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霊的開眼とは何か 第4章黒崎宏『純粋仏教』

第4章 黒崎宏『純粋仏教』
 
謎を残したまま、それらを引きずって先へと進んできた。それらはどうでもいいようなことではなくて、重要なことなのだが、それにこだわっていたら霊的開眼に至らないので、引きずりながら先へ進んでいく。
黒崎宏はウィトゲンシュタインの研究者として有名で、私の若い頃の有名人であった。ウィトゲンシュタインといえば、藤本隆、大森荘蔵、奥雅博、丘澤静也などを読んでいた。近年では鬼界彰夫などを読んでいるが、なかでも永井均の『ウィトゲンシュタインの誤謬』は衝撃的で、こういうように哲学をするんだということがわかって、哲学へのイメージが一新されたと言って良いだろう。(いわゆる分析哲学という哲学であってこれは以前から名前としてだけは知っていた)
哲学は哲学テキストを研究する学問ではなく、まずそもそも哲学をしないといけないんだということを知った。
同じように文学もすでにある文学を研究するのではなく、文学しないといけないという事はすでに承知していたが、哲学も同じになるのだと気づかせてもらったようなものだった。永井均については何度も立ち返って言及することがあるので、サッと流しておいて問題の黒崎宏であるが、元々ウィトゲンシュタインの研究から出発して、『ウィトゲンシュタインから道元へ』(2003)から始まって『ウィトゲンシュタインから龍樹へ』(2004)を経て『純粋仏教』(2005)を発表した。以後仏教関連では、『理性の限界の内の般若心経』を発表している。
これらには、自らの哲学をしているというよりは、哲学の文献の研究者であって、文体も哲学学問の研究者というスタイルを離れていない。このことは、実在する文献を扱っている学問であって、明示的に示された言語を扱っているのだ。たとえ言語で表すことができないものであっても、言語的に語るということ、明示的に語るということに終始している。
だから我々もその姿勢でもって示されたことを扱えば良いのだけれど、ことはそう簡単では無い。これまでの考察を見てもらったらわかるだろう。言葉では言い表しにくいのだ。
かつ、それをそのまま扱えば評論になってしまうし、その文献に現れた文言から、気づいたことを指摘するだけで終わってしまうだろう。
基本的にそういうことではないのだ。霊的開眼といったものは、原則、言葉では言い表すことができない。それをなんとか言いあらわそうと工夫が試みられているのだ。
『純粋仏教』を論じようとするのは、ここにきて黒崎が「純粋仏教」と呼ぶべきものが、もはや仏教ではないかもしれないと発言した、そのことによっている。それはまさに「その通り」とうなずいたことによっている。
それは以下のように記されている。


 
結局、純粋仏教には二つの面があるのである。一つは「縁起の世界観」であり、もう一つは、「一重の原理」である。そしてそのいずれにも、神秘的なことはもちろんのこと、超越的なことも仮説的なことも一切存在しない。それらは現実の日常生活の世界の真実の姿についての、徹底した自覚に外ならない。したがってわれわれが、超越的なことも神秘的なことも仮説的なことも一切排除して、確かな真実の世界に生きようとするならば、われわれに可能なことはただ一つ、「純粋仏教」を生きる、ということしか有り得ないのではないか。しかしそれは、実は、もはやいわゆる(、、、、)*「仏教」ではなく(、、)「宗教」ですらない(、、)であろう。そこには神も仏も、天国も地獄も、そしてまた霊魂さえも、ないのである。それでは救われない、というのならば、それはそれで仕方がない。


 *ここはルビになっている。以下同じ。


これは巻末の言葉であり、「結語」だといってのけたのだった。宗教ですらないということは哲学でもないのだろう。救われない仏教なんていうものがあるのか。救いを問題にしない仏教、ないし宗教があるのかと問うてみると、そこには宗教からもはみ出し、哲学からもはみ出し、文学や芸術からもはみ出した、どの集合にも入れてもらえないポツンとたたずむ真理であるかのようだろうか。
どのジャンルとして扱えないにしても、純粋仏教は霊的開眼に近づいたのであった。
しかし黒崎宏は『啓蒙思想としての仏教』(2012)によって娑婆世界へと戻って行った。この本の帯に「『空』の論理から『縁起―内―存在』の倫理へ」と記されているように、倫理(これは和辻哲朗の倫理のことを指しているらしい)へと戻って行ったのだ。つまり我々が蠢きながら生きているこの世界、娑婆世間へと戻っていったのだ。常なる世間の学問研究者ならそこに戻っていくしかないだろう。
しかし我々の立場からすれば、それは退却であって、残念なことだと判断せざるをえない。所詮は近代学問の哲学研究者に過ぎないということだった。
それはそれとして純粋仏教へ行き着いた足跡はたどっておいても良いだろう。それを語ることによって霊的開眼への方途とがいくらかでも明らかにできれば幸だ。
先に結論から述べておくと、私にとっては空の論理は、それの一本槍でやってきた。「空化論」だけがなのだ。縁起の立場、縁起の論理になんてなくていいという立場に立っている。ナーガルジュナの『中論』の27章30偈で「[人々に対する]憐憫の情から、一切の[悪しき]見解を断じるために、[縁起という]正法を説かれたガウタマ(=仏陀)に、私は帰依いたします」(桂紹隆・五島清隆『龍樹「根本中頌」を読む』)となっている。
どうして、なぜとうるさく聞いてくるから、それは縁起でしょうといってみせたのだということだ。縁起なんて無いのだから、それも「無記」でよかったのに、「憐憫の情」から、かわいそうと思って口走ったのだということだ。そう、その通りと私も思う。そもそも縁起というものは本当はないのだ。
しかし、それでは人々が承知しない。納得しないので縁起と言ったに過ぎないとナーガルジュナは主張している。つまりこれはナーガルジュナ自身の見解なのだ。
ここだけのことを中間的に押さえておいて、本書の記述へと入っていく。

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