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霊的開眼とは何か          第1章 ダンテス・タイジ『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』


霊的開眼になる言辞は実はこの本の中で登場したことばだった。そこには次のようにある。

それが、禅であろうがヨーガであろうが、悟りの直前には、必ず血液もその他の各種のエネルギーも、人体頭部に向かって逆流する。いわゆる生物学的健康状態、すなわち頭寒足熱と正反対の状態が起こらねば、霊的開眼はありえない。霊的開眼は、いわゆる人格円満だとか、身心の健康だとかとは何の関係もない。

前段の血液の逆流云々ではなくて、後段の人格円満とは何の関係もないという点に共鳴したのだった。常々そうじゃないかと疑っていたので、すかさず反応したのだろうと思う。半跏趺坐に足を組んでいるけれど、痛くて仕方がないし、膝が終わってからでも痛い。決して健康に良いなんて言えないだろう。それでも、身心を傷つけてでも得たいものがあるのでやるのだともいえるので、それが健康に良いとは思えない。ヨーガだって、健康ヨガってものがあるけれど、本来はもっと精神的なもので、いわゆるフィットネス(健康維持のために日常行う運動)というものとは違うだろう。
また、心が平安になって、人格円満になるということも違うだろうと思っている。でも、瞑想の効用などを見ると、仕事がはかどる、悩みが消える、軽減されるとか書いてある。そのような現世利益的な、直ちに効果の出るようなものを目指しての修行ならば、およそ修行といえるものではないと思ってきた。
そのことを、あからさまに、こう述べてくれたダンテス・タイジというヨギーはやはりたしたものではないかと関心を持ったのだった。
この本に出会ったのが、どういうきっかけだったのかのか思い出せない。日頃、気になる本があったときにはスマホのメモアプリに、気になる本としてメモしているので、その中の一つをたまたま書店で見つけたので購入したということだった。かなり以前にメモしていたらしいので、その由来は全く覚えていない。これはすごいのではないかと直感したのは、先記のこともあるけれど、もう一つはこの本の書評を書こうとして何度も下書きしていた次のような文章にあるのだ。下書きへの追加という二重構造になっていて、よくわかりにくいいが、何とか文章にできないかと苦心していて、そこが旨く伝えきれないという思いが残っているからだ。それを次に引用してみる。

