみよう。この小説は十九世紀はじめに南米コロンビアでマコンドという開拓村を建設したホセ・アルカディオ・ブエンディアの代に始まり、その末裔もふくめたブエンディア一族の七代にわたる運命を描いた年代記である。
 ホセ・アルカディオの名はいやでも理想郷アルカディアへの連想を誘う。だがこの村が誕生した経緯はむしろその正反対だった。ホセ・アルカディオは一行を率い、海への出口をもとめる旅に出たが、長い旅路の果てにこの試みを放棄する。旅が失敗に終ったと知ったとき、ホセ・アルカディオは出発地に戻ることを諦め、ここに新たな村を建設することにしたのである。
 マコンド村の東には険しい山脈があり、その彼方には十六世紀にイギリスの海軍提督フランシス・ドレイク卿がエリザベス女王に献上したとされる古都リオアチャの港町がある。また村の南方には「切れ目のない乳皮のような碧で覆われた沼」と「行けども行けども果てしのない、茫漠とした湿原」があり、その湿原は「西のほうで目路はるかな大海原とひとつになって」いる。そう信じたホセ・アルカディオは、「文明社会との接触」を求める旅をふたたび試みるが、またしても失敗に終る。だがこの旅にも一つだけ成果があった。ホセ・アルカディオはこのとき、スペインの巨大な帆船の廃墟を目にしたのだ。それはこの地域一帯がかつて外部世界との間に交渉があった証拠だった。「マコンドは海に囲まれている」という認識を得たホセ・アルカディオは、しかし妻のウルスラにこうつぶやく。
 
 「わしらは絶対に、どこへも行けそうにないぞ」
 
 この言葉のとおりブエンディア一族は、ホセ・アルカディオの世代から七代を経た末にマコンドの地で滅びることになるのだ。
 星野智幸が「最後の吐息」に『百年の孤独』のいわばミニアチュア的リメイクを作中作として収めた理由はなんだったろう。私たちはもはや故郷に引き返すこともできず、かといって「海」にも出られない。そんな中途半端な場所に建設されたマコンドの村が、私たちの国の小説がいまいる場所を思わせるからではなかったか。
 そのような作中作を収めた「最後の吐息」の外枠部分は、真楠(MAX)という名をもつ「わたし」という一人称によって語られる。「わたし」は、作中作となる小説「最後の吐息」を、メキシコから日本にいる恋人・不乱子(FRANCO)に宛てて手紙として送りつづけている。
 星野智幸の小説がもつひとつの大きな特徴は、男女あるいは同性同士の恋人(またはそれに準じるような親密な者同士)の間で激しい感情をともなった言葉の応酬がなされることだ。それはときに睦言のように甘く、ときには痴話喧嘩のように滑稽で、ときには一種の教理問答のように辛辣である。その言葉の激烈さや容赦のなさゆえに、言葉を交し合うどちらの立場に共感するにせよ、読者はいささか居心地の悪い思いをさせられる。端的に言えば、それらの言葉がみな、自分に対して投げかけられた悪罵のように感じてしまうのだ。「最後の吐息」の外枠部分における真楠と不乱子の手紙のやりとりは、のちの星野作品にみられるこの種の教理問答の原型といえる。
 不乱子から真楠に宛てて送られた、真楠が「まだ読んだこともない作家」(この「作家」は前後の文脈から中上健次を連想させる)の訃報を知らせる新聞記事が二人の言葉の応酬のトリガーとなる。同時にそれはこの小説自体の起動装置にもなっている。
 真楠はその「作家」の死を知り、不乱子に宛てて「彼が死んで、ぼくは重力を失い、毎日ゲロを吐いています」と返事を書くが、この言い方が気に入らない不乱子は真楠を次のように糾弾する。
 
