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霊的開眼とは何か 第7章 藤田一照・山下良道・ネルケ無方・永井均『哲学する仏教』後編


 ここまで、永井均の論考に触れながら、霊的開眼とは何かに焦点をあてて巡ってきた。

即、結論を出したいところだが、もうすこし、実際の瞑想のついて、いかに永井均がかかわってきたのかについて、見てみよう。

香山リカとの対話『マインドフルネス最前線』(サンガ新書2015)があるので、それを参照してみたい。

実際に掲載されたがのが2014年の5月『サンガジャパン』だったので、それ以前に対話されたものに違いない。以後どこまで変化したのかを知ることもできないが、実践としての瞑想については、おおよそのところは変わっていないのではないかと考えてもいいだろ。

内容的には哲学的議論や、哲学史の知識も含まれるので、難しいところもあるが、永井均にとって瞑想というのは、ある種実験でもあり、趣味といったようなものであって、真理の探究手法としての瞑想ないし修行といったようなものではない。どう変化するのかについて研究しているといったようなものだ。

もちろんここでも「私」と〈私〉の二重構造についての議論の解説からなっていて、〈私〉を俯瞰するように感じるという瞑想に行き着いたということだった。瞑想を始めてみる以前に坐禅を趣味でやっていたが、その時は「単なる静寂と融合みたいな……」と話している。

ヴィパッサナーを始めて、自分に気づくということを初めて〈私〉を俯瞰できるようになったといっているのだ。

坐禅も、止観だから、(観)つまりヴィパッサナーであるけれど、観することなく、サマタ(止)に入っているだけだったということなのだろう。私もその事は実感していて、坐禅はやはり、気持ちは良いけれど、それだけで、常にやっていないと、効力が落ちてくる。落ちてくるとまたする、落ちてくるとまた坐禅をするということの繰り返しで、あたかも坐禅中毒のようなものだ。例えてみればタバコのニコチン中毒のようなもので、ニコチンが切れてきたらまたタバコが吸いたくなるようなことと同じなのだろう。

それに比べると、ヴィパッサナーというのは「止観」の観というのは、やはりそれだけではない効果があって、自分が変わっていくということを感じる。ヴィパッサナーの技法もいろいろあるけれど、その中の一番オーソドックスなのは慈悲の瞑想*だろう。慈悲の瞑想もフルバージョンで行うと結構長いものになるので、短くする、私への慈悲から初めて、自分にとって好きな人、好きでも嫌いでもない人、嫌いで苦手な人、そして一般へ拡大して、生きとし生けるものがすべて幸せでありますようにと願うバージョンでやってみると、それでも自分が変わっていくのがわかる。慈悲の瞑想は、本来、慈悲喜捨なのでメッタ―、カルナ―、ムドラー、ウッペッカーなのだが、この中で一番重要なのがやはりウペッカーだろう。平等に見る、好き嫌いなく観察するというのがポイントであるといわれている。

*後に知ることになるが、慈悲の瞑想ではなく、基本は『念処経』にある方法なのだろうと思える。つまり五蘊、十二処、十八界というダルマの体系を目指す、要素をひとつづつ観ていくことなのだろう。当時は知らなかったので、ここはそのままとする。

実際には、これも永井均のいうように人のためではなく、自分のためにやるテクニックだといっていることに間違いないと思う。

しかし、誰もが慈悲をやっている世界ってどうなんだろうと問う。それは悪との対比ではなく、善との対比なのだろうといっていることに注目させられる。私はそのことを第四図の世界も重要であって、第四図の世界に戻ってこないといけないというように考えてきた。第五図へ行ったきりではなく、第四図に戻ってこないといけないのだと思う。

またヴィパッサナーには、社会を良くしようとか、社会についての提言等というポジション的な力はあまりないと言っている。そうすると社会との関係とは、どういうことになっているのかというと、それは『ミクロの森』のようなものだという。

 

