0120「本当は貧乏になりたい?」

今日読んだ記事でちょっと触れたいものがあった。彼とは少々所縁があるのでタイトルからして彼らしいな、と思いつつ少しワクワクしながら読んだ。

詳細は記事の本編を読んでいただきたいが、私が感じたことの要旨としてはこうだ。

・人間の幸福度は日々の感情の振れ幅に影響を受ける
・収入を増やすことは大変な上に幸福度の向上に直接結びつかない
・お金がない状態の方が日々の感情の振れ幅を大きくできる機会がある
・お金がなくてもスキルや人脈があれば生きていける

この記事を読んで、私は彼の発言に概ね共感できる。まず前提が概ね共通で、私自身も有難いことにこれまで生活に不自由したことはないし、あえて快適とは言えない国にバックパック1つで旅に出たりしたことは何度もあるし、人生の大きな難題を乗り越えた人に対して引け目を感じたりもする。
お金を手にすること、貯めること、お金を使って何かを得ることよりも、自分で頭を使って工夫して自分が作りたかったものや誰かに届けたかったものを作ったり、大したお金にならなくても自分や誰かの課題を解決したり、その中で誰かに助けてもらったりする経験の方が幸福度を上げるということも経験から理解しているつもりだ。
会社での仕事が評価され、より高くなった年俸が記された通知書を受け取ったときも嬉しいが、自分が手弁当で1から作った小さなサービスに対してたった一人のファンがコメントをくれたときの方が何倍も嬉しかったし、もし今、一度全財産を失ったとしても(シチュエーションによっては少しの間軽く絶望するかもしれないが)楽しく生きていけると思う。
この考えにはまず私がキリスト教徒であることが間違いなく影響しているし、堀江貴文さんの本の影響も受けているかもしれない。ただ、あらゆる場面で技術が進歩し、生きる上で人間がやらなければいけないことがドンドン減っていく世界において、お金が「生きること」に対して持つ価値は低くなっていくことは確かだ。

ただし貧乏になりたいとは思わない

ここまで記事の内容を肯定してきたが、「本当は貧乏になりたくないですか?」というこの記事のタイトルに反して、私は現時点で貧乏になりたいとは思わないことを告白しなければならない。なぜならこの記事で伝えたいことの本質は貧乏になることではなく、お金から自由になることで人生が楽しくなる、ということだからだ。
自身が楽しいと思うことや、やりがい、使命感を持ち、幸福度が高い状態でお金が溜まっていくならそれは幸せな状態だろうし、そのお金を使ってさらに新しいチャレンジ(事業でも遊びでも良いが)もできるだろう。
要はお金を稼ぐことや貯めることを目的とせずに、自らが今すべきこと、何に幸福を感じるかを真剣に常に見つめそれに向かうことが重要なのだと思う。
確かに一度貧乏になることでその視点を保ちやすくなるかもしれないが、もし貧乏になることが目的化するのであればそれこそまだお金からは自由になれていないと言えるだろう。
実際、この記事のタイトルは「本当は貧乏になりたくないですか?」だが、記事の中でも直接的な意味で貧乏になることを勧めてはいないし、「本当はやりたいことがあるのに貧乏になることを恐れてできないのでないか?」という意味でこのタイトルの疑問文は使われている。

そういう意味でやっぱりこの記事には概ね同意だ。

高年俸に目が眩んで

ここからはこれまでの話を半ば強引にサッカーに結びつけるお時間だが、サッカー選手の移籍に関して、たまに移籍元のサポーターが移籍する選手を批判して、「高い年俸に目が眩んだ」という言い方をすることがある。そのときお金に縛られているのは選手なのか、その批判をしているサポーターなのかは注目に値する観点ではある。

確かに高い年俸に押し込まれて自身の本当の幸せと向き合わないまま移籍をし、人生の幸福度を下げてしまったプレイヤーもいるだろう。しかしもし移籍する選手が年俸以外の条件に大いにひかれ、年俸の高さは+αの意味しか持たないとしたら、むしろ批判している側がお金の部分しか見えていない、お金に縛られた状態と言えるかもしれない。

北海道コンサドーレ札幌から今オフ移籍した都倉選手に対して、一部のサポーターから「倍になった年俸に目が眩んだ」旨のコメントがあったが、私は都倉選手が移籍した理由は決して年俸の高さだけではないと思う。

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