「あなたが彼の作品をまだ読んでいないことは知っています。読まずに、彼の損失を嘆くことができるでしょうか」
 
 この言葉によって、真楠は自分は「架空の人物」にすぎないというかねてから感じていた気分が甦ってしまい、同時に不乱子に対する「激しい怒り」にもかられる。だが自分のような「架空の人物」が怒っても「希薄な空間で瞬く間に蒸発していく」だけであり、そうではなくあの「作家」の「名前」そのものになりたい、自分自身が文字として紙の上で綴られたい、と願うようになる。
 不乱子の論難への返答として、「中本半蔵」という筆名で真楠が小説を書きはじめるのはこのときだ。中上健次の『千年の愉楽』にちなんだ「中本半蔵」という名が、同時にここではどことなく滑稽さを帯びていることは重要だろう。文字通り「中途半端」な存在であることを示唆するこの名は、max(真楠)に対するmediocreの意ともうけとれる(のちの作品「嫐嬲(なぶりあい)」に登場する男女三人組のなかでただ一人の生物学的「男」である中西の仇名がやはり「メディオ medios」である)。その「作家」の名になりたいと思いつつ、決して到達できないだろうこともわかっている、そのようなまさに半端な立ち位置を「中本半蔵」という筆名がはからずも示しているように思える。
 ところで、真楠に対するさきの不乱子の糾弾は正当と言えるだろうか。
 二人のやりとりを形式論理として追えば、不乱子の言うことは正論のように思える。真楠はこの時点では、日本人留学生が置いていったその「作家」の「薄いほうの小説の長い二つの文からできている最初の一段落」を、「暗証できるほど」読んでいるにすぎない。だがその前に問われなければならないのは、なぜ不乱子は真楠にわざわざこの「作家」の訃報記事を送り届けたのか、ということだ。すなわち二人の「論争」には、表面の言葉だけを追ったのでは見えてこないレベルが存在する。不乱子の言葉のもつ真の意味を知るには、真楠から不乱子に宛てて送られた手紙=作中小説の内容を丁寧に吟味する必要があるだろう。なぜなら『百年の孤独』のあとを受け継いでいるのは、「中本半蔵」名義で書かれた作中小説の「最後の吐息」のほうなのだから。
 それはおおよそこのような物語である。
 物語の主人公は、「生まれ落ちた瞬間に息を吐いた」と言われて育ったミツ(蜂鳥蜜雄)という青年だ。ミツは糖蜜色の透き通った肌をもつ泳ぎの上手な少年として成長するが、メキシコ遠征の際に目にした魚の金細工に魅せられ、オリンピック代表の座を逃して水泳をやめた後、かつてこの地で見た魚の金細工の面影を求めて、遥々メキシコシティにやってくる。
 ミツはこの町でジュビア(スペイン語で「雨」を意味する)という名の少女と恋におちる。彼女の故郷はカリブ海沿岸のイエルバブエナという町で、そこにはマンゴーやグアバの熟れた香りやブーゲンビリアの鮮やかな色彩に囲まれた家がある。そこで暮らしはじめたミツは、自分の吐息がジュビアと同じグアバのにおいになっていることに気づく。この「グアバのにおい」はミツにとっての幸福や愛情の原イメージとして、この作品で何度も立ち現れる。
 イエルバブエナの近くには、ただ一冊書いた小説の著書が発禁となり、故郷であるカリブ海沿岸の町で金細工に専念しているアウレリャーノという「元革命家」の老人が住んでいる。ミツがメキシコシティでみた魚の金細工はこの老人がつくったものだった。ジュビアの義兄で、アウレリャーノ老人の血を引くマルコス・アウレリャーノが、アウレリャニスタ(FALN)と名乗るこの革命軍を現在は指揮している。ミツはこの国にやってきた目的を訊ねられ、「ゲリラか」という問いにうなずいてしまう。だがジュビアは、「革命という言葉は、堕落した者の恨みがましい言い訳だ」と感じており、そのような「堕落」が自らの血にも組み込まれていることに苦しみ、ミツの前から姿を消す。マルコスはミツが町を出ることを許すが、追手を走らせ、ミツを消そうとする。ミツは「木が朽ちたにおい」魚の金細工にあらかじめ爆弾を仕掛けており、マルコスはこの爆発で命を落とす。
 ジュビアが去るのと入れ違いに、水泳選手時代のミツを知っている日本人の「雨子」という女が現れる。ミツは次第に雨子との恋にのめり込み、二人は日本の風土を連想させる「温暖湿潤」なセックスを繰り返すが、そのたびにミツの頭の中に「飴色に濁った異物」が溜まっていく。ミツはそれが「この世の中を爆破したいと願う」ジュビアから流れ出た毒であり、雨子を差し向けたのもジュビアではないかと考える。
 そのような懸念を裏書するように、下宿の雨子の部屋からは「焦げくさいえんじ色の煙と熱」がはいだし、部屋全体も「ぼうっと赤黒く」輝いている(そのため雨子は「火トカゲ」とあだ名される)。ミツのなかで「異物」が蓄積されるほど、雨子は純粋な火薬になっていく。ジュビアの毒、雨子の火薬に対し、自分から流れでる異物は「グアバを煮込んだような飴色のシロップ」かもしれない、とミツは思う。マルコスに死をもたらした「木が朽ちたにおい」と、雨子の「焦げくさいえんじ色の煙と熱」は革命や暴力の気配を象徴しており、ジュビアのイエルバブエナの家でミツが得た「グアバのにおい」と対照をなす。雨季と乾季が交互に訪れる熱帯地方の気象のように、潤いと渇き、性愛と革命といったかたちで変奏されるこの二つの要素は星野智幸のその後の小説でもくりかえし表れることになる。
 メキシコシティに戻ったジュビアは、死んだ義兄の残した『自省録』と題されたノートを発見し、ミツに対するマルコスの恋情を知る。義兄にはミツや自分が抱いている「世の中を爆破しようとする根拠のない衝動」が理解できなかったと思うジュビアは、死んだ義兄のダミー役となることを引き受け、真の革命の成就のためにミツに電話をかける。そこで二人は甘い睦言のような会話を日本語とスペイン語によって交わすのだ。
 だが、「中本半蔵」が綴る作中作はここでいったん中断させられる。作品の外枠部分にいる不乱子が、真楠に対し次のような批判を述べたからだ。
 