明言されてはいないが、「ミクロの森」というのはD・Gハスケルの同書で、1㎡の地面を決めて、一年間通いつめた生物学者の記録のことだろう。この1㎡を自己と見立てて、丹念に見て観察していくということ、そして世界との関係性ということではないだろうか。そういう形でしか、世界を眺めることができないということだ。

このことをもう少し詳しく述べて見ると1㎡の土地を丹念に見ていくんだけれども、この1㎡には天気もあるし雨が降ってくることもあるし、また寒い時もあれば暑い時もある。太陽光が射してくることもあるということは環境自体を無視するわけにはいかなくて、そこには例えば土足で踏み込んでくる人間もいるということだ。これらのことを考えてみるなら我々の自己も1㎡として丹念に見てもそれだけで成立しているわけではない。他者についてはこの前章の冒頭でも議論しているようにどうしても登場してくる。それが一体何なのかわからないけども、ある日突然立ち現れてくる。そしてわからない存在として出会うのである。この他者論の問題は抜きにすることはやっぱりできない。

 

そして議論は少し発展してこのヴィパッサナーを逆転した反対のナサッパヴィーなるものを想定すると、その修行というのは、怒ったり貪ったりする位ではダメで、もっと強烈な嫉妬とか恨みとかいうような妄想、言語的には複雑に構成したロゴスを持ち、それを反復させて、パセティックなパトス的な感情をそわせてやらなければならない、本当に苦しい難行苦行になるだろうとしている。ナサッパヴィーよりもまだヴィパッサナーの方がやりやすいのではないかという議論をしている。

「この思考実験から、逆にヴィパッサナー瞑想はそもそも何をするためのものだったかが、逆照射されるはずです」と述る。このように、思考実験をしてみると、ナサッパヴィーなら、ばかばかしくてできないよなということが分かわかるのだろう。これはヴィパッサナーとは何かを考えるときの哲学的な方法で、哲学的ゾンビと同じような思考実験なのだろう。われわれの霊的開眼は、慈悲とは違っているが、ナサッパヴィーではない。そもそも、善も悪もないと言っているので、慈悲もなければ、その反対もないということだ。

ところが、ここで注目するのはヴィパッサナーは、パトス的感情的な暴走を食い止める方式としてとしてだけではなく、ロゴスの暴走も止めてくれるというのが良いのだと出てくる。単純な怒りや感情の爆発はすぐに気づくのだけれど、ロゴスの暴走はなかなか止めにくい。現代社会ではロゴスの暴走が厄介なのだ。正義の衣をまとって暴走しははじめたら扱いに困るのだ。永井均はこのように言っている。これは重要な指摘だと思う。

ただし、この娑婆世間に戻ってからのことだ。つまり、第四図へ戻ってくるときの話だ。

 

ロゴス自体の暴走とは、言語が開発した主語―述語構造と否定、そこに組み込まれた人称、時制、様相といった装置が一人歩きしはじめて、頭の中で独自の勝手な妄想を生み出して、それが勝手に反復しはじめてしまうことですが、それがまさに仏陀が戒めている「放逸」の状態で、たぶんキリスト教でいう「原罪」も本質的には同じことを問題にしていたと思うんです。(『マインドフルネス最前線』p-52)
 

このように述べている。このロゴスの暴走を止めるのに、瞑想というテクニックというのは優れた技法だと言っているわけだ。ひとりでもできるし、「言語的な世界把握の作動を外から眺める」のがいいのだと。

この辺が、瞑想の効果のポイントで、まず、〈私〉の発見とそれに伴う、言語的思考の暴走を止めるというのが主張のように思える。このことは、極めて重要だということはすでに述べているけれど、強調しても強調しすぎることはない。世界における正義の名のもとに愚かなことがまかり通っているからだ。

以下余分なことだが、呼吸法を重視するのも、単に呼吸に気づくだけでは意味はないので、そういうことではなく、確かに存在しているということに気づくという事なんじゃないかと述べている。また瞑想によって何を目指すのかと問われて、原則に戻って答えている。何かを目指すというのは、自我の継続性を前提にしているのであって、そうじゃなくて、その時は、その時の心が瞑想なのであるから、何も目指す事はないと答えている。まさに禅のような答えと一致している。

