見出し画像

木陰の虹

4月の終り。
花のおわった桜の木の下。
友達と寝っ転がって木陰にとけ込む。友達は詩の朗読を始めた。

右腕で眩しい陽の光を遮り、指先に小さなアブが止まったり、離れたりする様子を観察しながら、音読される詩に入っていく。

まず、彼の大切な人が書いた詩が読まれ、次に彼自身が書いた長い詩が音として放たれた。木陰ギリギリまでいっぱいに展開された言葉の音。ついでに、自分の短い詩でその言葉の隙間を埋めてもう何も入らいないきっちりと詰まった木陰となった。

虹の君

さまざまな条件が重なり
虹は現れた

さまざまな条件が重なり
今、君はここにいない

雨上がりの空のこの虹が
消えるまで、せめて、
ここにいよう

この儚さに我をわすれて

ソイ

後から思い返してみれば、なかなか無いとても幸せなこの世の一瞬かな。
 
友達は詩における比喩や隠喩についての説明から、言葉それ自体に意識があり、ひとつの生き物として人をその活動の場としているんじゃないか?という面白い話になってきた。

そんな幸せなひとときは本当に一瞬で、その断片は僕たちの記憶以外にはこの文章にわずかに残すのみとなった。

音のない文字と音として読まれた言葉。水と空気と勢いをます草、鳥のさえずり、空を飛ぶ飛行機。

とても静かな場所がある、それはすぐ目の前にいつもある。そこへは歩いていくことはできない。車でいくこともできない。そこへは起こっていることのすべてをただそのままに受け入れるだけ、それだけでもう、僕たちはそこにいた。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?