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【善意は切り捨てろ】

みなさんはこんな経験はありませんか。

例えば

Aさんが困っている時に自分は助けた。
自分が困っている時にAさんは助けなかった。

その時自分は「
あの時助けてあげたのに」と思ったりする、
またそんな見返りを
求める自分が嫌だと思ったりするという経験。

またはその逆で、
見返りを相手から求められたり。

なんだかもやもやっとした経験が
誰にでもあるかと思います。

でも一つだけわかることがあります。

自分がどっちの立場だったとしても、
助けてあげた行為というものは

善意ではなかった

ということです。

見返りを求めたり、
求められたりしているわけですから、
その行為は善意ではないということが
はっきりとわかります。

他人に見返りを求める自分は善意で行っておらず、
見返りを求める他人は善意で行っていない。

では善意の行いとは何か。
まぁ単純によかれと思ってすること。
ではないでしょうか。
しかしそれに
これを付け加えなければなりません。

そのよかれと思ってすることが、
決して身勝手なものではないこと。

これを踏まえないと善意は偽善、
悪意といったものになってしまいます。

例えば
親が子供によかれと思ってすること、
こうしたほうがいい、
ああしたほうがいい、ということ。
これは善意になるのか。

残念ながら善意でないことが多いです。
それは何故か、
学校をみていればわかるかと思いますが、
先生達が『良い子』と思うのはどんな子か。

トラブルも起こさず、
やれといったことをやり、
先生にとって都合のいい人間を
『良い子』とするからです。

そして
大体の親が自分の育児が
なるべく楽になるように、
子供を『良い子』にしたがります。

誰かと喧嘩しない、
勉強もよくでき、
食べ物の好き嫌いもしない、
終いには子供に大成してもらい
自分たちの評価もあがるような子供に仕立て上げる。

今若者達に
親が子供を産むのはエゴといわれるのは
まさしくこの部分です。

しかしここに補足するのならば、
社会も『良い子』を望んでしまっているので、
親たちのエゴだけとは言えません。

社会も『良い子』を強要しています。

「騒ぐ子供は迷惑だ」
「親がしっかりしつけしないからだ」

結局、親のエゴだけと断定し、
全ての責任を押しつける社会にも
問題はあるかと考えますが、
話しがずれでしまいますので
ちょっと元に戻します。

では
人にご飯をおごるのはどうでしょう。
ご飯をおごってもらえれば
大抵の人が喜びます。

人が喜んでもらえると
おごっている本人もも嬉しい。

これはある意味自分の為にやっています。
人が喜んでくれると自分が嬉しいわけなので、
人の為にというより自分の為となっています。
双方winwinの状態なら問題はありません。

ここでもし
おごってもらいたくない
という人が出てきて、

それに対して
「なんだこっちは
おごってやると言っているのに…!」
と思うならば、

それは善意ではなく、
偽善だったということです。

おごってもらいたくない
という人に対して、
そんなこともあるんだと割り切る。

そこで完結する、
ある意味善意を切り捨てなければならない。

自分の思いに応えてもらいたい
というのは「身勝手」になるわけですから。

これならまだいいのですが、
身勝手でも無く、
よかれと思ってやってることが
逆に文句言われたり、
罵倒を浴びせられたり、
踏みにじられる、
そんな事がずっと続くとどうなるのか。

他人に期待をしなくなります。
はじめは喜んでもらえるかな、どうかな
という期待があったものが、
無残にも踏みにじられるとそうなります。

実際どうでしょう。
見返りと搾取の世の中が広がってませんか。

勿論、
資本主義がそうさせていると
言えなくも無いです。

物やサービスはお金を支払わないと
得ることができません。
それはこの社会で生きている以上、
誰もが参加しないといけない
仕組みになっています。

それが日常的に
毎日毎日来る日も来る日も
行っているので、

刷り込まれ、
それが当たり前、
になってしまいます。

なので、誰かが新品の物を善意で、
ただで差し上げます、となると
お金を払わなくてすむわけですから、
よこせよこせもっともっととなって、
善意ある人の善意が搾取される構造に
なってしまいます。

そしてやるだけ無駄だという感覚に
誰もがなってしまうということです。

こういう話しをしていくと、
善意ある行為はないかのように思えますが、
こういうのはどうでしょう。

例えば虫を助ける。
屋内に入った虫を
つぶされないように
屋外に出してあげる。

虫に見返りを求める人、
いますでしょうか。

犬や猫も同じ、
どこかにはまって
抜け出せなくなっている犬猫を助けたとして、
見返りを求めますか?

