感想

皆様、GWはいかがお過ごしでしょうか。僕は、引っ越し作業をやるつもりでいましたが、新居がまだ入居できない状態なので予定なしになってしまいました。その持て余した時間を使って、最近読んでハマったゴールデンカムイの感想でも書こうかなと思います。と言っても、自分の好きなキャラクターである尾形百之助の話ばっかりなんですけどね。


最終話までのネタバレを含むので、まだ最後まで読めていない人はこのページを閉じてください。ネタバレしてもいいやと思う方だとしても、何もこんなところでネタバレを食らうことはないと思うし、というか無料公開されてるんだから読んでほしい。頼む、読んでくれ。
後、これは僕が読んだ感想で、話も2回読んだくらいだから漏れているところも多々あります。解釈違いは当然あるから、そこはそういう見方もあるんですねで流してくれると嬉しいです。そしてあわよくばあなたの感想も聞かせてほしいですね。



最初の印象

僕がゴールデンカムイを読み始めたきっかけは、TwitterのTLで無料公開されているので読んでみて、面白いよと勧められたからだ。時折、TLでオガタオガタと呪文が聞こえていたので、何か魅力的なキャラクターがいるんだなと思っていた。

最初読んでるときは、よくわからねえなコイツというのが正直な感想だった。他のキャラクターがある程度やりたいことが示されているなか、尾形だけは何がやりたいかが今一つ見えてこない。
「親殺しってのは……巣立ちのための通過儀礼だぜ」「テメェみたいな意気地がない奴が一番むかつくんだ」といって日泥の親父を射殺したシーンで、かっこいいけど何でそんな感情的になってるかが不思議だった。

網走監獄に行くまでの道中も、銃の扱い方についてかなりしっかりしている描写がある一方で、でも何故そうするようになったかがよくわからない。

監獄ではウィルクを射殺し、杉本も射殺しようとした。金塊争奪戦を有利に進めるためというのは理解できるが、では何故そのやり方をとるのかは全然ピンと来なかった。

樺太でアシリパを一人連れだして、金塊の在りかを解き明かすヒントを聞き出そうとしたときは、金塊を独り占めしようとしてるのかと思っが、今一つピンと来なかった


ところが、アシリパを挑発して殺せるか試そうとしているところで、もしかして尾形って皆が金塊争奪戦やってる横で一人別の戦いをやってる説ありえる?と思った。

尾形自身に掲げるべき信念がないから、人の信念を試すようなことをしてその強度を確かめることで掲げるに値する信念とは何かを探そうとしているのだろうか。だから日泥息子が信念を掲げるために邪魔になる父親を殺せない時に、その弱さが目に入って興ざめしてあんなに感情的になったのではないかと思った。
勇作が戦場で殺しを拒んだときは、自身の内から組み上げられた信念ではなくて父親の掲げた信念を守ろうとするがためだったという点に興ざめし、そんな人間が周囲の兵から人望を集める様子が認められなかった。だから後ろから撃った。

まあ、これは僕の間違った解釈だったんですけどね。やはり俺ではだめだったか・・・。全部わかってくれるのは鶴見中尉殿だけでした。

鶴見中尉の答え合わせですべてを知った後に読み返すと、また違った視点で見えてきました。

日泥親子の喧嘩感情的になったのは、日泥息子が罪悪感に囚われて父親(血縁関係はないけどそれはそれで)を殺せなかったところが、尾形が血のつながった父親を殺してしまったことへの挑戦のように見えたのかなと2回目読んだときに思いました。

最後には決定的な決別(愛情関係の終わり)を迎えながらも、尾形が自身よりも圧倒的に弱い日泥息子が父親に「おめえの愛情なんていらねえよ!」なんて啖呵を切って生きていくのはそりゃ認められねえよな、殺すしかないよなと思いました。もしそうだったなら、やくざの喧嘩も金塊戦争も本筋じゃなくて一生別の戦いやってるな、流石尾形さんなんて思ったりしました。


尾形と宇佐美

しばらく話が進んでからの、宇佐美と尾形の回想シーンはとてもいいシーンでした。1回目読んだときは、後は道を歩くだけになった異常者(宇佐美)と道を探し続ける異常者(尾形)との対比で、宇佐美の道を進み続けるが故の欠点と尾形の見つけられないが故の弱さらしきものとが読めました。

いい対比だなと思ってたんですけど、2回目読むとやはり見えてくるものが変わりましたね。宇佐美も尾形も異常者に分類されてしまうタイプなんでしょうけど、宇佐美は自身がこれと認めた結論を持っているので別に異常者ではないと考えるタイプで、尾形は自身が異常者ではないと確かめようとしているので異常者ではないと考えるタイプに僕は思いました。どっちも自己評価がバグっているから異常者なんでしょうけど。多分、普通はその自己認識に耐えられない気がします。

