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関裕二『任那・加耶の正体-古代日本外交の蹉跌』 これからの日本外交の参考になる

これまで、関裕二に関してはブログを一つものにしている。https://note.com/sodou2021new/n/n53a7d29ffe5c

 これだけではなく、何度か短いものを書いてきたようにおもう。
それぐらい、ファンであって、小説を楽しむように読んできた。

今回は朝鮮半島に在ったとされる任那、または加耶の諸国を扱っている。
西暦562年に新羅によって併呑されて、滅亡するが、それまで関係のよかったヤマト政権が、それを救えなかったという蹉跌を論じている。
日本書紀には日本府を置いていたとするヤマト領土のように描いているが、実体としてはかなり親密で、深い関係のあった加耶諸国をさしているだけなのだろう。
それが何ゆえに亡んだのかというと、関裕二の説は、ヤマト政権内の百済派と新羅派のせめぎあいのなかで、政策方針が右往左往して守り切ることが出来なかったのだとしている。
もともと、関裕二のヤマト政権の成立は、緩やかな連合政権で、日本海側・東海側勢力と吉備をはじめとする瀬戸内勢力の連合であったとしているから、その延長上での百済派と新羅派に分かれているようだ。
ここで、関裕二の日本古代史の真実とする仮説を多く述べることはしないけれど、じつにリアルであって、ずっと読んできたものにとっては納得される説だろう。トンデモ本の日本古代史の推理を揶揄する言葉として、「それじゃ関裕二じゃないか」という言葉で形容されてきたけれど、私はそうは思っていなくて、「日本古代史は何とでも言える分野」というか、本当のところはやっぱりわからないというのが、日本古代史という位置づけだと思っているので、あくまで蓋然性がいかに高いかにかかっているのだろうと思う。かつて、プロ野球の話と日本古代史の話は百家争鳴であり、素人でも好き勝手に発言できる分野だったことが思い出される。
現在とは雲泥の差だろう。(現在は政治であれ、個人攻撃であれなんでもありだ)

ヤマト政権成立の基本認識は第4章の冒頭にある。
それは、3C後半から4Cにかけて、ヤマト政権は誕生したが、それは武力による征服ではなくて、ゆるやかな連合政権として成立したという。その象徴に実権をともなわない祭司王としての大王をおいた(これがのちの天皇)、中央集権的でない政権だった。それは前方後円墳という墓制という観念を共有する連合体だった。古墳は大規模な墳墓なので、その地域、地域の権力を象徴するものに考えられたが、そうではなく同じ形の埋葬文化を共有していくものだった。なぜなら、各地に大王墓を上まわるような巨大な前方後円墳も許可していたからだという。
それが5C後半に雄略天皇が出現して中央集権化を目指すという事態となる。すると、その政権のなかでの勢力争いとなり、政策がダッチロールし始める。そして、6C初頭には継体天皇が越からやってきて、日本海側勢力が政権をとるが、そこでおかしな事態となる。日本海側勢力と新羅とのつながりが深かったが、継体が途中から百済派に転向していくというのだ。もちろん、それは高句麗が南下をはじめたという東アジアの緊張によるのだけれど、その混乱下にヤマト政権は任那の滅亡を許したという結果になってしまったと。

この構図にたいする評価に関心があるわけではなくて、じつはこのサブタイトルにあるように「日本外交の蹉跌」というのが、勢力争いに外国の勢力とが関係していることだという点だ。
今日の状況に類推すれば、親米派と親中国派だろうか。しかし、与党野党とも二派があるように、明確に与野党で区分されているわけではないし、そもそも、現在では親中国派は旗色が悪い、というよりあの中国共産党の一極支配による覇権主義で支持は得られないだろう。だから同じとは言えないのであるが、同じ蹉跌を踏むかもしれないとして関心がある。

この状況は別にしても、この二派の対立という構造とは別に、もともとの根源にあるとする縄文からの心性ということを述べている。それは、ヤマト政権が武力によらないで成立したのも、この心性があったからだとしているので、これを問題にしないわけにはいかない。
このヒントは、縄文時代から強い権力者、中央集権を嫌う心性だと述べていることだ。

第三の道としての縄文的心性とは何か?

権力者とは別に祭司王としての大王を護立したのだという説が問題になってくる。
それが本当にそうなのか分からないのだけれど、現在もそんな心性が生きているのだろうか。なんとなくそんな気もするが、いや東京一極集中をみるとそうじゃないんじゃないかと気もする。

この縄文的心性とは何か、について知りたくて、関裕二『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP文庫)を読んでみた。むろん、現代に引き付けたらどうなるかという関心をもってだ。
それによると、縄文人の心性は、一神教ではなく多神教で、あらゆるものに神はやどるという考えで、大自然に逆らわないで生きる生き方で、文明を拒否する生き方だとしている。明治以降は天皇を神とする一神教に転じたから失敗したのであり、現在は縄文への揺り戻しが生じているのだと結論づけている。

