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親鸞思想はボランティアを拒否するか


ある人から、ビジネスでお金が儲かったら困っている人に寄付して社会貢献ができるんじゃないですかと言われて、即答したのが次のような言葉だった。
「何を愚かなこと、それは偽善だ。綺麗ごとだ」
というように答えて、これは言い過ぎだと反省した。

ボランティアなり社会貢献についての私の態度は、40年位前に考えたことから1歩も進歩していないことを感じて、今回もう一度考え直してみようという気になった。

ビル・ゲイツなどの大型の寄付や、災害時のボランティア活動について、それは自分をかっこよく見せたいだけの偽善だと言ったのは、かなり、素直でなくて、社会を斜めに見ているような態度という事はわかっている。
しかし、その理路といったものは、たとえそこでなにがしかの寄付をしたところで、そこでは救った気になっても、それは自己満足でしかなく、救済にならないという論理だった。
この考えというか思想が、どうも特殊なものであるらしいと感じたのだ。

素直に今困っている人に手を差し伸べる事は、決して悪いことではないだろう。普通はそう考えるというのが万人向けの考えであるように思う。
どうしてそのような特殊に考えるようになったかと言うと、そこには親鸞がいて、その影響を多分に受けていたようだということだった。
そこでもう一度、自分の見解をさらに一歩推し進めるためにも再考してみようと考えたのだ。

考える材料にしたのは、木越康『ボランティアは親鸞の教えに反するのか』(法蔵館)だった。

東日本大震災の時に、京都の大谷大学からボランティアグループを派遣したTATの活動を通して問いかけた本である。
結論として「ボランティア的な活動に対して躊躇させるようなものとしてある真宗理解は、誤りである」というものだった。

木越は真宗学者(浄土真宗の研究者)として、その枠内でのこの躊躇に応えようとしている。
浄土真宗というか、親鸞思想に影響受けた者としては、ボランティアは自力の思想、聖道門の慈悲であって、他力ではないとして躊躇すると傾向がある。
災害ボランティアになり、社会貢献についても、それが必要だし、やらねばならないと感じつつも、それは自力の救いであって他力ではないのではないかという不安が付きまとって、躊躇させるのだ。
この問いに木越は真正面から立ち向かいている*が、ボランティアが必要であるという結論を出したわけではない。やってもいいし、やらなくてもいい、という結論であって、やったからといって親鸞の教えに反するのではないということを訴えている。

*その解釈は、第四章「親鸞思想から考える」という章で扱っているが、これを話し出すと教理に触れて長くなるので、あえてここでは触れない。木越は「はじめに」でごく簡単に次のようにその躊躇を説明している。
「鎌倉期の仏強者である親鸞は(1173-1262)は、現在、日本最大級の仏教教団の一つである真宗教団の開祖とされる。「ただ念仏」によって救われると説いた法然(1133-1212)に強い影響を受け、あらゆる自力的行為を棄てて、阿弥陀仏に帰依することによって救済されるという「他力思想」を説いたことで有名である。通常、仏教的な覚りを獲得するためには、それ相当の修行や精神修養が必要になる。しかし、親鸞は、それらすべてを煩悩に汚染される人間的行為=「雑行」として廃捨し、人は阿弥陀仏の願力によってのみ救われるのだと説いた。(中略)そのような親鸞の影響のもとにあると自覚する真宗者たちは、自らのボランティア的な活動を自力ではないかと疑い、不安と隣り合わせのなかで活動する日々を送っていた」

大学の大型バスで12時間かけて東北へと出かけていっても、やった事は一軒の店舗のドローを搔き出したたけだったり、「2日ぐらい来てもらっても何にもならない」と言われ、「すみません」としか答えるしかなかったりというエピソードなどが綴られている。

そんな現実的な活動が綴られている中で、今やっている事はたかが知れていることだけれど、やらないわけにはいかない人間としての情動というものが伝わってくる。
ボランティアや寄付など必要ないんだ、ダメなんだと言いつつも、私自身だってボランティアにも行ったことがあるし、寄付もしたことがある。クラウドファンディングに参加したこともある。その多少なりともやってしまっている自分を見るにつけ、思想レベルの考えと実際とは違っているし、矛盾だらけだということを痛感しているので、ここでもう一度考え直してみようと考えたのだ。
議論の材料として、私が大きく影響を受けて、その当時はそうだと考えたことに強く影響したのは親鸞だけではなく、(卒論は親鸞研究でした)吉本隆明があげられると思う。その親鸞を扱った著作の中で、コンパクトにその精髄をまとめたような本に『今に生きる親鸞』(講談社α新書)がある。その中で吉本は次のように書いている。

 親鸞は、『歎異抄』の中で、こんな例をあげています。
飢饉で道端に飢えて死にそうになっている人の前を通りかかったとき、これを救済しよう、何とかして助けようと思う。これは普通に思うことだし、人々はそのようにするだろう。しかし、これが一番いいことなのかというと、そうではないというのです。
つまりこういうやり方で人を助けても、ある人を、偶然そこを通りかかったから助けたと言えても、それは偶然会ったからであって、もう会わなかった人はどうするんだ。そういう救済の考え方では全部の人を助けおおせることはできない、というのです。
それなら、ひとたび往生を遂げて、正定聚*の位に往って、それから還ってくれば、自分は仏と同じような器量を持ったことになるから、偶然会った人だけではない、すべての人を助けおおせることができるかもしれない。こういう言い方をしているのですよ。
その時々に出会った困っている人とか、苦しんでいる人とかを助けるということは、本当言うとどうでもいいんだ。助けようと思えば助ければいいし、助けようと思わないで通り過ぎたって、そんな事はどうでもいいということなのです。救済というのは、そういうものではないということです。

*仏になれることが決まっている人々、またはその境地のこと。

長くなったけれど、前段では親鸞の生きていた当時は、あちこちで見られた光景であり、そこここに死体が転がっていたという現実を見たようなので、我々とはリアル感が違っているようだけれど、今直ちに困っている人に手を差し伸べる事は、致し方ないとしても、それで済ませられないということを語っている。今、例えばひと握りの飯を与えたとしても、それで済むわけではない。明日にはまた腹が空いてくるし、明後日も空いてくる。人は食べ続けなくては生きていけないので、今与えたからといってすむわけではないし、おまえは飯を与え続けることができるのかというと、こころもとない。それでは、本質的な救済にはならない。
後段は、宗教的表明で、そもそもこの段は往相廻向と還相廻向について語っている段であって、往相というのは浄土に向かって施して、阿弥陀如来の浄土にいかせろと願いを立てることであり、還相というのは、その浄土からこの娑婆世間に戻ってくることを指していた。静かな心、知恵を持って戻ってくることだった。(こういう宗教理論上のことについて語っていた)
そのことを指していて、そこでの娑婆世間での対応でないと救えないとしている、その議論の説明としてあった。
飢えた人を救うということであるなら、情報や知識で知っている事として、知っている人を救うということではなく、(別に救ったっていいんだけど)実際に自分と顔を向き合わせて知っている人、関わりのある人こそ使わねばならないということではないだろうか。


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