やや話が逸れるんですけど、だから多分月島が普通なんですよね。バグった自己評価に耐えられないから、舞台に上がってしまった鶴見劇場を演じつつ見て遊ぶほかなくなってしまう。1つの耐えられないことがあるために、他のすべてを耐えるほかなくなるんですよね。そして耐えられる能力があった。一番人間らしいんです。


異常者は異常故に惹きあうというか、他に居場所を見つけられずに集ってしまうですけど、決して分かり合えないんですよね。何故なら異常者だから。妥協できるなら異常者にならないし、妥協しないなら最後は互いの存在を認めないしか選択肢が残らないんですよね。その結果、宇佐美と尾形は分かり合えなくなるんでしょうね。

一方で、宇佐美が月島を許せるのは普通だからなんでしょうね。月島が耐えてるところで、宇佐美は多分自然体でいる。そりゃ眼中にも入らないよななんて思ったりしました。

尾形は、月島のことをどう思ってるんでしょうね。邪魔な敵ぐらいにしか思ってないような気もします。


この宇佐美の回想後、尾形が射止めた鳥を持って帰ったところに、土方から

「では狙撃兵は完全復活したわけか」

「いいや」「狙撃兵は「人間を撃ってこそ」だ」

と締めくくってからの後の宇佐美射殺は痺れましたね。途中の尾形の粘り勝ちまでの戦闘シーンはもちろんかっこよかったんですが、先のフラグ回収の方が芸術点が高くてそちらの方が印象に残っています。漫画がうまい。


尾形と宇佐美が戦って、尾形が勝つのは良い展開でした。このシーンの魅せ方も当然あるんですけど、互いの優先順位の問題なんですよね。宇佐美は鶴見中尉の一番であるがために行動するなので、生死は大きな問題ではないのかなと。尾形は自分のような価値のない偽物が、周りが偉大とする(価値がある)父親と並び立つことで、周りが顧みなかった無価値な自分と価値のある父親や勇作の間に差はないと証明したいが行動の根っこなので、死ぬわけにはいかないんですよね。生きて無価値を証明しなければならないんです。

もしも尾形がやりたいことが悪魔の証明ならできないので匙を投げられたかもしれませんが、無価値の証明は不可能ではないのがおそろしいとことです。尾形はできてしまう能力があったんですよね。


そんな動機なので、泥をすするならぬ弾薬をすすってでも生きるしか道はないんですよね。自身を無価値である、偽物である、だが間違えていない。これを示し続けるには生きなければならないし、成果も出さなければならない。つまり、どんな手を使ってでも金塊争奪戦争を生き延びて主導権を握らなければならないということにつながると思います。

この理屈は、殺されるような異常者である(殺される道理のある、ただの人)宇佐美には葛藤は起きないのですが、アシリパ(殺される道理がなくて自分のことを見てくれる人)にはすこぶる相性が悪いんでしょうね。


そう考えると、「ありがとよ宇佐美」「お前の死が狙撃手としての俺を完成させた」のセリフも変わった意味でも見えてきますよね。「良い狙撃手とは…冷血で獲物の追跡と殺人に強い興味があるような人間である」と合わせると、持つ含みがかなり変わってきますね。積み重ねのなせる技です。

まあこれは、技術が回復しただけじゃなくて進化したぜの意味だと思うので、流石に深読みかと思うんですけが、もしそうだったら末恐ろしいセリフですよね。漫画がうまいとしか言えねえ。


地獄列車にて

さて、狙撃手として絶好調になった尾形は、函館戦争でヴァシリとの争いに勝った後、暴走列車に乗ります。鶴見中尉にお説教(真の狙いを指摘)され、非常にいびつに喜んでいましたね。

無価値の証明といっても、証明するからには見てくれる人が必要で、それが有象無象ではなくて鶴見中尉であったことがポイント高かったのかなと思いました。自分の意図を組んでかつ自分を見てくれる人というのは尾形が欲しかったものですし、それが無価値の証明にも繋がるとなれば文句なしですもんね。失った軍神の影ではなく、失われる軍神の姿を見てほしいわけですから。鯉登少尉にも、月島にも、宇佐美にもこの役割はできません。


鶴見中尉と仲直りというか脅してから、いよいよ杉本と再会してバトルが開始しました。再会というか、不意打ちなんですけど。

杉本に言及するのが今になってというのもあれなんですが、実はここの無言の刺突のシーンは結構好きなんですよね。目の描写も相まって、殺意というものが最大に感じられます。