せっかくなので、もう少し丁寧に見て行こう。現在の状況もふまえて何か参考になるものがあるかもしれない。

第1章は概観しながら、縄文を過大評価することも、貶めることもなく議論していくことが大切だとしている。ただ、稲作を選ばなかったというのは、何かを恐れていたと結ぶ。これが文明化ことなのだろう。
第2章は、DNAから見た日本人の起源についての知見で、崎谷満などの研究を参考にしていて、ミトコンドリアDNAやY染色体の知見から、一つにまとまらないDNAになっていることから、様々な人々がこの列島にやってきたことが、類推されている。確かに東アジアの果てだから、ここが行き止まりだったのかもしれない。それは1万4千にもおよんでいるので、一括して縄文と呼んでしまうことは危険である。
ただ、弥生の文化にも縄文文化が生きていたことをしめすという報告があって、106頁に弥生の銅鐸に縄文時代の文様が入っているとして、弥生時代にすべての縄文文化を捨て去ってしまったのではないことを示しているとする。

第3章は、一歩踏み込んで、124頁「隆線重弧文」が北九州で受け入れられ独自の「隆線重弧文」が生まれ「沈線重弧文」になったこと、129頁石棒(男根を模したと考えられる呪術・祭祀に関連する道具)と銅鐸の分布が重なっていることなどに言及している。
重要なのは、なぜ縄文人は弥生を嫌ったのかという点だろう。

広瀬和雄を引用して、弥生時代を端的に表現しているとして、三つの特性をあげている。

①  水田稲作や金属器の制作・使用に代表される大いなる技術革新という正の側面
②  社会の階層化や戦争や環境破壊など負の側面
③  そうした正負の要素を加味した東アジアの動きという国際化の側面

この指摘に対して、関裕二は②が大きくて、組織的な戦争を縄文人は嫌ったのではないかと論じている。それは稲作が東の日本に到達するのに時間がかかったこと。また、いったんは受け入れても放棄した痕跡があることをあげている。
そこには、縄文人は平和を好む人々、文明を拒否する人々という、ユートピア化するような気配がある。

この縄文の好評価は、なにも関裕二だけに限らないけれど、この流れは、1990年代ぐらいからあるのであろう。私の知っているだけでも、小山修三『美と楽の縄文人』(扶桑社1999)、寺前直人『文明に抗した弥生の人びと』(吉川弘文館2017年)などがある。最近の竹倉史人『土偶を読む』(晶文社)でも絶賛だ。その能天気さは、せっかく縄文人は大自然に逆らわないで生きてきたという信仰(?)にたいして、そんなことはない、縄文人は科学ではなく、呪術で自然をコントロールしようとしていたのだとまっとうな指摘をしながら、「土偶解説を終えて」では現代知性の危機をすくのだと、ステレオタイプな縄文絶賛論者に回帰している。
この根底にあるものが、柳田国男に代表される「そこに何かあるでしょうという期待」だろうことは、すでに述べてきた。(この土偶論は別途書く)
それらの縄文愛好家たちは群れをなしていて、その群れへのあいさつが竹倉史人でも並べられる。そこに落ち着いちゃいけなのではないだろうか。

その話はともかく、関裕二の縄文的心性が一つの鍵だと言っている点は押さえておこう。

ところで、話をもどして、現代に引き付けてみるとどうなるだろうか?
先の広瀬和雄の三つの要素だと、水田稲作は金融だろうし、金属器の制作はAIだろう。社会の階層化は経済的に富者と貧者の二極分化していくかに見える構造にあると言えるだろう。中間層が没落していっているのだ。国際化に関しては、第二次世界大戦後の日本は外国に向かって覇権する意思はもうなくて、できるだけ何も言わないし、世界の動きに関しては本気で取り組もうともしないように見える。エマニュエル・トッドが指摘したように、日本は自分たちだけで生きていきたいようだ。経済力さえあれば、世界をどうしようとかこうしようという国家の意志を示さないで生きていけるかのようだ。ある意味、鎖国なのだろう。
そのように見える。
まさにその意味では、縄文心性を体現しているようなわけで、国家的野心を持っていないようだ。
関裕二の言う強い権力の集中を認めないというのは、たしかに現在でもその心性はあるようだ。何でもありの権力を振り回した、先の首相安倍晋三はテロに倒れたし、その安倍派は解体しそうな憂き目にあっている。
生々しい政治のことは別にしても、たしかに強い権力者を嫌う心性はありそうだ。

しかし、そんな縄文的心性だけが、現代知性の危機を救えるのだろうか? たしかに縄文的心性は我々の中にもあるのだろう。しかし、それだけではいけない、というよりそれで満足していてはいけないと思う。それでは、縄文時代像が変化すれば、又変わるということになってしまうからだ。
この点だけは、関裕二には賛同できない。

当然のこととして、それに代わるものはなにかと提示しなければならないのでけれど、それはまた別の問題である。
(私は別のエッセイでそれは身体技法だと述べている)


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