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神武西征の可能性


神武東征ではなく、逆に東からやってきたとする可能性のことだ。時代は弥生時代、大和盆地は、東から見れば有力な首長などいない辺境の地であり、未開拓のフロンティアだったのではないか。
隣接する、河内とは生駒山を挟んで、考古学的には西と東にわかれるという。河内は西日本の影響を受けていたが、大和は東日本の影響をうけていたという。出土する土器の種類からわかるという。

関川尚功は『考古学から見た邪馬台国大和説』(梓書院)で次のように述べている。

弥生時代において大和と河内は、同じ近畿の隣接地域でありながら、生駒山地を挟んで、河内は西方に、大和は東方に志向するという対照的なあり方をしめしており、古墳時代の一体化現象とは異なるようである。
大和地域は周囲を山地で囲まれ、陸上交通の経路も限られ、大阪湾岸地域に比べ、標高も高いという地勢にある。そして盆地内の小河川はすべて大和川に集まり、険隘な亀の瀬を抜けながら大阪湾へ流れるので、河川通交もかなり限定されることになる。近畿の中でも、地域交流が盛んな湾岸地帯に隣接しているにもかかわらず、基本的には閉鎖性の高い、完結的な地域である。他地域との交易という面からみると、必ずしも有利な地勢とはいえない。

奈良にいると、常識的には西にむかって開いていると考え、大阪湾からみれば、その奥まった地との意識があるが、実は大和は東日本からみれば、西への最前線だったのだ。そして、誰もいなかった。

そこへ入り込んで集落をつくった、唐古・鍵の弥生人は、東からやってきた弥生人なのだ。
その弥生人は、西から伝わってきた銅鐸にも青銅にもあまり興味がないようで、石器を使い続けていた。その傾向は、のちの銅鏡にも鉄器にも示される。関心をしめしていない。金属類の使用が盛んになるのは、もっと後のことだった。

この勢力が、どこから来たのかというと一番可能性があるのは、愛知の朝日遺跡を中心とする濃尾平野、東海地方だろうか。
朝日遺跡はおなじ環濠集落であり、かつ首長墓の墓も見つかっている。方形周溝墓だ。しかし、唐古・鍵では見つかっていない。首長は朝日にいて、唐古・鍵は飛び地だったのか?
川と川に挟まれた環濠集落は、防衛のためというよりは、洪水から守るためだったのではないか。高地性集落とともに防衛のためとされているが、なぜ川のそばかというと稲作だからであろうし、もうひとつが、洪水のときに周りが水で満たされても、環濠内が洪水から免れるように設計されていたのではないだろうか?

そうだとすると、首長が環濠を出ていくと寂れるというのは、正しくなくて、もっと住みやすいところに移っていった。また、田畑に通えるようになった。ということではないのだろうか。

高台である扇状地(奈良盆地では纏向に)に移っていったのは唐古・鍵の人々だとされている。唐古・鍵の地域は、盆地の中でも蚊の多いところで、よくぞあんな蚊の多いところに住んだもんだと国中(クンナカ)の人はおもっていた。朝日遺跡から開拓に来た勢力は、朝日と同じような環濠集落から始めたのかもしれない。

また、纏向は本格的な都市構造だというので、首長もこの地を拠点としたのかもしれない。また、すでにそこでは従来の権力構造の延長線上ではなく、互いに政争していた地ではないのか。

それは、そして古墳時代へと入っていく。

この纏向遺跡も、東日本の土器が多い。東日本にむけて開いていたかのようだ。

考古学的な指摘には知識に限界があって、これ以上述べることができない。もっと抽象化して考えてみたい。

坂口安吾の日本古代史論

そこで、思い出すのが坂口安吾の日本古代史論だ。日本書紀の記述が実際は逆になっているという説だ。日本書紀の記述が西と東が逆になっているという。この指摘を大いに喧伝したのは、栗本慎一郎だったけれど、がぜん真実味が帯びてきたように思う。

安吾が問題にしたのは、壬申の乱の戦場が近江や大和ではなく、飛騨・高山だったという論だけれど、日本書紀ないし、古事記でもそうだけれど、西と東が逆になっているのではないだろうか。古事記では推古朝までで、壬申の乱の部分には触れていないようだけれども。