 「最後の会話で、私は絶望しました。」「二人が交わったように見えるのは、書かれた文字だからで、最後にその役得にすがるなんて、何のためにこれまでの手紙は書かれてしまい、読まれてしまったのでしょう。文字で交わりたくて、でもどれほど近づいても無理で、それでも交わってみようとするから、あなたは書き始めてしまったのではないですか。だから私は読んでしまい、こんなに離れているのにあなたと交わっているような奇跡的な気持ちを抱いたのです。それなのに、最後に私は突き放されました。私とあなたの思いは通じていなかったのです。というより、読み取る努力をあなたは放棄したのです」
 
 この不乱子の批判は、さきの「あなたが彼の作品をまだ読んでいないことは知っています。読まずに、彼の損失を嘆くことができるでしょうか」という論難以上に本質的なものだ。不乱子が真楠に対して求めているのは、言葉という回りくどい回路を通り抜けたすえの愛情の表明であり、その真正性を担保するのは直截な物言いではなく、「周りくどい」手続きの遵守である。「読まず」に「嘆く」ことが批判されるべきなのは、それが回りくどさの回避であり、「努力」の「放棄」にほかならないからだ。「ここまで説明するなんて、私もなにかを放棄したのでしょうか」と続ける不乱子は真楠の「言葉」をなおも求めている。真楠はこの不乱子の批判に応え、「最後の手紙」として作中作を再開する。そこではミツとジュビアのあまりにも直截的な睦言の場面はすっかり消去されている。
 ミツは首都での革命蜂起のため、大統領府で爆発させるための巨大な金細工の魚の制作にとりかかる。アウレリャーノ老人の手による「カリブ海の水を全部吹き飛ばして砂漠に変えるほど強力な火薬」が詰められたそれは、雨子の体から噴き出す火に反応していつか大爆発を起こすはずだ。グアバの実ほどの金塊に「はあ」と息を吹きかけながら、ミツは爆発物を仕込んだ金細工の制作にいそしむ。
 だが、「艶かしく右へくねる」魚の金細工が完成し、その屹立した姿を見たとき、ミツは自分が「ジュビアとも雨子ともカルロスとも他の誰とも魂の交流をしたことがなかった」ことをはじめて悟らされる。ミツは「はっと息を飲んで」立ち上がろうとするが、これが彼にとって文字どおり「最後の吐息」となる。『百年の孤独』におけるブエンディア一族と同様の運命が、その後のミツにも降りかかる。ミツはカラデーニーニョという「黒くて子供の顔をした蟻」に足元から胸までを覆われ、その姿が「小さな黒い活字」のようだと感じつつ、蟻たちが自分を食べる音を耳にしながら、革命を果たせず、真実の愛さえも知らないまま自分が死んだことを悟る。
 
