小説『ガラスのクラゲ』

X以前

 彼が通う学校では、全生徒が同じ制服を着ることになっていた。

 気候の話を抜きにすれば一見退屈に見えた学園生活は、わずかな綻びから急速に崩壊へ向かった。

 ある日の放課後、生徒の一人であるYが二階の教室の窓から飛び降りた。この時Yが運よく死んでいれば、綻んだかのように見えた閉鎖的な学校社会はすぐに自ずから修復し、完全な安定を取り戻していたかもしれない。
 二階という高さは死ぬには低すぎたのだろう、 Yは死ななかった。Yはよろよろと立ち上がり、教室に戻った。何人かとすれ違ったが、誰も彼を気には留めなかった。彼の外見はほとんど変わっていなかったからである。
 誰もいない教室の、名前も知らない生徒の座席に座り、Yは考えた。なぜ窓から飛び降りたのか、を考えた。
 それまでのYは、というよりこれはこの学校の全生徒に共通していることだが、自己認識をほとんどしていなかった。世界に存在する事物と、それを見ている自分、という二項対立を知らなかった。Yを含む全ての生徒は、世界の中に自分が存在している、という俯瞰的な視野を持っていなかったのだ。彼らにとって世界とは、ただ目の前を瞬間的に過ぎ去ってゆくイメージの連続で、そこには「誰が」「何を」という主客の区別がなかった。学校は校長によって完全に管理されていた。

 Yは椅子に座って、初めて考えた。飛び降りたのが絶対的な「自分」であることを認識した。そして飛び降りた自分が、他の生徒や教師や座席や鞄とは異なる存在であることを、その根拠と共に完全に理解した。その過程に、さほど時間はかからなかった。

 その次の日から、Yは学校に行かなくなった。
 生きる理由とは何か。人間社会とは何か。その二つの根本的かつ抽象的な問いに対し、答えを出さなければならないとYは思った。そしてそれができるということを、Yは知っていた。同時に、それには時間を要するとも感じていた。
 それを考えている間、Yは肉体的な活動をしなかった。学校は空間の中にしか存在していなかったので、登校はできなくなった。

X以後

 何の変哲もないある日、Yは学校に姿を現した。Yは教室に充満した酸化ゲオスミンの匂いを吸い込み、わざとらしくむせた。Yはおもむろに左膝を曲げ、右足を右斜め下に伸ばし、左手を腰に当て、中指を立てた右手で天を差した。

「我々は校長に占拠されている。直ちにこの支配から逃れよう。そして全てを破壊し、我々のこの器用な手で世界を再構築しよう」

Yは大きな声でそう言った。教室にいた全ての生徒は、バネが跳ね返るように立ち上がり、Yをすり抜けて屋上へと向かった。
 あまりに反射的な現象に、Yは少し驚いた。それから、他の教室の生徒も同じように教室を出て屋上に向かったことを、廊下でけたたましく鳴る足音を聞いて知った。
 やがて、窓の外から何かが大量に落ちる音が聞こえ始めた。トマトを床に落とした時の音に似ているな、と思いながらYは窓際に向かって歩いた。
 窓からは、地面に落ちた大量の生徒が見えた。制服が全て同じだったので、Yにはそれがひどく無機質な光景に映った。落ちた衝撃で腑が破裂したのか、生徒の多くは口から血を出していた。Yは全生徒が死滅していることを確認すると教室を出た。

 学校は全体的にがらんとしていた。生徒は生きている間も無機質だとYは思っていたが、いなくなって初めて、生徒たちが持っていた温度の事を知った。彼らの持っていた温度が教室や学校を温め、それにより学校は一つの生ある場所として世界に存在していたのだとわかった。彼らの落ちている地面にはまだ温度が残っているのかどうか、Yは考えた。そこにはすでに温度はなくただ形があるだけだという結論を、Yはすぐに導き出した。温度と空間における存在には、濃密な相関があるのだ。

 一階に降りると、廊下の向こう側から校長がゆっくりと歩いてくるのが見えた。

校長は我々を支配する悪人だ、徹底的に破壊しなければならない。

Yは心の中でしつこく反芻した。校長は少しずつ近づいてくる。

「卒業おめでとう」

突然校長は、大きく口を開けてそう叫んだ。学校の壁はその音圧に耐えきれずに表面の塗装を剥がし、濃い灰色の石膏ボードが姿を現した。
 Yは怯んだ。Yの脳内では、明確で無邪気な恐怖が舌を出して駆け回っていた。それがわかったのか、校長の瞳孔がわっ、と開いた。校長は続けた。

