20220722

自分は本日100円を拾うた。
自席の隣に100円が、誰にも気づかれないようひっそりと存在しており、自分は気が気でなかった。拾うたのは、人の話を聞くにあたって散漫になるから対象を除去したなどという立派な理由ではない。現に人の話を聞いている間にはその100円に触れなかったし見もしなかった。盗みがばれるからだ。そう、この100円を財布に入れるは窃盗であると理解していた。自分は100円を1円100枚分の価値があるものとして見ており、またその価値が欲しかった。100円は小銭であるということは諸君にも同意していただけることかと思う。だから、普段規律正しく、義理固い自分が、「窃盗である、罪である」という意識を押してまで路傍の硬貨を財布にしまうことはない。見逃す(処理を他人に投げる)か届けていただろう。しかし今の自分は金銭に不安がある。おそらく、借金をするほどのことに発展するまではないが(不安な状況に即して未来に頓着せず借金などできる勇気があればどんなにか楽だったろう)、まあ、小銭に手が伸びるほど自分は嫌な状態にあるのだ。己の判断と行動からはじめて自分を客観視するのは自己管理能力が足らん気もするが、これくらいしか出来ぬ。出来ないよりはいいだろう。そうだ、自分だって貧乏でさえなければこんなことしないくらいの分別はある、腹一杯の鮫が飼育員を食わないのと同じだ。さすらば鮫も罪悪を覚えるか? 罪悪があるということは心があるということだ。そうわかったら、保護団体は今度はどう言ってくるだろうか。心があったってお互い食べなければ死ぬ、襲われたら守らなければ死ぬということを彼らは知らない。知っているはずなのだが棚に上げている。勝手にすればよろしい。
そうして拾った100円は何だか特別なように手のひらの内には見えた。しかし財布に入れたら他の100円と区別がつかなくなった。100円。これだけで買えるものはあまりない。でも拾うた。むしろこれが100円だから拾っていたのだと思う。流石に札だったら拾っていなかった。
事なかれ主義だから自らの財布に格納することにより始末をつけたかもしれん。ただしこの場合は価値よりも隠蔽が目的だ。これを拾うことによる己の利益はごく僅かだ。ありがたくはある。これを拾わなかったことによる公共の不利益も特にない。自分とて同じ金額でもそれが定期券なら懐に入れることはしない。それがなくたってもちろん家には帰れるのだが、自分が定期を無くした時の血の気がひく感じは今でも嫌な気持ちになる。しかしこの100円硬貨は落とし主がわざわざ取りに来ることがあるだろうか。そもこの大きさだ。この部屋で財布を広げる必要性は分からんが勢みで落としたことに気づいていない可能性すらある。よってこの100円は誰のものでもない。そう判断したからこそ、自分は話のあと結局これを拾ったのだった。
断っておきたいことに、自分は100円拾得の正当化をしたいのではない。自分が所在なき小銭を拾うことに葛藤を、罪悪感を覚えたのが面白かったのだ。こういう軽度の葛藤は思考実験の良い相手になる。滅多にあることではない。日常の中の偶然の機会に感謝し、そしてこれからも見逃さないようしたいものだ。

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