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 このように見ていくと、「最後の吐息」には、星野智幸の後の作品で何度も変奏されることになる重要なモチーフがすでに一揃い顔を見せていることがわかる。
 マルコス・アウレリャーノ率いる革命軍「アウレリャニスタ」は、「嫐嬲(なぶりあい)」でグランデ、メディオ、プティと互いに呼び合う三人の男女が構成する(赤瀬川原平らのハイレッド・センターを模した)革命的パフォーマンス集団「GMP」として戯画的に再演されたのち、プリンス・シキシマの率いる「毒身帰属の会」(『毒身温泉』)や小学六年生の山下美沙江が率いる「終わる人の会」(「砂の惑星」、『ファンタジスタ』所収)といったかたちで反復される。
 グアバの香りに満ちたイエルバブエナのジュビアの家の印象は、「最後の吐息」のミツ(蜜雄)の後の姿である「北枕蜜夫」の妻・糖子とその息子が丸越という男と「擬似家族」を営む「伊豆箱根鉄道田京駅から歩いて二十分ぐらい」にある家(『目覚めよと人魚は歌う』)や、東京近郊にありながら熱帯植物が咲き乱れる「毒身帰属の会」の古いアパートメント(『毒身温泉』)、さらには『ロンリー・ハーツ・キラー』でモクレンが自分の別荘に設営する「自治区リザベーション」などにその面影を強く残しつづける。
 ミツが雨子との性交から感じる「飴色に濁った異物=毒」は、『毒身温泉』で独身男の永井を襲う自家中毒として描かれたのち、『アルカロイド・ラヴァーズ』では女(咲子)が男(陽一)に対して与える懲罰として変奏され、のちに詳しく見るように、最新作の『虹とクロエの物語』では二十年もの間を母親の胎内で過ごした「胎児」の姿をとって現れる。
 アウレリャーノ老人が彫る「左へ振り向く」魚や「艶かしく右へくねる」魚の金細工は、『在日ヲロシヤ人の悲劇』の冒頭でイワンの腕に彫られた「左翼」の刺青と、そこから連想された「右翼天使」「左翼天使」「無翼の中道天使」として反復されるし、ミツの身体を最後に覆い尽くす「子供の顔をした小さな蟻」は腐乱する自分の身体さえ他人事にしか感じられなくなった永井の屍を覆う無数の蛆虫となる(『毒身温泉』)。
 「家族」というモチーフも、星野智幸の小説には繰り返し現れる。彼の小説の登場人物たちは、自らの「生」の根拠はすでに失われてしまったという前提条件を共有している。そのため、彼らにとっての家族は多くの場合、擬似的な形態をとらざるを得ない。そうした「擬似家族」の最初の例は、『目覚めよと人魚は歌う』に描かれた糖子たちの家だ。糖子はすでに別れた夫(北枕蜜夫)との間の子である、夫と同じ音に名づけられた密生という息子と、インターネットで知り合った丸越という町立図書館に勤める男の家で共同生活を営んでいる。そんな自分を糖子は「幽霊」だと感じるものの、どうしても夫の「蜜夫」と息子の「密生」と自分の三人で構成される「家族」をリアルなものとして感じることができない。
 家族の問題を真正面から取り上げた『在日ヲロシヤ人の悲劇』でも、戦後民主主義者を自任する市原憲三という四十代半ばの男性とその妻、息子と娘という核家族を通じて、たとえ血縁があろうと、架空な人間たちばかりでは真の家族とはなりえないことが残酷なまでに描かれる。
 憲三の娘・好美はアナメリカへの留学から帰国後、「ヲロシヤン・コネクション」という「左翼」系のNGOを主宰しており、ハンガーストライキの途中に差し入れのペットボトルに仕込まれた睡眠薬で命を落とす。憲三の偽善性に対する最大の批判者だった離婚した妻はすでに自殺しており、母の死後、純は熱烈な行動派右翼となっている。
 憲三が「架空の存在」の第一世代なら、その息子である純は、自分たちがそのような存在であることに対してもはや開き直ったかのように次のように語る。
  
 現状でいいじゃないか。孫コピーのコピー、さらにそのまたコピーって繰り返していくうちに、かすれてやがてただの白紙になるんだから。下手に足掻(あが)かなくたって、やがては自然にフェイドアウトするんだ。
 
 現時点での最新長篇『虹とクロエの物語』でも、日本に一家族だけ残った「吸血鬼一族」の裔、イオモリユウジがさきの純の言葉とほぼ同じフレーズを繰り返す。彼らが吸うのは実際には他人の「血」ではなくアイデンティティの核となる情報であり、吸った人間はまるで吸った相手のコピーのような存在となる。ユウジは自分自身を「吸う」ことで、無間地獄のような状態に陥ってしまう。
 
 そもそも、自分らしさの内容を持っていないがために、他人のそれを吸いとるのが、ぼくが「吸血鬼」たるゆえんだ。自分の自我を持たないぼくがぼくを吸ったら、鏡が鏡を映すようなものではないか。スピーカーから出る音をマイクがまた拾ってハウリングを起こすようなものではないか。白紙が白紙をコピーしているようなものではないか。
 
 「オカミ」と呼ばれる世襲制の国家元首をいただく「敷島」という国家の近未来を描いた『ロンリー・ハーツ・キラー』でも、井上昭次という青年がこんな自己認識を切々と吐露する。
 
 俺が原因となって、卵が孵ったり、人が死んだり、風が吹いたり、恋人同士がキスをしたりすることはない。なんという不徹底なあり方。未決定、中途半端、宙ぶらりん、どっちつかず、あぶはちとらず、生ける屍、死せる魂。
 