毎日20分から30分ぐらいやっているだろうかとか、数息観は結構いいんじゃないか、念仏をしながらでもいいんじゃないかと述べていたりする。

事実『哲学の賑やかな呟き』の中では「創作修行集」なるものもあって、自分なりにいろいろ工夫しているし、また工夫したらいいんじゃないかと勧めている。

 

それより何よりも、哲学的に重要と思われるのが、「諸行無常」の哲学的批判というか、そもそも成り立たないと言っていることだ。これは後の、無我と真我の議論と関係してくる問題で、この議論には触れておいた方が良いだろう。総じて仏教は自我とか無我とかいっているけれど、哲学的水準は低いといっているので、それぞれの概念をもっと哲学的に検討してみる必要があるとの事だった。現代の哲学的水準に耐えられるようなものを打ち立ててほしいとも言っている。

そこで「諸行無常」だけれど、意味的にはすべてのものは常でない、常に変わるということを述べているもので、これは三法印の一つだけれど、それは別に釈尊だけでなくても、万人に通ずる自明の理であると教えられてきた。教えられてきたというのは、仏教学科の仏教学講義でも一番最初に教えられるだけではなく、すべての入門書にもそうのべて始まる。

しかし、本当にそうかと疑問を呈する。

理由はこうだ。「無常」というのは、何に対して無常なのかということがわからないと、例えば時間の計測に対して、無常、つまり変化するのだとすると、実は何も変わっていないということになるのではないかと。時間を例えば物理的時間を問題にするとそれは惑星の移動のことであって、端的には地球が自転して、昼夜が現れ、それは太陽の周りを一年かけてまわる。つまり自転の1回を24時間として、それが365.242回転すると一年として同じ位置に戻るのだと定めている。これは等質の時間というものに依存しているというのだ。無常であるということを言うためには常にあるものを想定しないと成り立たない。じゃあ無常じゃないじゃないかということだ。つまり普遍の同期性に依存せざるをえないんじゃないかという。

次のようにいう。

 

真に世界が無常だったら、対比項もなくて「無常」という把握自体が成り立たないはずだ、と。それでも「無常」を語りうる(・・・・)のはなぜか、というところが中観以降の大乗仏教が引き受けた課題だったのだろうと思います。(『マインドフルネス最前線』p-74)
 

中観といっているので、「空」概念のことを問題にしているのであろうことは容易に想像がつく。中観においては、自性において空という無自性空のことであったから、自性というものが、そのものである性質が永遠にして不変ではないという概念だった。それが空(から)っぽであるというのが、無自性空というものだった。そこでは、永遠にして不変のものはないということで、すべては変わるという事を意味していたのだ。無自性をいうためには、永遠なるもの不変なる対比項を持っていないと、無自性とはいえないという議論のことを指している。

それじゃあ、空ではないじゃないかということになってしまう。

ここでの解釈としては、私見であるが、計測される時間だって空ではないのかと、みることもできないだろうか。

時間だって、空なのだ。星の周期性だって恒常的であるかに見えるが、実は宇宙はビックバンに始まって拡張しているわけでone wayだとすると、それは、一年で地球は太陽の周りを回ってくるという恒常であるかに見えて、実はそうではなく、永遠不変ではなく、それ自体も変化すると。我々が知覚するような時間帯ではわからないが、もっともっと悠久の時間帯においては変化していると考えることだ。

もう一つは、カテゴリ化して眺めた世界ではなく、私の感じる時間というものがあるのかというと、どうしてもそういうものはありそうにない。そうだとすると、無常だとどうして言えるんだということになる。何も変化していないし、〈私〉は常に〈私〉である。〈私〉は歳をとらない。なるほどそうだ。〈私〉が消える時も〈私〉は気づかないから変化するとは認められない。じゃぁ諸行無常じゃないんじゃないかと。

これに関して参考になると思うのが『根本中頌』の十三章ではないだろうか。この章は「ものの変化は固有の性質(自性)によっては説明できない。空性によってこそものの変化(諸行無常)が可能になる」(桂紹隆・五島清隆『龍樹「根本中頌」を読む』)とする章で、そこを丹念に見ていきたい。