書評の下書き1
おそらく、評論などという言語による理解なくして「評」というものを拒絶する書物は無いのだろうが、その圧倒的な内容は本当か? と眉染める反面自分も実践してみたいという気を起こさせる。
言語による理解なしに、悟りというものがあまり意味がないし、また理解したつもりになり解明されたなどということがいかに虚しいかという思いに至り、書評を書くことを止めていた。長い中断の果てにやってきたのは、それでも言葉による理解は必要だという思いで再開したのだった。そのヒントは道元の「行学」であって学も行も必要だということにやはり納得せざるをえなかったからだ。
この本は先に実践の激しさとともにまた真摯に自分と向き合って、率直に述べようとしている。まるで他者に分からせようとするよりも、自分自身で自己整理しているかのようである。
本書の内容をダンテス・タイジの幻想だといってしまえば、それまでのことなのだが、私の数少ない体験を通じての類推でいうのなら、かなり共感できる部分がある。その一つはいわゆる霊的開眼というものが人格が円満になるとか健康に良いとかは何の関係もないと言い切っていることだ。
霊的開眼を悟りと呼んでも信仰と呼んでも、なんと呼んでも良いのだけれど、瞑想したり、ヨーガをしたり、宗教的なスピリチュアルになって実践することが現世利益的ななにかに効くとか苦を除去して心が平和になるとかいったこととは基本的に関係ないのだと言っていることだ。副次的に効くこともあるが、むしろ実践をすればするほど苦しくなるし、足は痛いし、開眼への思いにとらわれすぎてしまうところがある。そして霊的開眼は幸福な道をもたらさない。むしろ不幸になっていく。たまらないような孤独が襲ってくる。その正体はほぼわかっているのだが、受け入れがたいのだ。それはいわば孤独な人間存在の寂寥のことなのだが、その寂寥に比べれば娑婆世間の人間関係の苦などというモノはおよそ意味をなさない。その意味においては苦は除去されているのだ。そのことを明瞭にダンテス・タイジは語っているように思われる。
もう一つは、ニルヴァーナのプロセスで語った観念のひとつで93ページにクンダリニー覚醒のプロセスでクンダリニーの上昇過程をアストラ体かメンタル体で空中から本人の封印を切るというか、神霊がやってくると記していることだ。それも「(1)一般的に1人か3人の神霊がやってくる(2)3人のいずれか1人が本人の頭に手を触れる」とキャプションが記入してあることだ。
やってくるのは3人なのだ。なぜ3人なのだろう。それはキリスト降誕の福音書に似ている「東方の三博士」と関係があるのだろうか? わからない。わからないがここが面白い。それも3人で封印を切るのではなくその中の1人が切ると言っている。封印を切らないことには宇宙に飛び出していけないのだから、ある種の転機ないし契機なのだろう。まだまだ探るべきニルヴァーナへのヒントが隠されているかもしれない。
ダンテス・タイジは俗名を雨宮第二というらしい。1950年生まれで1987年遷化とあるので37歳で亡くなっているようだ。ここに記されているような激しい修行実践をしてきたのでは、命も短くなるだろうと考えてしまう。その死因はわからないので、何ともいえないが、彼の推奨する「学」の部分が、久松真一著作集、道元『正法眼蔵』、仏典「般若部経典」、クリシュナムーティーの全著作を挙げているので、徹底して自己認識によって立つ事は見て取れる。自分が自分で、霊的開眼しないといけないという文脈が読み取れる。その分だけ、激しい修行に明け暮れたのであろう。
しかし、かなりクリシュナムーティーの影響が強いことが読み取れるだろう。そこはどうしても時代の制約を感じさせる。
クリシュナムーティーが真に新しいかというとそれには疑いを持っているし、幸福などと言いだしたら嘘だろうと思ってしまうから。彼は一代の宗教事業化であり、営業的に成功を収めた人物であるというに過ぎない。そう、私は考えている。
それにも増してこのダンテス・タイジに余計な部分としてこびりついた俗の部分を除くとすればもう少し発見があるかもしれないと思った。

ここまでならこれまでの書評と変わらないだろう。冒頭にも述べているように、言語の理解で捌いて見せるだけでは虚しいのだとしたことを思い出さずにはおれない。
行学の道元は「正法眼蔵」の中で行の実際についても懇切丁寧に述べている。大小便に関する「洗浄」の巻から「洗面」の巻、そのものズバリの「坐禅義」もあり「坐禅箴」がある。これらはもう実践してみないことには始まらない。


まずは本書の第一章マントラ禅より始めてみる。
マントラ禅はマントラを唱えながら坐禅をするもので、そのマントラは「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法連華経」でも「アーメン」「祝詞」など何でもいいという。読経でもいいというので「般若心経」でも良いのだろう。ひたすら「大自然、大宇宙或いは神に全身全霊を投げ込む感じで行うことがマントラ禅の要領である」とある。そして疲れたら合掌したまま前方に投げ出して「包んでくれるものの中で安らいで」とあるので、これはある種の忘我状態であって、トランス状態なのだろう。シャーマンなどのトランス状態と似ているかもしれない。
実際に行ってみると気分が高揚してきて熱狂状態になっている自分に気がつく。これではシャーマンと同じだと感づいて、ここには人間としての精神のベクトルがないじゃないかと引き下がってしまう。
トランス状態で良いのだとすれば、薬物もアルコールも入ってくるし、何もマントラ禅である必要はないわけだ。
そう考えてここはひとつ次の章へと行くことにした。
第二章丹田禅
丹田にチャクラを感じて、下腹の丹田と称する部分に入息することだ。徹すれば見性(自分が宇宙と一体であることに目覚めること)を得られると言う。何時間やるのだろう、ひたすら続けるのだ過呼吸になりはしないかと案ずる。昔、過呼吸(ハイパーベンチレーション)になったことがあり、手の指がしびれて折れ曲がりひん曲がったことがあった。救急車で運ばれて「普通、ハイパーベンチレーションっていうのは若い女性がなるものなんだけどね」と若い医者に言われて恐縮したことを覚えている。「男性でもなるわいな」と言いたいところだがそこは飲み込んで過呼吸にならないように続けているが、今のところ何も起きはしない。