会話も、杉本からは「元気そうで嬉しいぜ尾形」「ぶっ殺してやる」だけなのも良いですよね。お前はアシリパではなく俺が殺すんだという明確な意思が伝わります。意思が強すぎるせいか、ヒグマが出てきてしまいましたが……。


杉本がクマと力比べをやっている横でアシリパ登場。尾形からの「あれから誰か殺せたか?」の問いかけに、問答無用で射貫きました。あれ、読者目線だとまだ誰も殺していないのがわかるんですけど、尾形目線ではわかりません。そして、読者も射た矢を見てからアシリパの独白を聞くので全員面食らうシーンなんですよね。そのあと、杉本が誰よりも早く(多分読者よりも)悟った表情をするところは、こいつらは相棒だなとわかるシーンなんですよね。いい答え合わせのシーンです。


射られた尾形は、純粋無垢な人であっても、人は殺せる。という答えを得ました。だから、人を殺せる俺は間違ってはいないし、そんな俺ですら辿り着ける第七師団長なんて大したことねえぞというように考えたのかなと僕は思いました。

だから、後はアシリパと杉本を倒し、この金塊争奪戦争を収めて鶴見中尉を暗躍させて、尾形百之助少尉になるところから始めようと思っていた…がだ。


答え合わせ

勇作の影が視界に入り、自身との答え合わせが始まる。罪悪感。

自分は愛情のない人間から生まれた欠けた人間であるから、罪悪感を持たない。自身に愛情を与えてくれない(自分のことをみてくれない)母親からは愛情が何かを自身に示してもらえず、その母親が愛した父親は母親の葬式にすら来なかった。自分の家族には愛がなかった。その一方で、嫡子である勇作は父親の愛情を受け、旗手という象徴的役割まで得ようとし、それを満たそうとした。

その勇作を、尾形が自身と同じ人間であると証明するために殺しをさせようとするも、勇作から、躊躇なく殺しができる人間がいていいはずがないと言われた。自分が持たないものを持っている者から、自身の欠落を指摘された。いや、そんな存在は間違っていると否定すらされた。勇作は人間を信じる愛情をもつが故に誤りを指摘し、尾形は人間を確かめたいが故に誤りを犯すほかなくなった。

勇作を射殺しても父親は自身を顧みず、自刃のときに答え合わせをしても異常者としてしか扱われなかった。

だから尾形に残された選択肢は、自分が異常者であることを否定して父親や勇作に並ぶ存在となることで、自分もお前たちも価値がないんだと証明するか、鶴見中尉の軍門に下るかであった。尾形は前者を選んだ。だから月島にはならなかった。

そして、アシリパを通じて答え合わせをしようとした。二度の試みを経て、答えは得た。しかし、アシリパに殺意を向けられることで、それまでアシリパから与えられていたものに気付けるようになったのではないか。殺意という憎しみを受けることで、今まで与えられていた愛情に気が付いたのではないか。その愛情を台無しにしたことに、罪悪感を覚えた。尾形自身が自分の手でなくしてしまったと。

そして、勇作以外から愛情を受けることで勇作の対応が愛情であることを理解し、それが勇作の影となり、その正体は罪悪感であった。

それに気づいたからこそ、自身は欠けた人間ではなく欠けていると思っている人間であったと自覚した。つまり、無価値な人間ではなく、無価値であろうとするまがい物だと知ってしまった。尾形は異常者ではなかった。宇佐美のような欠落した人間ではないから。

無価値の証明は自分が生まれた時から異常者であるからこそ意味があるもので、異常者でないなら意味がないと思うんですよね。普通の人間ならこんな背理法みたいな回りくどいことをしなくても、普通に確かめられるわけですから。異常者がやるからこそ無価値の証明に意味があったのに、自身が普通であれば、すべてが間違いだったことになってしまう。

そのことに気付いた結果、己の左眼に銃をあてがい、打ち抜いて自殺した。


尾形は救われたのか?

先に僕なりの解釈をひたすら書き連ねました。その解釈のもとに話を続けますね。異論はたくさんあると思うので大丈夫です。


最後の最後で、答え合わせを終えて、尾形は救われたのだろうか。

僕は救われたと言いたい。尾形は、無価値の証明をすることにその命を賭けていた。自身が欠落した人間だという前提から、そうでない人間と同じになることで、父親と勇作と同じ場所に立とうとした。いうなれば、引きずりおろそうとしていた。

