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「趙州無字」と「不生」 鈴木大拙の解説

 こんにちは、鈴山です。

 禅で最も有名な、趙州じょうしゅう和尚の「無字むじ」について、鈴木大拙だいせつの解説を見つけましたので、ご紹介します。これは、盤珪禅師ばんけいぜんじの「不生禅ふしょうぜん」の説明の中に出てきます。

 狸奴白牯りぬびゃっこを諸仏以上に評価するのは、狸奴白牯そのものでなくて、人間の意識を通ってきた狸奴白牯なのである。彼らは人間的洗礼を受けて更生してきている。この更生を可能ならしめるものは、反射的無自覚性そのものではない。一般にいう思想ではないが、何かの思想がここにある。無分別むふんべつ分別ふんべつというものである。一句子いっくしはこれを体現していなくてはならない。

全集1巻 15頁【禅思想史研究 第一 -盤珪禅-】、[第一 不生禅概観]


 大拙は、つづけて、趙州和尚の「無字」について、以下のように説明します。長いので、説明文章は一部省略します。

 犬のワンワン、猫のニャムニャムは、あるときは「無」となり、あるきは「有」となる。あるときは恁麼いんも不恁麼ふいんも共に是となり、あるときは恁麼・不恁麼共に不是となる。

 僧あり、趙州従諗じょうしゅうじゅうしんに問う、
狗子くし(犬)に仏性がありますか、ありませんか」
 州はく、「無!」と。

 またあるとき僧あり、同じことを問う。
 州日はく、「有!」と。

 無と有とは絶対に相容れぬ概念である。一あれば他あるを得ない、絶対の矛盾である。しかも趙州はあるときは無と答え、ある時は有と答える。行為の上ではこの矛盾はない。行為そのものが有無相殺うむそうさいであるからだ。(中略)犬と骨とワンと飛びつきとの間には、何らの分析をも入れぬのが、本当の見方である。禅の一句子はこの見方の端的を最も剴切がいせつに人間意識的に評詮しようとする。有無の矛盾、恁麼・不恁麼の相殺を、この一句子のところから見ると、矛盾が矛盾でなくなる。

全集1巻 16頁【禅思想史研究 第一 -盤珪禅-】、[第一 不生禅概観]


 ここにも、大拙のいう「禅の思想」、すなわち「矛盾同一むじゅんどういつ」が見てとれると思います。もうひとつ、大拙は不生禅ふしょうぜんについて、つづけて、以下のようにいいます。

 盤珪ばんけいの不生禅は、反射的と見られるワンと有無相殺の分別難を、解消するところの大慈悲の一句子である。

全集1巻 16頁【禅思想史研究 第一 -盤珪禅-】、[第一 不生禅概観]


 分別難ふんべつなん、行為の上では有も無も無く、何の矛盾もないものを、分別が難しくしてしまう。私たちの日常の苦悩は、なんだかんだと口を出したがる知性・分別の堂々巡りに起因するわけです。でも、盤珪ばんけい禅師の「不生」の一句を飲み込めれば、分別は無分別の英知に道を譲り、日常のあらゆる苦悩は解消されるということになるのです。

Aki. Z


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