悪口

人に言われて嫌なことは人に言わないようにしなさい。
こういう規範というかマナーのようなことを叱らた時に言われたことは、人間をやっていれば一度か二度は人から言われたことがあるのではないだろうか。
そして、その中で真っ先に頭に思い浮かぶのは悪口だと僕は思う。

悪口といっても当然のように色々あり、中にはもう出るところに出るしかないようなものに始まり、親しい間柄でからかいの意味を含めてやるやりといまで幅広くあるかと思う。今回は、その範囲の名から中途半端なところの、ムカついたからいうみたいなシンプルな悪口の話をしたいなと思う。出るとこ出るやつや、親しい関係性由来の悪口は当人同士でやってもらうのが一番いいので、そのことは一旦忘れてください。僕の出る幕ではないです。


僕は悪口が好きだ。理由は、その人の人間性や価値観が垣間見れるからだ。
そこには、褒めることよりも濃密に凝縮された語り手の個性や人生観が詰まっている。

褒めることの一例として、お世辞から考えてみたい。
例えば、相手からの受け取られ方はあまり考えないことにすれば、褒めること自体はそう難しくはない。お世辞とはそういうものだ。そこにはうまいか下手かの差だけだ。相手のメンツのために語る言葉であり、自分の立場を保つのために紡ぐ言葉だ。洗練されたお世辞を語ることはきっと非常に難しいけれども、そういう役割分担をしていると察してもらえればまずは十分なことだと思っている。
(もちろん、尊敬の念から出る想いのこもった言葉はあるんですけど、それは悲しくも他人からは見分けはつかないんですよね。真に出た気持ちも、偽ろうとする気持ちも、辿り着こうとする点はそう見えるようにすることなので…)

しかし、悪口はそうではない。それは相手のメンツに泥を塗りに行く行為であり、自分の立場を強くするためのものだ。つまり、どう足掻いても究極は自分だけのための言葉なのだ。己が正当性を証明するために語られる言葉だ。相手の価値観に合わせるのではなく自分の価値観に適合させるために出てくる言葉だからこそ、そこにはその人の価値観が強く宿る。
どうしても許せないもの、認められないもの、否定しなければならいものがあるからこそ、相手をどうすれば自分の正当性を認めさせられるのかという問いが生まれ、その答えが悪口となる。

あなたの理屈は間違っている、お前みたいなやつの言うことに耳を貸す価値なんかない、アイツこんなこと言ってるぜ皆聞いてくれよと、様々なタイプの切り口がある。
それを誰になら理解してもらえると思って話すか、間違えているのは嫌いなその人だけだと思って話すのか、誰にも理解されずとも自分はそれは過ちだと主張し続けるのか。簡単に分類するだけでもこれだけの視点がある。
僕たちは悪口を言うときはこの中から最も正しいと思うものを選択し、自身の悪口は正当なものであると証明すべく自分の価値観の中から骨組みを作り、人に共感してもらえるように肉付けする。日頃人間をやっていて、ここまでの言葉に出会うことはそうないと思う。だから僕は悪口が好きなんですよね。聞き手が問うに値する背景がそこにはある。


正直、昔は自分の悪口を聞くともの凄くショックを受けてるタイプだったんですけど、こう考えられるようになってからは、何故ですか?教えてください!の気持ちが強くなった。
人の悪口を言うにしてもそれだけのパッションしかないのかとか、人に共感してもらうのにユーモアの一つも交えられないのかとか、嫌いの一言しか言語化できないのかと思うと、何だか人間らしさを感じられてとても元気になりますよね。受け手がただそのままに受け取る必要はない。

いやいや、これは僕の性格が悪いんじゃないですよ?悪口を語ったものが背負うべき責任ですから、自分だけ殴れるって思ってるのはお角違いなのでほんと。え?キモい?マジですみません……。悪口はやめてもらっていいですか?


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