 

『根本中頌』の十三章はこうだった。

 (第1偈)〔以上述べてきたように、すべてのものは固有の性質(自性)を持たないから空であり、いかなる仕方でも生じることはない。そのことを〕世尊は説かれた。「およそ欺く性質を持つものは虚妄である。ところで、因果関係に制約されるもの(諸行)はすべて欺く性質を持つものである。したがって、それらは虚妄である。」と。
  注:『マッジマ・ニカーヤ』PTS版、巻三・二四五頁参照。
(第2偈)もし欺く性質を持つものが虚妄であるならば、その場合、人はいったい何について欺かれるのか。〔そんなものは何も存在しない。〕
 それにもかかわらず、世尊がそれを説かれたのは、〔因果関係に制約されるものはすべて、固有の性質を持たないから〕空であること(空性)を明らかにするためである。
(第3偈・第4偈前半)【反論】〔世尊は、ものが固有の性質を持って生じない、と説かれたのではない。〕諸々のものには、それ固有の性質がなくなるということがある。なぜなら、ものには変化が見られるからである。
 実に、固有の性質を持たないものなど存在しない。〔たといあなたの意見に従っても〕諸々のものには空性〔という固有の性質〕があるからである。
 もしものに〔変化の主体である〕固有の性質がなければ、いつたい何が変化するのだろうか。
(第4偈後半)【龍樹】もしものに〔三時にわたって変化することのない〕固有の性質があるなら、いったい何が変化し得るだろうか。
  注:対論者と龍樹では、「固有の性質」「空性」「変化」の理解がまったく違う。
(第5偈)同じものが変化することも、異なるものが変化することも不合理である。なぜなら、既に年老いたものが年老いることはないし、若者が年老いることもないからである。
(第6偈)もし同じものが変化するなら、牛乳がそのまま凝乳(酪)になってしまうだろう。一方、牛乳以外に何が凝乳というものになるだろうか。
(第7偈)もしも空でないものが何か存在するなら、空なるものも何か存在するだろう。しかし、〔今まで述べてきたように〕空でないものは何も存在しない。どうして空なるものが存在しようか。
(第8偈)勝者(=仏)たちによって、空性はすべての見解を取り除く手段であると言われた。しかし、空性を見解として持つ者は、救いがたいとも言われた。

以上が十三章であった。

この中で重要なのが、注として入っている「対論者と龍樹では「固有の性質」「空性」「変化」の理解がまったく違う」としていることだ。

この章の主題は「ものの変化は固有の性質(自性)によっては説明できない。空性によってこそ、ものの変化(諸行無常)が可能になる」というものであった。

諸行というのは、因果関係に制約されているものであり、すべてを欺く性質を持っているとしている。つまり虚妄のものだとする立場からのべたものだ。

これに対して反論者は「固有の性質を持たないものなど存在しない。〔たといあなたの意見に従っても〕諸々のものには空性〔という固有の性質〕があるからである」として固有の性質はすべてものにあるということを前提にして反論している。そもそも、固有の性質などというものはないという龍樹の前提とは違っているのである。これは、すべてが空なら空だって空だと反論する文言と似ている。これを普通は「悪取空」と名付けられいるが、空なるものが存在するわけではないのだ。

我々は前に「無自性空」を説明するのに、自性というそのものの性質が空っぽだというのが空だと説明した。ここは注意しなければいけない点だろう。そもそも固有なる性質など無いというのが前提だから、固有の性質が有るとする土俵で、無いという論争をしているわけではないのだ。

だから最後の偈で、「空性を見解として持つ者は救いがたい」という一偈が入っているのだ。

あくまで、土俵が違うのだ。

この章の見解に従うなら、諸行無常の無常というのは、常ではないよというのは、空じゃないと読める。つまり常=空であったから。すべてのものは空であって、何も生成されないという常に対して無常であったということになる。空なる常に対して、常ではないという事だ。それは諸行、つまり「因果に制約されるもの」は無常だというのだ。娑婆世間のこと、そして人が言葉で作った概念等々という事になる。