「君が我が校の初めての卒業生だよ。これは君のためにこしらえたんだ」

校長は両手に持ったそれを少し持ち上げた。一升瓶ほどの大きさでガラス製だ、ということまではYのいる位置からでもわかった。校長はさらに続ける。

「これはね、クラゲのガラス像だ。この学校では卒業証書の代わりにこれを渡すことになっているんだ。以前集会で話をしたが、覚えていないかね?」

Yは首を振った。校長の集会は、以前のYにとってはただのイメージで、瞬間で、画像の集積でしかなかった。音も聞き取れてはいたはずだが、脳に音を保存しておく機能がなかったので、いずれにしても何も覚えているはずがなかった。

「なぜクラゲなのですか?」
「私の教育方針は、生徒をクラゲにすることなのだよ。クラゲはそこにただ浮遊している。水の流れにただ身を任せているのだ。なぜかわかるかい?自分が流されていく場所こそが自分の行くべき場所であるということを、本能的に理解しているからだ。この学校を卒業していく者は、クラゲのようでなければならない。クラゲのように、絶対的に浮遊し、存在すら積極的に推進してはいけない。ただそのまま、浮いているんだ。君はクラゲが好きかい?」
「クラゲは見たことがありません」

校長の全身は、バネが跳ね返るように波打った。血液の流れ方や筋肉の動きの道理に反する挙動だった。校長の表情は一変し、そしてたちまち瞳孔は縮小した。

「君はクラゲを見たことがない…」

校長は斜め前の虚空を見つめながら、自分に言い聞かせるようにそう言った。校長の目のうち白目の部分が、徐々に黒くなっていくのがわかった。いつの間にか、Yと校長の距離はたったの二歩分ほどになっていた。

「君はクラゲを見たことがない…クラゲを知らない…クラゲになっていない…クラゲになれない…」

校長の声は、聞き取るのが精一杯なほどに低くなっていた。校長の目に白い部分はもう残っていない。
 さらさら、という音がどこかから聞こえてきていた。Yはその音がどこから聞こえてくるのかを知るべく、耳を澄ます。音の正体が校長だということは、すぐにわかった。校長はさらさらと壊れ始めていた。ガラスのクラゲ像を持つ手の両小指が、砂のように崩れていく。それから次は耳、そして鼻、靴の先、という順番で校長の体は砂になっていった。校長の中を通る円柱から遠いものから順番に消えていったのだということが、Yにはわかった。
 やがて、校長は跡形もなく消え去った。床に校長だった砂が残ったような気がしたが、今は視認できなかったので、錯覚だったのかもしれないとYは思った。落ちても壊れないガラスのクラゲ像がそこには残っていた。Yはやけに軽いクラゲを拾い上げて、校庭に向かった。

 校庭に出ると、今日は雨の日だったのだということにYは気づかされた。酸化していない、美しいゲオスミンの匂いが漂っていた。
 ふとYはどこからどこまでが校庭なのかということが気になった。そして、校庭と思しき部分とそうでないと思しき部分との境界線を、空間的に歩いた。
 しばらく歩くと、正面に大量の生徒の死体が現れた。Yは校舎の方に首を向け、目線を屋上の方へと上げる。そしてすぐに、バネが跳ね返るような動きで首を曲げ、目線を地面の生徒たちに向け直す。彼らは変わらず死んでいるだけだ。

 世界はいとも簡単に崩れてしまった、とYは思った。そして夜や朝という社会的な記号によって区切られた「日」の概念を確認し、Yは「昨日」について思い出した。
 昨日まで、この学校は生きていた。そして何もかもが完全だった。終わりのない肉体活動の中に無意識を浮遊させ、瞬間を消費していた。自己を、それと知らずに消費していたのだ。しかし今日、唐突に終わりが訪れた。それをもたらしたのはY自身だ。
 校長は、卒業生はクラゲでなければならないと言っていた。しかし生徒は全員、もとからクラゲだったのではないかとYは思った。校長はクラゲに卒業生を見ることで、終わりを放棄してしまった。卒業は、その言葉が孕む時間的な「境界」のニュアンスゆえ、校長によってクラゲと結び付けられた時、実現され得ないものへと変化してしまった。この変化は、この学校においては不可逆なものであった。

 Yは、自らが出した二つの問いに対する答えを完遂した達成感で、泣いた。涙は流れてはいなかった。校庭には風が吹き、その風は雨を揺らしていた。雨は確実に地面に落ち続け、ゲオスミンの匂いはYの鼻によって確実に薄れていった。生徒たちの死体は確実に硬直していき、消えた校長は消え続けた。Yは、校庭に立つ無数の円柱を眺め、まだ泣いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?