『飛騨・高山の抹殺』で安吾は次のように述べていた。

大友皇子の運命は日本武尊の悲劇によく似ている。どちらも天皇に殺されてるし、殺された場所が伊吹山を中にはさんで東と西、ミノと近江に分れているだけだ。おまけに日本武尊の死体は白鳥となってなくなり、大友皇子は首を敵に持って行かれてしまう。
 さて、ここで壬申の乱、天武天皇と大友皇子の戦争のところの文章を見ていただきたいのです。天武天皇は美濃に陣をかまえて近江へ攻めこみますが、この文章の順だと、近江に近い方から、不破、野上、ワサミの順に陣をかまえた筈でなければならないが、ワサミに大軍がおってこれを握ってる高市皇子は近江の方へは全然動いた記事がありません。のみならず、近江方の羽田公矢国という大将が帰投すると、これを味方の大将に任命して、越《コシ》へ攻め入らせています。近江に敵がいるのに越を攻めるとはワケが分りません。
 まア、そのへんはどうでもいいのですが、伊勢、伊賀、尾張、美濃などの大軍がうごき、近江の方も九州や東国へ援軍を送るように使者をだしている。それによると、東の方は天武の領分で、西の方の諸国は近江方の領分のように思われますが、大友皇子の命で筑紫へ援軍をもとめにゆく使者がアズミ連《ムラジ》です。
 一番変テコなのは、すぐお隣の国で、そしてどちらの陣にとっても一番ちかいお隣りのヒダに、どちらも援軍をもとめない。それどころか、信濃という言葉はでてきても、ヒダという言葉は完全に一度もでてきません。これはどういうわけでしょうか。
 すでに申上げたように、両面神話はたいがい一応アベコベにひッくり返してあるものだ。壬申の乱では伊吹山を中心に敵味方が西と東になってるが、筑紫へ行く使者が明かに信濃の生れたるアズミ氏だから、これも恐らくアベコベになっているのだろう。それも伊吹山が中心ではなくて、両方にとって隣国でありながら全然タブーの如くに一度も名が現れないヒダというひみつの国が実は中心であって、ヒダ中心に東と西が逆になっている。こう見ると多くのことが大そう分り易くなって参ります。
 それ以前の歴史で見ても、日本武尊の東征の順路とか群蠅の飛んだ順路などで、ヒダ、シナノ、上野、常陸、越、奥州などが皇威に服さぬ一連のエミシどもの住む土地であることが分る。すると、実は東国の方が大友皇子の側だということが分るでしょう。
 したがって、日本書紀に現れる戦争の地名は、むろん戦場がその土地ではない筈だから全然デタラメなコシラエモノにきまってる。しかし、両面神話というものは、それが各時代のいろいろの両面人となって現れてるうち、そのどこかに真実が隠され暗示されているものだ。
 すると、大友皇子によく似ているのは日本武尊であるから、この戦争の陣立がアベコベになってるように、日本武尊も東征の往路と復路の二ツがあるから、その復路の方が、そして日本武尊が信濃坂で道に迷い伊吹山で死ぬまでのところが大友皇子の場合を現しているのかも知れない。一応は、こう見るのが自然かも知れません。
 私はしかしそうではないと思うのです。なぜなら、日本武尊と大友皇子の話は伊吹山を境にアベコベになっています。ところが壬申の乱の陣立は、必死に隠されているのがヒダですから、このヒダを中心にアベコベになっているらしいのです。ところがヒダのマンナカにはヒダとミノの国境に接するあたりに重大きわまる両面神話があるのです。実際、まったくマンナカなのですよ。神話自身がマンナカだと云っているのですから。

 長い引用になったが、このように、壬申の乱は近江や大和が舞台のように記されているが、じつは飛騨が舞台であり、大友皇子は素早く飛騨に逃げ帰ったのであり、大海人皇子は吉野を脱出して東国へのがれたのではなく、追撃するために吉野を出立したのだということになる。つまり東西の軍勢は東と西が逆になっていると論じたのであった。
何を隠したかったのかというと、重大きわまる大事だった。現実的に生なましくて、とても正当性のなかったものだろう。それは赤の他人の服属化ではなく、身内の争いだったのだ。
ということは、大海人皇子も同族であって飛騨に関係する人物だったということになる。それとも、大友だけが飛騨で育てられたのか? アズミ氏に育てられたのか? いやそうではなくアズミ氏と言えば、九州の海人であり、それが東進して日本海側から神通川をさかのぼって山に入った氏族であるとされる。大海人皇子だって、「海人」の文字があるから同族も同族、身内の人に変わりはないだろう。また、飛騨・信濃・上野と言えば、毛野氏ということになりはしないか。ともかく、東国へ進出していった豪族の末裔ないしその関係者ということだろう。毛野氏は摂津の出自との説があるので、あながち蝦夷というような全く無関係の氏族ではないだろう。ともかく、同族争いを隠す必要があった。

これを隠すために、何度も同じことを繰り返し、あちらの神様こちらの神様に置き換えてダブりにダブらせたのだろうと安吾は述べている。
これが安吾の見解だけれど、日本書記はそれだけではなく、日本をそんな狭い地域社会のあらそいではなく、全国ネットの日本全土をまたにかけた創設神話したかったのではないだろうか。

安吾の古代史論というか、記紀解釈はそれとしても、この東西が逆になっているという見解は神武紀にも適用できるだろうか? まさに東征ではなく、神武征西だったのだと。

しかし、この二書の構成時の枠組みが、すでに日本全体を意識していたので、西日本をも巻き込んでの全日本での構成にしたかったというのはわかる。二書ともに作りモノであったから、自分たちに都合のいいように組み替えたのは間違いないようだ。喧伝される『日本書紀』の創作説は可能性が高いだろう。創作と言っても、完全なフィクションではなく、あくまですでにあるものを編集したというものだ。なかったことをはじめから終わりまで捏造するということは、まだ8世紀ではありえない。『竹取物語』までまたなければならなかった。

でも、組み換えと編集は可能なので、すでに地方豪族から提出させた、その地のいわれ、伝承、エピソードなどの断片を組み換えつなげていくことは、できたのではないだろうか。

志賀剛の仮説



それでは、神武はどこから来たのであろうか?

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