このような解釈に従うなら、先の議論は、あくまで制約されたモノのことをさしていて、その世界では無常だと言っているのだ。

三法印の一つである「諸行無常」は実は世俗の世界から勝義の世界へいざなう言説であって、勝義の世界の言説ではなかった。これを疑ってかかるというよりは、そもそも世尊はそんなことを言っていなのだ。後の人たちがまとめたものなのだ。しかし、まとめ方のベクトルが違う。

 

もう一つの議論は、「無我」をめぐる議論だ。

これも三法印の一つ、「諸法無我」のことをいいたいんだろう。仏教は無我といっておきながら、自己へ向かって、サティや放逸になるなと自我にかかわっている。永井均は「最初からパラドキシカルな構造が内在しているわけで……」と語っている。

無我といいながら、自己の事ばかりにこだわっているんじゃないかというのだ。

次のように言っている。ここには二つのことが語られていると思う。

 

そもそも仏教において、自己、自我がどういう位置を、どういう役割を持っているのか、という問題が難しい。無我なんて言うくせに、キリスト教やその他の宗教に比べても、自己の果たす役割がひじょうに大きいんですよ。放っておけばむしろ一見無我っぽい「放逸」の状態になっているのに、わざわざ自分でサティなんか入れて、マインドフルな、つまり自分の掌握下にある「不放逸」状態を作り出す、なんていうのもそうで。それ自体がなんらかの我欲でしかあり得ない。そのことで我欲を滅するなんて、最初からパラドキシカルな構造が内在しているわけで……。
僕が坐禅をしていた臨済宗のお寺の坊さんは、坐禅のたびごとに「禅定に入って本来の自己に出会う」というようなことをおっしゃっていて、それを聞くたびにドキッとした覚えがあります。「本当の自分」と「偽物の自分」があるんだったら、仏教というよりバラモン教やヒンドゥー教じゃないかって。それに、今でも「本来の自己に出会う」という言い方は間違っていると思います。せめて、坐禅をして本来の自己になると言って欲しい。私というものは本来、世界の中で名詞で指されるような実体としては、つまり名前で呼ばれる人物としては、実在していませんから、そういう意味では本来無我です。これは端的な事実なのに、ふだんの生活ではこの端的な事実を忘れて生きていますから。意図してその本来のあり方へ戻るんだ、と理解すれば、こういうお坊さん方の言い方も納得できますし、本質的には正しいと思いますけど……。(『マインドフルネス最前線』p-79)
 

前半は先に述べたような、無我と言いながら、ちっとも無我じゃなく、自我に言及しているじゃないかという批判で、これも先の「無常」の概念と同じように曖昧だと言いたいのだと思う。

しかし、ここでは仏教哲学がそんなことをいっているわけではないのに、永井均が微妙に言い換えているわけで、「無我」といっても自我というものがあって、無我がというものがあるわけじゃない。これは「我がない」と読むべきであって、単に我というものはないと言っているだけにすぎない。「自我」があって「無我」があって仏教は「無我」ですよと言っているわけではない。無我というものがあるわけではない。我=無いと読む「無い」は名詞ではなく形容動詞の「ない」であって、単に我というものはないのだと言っているだけだ。そこを微妙に言い変えている。

この我は第四図における我のことであって、そうじゃないと言っているに過ぎない。「我」はあるのかというと、それは第五図においては〈我〉はあるのだ。それしかないというのが永井均の〈私〉だったはずではないか。自分で〈私〉と「私」を分割しておきながら、パラドキシカルというのはおかしい。

それを引き継いで、後半部があって、この議論は、『世界の独在論的存在構造 哲学探求2』の中に、付論として掲載されている「自我、真我、無我についてー『気づき(サティ・マインドフルネス)』はいかにして可能か」につながっている。

