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きれいな虹を見るくらいの頻度で

こんな歳になっても、不意に気分が深く落ち込むことがある。それはきれいな虹を見るくらいの頻度で起こる、定期的に。と知っていれば、それなりに心構えはしておける。

そんなとき、若かった頃の自分は気分が晴れるのを、まだか?いつまで続くの?まだ?とただ、イライラしながら待つことしかできなかった。

でも、歳をとった今はちょっと違う。

この落ち込み具合は今まで経験したものとそんなに変わんないな!とか、もうちょい、強いの来ても大丈夫だな、とか、落ち込み具合を比べている自分がいる。

また来たんだね「久しぶり!」と、声をかけてみる。そのくらいの余裕はあるよと、どん底の自分自身に見せつける。

そして、こんな気分の底にいるときに聞こえてくる雨音や虫の音に、耳をそばだてている。無意識に。

この底しれぬ優しさ!多分気づかなかっただろうな、こんな気分にならなかったら、すごな~深いな~!癒してくれているんだな~、と感じている自分がいることにも気がついている。

何かの拍子にポンと起きるちょっとした出来事。それをきっかけに始まる恐ろしい展開と避けられない気持ちの落ち込み。

それはいつも、いろんなことが上手くいっているときに、前触れなく、ひょっこりと顔を出す。

そんなときにこの展開にまともに気持ちを同調させてしまうと、そのきっかけを作ったひとを傷つけるようなことを言ってしまったり、物を壊してしまったりして余計に落ち込んでしまうことに。

そんなときは、よし、わかった。
こうなったら、この気分でしか、味わえない音、こんな気分のままでしか、見えない色、形、こんなときにしか、思い付かないことを思い付いてやる!!と。

気持ちの落ち込みの深さに応じたモノの見方、感じ方のチャレンジ。

きっとこれを経験するためにこんなことが起こっているんだ、誰かや自分が悪いわけではないんだと、思ってみる。

すると、こんないやなことが起きたけど、雨っていいな~とか、ただ虫が鳴いてるな~とか。こんな優しい気持ち、こんなモノの見方、考え方を体験できて逆によかったじゃん、とまで思えてくる。

そのころには、もう、落ち込んでなんかいない。

今度は自分が誰かのためにその雨音や虫の音になれんるじゃないか?
そんなまっすぐな気持ちになっている。

そしてそれは、雨音や虫の音と同じように、自分ができることをできるだけ精一杯やっているとき、誰かを癒そうなんてことをこれっぽっちも思っていないときに、癒しはなぜかそれを必要とするひとに自然と起こってしまうようです。

うれしいことも、うれしくないことも、まるで天気のように、定期的に起きては去っていくだけ。

何が起きても、自分に必要な経験のみが起きていると思えるとき、いつも感謝の気持ちを持つことができる。

それってすごい!といいね👍️ボタンを10回くらい押したい!

と、ここまで書いたらやっと気分が晴れてきました。

ん~、これはnoteのよい使い方かもしれませんね!


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