第3章クンダリニー・ヨーガ
これはちょっと危ないような気がするので後日ね
本書にも気をつけようとの編集者の注が入っている。

下書きその2
以後、中断したままになっているが、それは実践への記述うまくいかないからに他ならない。言語の範囲で収まっている限りは、どうしても書評的記述に終わるというだけではなく、言語的思考の中に収まってしまうからだ。そこから何とか突破することが今日的課題なのであって、道元では行学であり、陽明学では知行一致と言うけれど、要は知識実践と理屈修行に入っていかないといけないということに根ざしている。そう試みたのだけれど、中断してしまった。実践の内実を言語化すると陳腐なものになってしまうことと、行をそのまま書き記す事は難しいという言語上の特性によっている。本来、言葉では言い表せないものを言おうとするのであるから、当然と言えば当然のことなのだけれど、おそらく実践をもう組み込んでいかないとこれからは真に有効ではないと思えるからだ。
そんなことをヨギーニのkumiさんと話していたらkumiさんはクンダリニー・ヨーガは潜在意識に働きかけるので一人では危ないと言った。
「やはり師についてやった方がいいですね」
私はヨーガの伝統が師と弟子と言う関係の中で伝わっていることにいささか危なさを感じていたので、こう言ってみた。
「身体を使う事は、やはり先人について教えてもらったほうが早いんだろうけれど、最先端まで行った人はやはり試行錯誤をやっているんでしょうね?」
「ある程度行けば、やはり一人で工夫していくんでしょうが、初心者はやはり指導者についたほうがいいですよ。狂ってしまった人もいますしね」
「やっぱり、そうなんですか。ヨーガの人は大変ですね。いつまでも苦しくて。ヨーガ・カーリカ等を読めば、いかに苦しいかということが延々と書いてありますもんね」
こんな会話を交わしたが、ダンテス・タイジは、要はヨーガと禅の混合のようで、ベースに坐禅があって、ヨーガ瞑想を加えたようだ。ブラフマンという唯一神を問題にする反面、只管打坐とも言う。
この只管打坐こそが最終章で述べられている。ともかく中途半端な紹介になるのはこの本がまだまだ霊的開眼へのヒントを残しているものだと感じるからだ。結論は出さないで、論述の素材としたのだ。ただしダンテス・タイジ本人の表現としては、いかにも素人っぽくて、至るところでおざなりな表現が通俗的だと思われる表現がある。                                                                                                                                                                                                                                つまり文学的でも哲学でもないのだ。*
*p-36「やったぜ、ベイビー!!!!!」
p-112「ど(・)低脳の禅者どもは」など
それを差し引くならば行き着いた先の展開は確かにそういうものだと思える。例えばp-43ページ「あなた自身は、始めも終わりもなく至福それ自身である」には確かにそうなんだろうと思う。ただ至福かどうかわからないということだ。

長い引用になってまた重箱構造というか、書評の上に追加を重ねたようなもので、文章の意図はほとんどが解明されず未完のままに終わっている。つまるところ霊的開眼とは何だったんだろうか。それは「ニルバーナへのプロセス」だったのだ。何も解明されなく先へ進んでいこう。最後に戻ってくるから。ただしここから先はやはり言語的記述という文体に戻っていくしかないだろう。行は言語では言いあらわせない。もっと別の方法を探るしかないだろという事を結論として、語りえないかもしれないが、論術のスタイルに戻る。

そこで、この章で強調しておきたいのは、瞑想なり修行なりで、よく使われる、苦の除去というテラピーなり効用というのが嘘だということだ。本質的に瞑想とも関係ないし、霊的開眼でもない。先の私のノートブログでも何度も述べているけれど、強調してもしすぎることはない。治療への導入として語られることもあるけれど、それも関係ない。科学的に瞑想の効用を証明したという本もたくさんあるけれどそれも関係ない。
そもそも「悟り」ということは、そんなことと関係ないのだ。
しかし、まったく効用がないかというとそうでもなくて、それは副次的な効果というか、そういう効果も出ることがあるというだけに過ぎない。




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