 純、ユウジ、井上はみな、「最後の吐息」の外枠部分における真楠の生まれ変わり、つまり「架空の存在」たちだが、なかでも『ロンリー・ハーツ・キラー』の井上は、そのことを強烈に意識している。「映像専門学校」の生徒である井上は、共同で卒業制作を行うパートナーとして、同級生のいろはと「最悪」の第一印象のもとで出会う。自分たちはそっくりだという「理解」を次第に深めた二人は、「静かな罵り合い」をしながらお互いの姿を延々と撮しつづけ、その映像を重ねあわせて一本にした『合わせカメラ』という作品を制作する。だが、それは「当人たちにとっては想像を越えた悪夢」となる。
 
 目に見えている世界のすぐ裏に、似て非なる別の世界が貼りついているような、頭が割れてしまいそうなイメージとおしゃべり。しかもそのおしゃべりは対話のはずなのに、実は微妙にずれたタイミングで独り言を応酬しあっているだけ。お互いに関わっているつもりが、現実にはすれ違い、自己完結し、ただ偶然そこにいるだけ。同じ空間に重なって存在し、ほとんど一身同体になっているのに、まったく無縁の人間と人間。
 
 ここに表現されているのは、「屍」や「亡霊」、「架空」で「白紙のコピー」の者たちばかりが住む世界で、そのような人間同士が同志的な関係を切り結んだときに生まれるどうしようもないグロテスクさだ。もちろん二人はこの作品を封印し、二度と見られないようにしてしまう。
 自分が「空っぽ」で「表面だけでできているハリボテ」であり、そこに開いた目と耳という穴から音と光だけが「空っぽの内部の壁」に投影される「存在が映画館のような人間」であり、その光と音を記録している「ビデオカメラと瓜二つ」の存在だと感じている井上という人物の造形は、星野智幸とほぼ同世代である阿部和重の『アメリカの夜』や『インディヴィジュアル・プロジェクション』といった作品の登場人物たちを思わせる。井上が「昭次」という名をもつのも、『インディヴィジュアル~』におけるイノウエと同様、血盟団事件の井上日召をふまえてのことだろう。イノウエ/井上たちは、そのような歴史上の「直接行動主義者」たちの劣化した孫コピーでもあるのだが、現代がそのようなコピーとしてしか人が生きられない時代であることを、この二人の作家はほかの誰よりも強く意識している。
 『ロンリー・ハーツ・キラー』は一見すると、天皇家を題材にした政治小説にみえる。だが、この小説の真のテーマは政治というよりは「生」のリアリティの希薄化であり、その裏側にある「言葉」の希薄化である。物語の舞台となる「敷島」の国では、カリスマ的な魅力をもった国家元首「若オカミ」の急死を受けて、若い女性の「新オカミ」があとを襲う。いろはの恋人ミコトは「この世こそあの世、あなたも死になさい」というメッセージを死んだ「若オカミ」から受け取ったと信じ、すっかり衰弱してしまう。だが井上はミコトのように「ポキッと折れたり」はせず、「若オカミ」の死を契機に自らの思想を純化・先鋭化させ、この世はすでに「死後の世界なのだから、まだ生き残ってしまっている者たちが、死を求めるのは当然」だというテキストを、月面を思わせるイメージの映像とともに、ウェッブサイトにアップロードする。
 いろはは井上のこの言葉に、「懐疑的で、観察の人で、自家中毒で自縄自縛に陥っていて、自意識の空回りに敏感で、そういう人に優しい」人間だった井上を「死者たちの世界」へのファナティックな渇望に駆り立ててしまったのは、ミコトと出会わせた自分だと後悔する。だからいろはは井上に対して宣戦を布告するメールを送る。
 
 このメール見ても死にたきゃ、勝手に死ね。私は生き残って、おまえのもくろみなんか徹底的に壊してやる。
 
 井上はいろはからのメールに動揺するが、ミコトから届いた賛同のメールに感じた「現実感」に基づいて行動する。
 
 私はこれから死のうと思います。ただ、私一人が死んでも、おそらく世界は死にきれず、断末魔の苦しみを続けることでしょう。
 そこで私は、もう一人、誰かと一緒に死へと戻ろうと思うのです。
 (略)
 私は捨て石になります。まず、私が先陣を切ります。もし私の願いを自分の願いと感じて後に続いてくれる人たちが大勢現れれば、この世は真のありのままの姿を取り戻せるでしょう。ニセの生は消え、リアルで自然で本物の、死者たちの世界に帰れるでしょう。 
  