それが、欠落した人間であるという前提が崩れ、自身が父親と勇作と同じ人間であることに気づいた。自身が同じ場所に立つことができた。

また、愛情が与えられなかったと信じていたが、アシリパとの関わりを経て、愛情の存在を感じられるようになり、それが一時でもあったことを想像できるようになった。

だから、尾形の内面世界で「嬉しいか」「アシリパは俺に光を与えて俺は殺される」とのやりとりが続き、「あぁ…でも」「良かったなぁ」と続いていった。

尾形は祝福を受けた。自身が生涯をかけて証明しようとしたことがアシリパにより逆説的に証明され、それ故に自身が生きるべき理由を失うと同時に己の罪に向き合い、殺すしかなくなった。これをどう感じるかは、まあ好みの話だと思うけれども、僕は救われたと思っている。


尾形と月島

最終話の月島と鯉登少尉とのやりとりで、月島が救われた!というコメントはTwitterでいくつか観測した。実際、行き場をなくした月島に道を示し、鶴見劇場という楔を打ち壊した鯉登との道は美しく思えた。良いエンドだったと思う。

それを踏まえたうえで、尾形と月島の対比をして最後の話にしようかと思う。(「ヤマネコの死」は随所でクソでか感情の感想を見まくったから僕にはもう書けねえ。Twitterでみてください。)


結論から言うと、月島は最後まで救われなかったのではないかと思った。月島には祝福は訪れなかったのではないかと。不幸にならなかったし、闇落ちもしなかったと思うが、それまでじゃないのかと。

尾形は、最後の最後まで答えを求め、導き出そうとした。その果てに答えを得て祝福を受けると同時に己を殺した。己の信じたものを確かめることができた人間は、刹那の時間であるといえども、救われたと思う。(信じたいが一番近いのは否定しません)

一方で、月島は答えを求めはしたが、導くのではなく、見届けようとした。だからその果てが海での鶴見中尉探しとなった。果てない海での捜索活動には耐えられたが、鶴見劇場の観客をやめることは耐えられなかった。だから鯉登少尉のような真っすぐな人間がいて初めて、耐えられない状態から降りることができた。周りの助けがあってようやく別の方向を向くことができた。とても人間らしい結末だった。

誤解のないように断っておくと、月島のことは好きだ。人間らしくてとてもいい。ただ、尾形が救われたと唱えるには、月島との対比があってこそなのかなと思った。(宇佐美は異常者だからダメです)

鶴見劇場から自力で降りた尾形と、鶴見劇場から鯉登団にスカウトされ移籍した月島。どちらが優れているというつもりはないが、救いがあるとするのならば、最後まで答えを求め続けた尾形にこそ与えられるものではなかろうか。だって月島には鯉登少尉いるから。悪くないはずだ。


余談

話の展開上、入れる場所がなかったのですが、書きたいことが残っていたので追記します。

尾形が自身の左目を打ち抜くシーンが僕は一番好きです。自身が欠けた無価値な人間だと認識している尾形が唯一人よりも圧倒的なものを持っていて、それが射撃能力です。これがなければ尾形は無価値の証明に挑めず、鶴見劇場にあがって踊り果てるしか選択肢はありませんでした。

狙撃手として最も優れていたからこそ、尾形は金塊争奪戦争においてトリックスターとして動くことができた。尾形を尾形たらしめるアイデンティティーであった。だから銃が話題になると我が出る。そんな狙撃手たる尾形にとって眼は欠かせないものであった。

しかし、樺太にてアシリパの誤射で効き目の右目を失った。そこから左目だけで地道な努力を重ね、ついには建物越しの宇佐美キルみたいな離れ業をやってのけるほどに成長した。尾形を語るには狙撃は切っても切り離せない要素である。

そんな尾形が、最後に己を殺そうとするときには残った左目に銃口を当てた。この意味を考えたとき、一瞬呼吸が止まってしまった。1回目読んだときから、一番好きなシーンです。完全な解釈ですけど、尾形のあれは死にたいからの自殺ではない。殺してやるの自分殺しだ。じゃなきゃあの尾形が自分の眼を打ち抜く理由がない。己の無価値の証明には失敗したが、自身が同じ人間であることに気付き、それまで犯してきた行為を自覚し、殺すしかなくなった。結末は死であったが、それは祝福を受けたが故の死なのだ。

と僕は信じています。


結び

尾形は確かに救われた。これを書きたいがために書きなぐってきました。なので、主人公の杉本はほとんど出てこないし、白石にいたっては今初めて書いた。まじで尾形の話しかしてないですが、書きたいことが書けて良かったです。

今回は書いてないだけで、杉本と白石の関係とかめちゃくちゃ好きなんですよね。他にもあれよかったなみたいなのがたくさんある。でもまあ、やりたいことをやりきったので、今回はこの辺でということで。

野田先生、面白い作品をありがとうございました。無料公開でみただけなので、ゆっくりと単行本を買っていただいたものを少しでも返していきたいと思っています。

本当に長かったですが、ここまで読んでいただいてありがとうございました。それでは。

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