これは優しさ、善意といえます。

では何故、この優しさがあり
虫や犬猫には見返りを求めないのに、
人間相手には
ついつい見返りを求めてしまうのか。

相手を自分と同じだと思っている。

大体の人が
自分と同じ価値観を
相手ももっていると思いこんでいる。

こうしたらこうしてくれるはず、という期待を抱いている。
挨拶したら挨拶してくれるのが当たり前、かのように。

「何であんな態度とるの」とか
「理解できない」となるならば

自分の価値観が全てで、
他人にも価値観があるという考えに至らず
発言してしまう言葉となります。

自分と他人は
違う価値観をもっているといいながら、
実は自分の価値観で
頭の中は埋め尽くされている。

他人の価値観を知ろうということをしない、
知る必要がない。

他人の価値観なんてどうでもいい、
と思うことは

「自分が全てだ」

と公言しているようなものです。

では何故、
自分が全てなのに
自分と他人は違う価値観をもっているなどと
言ったりするのか。

その要因の一つにまず、
人格者だと思われたい。

あたかも自分と他人は
それぞれ違う価値観をもっていて、
自分は他人の価値観を認めているよ。
ということにしたい。
ある意味承認欲求。

もう一つ、
敵を作らない為。
私はあなたを認めている、
あなたの敵じゃ無いよアピールをすることによって
保身をはかっている。
どちらかというと
こっちの方が多いのではないかなと推測します。

見返りを求めてしまう構造、
そしてやるだけ無駄だという善意、
こんな世の中でどう生きていくべきなのか。

それは自分がその場面にでくわした時、

どう在るべきなのか?

というのを
ひたすら考え、行動するしかありません。

やるべきなのか、
やらざるべきなのか、
やるべきだと答えを出したなら、
そこに見返りがあろうがなかろうが関係ない。
自分はやるべきことをやっただけ。
となります。
そこに善悪はありません。

常にどうあるべきか。
どういう人間であるべきか。
自分の理想では無く、
自分のあるべき理想は何か。
そこに的を絞ったとき、

それは善悪をも超越します。

超越するということは
善意に振り回されない自分になれる
ということです。


あとがき:
真実に興味がない方は多分面白くないです😗

善悪で考えてしまう原因は
主に二つ。

仏教的(大乗仏教的)な考えが蔓延している。
方向性がない。

だから世の中はカオスだと言える。

その中にいるから
自分で考えることが出来ない。
そこから脱するには、

自分がどれだけ
汚く、
愚かで、
弱く、
卑しい生き物であることを

認めないといけない。
そこからでしかはじめられない。

『自分が一番醜い』なんて誰も思わない。

誰もがあいつよりかは自分の方がマシ
って思うから。

自分より下が存在すると思ってるから、
自分はそこまで落ちてないと思うから、
自分を変えようという行為ができない。
自分はこのままでいいんだと。

だからほとんどの人が
自分を誤魔化したまま人生を終えてしまう。

自分という人間を知るのが怖い、
真実を知るということは
実は非常に残酷で、
傷つき、
つまらなく、
そしてとても面倒。
だからほとんどの人が辿り着けない。

でも私は怖いもの見たさというのがあって、
凄く知りたい。

一体自分はどれだけ醜いのか、
自分の本当の姿を見てみたい。
目を背けたくなるかもしれない、
それでも見たい。
見たいんですよ〜😅

まぁ奇特な人間ということです。

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