 このメッセージを書き終えた後、井上はビデオカメラの前でミコトと心中死を実際に遂げてしまう。
「生」の側に踏みとどまる決意をしたいろはは、女友だちのモクレンが昇天峠にある自分の別荘に設営した「自治区リザベーション」で、モクレンの仲間たちと共同生活をはじめる。だがここも外部の世界からは井上の思想を受け継ぐ「心中教団」の本拠地だと思われている。「自治区」での生活に疲れはじめたいろはは、水源地として確保している黄泉きいずみの水面に映る姿として井上やミコトと再会する。
 
 泉の姿にかかわらず、私が覗き込めばミコと井上はそこに居続けました。彼らは風のような音を立てて談笑し、議論し、歌を歌います。私はそのおしゃべりに耳を傾け、ときおり茶々を入れ、難癖をつけ、うなずいたり、腹を立てたり、考え込んだりします。
 
 いろはが泉の中に見出しているのは、まぎれもなく一種の楽園、理想郷だ。ここでは「談笑」だけでなく「議論」も「難癖」も「腹を立てる」ことも幸福の一形態なのだ。井上やミコトのいるこの「黄泉」は禍々しさのカケラもない、あっけらかんとした世界でもある。死んだからといって「架空の存在」であることから逃げられるわけではないが、いろはの目には、二人の姿が自治区に幽閉された彼女自身より自由に見えている。そんな思いを見透かされたのか、いろはは二人から「こっちに来てみればいい」と誘われ、ついに水の中に入る。記紀神話やオルフェウス神話とは逆に、この小説では生者の側に残った女を死んだ男たちが冥界へと誘うことになるのだ。
 泉に他人を立ち入らせないためいろはは監視カメラをしかけるが、そのカメラに映し出された最初の人物はモクレンだった。だがいろはは、泉に井上やミコトが現れることをモクレンには教えない。いろははモクレンに自分の弱さを告白し、山荘にいる間もずっと「この島国に流れる時間のメインストリームに、自分の中を流れる時間を合わせつづけてきた」と自身の手記にも綴る。「死と生の境を漂う」井上やミコトとつきあい続ける自分と、「メインストリームの時間」に寄り添ってしまう自分、「その二つのつながらない時間がよじれあって、私を形作っていること」を、いろはは最終的には肯定するのだ。
 決然と行なったはずの自死にもかかわらず、ビデオというメディアに録画されながら死んだことによって、井上とミコトは「不死」を手に入れてしまった。この「不死」はほとんど「生ける屍」と同義である。死ぬこともできず、生きることもできない宙吊り状態のまま、言葉だけが上滑りしていくという彼らの曖昧な状態は、この国の「近代文学」が死に損なったまま、いまなお宙ぶらりの状態にあることを同時に想起させる。
 思えば、三島由紀夫の結成したオモチャのような「軍隊」は、あのことごとしい自死のパフォーマンスを除けば、ただの一度も反乱を起こすことはなかった。一方、(三島由紀夫は果たして読んだのだろうか)ガルシア=マルケスの『百年の孤独』では、アウレリャノ・ブエンディア大佐が三十二回にわたって反乱を起こし、そのすべてに敗北している。だが大佐は負けた反乱のすべてを生き延び、さらに「十四回の暗殺と七三回の伏兵攻撃、一回の銃殺刑の難」からも生還し、自ら放った銃弾によってさえ死ぬことができない。
 アウレリャノ・ブエンディア大佐が最後に安らかに死ぬことができたのは、大佐の抱え込んだ「孤独」にただ一人気づいた母のウルスラのおかげだった。だが私たちの同時代に書かれる「現代文学」には、もはやそのような「母」は存在しえない。「母」の不在が意味するのは、言葉抜きの純粋な愛情はもはや存在しえないということだ。もし言葉抜きでは愛情が成り立たないなら、私たちは言葉によってそれを成り立たせなければならない。すでに「最後の吐息」のなかで不乱子が指摘しているように、「愛情」の不在と「言葉」の不在とは同じ根で繋がっているのである。
 

