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二宮整体への秘かなる期待


整体そのものに対する期待ではなくて、そこから派生した私的な期待について述べてみたい。
二宮整体は、野口晴哉の野口整体の流れをくみ、輸氣を基本としている。この氣そのものが、静謐にして微妙だと感じてきたのは、これまでのことだった。決して微妙でも、耳をすまさないとわからないようなものではなかったと気づくまでかなりな時間がかかったように思う。むしろ、私のほうが浅はかだったのだ。氣は微妙でもなければ、静謐でもない。ダイナミックなものだ。圧倒的パワーを持っている。物理的に押し下げたり、曲げたり伸ばしたりしないだけで、身体内部にはかなりの圧倒観でせまって来るものなのだ。

うかつと言えばうかつで、自分を恥じているわけだけれど、この整体法を知り、学んでいくにしたがって、その成果が深々と伝わってくる。それは認めよう。

でも、私の秘かな関心は、この整体法における他者のことだ。
野口整体でもそうだったけれど、二人で組んで行うことがある。
そういうときの相手というのは、他者だ。
この他者とは一体なんだ? ということなのだ。
氣を送ってくるとは、どういうことなのか?

その氣っていったいなんだ?

言葉でもない、皮膚間接触によるコミュニケーションでもない。

二人が、吸気をあわせて、氣を送りあうとすれば、それはどういうことかという期待なのだ。

まだ、明確につかめていない。

だが、この疑問は当分続きそうで、解決の糸口もつかめていない。他者問題は結構厄介で、一様でないとかつて書いた。他者と分けてしまっていいのか、それとも、そもそも他者など存在しないのだろうか?

言語的には、話す主体が1人称であり、相手が2人称だ。そしてそれ以外が3人称と分けている。これは言語上のことだけれど、二宮整体において、氣を送る人が1人称で、送られる人が2人称と考えていいのだろうか。そうすると、それ以外の3人称は、どこにいるのだ。多人数で一列に並んで、副腎に氣をおくることがあるが、それに該当するのだろうか。そうだとすると三人称とはみんなのことだ。

このことは、言語上の人称とは違っているということをしめしている。

もっと生物としてのプリミティブな異物と細胞が接触した時を考えてみると、今回問題になった、コロナウイルス感染なら、そのウイルスを敵と認めるのは何かと考えれば、それはあくまで他者だろう。少なくとも自分とは違うのだ。そこで、免疫細胞が攻撃を加えるというのが、自然免疫だ。
そこでの感染というのは、スパイク蛋白と細胞の受容体の接触により起こるとされるなら、氣を送るというのはスパイク蛋白とその受容体の関係ということなのだろうか。
でも、氣には実体がない。物体(サブスタンス)は認められていないのだ。

氣の実体はないけれど、確かに存在すると考えられる。いや、そう感じているし、それをもはや疑うことはできなくなっている。少なくとも私においてはそうだ。
氣そのものが、説明できないのに、輸氣も説明はできない。そこでの他者をどう説明したらいいのだろう。幻想なのだろうか。

どうも行き詰ってしまう。

先日、「整体の会」で講師が、二宮先生の本を読み返していて、整体は何かというと施術でも治療でもなく「指導だ」とあったという。それが妙に腑におちたというのだ。その指導は、やり方の指導というだけでなく、もっと違うものを含意しているらしいのだが、足揉みの官足法でも施術ではなく、個人指導だと言っている。官足法はもともとから自分の健康は自分で守れということなので、自分の足をもむのが基本だ。
しかし、整体はそうではない。自分ではできない部分を抱えている。そこにおける他者なのだが、「指導」という限りは、誰かが誰かを指導するというのが、含まれるだろうから、そこには、二つの個体を前提にしているのだろう。でも、どうもそういう意味でもなさそうだ。何が指導するのか?
あいまいだけれど、この「あわい」に意味があるのかもしれない。

野口整体に「活元運動」というのがある。意識にない運動の誘発なのだけれど、錐体外路系と呼ばれる運動である。錐体路系というのは、医学的には大脳の運動野から延髄へとのびて、体躯を動かす神経経路をさしている。大脳下で交差して延髄へとのびていくので、大脳の左側が障害されれば、右半身が運動麻痺がおこるとされている。延髄の錐体を通るので、錐体路と呼ぶのだけれど、この外、つまり随意神経の関係しない動きを誘発するということだ。
はじめは慣れないが、やっていくうちにひとりでに身体が動き出す。
その効果は、素晴らしいもので、気分のスッキリ感を確認できるだろう。
大脳の判断なしに動くといえば、脊髄反射を思い出すだろうが、そんなに一瞬のものではなく、もう少し長いスパンで行うことができる。
やりかたとしては、正座でも胡坐でもいいけれど、楽な姿勢で座って、まずは体を揺らせてみる。好きなように動かす。反復するようでも、前後でもなく、アットランダムに動かせてみる。はじめは、随意で動かせているが、いつの間にか勝手に動き出すのを待つ。
これは無意識にうごかすのではなく、単に意識しないでうごかすということだ。
この錐体外路系の弱いひとは、転びやすいし、脆いと言っている。

この、活元運動を二人で行うことがある。「相互運動」として紹介されているが、その時の相手というのは何者かということだ。氣の交換とも呼ばれているが、相互に作用する他者とは何なのか? 
しかし、実際には相手が錐体系をつかって動かすので、錐体外路とは言いにくい。指導者によって動かされる時も、その指導者の「指導」がはいる。
指導と書いてしまった。これは先の「指導」だろうか?

違うような気がする。

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