この付論においても、同じく、無我なんて無意味という議論から出発している。むしろ「本当の私」というなら、それは真我だろうという。「宇宙に偏在する根本原理であるブラフマン(梵)と、通常は切り離されているのだが、アートマン(真我)という自分の真のあり方を自覚すれば、それと合一することができる」という梵我一如とどう違うんだという。こっちの方が正しいじゃないかという。それは確かにそうで、「本当の私」なんていうべきではないだろう。

「生の私」とか「むき出しの私」と読んだ方がいいかもしれない。「もう一つの意識」という言い方を山下良道はしているが、それでは違う意識があるのかということになる。意識は常になにかへの意識でしかないから、その対象が変わるのは当然としても、意識自体に二つ以上あるわけではない。潜在意識といっても潜在しているからわからない。無意識といえば完全に意識がないのだから、なおさらわかりようはないのだ。

でも、この論文の後半で、無我を救出しようと試みている。その理路は梵我一如の真我にあった。

 

世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈の内部でだけ理解しようとすれば、何やら神秘的なお話のように見える。しかし、そのような平板な世界解釈を超えて、端的な事実をありのままに捉えれば、むしろ端的な事実をありのままに語っているだけだ、と見ることもできるだろう。たくさんの個我たちのなかになぜか〈私〉が存在しているとは、つまり一人だけ世界(宇宙)そのものと合一している不可思議なものが存在しているということであり、じつのところはそうとしか捉えようがない(通常の平板な世界解釈では捉えられない)からである。そう捉えれば「梵我一如」はむしろ単純で自明な事実にすぎないことになる。そのような捉え方によってしか、私はたくさんの人間のうちどれが私であるかを識別できないからである。
そして、この意味での真我はまた無我でもあらねばならない。なぜなら、それは本質的に属性を持たない空っぽの存在であって、それでしかありえないからである。
(中略)
その意味で、〈私〉は、無我であるどころかむしろ端的に無である。

『世界の独在論的存在構造』p-290


 

〈私〉は、本質的に空っぽの存在であるといっている。ここは無我があくまで〈我はない〉とする空化論のことであって、空性そのものではない。ましてや梵我一如*が〈私〉を意味することは、了解してもバラモン教では実体としていたブラフマンとアートマンだった。何であるのかの属性を持っていた。ブラフマンは大宇宙であり、アートマンは小宇宙だとされた。その合一によって輪廻から救われるのだとされた。そのアートマンを真我と括弧に入れているが、普通は我と訳している。自我のことだった。

しかし、ここで語っているのは、そんなことではなく、〈私〉の発見のことだったので、「その意味で〈私〉は、無我どころかむしろ端的に無である」と書いたのはむしろ「空」というべきなのだ。

なぜなら「無」ではないからだ。決して無とはいえない存在として〈私〉は意識していたし、それだけしか存在していないのだから、空すなわち空っぽだけれど圧倒的なこいつが存在する。もちろん、空っぽなのは自性というものがないという事だ。属性ある「私」ではなくてね。でも永遠、不変の自性というものはないという事だ。

 

*梵我一如というのはバラモン教の根本原理とされているが、「別の見解を主張する学者もいるが」と前田専学は『ウパデーシャ・サーハスリー』の解説で文言を挟んでいる。

ここで元の議論に戻ると、哲学的には曖昧な「無常」や「無我」をかかえもつ仏教の最良の部分は、決してドグマを述べなかったことであり、そのためにあらゆる思想的な試みを受け止めていった点にあった。

そこで霊的開眼に戻るとそれは〈私〉の発見にとどまらず、その〈私〉は何でもないものだった。路傍の石ころと同じだということだ。決して、悲しくも虚しくてもそうなのだ。だからといってニヒリズムではなくて、ニヒリズムそのものが「無い」ということではないのか。

端的にいえば、通俗的すぎるが、空だということだ。数学の0のように整数ではあるけれど基数が入っていない、空っぽだということだ。〈私〉には基数が入っていない整数だと考えれば、理解しやすいのではないか。そして位取りにはかかせない。基数だけででは無限循環に陥ってしまうのだ。〈私〉は基数の入っていない空っぽだけど、〈私〉から世界は始まっている。

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