 
 草木が同じ土地でなんども咲き、実り、また咲きかわるように、永遠に神々が恋をし、結ばれ、生まれ変わり、ときには殺しあう、そんな「楽園パラディソ」から追放された存在としての「女性」を描いた野心作が『アルカロイド・ラヴァーズ』である。この小説が「最後の吐息」の不乱子の問いを受けついだ、「言葉」と「愛」をめぐるまわりくどい思考の跡を綴った物語であることは間違いない。「言葉」が不在な世界にあって「愛」はどうしたら存在できるのか。もし存在するとしたら、それはどのような形をとるのか。植物性の毒にちなんだその題名からは、「アルカディア」という語のひそやかな響きさえもが聴きとれる。
 植物の精である神々はこの楽園で、何度殺されても生まれ変わり、永遠に生きつづける。だが、ただ一人の恋人を「独占」するため、他の神々仲間をことごとく謀殺しようとしたサキコは、子をなすことでしか種を維持できない人間の世界に放逐されてしまう。サキコは罰として人間界では結婚雑誌の契約ライター・田中咲子として生かされている(彼女がそのことをはじめて思い出すのは、三人目と四人目の恋人と同時につきあっているときだ)。
 咲子は区役所で窓口にたまたま座っていた陽一という公務員と暮らしはじめ、会ったばかりの陽一に四人目の恋人だった「詩人」を殺してくれと頼む(この「詩人」は、「最後の吐息」における「革命家」マルコスを思わせる)。また咲子は陽一に「田中」という自分の姓を与え、「千代田区千代田一番地」に本籍を置いて入籍する。だが同時に、陽一の食事にアルカロイド性の毒をもつ植物を微量ずつ加え、緩慢に毒殺しようともしている。そんな咲子の企てを知ってか知らずか、咲子の誕生日に陽一は(咲子がだましてサフランと同じようなものだと思いこませていた)猛毒のイヌサフランをパエリヤの調理に使ってしまう。それを食べた二人は死線をさまよう。咲子はまもなく回復するが、アルカロイドの毒に侵された陽一はまもなく死を迎える。
 『アルカロイド・ラヴァーズ』には、メキシコのお盆にあたる「死者の日」に、ドローレス・オルメド美術館で咲子と出会ったユキというもう一人の女が、物語全体の語り手として登場する。美術館で二人が出会うきっかけとなったのは、針金と粘土に紙を巻いて色づけただけの「骸骨の木」と呼ばれる「人間味あふれる骸骨連中」だ。
 咲子は、この骸骨の木のように自分もなりたい、陽一が死んだら自分を植物のように土に埋めてほしいとユキに頼む。最期を看取る契約を咲子と交わしたユキは、自分が買った東京郊外の中古住宅の庭に咲子を生き埋めにする。望みどおりに地中に埋められて衰弱してゆく咲子=サキコにとって、この家の庭こそが本当の「楽園」となる。
 だがそもそも、サキコたち九人の植物神が生まれ変わりながら暮らしていた「楽園」は、本当に理想郷といえる場所だったのか。咲子から『アルカロイド・ラヴァーズ』という物語の語り手を受けついだユキは、「頭蓋骨の眼窩」が「苔むして緑に光っている」一本の骸骨の木を見たとき、すでにこのような感覚を得ていた。
 
 その緑の光がくせものだったのかもしれない。骸骨の口から、濃密な草のにおいのする息が漂ってきた。わたしはそれを吸い込んだ。骸骨の口や鼻が息をする音が、草を揺らす風そっくりの音となって聞こえてくる。
 
 ユキがここで幻視しているのは咲子=サキコがかつて暮らしていた「楽園」の風景そのものだが、ここには生命の息吹と同時に、死の臭いもまた濃く漂っている。骸骨の木は「楽園」の内と外を区切る境界なのだから、そこから見える光景が両義的であっても当然だろう。ユキが見ているこの光景は、『百年の孤独』でホセ・アルカディオ・ブエンディアの一行が命からがら通り抜けた、「原罪以前にさかのぼる」湿気と沈黙のみなぎった「魔の土地」の姿と重なり合う。私たちはここでまたホセ・アルカディオのあの言葉を、鼓膜の奥で聴くことになるのだ――「わしらは絶対に、どこへも行けそうにないぞ」。
 
 現時点での星野智幸の最新作となる『虹とクロエの物語』は、呪われた「吸血鬼」一族の裔であるイオモリユウジとその恋人クロエ(黒衣)、そして二人の間の子である「胎児」によって語られる奇妙な「家族」の物語である。この小説もまた、「最後の吐息」と同様、やはり『百年の孤独』をつよく意識している。
 物語の冒頭で、母親の胎内で「妊娠二十年」の日々を過ごした胎児は、自分は「頭だけの存在」なのだと自己分析をする。かなりに奇矯なオープニングだが、「頭」だけで「体」がないというこの胎児の姿は、まさに私たちの「現代文学」の似姿といえる。自らの死をもって「近代文学」を終らせるつもりが、カメラの前に姿を晒してしまったために真の意味で死に損なった三島由紀夫の「頭」が、身体を喪失したまま「孤独」をかこちつづけている、そんなイメージがどうしても浮かんでくる。
 胎児が自分の姿かたちを意識するようになったのは、「母」であるクロエが胎児の存在に気づいたからだ。それまで彼女は、二十年前に月経の止まった自分自身のことを「顧みるべき体がない」「自分の輪郭がわからない」と感じつづけていた。クロエが胎児の「父」であるユウジのことを思い出すのもこのときだ。
 ユウジは十六歳になったとき以来、呪われた一族の血を絶つため、異性との交わりを避けて日本の西の果てに位置する五島列島の小値賀(おぢか)島という無人島で自発的な流刑に服していた。
 
