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「当軒の布鼓」大拙の「禅の思想」より

更新 2024年4月14日

 孔子こうしは「四十にして惑わず」と言いましたが、筆者は六十年をかけて、「少し惑わず、なが~く惑わず」で行きたいと思います。それはそれとして、布枠庵ふわくあんという雅号ですが、禅経験の中には枠がないと、それを現したものです。自分もない、他人もない、個物もない。ただし、本当は「無い」というと嘘になるので、自分も他人も森羅万象もありますが、確固とした区分けはない、差別がないということで、固い枠は無いぞという気分を表しています。動見不二どうけんふに現前意識げんぜんいしきとは、そのような場です。それで、枠は有って無い。布製の枠で、まあ、「布枠ふわく」でいいかなと。

 ところで、禅の言葉に「当軒とうけん布鼓ふこ」というのがあります。これは、もともとは、禅宗三祖の僧璨そうさんという人の「信心銘しんじんめい」という禅詩にある「至道無難しどうぶなん」という言葉に由来します。鈴木大拙だいせつの名著「禅の思想」では、達摩だるまの「二入四行観ににゅうしぎょうかん」「安心法門」に続き、三祖の信心銘が解説されています。長いので、ポイントだけ短く編集します。

 第三祖(僧璨)には、既述のように『信心銘』と題する四言百四十六句から成る韻文がある。そのはじめに、「至道無難。唯嫌揀択ゆいけんけんじゃく但莫憎愛ただ憎愛なければ洞然とうねん明白」の四句がある。この意味は、「至道は無難である、なんでもないものじゃ。が、ただ嫌いたいのは揀択けんじゃく(選り好み)で、よいとかわるいとかいう分別すなわちはからいである。これがいけない。それでただなんのことなしに、あれがにくい、これがかわいいなどといわずにおれば、すなわち何かとよりえらびもせず、分別ふんべつの知性にとらえられないでおれば、洞然とうねんとしてほがらかなものである。からりとして差別の相から解脱する。これが至道で無難、何の面倒も、さわりも、こだわりもない。分別の矛盾性は超越せられる。」こういうのが『信心銘』初めの四句の意味である。

【禅の思想】、第二篇「禅思想」、4.「信心銘」


 ところが、ここに、雪竇重顕せっちょうじゅうけんという坊さんが、じゅと呼ばれるコメントをつけました。詩文はちょっと難しいので、さらっと眺めてください。

 〔海の深きに似、山の固きがごとし。蚊蝱ぶんぼう、空裏に猛風をろうし、螻蟻ろうぎ、鉄柱をうごかす。けんたり、じゃくたり、当軒とうけん布鼓ふこ。〕

 最後の二句は雪竇せっちょうが「至道無難、唯嫌揀択」に対する自家の見識を歌ったものと見たい。「当軒とうけん」とは明白の義だともいい、また「のきに当たる」と読むのだともいう。それから「布鼓ふこ」だが、これは布張りの太鼓で、叩いても鳴らぬから無用の長物にたとえたのだという。「当軒」を戸口にぶらさげたと読むと、この布鼓は訪れる人があって叩いても鳴らぬゆえ、内から応と答えて出るものもない。何のために下がっているのか、皆目わからぬ。そんなら下ろしておけばよいのだが、ぶらりと下がっているから始末におえぬ。
 揀とか択とか、黒とか白とか、善悪だとか、憎愛だとか、その外千万無量の分別をやるが、畢竟ひっきょうするに当軒の布鼓ではなかろうか。分別そのものが布鼓だというのではない、無難の至道そのものが布鼓なのだ。この布鼓を分別が叩くのである。したがって分別も布鼓だ。そんならといって、布鼓を除去したでは、なんだか物足らぬ、やっぱり、あったほうがよい、否、始めからそこにあるのだ、なんとしようもないのだ。ただそれをむやみと役立たせようと思いわずらうから、それからそれへと、面倒が紛出、続出する。それもわるくはない、もとより「当軒の布鼓」たることを心得ておれば、分別も多々ますます弁ずではあるまいか。
 哲学者や道徳家や政治家は、やたらに役に立つものを見つけようとする、見つけたうえはそれを何にでも押しつけて、体系化、規格化、機械化などということをやる。どうも布鼓のようにぶら下がっておれぬ。合目的的で、さばけぬ布鼓になりきれぬ。それで圜悟えんごは注を下していう、「親切を得んと欲せば、問ひをち来たって問ふことなかれ。このゆゑに当軒の布鼓」と。問答や論議で形をつけようとするから、禅者はときどきこんな愚にもつかぬ布鼓を持ち出す。

【禅の思想】、第二編「禅の思想」、4.「信心銘」


 ちょっと回りくどいようですが、何度か読んでいくと、味わい深いものがあります。私の「意識の原点」の投稿なども、無くても良い「当軒の布鼓」でしょう。それでも、各自、布鼓の真音を聞くときが来るまでは、禅の真意は理解できないと言うべきなのかもしれません。

Aki.Z


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