盤珪-大拙の不生思想 「不生禅~生誕400年」
盤珪永琢は、江戸時代前期に活躍した無師独悟の僧侶。有名な白隠禅師より64年早く1622年4月に生まれているので、今年は生誕400年の節目にあたります。盤珪の名は長く忘れられていましたが、明治から昭和に生きて世界の禅者とも呼ばれている仏教哲学者の鈴木大拙により再発見されました。
盤珪禅師はやさしい日本語で禅を説きました。盤珪の教えはシンプルで、まずは30日間、身びいきや、怒りや不安、疑い、欲などの念を出さずに「不生の仏心」でいなさいと指導します。そして、「不生で一切が調う」と断言します。
これは「そのまま禅」と呼ばれることがありますが、少し違います。盤珪は「不生のまま」とは言いますが、これは「迷いの日常のソノママ」ではないのです。
もう少し詳しくいうと、不生というのは、感情や思念が生じる前の、主客未分の現前意識です。「動くものが見るもの、見るものが動くもの」の「禅意識」です。この「迷いのない現前」を体験させること、そこに不生禅の狙いがあります。思考を外して現前を見れば、あらゆるものごとは今ココに動いていますが、この絶対現在には自他の区別がなく、自分の内外に対象を持たず、従って対立がなく、執着もありません。
さて、大拙は、盤珪の禅を以下のように評します。
そして大拙は、盤珪の禅に「不生の思想」を見い出します。ここがとてもユニークなところで、大拙は不立文字の禅の上に思想を語るのです。代表作の「禅の思想」の、第二篇「禅行為」、「羚羊挂角(羚羊ツノをかくる)」の節にも、「(禅の)今後の発展は恐らく思想方面にあることを信ずる。」と書いています。筆者は、不生思想は21世紀に相応しい現代性・社会性を持っていると思います。
盤珪は、「神や仏や教祖を信じよ」とは言いません。その代わりに、ただ「不生の仏心のまま」でいなさいと教えています。盤珪の「不生」は、ブッダの悟られた般若の智慧を直指しています。不生という言葉の語源は不生不滅ですが、不生であれば不滅は言うまでもありません。私たちは、生死の世界に流転し、悩み苦しみを抱えて生きていますが、それを超えた境地が不生なのです。人間の知性は、たとえば「苦と楽」といった二元対立性の論理の上で働きますから、知らぬ間に、知の二元性に囚われています。不生というのは、そのような知性の欠陥を脱離した「禅意識」を指しています。
それで、怒りや我欲、身びいき、更には「ああでもないこうでもない」という思考の連鎖を止めて、ただ不生でいなさいと。これは、禅宗第三祖、僧璨禅師の書かれた「信心銘」の、「現前を得んと欲せば、順逆を存するなかれ」と同じことです。親の生みつけた「不生の仏心」を、怒りや欲や身びいきに変えずに、思考の堂々巡りを捨て、まずは三十日間、ただ不生のままでいなさいと言います。
そして、盤珪は、不生はうっかりしていることではないと注意を促します。うっかりしているどころか、「不生ですべてはととのう」と断言するのです。不生からは、大悲の活きた働きが出てきます。そうして、不生の場では、知性の欠陥が見抜かれて、世界の見え方が変わってしまいます。ボーっと生きていくわけではありません。とにかく、まずは、不生を体験することが大事です。普段から、不生、不生と心がけていることで、主客未分の「現前」の実働を感得するチャンスが生まれてきます。
Aki.Z
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?