 ぼくはヒマワリのように太陽にいつも体を向けている。つまり、ぼくの体はいつも西を向いている。世の中、西だらけだった。どこを向いても西だった。朝から射すのは西日だった。
 
 ユウジが二十歳になったとき、この無人島に虹子とクロエという二人の女子大生がやってくる。島にやってきたばかりの二人が「西の魔力」に魅せられる様子をユウジはこう表現するが、それはかつてユウジが感じたものでもあったはずだ。
 
 この先には何もない。西というのは、時間的にも空間的にもそれ以上先がない終点なのだ。終点とは行き止まりではなく、ただ終わらない時空があるだけ。
 
 このときユウジはクロエに誘惑され、性交してしまう。クロエとの性的な関係は、彼女が「いれば他人地獄、いなければ自分地獄」という苦しみにユウジを陥らせる、どちらの地獄にも耐え兼ねたユウジは、自らの太ももに吸血の管を差し入れ、「この世に間違いなど何一つ存在しないかのような、やたらと肯定的な気分」になるが、その直後に「自分の体が薄くなっている」ことに気づく。自分は「白紙が白紙をコピーしているようなもの」だという認識がユウジに生まれるのはこのときだ。
 ここでユウジに起きているできごとは、性愛の次元と同時に、言葉の次元の問題でもある。クロエに出会う直前のユウジを襲っていたのは、いかに島のなかに身体的に引き籠もろうと、「考えごとをしてしまったとたん、そこには島もなくぼく一人しかいない」という事態、その結果「島のほうから絶縁状を突きつけてくる」という事態だった。言葉によって「孤独」になった人間は、言葉によってしかそれを癒すことはできない。ユウジのいう「自分地獄」というのはそのことだ。「どこもかしこも西であるような灼熱とまばゆい陽光」も、その地獄からユウジを解放するには十分ではない。ユウジを閉じ込めているのは「島」という物理的な境界ではなく、人間関係における「孤独」でもない、「もっと強力なもの」、つまり「言葉」だからだ。
 そんなユウジにとって、「西」とはただの方角ではなかった。ユウジはこの「行き止まり」の無人島から抜け出そうと試みる。杉の巨木を切り出してつくった粗末な丸太の舟に自らの身をくくりつけ、より「太陽のそば」に近づき、舟の上で干からびて、自らの体内から水分がすべて蒸発してしまうことを願って、海へと漕ぎ出す。しかしユウジのこの無謀な舟旅もホセ・アルカディオが海への出口を求めた旅のように失敗に終わるのだ。ユウジを乗せた舟は期待とは反対に東へと流され、人の住む島の岸辺へと打ち寄せられてしまう。
 けれども本当にユウジの旅は失敗だったのだろうか。ユウジの去った小値賀島を二十年ぶりに虹子とともに訪れたクロエは、ふたたび無人となったその島から東へと戻る帰途、ユウジが舟のなかで体験したであろう、「引きはがされていった感覚」を追体験する。
 
 もうあとひと滴しずくが乾いたらヒトではなくなる、というところで、不穏な湿った西風が吹いてくる。湧き起った黒雲は日を隠し、舟は押し戻され、雨が叩きつけ、舟底はたちまち池と化す。縛りつけられて動けないユウジの肌は、意思と無縁にその水を吸い、ユウジは虚無的な笑みをたたえ、自分を浸す真水を飲み下す。それは、この世のものとは思えない甘い露。
 
 ここで再生を迎えているのはまぎれもなく「最後の吐息」のミツの姿だ。「この世のものとは思えない甘い露」とは、ミツが彫った魚の金細工からたちのぼるグアバの甘いにおいのようなものではないか。
 ユウジとクロエの子である「胎児」――「胎児」という姿でクロエのなかに残されたユウジの記憶――は、物語の最後に「母」によって肯定され、愛されたことで、決してコピーではない自らの言葉を発することができる。日本の西の果ての島に自らを幽閉した父ユウジと同様、「どこへも行けない」まま、クロエの胎内で「二十年」を過ごしつづけていた「胎児」の孤独は、このときようやく終わりを告げる。この「孤独」の終りがただちに私たちの新たな「文学」の始まりを告げるものだ、とまではいえないかもしれない。けれども、この作品の結末は星野智幸にとっての「乾季」を終わらせ、あらたな「雨季」の始まりを告げている。そのように、私には感じられてならない。

(了)

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